(※※※メモの内容(特に講師の方の発言についての)はすべて個人的な解釈、個人的な記憶に基づいています)
▼21日
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・人間感情的になったら何をやりたくなるか? 或いは感情的になっている相手に何をやりたくなるか? そのことに気付く重要性。しかもその「……したい」というのが役の人物のまま出て来るならそれが最善だ。役の状況に自分の感情を使ってみる。
・舞台上でも、シーンの最初から感情が出ればそれに乗って行けるけれど、乗って行けないとダラダラやり取りをしてしまったり、相手役ともちぐはぐになってしまったりする。そういう経験があるだろう。サッカーに喩えれば、先取点を取られたために後の試合の流れが否応なく悪くなってしまうような状況だ。では、本来無意識的なものである「感情」を出すにはどうすればいいのか? マイズナー・テクニックとは、感情を上手く表現するためにはどうすればいいか、そもそも感情を表現するとはどういうことなのか、についての理解をもたらすためのものでもある。
・芝居をやっているうちに余裕がなくなるというのは、まあよくあること。色々見えなくなって、相手役に反応もできなくなって……。少しでも余裕を持つためには、演じる時にあれもやる、これもやるではなく、多くのことは切り捨ててシンプルにやらなければならない。というのは? 要するにその役の人物がそのシーンで何をしたいかという動機に集中すればいい。例えばサッカー選手だって「このくらいのスピードで走ろう!」「この筋肉を使おう!」とか考えているわけではなく、単純に「点を入れよう!」というシンプルな動機に集中しているだけだ。そういう役の人物への集中さえあれば、相手役の目の見られないとか、ひどい引っ込み思案で困っているとかいう悩みは、本当は本質的ではないと分かるだろう。
・「感じる」とは? 自分の中からポンプを押して汲み出そうとしても単純には出てこない、感情は。基本的には周囲(主に人間)から何かの影響があると、感情は惹き起こされる。舞台上でも、最初の状況でその役として持ち込まなければならないものはあるが、相手を忘れて自分勝手にはやらない。それが基本。舞台上で感情のダイナミズムが欲しいのなら、相手に興味を持って、相手を感じ、相手を受けることができるかがポイントとなる。
・「感情」について。感情に理由はない。あなたが相手を前にして真実何を感じ取るかについては、もはや礼儀正しいもクソもない。近付きたいと感じようと離れたいと感じようと、好意を抱こうと嫌悪を抱こうと、自分が感じたことにだけは嘘を吐くことはできないものだ。何も感じないならば感じないでいい。感情は動く時は動くし、動かない時は動かない。芝居を観ている時だって、周囲が爆笑しているのに自分にとっては全然笑えないこととか、逆に他の観客が誰一人笑っていなくても自分にだけウケているということとかあるだろう。自分の感じていることに嘘は吐けない。
・とりあえず相手と向い合って、相手のことをよく観察するというエクササイズ。最初は距離を置いて椅子に座ったまま向い合って。次には膝がくっつくくらい近付いて。さらにお互いの膝に手を置いて。次には立ち上がって間近で向い合って。さらに互いの肩に手を置いて。最後には抱き合って。そのように相手を観察し続けている間、感じたこと、思ったことを言葉には出さずに、しかし何らかの形で表現してみる。喚いてもいいし、身体を揺すってもいい。ただし本当に感じたことを表現しなければならない。良い感情ばかりでなくとも、「こいつの服ダサいな」みたいな嘲りでも、相手にとって失礼だとか考えずにそのまま表現すること(また逆に、相手からそういう感じを出されたら自分がどう感じたかも、ストレートに表現すること)。なぜなら役者は、作られたキャラクターを演じる時ではなくて、本当に自分らしい自分の感情が出た時が最も魅力的なはずだからだ。見目麗しいとか背が高いといったファクターとは関係無しに。感受性が強い人ほど、「これ以上感じてはならない」という限界付けを早々とやってしまうものだが、しかし型に嵌まらないためにも色々曝け出していく方が面白い。
・リピティションのエクササイズ。さしあたり自分が出し難い感情を出してみましょう、という練習。そして相手と感情を交流させてみましょう。感情を使って相手と交流してみよう。社会人としてはこれ以上踏み込んだら駄目なんじゃないか、というところも敢えて一歩越えてみましょう。演技の練習なのだから。嫌悪の情を露骨に出したら相手が傷付くかもしれない? いや、もしかしたら相手は嬉しくなるかもしれないよ。或いは逆に、相手が楽しそうなのを見てこちらに怒りが生じたりするかもしれない。感情というのは本当に予測付かないから。感情に理由はない。何を切っ掛けにしてどんな感情が出て来るかは予測不能。しかし、だからこそ、どんな感情でも受け入れて表現してみましょう。相手に合わせようとしてはいけない、相手の機嫌を損ねるかどうかとか気にしてはいけない。いや、そういう不安を感じたのなら、それをも表現してみてどうなるかを試してみよう。それをさらに行動にも繋げてみよう。自分が何を感じているかについては、頭による判断よりも身体の反応の方が正しい。感情は感じるものであって考えるものではない。「これは失礼じゃないか」「もっと婉曲にしなければ」とか考えないこと。まあリピティションをやり始めたばかりだとどうしてもそうなってしまいがちではあるけれど。目に付いた相手の良いところばかり交互に言ってるだけとか。
・リピティションのルール。相手と向き合う。自分の知覚したもの・感じたことを短いフレーズにして交互に口にする。瞬間的に自分が感じたことが特に無ければ、相手のフレーズをそのままくり返す。また、何か行動したくなったら行動してよい(相手を肉体的に傷付けることは厳禁)。ルールはそれだけ。相手の言葉をくり返すというのは、要するに反復するという反射的に出来る行為の中で「考え込む」過程を排除するためのもの。短いフレーズしか使っていけないというのもそのためで、自分の感じたことについて一切「説明」「言い訳」などをしてはならない(例えば相手に苛立ちを感じて顔を顰めたとしても、我々は「いや、ちょっと腹の調子が悪くて嫌な顔をしてしまっただけです」などと遠慮深い言い訳をしたがるものだ)。頭で考えたことは口にしない。何度も言っているように感情とは感じるものであって考えるものではないのだから。そして理想としては、あたかも幼稚園児のように感情の赴くまま振る舞える状態に到達したい。実際現実で幼稚園児と同じように振る舞ったら、特に男性は社会的に抹殺されますがね。だがこれは演技の練習なのだ。劇の中では、役になりきって素晴らしい変質者として立ち振る舞えることは賞賛に値することだ。むしろ普段だったら言えないことや表現し難いものを敢えて見つけていこう。そして感情を使ったコミュニケーションをする。あなたを前にして相手がどんな感情を持っているかもきちんとキャッチして欲しい。
・何かを表現するのが俳優の仕事なのだから、自分の感情を表現にまで持っていく道筋を見つけるのが重要だ。あられもなく泣いたり子供みたいに駄々をこねたり大人気なく言い返したりすることには、男性の方が抵抗があるようだけれども。それは、自分の感情を感じ取らない習性を、普段から身に付けてしまっているということだ。
・我々は普段感情の表出を身体によって止めているというところがある。腕を組んだり、足を抱えて座ったりするのは外からの影響を守るポーズであり、他人との感情の交流を避けるポーズでもある。だからリラクゼーションというのも感情を思う存分出すためには必要なことだ。
・リピティション中は、感じたことはどんどん口に出して行くこと。嘘っぽいと思っても、この表現は間違っていると思っても、どんどん言葉にして行こう。何か違うと感じたら次の瞬間に変えればいいだけだし。考え込んではならない。相手が怒っているのに対してこちらも怒り返さなきゃいけないんじゃないかな、怯えなきゃいけないんじゃないかな、とか考えるのも不要。相手が怒っているのに対して「どうしたらいいんだろう」と困ってしまうのは、それはもうすでに相手への対処を考え始めているという意味で思考が入っている。どう対処したらいいか、とか考えるな! また当然ながら「なんで怒ってるの?」と相手に質問することも禁止。思考してはいけない。相手が怒っているのが面白いと感じたら、それを表現して相手を嘲弄してもいいのだ。それでさらに相手を怒らせてしまったら今度は怖くなった、そしたらその恐怖を表現してみればいい。そういう直観的で素直な反応をどんどん表出していくこと。
▼22日
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・(個人的には「相手の見ているものを見る」「相手の感じているものを感じる」ということを可能にするためのリピティションだと思っていたが、確かにそういう効能もあるのだが、それだけではない。感情を表現してみることの方が第一。というのは特に今回のワークショップにおいてのことで、感情を使わずに目で見たものだけを言っていくマイズナー流のリピティションもあるとの由。)
・リピティションは、どれほど稽古でくり返した科白でも相手との関係性の中で初めて言ったようなフィーリングで言えるようになることも目指している。単に感情をどんどん出して行くというだけが目的のエクササイズではない。
・先生「身体は何を感じているのか言ってみてごらん!」
・リピティション中、言葉のやり取りが会話みたいになってしまうと失敗。「なんでそんなこと言うの」「それは違うんじゃないの」「こう言えばいいんじゃないの」という思考が入って来てしまっているということだから。鸚鵡のような脳味噌で、ただ短いフレーズだけをくり返しましょう。感じたこと、見てたこと、やりたいことを口にする。短いフレーズしか使えないことで、取りこぼすものもあるかもしれないのだが、「あ、『ムカつく』じゃなかった」「この感じの正確な表現は何だろう」と思考が入って来てしまっては駄目で、むしろとにかく感じたことを言ってみることで、自分の感情が方向付けられていくという内的な変化を見るべき。
・リラクゼーション中のイメージ・トレーニングで、もし自分の中に何かの感情があるのに気付いたら、それを吐く息とともに(言葉ではなく)声に出して表現してみてください、という指示。やってみると、最初は微細な苛立ちのようなものであっても、声に乗せていくことによって、「ア〜〜〜」「ウ〜〜〜」だの言ってるうちに段々感じたことが増幅されていき、声が波打つぐらいのヴォリュームにまで達すればそれはもう絶望的な怒りのごとき感情になっていたりした。つまり、単に声に出して(吐く息に乗せて)感じたことを表現して確定させる=方向付けることで、それだけで、感じたことが増幅されていき非常に膨れ上がった感情になった。それは、ほとんど身体的な変化で、克明な想像力とか精確な読解力などとははまったく関係なく、そうなる。
・台本を使ったエクササイズ。兄役の人は何がしたいのか? 「姪が病院に運び込まれている。何人も死んでいる。もうギリギリ。ほぼ助かる見込みはないが、ともかく一刻も早く血清を打たなければ。妹を落ち着かせ、なだめすかして承諾書にさっさとサインさせたい。」──シンプルな動機。しかしこの動機ゆえにあまりにも妹に対して拒絶的だったらおかしいし、「それ以外、今のところ何の手立てもないってことだよ」の科白も事実言明としてしっかり言わないとおかしい。まあこれは脚本読解の水準の話だが。
・妹役の人は何をしたいのか? 「『助かる』と言って欲しい。でもそれを言ってくれないから、どんどん動揺し、こんな非常時なのに感情的になって無茶苦茶な話をして、パニックに陥っていく。」
・兄役に:台本の科白内だけで説得する。アドリフ科白を追加してはならない。妹役に:すぐ科白を出さなくていいから、相手の言葉を信じられたら科白を出すこと。「(感染してるの?)……たぶん。」と言われているのだ。反射的には信じたくないはずだ。
・テンポとか間とか感情の表出レベルを調整してシーンをエキサイティングにするのは演出家の役目なのだから、役者はとにかく相手を見る、相手の感情に感応する、自分の持っている感情を出し切ること。
・1トライ目の失敗。シーンに入る前の感情準備において、精確な状況の理解(「姪が病院に運び込まれている。何人も死んでいる。もうギリギリ。ほぼ助かる見込みはないが、ともかく一刻も早く血清を打たなければ。……」)、灼熱の鉄板の上に自分が乗っているイメージ、「おいおいおいふざけんなふざけんなふざけんな」というサブテキスト、頭の中で救急車のサイレンを鳴らしてみる、漫画みたいに腰から下が渦巻き状になってわたわたするイメージ、……色々やってみたがすべて役に立たなかった。全部。それらはあまりにも感情準備として弱過ぎて、シーンが始まった途端に消えてしまうし、そのため相手の感情も入って来ないという羽目になる。2トライ目でも、結局感情準備は何の役にも立たなくて、意識的に「なんで麻衣を外に出したりしたんだ!」を最大ヴォリュームで出すことによって、続くリアクションの流れの感情のダイナミズムを無理矢理作り出したのだった。なんというか、想像力・イメージの役に立たなさ──ステラ・アドラー的な方法論の役に立たなさ──が驚きだ。神経心理学者の山鳥重氏が言うように「感情とは経験される全心理過程から表象性の心理過程を引き去ったもの」なのだとしたら、感情を惹き起こすのにイメージは役に立たないのは当然で、むしろイメージの底にある感情を直接探り当て、それを「表現する」ことによって増幅することの方が有用なのかもしれない?
・相手役との生き生きとした感情の交流を作り出すために1トライ目でやったことは、相手の話に耳を傾けて食い入るように聞くこと、相手を食い入るように見ること、そして相手の科白を情緒をトレースするように心の中で反復してみること、まあ色々意識してやってみたが全部無駄だった。相手役との感情の交流さえあれば、科白が自然に変わることもあるし、ミザンスも身振りも自然に変わることもあるのだが、そんなことはまったく起きずに、台本の一義的な解釈どおりに部分的に動揺したりしただけ。いや、確かにリピティションというエクササイズの主旨からして相手を見ることは必要なのだけれど、それだけで相手の感情がこちらに入って来る、相手の感情が乗り移ってくるということは起きない。だから1トライ目では、例えば「喚くな!」のトーンを大ヴォリュームで出す時に「この大仰さは嘘くさい」という歯止めが掛かってしまう。やっていても面白くない、やり辛い。1トライ目の超絶的失敗はそのことを学ぶためにあった。つまり、俺のリピティションの理解自体が間違っていたということだ。
・1トライ目の反省。相手を食い入るように注視してたって駄目。相手の科白を集中して聞いていても駄目。相手の出している感情が自分に入って来ることが最重要なのにもかかわらず、相手の科白の内容だけに捕われて自分の科白を出すきっかけを拾っても、それで発した自分の科白に感情が乗ることはない。感情は出ない。感情を口の中でもごもごやっているだけになってしまう。──簡単な対処法は、とにかくシーンの入りの感情のヴォルテージを上げて科白に乗っけること(という先生からの指示)。そして2トライ目では、初っ端「なんで麻衣を外に出したりしたんだ!」の科白で、先日のリピティションの中で出した自分の人生最大の怒りを無理に乗っけて出した。脚本読解上あり得ないが、シーンを芝居としてまとめる稽古をしているわけではないので、そうやってみた。すると、自分が強く出した分だけ、相手の感情が自分に強く入ってく来る(実際1トライ目から相手役の人は涙粒をこぼすほど感情が一杯一杯だったのだから後はこちらがそれを入れるだけで「感情の交流」は成立するはずだったのだ)、そういうノリになる。それで初めて強烈でダイナミックな感情の交流、相手との即興的な感情の出し入れが可能になった。
・(ところで先生の「あなたは感情を口の中でもごもごやっているだけ」という指摘について自覚があったか否かについてだが、自覚はなかった。しかし、演技として感情を出すというのはせいぜいこのレベルでいいのだろう、というようなタカを括っていたところはあり、その自覚はあった(また、「感情の量が少ないからといって無理矢理引き出そうとするのは悪手ではないか」という考えもあった)。その自分で勝手に納得しているレベルが、先日のリピティションで出した最大レベルの怒りに比べれば過小なものだということも分かっていた。「もっと感情を出して科白に乗っけて」と言われて2トライ目ですぐに対応できたのはそのためだ。脚本の理解は全部ぶん投げて人生最大レベルの感情を科白に乗っけることだけを考えた。それでようやく「余裕」が出来て2トライ目では相手の感情がこちらに乗り移ってくるまでになったというわけだ。)
・感情の交流において、科白の精確さおよびその意味内容は重要ではない(リピティションのエクササイズで「言葉を使わずに声だけで表現する」「鸚鵡のごとき脳味噌で短いフレーズだけを使う」という制限があったのは、まさに科白=言葉の意味の知的な理解を遠ざけるためだったのではないか?)。1トライ目ではむしろ相手の科白を集中して聞いていたために、相手の科白が(抜けて)崩れた時に、こちらの科白を出すタイミングを見失って、完全な棒読みで、相手役と全然繋がりもなく噛み合わない感じで「何言ってんだ、こんな時に」を言う羽目になった。「相手のこの科白がこういう意味内容だから、それに対して自分はこういう意味内容の科白で返す」という知的な理解でシーンを演じようとしていたゆえの、失敗だ。もちろん意味内容の読解は重要なのだが、それだけに捕われて感情の出し入れがまったくないのでは、観ていて面白くもなんともない。台本通りに右に行ったり左に行ったり折り目正しく進んでいるだけなのだから。それでは即興的な、その時一回限りの感情のダイナミズムなど起こりようがない。
・(上記の洞察と関連して山崎彬氏の次の言葉を想起せよ──「言葉でのやり取りがいくら精巧に構築されていても、イメージとリアクションで芝居がつながっていないと、なんか退屈さが出てしまう。逆に、イメージとリアクションで芝居が完璧につながっていれば、科白と科白の間に一、二分ぐらい無言の時間があっても全然舞台上にいられるのだ。そして、もしリアクションでしか喋らないような状態に持って行ければ、テキストは消える。自分が何を言ったかさえ覚えていない感じになる(細かい言い回しなんか絶対覚えてないはずだ)」。ただし、「イメージ」については脇に置いて。むしろ氏の言葉を「感情の出し入れで芝居が完璧につながっていれば……」と読み替えてみたい。マイズナーも言っているが、例えば窓の外の雪を眼差している時の感情が自分の内にあるなら、役者は別にその雪を舞台上で脳裏に克明にイメージする必要はないのではないか?)
・《「……私がリハーサルで机に座って台本を読んでいるとしよう。『もし雪が降り止まなければ、ニューヨークに戻れない。私は職を失ってしまう!』」彼のせりふの読み方は静かだが、うろたえているようすが明らかだった。「だから君が見て感じるものは、座って台本を読んでいるときにすでに君の中にある。雪を見ようとしてはいけない。……結局、つきあたりには背景があり、その前方には窓付きの壁がある。だから、約束ごととして君は起き上がり窓まで歩いて、外を見ているのだと観客を信じさせる。それは観客のためだ。君のためじゃない! 君にとって意味のあることは、何か感情的なものだ。『私は失業してしまう!』わかるか。アクターズ・スタジオでは、雪を見ることに六ヵ月をかける。それから君たちはやっといえる。『見ろ、雪だ』。私の方法は、俳優から森や雪を見なければいけないというひどい重荷を取り除く。……物を見るという問題は、その見たときの感情が自分の中にあれば、簡単に解決できる。窓まで歩いていくのは、ただの約束ごとだ。」》(『サンフォード・マイズナー・オン・アクティング』邦訳130頁)
・で、実際2トライ目で何が起こったかというと、脚本読解上(演技プラン上)は絶対にあり得ないことだが、「何言ってんだ、こんな時に! そんなこと今、関係ないだろ!」以降で泣きたいような感情が湧き上がった。入りのヴォルテージを上げて、感情を出した分入り易くなるという状況を作り上げると、相手役との感情の交流でそんなことになってしまうのだ。もちろんこれは一回限りのことで、再びやって同じ感情が湧き上がるとは限らないだろう。なぜって、自分でもなんでそんな感情が起こったのか理由が全く分からないし(姪の死ははっきり言って俺にはどうでもいい)、明らかにその時その一回限りの相手役の演技の影響でそうなったのだから。いずれにせよ、この時俺が科白の意味内容を集中して聞いていたかどうかは、泣きたい感情が沸き起こったこととほとんど関係がないはずだ。なぜなら、2トライ目でも相手役の人は台本を手に持ってそれに目を落として読んでいたし、一行科白が抜けてたし、ところどころ言葉が違ってるし、感情が思いっきり乗っている分意味内容が支離滅裂になっていた箇所もあったからだ(「あたしが結婚もしないで子供産むって、お兄ちゃんさんざん反対したもんね。だから……」の辺り)。もし俺の姿勢が1トライ目と同じようだったらやはり、相手の言っている意味が理解できない場合、こちらから自分の科白を出す切っ掛けを拾えずに真っ白になってしまったところだが、2トライ目では、相手の感情が相手の様子と相手の声音を知覚しているだけでガバガバ入って来たので──実際相手役の人は1トライ目の時から涙ボロボロで感情出しまくっている演技だった──、その入って来る感情から衝動を拾って、相手の感情的で支離滅裂な言葉に対して適切なタイミングでこちらの科白をぶつけることができた(と思う)。つまり、或る意味では科白の精確さ(科白という切っ掛け)なんてどうでもいいということだ。或る意味ではキャラクターの理解(「医者だからもっと毅然としていなければならない」等)なんてどうでもいいということだ。科白に乗っける感情のヴォリュームこそが重要だ。それだけでやり取りは成立し得る。相手役の感情がガバガバ入って来るだけでシーンは毎回即興的にこんなにも面白くなる。21日の二回目のリピティションで自分が出した人生最大レベルの怒りを想起せよ。あのヴォリュームの感情を自分が出せるのだということは認識しておくべきだ。そして、「感情を出すと開放されるから、感情が入って来る(相手の感情に感応できる)」、感情は自分が強く出した分だけ自分に強く入って来る。それが原則だ。まずは「開放」がないと幾ら熱心に相手の科白に耳を傾けても感情が全然入って来ないということ。
・2トライ目、「何言ってんだ、こんな時に! そんなこと今、関係ないだろ!」の科白以降で自分に泣きたいような感情が沸き起こったということは、やはり驚きだ。なぜなら完全に根拠不明だからだ。台本上泣く理由はまったくない。つまり泣きたくなったという事実に対して、その理由を後からでも言語化できない。全然できない。まさに「感情に理由はない」だ。だが原因は分かっている。相手役の人の感情が入って来て自分に感染したのだ。だから強いて言えばそれは相手への「同情」だ。しかしそれも別に相手役(妹)のことを殊更に可哀想と考えてのことではないから、相手役の人がボロボロと感情を多量に零していて、こちら側も最大レベルの怒りを放出した後で感情に感染し易くなっていて、そこで二人の間で感情の交流が起こったことを便宜的に「同情」と呼べるというだけのことだ。……或いは「泣きたいような感情が沸き起こった」ことについて、もう少し別の分析をすると、2トライ目ではシーン冒頭から自分自身の感情のヴォルテージを上げて、所謂激烈に「感情的な」状態になっていたので、ちょっとした刺激で強烈な怒りが強烈な悲しみへとブレて、わけもなく泣きたくなるということが起こったとも考えられる。シンプルに言えば、感情を出しましょう=感情的になりましょう、ということらしい。
・「最大レベルの感情」という言い方をしたが、最大レベルというのは、或る意味自分ではほとんどコントロールできない強度の感情でもある。逆に言うと、1トライ目は自分でほぼコントロール可能な水準に科白に乗っける感情をセーブしていたということだが。思うに、半分くらいはコントロール可能だがもう半分はコントロール不可能、というくらいのレベルには「感情的」にならないと、相手と感情の交流を始めることはできないのかもしれない。
・或る意味科白の精確さはどうでもいい、というのは、例えば台本上、相手役の「じゃ、どうすんのよ! 麻衣のこと、このまま見殺しにするって言うの! アンタ、それでも医者なの!」に対して「喚くな!」とこちらが返すことになっているのは、意味的には「アンタそれでも医者なの」という理不尽な詰りを受けてムカッと来たから返したものと理解するならば、「それでも医者なの」を最後まで聞いてから「喚くな!」を出さなければならなくなる、逆に言うと「アンタ……」の段階で「喚くな!」と言ってはいけないということになるのだが──とりあえずそのような知的なコントロールは外そうということ。っていうかそんなこと考えないでいい。とにかく「開放」して相手と感情の交流をガンガンやるのが第一。そのダイナミズムの中で、相手の科白の意味内容の理解をきっかけにしてではなく、相手の凄い表情や痛々しいトーンや全身でこちらにぶつかって来る感じを知覚することで「喚くな!」を出すタイミングが、自然に分かるから。さらに言えばその「喚くな!」をどんなふうに発語すればいいかも、分かる。究極的には相手が何を言っているか拾わなくてもいいかもしれない。感情の交流さえあるならば、相手が外国語で喋っていても芝居は成立するのかもしれない。……おそらくは観ている方もその方が面白いのだ。戯曲をテキストとしてのみ読んだり小説を読んだりすることの延長線上で考えると間違えてしまうが、観客は別に科白の内容を律儀に、丁寧に追っているわけではないので、そうではなくてまさに俳優の様態(における感情の表出)を注視しているわけなので、舞台上では感情の交流・感情の出し入れこそが第一義的でなければならない、ということか。山崎彬氏の言葉を引用しよう。「そもそも、科白なんて観客は誰も正確に聴いてはいない。むしろ観客は科白じゃないところを掬い取っている。科白は、とりあえずなんか科白のやり取りをしているなっていうことを示すためだけにあると言ってもいいくらいだ」。
・(上記の洞察と関連して広田淳一氏の次の言葉を想起せよ──「舞台上で俳優はさまざまな制約の下にある。動きの線も科白もあらかじめ決まっている。しかしその制約を守るならば後は自由なのだということも知ってほしい。その自由を引き出すことこそ俳優の仕事なのだから。禁止されていないことは禁止しないこと(そうしないと予想外のパフォーマンスなんて出て来ようがない)。では何をやるのか? 規準は、自分がやっていて楽しいかどうかということだろう」。「共演者の持っているものに応じて、動機が同じでもリアクションは異なるはずだ。そして相互リアクションによって当初想定していたものとは全然別なものが出て来たら本当に面白い。一人がなんかやる、もう一人がそれに反応する──相手次第、その場のノリで、起きたことを無視しなければ、どんなことでもパフォーマンスとして成立する。……科白が入ってもやることは同じだ。その場で生まれてくるものを大切にしよう。理解して決めたことをやるだけなら、演劇は戯曲読解にとどまってしまう」。)
・ところで、そう言えば一日目の初っ端の台本を使ったエクササイズ(0トライ目)では、俺とは真逆に「あなたは感情に頼り過ぎている。感情は十分あるのだから、感情のことはそんなに気にせずに、もっと相手と対話しよう」というアドバイスを貰っていた人がいた。つまり、感情を出すことは出来ても、自分のその感情ばかりにかまけて相手の感情を入れることが出来なくなる失敗パターンもあるということだろうか。興味深い。
・これは俺個人の考えだが、リピティションと感情準備を踏まえた台本へのアプローチは、スタニスラフスキー・システム的な知的な戯曲分析の方法論をほとんど必要としないのではないか。役者は台本の言葉に添いつつ自分自身の感情の精髄(人によってそれぞれ異なる)を掴んで、それを表現する道筋を見つければ良いだけであり、後はもう演出家の仕事なのかもしれない、ということ。
・2トライ目でシーンの最後に起こったことは面白かった。シーンの末尾は、兄の懇願に負けて妹が承諾書にサインするというト書きになっているが、1トライ目ではどう考えてもそれまでの芝居の流れで相手役の人がサインしそうになかったので、無理矢理相手の手を掴んでサインさせるということをせざるを得なかった。もちろんそんなのは嘘の芝居だ。ト書きにそう書いてあるから強引にそうさせたというに過ぎない。しかし2トライ目では、俺が最後の科白を言ってから相手役の人が承諾書を受け取ってサインするまでのあいだに気の遠くなるほど長い間を取った。観ていた人がどう感じたかは分からない。が、自分ではその長さはまったく気にならなかった。2トライ目では、相手役の人は言うまでもなく、自分の方も感情が一杯一杯になっていたので、無言のままさまざまな感情の交流(懇願、諦観、同情──たぶんサインしたくないんだろうな──、自責、絶望、希望、不安、悲哀、家族愛、後悔、疲労、切迫感、等々)を成立させることができるとお互いに確信していたと思うし、別にただ突っ立っていたのではなくてめまぐるしく感情を変化させながら、立っている姿勢の差分だけで相手に(互いに)働きかけようとしていたわけで、その限りでこの長い間は成立すると思っていた。ラストの肩を掴む行動も、それまでの無言の感情の交流からして、妹がついにサインしたらそういう身振りが一種の感謝(「ごめんよ、ありがとう」)の表われとして出るのが自然だと直観したので、それをやった。この点は先生に分析・評価された通りだ。……すなわち、山崎彬氏の言葉をもじって言えば、「感情の交流=感情の出し入れで芝居が完璧につながっていれば、科白と科白の間に一、二分ぐらい無言の時間があっても全然舞台上にいられるのだ」。実際あの長い間が観ている人間にどう感じられたかは分からないが、早くシーンを終わらせなければならないなどという自意識的な焦りは一切なく、平気の平左で「全然舞台上にいられる」状態だった。自分自身でも感情で一杯一杯になっていることが新鮮に感じられた。「相互リアクション」よりも「感情(自分が強く出した分だけ開放され、強く入ってくる。そういうノリでやる)」に重点を置いた方が毎回毎回演じるたびに新鮮に感じられ、演っていても面白いという域に到達できるわけだろうか。……余談だが、2トライ目の最後には何故か二人して壁際に移動していたが、なんでああいうミザンスになったのかまったく覚えていない。感情の赴くままに移動していただけだからか。
・先生「素敵な感情を持っているんだからそれを出さないと勿体ない」「次はもっと場面崩壊してもいいから、科白は若干置き気味でもいいから、もっともっと感情を交流させていきましょう」「芝居としてちゃんとまとめなくていいから、相手と感情を交流させて、そこ結果自分の身体にどんな反応が起こるか楽しんでみましょう」「芝居が崩壊してもいいから相手に全部ぶつけてください」
・(一つ言えることは、このWSで学んだことは、後期スタニスラフスキー的な身体的行動の線から感情を惹き起こしていくという身体→感情のベクトルの方法ではなく、といって「情緒の記憶」「与えられた状況」という具体的なものを用いて自分の感情を刺激するという方法でもなく、単純に感情を表現してみることによってそれが確定し方向付けられ増幅される──それによって身体的な変化も起こる──というシンプルな原則で、自分を感情に対し開放された状態に持っていくことだけでいいという方法論だ。それ以降は相手役との感情の出し入れで毎回即興的にやればいいということ。)
・こちらの感情が出るのが弱いと、相手が強く出してくれても入れられない。そのことの体験的実感は、テキストからは得られない。とにかく感情に対し開放された状態に自分を持っていき、あとは相手役との感情の交流次第だ。ならば、畢竟一人きりでは本質的な稽古は絶対にできないということだ。相手役の人に科白に感情を乗せて言ってみないかぎり何も分からない。相手から入って来るものなしでシーンをシミュレーションしてもまったく不毛。自分としても、感情をどこに向かっても出せないから、感情が自分に入って来る感じ易い状態を作れない。だから一人きりでできることなんて、科白を覚えることと、そのシーンにおける役の動機・目的(WSで使った台本では「非常事態。もはや時間がない、姪を助けるために妹を一刻も早く説得して承諾書にサインさせる」)を整理して把握しておくことぐらいではないか。練りに練った演技プランを持ち込んだりしたって──「どんなに演技プランを練っていても、相手との関係性の中で納得できるタイミングでやるのではなく、あなた一人でのやりたいタイミングでやってしまうなら、それはまったくひとりよがりなパフォーマンスに過ぎない。観てる側としては『なんでそこでそうするの?』という印象を持たざるを得ない」(広田淳一氏)──という羽目に陥るだけだ。
・先生「自分の演技プラン通りにやってしまうというのは、自分にとって感情のエネルギーを出し易いやり方というのが自分でも無意識に分かっていて、毎回そのやり方でやってしまう、科白を同じ言い方をしてしまう、ということかもしれない」
・あと、1トライ目でやったように相手の話をぐっと聞き込むのは必要ではあるのだが、しかし科白の内容から衝動を拾うのではなく、相手が声に乗っけている感情をぐっと入れて自分をブレさせることの方こそ重要であり、そのためにもリピティション中にやったようにホールド・抑圧せずに自分からも感情を出していかなければならない。そして相互に感情の交流があれば、どんなやり取りも舞台上で維持できる──相手役の人が科白ぼろぼろで何を言っているんだかわけ分からなくなっても、シーンは成り立つ(その芝居の凸凹をトリムするのは演出家の仕事だ)。というか間の取り方や呼吸のタイミングの方がむしろ感情の交流のあり様に左右されるのだ。感情の交流のダイナミズム次第で、台本とは無縁なところで間が取れたり息が吸えたりする。
・3トライ目に向けて。2トライ目では初っ端「なんで麻衣を外に出したりしたんだ!」の科白で感情のヴォルテージを無理に上げて、あとはその感情に乗って相手役と即興的に交流を作っていったわけだが、それよりもシーンに入る前に状況を想像している段階で、もう感情を準備してぐるぐるぐるぎゅるぎゅるぎゅると動揺を作ることができればそれが最善ではないのか。そしてシーンが始まったら向こうが全部ぶっ放してくるのをガバガバ入れて、相手役との相互作用で感情のノリを維持して行けばいい。つまり特定の科白に意識的に最大の感情を乗っけてヴォルテージを上げるのではなく、いつでもヴォルテージを上げられるようにシーンのドアタマから自分をすでに「感情的」にしておく。与えられた状況の動機に基づき、しかしその状況の細かな知的な理解は捨てて、単純に「人生で一番焦って切羽詰まっている!」という最大ヴォルテージの感情を準備する。
・先生「感情を出してください! 女子プロレスみたいになってもいいから、どんどん動いてもいいから」「相手のテンションが弱過ぎて直接感情をぶつけられないという状況でも、その役として内部に苛立ちなり焦りなりの感情があるのなら、それを科白に乗せないでも、握り拳をドンドンやったり、どっかと坐ったり、そういう身振りによって表出する=感情を出すことも自然に可能になるはず」
・《「君に言っておく。感情の衝撃からはだれも逃れられない。大劇場にいようが、小劇場にいようがだ。一度手に入れたら、感情は君をふくらませる──訂正。ふくらませるというのは、適切な言葉ではない。一度手に入れたら、それは君と観客に感染する。……」》(『サンフォード・マイズナー・オン・アクティング』邦訳148頁)
・では感情準備としてどうやって最大ヴォルテージの感情を自分に備給すればよいか。既記の通り俺は姪に冷淡なので「姪が死ぬかもしれない」という状況を幾ら具体的に想像しても切羽詰まった感じは湧かない。「こりゃ駄目だな。諦めなさい」みたいなトーンになる。「情緒の記憶」(スタニスラフスキー)も「イメージの仕掛け」(山崎彬)もあまり自分には利かない。ならばどうするか? ……3トライ目の準備段階で自分がぶっつけでやってみたのは、クラス前半のリラクゼーション中にやった「(台本の非常事態に近い状況の)イメージトレーニングをして、そこで自分の内に起こった感情に気付いたら、それを(息を吐く時に)声に出したり身体を動かして表現してみましょう──ただし言葉は使わないで」というエクササイズの応用で、そのエクササイズ時、どうもあまりイメージに刺激されることが無くて大した感情は湧かなかったのだが、それを「ア〜〜〜〜」ととりあえず声に乗せて表現してみたら、確かにそのフィードバックで自分の感情が増幅されるということがあり、さらに声を出している最中に先生に軽く胸(そして額)を抑えられ揺さぶられて、それによって、ただそれだけの身体上の変化によって、さらに感情がブレて増幅されるということが起こったので、これを試してみることにした。つまり、シーンに入る前、状況を信じるための前置きの時間に、しかし具体的状況(「姪が病院に運び込まれている。何人も死んでいる。もうギリギリ。ほぼ助かる見込みはないが、ともかく一刻も早く血清を打たなければ……」)をイメージしてみることはちょっと脇に置いて、ただ単純に、声には出さないが自分の心の中で呼吸の吐息につれてシーンに必要な感情=焦りを乗せた「ア〜〜〜〜」を叫んでみた。するとそれが呼吸の度に確かに増幅されていって、ついには心の中でのみ「アーーーー!!!!!!!」と絶叫している状態までになった時にはこれまでの人生で最大に切羽詰まっているような感情状態になり、身体反応として背中がブルブル震え出したので、それを利用して、シーン冒頭の相手役に対峙した瞬間から、自分の姿勢の勢いのみで相手に感情をぶつけていったのだった。(実は、シーンが始まった直後は少し手が痺れていた。酸欠状態になっていた? やり過ぎだったかも。)
・結果的には、3トライ目もそこそこ上手く行ったと思う。少なくとも演じていて2トライ目と同様に面白かった。そしてとりあえず1トライ目みたいに感情を口の中でもごもごやっているだけという状態ではなかっただろう。2トライ目では「なんで麻衣を外に出したりしたんだ!」を意識的に最大ヴォリュームで出す──21日の2回目のリピティションで個人史上最大レベルの怒りは出していたので、それをまた出せば良いだけだったのだが、台本の解釈上そこまで怒ることはあり得ないと思って1トライ目ではセーブしていたのを、先生に「入りの感情を大きくしてください、とにかく感情を出してください。自分が感情を出せば相手の感情も入って来るので」と言われたので「どうなるか分からないが昨日の最大レベルの怒りをまた出してみよう」と臨んだ結果が2トライ目──出すことでヴォルテージを上げて、それ以降はその感情のノリでやったわけだが、シンプルに「感情を出すと開放されるから、感情が入って来る(相手の感情に感応できる)」ことが原則であるならば、すでに準備段階で強烈な感情を自分に備給できれば、科白に意識的に無理矢理感情を乗せるなんてことをしなくても相手役との感情の交流は起きるはずだ、という目算だった、3トライ目は。それは、相手役の人がこちらの感情準備に敏感にリアクションしてくれたこともあり、上手くいったと感じる。シーンが終わってからもしばらく切迫した興奮状態はつづいて、背中の震えが収まらなかった。あたかも冒頭で準備した感情が、相手役との感情の出し入れの流れでさらに予想もしなかった方向へ増幅されたかのようだった。
・マイズナーの使っている「感染」という言葉は面白い。増幅されるという言葉よりも良いかもしれない。感情を声に出して表現してみる(心の内の声でもよいからとにかく表現してみる)ことで、その感情が自分に感染する。それによって自分が開放されて、相手の感情にも感染し易くなるということ。
・3トライ目終わった後の相手役の人のコメントでも、シーンの冒頭から──まだ俺の科白が来ないうちから──こちらの佇まいがさっき(2トライ目)とは全然違って、滅茶苦茶深刻そうだという感じが全身から溢れていたので、俺が凄まじいものをまとって出て来たので、事前に自分が想定していた演技プランはご破産になって、一番最初の科白「お兄ちゃん……」から既に2トライ目とはまったく異なった情緒になっていた、そしてそれ以降は自分でもどうなるのか全然予想がつかないまま感情の奔流に翻弄されるようにやっていた、とのことだった。裏を返せば、相手役の人がこちらの準備した切迫感を過敏に感じ取ってくれたからこそ、こちらが準備してきた感情もずっとヴォリュームが途切れることなく、自然なダイナミズムで生き生きとした即興的な感情の交流を最後まで続けることができたわけだろう。その結果、3トライ目でもまた最後に面白いことが起こった。今度は別にサインするまでの無言の間はそんなに長くなかったが(短くもなかったが)、相手役の人がサインした後に俺がその承諾書をひったくるように取ってつかつかと退場しようとする、そしてその取られた瞬間に相手役の人が「あっ」と声を出したので、こちらもそれへの反応で一瞬だけ振り返りそうになる(完全には振り返らなかった)──そういう流れが何の打ち合わせもなしに生まれた。やはり後の相手役の人のコメントで、「サインしてしまった後に、『本当にサインしてしまって良かったのか?』という不安が生じたので、自然と恐怖が『あっ』という声として出た」みたいなことを仰っていたが、それに応じたこちらのコメントとしては、「『この承諾書にサインしてくれ!』の科白に対して相手が拒絶的な態度になったので、相手に『姪(娘)を助けてやる、とにかく俺を信頼してくれ』という感じを伝えるためにそれ以降の科白に誠実っぽい感情を乗せていったが、本当の感情としてはずっと焦っていて、『さっさとサインしろよ』という苛立ちが内部には充満している、だがそれを露骨に見せたら相手はさらに頑なになるだろうからそれは押さえ込んで、相手に誠実そうに訴えかけていくということをやる、相手に承諾書を渡した後も『さっさとしろ!』と手が出そうになって苛々しているのだが、絶対にそれは相手がサインするまでは塞き止めて我慢する、だが相手がサインしたらもうこっちのもんだから、憎々しげに承諾書をひったくる、という行動が起こるのは自然だった」ということになるだろう。だから相手役の人が承諾書を取られた後に「本当にサインして良かったのか?」と不安になったのは感情の相互作用の結果として圧倒的に正しい反応のはずだ。まあ観ている人にどう映ったのかは分からないが。いずれにせよ、何の打ち合わせもなしにこういう自然な反応と行動が生まれたというのは、感情の交流のダイナミズムを途切らせることなく(準備した感情のヴォルテージが消えることなく)、最後まで感情に基づいた直観に従って演技したからだというのは、間違いない。
・ちなみに3トライ目では最後のミザンスでも自然な流れができた。台本で「(無言で首を横に振る)」というト書きで相手役の人がこちらに完全に背を向けてしまったので、まず相手と相対するように向こうに回り込んで、さらに相手が俯いてこちらを見ようとしないので、腰を低くして下から相手の顔を覗き込みながら語り掛ける(「この血清が利いたとしても、麻衣はまだ4つだ。体力が持つかどうか分からない。……」)というミザンスは、その時自分の内部にあるもの、尋常でない焦燥感や「誠実っぽく振る舞わないと相手を説得できない」という想いからすれば、当然そうするよね、という直観的判断で自然に出て来たことだった。意識的に「こうしよう」と計算したところは一切ない。同様な細部として、3トライ目のシーン前半で、時々手に持っている承諾書を強く握りしめるという自分の行動(主に相手の科白を聞いている時間に)があったが、それもまた、その時自分の内で一杯一杯になっている苛立ちの感情からすれば当然それくらいやるだろう、という直観でやったに過ぎない。それだからだろう、その行動のフィードバックでさらに苛立ちが増幅される・苛立ちに感染するということも、自然に起こった。1テイク目だったら、承諾書を握りしめるのも「これは苛立っている演技としてやっているのである」という意識が入っただろう。或いは「流石にそこまでやると大袈裟ではないか」という意識の働きで行動を抑制していたかもしれない。
・ところで、3トライ目後の相手役の人のコメントで「2トライ目とまとっている雰囲気が最初から全然違った」と言われたわけだが、そのことを演じている最中に分かっていたか?というとそうでもない。つまり相手役にどのような変化が起きていたか俺が明確に認識していたわけではなかった。だから実際起こったことは、「相手を変化させよう」「相手が変化している」という意志や認識とは関係無しに、ただ向こうの側も冒頭から感情を入れられる状態になっていて、こちらが準備して出した感情が向こうに入った(感染した)、その結果2トライ目とはまったく違った感情の即興的交流が生まれたということだ。それだけのことに過ぎないが、それこそが重要なのだ。
・いずれにせよ相手役に感情を乗せた科白をぶつけてみないと分からないことが多過ぎる。あらゆる意識的な「こうやろう」というプランよりも、感情の奔出の方が第一義的である。実際、相手役との感情の交流次第でシーンは無限に変わり得る。相手とのやり取りで感情がどんどん増幅されて行くこともあるだろうし、その感情が全然別ベクトルの方向に逸れて行くこともあるだろうし、おそらくは逆に、感情のヴォルテージがやり取りの中で消失する(そして意外なほど落ち着いて息が吸える)ということもあり得るだろう。つまり、自分は、相手役との感情の出し入れに対して受動的であらざるを得ないわけだ。相手の感情が自分に強く入って来た結果どうなってしまうかは、事前には分からない。
・(以前アマヤドリのWSに参加した時に、台本を使ったエクササイズで「全身を演技に参加させること。言葉のやりとりと身体をつなげること。全身が参加してないから声量も小さい。姿勢として腰が落ちている。腰が引けている。やたら相手の肩をポンポン叩いても全然作用していない。腰で押していけば相手に触らなくても相手を動かせるのに。腰が引けていて、手先だけで触れて、演技しようとしている。それでは無責任な関わり方にしかならない」──というようなダメ出しをされたことがある。しかしこれは「じゃあ今度は全身を演技に参加させてみよう」と意識すれば達成できるものではなくて、足りなかったものは単に、自分の内の生き生きとした感情ではなかったか? 22日にやったリピティションでは相手を怖がらせて逃げさせる(のを追い掛ける)という流れになった瞬間があったが、そのように自分の身体を使って相手を動かす(相手役を翻弄する?)こと、全身を演技に参加させるダイナミズムは、まさに「感情」の瞬発力によって、意識しなくても達成できてしまうのではないか。)
・(同じく以前アマヤドリのWSに参加した時に「あなた本位で動かない。相手本位で動くこと。どんなに演技プランを練っていても、相手との関係性の中で納得できるタイミングでやるのではなく、あなた一人でのやりたいタイミングでやってしまうなら、それはまったくひとりよがりなパフォーマンスに過ぎない。観てる側としては「なんでそこでそうするの?」という印象を持たざるを得ない」──とダメ出しされもしたのだが、そして確かに例えば「お庭で遊んでたみたいで……」という相手役の科白の後のこちらの溜息とか、腕組みとかを、直接的な演技プランとしてやっているだけだとやり辛さ、無理矢理感がどうしてもあるが、それも最初から感情の出し入れが出来ていれば、自然にやれる。やり辛さもクソもない。あと、「あなたの癖として、首を動かしすぎる。また、脚を踵を浮かせてしょっちゅう重心を左右に揺らしている。これはおそらく、人前で演技することのストレスをそういう仕種で逃しているということだと思う」──という指摘もされたのだが、とりわけ3トライ目ではその癖は出ていなかったと思う。演技のための生き生きとした感情があれば、人前であっても幾らでも平気で居られる。人前で演技として突っ立っている、という自意識はなかったし、強い感覚で演技スペースに立っていられた。科白を言うタイミングを測るという意識もなかった。)
・3トライ目の準備段階では、焦りを増幅するために(心の)声に出して反復的に表現してみるということを試みた。そのやり方が正しかったかどうかは分からない。「状況を信じる」ことは無視したし。だが感情のヴォリュームが大きくなればなるほど、相手役との感情の出し入れ、感情の交流ができやすくなるというのは間違いない気がする。これをさらに敷衍すると、感情準備は感情の交流、感情の出し入れを発動させるためのものに過ぎないから、「背中の震え」のような準備したものがいつしか消えてしまうのではないか?と心配する必要はない。相手役との感情の交流、科白のやり取り、そのフィードバックによって「背中の震え」はまた予想外な形で方向付けられて増幅されていくはずだから。まだ何のフィードバックもない冒頭においてだけその備給が必要だというに過ぎない、感情を入れ易くするために。(それは単純に感じ易い状態を作るということではないだろう。やはり「出す」感情のヴォリュームということが第一に重要なのだろう。感じ易くなっていても相変わらず口の中でもごもご言ってるようでは、何も面白くはないのだろう。)
・今「予想外」という言葉を使ったが、言い換えれば科白に乗っける感情を決め打ちすべきではないということだ。相手役から入って来る感情で幾らでも自分の感情も変化するのに、あらかじめ決め打ちすると、折角即興的に生まれた感情を「これは科白に乗せるべきでない」と判断して捨象してしまうことになるから。加えて言えば、役作りも相手次第なのだから、硬性のものと考えてはいけない。台本通り交通整理された道筋を行ってもつまらない。右に行くのか左に行くのかまったく分からないような状況で役者自身も感情の奔流に翻弄されるからこそ、毎ステージ毎ステージ新鮮で面白く演れる。2トライ目とか3トライ目とか、自分が科白をどんなニュアンスで言ったかほとんど覚えていないからな。
・準備段階の時に、先生から「身体を硬くしないで」という注意が入ったが(2トライ目)、確かに身体を硬くしてしまったら却って感情の備給は上手く行かないのだろう。
・ただ表現するだけで感情は増幅される。声に出して表現するだけでなく、例えば握りしめた拳の震えとして表出するだけでも、そのフィードバックでやはり増幅される。
・(相手役との科白のやり取りではなく、モノローグにおいてもこの感情準備の重要性は変わらないかもしれない。最初に感情準備をして、科白を言う頭からそれを出して行けば、自分の声へのフィードバックでどんどん感情が増幅され変化していく、そういうことを起こせるかもしれない。自分一人でやる感情の出し入れ?)
・自分がやるべきことは、ただ相手の感情が入って来易い(感情の交流が生まれ易い)状態を作っておくこと。そうすれば相手役がどう変わっても対応できる。相手役の感情のヴォリュームが小さくてもとにかく何かが起きるはずだ。上手く行かないのは相手のせいではない。自分がやるべきことをやっていればいける。1トライ目だって居たたまれなくなって強引に承諾書にサインさせるという行動をしてしまったのは俺だったし。相手役の人は涙粒までこぼして感情を出しているのに、それをこちらが入れることが出来なかったのが最大の問題なのだ。
・先生「感情を出して行こう。それはものを書く上でも役に立つはず。もちろん科白の意味も大事ではあるのだが、あなたはいい感情を持っているのだからそれを出して行こう」
・(すべて終わった後から考えると、今回体験したリピティションは使える言葉を制限した上で何でもいいから瞬間瞬間で自分の内にある感情を表現していく──それによって感情がどんどん変化していくのを実感する──ためのエクササイズだったように思える。比喩的に言えば、普通は128色くらいで色分けされてどれが突出することもなく、身体反応も惹き起こさず揺れとしても感じられない、日常的に瀰漫している曖昧な常在性の感情が、リピティションの最中には原色だけで色分けせざるを得なくなって、そしてそれが「怒っている」「楽しい」「悲しい」「怖い」「面白い」等々短いフレーズで表現されることによって、曖昧な感情のベクトルが一つに定まり、そのフィードバックで増幅されてしまうということが起こる。すると日常では、まあ社会生活の中でそんなに感情を出すわけにはいかないという抑圧もあるけれども、それ以上に日常では水彩画のような淡さでしか経験できていない「感情」というものが、真っ赤、真っ青、真っ黄色、真緑、といったヴィヴィッドな色で経験されて、普段だったら絶対に出さないようなレベルの狂喜、憤怒、恐慌、悲嘆、多幸感が自分に感染し、放出される、そのような状態を目指すためのエクササイズだったような気がする。すなわち自分の感情の可能性に気付くためのエクササイズだ。……さらに言うと、リピティション+呼吸の吐息と一緒に感情を声に出して表現する(心の内でも)によって単に強烈な感情だけでなく、極端にダラダラした呑気でリラックスした感情なんかも最大レベルで出せそうだ。声に出すと「あああううあうあうああああううあああああ〜〜〜〜♪」みたいな感じの感情も。声に乗せられる情緒ならどんなものでも増幅できる?)
・(また、今回のリピティションは、相手とのやり取りの中で感情を生成変化させることの体感学習でもあったように思う。目の前の相手役を知覚した時に起こる自分の中の変化に気付いて、とにかくそれを表出してみる(長いフレーズは使えないので直観で表現してみるより他はない)。おかしな方向に進んでもいいからとにかく表出してみる。そして上手く行けばそれが自分に感染してさらにあり得ないような感情が出て来る。この一連の過程はリピティションという方法論の下でしか中々体験できないことのように思える。)
・(以前アマヤドリのWSで、「相互リアクションの重要性ということで言えば、『相手の見ているものを見ろ』と忠告したい。劇中のやりとりのさなかでも、相手が自分をどう見ているかをちゃんと気づき、感じなければならない。リアクションの前にまずレセプションがある。相手の中で自分がどう思われているのかを感じることができれば、それによって態度を変化させざるを得なくなるはずだ(レセプションがちゃんとしていれば、リアクションも出てくる)。そのようにして関係性が生まれてくる」──というようなことを言われていて、相手役の存在に対して瞬間瞬間で感応していく=レセプションの重要性は頭では理解していたのだが、実際には台本を使ったエクササイズの1トライ目では、相手を注視していようが相手の言葉を食い入るように聞こうが、自分が相手に感応出来ていた=レセプション出来ていたとは到底言い難かった。端的に言って「感情を出すと開放されるから、感情が入って来る」ことについての理解がなかったからだろう。相互リアクションの重要性の前提として感情の交流がなければならないことの体験的理解がなかったからだ。レセプションとは、相手役の振舞いに依存する話ではなく、第一には自分自身の感情の問題だったのだ。)
・「感情的」になることはしんどい。とりわけそれが負の感情である時には、収まりつかないドス黒いものが自分の内を駆け巡るのに(放出するまで──しばらく)翻弄されることになるから。しかしそのしんどさを嫌って自分をヴォルテージの低い状態にとどめておくと、他人との感情の交流は起こらない。私は単なる孤立した一つのモナドであり続ける。今回のWSで学んだのは、通常のモナド的な他人との距離感を脱するために感情を励起させることの重要性だ。