study:演技/手話/写像/文体







 戯曲を俳優が読む──ということのなかには、たぶん単に読書家が教養のために戯曲を読むということ以上のものが含まれている。なぜなら、俳優が戯曲を読むときには暗につねにそれを舞台上で自分が演じる可能性を念頭に置いているだろうからだ。つまり、一次元の単線の連なりでしかない戯曲の言葉を、俳優自身の全身と声を使って三次元化する可能性を念頭に置きつつ、読んでいる。そこではおのずから読書だけで完結する読み方とは違った読解がなされているはずだろう。以下その秘密について試しに考察してみよう。
 一体に、舞台上の俳優が何らかの所作や身振りをするとき、その動きについて戯曲にはまったく何も書かれていないことがほとんどだ。科白を言う前にどういう姿勢でいるのか、科白を言いながらどういう動きをするのか、科白のどこでどう動きを止めるのか、どこで姿勢を変えるのか、どこに向けて声を当てるのか、科白を言ってからどの方向を向くのか、どんな身振りをするのか、戯曲には何も書かれてはいない。或いは単に舞台上に立っているだけのときにも、両足を踏みしめて直立するのか、どちらかの足に体重を掛けて斜めの姿勢で立つのか、一歩足を踏み出して今にも歩き出しそうな姿勢で立つのか、腕組みをしながら立つのか、壁に寄りかかるのか、何も書かれてはいない。何も書かれてはいないが、しかし当然それらが適当であっていいはずがない。毎ステージ毎ステージ何も考えずに恣意的に動いて毎回素晴らしい演技になるはずがない。実際、部分的には舞台美術や小道具との兼ね合い、演出上の都合などによって動きの線は決められているとはいえ、とくに科白を言っているあいだ、科白を言っている前後の所作と姿勢、そしてその科白をどのような抑揚で、スピードで、タイミングで、リズムで、様態で発語するかということは多くが俳優の意識的なアイディアにゆだねられている。ということは、或る意味その点で観ていて印象に残る演技と平凡で退屈だと感じる演技との差異が生まれているということでもある。或いは、非常に説得力のある演技とまったく腑に落ちない演技との差異が。
 シーンとして成立していても観ていて単調だなと感じる演技というものは、たしかにある。身振りで言えば、ベタな例だが「最近トレーニングで筋肉が付いてきたよ〜」と言いながら相手に向かって片腕で力こぶを作ってもう片方の手でそのこぶを触る……というようなのは、やらない方がいいというレベルの陳腐な動きだろう。そこには科白を動きで説明的に置き換えたという以上の意味が何もない。それだったら表現としては科白だけで十分だ。同様に、センチメンタルな科白をいかにも悲し気なトーンで発話したり、朗らかな科白をいかにもポップに語ったりするのもまた、戯曲の言葉をあまりにもステレオタイプに自分の声に変換してしまっているという点で陳腐さをまぬがれない。かと言って、わざとらしい変化やギャップを付けてやればいいというものでもない。では、陳腐ではないステレオタイプでない演技について──観ていて興味深い所作や身振りや姿勢や科白の発語の仕方について、その由来をわざとらしい外連味や俳優一人ひとりの肉体の特長に還元したりせずに、何らかの普遍的な原理を見出すことは可能だろうか?
 突然だが、ここで考察の補助線として『ザ・トライブ』という映画を参照してみたい。2014年カンヌ国際映画祭批評家週間で三冠を受賞したりなどしたこの映画は、聾学校を舞台とした、科白が一切ない、字幕もない、全編対話が手話だけで進行するという異色の作品であり、しかも一シーン一カットという長回しが多用され、カット割りで演技が途切れるということがないので、フィルムにとらえられている聾唖の役者たち(登場するのは全員実際に聾唖である素人役者)の身体はかなり演劇に近い表現性を持っている。冒頭の十数分を観ただけで、彼らの言葉を用いない強烈なコミュニケーションの様態に誰しも感銘を受けることだろう。しかし、この、字幕がないためにわれわれには内容を理解できるはずがない、にもかかわらずわれわれに伝わってくる彼らの「手話」の激情や雄弁さというのは何なのだろう? まず言えるのは、言葉に頼ることができないがゆえにこそ、彼らの「手話」は単なる手先の運動ではなく、むしろ聴覚以外の五感を強力に巻き込んだ全身から相手に向け発せられる表現になっているということだろう──まるで一種のコンテンポラリー・ダンスのような。同時に、それは暴力や性交のような直接的な身体の接触ではなくて(それも出てくるが)、やはりあくまで言語的なコミュニケーションとして表われている。彼らの手話はちゃんとシナリオが元になって組み立てられている。そうであればこそ、或る意味で彼らは、戯曲を読む俳優が一次元の言葉を身体とその延長の空間という三次元に変換するというのと、ほとんど似たような作業を行なっていると言えなくもない。そしてそこから放たれる手話が、言葉を欠いていても、いや、欠いているからこそ思わず引き込まれるような生彩と烈しさと美しさを帯びているということ、手話の意味を一切理解できないとしても、そこに明らかに登場人物たちのあいだを飛び交っている苛烈な何かがあることが分かり、観客がそれを知らず識らず共有してしまうということ──。おそらくこの現象には戯曲から陳腐でないステレオタイプでない演技を立ち上げるためのヒントがあるはずだ。
 いや、われわれが「手話」に着目したということに、すでに多大なヒントがあるのだろう。それはたしかに障害者のために言語的コミュニケーションを手振りに翻訳したものと言えるのだが、しかし、言語的コミュニケーションの単なる代替というわけではない。例えば日本人で英語が堪能な人間が外国人と話すときにはいちいち自分の言葉、相手の言葉を日本語に訳して理解したりせず、英語で考え英語で反応し英語だけでコミュニケーションを回していくのと同様に、おそらく聾唖者は、いちいち言語的命題を思い浮かべてからそれを手話に翻訳しているのではなく、まさに手話で考え手話で反応し手話だけで相手の聾唖者と何かの受け渡しを相互に行なっているのだろうからだ。つまり、彼らは手話がその翻訳であるところの言語的命題を相手に受け渡しているのではなくて、手話という身体の蠢きそのものによって直接意味内容を──通常だったら言語によって受け渡される意味内容を──やりとりしている。例えば相手から獰猛に殴り掛かられるような素振りを見せられれば、とっさにわれわれは身構えて防御の姿勢を取る。そのように身体が身体に即応し、身体が身体にシンクロしてしまうという敏感さをそのままコミュニケーションに巻き込んで、単なる言語的コミュニケーションの翻訳ではない、身体化された意味内容の受け渡しということを聴覚以外の五感を駆使して高速でやっているのが、「手話」の本質なのではないか。
 そして、俳優がやっていることもそれに近似すると言えないだろうか。本来戯曲に何が書かれているかを理解するためにそれを声に出したり、さらには自分の身体を何かの役になぞらえて演じてみる必要は、べつにない。黙読(棒読み!)だけで十分だ。しかし、そこに言葉と言葉のやりとりとして書かれているものを、そこで言葉と言葉によって受け渡されているものを、声音と全身を使った相互的なリアクションによって直感的に受け渡されるものへと変換するときに、単なる戯曲読解以上のものが必要とされてくる。つまり、俳優は科白を口にするが、それは言語的命題によって何かをやりとりするということに止まってはならないのだ(よく言われることだが、俳優が科白を雄弁に口にしただけで何か中味のあることを語ったように錯覚してしまうところから、良い演技は生まれない)。言語的命題であったら単純に情報として受け渡されてしまうものを、俳優は声音と全身を使って受け渡すものへと高度化・複雑化・精緻化しなければならない。その「演技」によって直感的に受け渡され得るものには、もちろん科白の字面として書かれている以上の文脈も含まれる(サブ・テキスト)。俳優は、戯曲の言葉をそれと何か相通ずるものを持っているがまったく別の表現形態へと変換する。では、そのためにはどのような戯曲の読み方が求められるだろうか? 間違いなく言えることは、誰しも自分の身体を置き去りにしたまま読むわけにはいかないということだ。この場合、身体というのは俳優一人ひとりで違うので、自分がどのような身体性を持っているかによって戯曲の読み方は決定的に変わってくる。変わってこざるを得ない。声についても同様だろう。そしてまた、戯曲の言葉をそのまま身体に反映させようとしてはならない。それではただの説明のための動きにしかならないだろうからだ。そうではなく、戯曲の言葉によって受け渡されている「何か」、その何かをいったん言語的命題の外形を取り外して深層で把握した上で、そこへ自分の身体と声音という外形を新たに被せ替えるようなイメージで演技を組み立てていかなければならないのだろうと思う。俳優が自分自身の唯一無二の身体と声音を使って、戯曲上はただ言葉と言葉のやりとりによって受け渡されているものを、身体的な相互リアクションによって過敏に直感的に受け渡され共有され得るものへと舞台上で変換できたとき、そのときこそ陳腐でないステレオタイプでない演技の可能性が、生まれる。



 ところで言語的命題(ないしは手話)によって受け渡されている「何か」、すなわち言語的命題の意味内容として想定されるものを、以前〈写像の図式〉と仮に名付けて考察しつつ演技と関連づけてみたことがある。以下その考察を引用しよう。劇団アマヤドリ稽古場ブログ内記事より(http://amayadori.doorblog.jp/archives/47191893.html)。
----------------------------------------------
 前述のとおり、この日の稽古では通常の演劇の稽古としてはやや異例のことがありました。簡単に言うと、或るシーンのダメ出しをしている途中に広田さんが長時間考え込んでしまい(ということにアマヤドリの面々は慣れているのか、そのシーンのダメ出しを受けていた俳優以外の方はセリフ合わせや動き・段取りの確認作業へと移行していきましたが)、そのあと「自分でもこれはよくあまり分かっていない、難しい話なんだけれど……」という前置きから、演技について、とくに言葉と空間の関係について非常に込み入った長い思考が広田さんの口から語られました。それは、演技の良し悪しについての考えがズレているから俳優の腑に落ちるまで理解してもらえるよう話し合う、ということ以上に、広田さんにとっても未知の、今まで演出家として勘でやっていたことを初めて言語化してみるという新しい試みであるかのようでした。広田さんが長考しはじめてから話が終わるまで、時間にして三十分は経ったと思う。さらにそこから、その思考を座組で共有するために、自分の語ったことをあらためて全体に対して講義することも行なわれました。
 しかし、やはりその場で初めて考え出したことだけに、講義が終わったあとにも広田さん自身が「このあたりの話は難しいね〜」と言っていたように、あの話、あの講義だけで、広田さんの話したことの本質をつかむことは困難だったと思います。広田さんの話自体も枝葉が整理されているとは言いがたいものだった。そして実は、広田さんの話を隣りで聞いていて、「俺ならこの話をもっと本質が明らかになるようなかたちで祖述できるのではないか?」と不肖わたくしは感じていたのでした。もちろんここにはわたし自身の理解力に対する驕りがある。とはいえ、去年『すばらしい日だ金がいる』に参加し或る程度演出家としての広田さんのやり方を追うことができて、また日頃から演劇についていくらか広田さんとメールで意見交換することもある立場のわたしだからこそ、あの場で直観的に理解し得たことがあったのだ、と言うことも多少は許されるでしょう。許してください。というわけで以下は、あの日広田さんが語っていた演技と空間にかんする議論のわたし個人による整理と、考察です。広田さんがじかに口にした言葉も引用しつつ書きますが、当然ながら広田さんが語ったことそのままではなく、わたし自身の解釈と敷衍が入っています。興味を持たれた方は、その旨ご理解しつつ以下を読んでいただければ、と思います。……
 『ロクな死にかた』稽古中の広田さんの突然の長考──。しかし実はことの発端は、すでに『すばらしい日だ金がいる』の稽古場において潜在していたと顧みます。これは遅まきに気付いたことですが、文芸助手という謎役職として当時『すば金』稽古場日誌をときどき書いていたわたしは、そのなかで、広田さんの稽古中の次のようなオーダーの言葉を偶然拾っていたのでした。「今みたいな台詞をやるときには、俳優の身体によって、その言葉たちをこの空間に関係づけて欲しい。空間への働きかけがなければラジオでもいいってことになる。〈今・ここ〉について書いてはいない戯曲の言葉を、俳優が空間とやり取りして、〈今・ここ〉の対象にかかわらせるからこそ、面白さが生まれるんじゃないか……」──戯曲の言葉を俳優の身体によって、声によって、この空間へと関連づけること。〈今・ここ〉について書かれていない言葉を〈今・ここ〉の空間につなげること。いや、正直に言えば、わたしはあのときこの広田さんのオーダーをメモしながら、そこで何が目指されているのか、いったいどういう演技の方向性が理想とされているのか、ほとんど理解してはいませんでした。ただ字面を引き写しただけです。しかも広田さんは前置きで「こういうオーダーは今まで出したことがなかった」(ちなみにこの指示を受けていたのは広田さんとの付き合いも長い笠井里美さんでした)とも言っていたので、思うに、おそらく俳優の方々においても、これは即座に理解できるというようなオーダーではなかったのではないか。そして『すば金』の稽古場では言葉を俳優が空間に関連づける、という方向性については、それ以上掘り下げられることはさほどありませんでした。
 言葉を俳優が〈今・ここ〉の空間に関連づけること──。『ロクな死にかた』の稽古中にあらためて浮上して思索されたのは、この課題です。当該の問題のシーンでは、実際の舞台空間とは異なった空間、つまり〈今・ここ〉の相手役とか舞台美術とか小道具とかとはまったく切り離された場所について想像的に語るということが俳優に要求されるのですが、そのシーンへのダメ出しをしている最中に、広田さんの長考ははじまりました。
 そして、長考が終わってからの広田さんの話は、シーンの細部についてではなく、薮から棒に言語の持っている抽象化能力についてどう考えたらいいのか?という哲学的な話でした。思索というより疑問を発しながらの自問自答に近かった。例えば場所にまつわる情報について、われわれは言語を使うことで、いくらでも自分が今いる実際の空間とは関係なしに喋ることができてしまう……「アメリカではこうなっている、フランスではこうなっている」等々……アメリカやフランスがどの方角にあるかも把握しないで抽象的に語れてしまう……それはなぜか? わたしはとまどいました。俳優の方もとまどったと思います。最終的にめぐりめぐって広田さんの話は、あなたが異なった場所について語るときには単なる情報みたいになっていてこの空間に自分の言葉を関連づけられていない、というダメ出しに帰結するのですが、それを聞いた俳優の方が「それは、空間をちゃんとイメージできていないということですか?」と問うと、「いや、僕の言いたいのはそういうことではない」とも広田さんは言う。別の空間をイメージできていない、そんなことが問題なわけではない。つまり、〈今・ここ〉とは異なる空間・対象をありありと思い浮かべて、その映像から影響を受けてリアクションで演技をするというようなことが求められているわけではない。俳優がイメージしようがしまいが空間はここにある。しかし、この場所この空間に俳優が言葉を関連づけることができていない、それが問題なのである。……ここまでで、すでに相当話が込み入っていますが、ここからさらに話は込み入っていきます。
 なので、思い切ってざっくりとあそこで広田さんが俳優に要求しようとしていたことを、わたし自身の言葉で言い換えてみたいと思います。戯曲の言葉を、自分の身体と声を使ってこの空間に関連づけるということ──。その課題は、〈今・ここ〉について書かれているわけではない命題を、その命題がもともと持っている〈写像の図式〉を用いることによって、自分の身体の延長であるこの空間に置き換えてくれ、それによってこの空間自体を変形させるイリュージョンをつくり出してくれ、というオーダーであったのだと解釈できるのではないか。〈写像の図式〉とは何か。ここでは、言語的命題がそれが言い表わしている事態と対応するために最低限そなえていなければならない何らかの形式、という意味でこの言葉を使っています。例を挙げます。「机の上に本があって、その本の上にカップがある」という言語的命題を考えます。この命題を理解するために、古びた黒檀の机の右端にプルーストの分厚い長篇小説の第一巻が置いてあって、その上にウェジウッドブルーのティーカップが縁を光らせて乗っている……みたいな状況をまざまざとイメージしたりする必要はありません。ただ、机と本とカップというものが何であるかなんとなく分かっていて、それらがどういう位置関係にあれば「机の上に本がある」「本の上にカップがある」と言えるのか(言えないのか)が分かっていればいいだけです。その位置関係は可能的に無限にありますが、それらすべての事態について把握している必要も、もちろんない。つまり、「机の上に本があって、その本の上にカップがある」という命題の内容が現実のどういう事態の〈図式〉になっているか、それを理解していればいいだけです。それだけでも、われわれは「机の上に本があって、その本の上にカップがある」状況について正しく語ることができる。そしてこの考え方からすると言語的命題とは、無限の豊穣な可能性を持った現実の事態の細部を捨象してモデル化=形式化した、現実の抽象的な〈写像〉だということができるでしょう。広田さんが言及した言語の抽象化能力、われわれが言語を使って実際自分のいる時空間とは関係ないことについていくらでも喋ることができるのは、まさに、言語的命題の構成がありありとした具体的なイメージとは無縁の〈写像の図式〉によって支えられているということに由来していると言えます。さらにはわれわれは言語によって、「やまたのおろち」とか「脈動変光星」とか「一億と二千年後も愛してる」とか自分の実感とはかけ離れたものについて語ることさえできる。
 演劇に話をつなげます。俳優が〈今・ここ〉においては何もない素舞台で「今僕の目の前に机があり、その上に本があって、その上にカップがあります」と語るという状況を考えてみましょう。もしこれをただそのまま口にしただけでは、そういう情報を読み上げたにすぎません。空間は何も変わりはしない。また、ありありと黒壇の机が……プルーストの長篇小説が……ウェジウッドのティーカップが……などと具体的に脳裏に鮮明に思い浮かべながら語ってみたところで、さほど事態は変わりはしないでしょう。ならば目の前の空間を変形させるためには、何が必要か。おそらくは、自分が口にする命題がもともと持っている〈写像の図式〉を、自分の身体と声を使って〈今・ここ〉の時空間に投射しようという意識が、必要なのではないか。そしてその〈今・ここ〉に投射した〈図式〉を観客たちや共演者とのあいだで生き生きと共有することが、必要なのではないか。その際本来〈今・ここ〉とは関係のないはずの〈写像の図式〉を〈今・ここ〉の時空間に投射するための媒体は、現に〈今・ここ〉の限定された時空間に物理的に束縛されている俳優の身体以外ではあり得ません。……注意しなければならないのは、その〈投射〉は、あたかも机の上の本をさわっているかのようなパントマイムや、ティーカップを逐一指差すというような身振りではないだろうということです。〈投射〉のための分かり易い方法論などはない。ともかくも限られた時間内でその俳優の全身が生むノイズのような所作が、拳の力の入り具合が、ちょっとした目線の変化が、或いは声の抑揚が、間が、言いよどんだタイミングが──それらすべてが何らかの〈図式〉を元にして生まれてきているのだな、というリアリティだけが共有されればいい。だから、科白に動きが従っているわけでも、動きに科白が従属しているわけでもない。両者がシンクロしなければならない必然性もない。〈今・ここ〉の素舞台からは乖離した時空間的構成を持った〈図式〉がまずあって、そこから科白=言語的命題も身体の蠢きも生まれてきている、そして、それらを受け取った観客や共演者がそのなかに〈今・ここ〉とは異なった時空間の〈図式〉を直感してくれることによって、初めて時空間自体が大胆に変形するような演劇的イリュージョンがその場で共有されるということが、起こる。「この空間を俳優の想像力とか言葉の力によって変形させていくことができるはずだ……その作用っていうのがこのシーンでは必要とされていると思う……そういう力が今あなたは足りていない」。俳優が身体を使って戯曲の言葉をこの空間に関連づけなければならない、という広田さんのオーダーを、とりあえずわたしはそのように解釈してみたいと思います(広田さんの言う「想像力」というのも、鮮明にイメージする力などではなく、〈写像の図式〉を生き生きと捉え表出するための「構想力」のようなものだと解釈したい)。
 ところで、「机の上に本があって……」という今まで使ってきた例はちょっと視覚に寄りすぎているのですが、広田さんが実際に挙げた例は、「過去には僕のお爺さんのお爺さんがいた、未来には僕の孫の孫がいることだろう」みたいな命題でした。文字として読めばこれも単なる情報ですが、われわれはこれを、例えば「お爺さんの/お爺さんが/……」と手を上に持っていって段を区切りながら言ったり、「孫の/孫が/……」と手を下方におろして段を区切りながら言ったりします。そういう身振りをまじえて喋ることを日常的に行なっている。そのとき何をやっているかというと、別に自分の上方にありありと自分のお爺さんの顔を思い浮かべているわけではないし、自分の下方にありありと自分の孫を想像しているわけでもない。というか、経験上自分の上空にお爺さんが浮んでいたり自分の足元に孫が埋まっていたりしたためしは、ない。しかし何らかのイメージ(〈図式〉!)を用いて空間を意味づけながら語ろうとするときに、なぜか自然にそういう身振りが出てくる。もっと言えば、〈今・ここ〉の時空間とは直接関係のない自分を中心とした過去と未来にひろがる家系の歴史を、〈今・ここ〉の位置関係に置き換えて語ろうとするからこそ、それを〈今・ここ〉の空間に関連づけようとするからこそ、なぜか、そういう身振りが出てくる。そしてその身振りによって自分の言っていることが相手に理解されたときには、そこで共有される何かしらのイリュージョンがあり、たしかに、相手と共にいるこの空間が、変形している。つづけてさらに相手の方も「そのお爺さんってのは……」と言いながら手を上に持っていったりしたら、よりいっそう共有の度合いが高まりもする。もちろんあらゆるコミュニケーションにおいて、あらゆる言語的命題においてこんなふうな空間の変形が起こるわけではありませんが、日常的にわれわれはそういう表現伝達を行なっています。身体が空間にかかわるというのには、そういうかかわり方もある。或る意味、演劇的イリュージョンをつくり出すことも日常的な〈今・ここ〉の改変作用から出発してそれを拡張したようなものであるとすれば、日常に見られるそうした所作や表現方法を丁寧に踏まえることなしには、問題となっているシーンでも、言葉の力で、自分の身体と声によって舞台空間を変形させていくということはできないだろう。……というのが、広田さんの長い長い話の中核でした。
 ……あれっ、俺が言い換えたものより、広田さん自身の話の方が分かりやすくないか?……広田さんの話をそのまま書き写せば良かったんじゃ?……という根本的な疑念をふと抱いて、ここまでこの長文レポートを書いてきたわたしは今、慄然としています。とまれ、要点は、一方に舞台空間という実際には何の変形も起きようのない確固たる物理的存在があり、他方にいくらでも実際の時空間から遊離し得るわれわれの言語能力や想像力というものがあって、その両者の力を借りて〈今・ここ〉に何かを引き起こすことにこそ、俳優という存在の面白さの核心がある。ということになるでしょうか。わたしはその、俳優が自分の全身と声によって空間とかかわるということを、〈写像〉、〈図式〉、〈投射〉という概念を使って整理し直してみたわけですが、より分かりにくくなっていたら面目ありません。ただ、われわれが日常的にやたらに身振りをまじえて喋ったりするとき、その背後には〈写像の図式〉を相手に受け渡そうとする意識みたいなものがあるんじゃないかな、というのがわたしが広田さんの考察に付け加えたいと思っている論点ではあります。そして戯曲の読解から演技として何かの身振りや所作が出てくるというときには、いったんセリフを〈図式〉レベルにまでさかのぼって把握し、それを俳優自身の身体と、その延長である空間に〈投射〉するというプロセスが無意識に働いているとは言えないだろうか……。いや、これ以上はもう俳優ならぬ演出家ならぬ謎役職・文芸助手の単なる思考の遊戯になってしまいますから、止めますが。
----------------------------------------------
この考察に付け加えるとすれば、〈写像の図式〉には単に視覚的に把握可能なものだけではなく感情の図式や触覚の図式、味覚の図式や音楽の図式もあるはずだ、ということだろう。たとえ情緒的なものであっても伝達可能な意味内容を持つのであれば、やはりそれはいくらか抽象化をこうむっていると言うべきだ。例えば「自分と同期の同僚が出世したことへの嫉妬」と「自分が紹介した知人同士が自分を置き去りにして深い仲になったことへの嫉妬」とは、まさに〈図式〉として違ったものとなるだろう。



 唐突だがここで話を「小説の文体」のことにつなげる。小説家の文体は、小説の文章は、通常のコミュニケーションや情報伝達におけるのとはいささか違ったかたちで言語を用いている。というのは、巧みな比喩を散りばめたり音読して美しい名調子を帯びていなければならないという意味ではない。当然のことを言うが、小説の本はたいてい屋内や個室で読まれるにもかかわらず、小説の内容自体はその限定された空間にとどまらない物語の空間をさまざまに内包していなければならず、しかもただ言語を用いるだけでその空間を創造しなければならない。小説を書くことの困難はほとんどその一点に存する。ただ情報として「わたしはそのときインドに居た」と言語的命題を書いたとしても読み手のなかにインドの空間が立ち上がるというふうには絶対にならない(ルポルタージュだったらそれでもかまわないだろうが)。では読み手が小説の物語の空間を共有できるよう言葉の用い方とは、一体どのようなものだろうか?
 考えてみたいのは、俳優が戯曲の言葉を自分自身の身体を使って苦心して三次元に変換しているのと類比的に、小説家が行なっているのも一種の「変換」ではないかということだ。しかもまさに小説家の身体を使っての「変換」ではないかと。もちろん小説家は俳優のように舞台に立って自分の身体で何かの役を演じるわけではないが、自分の経験したことを情報として言語化すれば小説ならぬ単なるルポルタージュになってしまうところを、小説として、まったく別の回路を使って物語の空間を立ち上げるように言語化しようというときには、何かの身体性がはたらているはずだと思う。俳優が自分の身体を置き去りにして戯曲を読むわけにはいかないように、小説家も自分の身体をあたかも無いようにして小説を書くわけにはいかない。俳優の演技が、気を抜くとただ科白を情報として喋っているだけで中味のないものになってしまいかねないのと同じように、小説の文章も、数式や論理的命題のように実感を欠いた単なる文字のつらなりになってしまう危険をつねに孕んでいる。その危険を追いやるための決め手がほかならぬ小説家自身の身体だと考えたいのだ。
 小説家は自分の身体性を介して、物語の空間を強引に一次元の文字のつらなりのなかに押し込む。端的に言うと小説家の文体は実際に身体の蠢きとパラレルである。だとするならば、その物語空間を共有する小説の読者はやはり身体的に何かの共振をしているはずだと考えられよう。これも俳優とその共演者、およびその観客との関係と似ている。或いは手話でコミュニケーションする聾唖者同士の関係に似ている。そしてそこで「文体」によって受け渡されているものは何かと言えば、ここまでの論述の延長からすればやはり〈図式〉だと言うべきだろう。単なるルポルタージュ的情報であること以上の、室内で小説を読んでいる読者の〈今・ここ〉の時空間にはたらきかけてそれを変形させてしまうイリュージョン──本を閉じれば消えてしまうイリュージョン──を作り出すための〈図式〉。そもそも〈図式〉自体の把握がつねに身体的に行なわれているのだと考えていいかもしれない。小説家の「文体」とは、小説家が無意識に(=意識の深層で)身体的に把握しているはずの図式を強引に言語表現に叩き込む作業の痕跡として生まれてくるものだとも、言い得る。



【APPENDIX】

「……文体の獲得なしに、作家は、それぞれの文化の偉大な伝統に繋がりえない。「文体」において、伝統とオリジナリティ、想像と熟練、明確な知的常識と意識の閾下の暗いざわめき、努力と快楽、独創と知的公衆の理解可能性とが初めて相会うのである。これらの対概念は相反するものである。しかし、その双方なくしては、たとえば伝統性と独創性、創造と熟練なくしては、読者はそもそも作品を読まないであろう。そして、「文体」とはこれらの「出会いの場」(ミーティング・プレイス)である。
 …………
 「文体」を獲得して初めて、作家は、机に向かわない時も作家でありうる。なぜなら、「文体」を獲得した時、言語は初めて、書かず語らずとも、散策の時も、友人との談話の時も、電車の中でも、まどろみの中でも、作家の中で働きつづけるからである。
 「文体」とは何であるか。古くからそれは「言語の肉体」であるといわれてきた。「言語の肉体」とは何であるか。それは、言語のコノテーションとデノテーションとの重層だけではない。歴史的重層性だけでもない。均整とその破れ、調和とその超出(ハーバート・リード卿が「ゲシュタルト・フリー」といったもの)だけでもない。言語の喚起するイメージであり、音の聴覚的快感だけではない。文字面の美であり、音の喚起する色彩であり、発声筋の、口腔粘膜の感覚であり、その他、その他である。
 その獲得のためには、人は多くの人と語り、無数の著作を読まなければならない。語り読むだけでなくて、それが文字通り「受肉」するに任せなければならない。そのためには、暗誦もあり、文体模倣もある。プルーストのようにパスティーシュから出発した作家もある。
 もちろん、すぐれた作家への傾倒が欠かせない。……傾倒は、決して、その思想ゆえでなく「言語の肉体」獲得のためでなければならない。そうでなければ、その人はたかだが作家の「取り巻き」に終わるであろう。作家が生きていようと、死者であろうと、変わりはない。実際、思春期の者を既存作家への傾倒に向かわせるものは決して思想の冷静な吟味によってではない。それは、意識としてはその作家のしばしば些細な、しかし思春期の者には決定的な一語、一文、要するに文字通り「捉える一句」としてのキャッチフレーズであるが、その底に働いているのは「文体」の親和性、あるいは思春期の者の「文体」への道程の最初の触媒作用である。
 …………
 私の発言が無文字社会の文学には該当しないことは定式の厳密性のために言っておかねばならない。無文字社会においては「文体」は存在しない。無文字社会においては、同じ文の複製は原理的に不可能であり、文学はそのつど再誕生しなければならない。それに近いものを現代に求めるとすれば「俳優」であろう。しかし、文字社会においても文体の獲得のためには、一度、無文字社会という深層に降りてゆかなければならない。また現にそうである証拠の一つは私が先に挙げたようにいったん「文体」が獲得されれば、それは地下鉄の中でもベッドの中でも働くという事実である。」
(中井久夫『アリアドネからの糸』)








トップページに戻る