■第一部
▼第一篇 ある家庭の歴史
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1 父、フョードル・カラマゾフ
「アレクセイ・フョードロヴィチ・カラマゾフは、この郡の地主フョードル・パーヴロヴィチ・カラマゾフの三男であった。」
《地主》の父のフョードル。十三年前に変死。淫蕩。資産のことには腕達者。
彼は二度結婚して三人の息子をもうけた。長男だけが先妻の子。「最初の妻は、同じこの郡の地主で、かなり裕福な名門の士族ミウーソフ家の娘であった。」この才女はフョードルという道化を過渡的な時代の英雄の一人と誤解した? 駆け落ちした。
が、彼女は駆け落ちするとすぐ、夫を軽蔑し始めた。フョードルは妻の財産をちょろまかした。彼女は神学校の教師とふたたび駆け落ち。フョードルはたちまち飲酒放蕩の生活開始。
やがて彼は家出した妻の行方を突き止めた。「フョードルはさっそく騒ぎ立ててペテルブルグ行きの準備をはじめたが、──それが何のためかは、むろん自分にもわからなかった。」だがいよいよ出かけようという時に妻の訃報が届く。すると彼は喜びもし、悲しみに泣きじゃくったともいう。「つまり彼は自分が自由の身になったことを喜びながらも、同時に自分を自由の身にしてくれた女を思って泣いたのであろう。たいていの場合、人は悪人でさえも、われわれがふつう考えているよりもはるかに無邪気で正直なものだ。」
2 見捨てられた長男
当然ながら、フョードルはわが子を放置。ドミートリイ(ミーチャ)を世話したのは言えの下男グリゴーリイ。
そのうちフョードルの死んだ先妻の従兄にあたるピョートル・アレクサンドロヴィチ・ミウーソフがパリから帰って来た。彼は「ミウーソフ家では別格の男で、教育があって都会的で、異国的で、おまけに生涯ヨーロッパ人をもって任じ、晩年には四、五〇年代の自由主義者の仲間入りをした男」。彼も地主でこの郡の「この町」の郊外に領地を持っている。それは僧院の地所と境界を接しており、ミウーソフはこの僧院を相手取って漁業権だか森林の伐採権だかをめぐって訴訟を起していた。〔伏線〕
彼は従妹の遺児ミーチャのことを知り、扶養を引き受けることを決意。後見人にもなった。ミーチャは(ミウーソフ自身は家庭を持っていなかったので)別の家庭に預けられた。そのうちミウーソフも二月革命が起ったりしたのでミーチャのことを忘れた。
ドミートリイ・フョードロヴィチの少年時代と青年時代はだらしなく過ぎ去った。彼は陸軍の学校に入って将校になり、父親からの仕送りで放蕩三昧。やがて自分の財産について話をつけに「この町」にやって来た時初めて父と対面した。フョードルはミーチャが自分の財産について誇大な誤った考えを抱いているのに気づいたが、そのままにしておいた。それから四年ほどたって、今度こそ自分の財産のことをきっぱり決着させようとミーチャが改めてこの町に乗り込んできたとき、彼はもう自分の財産の価格に相当する金額を父から引き出していて、何もないことを知らされた。青年が愕然とし、嘘ではないか、騙されたのではないかと疑う。こうした事情が後に一大椿事を招くことになる。
3 再婚と腹ちがいの子供たち
フョードルの残りの二人の息子のこと。
フョードルが再婚したのはソフィヤ・イワーノヴナ。彼女は孤児で、養育者の将軍未亡人に迫害されていた? だからフョードルの駆け落ちの話にも乗った模様。もちろん将軍夫人はかんかんに怒った。好色漢のフョードルだったが、初心なソフィヤのきわだった美しさにひたすら魅せられたらしい。「あたしゃあの時、あのけがれのないお目めを見て、かみそりでざっくり切られたみてえな気がしやした」
その後彼女は神経症にかかり、フョードルとのあいだにイワンとアレクセイの二人の子をもうけたが、アレクセイが四歳のときに彼女は亡くなった。
彼女が亡くなって三ヶ月後、例の将軍夫人(この人はソフィヤの日常生活の情報をこっそり入手しつづけていた)が「この町」にやってきて、フョードルを頬打ちし、二人の子供を自分の屋敷に連れて行くと宣言して、引き取った。
やがてこの将軍夫人も亡くなったが、彼は二人の子供にそれぞれ千ルーブリずつの遺産を贈った。夫人の遺産相続人であるエフィーム・ペトローヴィチ・ポレーノフが二人の世話を引き受けた。
兄のイワンは、長ずるに従ってなんとなく陰気な少年になった。早熟で、自分の家庭の異常さも早々に理解した。勉強はよく出来た。
彼が大学に入る頃にポレーノフ死亡。例の将軍夫人の遺産が、役所につきものの煩雑な手続きのせいですぐに受け取れなかったので、イワンは大学の最初の二年間、ひどく苦労した。注目せよ、だが彼は父に無心の手紙一つ書かなかった。彼は持ち前の才気でもって、新聞に記事を寄稿することで生活費を稼ぎ、仕事と勉強を両立させた。「この一事を見ただけでも、彼がわが国の非常に多くのいつも貧乏している不幸な男女の大学生たちにくらべて、実践的にも知的にもはるかに秀でていることがわかるだろう。」彼はほうぼうの編集部に渡りをつけ、大学時代の後半には書き手として文学界でも頭角を表していた。
彼がとくに有名になったのは、大学卒業後にある大新聞に教会裁判に関する論文を発表したことによって。これは話題を呼んだ。とくに、この論文は「この町」の僧院にも持ち込まれ、非常な関心を呼び起こした。しかも筆者はこの町の出身で、あのフョードルの息子だというのだ……。このように人々の興味がイワンに集まっていた時に、彼自身が突然この町へやってきた。〔タイミング合わせ〕
彼は父親の家に寄寓してもう二月になる。父とは仲良く暮しているらしい。ちょうどこの頃、ミウーソフもパリから帰ってきていて、郊外の領地に住んでいた〔タイミング合わせ〕。彼はイワンと知識を張り合って自尊心の疼きを感じたりした。
のちになって分かったことだが、イワンがやって来たのは長兄ドミートリイの依頼で或る用事を果たすため。また、兄と父の(財産をめぐる)喧嘩の仲裁者の役割も彼は果していた。
この時、この家族は初めて全員が顔をそろえたのである〔タイミング合わせ〕。アレクセイは? 彼はもう一年も前からこの町に暮している。しかも彼は見習い僧として、ここの僧院に暮しているのである。
4 三男アリョーシャ
当時、アリョーシャは二十歳。イワンは二十四、ドミートリイは二十八。このアリョーシャは狂信者ではない。当地のゾシマ長老に感化されただけ。
とはいえ彼は子供の頃からちょっと変った人物ではあった。彼は二歳の頃に見た母ソフィヤのことさえ覚えていた。母親によって自分が聖像のほうへ差し伸べられるというイメージ。〔伏線〕
少年時代と青年時代の彼は感情を表にあらわさず、無口だった。だが陰気で人嫌いだったわけではない。逆に、彼は実に明るくおだやかな人間だった。純潔と言っていい。何も非難しない。何も鼻にかけない。侮辱を根に持たない。勇気と胆力はあったがそれを誇示しない。彼は行く先々でみんなから愛された。二十歳になって父の家に帰って来た時にも、フョードルから大層愛された。
ただ彼には一つだけ奇妙なところがあった。女性に関する猥談を平然と聞くことができなかった。彼はその話が出るためにすばやく指で耳をふさいだほどだ。
ポレーノフが死んだ時彼は高校にいた。彼は自分が誰の金で暮しているのかまったく気にしなかった(イワンと真逆)。厚かましい性質と言えるだろうか? だが彼は金に対しては無欲だった。仮に突然大金を貰ったとしても、彼は何の未練もなくそれを慈善的な施しに用いてしまうだろう。ミウーソフは言っている──「アリョーシャは見ず知らずの都会の広場に突然無一文で放り出されても、決して飢え死しないだろう。なぜかと言えば、すぐに誰かが食べ物をくれたり身のふり方をつけてくれるに違いないから。」
彼は高校を卒業する前に父のところへ行くことに決めた。
ところでフョードルについて言えば、彼はアリョーシャが帰郷する三年ほど前に「この町」に戻ってきた。旅行中に金をもうけて貯め込む腕を磨いたらしい。彼の皮膚も最近はたるんできていた。彼はアリョーシャに言った。「おまえはあの狐つきに生き写しだよ!」
アリョーシャはこの町でまず母の墓参り〔墓標はグリゴーリイが立てたもの〕をした。それに啓発されたのか、フョードルは突然この土地の僧院に亡き妻の供養を依頼した。およそ信心のない男だったのに。
フョードルの容貌描写。皮膚がたるんできた。不遜。猜疑的。嘲笑的。脂ぎっている。
アリョーシャは母の墓参りをすると、父に向かって、自分は僧院に入いりたいと申し出た。フョードルもこの僧院のゾシマ長老がアリョーシャに感銘を与えたことを知っていた。
「つまり坊さんになるわけだな……まあ、よかろう、もとよりお前は二千ルーブリからの自分の金を持っているんだし……時にな、或る僧院では女を三十匹ほど《僧院妻》として囲ったりしているんだが、この町の僧院には何もない……清らかなもんだ、精進一途の連中さ……お前はあいつらの仲間入りがしたいんだな……まあいい、ひとつわしら罪深い連中のためにお祈りをあげてくれ……ところでわしはこう考えるんだ、悪魔がどえらい罪人のわしを鉤で引っ掛けて地獄へ引きずっていくとする、だが待て、鉤だと? どこから悪魔はそれを持って来た?……鉄の鉤? どこで鍛えたんだ?……いまいましいのはこの点なんだ……」
「でも、地獄には鉤なんてありませんよ」
「お前はなぜ地獄に鉤がないと知ってるんだ? まあしばらく坊主のあいだにいればそんなことは言わなくなるさ……だが行くがいい、行って真相をつかむがいい……迷いが覚めたら帰って来い、わしはお前の帰りを待っているぞ……お前はこの世でわしを非難しなかった唯一の人間だものなあ……」
フョードルはすすり泣く。彼は邪悪な男だが、感傷的だったのである。
5 長老
アリョーシャは病弱な夢想家という男ではなかった。実際には健康ではちきれそうな十九歳の青年だ。美男子で、体格は均斉が取れ、瞑想的な目は暗灰色に光る。彼はむしろリアリストだったと言える。リアリストは、彼が不信心者であるならば、奇跡を目の当たりにしたとしてもつねにそれを信じない力を自分の内部に見出す。彼が信仰を持つならば、彼はほかならぬ自分の現実主義によって奇跡を認めるようになるのである。
アリョーシャは青年の性急さで真剣に真理を求め、真理を探し、来世と神は存在するという信念に心を打たれると、ただちに自分にこう言い聞かせた。『来世のために生きたい、中途半端な妥協はごめんだ』。聖書にも『完全ならんと思うならば、すべてを分かち与え、来たりて私に従え』と書かれてあるではないか。そのような物思いに憑かれて彼はこの町に帰って来た。そんなとき、ここの僧院であの長老にめぐりあったのだ。
あの長老とは、ゾシマ長老。ここで長老制度について解説。長老は継承される。ゾシマ長老は三代目。ここの僧院には霊験あらたかなものは何もないのだが、歴代の長老の威厳のおかげでロシア全土から大勢の巡礼が長老を拝みにこの僧院にやって来る。長老は一種の高僧だが、長老の権力は総主教でも解消できないほど異様に強かった。そのため長老制度に反対する僧も少なくなかった。
ゾシマ長老の経歴。人当たりはよく、恬淡としており、多くの人々から尊敬と愛着を寄せられていた。もちろんアリョーシャも。なかにはゾシマの悪口を言う反長老派もいて、その中には最も古い修道僧のひとりで高名な断食者も含まれている〔伏線〕。だが大部分の人々はゾシマ長老の味方で、ゾシマの死が間近に迫っている今、長老の死後にさまざまな奇跡が現れるに違いないと皆期待していた。もちろんアリョーシャも。彼は長老が神聖な人であるということに何の疑念も抱かなかった。
ところで、それまで顔も見たことのなかった二人の兄の帰郷(ドミートリイは父の家に暮さないで、町の反対側のはずれに住んでいた)は、アリョーシャに強烈な印象を与えた。ドミートリイとはすぐ打ち解けた。しかしイワンとは親しくなれなかった。何故だろうか? 兄は彼自身の内心の重大事にとらわれているのか? それともアリョーシャのような見習い僧に対する、学識ある無神論者の軽蔑とでもいったものがあったのか? アリョーシャは胸騒ぎを覚えながら、兄がもっと自分に接近したいという気持ちになるのを待っていた。ドミートリイからは、ドミートリイとイワンを結びつけたある重大な事件の詳細を聞くことになる。
「この乱脈な家庭の全家族の顔合わせ、と言うよりも親族会議が長老の庵室で行われ、その親族会議からアリョーシャが異常な衝撃を受けたのは、ちょうどその時分のことであった。」なぜ家族の会合が長老の前で? 折から相続と財産の算定をめぐるドミートリイと父フョードルの不和はこじれきっていた。長老に仲裁を求めようか、或いは長老の前で話し合うことによって和解的な空気を生むことを期待できるのではないか、と言いだしたのはフョードル〔実際にはイワン〕。ドミートリイはこの呼びかけに応じることにした。
さらにそこにミウーソフが加わって来た。彼はフョードルの提案を聞くと、僧院に、長老に、異常に関心を示した。無論僧院を相手どっての訴訟は相変わらず続いていたので、僧院長と直接話し合うことで解決を早められるかもという目論見もあった。彼も会合に加わることになった。はたして、長老の方でも承諾して、日取りまで決められた。
この会合のことを思うとアリョーシャは当惑する。ミウーソフの態度もイワンの態度もフョードルの態度も、長老を侮辱し、長老の名誉を傷つけることになるのではないか。アリョーシャの伝言に対して、ドミートリイは《たとい自分の舌を噛み切ってもお前がそれほど尊敬すると尊い聖者に対して礼儀を欠くような真似はしない》と約束してくれたが、彼の気持ちは晴れなかった。
▼第二篇 場ちがいな会合
- -----------------------------------------------------1日目
1 僧院へ乗り込む
「その日はからりと晴れた暖かい日だった。」八月末。面会は十一時半頃で、大体その時間に合わせて、僧院訪問者は二台の馬車に分乗して来た。先頭の高価な馬車にはミウーソフと、その遠戚にあたるピョートル・フォーミチ・カルガーノフという二十歳ぐらいの青年(これから大学に入るところ。無口で口下手。いずれ莫大な財産を相続。アリョーシャの友人)。
二台目のおんぼろ馬車にはフョードルとイワン。到着。ドミートリイはまだ来ていない。彼らは馬車を乗り捨て、徒歩で門をくぐる僧院の中には乞食の群れや、参詣者の姿。
「それにしても何か様子が変だった」。迎えがこない。フョードルは千ルーブリもの寄進をしたし、ミウーソフは訴訟の経過如何では僧院内の人を牛耳る男なのに。
不意に一行のそばに卑屈な初老の紳士が。地主マクシーモフ。ゾシマ長老は林の向こうの僧庵に。ご一緒にまいりましょう。
奇妙なお供が付いてしまった。ミウーソフは不快に。
やっとひとりの小柄な修道僧が彼らに追いつく。みな立ち止まる。
僧院長様(長老とは別)が僧庵ご訪問のあとご一同にお食事を差し上げたいと申しておられます……時刻は正一時……あなたもどうぞ(とマクシーモフに)
フョードルもミウーソフも招待を受ける。「ただひとつ困ったことがある、他でもないが、あなたと一緒にいることですよ、フョードル・パーヴロヴィチ……」
ではどうぞ僧院長様によろしく伝言を。
いえ、私は皆様を長老様のところへご案内いたします……
マクシーモフはひとり先に僧院長のところへ。
その後姿に「小うるさい老いぼれだ」とミウーソフ。
「フォン・ゾーン〔当時の新聞種になった猟奇的殺人事件の被害者〕そっくりだ」とフョードル。
フョードルとミウーソフの口論。道化るのは自重してくださいよ……
(ミウーソフは完全にフョードルを嫌っていることを開示)
僧庵につく。フョードルはしゃぎ出す。十字を切る。ここの僧庵じゃ二十五人からの聖者が精進三昧でキャベツを召し上がっておいでだそうだ。女人禁制なのに、長老様がご婦人様と面会しているのはどういうわけ?
修道僧答える。ご婦人がたのためには、囲いの外に小さな部屋が二つ建て増されている。今もホフラコーワ夫人という方が……
するとやっぱり僧庵から奥様方のところへ抜け穴が通じているわけですな……
ミウーソフがフョードルに腹を立てる。僕はあなたを放り出して帰ってしまいますよ!
フョードルまた調子に乗る。前の長老ワルソノーフィイ様は優美なものが大嫌いで、貴婦人たちに踊りかかって杖で打ちすえたって話だが
修道僧曰く、そんなことはございません
ミウーソフまた怒る。礼儀正しくしてくれ!
フョードル嘲笑する。わたしが何かあなたにご迷惑をおかけしましたかな?
(ミウーソフが外面だけ気にする男だということの示唆)
僧庵の中へ。
《おれには今からわかっている。こういらいらしていると、喧嘩をはじめるぞ。……かっとなって、自分と思想の値打ちを落とすに違いない》とミウーソフの内語。
2 道化じじい
すぐに長老と面会。庵室内にいた人間の描写。ふたりの僧庵づき修道司祭(一人は博学のパイーシイ神父)。他にもう一人、二十二、三歳の若者。僧院の庇護を受けている神学生。
ゾシマ長老は一人の見習い僧とアリョーシャを従えて出て来た。祝福。そして丁重なお辞儀。ミウーソフには万事がわざとらしく思われ、お辞儀はしたが祝福は求めなかった。フョードル、イワン、カルガーノフもそれに倣った。長老は祝福を与えるために上げた手を下ろす。「血がアリョーシャの頬にさっとみなぎった。恥ずかしくなったのだ。不吉な予感が的中しはじめたのである。」
神学生とアリョーシャと見習い僧以外は椅子に坐る。庵室内部の描写。家具や調度は粗末。聖像。外国製版画。ミウーソフは長老を観察し始める。「彼は自分の目を重んじていた。そういう欠点を持っていたのだ。」
第一印象では、ミウーソフはゾシマ長老に好感を持たなかった。長老の外貌描写。老けて見える。目は明るく澄んでいたが。『どう見ても意地の悪い高慢ちきな爺ィだな』
「時を打つ時計の音が、うまく話のきっかけを作ってくれた。振子のついた安物の小さな柱時計が、せかせかと正十二時を告げたのである。」〔時間の進行を制御するとともに現前的場面を展開させる工夫〕
フョードルが叫ぶ。約束の時間ですな! ドミートリイがまだまいっておりませんが。
感激の口調でフョードルさらに続ける。「ただ今あなたの前におりますのは、正真正銘の道化でございます。これがあたしの自己紹介でございます。……」長広舌。今まで自分の道化ぶりによっていかに損してきたかについて。お聖人様、でもそれは人様を笑わせて愉快な男になろうと思えばこそでございます……
ミウーソフが辛辣な口を挟む。
ミウーソフさん、そんなことあたしゃ先刻承知の助でさ……あたしは根っからの生まれついての道化で……しかしそのかわりあたしは神様を信じております。ディドロがプラトン大司教に洗礼を受けたとかどうのとか
フョードル・パーヴロヴィチ、それはあんまりだ! その馬鹿げた作り話を、あなたは自分ででたらめだと知っているはずだ!とミウーソフ。
作り話ってことは先刻ずっと承知してまさあ! 夢中になっていくフョードル。しかしねえミウーソフさん、あんたの伯母にあたる、マーヴラ・フォーミシナ、あの連中は未だに信じていますぜ、無神論者のディドロがプラトン大司教を訪ねたのは……
ミウーソフは堪忍袋の緒を切りかけるが、自分を抑える。「実際、庵室の中では、全くありうべからざることが起っていた。」ここ四、五十年の間、どんな《上流階級》の人々や学識ある人でもここに踏み込めば敬虔な態度になったこの庵室で、今フョードルが信じられぬような場所柄を弁えない悪ふざけに及んでいる! 特に修道司祭はミウーソフと同様に怒っているようだ。アリョーシャは頭を垂れていた。兄イワンは身じろぎもしない。アリョーシャは例の神学生(ラキーチン)の目も見ることができなかったが、それはアリョーシャが彼の性格を良く知っていたから。
ミウーソフがフョードルの無礼を謝りはじめる。
ご心配は無用ですじゃ、安心なされるがよい……とゾシマ長老。フョードルに向かっても、遠慮はご無用、何よりも大事なことは、自分で自分のことをあまり恥ずかしく思わぬことですじゃ……と。
フョードル有頂天に。「つまり自然のままでよろしいので? それはあんまりもったいなさすぎます、しかし、喜んでお受けいたしましょう! 神聖この上なき長老様、あなた様には歓喜を披瀝いたしまアす!……あなた様は今『自分のことをあまり恥ずかしく思わぬことだ、それがすべてのもとなのだから』と注意くださいましたがね、それはあたしをずぶりと腹の底までお見通しになったものでございますな、あたしは恥ずかしさがもとで道化になったんでございます、偉大なる長老様、恥ずかしさがもとで。あたしが大暴れいたしますのもひとえにひがみのためでございます……もしそうでなければ、実際、あたしはどんなに善良な人間になったことでございましょう!」ひざまずく。「永遠の命を受け継ぐためには、あたしはどうすればよろしいのでしょう?」(この時も彼がふざけているのか本当に感激しているのか、決めるのはむずかしかった。)
長老曰く、飲酒にふけらず、言葉を慎み、女色に溺れず、拝金せず、嘘をつかぬこと……
「と申しますと、それはディドロの一件でございますか」
それに限りませぬ、何よりもまず、自分自身に嘘をつかぬことですじゃ。自分を嘘であざむく人間はついに堕落せざるを得ない。また自分を嘘であざむく人間は、誰よりも腹を立てやすい。なにぶん腹を立てるのは大層気持ちのよいものですからな……そうではありませんかな? しかも当人は誰も自分を侮辱した者がおらぬことを承知している、自分で自分に対する侮辱を考え出して、嘘をついたことを承知している、それでいながら、やっぱり真っ先に腹を立てていい気持ちになる……さあ、立ってお坐りなされ、それもまた偽りの行為ですぞ……。
「ありがたいお聖人様! どうぞお手に接吻させて下さいまし!……そのとおりでございます、腹を立てるのは気持ちのいいものでございますな、ほんとうによくおっしゃってくださいました、はじめて聞くお話でございます……あたしゃ嘘をついてまいりました、一生涯、毎日毎時間、嘘をついてまいりました……しかしですな、長老様、さきほどのディドロの話も、時には宜しいものでございます……」
そして「それはそうと、あやうく忘れるところでございましたが……」で、長老に質問があるという。殉教者伝のどこかに自分の首を持ち歩いた奇跡の行者の話があるというのは本当か?
いや、そんな話はどんな殉教者伝にもありません
これは人から聞いた話なんですがね、それを話したのが誰かって? ミウーソフさんでございますよ
僕はあなたにそんな話をした覚えは全然ない
あたしにした覚えはないでしょうがね、しかしあなたはある席でこの話をした、そこに私が居合わせたんでさ……四年ほど前のことですがね、あなたはこの滑稽な話であたしの信仰をぐらつかせたんでさあ……ミウーソフさん、あんたは大いなる堕落の原因を作ったんだ! こりゃもうディドロの話どころじゃない!
フョードルがまたひと芝居打っているのは明らか。〔過去の話を科白の中で掘り起こして絡んでいく。フョードルはゾシマ長老が何を言おうと、全然懲りてないな〕
だがミウーソフはまともに侮辱されたと感じる。そりゃ、実際、いつかそんな話をしたかもしれない……僕自身、人から聞いたんです、僕自身、殉教者伝を読んだことがないし……その人は非常な学者で……だって食事の席じゃいろんな話出るじゃありませんか……
さよう、あなたはそのとき食事をした、ところがあたしは信仰を失っちまった
君の信仰なんか僕の知ったことじゃない!
「そのとき不意に長老が椅子から立ち上がった。」〔現前的場面の技巧的断ち切り〕
しばらく中座させていただく、と告げる。あなたがたより先に来て待っている人たちがいるので。
アリョーシャと見習い僧は長老に手を貸して、一緒に出て行く。と、その時、フョードルが庵室の出口で長老を引き止める。
神聖なお聖人様! もう一度お手に接吻させてくださいまし! いや、あなたはなかなか話せるお方でございますな、あなたとなら仲良く暮せまさあ。実はあなたを試すために道化の真似をしていたんでさ、しかあなたには賞状をさしあげますぜ……さあ、もう黙ります、ずっと黙り通します。
3 信心深い農婦たち
長老を待機して待っていたのは二十人ほどの農婦。上客用の別室には地主のホフラコーワ親子。夫人は三十三、四歳。十四歳の娘は足の麻痺をわずらっていて、車椅子に乗っている。ふたりはもう一週間ほどこの町に暮している。
母娘のそばには遠方から長老の祝福にあずかりたいとやってきた一人の老いた修道僧。
長老はまず農婦たちのところへ。祈祷で《狐つきの女》を治したりする。
遠方から来た一人の農婦。三つになる息子が病死した。それが不憫でしょうがない……。
長老は天国では幼子たちは仕合せに暮らしているだのなんだのと。でもそんなことはすでに女は聞かされたことがあった。それでもあの子がここにいないことが辛い……。
長老はそれがお前たち母親の浮世の定めだのなんだの。お前の幼子のことは私が供養してあげよう。
それからプローホロヴナ。兵隊に取られた息子が帰って来ない。お前の息子は近々元気で帰って来るか、便りを寄越すだろう、と長老予言。〔伏線〕
ほかにも何人かの農婦に祝福を与える。
4 信仰のうすい貴婦人
今度はホフラコーワ夫人の番。彼女は長老と農婦たちの会話を見て感激している。「ああ、あなたは民衆に愛されておいでですのね、わたくしも民衆を愛しておりますの……」
あなたは娘のリーザを治してくださった?
? 娘さんはまだ椅子に乗っているではありませんか
夜分の発熱はおさまったんです、足までしっかりしてまいりました……この町のお医者様のヘルツェンシュトゥーベさんも、ふしぎだ、信じられないと申しておりました……今日はお礼を申し上げに来ました……
娘のリーズはぷっと吹き出すが、「あたしが笑ったのはあの人のことなの、あの人のことなのよ!」とアリョーシャを指さす。アリョーシャの顔に赤味が差す。
リーザは、アリョーシャ宛の手紙を預かっているとう。「カチェリーナ・イワーノヴナが、あたしの手からこれをあなたにお渡しするようにって……なるべく早く、なるべく早く来ていただきたいって……」
アリョーシャは驚く。
母親が説明する。ドミートリイさんのことや、最近のいろいろな出来事についての相談だろう……カチェリーナさんは今ある決心をしている……そのためにアリョーシャに会わなければならないのだ……云々。
それにしても、アリョーシャはまだカチェリーナに一度しか会ったことがないのに……。
母親曰く、あの方はほんとうに立派な方ですわ! あの方が今どんな苦しみを耐え忍んでいることか……
承知しましたとアリョーシャ。手紙にも目を通すが、来てくれとしか書いていない。
リーズがアリョーシャをからかいはじめる。
長老は例の旅の修道僧と話している(旅の修道僧「(リーズの治療について)あなたはあんな厚かましいことをよく平気でなされますな」「そのことを語るのはもちろんまだ時期尚早でござろう。病状が好転したとは申してもまだ完治したわけではなし、それに他の原因のためかも知れませぬからな。万事は神様の御心ですじゃ」)。そこに母親が割って入って来る。
ああ、なんというお言葉でしょう、なんという高遠なお言葉でございましょう……今日はわたしがずっと以前からこんなにも苦しんでいることを、残らず聞いてくださいまし……。ヒステリックに叫ぶ。〔神経過敏で視野が狭い心配性の小母さんといった趣〕
何を苦しんでおいでですのじゃ
信じられないのでございます……
神様が信じられぬのですな
いいえいいえ、……来世──これが大きな謎なのでござます……人間が死んだ後のこの来世という考えが、苦しいほどわたくしの心を動揺させているのでございます……もし一生涯信じ続けて来て、さて死ぬと同時に急に何もなくなって、ただ『墓の上に山ごぼうが生い茂る』だけだとしたら……どうすれば来世が証明できるのか……どうすれば確信を持つことができるのでしょう?
証明はできないが確信を持つことができるはずですじゃ……身近な人への実行的な愛を通して全き自己犠牲に到達なさったならば
実行的な愛ですって? 実はわたくし、とても人類を愛しておりますの……でもその愛は長続きしますでしょうか……一度でも自分が慈善を施した相手が、感謝するどころか、恩知らずな、乱暴な態度を取ったら? それでもわたくしの愛は続くのか? もしわたくしの人類に対するこの《実行的》な愛を即座に冷ますものがあるとしたら、それは忘恩でございます、ということは一口で申しますと、わたくしは報酬を当てにしているのでございます……!
彼女は誠実な自責の発作に陥る。
どうすればよろしいのでしょうか?
いいや、あなたがそのことで心を痛めておられる、それだけで十分ですのじゃ、深く誠実に自分を自覚なさったのですからな。しかし、あなたのいまのお話が、ただご自分の誠実さに対する賞讃の言葉を得んがためにすぎなかったとすれば、もちろん実行的な愛の面ではいかなる功績も得られませぬぞ……
あなたはわたくしを粉みじんに打ち砕いておしまいになりましたわ! あなたはわたくしに自分の正体を教えてくださったのでございます!
自分がよい道にいることをつねに覚えていて、あらゆる偽りを、とりわけ自分自身に対する偽りを避けることですじゃ……愛の成就においては、決してあなた自身の小心さを恐れてはならず、また愚かな行いをせぬかと恐れすぎてもなりませぬ……ではまた
婦人泣く。
その間、ずっとリーザはアリョーシャをからかっている。リーザの目線を避けようとするアリョーシャをわざとじっと見つめる。アリョーシャが根負けして心ならずも彼女の方をちらりと見ると、リーズは勝ち誇ったようににぎやかに笑いたてる。
「あなたはなぜこの人をあんなに恥ずかしがらせますのじゃ、いたずらっ子さん」
リーズは急に真っ赤になって、せかせかと神経質に不満を述べ始める。アリョーシャは何故最近自分を避けるようになったのか?……
神経質に身をゆすぶって笑うと、突然リーザはわっと泣き出す。「あたしは馬鹿な女です……アリョーシャがこんなおかしな娘なところへ来たがらないのも、当たり前かも」
きっと行かせてあげますぞ、と長老。〔この時のアリョーシャについては描写なし〕
5 アーメン、アーメン
長老が庵室を留守にしていたのは二十五分ほど。十二時半。ドミートリイまだ来ない。長老が戻った時には、来客の間で活発な会話。イワンと修道司祭とミウーソフの間で。ミウーソフはイワンを嫉妬。そんなミウーソフをフョードルからかう。「それはちょうど長老が戻って来た瞬間のことである。」
議論は一瞬ぴたりと静まるが、長老は以前の席に着くと、愛想よくつづきをうながす。
修道司祭曰く、イワンの興味深い論文について議論していたのだと。
イワンは教会を国家から分離するという考えを完全に否定している?
イワンの話しぶりは、アリョーシャが心配していたようなものとはちがって、慎ましく、丁寧なものだった。教会が国家の内部に地位を占めるのではなく、教会こそがみずからの内部に国家全体を包含すべきである……
「まったくそのとおりでございます!」とパイーシイ神父。
「純然たる法王至上論じゃないですか!」とミウーソフ。
修道司祭はイワンの主張に賛同している。なぜならイワンが論文で批判した論敵は「刑法的・公民的権力と教会とは併立しない」「教会はこの世の王国ではない」と言っているから。「『教会はこの世の王国にあらず』というあの言葉にはあきれ返ったものでございます!」とパイーシイ神父。天の王国はもちろんこの世でなく天にあるべきだが、そこへ入るには地上に基礎を置いた教会を通るよりほかにない。教会こそは究極においては必ず全地上の王国となるべきもの、それが神の約束だ……。
イワンが敷衍。現在の国家と教会の妥協というのは原則的には不完全な時代の一時的現象をみなさなければならない。……
ミウーソフがにやりと笑って、口をはさむ。そういう話なら結構ですな、つまり教会が国家をすべて包含するというのは、果てしなく遠い、キリスト再来のときに実現されるユートピアの理想ですな。それならご随意に。私はまた大真面目に考えて、これからは教会が刑法的権力を握って、犯罪者の裁判を引き受けたりするのかと思いましたよ……。
教会が刑法的権力を握ったら、裁判も刑罰も今とは違ったものになるでしょうね、とイワン。教会の裁判が科す刑罰は、破門です。破門された者は、自分の犯罪によって人間社会に反逆するばかりか、キリストの教会に対しても反旗をひるがえしたことになる。現在はまだどんな犯罪者も『なるほど俺は盗みをしたが、教会にはそむいちゃいない、キリストの敵になったわけじゃない』と言い訳する余地がある。教会が国家にとって代わった時には、そんな言い訳の余地はなくなる。そして教会自身の犯罪に対する見解は、人間の更生と復活と救済を主眼に置いたものとなる。……
また何か夢物語めいてきましたな、とミウーソフ。
ゾシマ長老がイワンに賛同する。「いや、実際には今日でも同じことですじゃ」……現在の裁判の犯罪に対する見解のままでは、犯罪者の心をおののかせることもできなければ、犯罪を減らすことも、犯罪者を更生させることもできない。それができるのは教会だけだ、教会に対するおのれの罪を自覚した犯罪者だけが更生可能なのだ……。ロシアの犯罪者はまだ信仰を持っておりますでな……。教会がなくなって、国家の中に姿を消すことにでもなれば、犯罪者への教会の憐れみもなくなることになるだろう……。「わが国には国法によって定められた裁判の他に、そのうえにまだ教会があり、その教会が犯罪者をかわいい、やはり大切な息子であると考えて、決して接触を断たぬようにしておりますのじゃ。……もしも教会裁判がほんとうに実現されて、持てるかぎりの力を発揮したならば、すなわちもしも社会がすべて教会になったらばですじゃ、犯罪者の矯正に大きい影響があるばかりでなく、実際に犯罪そのものが嘘のように減少するかもしれませぬ……」
ミウーソフ曰く、奇怪千万だ! 教会が国家の位にのしあがるとは! 法王至上論どころじゃない、超法王至上論だ!
「あなたの解釈はまるでさかさまです!」とパイーシイ神父。教会が国家に変るのではありません、それはローマの夢想、悪魔の第三の誘惑だ。そうではなく、国家が教会に変るのです……
ミウーソフは意味ありげに黙る。傲慢な薄笑いを浮かべる。アリョーシャもラキーチンもこの議論を熱心に聞いている。
「失礼ですが、皆さん、ひとつ小さな逸話を話させて下さい」とミウーソフ。何年か前、パリで、政治的密偵の一隊を指揮するような立場の男に会った。彼と話をし、話題は当時官憲の追及を受けていた社会主義革命家たちのことに及んだ。その男曰く、『キリスト教徒であり、同時に社会主義者でもあるような連中は、無神論者の社会主義者よりも恐ろしい』──僕はこの言葉を聞いてぎょっとしたものですが、いま皆さんのお話をうかがっているうちに、ふと急にこの言葉を思い出したのです……
「すると私たちを社会主義者だと申されるのですな?」とずばりパイーシイ神父。ところがそこへさっとドアが開いて、遅刻したドミートリイが入ってきた。皆はほとんど彼のことを忘れていた。
6 どうしてこんな男が生きているのだ?
ドミートリイ・フョードロヴィチの外貌描写。筋骨たくましい。病的な表情。執拗で不安定な視線。彼についてはすでに二、三の逸話が流布していた。……
さらに外貌描写。粋な姿。髭。髪型。長老にお辞儀して、祝福を求める。
遅刻を詫びる。下男のスメルジャコーフが午後一時だと言ったので……。
ドミートリイ、フョードルに会釈。一つ残っていた椅子に坐る。
中断された会話は別につづけられるはずだったが、ミウーソフが打ち切ろうとする。「この問題はこれで打ち切らせていただきましょう……やっ、イワン君が僕らを見てにいやにや笑ってますな、きっと今度もまた何か面白いお説があるんでしょう……」
イワンはすぐに答える。なぜかヨーロッパの自由主義は、一般に社会主義の究極の結果とキリスト教のそれとをしばしば混同する傾向があるようですね……ミウーソフさん、あなたのパリ仕込みの逸話はなかなかうがったお話ですよ……
改めてお願いしますが、この問題は打ちきらせていただきましょう……そのかわり、皆さん、今度はイワン君に関する特徴的な逸話をご紹介いたします。つい五日ほど前、イワン君は当地のある会合の席で、こんな意見を吐いたのです……この地上には人間に対してその同類への愛を強制するようなものは何ひとつない、もし地上に愛があるとすれば、それは自然の法則によるのではなく、人間が自分の来世を信じて来たからにほかならない……したがってもしも人類の来世の信仰を根絶やしにしたならば、人類の持つ愛はたちどころに枯渇し、それどころか不道徳などというものは一切なくなって、あらゆる極悪非道と紙一重の利己主義が許される、必然的に。現代の神も来世も信じない各個人にとっては、そのような不道徳な道徳律こそ賢明なものとして認められるべきである……。
不意に長老がイワンにたずねる。本当にそれを確信しておいでかな。
ええ、僕はそう断言しました。来世がなかったら、善行はありません。
もしもそう信じておられるならば、あなたは仕合せなお人か、それとも大層不幸なお人ですじゃ!
なぜ不幸なのです?──イワンはにやりと笑った。
この思想はまだあなたの心のなかで解決されておらず、あなたの心を悩ましている……。
この問題が僕の内部で解決されることはあるのでしょうか、肯定的に解決されることが?──イワンは相変わらず不可解な微笑を浮かべている。
肯定的に解決することができなければ、否定的に解決されることもありませぬ……しかしこのような苦しみを苦しむ能力のある高尚な心をあなたに授け給うた造物主に感謝なさるがよい……
長老はイワンに十字を切る。イワンは椅子から立ち上がり、長老の前に進み出て祝福を受ける。一同はこの動作と、それに先立つイワンの思いがけない長老との会話に、びっくりした。ところがそのとき、突然フョードルが椅子から飛び上がる。
イワンを指差して、これはあたしの尊敬してやまぬわが最愛の肉、それに対して一方こちらのドミートリイは、最も尊敬すべからざる男、どうぞあなた様のお裁きをお願いいたします!
ドミートリイ憤慨する。無用の喜劇です! そして長老に向かって、あなたは騙されたのです、われわれがここに集まるのを許したのは、あまりにお人が好すぎたのです……親父に必要なのはスキャンダルだけなのです……
今度はフョードルがわめく。みんながあたしひとりを悪者にしている、寄ってたかって! あたしが息子の金を猫ばばしたとでも? 出るとこへ出りゃ、なあドミートリイ・フョードロヴィチ殿、あんたのお書き遊ばした受け取りや手紙や証文に基づいて、あなたの金がいくら残っているか、ちゃんと勘定してくれるんですぜ。……この放蕩野郎、前に勤務してた町じゃ、良家の令嬢たちを誘惑するために千ルーブリも二千ルーブリも投じたそうじゃないか〔伏線〕、なあに、ねたは全部あがってんだ。……神父様、どうでございましょう、こいつは素性の正しい良家の令嬢を誘惑して、その令嬢に求婚して名誉を傷つけたのでございます、その令嬢は今じゃ両親をなくしてこの町に来ております〔伏線。カチェリーナのこと〕、それなのに、こいつはその令嬢の目の前でこの町に住むある魅惑的な女性〔伏線。グルーシェンカのこと〕のところへ通っているんでございます……
「お黙んなさい」とドミートリイ。僕のいる前で名家の令嬢をけがすような真似はしないでもらいたい……!
罵り合う二人。
「これが父親に、生みの親に向かって言う言葉なのでございます。これじゃ他人が相手だったら何をするか知れやしない。皆さん、実はこの町に貧乏な、しかし尊敬すべき人物がおります。もと大尉で、不幸な目に会って軍務を退いたんですが、おおやけに軍法会議で処分されたのではなく、立派に名誉は保った男です〔伏線。スネギリョフ〕。今は大家族をかかえて難儀しているんですが、三週間ばかり前に、わがドミートリイ・フョードロヴィチ殿が居酒屋でこの男のひげを引っつかみ、そのまま通りへ引きずり出して、公衆の面前でさんざん殴りつけました。その理由というのが、ある些細な問題でその男が、内緒であたしの代理人を勤めたからなんでございます」
「それはみんな嘘です。うわべは本当ですが、内幕は嘘なんです」ドミートリイは憤怒のあまり全身をぶるぶるふるわせていた。「お父さん! 僕は自分の行為を正当化したりはしません。そうです、皆さんの前で白状します、僕はその大尉に対して獣そこのけの振舞いをしました。そうして今ではあの時の獣じみた憤怒を後悔して、自分に愛想をつかしています。しかしお父さんの代理人というあの大尉は、あなたがいま魅惑的な女性と呼んだあの婦人のところへ行って、あなたの名前であのひとにこんな提案をしたのです。もし僕が財産の清算をあまりうるさく言って来たら、自分の手もとにある僕の手形を引き取って訴訟を起こし、その手形を口実に僕を監獄へぶち込んでくれまいかと。あなたは今、僕があの婦人に横恋慕していると言って非難しましたが、もとはと言えばあなたがあの婦人をそそのかして、僕を誘惑させたんじゃありませんか。あのひとは面と向かってはっきりそう言っている、あなたのことを笑いながら自分で僕にそう話してくれたんです。あなたが僕を監獄へ入れたがっているのも、あのひとのことで僕に嫉妬しているからなんだ、自分があの女性に横恋慕して言い寄っているからなんだ。これも僕は知っています、あのひとが笑っていたから、──いいですか、──あのひとはあなたのことをあざ笑いながら話してくれたんです。神父さん方、お聞きのとおりです、これが放蕩息子を非難する父親の正体なんです。皆さん、僕の憤慨を赦して下さい、でも僕は予感していたのです。このたぬき爺ィが皆さんをここへ呼んだのはスキャンダルの種をまくためだったのです。僕はもし父が和解の手を差し伸べたら赦そう、赦して僕も赦しを求めようと思って来たのです。ところが父は僕ばかりか、僕が尊敬の気持ちからその名を口にする勇気さえない名家の令嬢までも、たったいま侮辱しました。それで僕もこの男の姦策をあばこうと決心したのです、たとい相手が僕の親父であっても。……」
庵室ざわざわ。長老は止めようと思えば止められたはずなのに、この騒動を見つめつづけていた。
ミウーソフが弁解しはじめる、この醜態はわれわれ一同の責任です……しかし僕はここへ来るまで知らなかったのです……父親がいかがわしい女のことで息子に嫉妬して、その毒婦にむかって実の息子を監獄へぶち込む相談をするなんて……
フョードルいきり立つ。が本当に怒っているのか、これも道化なのか?
ドミートリイは恐ろしく眉をしかめる。僕は自分の許婚と一緒に故郷へ帰って、父の老後を慰めようと思っていたのだ……だが僕がであったのは淫蕩な色気違いだった!
決闘だ!とフョードル。ドミートリイ・フョードロヴィチ殿、あんたがいいなずけをあの《毒婦》に見変えたところを拝見しますとね、あんたのいいなずけもあの女の靴の裏ほど値打ちがないと判断なすったわけですな、これがあの毒婦でございます!
「恥ずかしいことだ!」と修道司祭が口走る。
ドミートリイが唸る、「どうしてこんな男が生きているのだ! いや、このうえこんな男が大地をけがすのを黙って見ていてよいものでしょうか」彼は父親を指差す。
「お聞きですか、お聞きですか、お坊様、父親殺しの言うことを」とフョードルは修道司祭に駆け寄る。しかし一体何が『恥ずかしいこと』なんで? あの《毒婦》は、ひょっとすると、皆さんこちらで修行なさっておいでの修道司祭様たちよりも神聖な女かも知れないのでございます、多くの男を愛した者は、キリスト様もお赦しになりましたからな……
キリスト様がお赦しになったのは、そのような愛のためではありませぬ、と修道司祭。
「いいえ、そういう愛のためでございますよ、お坊様、まさしくそういう愛のためでございます。皆さんはこちらでキャベツを召し上がって修行して、われこそは心正しき者だと思っておいでになる。川ぎすを召し上がって、一日に一匹ずつ川ぎすを召し上がって、川ぎすで神様が買えると思っておいでになる!」
非難轟々。
「しかし醜態をさらけだしたこの場の悶着は、まったく意外な形で終わったのである。」突然長老が椅子から立ち上がって、ドミートリイの前にひざまずく。
全員呆気に取られる。特にドミートリイ。このお辞儀には一体何の意味が? ドミートリイは「ああ!」と両手で顔を覆って部屋から走り出る。つづいて来客たちも、狼狽のあまり主人に挨拶も会釈もせずにどっと逃げ出した。〔ドミートリイはこれでしばらく退場〕
一同は僧院の囲いの外へ。そこで、さきほどの僧院長の食事の招待を伝えた修道僧が待っている。
機嫌を損ねているミウーソフ、「突然の予期せざる事情のために」陪食はしないと断る。
「その予期せざる事情とはあたしのことでござんすな!」とフョードル。自分はもう家に帰るので、ミウーソフは僧院長のところへ招ばれればよかろう、と言う。
あなたが帰るってのは本当ですか?
いくらあたしでも、あんなことがあったあとじゃ、とてもそんな勇気はありませんや……すっかりおじけづいちまった!
立ち去っていくフョードル。
ミウーソフは不意にイワンにたずねる。あなたは僧院長のところへ?
もちろん行きます。
林を通って僧院長のところへ向かう一同。
ミウーソフは憎々しげにイワンの顔を見る。『こいつはまるで何事もなかったような顔で食事の席に出ようとしていやがる』
7 野心満々たる神学生
「アリョーシャは長老を寝所へみちびいて、寝台に坐らせた。」それは小さな部屋だった。
長老はアリョーシャに、僧院長のところへ行って食事の給仕をせよ、と。お前は向こうに必要なのじゃ……
長老は、自分が神に召されたらお前は僧院を出て行くのじゃ、とも言う。おまえはこれから多くの遍歴をつづけねばならぬ……俗界での大きな苦行がおまえを待っている……。
アリョーシャは動揺する。
アリョーシャは出て行く。兄のドミートリイに対するあのお辞儀が何を意味するのか、尋ねそこねた。
僧院に駆けつけようと僧庵の外へ出た時、彼は突然心臓を締め付けられたように感じる。長老の死の予感に圧倒される。林の小道を歩いていく。そこでは誰とも行き会うはずはなかったが、ラキーチンに出会う。彼は誰かを待っていたのだ……。
「僕を待っていたんじゃないの」とアリョーシャ。
「そのとおりだよ」にやりと笑うラキーチン。ときにアレクセイ、あの長老のお辞儀はいったい何の意味があるんだい?
知らないよ……
どうせいつもの馬鹿ばかしいやり口だろう……今に町中の信者が騒ぎ出して、噂をひろめる……あのご老体は君の兄と金持ちの父親との間に犯罪を嗅ぎつけたのさ……万一の場合に備えておでこをこつんとやっておいたんだ……あとで何か起これば、『ああ、これはあの聖なる長老様が予言なさったことだ』ということになるからね……
犯罪ってどんな?
白っぱくれるない! 賭をしてもいい、君自身いままでにこのことを考えたことがあるはずだぜ……さあ、君は嘘は言わない男だ、このことを考えたことがあるかないか、返事をしてもらおう
あるよ
ラキーチン面食らう。ほんとうに?
「僕は……僕は、別に考えたってわけじゃないよ」とアリョーシャはつぶやいた。「ただ、君が今あんまり妙なことを言いだしたものだから、僕も考えたことがあるような気がしたんだ」……ところでどうして君はそんなことに関心を持つんだ?
今日、僕は君の兄貴のドミートリイ・フョードロヴィチの正体を見抜いてしまったからね……ああいうきわめて正直だが色情の強い男は、決して踏み越えてはならない一線を踏み越えられると、ナイフでぶすりとやってしまうのさ……
それだけのこと?……それならそこまで行きっこないさ
それじゃ、どうして君はそんなにふるえているのさ……しかし、あんな色情魔の兄と父親を持っているのに、なぜ君はそんなに清純なんだろうな? だって君もカラマゾフじゃないか……
君はあの女性のことで考え違いをしているよ……
グルーシェンカのことで? いやいや、これには今の君にはわからない事情があるのさ。肉欲というものの恐ろしささ……ねえアリョーシャ、君はおとなしい男だ、聖人だ、これには僕も異存はない、しかし君もやっぱりカラマゾフだ……親父からは色情を、おふくろからは宗教狂人の血を受け継いでいるんだ……「ときに、僕はグルーシェンカから頼まれているんだ、『あの人を(つまり君のことだがね)連れて来て頂戴、あたしあの人の僧服を脱がせて見せる』って。それも、連れて来い、連れて来いって大変な頼みようなのさ。〔伏線〕」……
僕は行かないよ……とアリョーシャ。それよりも、君が言いかけたことを終りまで言ってくれ……
終りまで話すも糞もない、すべては明瞭だもの。カラマゾフ一家と言えば色情狂、強欲、宗教狂人! 君のイワンもだ、無神論者でありながら、ある馬鹿げた人知れぬ打算から、冗談半分に神学的な論文を雑誌に書いたりして。それどころか彼は上の兄貴のミーチャからいいなずけを横どりしようとしている〔伏線〕。ミーチャはミーチャで一刻もはやくいいなずけと縁を切ってグルーシェンカのところへ駆け込みたがっている。その行く手をさえぎっているのが、急にグルーシェンカにのぼせあがったお親父さんだ。「グルーシェンカは以前あやしげな酒場か何かの仕事で親父さんに使われて給料をもらっていたんだが、近頃になって急に彼女の器量に気づいた親父さんが、見なおして、のぼせあがって、しきりに言い寄りはじめた。」一方グルーシェンカは、どっちつかずの態度を取ってご両人を手玉に取っている。親父には金はある。だが結婚するとなれば可能性があるのはミーチャの方だろう。「いいなずけを、まれにみる美人で、金持ちで、士族の生まれで、大佐の令嬢であるカチェリーナをおっぽり出して、年取った商人の、道楽者の百姓で町長のサムソーノフのお妾だったグルーシェンカと結婚する!」こうしたあらゆる事情がからめば、立派に犯罪的な衝突が起こり得るのさ。君の兄貴のイワンはそれを待ってすらいる。恋焦がれているカチェリーナは手に入るし、六万ルーブリからの持参金もついてくるだろう。これはイワンのような素寒貧の青二才には誘惑的な餌だ。カチェリーナだってイワンみたいな魅力的な男を最後まで拒み通せるものじゃない。〔★以上、事情通ラキーチンによる状況まとめ〕……しかしあのイワンはどうして君たちみんなを丸めんこんだんだろうなあ、だって君たちはみんな彼をあがめんばかりじゃないか……ところが向こうじゃ君たちを笑っているんだぜ……〔ラキーチンの解釈・意味レベルは表層的〕
なぜそんな断定的に言うんだ……
「それじゃ、なぜ君は今そうたずねながら、僕の返事を恐れているんだ、つまり僕の言ったことが本当だと自分で認めているんじゃないか」
君はイワンが嫌いなんだ……イワンは金で誘惑されるような男じゃないよ
ならばカチェリーナの美貌はどうだい?
イワンはもっと高いところを見ているよ……イワンが求めているのは金や安らぎじゃない……苦悩かもしれない
これはまたとんだ夢物語だな
いや、イワンは嵐のような魂の持ち主なんだ、兄さんは数百万の金は必要ないが、思想の解決を必要とする人間のひとりなんだよ
それは剽窃だぜ、アリョーシャ、長老の言葉の焼き直しだ。ラキーチンはイワンへの憎悪を隠さない。「思想の解決? そんなものはわざわざ知恵をしぼって解くまでもない、ちょいと頭を働かせればすぐわかることだ……さっきも彼の『来世がなければ善行もない、とすれば何をやっても赦される』という愚劣な理論を聞いたがね、あれは悪党には誘惑的な論理なんだ……要するに、肯定しても否定してもどちらもそれなりに正しい、ってだけのことじゃないか……人類は来世を信じてなくても、善行のために生きる力を自分で自分の内部に見つけるだろう……自由への愛、平等や同胞への愛のなかに見つけるだろう……〔ラキーチンは作品内部の批評家的ポジション。『罪と罰』におけるポルフィーリイ、『白痴』におけるエヴゲーニイ・パーヴロヴィチのようなもの〕
ラキーチンは言いながら興奮してくる。いや、もうやめよう……君は何を笑っているんだ? 僕を俗物だと思っているのか?
違うよ、君を俗物だなんて思わない、君は頭のいい男だ……ただ……君があんまり夢中になるもんだから、今ふと気が付いたのだけど、君もやっぱりカチェリーナさんに気があるんじゃないのかい、そのために君はイワンを嫌いになれないのさ……
そして彼女のお金にも嫉妬していると?
いや僕はお金のことなんか言うつもりはない……
君の言葉だから信じておこう。それにしても君たち兄弟は実際いまいましい連中だぜ! カチェリーナ・イワーノヴナのことを別にしても、僕はイワンをどうしても好きになれないんだ……それにどうして好きにならなけりゃならないんだ? 向こうでわざわざ僕の悪口を言ってくれているんだぜ……おとといカチェリーナ・イワーノヴナの家で僕のことをさんざんこきおろしたそうだぜ……僕が教区長に出世する夢を捨てて、出家剃髪を断念すれば、きっとペテルブルグへ行って大雑誌にわたりをつけ、健筆を揮い、雑誌の色合いを自由主義的な無神論的かつ社会主義的な傾向にしてしまう……その雑誌の予約金はがっちり当座預金に要れ、ユダヤ人指導のもとにその金を回転させ、やがてペテルブルグに大ビルディングを建てる……君の兄貴の説によると、僕の出世街道の終着点はそうなるそうだ……イワンはそのビルを建てる場所まで予言したよ……
アリョーシャは愉快そうに笑う。いや、ほんとにそうなるかもしれないよ……しかし失敬だけれど、いったい誰がそんな詳しい話を君に伝えたの? だってイワンがその話をした時、君はカチェリーナさんの家にいなかったんだろう
僕はいなかったが、ドミートリイがいたのさ。僕はドミートリイからこの耳できいた。〔情報伝達設計〕といっても、僕が立ち聞きをしたんだ、というのは、ドミートリイが隣りの部屋に来ていたあいだ、僕はグルーシェンカの家で寝室に閉じ込められて出るに出られなかったので
「そうそう、忘れていたけど、あの女は君の親戚に当たるんだってね……」
ラキーチン顔真っ赤に。とんでもない! 僕がグルーシェンカの親戚でたまるもんか、あんな淫売の、──よしてくれ!
ご免よ……つい言っちまったんだ……でもどうしてあの人が淫売なんだい……ほんとうにそんな女なのかい?……くどいようだが、僕はほんとうに親戚だって聞いていたんだよ、君はよくあの人の家へ行くし……まさか君がこんなにあの人を軽蔑しているとは思わなかったよ……
僕が訪ねるのは理由があってのことさ。しかしもう君の相手はたくさんだ。親戚関係と言うなら、君の兄貴か親父さんが僕じゃなしに君をあの女の親戚にしてくれるほうが早そうだな。「さあて〔僧院に〕着いたぞ。君は料理場からはいったほうがいいな。やっ! 何事だ、どうしたんだろう。遅すぎたのかな。こんなに早く食事がすむはずはないんだがなあ。それともまたカラマゾフの一族が何かやらかしたのかな。きっとそうだ。ほら、あれは君の親父さんじゃないか、後ろから来るのはイワンだ。僧院長のところから飛び出して来たんだ。見ろ、イシードル神父が階段の上から何か叫んでいる。君の親父さんも叫んで、両手を振りまわしているぞ。きっと悪態をついてるんだ。やっ、ミウーソフまでが馬車で帰るところだ。ほら、走って行くだろう。地主のマクシーモフも走っている。──悶着が起こったんだ。つまり食事はなかったんだ。まさか僧院長を張りとばしたんじゃないだろうな。それともあの連中が張りとばされたのかな。それならいい気味なんだが。……」
実際、前代未聞の騒動が起こったのである。
8 醜態
「ミウーソフはイワンと一緒に僧院長のいる建物へはいった時、まことに上品な慇懃な紳士らしく急にある微妙な心境の変化を起こして、腹を立てているのが恥ずかしくなって来た。」愚かしいのはフョードルだけだ。坊主どもに何の罪はない……。
彼は僧侶たちにおおらかな気持ちになって、僧院あいての訴訟も全部取り下げようという気になる。
「こうした殊勝な決心は、一同が僧院長の食堂へはいった時、いっそう強まった。」食堂は長老の庵室よりずっと広くて便利に出来ていた。食器も清潔。「あとでラキーチンの話したところによると、……」料理は蝶ざめのスープやボイルド・フィッシュや魚肉コロッケやアイスクリームやブラマンジェ風のジェリイ。ラキーチンはわざわざそれを嗅ぎ出してきた。「ラキーチンはいたるところに渡りをつけて、どこででも何かしら聞き出して来るのである。彼は非常に落ち着きのない、ねたみ深い心の持ち主で、自分の優れた才能を十分に自覚はしていたが、うぬぼれてその才能を病的に誇張する癖があった。彼は自分がいずれ事業家になると確信していたが、彼と大そう仲の好かったアリョーシャが苦にしていたのは、彼が不正直な男のくせにそれをまったく自覚しないばかりか、テーブルから人の金を失敬しなければ、それで自分は非常に正直な人間だと思い込んでいることだった。……」
ラキーチンは食事に招かれていない。ミウーソフとカルガーノフとイワンがはいって行った時、席にはさっきの修道司祭とマクシーモフ。僧院長はたくましい老人。客を祝福。
ミウーソフがいきなり詫びを入れはじめる。フョードルを伴っていないが、それは理由ないことではない。さきほどゾシマ長老の庵室で不謹慎な事態が持ち上がった。そのことはもう(と言って彼は修道司祭たちのほうをちらりと見た)僧院長様のお耳にも達しているだろう……当人も自分の非を認めている、当人に代わって、心からの遺憾と後悔をあなたにお伝えいたします……
「この長広舌の最後の数語を言い切ってしまうと、彼はすっかり自分に満足して、さっきの胸中のいらだちなど跡かたもなく消えてしまった。彼はふたたび人類を完全に心から愛していた。……」〔ミウーソフの卑小さ〕
僧院長頭を下げる。食前の祈祷。
「フョードルが最後の悪ふざけをやってのけたのは、ちょうどその時である。……」彼はほんとうに帰るつもりだったし、自分の行動を反省してもいないが、食事の席に連なるのは不作法だろうと感じていた。「ところが、宿泊所の玄関先へ彼のぼろ馬車がまわされて来た時、フョードルは乗りかけた足を急に止めた。さっき長老の庵室で言った自分の言葉が、ふと思い出されたのである。」あたしゃどこへ言ってもみんなから道化扱いされる、ようし、そんならこっちもほんものの道化者になってやろう、どうせおまえたちもみんな一人残らず馬鹿で卑劣な連中なんだ……。つまり根拠不明の復讐心が彼に沸き起こった。以前にもこんなことがあった。彼は『どうしてあんたは誰それをそんなに憎むのかね』と問われて、『なるほどあの男はあたしに何もしなかった。卑劣な真似をしたのはあたしのほうさ。ところが卑劣な真似をしたとたんに、あたしゃあの男が憎くてならなくなったんだ』今彼はそのことを思い出しながら毒々しく笑う。『はじめたからには、とことんまでやっちまえ、遠慮はいらねえ!』
御者に待ってろと言いつけて、足早に僧院へ、僧院長のところへ。「これから自分が何をするのか、まだよくはわからなかったが、もう自分で自分を制御できず、ひと突きすればたちまち自分がある醜行の一線を踏み越えるだろうことは知っていた。」だがそれはあくまで犯罪や裁判で罰せられるような乱行ではないだろう、この点にかけては彼はいつも自分を抑えることができた。彼が僧院長の食堂に姿を現したのは、ちょうど祈祷がすんで一同が食卓のほうへ動きかけた瞬間だった。敷居の上に立ち止まり、一同の顔を見まわして、厚かましい笑い声を立てる。
「帰ったと思っておいでか? このとおりここにおりますぞ!」
一同黙り込む。ミウーソフのおおらかな気分は一転して凶悪なものに。
「だめだ、僕はもう我慢できない……!」
何がだめなんでございましょうな、僧院長様、はいってよろしゅうございますか、陪食をお赦しいただけますかな
僧院長は「ぜひにとお願いします」と許可するのだが、ミウーソフは「いや駄目です」と言う。
フョードルの難癖。ミウーソフさんが帰るなら、あたしも帰りましょう、あんたがここに残るならあたしも残る、あんたがあたしを親戚と認めようとしなくてもね、「そうだろう、フォン・ゾーン? ほら、そこに控えておりますのがフォン・ゾーンでございます、いよう、フォン・ゾーン君」
マクシーモフびっくり。
むろんお前がフォン・ゾーンだ。僧院長様、そういう犯罪事件がありましてな、淫乱の家で殺されて、みだらな踊り子達に葬送された男、これがフォン・ゾーンなる男でしてな、その男が黄泉の国からよみがえって来た、な、そうだろう?
なんということだ、所もあろうに!と修道司祭。
ミウーソフはカルガーノフに帰ろう、と言う。
「待ってください! 言うだけのことは言わせてください!」と甲高い声で喚き出すフョードル。ミウーソフさんは誠実さよりも上品さを好みますがね、あたしは上品さより誠実さを好みますんでな、な、そうだろう、フォン・ゾーン? あたしは道化者ですが名誉の騎士、このミウーソフ殿は窮屈なる自尊心の塊にすぎませぬ〔この観察は当たっている〕。あたしが今日こちらへうかがいましたのは、この目でしかと拝見して、意見を述べるためでございます……こちらの僧院にはせがれのアレクセイがお世話になっておりますが……あたしはせがれの身の上が気に掛かるわけでございます……わが国の現状はいかなりや?……
ここでフョードルは懺悔の秘事を濫用してるだとか何とか長老制度の批判しはじめて、最後に「あたしはさっそく宗務院に投書をして、せがれのアレクセイを家へ連れて帰ることにいたしましょう」と言うのだが、それは世間の馬鹿げた噂や非難を剽窃しただけのこと。彼自身でもその非難の意味がよく分かっていなかったし、その非難を上手に言い表すこともできなかった。しかし言い始めてから、自分が馬鹿なことを話してしまったのだという自覚はあり、すると却ってすぐさま自分を抑えることができなくなって、彼は口を開けば開くほど自分の馬鹿話に輪をかけることになるのを承知していながら、さらにまくし立てたのだった。
たわけ者め! ミウーソフ叫ぶ。
僧院長は聖書の文句を引用して、人々のけがらわしき言葉も、キリストの医薬だなどといって平静を装う。
「ちぇっ、ちぇっ! 偽善と陳腐な言葉ですな」フョードルは侮蔑の言葉を吐き散らす。口には接吻、胸には刃ってわけだ。あたしゃ偽善ってのが大嫌いでね、真実が欲しいんでさ。川ぎすの中には真実はありませんや。あんたらは何だって精進なんかなさってるんです? 精進で天国のご褒美が貰えますかね?──彼は食卓の上のご馳走に目をつける──こいつぁ豪勢だ。誰がこうしたものを僧院へ持って来たんでしょうな? ロシアの百姓だ。あんたたちはね、尊いお聖人様方、民衆の生血を吸っておいでなんでさ……
ミウーソフとカルガーノフはもう逃げ出した。
それじゃ神父さん方、あたしもミウーソフさんの跡を追いますぜ! あたしゃ二度とここへは参りません、あたしが千ルーブリを寄進したことがあるもんだから、あなた方はまた目を皿にして待っていたんでしょうがね……いやなこった……あたしゃあたしの受けたあらゆる侮辱に、今こそ復讐してやるんだ……このろくでもない僧院は、おれの生涯に大きな意味を持ちやがった……あの狐つきの女房をおれに反逆させたのもあんたたちだ……七つの教会会議でおれを呪いやがって……もうたくさんだ!
「ふたたび断っておくが、わが僧院が彼の生涯にそんな特別な意味を持ったことは一度もなかったし、また彼が僧院のおかげでつらい涙を流したこともなかったのである。ところが彼は、自分で作りあげた涙話にあんまり夢中になって、一瞬、自分でもあやうくそれを信じそうになった。感激のあまり泣き出しかけたほどである。しかし同時にその瞬間、彼はそろそろ引き上げる時だと感じた。……」
僧院長はまた聖書を引用して、平静を装う。
ちぇっ、ちぇっ、なんたる偽善だ、ちんぷんかんぷんだ。まあせいぜい偽善を大切に、あたしゃ帰りますぜ。せがれのアレクセイは親の権利で今日かぎりここから引き取らせてもらいます……さあ、イワン、帰るぞ、それからフォン・ゾーン、おまえもここに残ることはあるまい、今すぐ町のおれんところへ来い、楽しいぜ。子豚の丸焼き、コニャック、リキュール、木苺酒……おいフォン・ゾーン、てめえの幸運を逃すなよ
「彼は身振り手真似を入れてわめきながら外へ出た。ラキーチンが彼の出て来るのに気づいてアリョーシャに指さしたのは、ちょうどその瞬間だったのである。」
フョードル、アリョーシャに僧院を引き払っておれの家に引っ越して来い、と命令する。
アリョーシャ棒立ち。フョードルとイワンは馬車に乗り込む。「ところがその時、今日の事件の最後の仕上げに、滑稽な、ほとんど信じられないような一幕が演じられた。突然、馬車の踏み段のそばに、地主のマクシーモフが現われたのだ。彼は遅れまいと息を切らして駆けつけたのである。……」
私も、私もご一緒に! 満面の笑み。
こいつはやっぱりフォン・ゾーンだ! 黄泉の国から生き返ったフォン・ゾーンだ! それにしてもよくあそこからずらかって来たな、ご馳走をすっぽかして、よっぽど面の皮が厚くなけりゃできないことだぜ、おれの鉄面皮は言うまでもないが、おまえのには、兄弟、驚いたよ。さ、飛び乗れ、早く乗れ、入れてやれよイワン、にぎやかになっていい……
ところがその時、もう座席に坐っていたイワンがマクシーモフを突き飛ばす。二メートルあまり吹っ飛ぶ。
「やれ!」とイワンは憎々しげに御者に怒鳴った。
「どうしたんだよ。どうしたんだい。何だってお前はあの男を?」フョードルがこう叫んだ時には馬車はもう走りだしていた。イワンは返事もしなかった。
「まったくお前って男は!」二分ほど黙っていてから、ふたたびフョードルが息子の顔を横目でのぞきながら言った。「今日の僧院の会合を計画したのはお前なんだぞ〔伏線回収〕。お前がそそのかしたんだぞ、お前が行こうと言ったんだぞ。今になって何を怒っているんだ」
「馬鹿なこと言うのはたくさんです。少し休んだらどうです」とイワンが乱暴に答えた。
フョードルはふたたび二分ほど黙り込んだ。
「こんな時こそコニャックの一杯がきくんだがなあ」と彼は気取った口調で言った。しかしイワンは相手にならなかった。
「帰ったら、お前も一杯やるかい」
イワンは相変わらず黙ったままだった。
フョードルはさらに二分ほど待った。
「だが、アリョーシャはやっぱり僧院から引き取るぞ。お前にはさぞかし不愉快なことだろうがな、尊敬すべきカルル・フォン・モール君」
イワンは軽蔑したように肩をすくめると、そっぽを向いて馬車の外を眺めはじめた。それきり家へつくまで、ふたりは口をきかなかった。
▼第三篇 色きちがい
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1 下男部屋で
「フョードル・パーヴロヴィチ・カラマゾフの家があったのは、町の中心街でもなければ、町はずれでもなかった。……」時間を中断して説明的ディエゲーシス。フョードルの家。平屋。ねずみが沢山。召使は別棟。大家族向きの家だが、今は母屋にフョードルとイワン、別棟の下男部屋にはグリゴーリイ爺やとその妻マルファ、若い下男のスメルジャコーフが住んでいるだけ。
「この三人の召使のことは、多少くわしく話しておかねばならない。……」老僕のグリゴーリイ・ワシーリエヴィチ・クトゥーゾフ。頑固一徹な男。正直で私欲がない。農奴解放直後でも主人を見捨てなかった。
グリゴーリイは主人のフョードルに対してある勢力を持っていた。フョードルは或る方面のことには向こうっ気が強かったが、その他の方面のことには気が弱かった。そのために一人でも自分に忠実な人間がいないと心細かったのだが、グリゴーリイこそうってつけの男だったのだ。ただ危機に陥るというのではなく、世にも淫蕩な、肉欲のためにはしばしば害虫のように残忍なフョードルでさえ、酒に酔った時など急に精神的な恐怖と道徳的衝撃を感じて、『魂が喉のあたりでふるえている』みたいになる、彼が自分のそばに、せめて別棟に、忠実な、しっかりした、淫蕩とは無縁な、昔なじみの、他の人間がいてほしいと思うのはそんな時だった。大事なことは、その人は眼の前で行なわれるあらゆる乱行を目撃していながら、この世のことでもあの世のことでも決してフョードルをおどかしたりしてはならない。アリョーシャが帰ってきたとき、フョードルはそのような人間をまた見出した。しかもアリョーシャは老人に対してまったく軽蔑の気持ちを抱かず、むしろ優しい素直な愛情を示したのだった。
グリゴーリイはもったいぶった男で口数の少ない男だったが、妻を愛していた。妻の方もおとなしく夫に従って、夫を心から尊敬していた。
二人は子供を授からなかった。赤ん坊がひとり生れたが、すぐに死んでしまった。グリゴーリイは子供が好きで、だからこそミーチャやイワンやアリョーシャの世話をしたのだが、自分の子供のことで彼が喜んだのは、マルファが妊娠して期待に胸をふるわせていたあいだだけだった。「いざ生れた時には、悲しみと恐ろしさで彼の胸はつぶれんばかりだった。それというのも、その男の子が六本指だったからである。それを見ると、グリゴーリイはすっかり打ちのめされて、洗礼の当日までむっつり黙り込んでしまったばかりか、口をきかずにすむようにわざと庭に出ていた。ちょうど春先だったので、彼は三日間ずっと庭の菜園を耕していた。赤ん坊の洗礼は三日目に行なわれるきまりだったが、グリゴーリイはその時までに何事か思案をつけたらしかった。司祭や客が集まり、最後に主人のフョードルまでが名付親の資格でわざわざ姿を見せた自分の小屋へはいると、彼はとつぜん『洗礼は必要ございません』と宣言した。それも大声で言ったわけでも、くどくどと喋ったわけでもなく、ただぼそぼそとそう言って、そう言いながら鈍い目つきでじっと司祭の顔を見つめた。」
みんな大笑いして当然赤ん坊にそのまま洗礼をほどこした。赤ん坊は二週間後に病死。それ以来、彼は《神様のこと》に夢中になりはじめた。大きな丸い銀縁の眼鏡をかけて『殉教者伝』を読み始めた。鞭身教の教義にも耳を傾けるようになった。
「さらにまた、まるでわざとのように、六本指の子供の誕生とその死という事件に符合するもうひとつの世にも奇怪な、思いがけない、類例のない事件が起こって、その事件が、のちに彼自身が言ったように、彼の心に《烙印を押す》ことになった。」〔ってことはグリゴーリイが《神様のこと》に夢中になる前の出来事か? 時間を前後させてタイミングを合わせている〕というのは六本指の赤ん坊を埋葬したその日のこと、夜中に生れたばかりの赤ん坊の声が。木戸の近くにある湯殿で、リザヴェータ・スメルジャーシチャヤというあだ名の、白痴の宗教狂女が、いままさに赤ん坊を産み落としていたのだ。母親は死にかけていた。
2 リザヴェータ・スメルジャーシチャヤ
「これにはグリゴーリイが以前から抱いていたある不愉快な汚らわしい疑惑を決定的に強めて、彼に激しい衝撃を与えたある特別な事情があったのである。」
リザヴェータ・スメルジャーシチャヤ。当時二十歳になる不気味な白痴の娘。夏も冬も麻のシャツ一枚で過ごしている。身体は頑丈でいつも野宿。
彼女の母はずっと以前に死亡。父親は父親としての責任を放棄。やがてその父も死ぬと、町の人々は彼女に情けをかけ、それで生きつづけることができた。しかし彼女はいつも黒パンと水しか口にせず、それ以上のものを貰うと教会か刑務所に行って慈善箱に入れてしまう。だから誰も彼女が店先で盗みを働く心配はないと分かっていた。
「さて、ある日のこと、……」酔いどれの遊び人の紳士たちの一団が、家路をたどっている最中にリザヴェータの姿を見つけた。酩酊した紳士たちは悪乗りして、「こんな白痴を女として扱うことができるだろうか?」などと話し始めた。この一団の中にフョードルがいて、自分には彼女を女として扱うことなんかわけはない云々と言い切った。それは、ちょうど彼がペテルブルグから最初の妻アデライーダの訃報を受け取ったばかりの時期で、帽子に喪章もつけていたので、醜悪さは限りがなかった。一団は爆笑してどんどん先へ歩いて行った。のちにフョードルはそのとき自分もみんなと一緒に立ち去ったと懸命に言い張った。誰ひとりいまだにそれを確かに知っている者はいない。ところがそれから五、六ヶ月経って、リザヴェータが大きな腹をして歩くようになった。誰が彼女を凌辱したのか? 犯人はあのフョードルだという噂が立った。フョードルは弁解しなかった。
グリゴーリイは猛然と、これらの中傷に対して主人を弁護した。ところが、コンドラーチエワというある裕福な商家の未亡人に憐れみから引き取られていたリザヴェータは、いよいよ明日がお産という日になるとこっそり抜け出し、フョードルの家の庭に現れたのである。赤ん坊は助かったが、母親は明け方に死んだ。グリゴーリイがマルファに言うことには、「こいつはうちの死んだ赤ん坊が授けてくれたもので、悪魔の息子と信心深い女子のあいだに生れた子供だ、育ててやれ」
フョードルは別に反対もせず、それを面白がっていたけれど、やはり例の一件はその後も一生懸命否定しつづけた。この捨て子はスメルジャコーフと名付けられた。これがフョードル家の第二の下男で、料理人として、この物語のはじめの頃、別棟に住んでいたのである。このスメルジャコーフについては、この物語が進むにしたがってまた詳しく触れる機会があるだろう。
3 燃える心の懺悔──詩に託して
〔第二篇末からの続き。すでに第二篇の会話の中で、カチェリーナ、グルーシェンカ、スネギリョーフにまつわる伏線が仕込まれていたが、それをここからの数章で爆発的に展開させつつ、フョードル殺害にいたるまでのすべての前準備を書き込むことになる。多少無茶と思えるほどの勢いで会話の中に伏線を仕込んでいかないと、一つ一つの場面が有機的に繋がっていかない? リーザなんてほとんどカチェリーナの手紙を渡すという伏線を中継するために登場したようなものだったし……『白痴』のレーベジェフのように。脇役の造形がまず伏線を中継するという役割から発想されることもあるのか?〕
アリョーシャは僧院を出て行く父の命令を聞いて呆然としたが、すぐに僧院長の台所へ駆けつけて、一部始終を聞き出した。あらかじめ断っておくが、彼は《蒲団や枕をかついで》帰って来いという父の命令を本気には取らなかった。あんなのはいわば芝居にすぎないと分かっていた。それに彼は、父親が自分を侮辱などするはずないと確信していた。
「けれどもその瞬間、彼の内部にはある別の恐れがうごめいていた。」それは、さっきホフラコーワ夫人の届けてくれた手紙の差し出し主、カチェリーナ・イワーノヴナに対する恐怖。それはさきほどの庵室や僧院長の食堂で起こったさまざまな騒動よりも、彼を悩ました。彼は女のとしての彼女を恐れたわけではない。彼は、はじめて会った時から彼女を恐れていた。彼女は美しい。誇り高い。その上自分を裏切った兄のドミートリイを寛大にも救おうとしている。にもかかわらず、カチェリーナの家に近づくに従って、彼は寒気を感じるのだった。
彼はカチェリーナに会う前にドミートリイに会いたかったが、ドミートリイの住まいは遠かったし、多分今は家に居ないだろう。彼は意を決して、婦人の家へ向かって歩き出した。
この町は小さいくせに人家がやたら分散しているので、道順によってはかなりの距離になる。彼は裏道を抜けて近道をしようと決めた。その途中に一箇所、父の家のすぐそばを通らなければならない場所があった。父の家の庭と隣り合った別の家の庭を通るのだ。その隣家の持ち主は娘とふたりで暮している足の不自由な老婆。マルファはこのふたりによく食事を分けてやっていた。今、アリョーシャはこの隣家の庭まできて、「と、……その時、とつぜん思いもよらぬ人物とばったり顔を合わせたのである。」
隣家の庭に兄のドミートリイが何かによじ登って胸を乗り出しながら、アリョーシャに合図。アリョーシャ駆け寄る。
お前が来てくれてほんとうによかった! さあ行こう!
どこへ行くの
おれはここにこっそり忍び込んで、人の秘密を見張ってるんだ……。さあ行こう、あそこへ!
庭は三千坪くらいの広さ。そのひとすみにあずまや。ドミートリイは弟をそこへ連れて行く。
坐れよ……おれはな、アリョーシャ、世界中でおれが愛しているのはお前ひとりなんだからな!……それともう一人《卑しい女》がいる。おれはその女に惚れて、身を滅ぼしてしまった……さあ、このテーブルの前に坐れよ、おれは何もかも話してやるからな……おれはお前だけに何もかも話そうと思ったんだ……どうだい、午後の三時すぎだというのに、この静けさ! お前はどこへ行くところだったんだね?
お父さんのところへ、でのその前にカチェリーナさんのところへ
ちょうど良かった! おれがお前を呼んだのは、おれの代わりに親父のところへ、それからあのカチェリーナ・イワーノヴナのところへ行ってもらって、すべてにけりをつけようと思ったからなんだ
ドミートリイ考えこむ。アリョーシャ、カチェリーナの呼び出しの手紙を見せる。
それにしても、お前が裏道づたいに来てくれたとはなあ! 神様、感謝します……アリョーシャ聞いてくれ、今こそおれは何もかも話すつもりなんだ……アリョーシャ、おれは……自分の懺悔を……シルレルの歓喜への賛歌で始めたいんだ……
ドミートリイは前置きの駄弁を長々とする。アリョーシャは腰を据えて待つことにする。
アリョーシャ、おれは堕落の底にいるんだよ、今も堕落の底に沈んでいるんだ……おれがとつぜん賛歌を歌い出すのは、その恥辱の底に落ち込んだときなのさ……
おれがこれから話そうと思うのは、神様から色欲をさずかった虫けらのことなんだ……おれはつまり虫けらなんだ……何しろ色欲ってやつはあらしだからな、いや、あらし以上だ!……人間のなかには恐ろしいほどの矛盾がある……ソドムの理想を胸に抱いた人間が同時にマドンナの理想も否定しない……おまえにはこの秘密が分かるかい……?
じゃ、いよいよ肝心な話に入るぜ……
4 燃える心の懺悔──秘密に託して
〔登場人物の語りによって、過去の文脈を導入、カチェリーナの伏線を爆発的に膨らませる。〕
おれは向こうで放蕩に耽っていた。俺は淫蕩を愛した……。しかし相手の女の名誉を傷つけるようなことはしなかった。俺は卑しい欲望を抱いて、卑しい行為を愛しちゃいるが、決して恥知らずな男じゃないんだ。
俺の悲劇の話。俺は今まで誰にもその話をしたことはない……もっともイワンは別だ。イワンは何もかも知っている。しかしあいつは口が固いからな……
俺は向こうで常備軍大隊に見習い士官として勤務していた。大隊長の中佐の老人は、二度結婚して二度女房に死なれていた。俺はその姉娘のアガーフィヤと仲良くなった。といっても、親友同士の、清らかな付き合いだ。
そのうち、中佐の二番目の娘が都からその町へやって来るという噂が立った。これがあのカチェリーナ・イワーノヴナでね、都の貴族女学校を卒業したとう触れ込みだった。
さて、いよいよその女学校出がやって来た。町中が彼女を歓待してピクニックの女王に祭り上げた。俺は知らん顔をして遊びまくっていた。彼女のほうも俺には見向きもしなかった。いつしか俺は今に見ていろ、彼女に仕返ししてやるぞ、と思うようになったが、それは、カチェリーナがただの無邪気な女学生じゃなくて、気性のしっかりした、誇りの高い、品行方正な女性で、そのうえ頭も良ければ教育もあるのに、一方俺にはその両方が欠けているってことを痛感したからなんだ。……親父が六千ルーブリ送ってきたのはちょうどそのころだった。これ以上は決して請求しないという証文と引き替えにね。そのころ俺は親父との金銭関係がどうなっているかさっぱり知らなかったんだ。……「さて、その六千ルーブリを受け取ったころ、おれはある友人からの手紙で、突然このおれにとって非常に興味のある事柄を知ったんだ。……」例の中佐が職務怠慢の疑いで、辞表を出せと命令されたのだ〔+α〕。すると急に、彼とその家族に対する人々の態度が冷たくなった。
「おれの最初のいたずらがはじまったのはその時だった。……」姉娘のアガーフィヤと会った時にこんな会話を。実は、あなたのお父さんの保管していた四千五百ルーブリの官金がなくなったんですよ……。なんですって、そんな馬鹿な、誰からお聞きになったんです? ご心配はいりません、僕は誰にも言いませんから、ただ、もしお父さんがその四千五百ルーブリの請求を受けて、そのお金がないとなると、軍法会議に掛けることになりますね……そんなことになるぐらいなら、いっそお宅の女学生さんをこっそり僕のところに寄越しちゃどうです? ちょうど僕は送金を受けたばかりで、四千ルーブリなら差し上げられますよ。まあ、あなたって人はなんて卑劣なんでしょう! ──だがアガーフィヤはこの話を妹に伝えたのだ。ミーチャにすればそれがつけめだったのだが。
やがて突然新任の少佐が大隊を受け取りに来た。だが老中佐は急に病気になって動けないと言って、引継ぎの事務をすすめようとしない。実際には、(ミーチャの調べたところによると)、中佐は官金を、当局の監査がすむといつもその五、この町の商人の一人に預けて殖やしてもらっていたのだ。ところがこの時にかぎって、(ミーチャはその時まったく偶然その商人の息子で相続人の、よだれをたらした青二才から聞き込んだのだが〔情報伝達設計〕)この商人が金を返そうとしない。「あたしは金なんか一度だって拝借した覚えはねえ」という答えだ。さあ、中佐は家に引きこもってしまった。「ただちに、即刻に時間以内に官金を提出せよ」という最後通牒。中佐は猟銃で自殺しかけたが、アガーフィヤによってとめられる(これはミーチャがあとで詳しく聞き出したこと)。さて、その時俺は家にいた。ちょうど日暮れ時で、外出しようと思って服を着替え、髪をなでつけ、帽子を取りあげたところだった、そのとき不意にドアが開いて、──目の前に、俺の部屋に、カチェリーナ・イワーノヴナがはいって来たのだ。
「世の中にはふしぎなことがあるものだなあ。そのとき彼女がおれのところへ来るのを、誰ひとり通りで見かけた者はいなかった。それでこの一件は町の噂にのぼらずにすんだのだ。……」ミーチャは役人と未亡人の、二人の婆さんの家に下宿していた、この婆さんたちはミーチャの言いなりで、その後も鉄の柱のように口をつぐんでいてくれた〔時間幅を過去へ広く取った文脈の導入+「町の噂にならなかった」所以の補強〕。
カチェリーナ曰く、姉からうかがいましたら、わたしがこちらへ一人で頂戴に上がったら、四千五百ルーブリ下さるそうで……わたくしまいりました……
ミーチャに最初浮んだ考えはカラマゾフ的なもの。彼女は崇高にも父親のためにわが身を犠牲にしようというのに、俺は卑劣で南京虫だった。しかも彼女のすべては、精神も肉体も何もかもが南京虫である俺の一存にかかっているのだ。こうした考えの悩ましさに、俺の心臓はあやうく溶けて流れ出さんばかりだった。もっと事を誠実に上品に進めるには、金をただで与えて翌日プロポーズすればいいんだ。だが俺の内部に湧き上がったのは毒念だった。俺は世にも卑劣ないたずらがしてみたくなった。こう言ってやるのさ……「四千ルーブリですって! ありゃ冗談ですぜ、とんだご足労でしたな」
こんな科白には悪魔的な復讐の効果しかない。たといその後、一生のあいだ後悔のほぞを噛むとしても、今はただこの科白が言ってみたい……! 「俺は窓に近づいて、凍りついた窓ガラスに額を押しあてた。すると、今でも覚えているが、氷が火のように額を焼いたっけ。」……心配するな、俺は長いこと待たせはしなかった。テーブルに歩み寄ると、額面五千ルーブリの五分利づき無記名債権を取り出して、だまって 彼女に手渡し、それから丁重に玄関のドアを開けて心からのお辞儀をした。ほんとうなんだ! 彼女はぎくりと全身をふりわせて、蒼ざめて、いきなりおれの足元で、床に額をつけてお辞儀をした。そうしてさっと駆け出して行った。俺はその場で自殺しようと思った。感激しすぎたあまりの自殺ってわけだ……もっとも俺は自殺しなかったが。
これがカチェリーナ・イワーノヴナとの昔のいきさつさ。
5 燃える心の懺悔──《まっさかさま》
ここまでの話が最初の半分。残りの半分は悲劇なのだ……。
「残り半分のことは、僕にはいまだにさっぱりわからないんです」とアリョーシャ。
アリョーシャの質問。兄さんは婚約したんですか、今でも婚約者なんですか?
ミーチャはあの事件のあと三ヵ月経ってから婚約した。六週間ぐらいは何もなかった。中佐の小間使いから五千ルーブリの釣銭が届いた程度。中佐はそれから少しして脳軟化症で死亡。カチェリーナと家族はモスクワへ引っ越していった。その出発の当日に、ミーチャは手紙を受け取る。『いずれお便りします、お待ちになっていてください、K』
「そこから先は簡単に話そう。……」カチェリーナがモスクワへ着くと、彼女の主な親戚筋にあたる将軍未亡人が、一番近い相続人である姪を一度にふたりも天然痘で亡くした。動転した夫人は遺言状をカチェリーナに有利なように書き換えた。さらに八万ルーブリの持参金も与えた。俺はその後すぐ四千五百ルーブリの金を郵便で受け取った。三日経って手紙も来た。彼女からのプロポーズなんだ。『わたしは気違いのように恋しております……わたくしの夫になって下さいまし……あなたの家具に、あなたのお歩きになる絨毯になりますから……』この手紙はいまだに俺を突き刺すんだ。俺は涙ながらに返事の手紙を書き、またモスクワのイワンにも事情を説明した便箋六枚ぐらいの手紙を書き、イワンに彼女のところへ行ってもらった。……イワンは彼女に惚れた。今だって惚れている。……彼女もイワンを尊敬している。なるほど、俺は世間的にみたらばかなことをしたが、俺たちを救ってくれるのはこの馬鹿なことだけかもしれないんだぜ……おれたち二人を比べてみたら、俺みたいな男を愛せるはずはなかろう。ましてや、ここであんなことがあった手前──
俺とイワンを比べてみよう。俺はカチェリーナに比べて精神的に百万倍も劣っている。イワンはあれだけの知性の持ち主だ。……しかも俺は、この町の衆人環視の中で、いいなずけの前で、相変わらず乱行を抑えなれなかった男だ。なぜ俺が選ばれてイワンが袖にされる? それは、あの令嬢が感謝の気持ちから自分の命と運命をねじ曲げようと望んでいるからだ……だがいずれは運命が定まって、資格ある者がその位置に立ち、資格なき者は永遠に横町に身を隠すことになるのさ。……俺は横町の泥濘と悪臭に埋もれて、あの女はイワンと結婚する。
兄さん、待ってください、やっぱり兄さんは婚約したんですね、それならいいなずけのあの人が望まなければ、勝手に破談にできないじゃありませんか
そう、モスクワでな、婚約した。その時彼女は、無理矢理俺に身持ちを改めるという大いなる約束をさせた。おれは約束した。ところが……
どうしたんです?
ところが今日、俺はおまえを呼んでここへ引っ張り込んだのだ。そして今日、おまえを名代に立てて、カチェリーナのところへ行ってもらって……「おれはもう二度とあの人のところへはいかない、宜しく」とあの人に伝えてほしい
それで兄さんはどこへ行くんです
横町へさ
じゃ、グルーシェンカのところへですね……するとラキーチンの言ったことは本当だったんですね……
俺はグルーシェンカのところへ通いはじめるが早いか、たちまち婚約者でもなければ誠実な男でもなくなってしまった! はじめは、親父の代理人をしている例の二等大尉が、おれの名義の手形をあのグルーシェンカに渡して告訴しようとしていたのを突き止めて、グルーシェンカをひっぱたきに俺は行ったんだ。ひっぱたきに行って、そのままあいつの家に居ついちまった。雷に打たれたんだ、ペストにかかったんだ……万事あとの祭りだ。その時、まるでわざとそうしたように、乞食同然の俺のポケットに三千ルーブリという大金がはいっていた〔伏線〕。そこで俺はグルーシェンカを連れて、ここから二十五キロ離れたモークロエ村へ繰り出して、どんちゃん騒ぎをやった。だがあの女は俺を嘲笑しただけだった……
兄さんは本当にグルーシェンカと結婚するつもりなんですか
向こうがその気になりゃ、早速な。……お前みたいなけがれを知らない少年にはわからんだろうが、こいつはみんな悪夢なんだ、無意味な悪夢なんだ!……アリョーシャ、わかってくれ、俺は下等な情欲を持った人間だが、決して泥棒にはなれない。ところが今の俺は泥棒なんだ。例の三千ルーブリというのは、俺がグルーシェンカをひっぱたきに行く前に、カチェリーナから内密に〔何故か秘密にする必要があった……でなければ、ドミートリイに頼むまい〕アガーフィヤ宛てに送金を頼まれた金だったのだ。ところが俺はこの三千ルーブリを懐中にグルーシェンカとモークロエへ繰り出したってわけだ。カチェリーナに対してはいまだにしらばっくれている。……そこでだ、お前が今日行って『兄から宜しく』と言えば、『じゃ、お金は?』ときくだろう……
兄さんは本当に不幸な人ですね! でも、カチェリーナさんはこの悲しい出来事をすっかり理解してくれて、和解してくれます……
あの人は決して和解なんかしないね。「この問題には、女なら決して和解できないある要素があるんだ。」もっとも一番簡単なのは、三千ルーブリ返すことだ……
どうやって? 僕が二千ルーブリ持っているし、イワンも千ルーブリぐらいは出すでしょう……
いや、ぜひとも今日のうちに彼女のところへ行って、宜しくと行ってもらわなければならないんだ、金のあるなしは別にして、何しろ俺はもうこれ以上のばすわけにはいかないからだ……明日じゃ遅いんだ〔プロット設計上の工夫、時間的締め切りの設定〕。じゃまず親父のところへ行ってくれ
お父さんのとこへ?
そうして三千ルーブリ無心してくれ
お父さんはくれっこありませんよ
分かっている。しかし道徳的に言えば親父はまだ俺に借りがあるだろう……
絶対にくれやしませんよ
百も承知だそれは。そればかりか、親父は俺とグルーシェンカを結婚させたくないんだから、わざわざ俺に金をくれて、その機会を手伝うはずがない。それどころか、親父は金があったらむしろグルーシェンカにやって彼女を釣ろうとするだろう、実際に、下男のスメルジャコーフが教えてくれたことだが、親父は五日ほど前に三千ルーブリの金を札束に変え、それを大型の封筒に入れてリボンを掛け、自分の部屋に置いて、グルーシェンカに『取りにおいで』と誘っているんだ(イワンでさえそのことを知らない)〔時間幅を過去へ広く取った文脈の導入、決定的伏線のこの時点での仕込み〕……もう三日か四日、親父はグルーシェンカが来るのを待っている。……さあ、これでわかったろう、俺がなぜこんなところに坐りこんでいるのか? 何を見張っているのか?
あの人を?
そうだ。おれがここで見張りをしているのを知っているのは、スメルジャコーフだけだ。あの女が爺のところへ来たら俺に知らせてくれるのも、あいつなんだ……「ところで、親父はイワンを二、三日チェルマーシニャへやろうとしている。林を八千ルーブリで伐採する買手が現われたそうで、爺の奴はイワンに『助けると思って行って来てくれ』と頼んでいるんだ。まあ、ほんの二、三日のあいだだがね。つまり親父は、グルーシェンカが来た時、イワンにいてほしくないのさ」〔やや不自然だが、会話の流れの中で触れられる重要な伏線〕
……親父は今イワンと一緒に食卓を囲んで酒を飲んでいる。なあ、アレクセイ、行って親父にあの三千ルーブリを頼んでみてくれよ。……俺は奇跡を信じているんだ
奇跡ですって?
「神様は俺の心のなかをご存じだ。俺の絶望をすっかりごらんになっておられる。この劇を何から何まで見ておられる。まさか神様が恐ろしい事件の持ちあがるのを、黙って見逃すはずはないじゃないか。」アリョーシャ、行って来てくれ! 俺はぜひともお前に、カチェリーナさんに『兄が宜しく申していました』という言葉を言ってもらいたいんだ
でも兄さん、もし今日グルーシェンカが来たら……今日でなくても明日か明後日
グルーシェンカが? 見張っていて、踏み込んで、邪魔してやる……もしもの場合には、ぶち殺してやる……
兄さん、なんてことを!
ま、わからん、わからんさ……ただいざという瞬間に、親父の顔が不意に憎らしくなりはしないかと、それが心配なんだ。おれは親父の喉仏が、鼻が、目が、恥知らずなあのせせら笑いが憎らしくてならないんだ……こればかりは我慢できないからなあ……
じゃ行って来ます、兄さん、僕は信じています、恐ろしい事件が起こらないように、神様が万事うまく取りはからって下さることを……
俺は坐って奇跡を待とう。しかし奇跡が起こらなかったら、その時は……
「アリョーシャは物思いに沈みながら、父の家に向かって歩き出した。
6 スメルジャコーフ
〔主観的印象では、最初に重要な伏線を導入するときは、幾ら流れとして不自然でも構わないみたいだ。ただし後の展開のなかで度々その伏線を反復強化する必要がある。「イワンのチェルマーシニャ行き」もこれから度々ついでのように触れられることになるだろう。それによって最初は作為的だった伏線が、徐々に既成事実になっていくというわけ。〕
「行ってみると、父はまだほんとうに食卓に向かっていた。……」いつもの習慣で食事は広間に。広間の描写。括複法的記述。この広間は夜じゅう明るくされているのだった。「フョードルは毎晩とてもおそく、三時か四時頃床につき、それまではいつも部屋の中を歩きまわったり、安楽椅子に腰かけて物思いにふけったりしていた。いつのまにかそれが癖になっていたのである。召使を別棟に引き取らせて、母屋にただひとり寝ることもまれではなかったが、たいていは毎晩、下男のスメルジャコーフが一緒に残って、玄関の長持ちの上で寝ていた。アリョーシャが入って行った時には、食事はもうすっかりすんで、ジャムとコーヒーが出ていた〔二つの現前的ラインの交錯〕。……」みな陽気な気分になっていた。兄のイワン、グリゴーリイとスメルジャコーフがその場に。アリョーシャはまだ玄関にいる時から父の陽気な声が聞えた。
「いよオ、おいでなすったな!」コーヒーはどうだ……コニャックは勧めないよ、お前は坊主だからな……時にお前、食事はすんだのかい
「すみました」とアリョーシャは言ったが、ほんとうは僧院長の台所でパンを一切れ食べただけだった。〔時間幅を過去へ広く取った文脈の導入。現前的場面の最中でも〕
コーヒーや魚スープをフョードルはアリョーシャに上機嫌で勧める。が、「……そういやおれはさっき今日中に蒲団を枕をかついで来いと言ったっけ……」
もちろんあれは冗談だ、と言う。「……アリョーシャ、おれはお前をよう侮辱せんのだ。なあ、イワン、これはこいつが大好きだ!」
さあお坐り。「……時に、今度はお前の喜びそうな話があるんだ、お前にふさわしい話題の。大いに笑うがいい。実はな、うちのバラムの驢馬が口をきいたんだ、しかも立派にな、立派に!」
「バラムのろばというのは、下男のスメルジャコーフのことだった。……」スメルジャコーフについて説明的ディエゲーシス。今二十三、四歳。傲慢ですべての人を軽蔑しているが故の無口? 「彼の話の出た今、この下男についてひと言も話さずに素通りすることはできまい。……」グリゴーリイに言わせると、少年時代の彼はなつきの悪い子供だった。猫を絞め殺して葬式の真似事をするのが好きで、それをグリゴーリイに見つかってこっぴどく叱られ、「おめえは人間じゃねえ、風呂場の湿気の中からわいて出たんだ」などと言われた。後で分かったことだが、スメルジャコーフはこの罵言を生涯ゆるすことができなかった。〔いつ分かったんだ? 修辞でそう言っているだけだな〕
聖書による宗教教育は上手くいかなかった。聖書の科学的におかしいところを屁理屈で馬鹿にするような少年だったから。小説を読んでも、「嘘っぱちばかり書いてありますね」と言って薄笑い。少年はやがて生涯の持病となる癲癇の発作を起こしたが〔重要な設定〕、その知らせに何故かフョードルが反応して、急にスメルジャコーフのことを親身に心配しはじめるようになった。
十五歳くらいになると、スメルジャコーフは食べ物についてひどく潔癖になった。フョードルはそれを見て彼を料理人にしようと思い立ち、モスクワへ修行へやった。数年後、彼はすっかり面変りして帰ってきた。とはいっても、性質は何も変らず、モスクワでも始終人付き合いがわるかったそうだ。おしゃれにはなっていた。料理人としての腕はいいので、フョードルは給金をやることにしたが、その金のほとんどを彼は服やポマードや香水代に使った。しかし女の気を惹くことには興味がなさそうだった。
何故かフョードルは、この料理人の正直さを信じていた。実際、酔ったフョードルがぬかるみに落とした三百ルーブリ紙幣を、そっくりそのまま拾って持って来たこともありはしたのだが。のみならず、フョードルは自分に対しても他の人々の場合と同様白い目を向けてくるこの料理人を、愛してさえいたようだ。
この料理人が口をきくことはめったになかった。顔を見てもこの若者が何を考えているのか、まったく分からなかった。彼は往来・庭先・家の中で、急にふと立ち止まって物思いに沈むことがあった。画家のクラムスコイに『瞑想する人』という題のすばらしい絵があるが、スメルジャコーフもそうした瞑想者の一人であって、むさぼるように様々な感覚や印象を蓄積していたに相違ない。
7 信仰論争
〔このたった一回きりの現前的対話場面で、スメルジャコーフの人物を完璧に描き出すよう工夫されている〕
「ところが、このバラムのろばが突然、口をききはじめたのである。しかもその話題が奇妙なものだった。……」その日の朝早く〔この日一日に様々な出来事が重なりすぎている。プロット上の都合による、タイミング合わせ〕、買出しに行ったグリゴーリイがたまたま〔!〕或る美談を聞いてきて、それをこの食事の時に披露したのである。「フョードルは以前から、いつも食後のデザートが出る頃になると、相手が下男のグリゴーリイであっても、笑ったり馬鹿話をするのが好きだった。」〔括複法〕グリゴーリイの話。アジア人の捕虜になったロシア兵士が、キリスト教を捨てて回教に改宗しなければ生きながら皮をはいで殺すぞ、と脅されたにもかかわらず、信仰を裏切ることを拒否し、キリストを讃えつつ処刑されていった。この兵士を聖者の列に加えるべきである……。しかしフョードルは感激する様子もなし。ところがちょうどその時、戸口に立っていたスメルジャコーフが突然にやりと笑う。「スメルジャコーフは以前から、食事の終わる頃になると、しばしば食卓のそばに立つことを許されていたのである。イワンがこの町へ来てからは、ほとんど毎晩、姿を見せるようになった。」〔括複法〕
どうしたんだ?とフョードルがたずねる。
ただいまのお話ですが……その兵士のような災難に遭った場合には、キリストを否定したとしても、大した罪ではないのでは? そうやって命が助かって、それから先善い行いができれば、罪の償いもできる
でたらめ言うな……とフョードル。
「アリョーシャが入って来たのはちょうどその時だったのである。フョードルは、すでに見たとおり、アリョーシャが来たのをひどく喜んだ。」〔二つの現前的ラインの交錯〕
お前にぴったりの話なんだ!とアリョーシャを席につかせる。〔うちのバラムの驢馬が口を利いた……からのつづき〕
スメルジャコーフは相変わらず自説に固執。キリストを否定しても大した罪じゃない……
グリゴーリイが毒づく。下司野郎め!
下司野郎かどうかは、しばらくお待ちください、グリゴーリイ・ワシーリエヴィチ……とスメルジャコーフ、あくまで落ち着き払って。それよりもご自分でよく考えてごらんなさいまし。キリストの御名を呪い、自分の神聖な洗礼を否定しても、一体何が罪になるというのか? もし私が迫害者に向かって『わたしはキリスト教徒じゃありません』と言うが早いか、私はすぐさま神の裁きによって破門され、異教徒とまったく同じ立場になってしまう……そうでしょう、違いますか?
フョードルが突然叫ぶ。イワン! 耳を貸してやれ、あいつはお前に褒めてもらくて論じたててるんだぜ。
スメルジャコーフの話の続き。私がキリストを呪った瞬間に、もう私は異教徒と同じになってしまう。洗礼を取り消されてしまう。……
「早く結論を言え、結論を」とフョードル。
そこで、もし私はもはやキリスト教徒でなくなったとしたら、それ以降『お前はキリスト教徒か否か』と聞かれても、何を裏切りようもありません。それどころかキリスト教徒としての資格を神様から剥ぎ取られた以上、私には何の責任もないし、あの世へ行ってから裁かれることもない……いったいどんな方法で、どんな正義に基づいて、私がキリストを否定したことをキリスト教徒なみに訊問されるというんです? 異教徒のタタール人が間違って天国入りしたとしても、何故お前はキリスト教徒に生まれなかったのだと言って訊問する者はありませんや……それと同じで、私がもはやキリスト教徒でないとすれば、誰も私に罰を加えるものはありませんよ……
グリゴーリイは呆気に取られる。フョードル笑う。アリョーシャ、どうだい、これは、まったく大した詭弁家じゃないか! ……まあ、俺たちが今すぐこいつを粉々に粉砕してやるさ、さあ、返事をしろ、ろばめ、とにかくお前自身、破門されたことを認めてるってことは、やっぱり腹ン中で自分の信仰を否定したってわけだ、ということは地獄へ落ちた時誰もよく破門されたといってお前の頭を撫でちゃくれないぞ?
わたしが腹ン中で否定したことは確かでございますが、これもとくに罪はございません。……ご自分でよく考えてごらんなさいまし。聖書にもこう書いてあるじゃありませんか、もしからし種ひと粒ほどの信仰があるなら、山に向かって《海へ移れ》と言えば、山は猶予なく移るだろう、と。グリゴーリイ・ワシーリエヴィチ、もしわたしが破門された不信心者で、一方あなたが信心深いおかただとしても、あなただって山をぴくりとも動かすことはできませんよ。そんなことはできる人は、全世界にひとりか、多くても二人ぐらいなもので、どこかエジプトの砂漠の中でこっそりと修行しています。……そこで、もしそうだとすれば、そのどこかにいる二人の隠者以外の残りの全部の人間は不信心者ということになります……そんな大勢の人間を神様がひとりもお赦しにならないなんてことがあるでしょうかね? だから私は一度ぐらい神様を疑ったところで大きな罪ではないと言っているんでございます。
フョードルが茶々を入れる。じゃお前は、山を動かすことのできる人間が二人はいると考えているんだな?……お前のその言葉は金貨一枚の値打ちがあるから、今日じゅうにくれてやる……
しかし、お前の言うその他のことはやっぱり嘘だ、でたらめだ……いいか馬鹿、俺たちがみんな山を動かせるほどの信仰を持っていないのは、何しろ暇がないからなんだ、一日がたった二十四時間しかないんで、悔い改めるどころか、眠る暇さえない……ところが、お前が迫害者の前で神様を否定したのは、信仰のこと以外何一つ考えようにも考えられないときじゃないか! それもぜひとも自分の信仰を篤さを示さなきゃならん時だぞ! とすれば、それは立派な罪になるというもんだ
しかしよく考えてごらんなまし、グリゴーリイ・ワシーリエヴィチ〔なんでフョードルに語り掛けない?〕、その時私が本当の信仰を持っているならば、その瞬間こそあの山に向かって『動け、そして迫害者を押しつぶしてくれ』と言いさえすれば、山が動くはずじゃありませんか……そういう恐ろしい、命がけの、いざという瞬間に山が動かなくて、本当の信仰とは一体なんでしょうね?……そして、もしその山が動かず迫害者を押しつぶしてくれもしないとしたら、私は疑いを抱かずにいられませんよ……山が動かないってことは、つまり天国じゃ私の信仰をあんまり真に受けちゃいないわけで、あの世で大したご褒美が待っているとも思われない、それなのにどうしてその上自分の皮まではがさせなきゃならないんです? せめて自分の皮だけでも大事にしようと思って、どうしてそれが罪になるでしょう?……
8 コニャックを飲みながら
「論争は終わった。」なぜかフョードルの機嫌が悪くなる。もう下がれ、イエズス教徒め……。グリゴーリイ、スメルジャコーフ出て行く。
スメルジャコーフについて、フョードルとイワンの会話。
しかしああいうバラムの驢馬があんなふうに色々考えているとすると、そのうちどこまで考え抜くか恐ろしいぐらいだな
さぞ思想を蓄積することでしょうな、とイワンはにやりと笑う。
が、それにしても、畜生、あんなやつのことなんか話す値打ちがあるかね?
むろん、ありませんよ
フョードル、酔っ払って段々支離滅裂になっていく。Tout cela cユest de la cochonnerie わしの好きなのは何だと思う? わしの好きなのは機知なんだ
また一杯あけましたね、もうおよしなさい
猥談を始めるフョードル。アリョーシャ、お前赤くなったな? 恥ずかしがることはないよ……アリョーシャ、わしがさっきお前の僧院長を侮辱したのを怒らんでくれよ……ついむかむかしたんでな……もし神があるなら、神が存在するなら、むろんわしが悪いんだからおとがめは受ける。が、もし神がぜんぜんなかったら、あいつらは、お前の神父たちは、とうていあんなことじゃすまないぜ。首をちょんぎるだけじゃ足りない……イワン、わしの心を苦しめているのはこのことなんだ……いや、しかしお前はわしがただの道化にすぎんと思っているな。アリョーシャ、お前はわしがただの道化じゃないと信じてくれるかい
信じています
ありがとうよ……だがやっぱりあの僧院と縁を切ってしまいたいなあ、ロシアじゅうのああいう神秘主義の巣を残らずいっぺんに閉鎖してやりたい……そうなったら金銀財宝がどれだけ造幣局の手に入るかしれやしない
なぜ閉鎖するんです、とイワン。
一刻も早く真理が輝くようにさ。そのためだ。
もしその真理が輝きだしたら、真っ先に略奪されるのはお父さんでしょう
げっ! だが、ことによるとお前の言うとおりかもしれん。わしもやっぱりろばだな……それじゃあの僧院もあのままにしておくか。わしらのような利口な人間は暖かい部屋に坐って、コニャックでも味わっているのさ。イワン、こりゃてっきり神様が、わざわざそういうふうに仕組んでくださったに違いあるまい。なあ、イワン、どうだ、神はあるのか、ないのか。待て、はっきり言うんだぞ、まじめに答えるんだぞ! 何だってまた笑うんだ
僕が笑っているのは、さっきスメルジャコーフの信仰について、お父さんがなかなか気のきいた批評をなさったからですよ……
それはそうと、言ってみろ、神はあるのか、ないのか、まじめにだぞ!
ありません、神なんてありません
アリョーシャ、神はあるか
神様はあります
じゃイワン、来世はあるのか?
来世もありません、まったくの無です
アリョーシャ、来世はあるか
あります
ふむ……たぶんイワンのほうが正しそうだな……ああ、考えただけで恐ろしい、どれだけの信仰を人間が捧げたことか、どれだけの無駄な力をこんな空想のために費やしたことか……いったい誰が人間をこんなふうに愚弄しているんだ?
きっと悪魔でしょう、とイワンにやりと笑う。
じゃ、悪魔はいるんだな
いや、悪魔もいません
そいつは残念だ、それじゃ畜生、わしは神を最初に考え出した奴を、どうにもできんじゃないか
神を考え出さなかったら、文明も全然なかったでしょう
なかっただろうだと?
ええ、コニャックもなかったでしょう。それはそうと、もうコニャックを取り上げなければ
待て、待て、待ってくれ、もう一杯だけだ。……
フョードル、アリョーシャの機嫌をとろうとする。なあかわいいアレクセイ……イワン、お前はアリョーシャを愛しているか
愛しています
愛してやれ(フョードルはひどく酔いがまわっていた)。なあ、アリョーシャ、わしはさっきお前の長老に不作法な真似をした……
イワンとフョードル、長老について話す。
あの長老はこれっぽちも神を信じちゃおらんよ……
まさか……
フョードル法螺話を始める。それに自分で気づく。イワン、わしがでたらめを言っていたのに、どうして止めてくれないんだ……
自分でおやめになるだろうと思っていたんです
嘘つけ、わしを憎んでいるからだ、お前はわしを軽蔑しているんだ……おまえはチェルマーシニャへも、わしが頼んでいるのに行っちゃくれない〔伏線反復〕
あした行きますよ、そんなにしつこく言うんなら
行くもんか、お前はここにいてわしを見張っていたいんだ、それがお前の魂胆さ、意地の悪い奴め……
とフョードルはイワンに絡む。
兄さんに腹を立てないで下さい!……とアリョーシャ。
フョードルはふと考えこんで、突然ずるそうににたりと笑う。なあイワン、この老いぼれの低能に腹を立てんでくれ。お前に嫌われているのは知っている、しかしとにかく腹を立てんでくれ……しかしチェルマーシニャへだけは行ってくれ、わしもあとから行くよ、おみやげを持ってな……
おみやげというのは「いい娘っ子」のこと。ここからフョードルが滔滔と持論を述べ立てる。わしの法則によれば、どんな女にも他の女にはないすてきに面白いところがあるものなんだ……ただそいつを見つけ出すには腕がいる……わしにとっちゃ、醜女なんてものは存在しない……
それからアリョーシャの狐つきの母親についての話。アリョーシャ、わしは一度だっておまえのおふくろを侮辱した覚えはない……しかしたった一度だけ……彼女が聖母祭にお祈りに熱中しているのを見て……わしは書斎に追い出されて……わしは、よし、こいつの迷信をたたき出してやろうと思った!……『見ていろ』とわしは言った、『このお前の聖像に、わしは唾をひっかけてやる、それでもわしには罰ひとつ当たらんからな!』……その時のあれの目つきといったら……あれはいきなり立ち上がって両手をはっしと打ち合わせたかと思うと、そのまま気を失った……「……アリョーシャ、おいアリョーシャ! お前、どうしたんだ、おい!」
老人はびっくりして飛びあがった。アリョーシャは、父が母のことを話しはじめた時から、しだいに顔つきが変わって来ていた。頬に赤味がさし、目が燃えはじめ、唇がぴくぴくふるえだした。〔時間幅を少しだけ過去へ広くとった文脈の導入〕アリョーシャはたった今老人が母について語ったのとそっくりの反応を示した。不意に立ち上がって両手を打ち合わせてぶっ倒れる。フョードル仰天。
「イワン、イワン、早く水を持って来てやれ! あれと同じだ、そっくりだ! こいつは自分の母親が、自分の母親が……」
「しかし、こいつの母親は僕の母親でもあったと思いますがね」とイワン、突然憤怒のまじった軽蔑をむきだしにして言う。老人はぞっとする。
「お前の母親だって?……どの母親のことだ……だってあれは……ああ、畜生! あれはお前の母親でもあったんだな! うっかりしていた、ごめんよ、おれはまた……へ、へ、へ!」
ちょうどその瞬間〔タイミング合わせ。ドストエフスキーのプロットにはこれ多すぎる〕、玄関口で恐ろしい物音、凶暴な叫び声、ドアが開いてドミートリイ入ってくる。
「殺される! 殺される! わしを助けてくれ!」とイワンの背後に隠れながらフョードル。
9 色きちがいたち
ドミートリイのすぐ後ろから、(一旦退場した)グリゴーリイとスメルジャコーフも駆け込んでくる。グリゴーリイは広間のさらに奥の部屋に通じるドアを閉ざしてその前に立ちはだかったが、ドミートリイに殴り倒される。「すると、あの女はそこにいるんだな! そこに隠しやがったんだな。どけ、畜生!」〔これは誤解。彼が見掛けたグルーシェンカはカチェリーナの家へ行くところだった……というのが分かるのは次の章で。つまり、次の章の伏線〕
あの女はここにいるんだ、たった今あの女がこの家の方へ曲がったのを俺はこの目で見たんだ!
ドミートリイのこの言葉がフョードルに衝撃を与える。フョードルは喚いてドミートリイの後を駆け出す。
何だって追いかけるんです! ほんとに殺されるじゃありませんか、とイワン。
グルーシェンカはここへ来たんだ、駆け込んだのを見たと言っているんだから……、とフョードル興奮。我を忘れている。
あの人は来てないですよ、とイワン。
ドミートリイが突然広間へ。彼もやっぱりグルーシェンカを見つけられなかった。
あいつを捕まえろ! あいつはわしの寝室から金を盗んだぞ!とフョードルの金切り声。ドミートリイはフョードルを掴んで床へたたきつけ、蹴飛ばす。イワンとアリョーシャ、ドミートリイを抱きとめようとする。
気違い、殺しちまうじゃないか!とイワン。
当然の報いだ! 死ななかったら改めて殺してやる……アリョーシャ! お前の言うことだけは信用する、たった今あの女はここへ来たのか、来なかったのか?
誓って言いますが、あの人はここへ来ません!
しかし俺は見たんだ……よし、あいつがどこにいるか、今すぐ突き止めてやる……じゃ失敬、アレクセイ! イソップじじいにはもう金のことは言わんでいい、ただカチェリーナのところへ行って、こう伝えてくれ、『兄が宜しくと申しました、宜しくと! くれぐれも宜しく!』
フョードル抱き起こされる。彼は気は確かで、ドミートリイの言うことにむさぼるように耳を傾けていた。
ドミートリイはフョードルに捨てゼリフを吐いて、部屋から駆け出していく。
あれはここに居る! きっとここに居る!と叫ぶフョードル。
「いやしませんよ……、やっ、気絶した! 水だ、タオルだ! 早くしろ、スメルジャコーフ!」
スメルジャコーフは大急ぎで水を取りに行った。やがて老人は服を脱がされ、寝室へ運ばれてベッドに寝かされた。頭にはタオルが巻かれた。すぐ眠りにつくフョードル。広間へ戻るアリョーシャとイワン。グリゴーリイと一緒に、ドミートリイを非難する会話。
「ドミートリイめ、もし俺が引き離さなかったら、きっとあのまま殺してしまっただろう。あんなイソップ爺なんかひとひねりだ」とイワンがアリョーシャにささやいた。
「なんてことを!」とアリョーシャが叫んだ。
「何がなんてことだ?」同じような小声で、憎々しげに顔をゆがめてイワンがつづけた。「毒蛇が毒蛇を食うだけだ。ふたりともそれが行き着く先さ!」
頭が痛い、といってイワンは庭へ出る。
アリョーシャは寝室の父親のところへ。一時間ほど枕もとに坐っている。やがて老人がふと目をあけて、無言のままアリョーシャを見つめる。フョードルとアリョーシャの会話。
イワンは?
庭です、僕たちを見張ってくれているんです
わしはイワンは怖いんだ、ドミートリイより怖い、わしが怖くないのはお前だけだ……それでドミートリイはどうした? さっきグルーシェンカはここへ来たのか、来なかったのか?
来やしません……
フョードルはアリョーシャの手をつかむ。さっきのは冗談だ、腹を立てんでくれ、頭が痛い……アリョーシャ、わしの心を鎮めてくれ……グルーシェンカのところへ行って、あれに会って、なるべく早く、お前の口から問いただしてもらいたいんだ、お前の目で確かめてもらいたいんだ、あれの気持ちがどっちにあるか、おれか、あいつか……どうだね、できるか
あの人に会ったら、訊いてみます、とアリョーシャは当惑しながら言う。〔実際には訊くのを忘れる〕
「いや、おまえには言うまい」と老人はさえぎる。「あれは茶目だからな、お前をキスして、おまえのお嫁さんになりたいなんて言い出すだろう……」……ドミートリイがさっきお前に行ってもらいたいと言っていたのはどこだね?
カチェリーナさんのところです
金の無心か?
いいえ
だがあの男は金に困っている、びた一文ないんだ……それじゃアリョーシャ、わしはひと晩寝て考えるから、お前はもう帰っていい……ただ、明日の朝はやく、きっとわしのところへ寄ってくれ、わしは明日、お前に聞かせたいことがあるんだ……寄ってくれるな?
寄ります
さようなら、わしの天使……あしたお前に聞かせたいことがあるんだ……ただ、もう少し考えてみなければならん……
「庭を通っていく途中、兄のイワンが門のそばのベンチに腰をおろしているのに出会った。」要約法、アリョーシャは老人の容態その他もろもろをイワンに伝える。
「アリョーシャ、明日の朝早く、お前に会えると非常に嬉しいんだが」とイワン。アリョーシャにとって思いがけない愛想の良さで。
明日はホフラコーワ夫人の家へ行くんです……それから、もし今日会えなかったらカチェリーナさんのところへまた明日も行く……
それじゃ、やっぱりこれからカチェリーナのところへ行くんだね……と、イワンにやりと笑う。アリョーシャどぎまぎする。
兄さん! お父さんとドミートリイ兄さんとのこの恐ろしい親子喧嘩はどういう結末になるんでしょう……とアリョーシャ。
「はっきりこうだと予想はできないよ。ことによると、うやむやに終わるかもしれない。あの女は、けだものだ。いずれにしても、老人を家から出さないように、またドミートリイを家に入れないようにすることだ」
「兄さん、もうひとつ聞きたいことがあるんです。どんな人間でも他人を見て、誰それは生きる資格があるが、誰それにはそんな資格はないなんて、勝手に決める権利があるものでしょうか?」
「なんだってここに資格のあるなしなんて問題を持ち出すんだね? この問題は資格なんてものに全然基礎をおかずに、他のもっとずっと自然な理由によって、人間の心のなかで決められる場合がいちばん多いんじゃないかな。権利ということを言えば、誰だって希望する権利は持っているだろうさ」
「他人の死を希望する権利もですか?」
「他人の死だってそうさ。何も自分に嘘をつくことはあるまい。誰でもそんなふうに生きている、というよりも、それ以外の生き方はできないんだから。お前がそんなことを言うのは、おれがさっき『二匹の毒蛇が互いに食い合っている』と言ったからだろう? それじゃ俺もひとつ訊きたいんだがね、お前はドミートリイと同様に俺もまたあのイソップ爺の血を流しかねない男だ、つまりあいつを殺しかねない男だと思っているんだろう」
「なにを言うんです、兄さん! 僕はそんなこと、考えたことさえありません! それにドミートリイ兄さんだって、僕はまさか……」
「その一言だけでも礼を言うよ」と言ってイワンはにやりと笑った。「いいかい、おれはいつだってきっと親父を守ってやる。しかし自分の希望の中にはこの際、たっぷり余白を残しておくことにするからな。じゃ、また明日。まあ、俺をあんまり悪党あつかいしないでくれよ」と彼は微笑を浮べながら付け加えた。
二人は握手。そんなことは今まで一度もなかった。
10 女ふたりが
「父の家を出たアリョーシャは、さっきはいって行った時よりもいっそう激しく打ちのめされ、意気消沈していた。」……心理分析的ディエゲーシスの段落。彼は今日一日のうちに経験したことから何かの考えを引き出すことが恐ろしい気がする。グルーシェンカをめぐる兄と父の喧嘩はどんな結末を告げるかという疑問。兄のイワンも恐ろしい。さらにカチェリーナとグルーシェンカ……。「奇妙なことに、さっきカチェリーナの家に向かって歩いていた時は、彼は非常な当惑を感じていたのに、今は少しも当惑を感じなかった。それどころか、まるでそこへ行けば何か指示が仰げるとでも期待しているかのように、いそいそと足早に歩いていった。……」
午後七時。カチェリーナはボリショイ通りに家を借りている。カチェリーナと一緒に住んでいる叔母たちについて(括複法的記述)。カチェリーナが頭が上がらないのは、例の持参金を与えた将軍夫人だけ。
「アリョーシャが玄関にはいって、ドアを開けてくれた小間使に取り次ぎを頼んだ時、広間ではすでに彼の来訪を知っているらしかった。……」騒々しい物音。広間へ通される。広間の描写。テーブルの上には、たった今まで人がいたみたいに飲みかけの茶碗や菓子を入れた皿などがある。誰か客があったのだ。来客中のところへ来合わせてしまったのだ。〔外界と対話しながらの立体的情景法〕と、その瞬間、戸口のカーテンが開いて、カチェリーナが入ってくる。
歓待。
「カチェリーナの美しさは、前にもアリョーシャをびっくりさせたことがある。……」〔時間幅を過去へ広くとった文脈の導入。直線的な現前性を脱臼〕三週間前、ドミートリイに連れて行ってもらって会ったことがある。アリョーシャはその時多くのことを観察した。カチェリーナの傲慢、自身の強さ。黒い目の美しさ。「けれどもその目には、美しい唇の輪郭と同様に、なるほど兄を夢中で惚れ込ませはするが、たぶん長くは愛しつづけられないような何ものかがあった。」その訪問のあとでドミートリイは彼女の印象を隠さず言ってくれと頼んだ。
あの人と一緒になれば兄さんは幸福になるでしょうが、ことによると、……落ち着かない幸福かもしれません……〔直覚的・兆候的人間観察〕
そこなんだよ、ああいう女はいつまでもあのままなんだ、運命に屈服しない……
アリョーシャはその時兄の頼みに負けてこんな馬鹿げた考えを話したことに我ながら腹を立て、恥じた。それだけに今自分に向かって駆け出してきたカチェリーナを見て、驚いた。同時に思い違いしていたと感じる? 今の彼女には無邪気な善良さと燃えるような誠実さがある。傲慢さはどこへやら。それでいて自信に満ちている。愛する男の心変わりも、彼女を動揺させてはいないようだ〔これは一時的なもの。伏線〕。それでいて、「アリョーシャは相手の最初の言葉から、彼女が何か激しく興奮していることに、──たぶん彼女としては日頃ありえない、ある歓喜にも似た興奮におちいっていることに気づいた。」
カチェリーナはアリョーシャを待っていた? あなたからなら真実を聞きだせるため?
僕は兄の使いでうかがったんです……
「……わたしがあなたからお聞きしたいのはそういう情報ではありません。わたしがあなたからお聞きしたいのは、あなたご自身がお受けになった、あの方の最初の印象ですの。ですから、ありのままに、飾らずに、乱暴なことでもかまいませんから、話していただかなくてはなりませんの……あなたご自身が今のあの方を、今日お会いになったあとのあの方の立場を、どうごらんになっておられるかを。……」
兄はあなたに宜しくと言っていました……
カチェリーナは顔を赤らめる。
どうかわたしに力を貸してください、アレクセイ・フョードロヴィチ……もしその《宜しく》が静かに言われたものなら、もうすべての終わりなのです……でも、もし一か八かの崖を飛び下りるような気持ちで言った《宜しく》なら、ただ虚勢を張っただけかもしれません……
そうです、そのとおりです!
なら、あの方はまだ破滅してはいませんわ!……あの方、何かお金のことを、三千ルーブリのことを、お話しになりませんでしたか
話したどころじゃありません……でも、あなたは、あのお金のことをご存じだったのですか
前から知っていましたわ、モスクワに電報で問い合わせて、お金が届いていないことをずっと前から知っていたのです……わたしはそこでたったひとつ目標を立てました……つまり、結局は誰のところへ帰ればいいか、誰が本当の親友でわるかをあの方に知ってもらおうという目標なのです……いったいどうすればあの方が三千ルーブリを使い込んだことを、私に対して恥ずかしく思わないですむだろうか?……いったいなぜあの方は、わたしがあの方のためならどんなことでも我慢できるということを、いつまでもわかってくださらないのでしょう?……わたしは永久にあの方を救いたいのです……
アリョーシャは、ふるえる声で、先ほど兄と父の間に起こった出来事、および兄がグルーシェンカのところへ行ったことを話す。
「あなたはあの女のことがわたしには耐えられないと思っておいでですのね、あの方もそう思っておいでですのね……でもああいう情欲をいつまでも燃やすことができるでしょうか……あれは情欲ですわ、愛ではありませんの……あの方は結婚なさらない、なぜかと言えばあの女はお嫁に行きませんもの……「突然またカチェリーナは、奇妙な薄笑いを浮かべた。」
もしかすると、兄は結婚するかもしれません。
なさらないと、そう申し上げていますのよ! あの娘さんは、天使のような方ですわ、あなたそれをご存じ?……わたしはあの人がどんなに誘惑的な女性か知っていますが、またどんなに気立てがよくて、しっかりしていて、上品な人であるかも知っています……なぜそんなふうにわたしをごらんになりますの、アレクセイ・フョードロヴィチ? わたしの言葉が意外でびっくりなさったのね、わたしの言葉が信じられませんのね……アグラフェーナ(グルーシェンカ)さん!……と彼女は突然隣室に叫ぶ。こちらへおいでなさいな!〔二つの現前的ラインの交錯〕
「あたしカーテンのかげで、呼んでくださるのを今か今かと待っていましたわ」甘ったれたような声。
戸口のカーテンが開いて、グルーシェンカその人が歩み寄って来る。アリョーシャ戦慄。しかし、目の前にいるのは、見たところごく普通の、当たり前の女だ……。美しいと言ってもざらにいる美人と変わりない。衣服:豪華な黒い絹の服をさらさら言わせ、真っ白な肉づきのいい首と豊かな肩を高価なショールで女らしくつつんでいる。年は二十二歳。外貌描写。表情も、目つきも、子供っぽい。テーブルのそばへ歩いてくる時も《浮き浮きして》、子供のように待ち切れぬ、信じきった、物珍しいげな顔つきで何事かを期待しているような様子をしていた。アリョーシャが不愉快な感じを抱いてまるで残念がりもしたことには、言葉を引き伸ばしたり甘ったれた話し方をしていた。アリョーシャは、この発音と抑揚が、彼女の子供っぽい無邪気な、おだやかで幸福そうな目の輝きにふさわしくない、ありうべからざる一種の矛盾のような気がした。……カチェリーナはグルーシェンカにまるで恋でもしているみたいに、何度もキスした。
今日この女二人は初めて出会った。カチェリーナが願うとグルーシェンカは直ぐ来てくれた。グルーシェンカは安らぎと喜びを持って来てくれた……この方と力を合わせれば、どんなことでも解決できるだろう……「ごらんなさいな、アレクセイ・フョードロヴィチ、この方の笑顔を。この天使さんを見ていると、心が浮き浮きして来ますわ。……」
アレクセイ・フョードロヴィチ、この方は誇り高い、高潔なお人ですの……ただ不仕合せだっただけですの……つまらない、軽薄な男の人に、あんまり早く何もかも犠牲にする覚悟を決めすぎたんですの……やっぱり将校だったそうですけれど、その将校が好きになって何もかも捧げてしまった、もう五年前のことですが……そのうちにその将校がこの方のことを忘れて、結婚してしまった、それが最近、奥さんに死なれて、今度ここへ来るという便りを寄越したんです……「ねえ、あなた、この方の愛していたのは、いまだに愛しているのは、その人ひとりなんですって。……」……あの足の悪い年寄りの商人は、むしろこの方のお父様か、親友か、保護者ですものね……
お嬢様、そんなふうにあたしをかばってくださらなくても……
「かばうですって? あなたをかばうなんて、そんなことがわたしにできるでしょうか。グルーシェンカ、わたしの天使、あなたのお手を貸して下さいな。ごらんなさい、アレクセイ・フョードロヴィチ、このふっくらした、小さな、きれいなお手てを。ごらんになって? このお手てがわたしに幸福を運んで来て、わたしを甦らせてくれましたの。わたしこうしてこのお手にキスしますわ、手のひらにも、甲にも、ほらね、ほら!」カチェリーナ有頂天。
「でもお嬢様、あたしに恥をかかせないで下さいな。アレクセイ・フョードロヴィチのいらっしゃる前でそんなふうにキスなんかなさって」
「わたしがあなたに恥をかかせようと思ってこんなことをしたとでもおっしゃるの」とカチェリーナが、多少おどろいたように言った。「ああ、あなたはわたしの気持ちがわかって下さらないのね」
「いいえ、あなたこそあたしの気持ちがぜんぜんわかっていらっしゃらないのですわ、お嬢様。あたし、もしかすると、あなたがごらんになっているよりもずっと性の悪い女かも知れませんの。あたし心のねじけた女なんです、わがままな女なんです。かわいそうなドミートリイ・フョードロヴィチのことにしても、ただからかい半分の気持ちから、あのとき誘惑したんです」
「でも、今はあの方を救おうとしておいでじゃありませんか。あなたはそうお約束なさったんですもの。あの方の目をさましてあげる、ずっと前から別の男の人を愛していて、今その人からプロポーズされていることをあの方に打ち明けるって……」
「あら、あたしそんな約束しませんわ。あなたが勝手にそうおっしゃっていただけで、あたしそんなお約束しませんわ」
「それじゃ、わたしの思い違いだったのかしら」とカチェリーナは思いなしか心もち青ざめて小声で言った。「でも、確かに……」
「違いますわ、お嬢様、あたしなんにもお約束しません」とグルーシェンカは、さっきと同じ晴れやかな無邪気な表情のまま、小声で流暢にさえぎった。「これでおわかりになったでしょう、お嬢様。あなたに比べてあたしがどんなにいやらしい、得手勝手な女か。あたしその気になると、何でもやってのけますの。さっきはあたし本当に何かお約束したかも知れません。でも、今また考えてみますと、急にまたあの人が、ミーチャが好きになりそうなんですの。だって前に一度とても好きになったことがあるんですもの。まる一時間ほんとに好きだったことさえあるんですもの。ですから、あたし、ひょっとすると出かけて行って、あの人に今日からでもあたしの家にいなさいって言うかも知れませんわ。……あたしって、こんなに気の変わりやすい女ですの。……」
「さっきあなたがおっしゃったのは……ぜんぜん別のことでしたわ。……」かろうじてカチェリーナはこうつぶやいた。
「ああ、さっきはね! でもあたし気の弱い、馬鹿な女なんです。あの人があたしのためにどんなにつらい目に会ったか、考えただけでたまりませんわ! 家へ帰って、急にあの人がかわいそうになったらどうしましょう」
「わたし思ってもみなかった……」
「ああ、お嬢様、あなたはあたしに比べて何という善良な、ご立派な方でしょう。……」あたしに愛想つかすのも当然ですわ。どうぞあなたのかわいいお手を貸して下さいまし……さあ、お嬢様、あたしもさっきあなたのなさったようにキスしますわ……あなたは三度キスして下さいましたけれど、あたしなら三百ぺんキスしなければ清算できませんわね……そのあとは、ことによるとあたし、あなたの完全な奴隷になって、何から何まで奴隷のようにあなたにお仕えするかも知れませんわ……
彼女は本当に接吻の《清算》をしようとしていた。カチェリーナは《奴隷のように仕える》という表現に耳を傾け、ちらりと希望を抱く。『この人は、もしかすると無邪気すぎるのかもしれないわ……』そのあいだもグルーシェンカは《かわいいお手て》にうっとりしながらその手をゆっくり唇の近くに持ちあげて行った。けれども、唇のすぐそばまで持って行った時、彼女は何か思案でもするように、突然その手を二、三秒とめた。
「ねえ、天使のようなお嬢様」と彼女は不意に、世にもやさしげな、甘ったるい声で言葉を引き伸ばして言った。「あたしせっかくあなたのお手を取らせていただきましたけれど、キスはやめにしますわ」こう言って彼女は、愉快そうな小さな声で笑いはじめた。
「お好きなように……。でも、どうなさったの」突然カチェリーナはぎくりと身ぶるいした。
「ですから覚えておいて下さいまし、あなたはあたしの手にキスをなさったけれど、あたしはしなかったってことを」突然、彼女の目の中で何かがきらりと光った。彼女はじっと食い入るように相手の顔を見つめた。
「まあ失礼な!」不意に何かを理解したように、突然カチェリーナはこう口走り、真っ赤になって椅子から飛び上がった。グルーシェンカもゆっくり立ちあがった。
「じゃあたし、さっそくミーチャに話してやりますわ、あなたはあたしの手にキスをなさったけれど、あたしはぜんぜんしなかったって。あの人、お腹を抱えて笑うでしょうね」
「けがらわしい、出て行け!」
まあ、恥ずかしくありませんの、そんな言葉づかいをして
出て行け、淫売婦め!
「淫売婦なら淫売婦でいいわ。でも、そういうあなただって、むかし、お金ほしさに夕闇にまぎれて男のところへ通ったじゃありませんか。その美しいお顔を売りに行ったじゃありませんか。あたし知っていますわ」
カチェリーナはあっと叫んで、相手に飛びかかろうとしたが、アリョーシャに渾身の力で抱きとめられた。
叫び声を聞きつけてカチェリーナの二人の叔母が飛び込んでくる。小間使いも。
アリョーシャ、いい子だから、あたしを送ってきて頂戴な、とグルーシェンカ。ねえアリョーシャちゃん、あたし途中でとってもいいこと教えてあげるわ。あたしがこんなお芝居をしてみたのは、あんたのためなのよ、アリョーシャちゃん。ね、送って来て、あとできっとよかったと思うわ
アリョーシャ、ぷいと横を向く。グルーシェンカは甲高い笑い声を立てながら外へ飛び出していった。
ヒステリーの発作を起こすカチェリーナ。
だから言ったじゃないか、あたしが止めたじゃないか、あんな向こう見ずなことをするなんて……と叔母。〔伏線〕
あれは虎女だわ! あんな女は鞭でひっぱたかなけりゃ、断頭台の上で、首切り役人の手で……!
アリョーシャ後ずさりする。
「でも、情けないわ」と不意にカチェリーナが両手を打ち合わせて叫んだ。「あの人が! あの人が、こんな不誠実な、無慈悲な真似をするなんて。あの人があの淫売婦に話したにきまっている。あのときの運命の日のことを、呪われた、永遠に呪われたあの日のことを。『その美しいお顔を売りにいらした、お嬢様!』だって。あの女は知っているんだわ。アレクセイ・フョードロヴィチ、あなたのお兄さんは卑劣な人だわ」……帰ってください、アレクセイ・フョードロヴィチ。わたし恥ずかしい、恐ろしい! 明日また、……後生ですから、明日またいらして頂戴。悪く思わないで、許して頂戴……
アリョーシャはよろめくように通りへ出る。泣きたい気分。すると後ろから女中が追いかけて来た。
昼過ぎ頃に、ホフラコーワ夫人からカチェリーナに渡されていた、アリョーシャ宛ての手紙を受け取る。〔なんだ? この適当な伏線は〕
11 もうひとつの地に落ちた名誉
「町から僧院までは、せいぜい二キロあまりしかなかった。……」もう夜。途中の四つ辻に人影らしきものが。その人影が突然彼に襲い掛かる。
「命が惜しけりゃ財布を出せ!」
「なんだ、兄さんじゃありませんか、ミーチャ兄さんじゃ!」こう言ったものの、アリョーシャはびっくりしてぎくっと身ぶるいした。
ドミートリイはカチェリーナ宅訪問の報告を聞くため待ち伏せしていた。僧院へ行く道はここしかないからきっと通るだろうと思ってな。〔アリョーシャとドミートリイは、カチェリーナ宅訪問後の待ち合わせをちゃんとしてなかったのか? なんて行き当たりばったりな〕
アリョーシャ非難する。さっきはあやうくお父さんを殺すところだったのに、もうこんな冗談を平気でするの!……命が惜しけりゃ財布を出せなんて!
ドミートリイ語り出す。「まあ待て、この夜を見てみろ、何という陰気な夜だろう。……」ドミートリイはふと自殺することを考えたのだが、その時アリョーシャの足音が聞えた。すると自分にもまだ愛する人間(アリョーシャ)がいることを思って嬉しくなった。その時に、『いっそあいつをびっくりさせて、面白がらせてやろう』という考えが浮んだのだ。〔ミーチャの性格を象徴する心理・挙動〕……ま、そんなことはどうでもいい、それよりあっちはどうだった?
アリョーシャはカチェリーナ家へ入ったその時から起こったことを報告。グルーシェンカが来ていたことはドミートリイを驚かせる。ドミートリイは恐ろしいほど固い顔つきで聞き入っていた。だが話を聞いているうちに、ドミートリイは突然、腹の底からの笑い声を出す。
「するとその手にキスをしなかったんだな。キスをせずに、ずらかったんだな!」と彼はある病的な喜びにかられて大声で叫んだ。──それほど無技巧な喜びでなかったら、それもまた不遜な喜びと言えたかもしれない。「するとあいつは虎女だと叫んだんだな! まったく虎女だ! じゃ、首切り台に乗せなけりゃならんと言ったんだな? そうだとも、そうだとも、大いにその必要がある、その必要が。おれも同じ意見だ。そうすべきだ、とうにそうすべきだったんだ!……おれにはあの傲慢不遜の女王〔グルーシェンカ〕の気持がよくわかるな。あれこそあの女の真骨頂だ。そのお手ての一件にあの女の面目が躍如として現れているじゃないか、あの極道女の! あいつはこの世で想像できるかぎりの、ありとあらゆる極道女の女王だよ! あいつらしい喜び方だ!……」
じゃ、カチェリーナさんは?
「あの人のこともわかったよ。腹の底まですっかりわかった。こんなにわかったことは、はじめてなくらいだ。四大州の発見にも匹敵するぐらいだ。いや、五大州だったかな。実際、思い切ったことをしたもんだ! さすがはあのカーチェンカだ。父親を救うために、恐ろしい侮辱の危険を冒して、向こう見ずな乱暴な将校のところへ平気で乗り込んで来たあの時の女学生そのままじゃないか。いや、これこそ誇りだ、危険の渇望だ、運命への挑戦だ、際限なき挑戦だ! あの叔母さんがあの人をとめたんだって?……それじゃあの叔母さんがカーチャをとめたのに、カーチャが聞かなかったっていうんだな。『わたしは何だって征服できる、何だってわたしの思いどおりになる、その気になれば、グルーシェンカだって思うままにあやつれる』ってわけだ。──そうして自分の力を信じて、自分で自分に虚勢を張った。とすれば誰の罪でもあるまい。お前はあの人がわざと、腹に一物あって、自分からグルーシェンカの手にキスしたと思うかい? いや、あの人は本当に、心の底からグルーシェンカに惚れ込んでしまったんだ。いや、グルーシェンカにじゃない、自分の夢に、自分の空想にさ。──だってこれはわたしの夢ですもの、わたしの空想なんですもの、ってわけさ。……」
アリョーシャは兄がカチェリーナの恥辱を喜んでいるかのように感じて苦しむ。兄さんがあの日のことをグルーシェンカに話したために、どんなにカチェリーナさんを侮辱したか、まるで気に留めないんですか?
そうか!とドミートリイ突然自分の額を自分で叩く。(その侮辱のことをこの時まですっかり忘れていたのである)実際そのことを話したかもしれないな……モークロエ村へ行って、酔っ払ったときかな。しかしあのとき、俺は声をあげて泣いたんだ。グルーシェンカも俺の気持ちを分かってくれた。あいつも泣いていたんだ……ああ畜生め! こうなるより仕方なかったのかなあ、あの時は泣いていたのに、今は《心臓にあいくちをぶすり》! 女なんてみんなこうなんだ……
そうだ俺は卑劣な男だ……あの時泣こうが泣くまいが同じことだ。だがもうたくさんだ。「さようなら。今さらぶつぶつ言うことはない。お前はお前の道を行くし、おれはおれの道を行く。それに、何らかの最後の時が来るまで、これ以上お前に会いたくない。さようなら、アレクセイ!
ドミートリイ町の方へ歩き出す。
「ちょっと待ってくれ、アレクセイ、もうひとつ白状することがある、お前だけに」不意に戻ってくる。俺はここんところに、恐ろしい破廉恥を用意しているんだ(ここんところに、と言いながら彼は胸のあたりを拳でたたいた。まるで破廉恥がそのあたりのポケットの中にでも入れてあるのか、何かに縫い込んで首にでも吊るしてあるような素振り)。〔伏線〕俺は卑劣な男だが、今この瞬間おれがここに持っている破廉恥にくらべれば、そんなものは何でもありゃしない。いま成就されつつある破廉恥……きっとおれはそれを中止せずに決行するだろう。……まだ思いとどまることもできる、思いとどまって、明日にでも失われた名誉の半分を取り戻すこともできる……だが……お前はあとで、おれが事前に、あらかじめこう言っていたという証人になってもらいたい。ああ、破滅と闇だ!……じゃあばよ!
今度は本当に行ってしまった。アリョーシャは僧院へ。兄さんは何を言っているんだろう……あしたもぜひ兄さんに会って聞いてみなけりゃ……
僧院に着く。長老の庵室へ。
庵室には見習い僧と修道司祭。長老の容態は悪化し、しきたりとなっている夕べの法話さえもできなかった、ということから、習慣的記述、長老制度の中における修道僧仲間の懺悔についての説明的ディエゲーシス。長老制度反対派はこの懺悔をとくに批判しているとも。
パイーシイ神父と会話。長老はすっかり衰弱なさっている。それにしてもなぜ長老はおまえが当分俗界に暮すがよいと言われたのであろうな……
パイーシイ神父出て行く。長老がもう数日のうちにこの世を去ろうとしていることは明らかだった。アリョーシャは、父や、ホフラコーワ親子や、兄や、カチェリーナと会う約束をしたが、明日は僧院を一歩も出ないで、長老の死を看取ろうと決心する。
隣室に行き、長椅子の上に横になる。「彼はずっと前から毎夜、枕だけを持ってきて、その長椅子の上で眠ることにしていたのである。」〔括複法〕寝る前に祈る。「祈りをあげているうちに、彼はふとポケットの中で、さっきカチェリーナの女中が追いかけて来て路上で渡した例の小さなばら色の封筒が手に触れたのを感じた。彼は当惑を感じたが、最後まで祈りをあげた。それからしばらくためらったのち、封筒を開けてみた。」リーズ(それはけさ長老の前でさんざん彼をからかったあのホフラコーワ夫人の娘)の手紙。
引用。なんと恋文。『……いとしいアリョーシャ、わたくしはあなたを愛しております。……わたくしの心があなたを選んだのは、あなたとご一緒になって、年を取ったらご一緒に人生を終えたいと思ったからですの。……わたくしの秘密はもうあなたのお手に握られました。明日お出でになった時、どんなふうにあなたのお顔を拝見したらよいのでしょう。……アリョーシャ、わたくしを軽蔑しないで下さい。……』
■第二部
▼第四篇 破裂
- -----------------------------------------------------2日目
1 フェラポント神父
アリョーシャは朝早く起きる。日が昇って、僧院から人々がつめかけて来る。長老は力のつづくかぎり説教をした。
「お互い愛しあうことですじゃ、みなさん……」
修道僧は感激して聞き入る。アリョーシャは途中で偶然ちょっと庵室の外へ出るが、庵室の内外に集まっている修道僧が一様に興奮し期待にかられているのを見て驚いた。みなは長老の死後ただちに奇跡がおこるのを期待しているのだ。無分別にも。
アリョーシャを庵室の外へ呼び出したのはラキーチン。ラキーチンはホフラコーワ夫人からの手紙をことづかっていた。それは、昨日長老の祝福を受けに来た未亡人の老婆、彼女は兵に取られてもう一年ももどらないせがれのことで相談したのだが、長老の予言どおり、老婆が家に帰ったとたんに、息子からの手紙を手渡されたというのだ。ホフラコーワ夫人はこの新たに現前した《予言の奇跡》のことを、僧院長や修道僧みんなにぜひとも伝えるようにと熱心にアリョーシャに頼んだ。が、アリョーシャが伝えるまでもなく、ラキーチンがすでにこの《奇跡》のことを皆に広めていた。
皆はこの《奇跡》に感動し、「さらに大いなる奇跡が起ころうぞ!」と修道僧たちは期待した。この奇跡の話は僧院中はもちろん、礼拝式につらなるために僧院へ来ていた大勢の俗界の人々にも知れ渡った。なかでも一番この話に衝撃を受けたのは、例の遠方から来た修道僧、昨日長老に「そんな厚かましいことをしてよいのか」とリーズを指差して詰問した修道僧だった。
「彼は今ある疑惑におちいっていて、何を信じたらいいのかわからずにいた。実は昨日の夕方、……」彼はこの僧院の裏にある孤立した庵室にフェラポント神父を訪ねていた。フェラポント神父、長老制度に反対する沈黙の苦行者。四フントのパンと聖餅と水が彼の一週間の食べ物のすべて。すさまじい精進で、僧位を持たない一介の修道僧にすぎなかったが、非常に尊敬されていた。
遠方から来た修道僧は「あとで彼自身が話したことによると、激しい恐怖を抱きながら近づいていった。」
フェラポント神父との会話。遠方からの修道僧は、相手の精進を褒めたたえる。「わたしどもの二日分のパンが、あなた様の一週間分にあたるのでございます。まことに驚き入った偉大なるご精進でございます」
フェラポント神父は僧院の連中をけなしはじめる。やつらはパンから離れられん。つまり悪魔に通じている。わしは僧院長のところで悪魔を見たことがある。背の高さが一メートルかそれ以上もあって、太くて長い褐色の尻尾を持つやつもいる。僧服のポケットからのぞいておるのもある……
遠方からの修道僧は驚くが、目には不信の色。
修道僧は戻って行った。彼の心はしかし相変わらずゾシマ長老よりもフェラポント神父の方に惹かれていた。彼は何よりも精進を尊んでいたので。それに彼はそもそも長老制度に偏見を抱き、多くの反対者の尻馬にのって、頭から有害な制度だと決め手かかっていたので。ゾシマ長老の《奇跡》の話が彼を動揺させたのはそのためだった。「アリョーシャはのちに、好奇心をむきだしにしたオブドールスクの客僧の姿が、長老やその庵室のまわりにひしめく修道僧たちのあいだに何度も出没し、人だかりを見つけては首を突っ込んで話に聞き入ったり、誰かれなしに質問したりしていたのを想い出した。……」〔これでアリョーシャの視点にふたたび叙述が移る〕だがその時はそれどころではなかった。彼は長老に呼ばれた。
せがれや、家の人たちがお前を待っているのではないか、お前に用事があるのではないか……必ず行ってあげるがよい……
アリョーシャはためらうが、長老が「お前の前でわしが地上の最後の言葉を言わずに死ぬことはないのじゃ。最後の言葉を、わしはお前に言うのじゃ、遺言としてお前に残すのじゃ。……さ、今は約束した人たちのところへ行くがよい」と言われて、行くことにした。彼は急いで用事を済まそうと考えた〔ところが、この一日は予想に反して凄い長くなる〕。出て行く時、パイーシイ神父が彼にはなむけの言葉を送った。
科学は神からさずけられた聖なる書物に約束されたすべてのことを解明してしまったが、それは部分の解明にすぎず、全体は依然としてこゆるぎもせずに彼らの眼前に立ちはだかっている……科学や無神論の情熱・知力も、かつてキリストによって示された姿の他には、人間と人間の尊厳にふさわしいいっそう優れた姿を作り出すことはできなかった。……このことをとくに覚えておくがよい、お前はいまから長老の指図で俗界に住むことになるのだから……
パイーシイ神父は長老に代わる新しい指導者としてアリョーシャに語ったのだ。
2 父の家で
アリョーシャはまず最初に父の家へ。イワンに隠れてこっそり入ってこいと父は言っていたが……イワンは二時間ほど前に外出した、とマルファ。〔別に二時間前の外出に特に必然性があるわけではない。後にイワンとの対話場面を持ってくるための操作。情景設計、人物出し入れ設計に注目。〕スメルジャコーフも午餐の買出しに出かけていて留守。
父一人で部屋でコーヒーを飲んでいる。夕べ怪我した額に赤い布を巻いている(「赤いほうがいい。白いと病院くさいからな」)。
父ぶっきらぼうに、何の用事でおいでなすったのかね
お見舞いに
昨日わしが来いといったからな……ありゃでたらめだ、よけいなご心配をなさったわけさ……
イワンについての話。イワンは出かけたよ……あいつはミーチャのいいなずけを横取りしようと一生けんめいなんだ……ここに暮してるのもそのためだよ
イワン自身がフョードルにそう言ったらしい。
あいつが来たのはここへ来たのは、まさかこっそりわしを殺すためじゃないだろうな? 来たからには何か目的があるんだろうが
なんてことを!
なるほどあいつは金をくれとは言わん……やりはせんがね……わしはできるだけ長生きするつもりなんだ……目下のところわしは五十五歳だが、まだこの先二十年は男性でいたいと思っている……そこで必要になるのは金だ……わたしは最後まで自分の醜悪な世界に生きていたいのだ、アレクセイ、これはご承知おき願いますぜ……わしはお前の天国とやらには行きたくないぜ、ま、天国があるとしての話だが……きのうイワンがここでうまいことを言っていたな……(ここからイワンの話にまた移る)……いや、イワンはとんだ食わせものだぞ……なぜあいつはわしと口をきかんのだ? 実際あのイワンは卑劣な男だ! 奴はわしがグルーシェンカと結婚するのが恐ろしいんだ、だからあいつはわしの見張りをして、グルーシェンカに近づけまいとしている──まるでわしがグルーシェンカと結婚しなければ、あいつにたんまり金を残すと思っているみたいだ!──そうしてミーチャがグルーシェンカと結婚したら、イワンはミーチャの金持ちのいいなずけを手に入れる、これがあいつの計算さ! イワンは卑劣な男だよ!
〔ラキーチン、およびスメルジャコーフの解釈と同レベル〕
わしは今日ミーチャを牢屋にぶちこんでやろうと思った……実の父親の顔をけとばして床にぶつけたり、今度はほんとに殺してやると脅したりまでしやがる……だが考えなおしたよ、わしがあの悪党を牢屋にぶちこむとな、あの女があいつのほうへ行ってしまうのさ……われわれ人間にはこういう性質があってな、万事ひとの反対に出たがるものだ……
アリョーシャ、わしはお前が好きだ、だが相手が悪党だとわしも悪党になる……イワンがチェルマーシニャへ行きたがらないのはなぜだと思う? グルーシェンカが来ないかどうかスパイする必要があるからさ……実際、悪党ばかりだ! もっとも、わしはイワンを息子とは思っちゃおらん……どこからあんな奴が出て来たんだろう?……わしらと魂のできが違うんだ……そのくせ、何か遺産がもらえるつもりでいやがる……わしは遺言などせんぞ……これはご承知おき願いたいがね……
もうお前に用事はない……さっさと帰るがいい……
アリョーシャは別れの挨拶をするために近づいて、肩に接吻した。
なぜそんな真似をするんだ? まだこれから会えるじゃないか。それともこれっきり会えないとでも思っているのか?
とんでもない、ただ何の気なしに
老人はアリョーシャの顔を見つめる。「おい、いいか」と老人は息子の後姿に向かって叫ぶ。「またいつか近いうちに来いよ、魚のスープを食べにな、特製の魚スープを作ってやろう、きょうのと違う天下一品のを。きっと来いよ。そうだ、明日がいい、明日また来いよ」
3 小学生たちと知り合いになる
アリョーシャの内語から。『お父さんにグルーシェンカのことを聞かれないでほんとによかった……さもないと昨日のことを話さなければならないところだった……』お父さんは憎悪に燃えてる、そしてドミートリイも……どうしても今日のうちに兄さんを探し出さなければ……〔だが実際は途中でこの目的を忘れる〕
「しかしアリョーシャは、そのまま物思いにふけってはいられなかった。突然、途中である出来事が起こって、それは一見ささいな出来事に見えたけれども、彼の心に強い衝撃を与えたのである。……」どぶ川にかかった橋の手前に小学生が群がっている。「アリョーシャはどんな時でも、知らん顔をして子供のそばを素通りすることができなかった。それはモスクワにいた時分からそうなので、……」〔括複法〕子供たちはみんな石を手に持っている。一方、どぶ川の向こう岸にもひとりの子供が立っている。互いにいがみあっているらしい。
この一団めがけて石が飛んできて、少年たちも石を投げ返す。〔この少年たちの中にスムーロフがいる〕
向こう岸の少年は、今度はアリョーシャめがけて石を投げる。
「今のはあんたを、あんたをねらったんだ。わざとあんたをねらったんだ、だってあんたはカラマゾフだもの!」と少年たち。
さらに石の応酬。
「何をするんだ!」とアリョーシャは飛んでくる石に向かって立つ。あいつが先にははじめたんだ、あいつは悪い子なんだ……さっき教室で、クラソートキン〔コーリャ〕をナイフで突いて血を出したんだ……
石が向こう岸の少年にあたり、少年は泣いて逃げ出した。
「やーい、こわくなって逃げ出したぞ、へちま!」
あんたはあいつを追っかけて行くといいや……そうしてあいつに聞いてごらん、おんぼろ風呂場のへちまが好きかって……
そんなことなんか聞かないよ……
アリョーシャは橋を渡って、仲間はずれにされた少年のほうへまっすぐ歩いて行く。
少年は九歳ぐらいの背の低い、弱々しい子供。
あっちでみんなに聞いたんだけれど、君は僕を知っていて、何かわけあって石を投げたんだってね……
少年はうるさいな、と腹立たしげに。
じゃいいよ、僕はもう行くから……
「坊主のくせに絹のズボンをはいてらあ!」と少年は叫ぶ。これでアリョーシャが飛びかかってくるだろうと考えて身構えたが、アリョーシャはそのまま歩いて行った。少年はアリョーシャの背中に石をなげつける。
君は後ろからねらうのかい?……
さらに少年石を投げる。そして今度こそアリョーシャが飛びかかって来るだろうと待ち構える。が、今度もアリョーシャが何もしないのを見ると、腹を立て、自分からアリョーシャに飛び掛り、相手の左手に飛びつくと、いやというほど中指に噛み付く。アリョーシャは悲鳴をあげて、もぎはなす。指は骨にとどくほどひどく噛まれていた。血が流れる。ハンカチを傷口に巻くのに一分ほどかかる。それでもアリョーシャはおだやかな顔で少年を見る。
「ごらんよ、ずいぶんひどく噛んだじゃないか。これで気がすんだろう? じゃ今度は言ってくれないか、僕が君に何をしたと言うんだい」
少年驚く。
「僕は君をぜんぜん知らないし、今はじめて会ったんだよ。しかし、僕が君に何もしなかったとは考えられないね──理由もなしに君がこんなひどいことをするはずがないもの。僕が何をしたのか、どんな悪いことをしたのか、言ってくれない?」
少年はとつぜん大声でわっと泣き出すと、駆け出して行った。
アリョーシャは暇ができたらこの少年を探し出して、この謎を解こうと決心する。
4 ホフラコーワ夫人の家で
まもなくホフラコーワ夫人宅到着。すぐ夫人出て来る。
新しい奇跡のことを報せた手紙について。
ときにご存じ? 今、うちにカチェリーナ・イワーノヴナがいらしていますの〔何故? というかなんて便宜的な情景設計だ〕
そりゃ好都合です……今日ぜひ会いたいと言われていたので
夫人は昨日のグルーシェンカVSカチェリーナのことを聞き知っている。「……今あちらにあなたのお兄さんが、と言ってもあのきのうの恐ろしいお兄さんじゃなくて、もうひとりの、イワン・フョードロヴィチがいらして、あの人とお話をなさっていますわ。」〔これもご都合主義的な情景設計だな〕二人はとんでもないような話をしている……わたくしに言わせればあれは《破裂》です……絶対に信じることのできない恐ろしい作り話です……
ホフラコーワ夫人はアリョーシャを待っていた……だがその前にリーズがなんでアリョーシャが来た途端ヒステリーを起こしたかどうか訊ねる。
不意に隣室とのあいだの戸の隙間からリーズの甘ったれた声。
夫人はアリョーシャに言う。リーズは一晩中加減が悪くて、うなり通しだった。早く朝になってヘルツェンシュトゥーベが来てくれればいいとどんなに待ったことか。もっともあのお医者はいつも《わかりませんな、経過を見てみなければ》の一点張りだが。
リーズ、アリョーシャをからかいはじめる。ホフラコーワ夫人、娘の気まぐれを嘆く。ホフラコーワ夫人、娘のことでも、ヘルツェンシュトゥーベのことでも、あの奇跡のことでも、ゾシマ長老の容態のことでも、今客間で起こっている悲劇のことでも、心を悩ませていて錯乱しかけている。
アリョーシャは噛み付かれた指を見せて、何か包帯にできるものをくれないかと言う。
ホフラコーワ夫人曰く、まあひどいお怪我、恐ろしい!
リーズがそれを見て、ドアを押し開ける。入っていらっしゃい! どうなさったの!何よりも先に水よ! 傷口を洗わなけりゃ……
女中のユーリヤに水を持ってこさせる。母親には、ガーゼと消毒液を持って来るように命じる。「いまもってきますよ、リーズ、ただそんな大声出したり、やきもきしたりしないで頂戴。……」
「ホフラコーワ夫人は急いで出て行った。リーズが待っていたのはそれだったのである。」
リーズ、まず最初に怪我についてきく。アリョーシャ、小学生の一団との遭遇を話す。
小学生の喧嘩にかかり合うなんて、まるであなたが子供みたいじゃありませんか……
次の話。きのう差し上げたわたしの手紙を今すぐ返して頂戴。早く、すぐにお母さんが戻って来てしまう……
今持ってないんです、あっちに置いて来たんです……
あなたはきっとわたしのことをお笑いになったでしょうね……
笑うもんですか……
アリョーシャはあの手紙を真剣に受け取った。ゾシマ長老が亡くなったら、自分は僧院を出なければならないし、結婚もしなければならない。そして彼はリーズよりも妻にふさわしい人は考えられない……
でもわたし片輪なのよ、椅子に坐ったまま運んでもらっているのよ!
僕が椅子を押してあげますよ……
「あなたは気違いだわ」といらだたしげにリーザが言った。「あんな冗談を本気にして、急にそんな馬鹿なことを言い出すなんて!……あっ、ママが来た。でもかえってよかったかも知れないわ、ママ、どうしてママのすることはいつも遅いの、こんなに時間がかかって!」
神経質に会話する母娘。わたくしはひとつひとつの出来事のためではなくて、そうしたすべての、全体のことで苦しんでいますの……。ねえママ、この人ったら小学生と喧嘩して、しかも結婚するつもりなんですって……。
ホフラコーワ夫人、カチェリーナがアリョーシャに会いたいと言っていると言付け。
リーズは引き止めたがるが、アリョーシャは行こうとする。
まあ! あなた行くの? そうなの? そうなのね?
どうしたんです? あちらの用事がすんだら、また来ますから、思うぞんぶん話はできますよ……
ママ、この人を連れて早くあっちへ行って頂戴。アレクセイ・フョードロヴィチ、カチェリーナさんのあとでわざわざわたしのところへ寄らないでいいわよ……
どうして……いいです、もう三分ほどここにいます、なんなら五分でも
五分ですって! 早く連れてって、ママ、この人怪物よ!
参りましょう、アレクセイ・フョードロヴィチ、この子は今日あんまり気まぐれが過ぎますわ……
ホフラコーワ夫人はアリョーシャと一緒に部屋を出ながら、早口でささやく。「わたくし、あなたに暗示を与えるつもりもありませんし、こっそり幕を上げてお見せする気もありません。でもおはいりになって、あちらでどんなことが起こっているか、ご自分でとっくりごらんになって下さいまし。あれは恐ろしいことです。世にも幻想的な喜劇です。あの人はあなたのお兄さんのイワンを愛していながら、ドミートリイさんを愛していると一生けんめい自分に言い聞かせているのです。これは恐ろしいことですわ! わたくしご一緒にはいって行って、もし追い出されなかったら、おしまいまで待たせていただきますわ」
5 客間での破裂
〔ここでホフラコーワ夫人が同席しているのは後の展開からすると必須だな。情景設計上の計算。〕
「しかし客間では、もう話が終わりかけていた。……」もうイワンは帰ろうとしていた? 「実は今ここでアリョーシャの疑惑のひとつが、──しばらく前から彼を苦しめていた不安なひとつの謎が、──解決されようとしていたのである。」
時間幅を過去へ広くとってのディエゲーシス。アリョーシャは一月前から兄のイワンがカチェリーナを愛していて、ミーチャから彼女を横取りしようとするつもりだとの噂を何度も聞いてきた。彼はそれを馬鹿らしいと思っていた。カチェリーナは熱烈に兄のドミートリイを愛していて、イワンのような男を愛するはずがないと信じていた〔この辺りはドミートリイの方がアリョーシャより物事をよく見ている?〕。ところが、昨日グルーシェンカとの一幕に立ち会った時、とつぜん別な考えがふと頭をかすめたのだった。
たった今ホフラコーワ夫人が口にした《破裂》という言葉を聞いて、アリョーシャはぎくりとした。ホフラコーワもまた、カチェリーナはイワンを愛していながら、一種のたわむれのために、《破裂》のためにわざと自分を欺き、感謝から生じたドミートリイへの偽りの愛で自分を苦しめているのだと言ったのだ。確かにアリョーシャは直感していた、カチェリーナのような性格の女性はつねに相手を支配せずにはいられないのだ、と。そしてドミートリイのような男なら彼女も支配できるだろうが、イワンのような男は決して支配できないということも。そう、イワンは決してカチェリーナの前に屈服しないばかりか、たとい屈服してもそれが彼に幸福をもたらすことにならない……アリョーシャが客間に入ったとたんにふとひらめいたのも、こうした不安と想像だった。
さらにもう一つの考えがひらめく。『もしこの女性がふたりの兄のどっちも愛していないとしたら、どうなるだろう』。アリョーシャはこのひと月の間、そういう考えが頭に思い浮かぶたびに自分を責めていた。〔括複法〕自分に愛情や女性のことの何が分かるというのだ……。しかしやはり考えないではいられなかった。しかしこのように混乱した状況のなかで、自分はどのように振舞ったらいいのだろうか……。
アリョーシャの姿を見ると、カチェリーナは帰りかけていたイワンを引き止める。ホフラコーワ夫人も引き止める。
カチェリーナ熱っぽく口を切る。ここにいる皆さんはわたしのお友だちですわ……わたしきっぱり申しあげますわ……わたしはドミートリイを愛しているかどうかわからない……わたしはあの人がかわいそうになったのです……憐憫は愛とは違う……でもわたしはゆうべ最終的な決心しました……わたしのかけがえのない親友であるイワン・フョードロヴィチも、わたしに賛成して、わたしの決心をほめてくださっております……
そうです、僕は賛成ですね
カチェリーナ、アリョーシャにその決心を語る。もしドミートリイが淫売婦と結婚なさったとしても、わたしはやはりあの人を見捨てはしません! 一生涯、命のあるかぎりわたしはたえずあの人を見張る。あの女のために不幸な境遇に落ちたなら、わたしのところへ来ればいい、その時あの人は親友に、妹に迎えられるのです……やがてあの人もわたしが自分のために一生を犠牲にした本当の妹であることを納得するでしょう……わたしはあの人の神になって、あの人にお祈りをさせるのです……あの人が不実な真似をして裏切ったのに、わたしが一生涯あの人に貞節を尽くし、一度お約束した言葉を守ってゆくのを、一生涯あの人に見させるのです……
カチェリーナは息を切らす。「ことによると、彼女はもっと立派に、巧みに、自然に自分の考えを表現したかったのかも知れないが、結果はあまりにも性急に、あまりにも露骨になってしまったのである。……」
イワン曰く、あなたは非常に真剣である、あなたは正しい……
ホフラコーワ夫人がこらえきれなくなって口を出す。そんな決心は一時的なものですわ、きのうの侮辱だけに由来する一時的な感情ですわ
イワンはむきになって言う。いえ、他の女性の場合には、この瞬間は単なるきのうの印象、単なる瞬間に過ぎませんが、カチェリーナさんの性格では、この瞬間は一生涯つづくでしょうね……この人は義務を果たすという感情なしには生きて行けない……実際この計画はある意味では誇らしげな、絶望的なものですが、結局はあなたによって征服され、その自覚が最後には最も満ちたりた満足をもたらすでしょう……
カチェリーナはアリョーシャの意見を聞きたがる。「わたしまだまだ気丈でいられますわ、あなたやあなたのお兄さんのようなお友だちがいらしてくださるのですもの……わたし知っていますもの、おふたりが決してわたしを見捨てないことを……」
「ところが、あいにく僕は明日たぶんモスクワへ出発して、当分あなたを見捨てなければならんのです。……」とイワン。
「明日、モスクワへ!」とつぜんカチェリーナの表情が変る。なぜか嬉しいことでもあったかのような満足しきった顔になる。
いいえ、あなたが行っておしまいになるのが嬉しいのではありません……(彼女は失言を訂正するように、急に愛想の良い微笑を浮かべた)……あなたのような親友がそんなふうにお考えになるはずはありませんわね……反対にわたし、あなたを失うなんてあんまり不幸なことですわ……(彼女は突然イワンめがけて突進すると、相手の両手を熱烈に握り締めた)……ただあなたがモスクワへいらっしゃれば、わたしの今の境遇を伯母やアガーフィヤに伝えていただけるのが好都合と思っただけですの……嬉しいのはそのことだけですの、信じて下さいね……じゃ急いでアガーフィヤ宛ての手紙を書きますわ……。カチェリーナは部屋から出て行こうとする。
でもアリョーシャは? アレクセイ・フョードロヴィチのお考えをあんなに聞きたがっていらしたじゃありませんか、とホフラコーワ夫人。
わたし忘れてなんかいませんわ……。カチェリーナ、アリョーシャに意見を言ってくれと頼む。
「僕、夢にも思いませんでした。まさかこんなことがあろうとは!」とアリョーシャは悲しげに叫ぶ。
?????????
まずイワンがモスクワに行くのをカチェリーナが嬉しがったことを、信じられないと言う。いくらあなたが親友を失うのが残念だと言って見せたって、それじゃやっぱり兄が発って行くのが嬉しいと面と向かって当人に言って聞かせるようなものじゃありませんか。……」アリョーシャ、息を切らして。〔イワンの反応が描写されないが、そうとう興味深げに耳を傾けているに相違ない〕
なんのことですの、わたしさっぱりわかりません……
僕自身もわからないんです、……いま突然、啓示みたいなものがひらいめいたんです……。その啓示を語り出す。あなたは兄のドミートリイを愛していない。ドミートリイの方でも愛していない、ただ尊敬しているだけ。……どうして今こんな思い切ったことが言えるのか、まったく我ながらふしぎですが、誰かひとりぐらい真実を言う人がいなければ、……だって、ここには誰ひとり真実を言おうとする人がいないんですから……」
真実ってどんな?
今すぐここにドミートリイを呼んで、ドミートリイの立会いのもとにイワンとカチェリーナを結びつけるべきだと提案する。……なぜかと言うと、あなたはイワン兄さんを、愛するがゆえにかえって苦しめているからです。……なぜ苦しめているかと言うと、あなたがドミートリイ兄さんを発作的に愛しているからです、……いつわりの気持ちで愛しているからです……なぜかと言うと、あなたがむりに自分で自分を説き伏せて……
カチェリーナは怒りで顔面蒼白。あなたはちっぽけな宗教狂人だわ!
イワンは不意に笑いだして、椅子から立ち上がる。その手には帽子があった
「お前は思い違いをしているよ、アリョーシャ」と彼は、アリョーシャがはじめて見る表情を浮かべて言った。それはある若々しい真剣さと、強い、非常にあけっぴろげな感情との入り混じった表情だった。「カチェリーナ・イワーノヴナは一度だって僕を愛したことはない。この人は、僕がひと言も愛を打ち明けたことはないけれども愛しているのをずっと承知していた、──承知していながら、僕を愛したことは一度もない〔ということは、カチェリーナは誰一人愛してない?〕。同じように僕がこの人の親友であったことも、一度も、ただの一日もない〔それも否定すんのか〕。誇り高い女性には、僕の友情など必要ないのさ。この人はたえず復讐するために僕を自分のそばに引き留めておいたのだ。この数年間ずっと、たえず、一瞬一瞬ドミートリイから受けたあらゆる侮辱、ふたりが最初に出会った時からの侮辱のうらみを、僕に、僕に向かって晴らしていたのだ。……何しろあのふたりの最初の出会い、あれもこの人の胸に侮辱として残っているのだからね。この人はそういう心の持ち主なんだ。僕がしじゅう兄貴に対するのろけの聞き役だったんだ。僕はいま発って行く。しかし、いいですか、カチェリーナ・イワーノヴナ、あなたの愛しているのは本当に兄貴ひとりなんです。それも兄貴の侮辱が激しくなればなるほど、ますます強く愛して行くのだ。ここにあなたの破裂がある。あなたの愛しているのは現在あるがままの兄貴、あなたを侮辱する兄貴なんです。もし兄貴の身持ちがなおったら、あなたはたちまち兄貴を捨てて、すっかり愛想をつかしてしまったことでしょう。しかしあなたにはああいう兄貴が必要なんだ。たえず自分の貞節を誇りに思い、兄貴の不実を非難するために。しかもそれはあなたの誇りの高さに由来している。そりゃ屈辱的なことも多いでしょう、しかしすべては誇りの高さが原因なんだ。……僕はあまりにも若すぎて、あまりにも強くあなたを愛しすぎた。僕だって今さらこんなことをあなたに言う必要はない、いっそ黙ってあなたのそばを立ち去るほうが立派だってことぐらい承知しています。そのほうがあなたにとっても侮辱的じゃないはずだ。しかし僕は遠くへ行って、二度と帰って来ないんですからね。これが永遠のお別れなんですからね。……僕は破裂のそば杖を食うのはごめんです。……もっとも、もうこれ以上なにも言うことはない、何もかも言ってしまった。……じゃ、さようなら、カチェリーナ・イワーノヴナ、僕に腹を立てっこなしですよ。僕のほうがあなたの百倍も罰を受けているんですから。二度とあなたにお目にかかれないという一事だって、ずいぶんひどい罰だ。さようなら。お別れの握手は結構です。あなたがあんまり意識的に僕を苦しめたので、僕は今この瞬間あなたを赦す気にはなれません。いずれは赦してあげますが、今の握手の必要はありません。Den Dank, Dame, begehr ich nicht.(夫人よ、わたしは感謝を求めているのではありません。──シラーの詩より)」
イワンは出て行く。
アリョーシャはイワンの代わりに謝る。僕のせいです、僕が口火をきったんです、イワンは意地の悪い、よくない口のきき方をしました……
カチェリーナはふと隣室へ出て行った。〔アグラーヤがふと出て行ったりするのと同じで、必要な情景設計・人物出し入れ設計〕
ホフラコーワ夫人はアリョーシャの態度が天使のように立派だったと褒める。
カチェリーナ戻ってくる。手に虹色の紙幣の二枚持っている。
あなたに折り入ってお願いがありますの、アレクセイ・フョードロヴィチ……。ドミートリイは一週間前に乱暴をはたらいた。或る二等大尉のひげをつかんで往来を引き回した。その息子の小さな子供がそれを見てそばを駆け回りながら、泣き叫んだり、父親の代わりにあやまったりしたのに、みんな笑って取りあわなかった。カチェリーナはその暴挙に憤りを感じる。カチェリーナはそのひどい目にあった男のことを調べて、それが大そう貧しい人だということを知った。スネギリョーフ。不幸な家族。「……わたしふとあなたのお顔を拝見して、……つまりその、わたし考えましたの……優しいアレクセイ・フョードロヴィチ、その人の家に行って、口実を見つけてその二等大尉の家の中へはいって、……そして上品に、注意深く……つまりあなたでなければできないことですわ……このお金を、この二百ルーブリを渡していただきたいんですの……その人が受け取るように説き伏せてくださいな……それともだめかしら? ……これは告訴を避けるための示談金ではなくて、ただほんの同情のおしるし、わたしからの、ドミートリイ・フョードロヴィチの婚約者からの、お力になりたいという気持ちのおしるしで、あの人からのものではありません……わたしか自分で出かけるといいんですけれど、あなたのほうがずっと上手にやってくださいますものね……。その二等大尉の住所を教える。……わたし何だか……少し……疲れましたわ……ではまた……
〔あまりにも唐突すぎる展開だな。二等大尉については以前に伏線が張られていたし、さっきその息子に出会ったばかりだから、虚構としての必然性はあるが、現実的に考えると無理がありすぎる展開〕
カチェリーナ部屋から出ていく。アリョーシャはまだ何か言いたげだったが、ホフラコーワ夫人は彼の手を取って、部屋から連れ出す。ホフラコーワささやくようなおしゃべり。わたしはカチェリーナさんがドミートリイさんと別れてイワンさんと結婚すればいいと願ってますの……
僕はあの様子を見ているうちに、突然なぜか、あの人がイワンを愛しているという気がして来たんです、で、あんな馬鹿なことを言ってしまったんです……
カチェリーナなぜか有頂天になっている。さっきイワン・フョードロヴィチが出て行った時のあの若々しいすばらしさはどうでしょう! 本当にすばらしいわ……
ホフラコーワ夫人、大急ぎであの用事を済ませて、また戻って来て欲しいと頼む。
アリョーシャは出かける前にリーズの部屋に入ろうとするが、追い返される。
6 小屋での破裂
歩きながら内省するアリョーシャ。悲しむ。『色恋について僕に何がわかるっていうんだ……僕は疑いもなく新しい多くの不幸の種をまいた……』
二等大尉の住処に行く前にドミートリイのところへ寄ろうと思う。
現前的な流れに乗らずにディエゲーシス。「カチェリーナの依頼のなかに、アリョーシャにある啓示を与え、また大そう彼の興味を引いたひとつの点があった。……」二等大尉の息子こそ、彼の指を噛んだあの少年ではないか。
ドミートリイは留守だった。
「やっとのことで彼は、オーゼルナヤ街の町人カルムィコワの家の探し出した。」二等大尉はそこに間借りしている。二等大尉の住まいはただの物置小屋にすぎなかった。戸口をノック。小屋に入る。
小屋の中の描写。粗末。夫人。若い娘。もう一人、せむしの若い娘。そして四十五、六の男(アリョーシャはこの男を見ると、《へちま》という言葉がふとひらめいた〔アリョーシャの意識の中では不意の思いつきだが、この連想には無意識的な由縁がある〕)。男はアリョーシャを見ると飛び上がる。
アリョーシャは初めてこの男に会ったのに、男の方はアリョーシャのことを知っている模様。男の表情描写。「その顔はある極度の厚かましさと、同時にまた──奇妙なことだが、あらわな小心さを表わしていた。……もっと適切に言えば、相手を殴りたくてならないのに、逆に相手に殴られはしまいかとびくびくしている人にそっくりだった。」服装の汚さ。
僕はアレクセイ・カラマゾフという者ですが……
それはもうよく存じております……手前が二等大尉スネギリョーフでございまする
どういう用件? 僕の口からひとこと申しあげたいことがありまして……
アリョーシャ坐らせられる。
二等大尉自己紹介。二等大尉ゴザイマスルと申した方が宜しいようでございまして。……どうして私などに好奇心をお持ちになりましたので?
僕がうかがったのは、例のあの事件のことで……。きまり悪げなアリョーシャ。
「その人はね、パパ、僕のことをパパに言いつけに来たんだよ」と隅のカーテンの奥から、さっきの少年の声が。僕はさっきその人の指に噛みついてやったんだ! カーテンが開くと、少年寝ている。具合悪いらしい。
二等大尉驚く。今すぐ折檻してやります! たった今折檻してやります!
いや、僕は何も言いつけに来たわけじゃありません……僕は折檻なんかしてもらいたくはありません……
「あなたは本当に手前が折檻するとでもお思いだったのでございまするか。手前がイリューシェチカを取っつかまえて、たった今、あなたの目の前で、あなたにご満足いただけるように折檻するとでも? すぐにそうしろとおっしゃるのでございますか」と二等大尉は、まるで飛びかからんばかりの身のこなしで、不意にアリョーシャのほうへ向き直って言った。「あなたのお指のことは、お気の毒ではございまするが、いかかでございましょうな、イリューシェチカを折檻する前に、手前の指を四本、たった今あなたの目の前で、あなたにたっぷりご満足いただけるように、ほらこのナイフでばっさり切り落としては。指四本なら、あなたの復讐欲を満たすのに十分だと存じまするが、まさか五本目までもとは……」彼は突然、息がつまったように言葉を切った。挑戦の表情。
「やっと僕にも事情が飲み込めたような気がします」とアリョーシャ。あなたの息子さんはお父さんを愛していて、あなたを侮辱した男の弟である僕に飛び掛ったのですね……しかし兄は自分の暴挙を後悔しています……兄はあなたに謝罪するでしょう……
すると、ひとの顎ひげをひんむしっておいて、赦しを乞う。それでけろりと澄ました顔をしようというわけでございまするな
いいえ、とんでもない、それどころか兄は、あなたの満足なさることなら何でも、どんなことでもするでしょう……
土下座でも?
ええ
いや感激しました、涙が出るほど感激しました……
スネギリョーフ、家族を紹介しはじめる。手前が死んだら、いったい誰がこの子たちをかわいがってくれるのでございましょうな……
窓際の若い娘が喚く。もうたくさんだわ、恥知らずな真似は……
母親。ようこそ、チェルノマーゾフさん
カラマゾフさんだよ、おっかさん……なにしろ手前どもは卑しい生まれでございましてな、卑しい生まれで
パパ、パパったら!とせむしの娘も叫ぶ。
道化者!
母親、昔話を始める。昔は立派なお客さんが大勢お見えでしたっけ……どうかみんな、わたしを、おっかさんを赦しておくれ……。泣き出す。
いかがでございます、ごらんになりましたか、お聞きになりましたか、とスネギリョーフ。
「パパ、パパ! まさかパパはそいつと……。ほっとけよ、そんな奴」と少年。
窓際の若い娘も癇癪を起こす。
スネギリョーフ、外へ出ようとアリョーシャに言う。「さ、参りましょう、アレクセイ・フョードロヴィチ、けりをつけねばなりませんでな。……」
二人は通りへ出る。
7 そして清らかな外気の中で
「清らかな空気でございまするな、手前どもの屋敷の中は、あらゆる意味で不潔でございますのに。まあゆっくり参りましょう。面白いお話をお聞かせいたしたいと思いますので」
「僕はひとつ大切な用事があるのです。……」とアリョーシャが口をはさんだ。「ただどう切り出せばいいのか」
「手前にご用事がおありなことは、とうから存じておりまする。ご用事もなしに、手前どもへお顔をお見せ下さるはずはございませんからな。……」ドミートリイとの事件の模様を詳しく話す。ドミートリイがひげを掴んで広場へ引きずり出した、そこへ折悪しく学校からの帰りだった小学生が居合わせて、その中にイリューシャもいた。少年は加害者に向かって、『放して、ねえ放して、これは僕のパパなんだ、僕のパパなんだ、堪忍してあげてよう』と叫んで、ドミートリイの手にキスまでした。「……手前はその瞬間のあの子の顔をいまだにありありと覚えておりまする、わすれられないのでございまする、忘れられるものじゃございません!……」
「僕は誓います」とアリョーシャは叫んだ。「兄は誠心誠意、心からあなたに後悔の気持ちを示すでしょう。その同じ広場にひざまずいてでも。……僕がきっとそうさせて見せます、さもなければ、もう兄でも弟でもありません」
「ははあ、するとまだ計画だけの話でございますな。直接あの方からのお話じゃなくて、あなたのご立派な、血気さかんなお心から出たお話でございまするな。……いや、そういうわけならば、ひとつご免こうむって、あなたのお兄様の騎士的な、将校らしい、気高いお心の話をすっかりいたしますかな。……」ドミートリイはスネギリョーフに決闘を申し込め、と挑発した。その景色はイリューシャの記憶に刻みこまれたことだろう。スネギリョーフは決闘を申し込むわけにはいかなかった、もしそれで彼が死んだら、婦人三人とイリューシャを誰が養うのか? つまりお兄様に決闘を申し込むてえことは、手前にとってはそれほどの犠牲なんでしてな……
兄はきっと謝罪します……広場のまんなかであなたの足もとにひれ伏します、とアリョーシャ燃えるように叫ぶ。
話の続き。二等大尉は裁判所へ訴え出ようと思ったのが、グルーシェンカに怒鳴りつけられる。『大それたことを考えるもんじゃないよ。もしあの人を訴えたりしたら、あの人がお前を打ったのは、お前が詐欺を働いたからだって、みんなの前ですっぱぬいてやるからね。……それだけじゃない、うちの商人さん(サムソーノフ)にも言って、お前を追い出させるから』しかし誰のためにそんな詐欺を働いたのか、誰の言いつけだったのか、それはあの女と、フョードル・パーヴロヴィチの差し金じゃないか。そしてもしあの商人にまで追い出されたら? もう自分は誰のところでも稼がせてもらえない……。彼にはグルーシェンカとサムソーノフだけが命の綱なのだ……。「時にひとつおたずねいたしまするが……」イリューシャのこと。
アリョーシャはイリューシャとの一件を話す。子供の一団と石を投げ合ったことも。危険。アリョーシャの忠告──しばらく坊ちゃんに学校を休ませたらどうでしょう、そのうちには気持ちも和らいで、怒りもおさまるでしょうから……
この「怒り」という言葉に反応して、また二等大尉の語りが始まる。怒りでございまするか! まさしく怒りでございまするな、小さな子供にも大きな怒りがございまする、あなたはそれをご存じない、ひとつこの話を詳しくさせていただきましょうか……。ドミートリイとの事件があってから、学校ではみんながイリューシャを「へちま」とからかいはじめた。イリューシャの胸には気高い精神がめらめらと燃え上がった。少年はみんなを敵にまわして父親のために立ち上がった……。スネギリョーフは毎晩イリューシャを連れて散歩することにしている。子供たちがイリューシャを笑いものにした日の夜……『パパ、あの時あいつはひどいことをしたね、パパ』『あいつと仲直りしちゃいけないよ、パパ、仲直りしちゃ。学校の友だちがね、あのことでパパが十ルーブリもらったなんて言ってるんだ』『ねえパパ、あいつに決闘を申し込んでよ、だってみんなが学校で、パパは臆病だから決闘を申し込めないんだ、それで十ルーブリもらってすましたんだってからかうんだもの』……スネギリョーフが決闘を申し込めない理由を説明すると……『パパ、ねえパパ、それでも仲直りはしないでね。僕が大きくなったら、決闘を申し込んで、殺してやるからね。……僕が大人になったら、あいつをぶっ倒してやる、サーベルであいつのサーベルを叩き落して、飛びかかって、投げ倒してやる、そうして頭の上にサーベルをふりかぶって、こう言ってやるんだ、今すぐでも殺せるけど、命だけは助けてやる、わかったか!』……いかがでございます、あなた、いかがでございます、この二日のあいだにこんないじらしい計画が、あの子の頭のなかに生れていたのでございまする。……そのうちスネギリョーフも息子がクラス全体と対立していることを知る……。ふたりはまた散歩にでかけた。『ねえパパ、この町はなんていやな町だろうね、パパ』──『そうだね、イリューシェチカ、あんまりいい町じゃないね』──『パパ、他の町へ引っ越そうよ、もっといい、僕たちのことを誰も知らない町へ』──『うん、引っ越そうね、引っ越そうね、イリューシャ、お金が貯まったらすぐにね』息子の気晴らしのために、いろいろな空想を語ってやる。馬と荷馬車を買おう、それに乗っていく、おまえは馬に乗せてあげる……イリューシャは有頂天になって喜んだ。しかし翌日学校から帰ってくるとまた暗い顔に。夕方、散歩へ連れ出す。スネギリョーフが引越しの話を振っても、返事がない。何かまずいことが起こったのか……。「……その時、急に風がごうっと吹いて来たと思うと、砂塵を巻きあげました。……すると、突然あの子は体ごと手前にぶつけて来て、小さな両手で手前の首にかじりつくと、ぎゅっと抱きしめるではございませんか。ご存じでございましょうが、無口で誇りの高い子供は、長いこと涙をじっとこらえておりまするが、いったん大きな悲しみにぶつかって急に堰が切れると、涙が流れるなんてものじゃなくて、滝のようにどっとほとばしって出るものでございまするな。そうしたあの子の生暖かい涙のしぶきで、不意に手前の顔はずぶ濡れになってしまいました。あの子は体をふるわせながら痙攣でも起こしたように激しくしゃくりあげ、力いっぱい手前を抱きしめるのでございます。手前はそのあいだ石の上に坐っておりました。『パパ、ねえパパ、僕の大好きなパパ、あいつはパパになんてひどいことをしたんだろうね!』とあの子は叫びます。それを聞くと、手前も声をあげて泣きだしました。ふたりは抱きあったまま、体をふるわせて坐っていました。『パパ、パパ!』とあの子が言うと、『イリューシャ、イリューシャ!』と手前が申します。誰ひとりそのとき手前どもを見たものはございません。神様だけがごらんになっておいでで、たぶん勤務表につけて下すったことでございましょう。アレクセイ・フョードロヴィチ、どうかお兄様にお礼を申し上げて下さいまし。いや、真っぴらでございまする、あなたのお気のすむようにあの子を折檻するなんて!」
スネギリョーフは毒々しい口調で言葉を結んだが、アリョーシャは、二等大尉がもうずっかり自分を信じ切っているのを感じる。でなければこんなことを話さなかったに違いない。
アリョーシャは用件を切り出す。自分の兄は、許婚であるお嬢さんにまで侮辱を与えた。その人が、あなたの受けた侮辱のことを知って、またあなたの不幸な境遇のことを知って、今さっき……あなたにこのお金を届けるように僕に頼んだのです……このお金はあくまでもあの人からのもので、ドミートリイからのものではない。弟の僕からのものでもない。ただあの人ひとりの気持ちから出たもの。あなたと同じ男から侮辱を受けた人からの援助です……ですからこれは、妹が兄に向かって援助の手を差し伸べているようなものです……このことは誰ひとり知りませんから、けしからん噂の立つ心配はありません「……これがその二百ルーブリです。誓って申しますが、あなたはこれを受け取るべきです、さもなければ、……さもなければ、世界じゅうのみんなが敵同士にならなければならない。しかしこの世の中にはやはり兄弟もいるのです。……あなたは立派な心を持っておられます。……ですからこのことを理解なさらなければ、理解なさらなければなりません。……」
「こう言うとアリョーシャは、真新しい虹色の百ルーブリ紙幣を二枚差し出した。ふたりはそのとき編垣の近くの例の大きな石のそばに立っていて、あたりには人影ひとつなかった。二枚の紙幣は二等大尉に恐ろしい感銘を与えたらしかった。彼はぎくりと身をふるわせたが、それも最初はびっくりしたためらしく、実際、彼はこんなことは夢にも考えず、またこんな結末になろうとは予想だにしていなかったのである。誰かから援助を受ける、それもこんな大金の援助を受けようとは、夢のなかの空想にさえ思い浮かんだことはなかった。彼は紙幣を手に取ったが、すぐには返事もできなかった。……」
これを手前にでございまするか、……本当でございまするか
誓って本当です
しかし聞いてください、あなた、手前の言うことも聞いてください、もし手前が受け取ったら、手前は浅ましい男になるんじゃございますまいか
とんでもない、そんなことあるもんですか、絶対にありません……
聞いてくださいまし、アレクセイ・フョードロヴィチ、しまいまで聞いてくださいまし、いよいよしまいまで聞いていただかなければならない時が来たのでございまする……。「不幸な男は、しだいにある無秩序な、ほとんど野蛮な歓喜におちいりながら言葉をつづけた。彼はすっかりまごついて、まるでぜんぶ言わせてもらえなかったらどうしようと心配でもしているように、あわてて、せき込んで話した。」……スネギリョーフ、この二百ルーブリが彼にとってどんな意味を持つかを語り始める。まずおっかさんとせむしの娘を、治療さえることができる。医者のヘルツェンシュトゥーベ先生が二人を診察して《さっぱりわからん》と言ったが、一壜三十コペイカの鉱泉の処方を書いてくれた。もう一人の娘の学費も出せる、食生活を改善することもできる……
不幸な男が幸福になるのに同意したらしいのを見て、アリョーシャは自分も嬉しくなる。
さらにスネギリョーフは語る。イリューシャの夢も実現できるかもしれない。馬と幌馬車を買って。K県の知人が以前書記をやらないかと言ってきたことがあったので、今でも使ってくれるかもしれない……そうなったら、引っ越せる。
アリョーシャは、自分もお金を持っているから、お入り用なだけ使ってください、兄弟だと思って、親友だと思って、あとで返してくださればいいのですから……と言う。他県に引っ越すとは、実際すばらしいことをお考えになったものですね……
アリョーシャは相手を抱擁しようとしかける。が、相手の顔つきが真っ蒼で必死な形相なのに気づいて立ちすくむ。
どうなさったんです……
アレクセイ・フョードロヴィチ、……手前は……あなたは……。スネギリョーフ、崖から飛び降りようと決心した人のような、奇怪な表情。……時にいかがでございましょう、手前は今ここで、あなたにひとつ手品をごらんに入れようと思うのでございますが
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ごらん下さいまし、と言って、それまでつまんで持っていた虹色の紙幣二枚を、アリョーシャの目の前につきつけたかと思うと、突然それをもみくちゃにする。
ごらんになりましたか、ごらんになりましたか、とアリョーシャに向かって甲高い叫び声を上げると、突然、拳を振り上げ、もみくちゃになった二枚の紙幣を力いっぱい砂の上に叩きつける。ごらんになりましたか……とまあ言った次第でございまするな。……
今度は右足で紙幣を踏みにじりはじめる。ひと足ふみおろすたびに、叫び声をあげ息を切らしながら。
「あなたの金なんざ、このとおり糞くらえでございます。このとおり糞くらえ、このとおり糞くらえでございまするな」とつぜん彼はさっと後ろへ飛びすさると、アリョーシャの前で傲然と胸をそらした。その全身は言いようのない誇らしさを表わしていた。
「あなたをお使いに寄越した方におっしゃって下さい、へちまは自分の名誉を金で売りはいたしませんと!」と彼は片手を高く差し上げながら叫んだ。それから素早く身をひるがえして駆け出したが、五歩も走らないうちにまたくるりとこちらを振り向くと、突然アリョーシャに投げキスを送った。しかしまたもや五歩も走らないうちに、彼はもう一度、最後に振り向いたが、この時はゆがんだ笑いが顔から消えて、その顔は反対に涙にひきつっていた。彼はむせび泣くような、とぎれとぎれの早口でこう叫んだ。
「あの恥辱の代償に、あなたから金をもらったら、手前はあの子に何と言えばいいのでございます?」走り去っていくスネギリョーフ。アリョーシャはその後姿を見送る。ああ、彼にはわかっていた、二等大尉自身、最後の瞬間まで、まさか自分が紙幣をもみくちゃにして地べたへ投げつけようとは夢にも思わなかったに違いない……。
やがて二等大尉の姿が視界から消える。アリョーシャは皺になっただけで無事だった二枚の紙幣を拾い上げた。彼は依頼された用事の首尾を報告するため、またカチェリーナの家へ向かって歩き出した。
▼第五篇 賛否両論
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1 婚約
「またもやホフラコーワ夫人が真っ先にアリョーシャを迎えに出て来た。……」カチェリーナの容態について語りはじめる。ヘルツェンシュトゥーベを呼びにやりましたの……
アリョーシャが何か話そうとしても、腰を折ってしまう。彼女はリーズのそばにいてやってほしいと突然頼みはじめる。
あの子はきのうから今日にかけてあなたをからかって悪かったと、とつぜん心から後悔しはじめたんです……今度にかぎってあの子は真剣なんですの……アレクセイ、できることならあの子に腹をお立てになったり、不満をお持ちになったりしないで下さいまし……今も、あなたは『あたしのいちばん大事な幼な友だち』なんて申しますの……「では、またのちほど。わたくしあんまり動転して、気が狂いそう。ああ、アレクセイ・フョードロヴィチ、わたくし今までに二度、気が変になって、お医者様のお世話になりましたのよ。どうぞリーズのところへいらして下さいな。あの子をはげましてやって下さいな。あなたはいつでも上手にそうなさいますもの。リーズ」と彼女は戸口に身を寄せて叫んだ。「あなたがあんなにひどい目にお会わせしたアレクセイ・フョードロヴィチをお連れしましたよ。でもちっとも怒っていらっしゃらないから大丈夫……」
ありがとう、ママ。お入りになって、アレクセイ・フョードロヴィチ
部屋へ。
たったいま不意にママがお話してくれましたの……あの二百ルーブリのことや、あなたが頼まれてあの貧しい将校さんのところへいらしたこと……そうしてその将校さんが侮辱されたあの恐ろしいお話のことも……それで、どうでしたの、そのお金を渡してらしたの……?〔こういった流れで、何故かカチェリーナではなくてリーズに事の顛末を報告することになる。それにしても、「とつぜん」「不意に」という表現が多いな。〕
「実はそれなんです。お金は渡しませんでした。お話すると長くなりますが」要約法で、アリョーシャがリーズに語り聞かせたという行為だけを記述。アリョーシャは今しがた感銘を受けたばっかりだったので、上手く話すことができた、とも。時間幅を過去へ広くとった括複法も。「彼はまだモスクワにいて、リーズが子供だった時分から、彼女を訪ねてはたったいま自分の身に起こったことや、本で読んだことを話したり、幼年時代の思い出ばなしをしたりするのが大好きだった。……」アリョーシャはあの不幸な男が金を踏みにじった様子さえ微に入り細を穿ち語った。
それじゃあなたはお金を渡さなかったのね……せめて追いかければよかったのに
いや、追いかけなかった方がよかったんです
どうしてなの?
この二百ルーブリはどうせあの人たちのものになるから。どっちみち明日になれば受け取ってくれるでしょう……リーズ、僕はひとつ失敗をしたんです、もっともその失敗のおかげで事情が好転したのですが
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アリョーシャによるあの時のスネギリョーフの心理分析。なぜあの人は突然お金を踏みにじったりしたのか。最後の瞬間まで、自分がそんなことをしようとは夢にも思わなかったはずだ。あの人は、あの時色々なことに腹を立てたにちがいない。僕の前であんまりお金のことを喜び過ぎてしまったことを。あの人はあんまり正直に喜んでしまった。胸のうちをさらけ出してしまうと、突然こんどは、そんなふうに胸のうちを残らず僕に見せてしまったことが、恥ずかしくなってきたのです。するととたんに僕が憎らしくなった。あんまり早く僕を親友扱いして、あっさり僕の申し出を受けてしまったことに腹を立てた。そこへもって来てアリョーシャは、自分のお金のなかからいくらでもあげますよと言ってしまった。これが彼の胸にぐっとこたえた。何だってお前までがおれを助けに飛び出すんだというわけです。……屈辱を受けた人間には、みんなから恩人づらをしてじろじろ見られることが実に辛いものなんです。(こうした人間観察は主に長老から学んだらしい)「……何より肝心なのは、自分がお札を踏みにじろうとは最後の瞬間まで夢にも思わなかったにしても、やっぱりそれを予感していたことです。これはもう間違いなくそうにきまっている。というのは、喜びがあんなに強かったのだから、そう予感していたに違いない。……これは実に醜悪なことではあるけれども、それでもやっぱり好転のしるしでしょうね。……」
なぜ好転?
なぜなら、もしあの人がお金を受け取っていたら、後になって身の屈辱を思って泣いただろう。だが今はあの人は意気揚々と、恐ろしく誇らしげに帰って行ったのだ。そうやって一度自分の体面を立派に保った人になら、明日この二百ルーブリを受け取らせるのはわけはない。……このお金はあの人にはなくてはならないお金なんです、夜になれば自分の大事な救いの手を失ったことを後悔するでしょう、明日になれば、僕のところへ駆け込んで謝っていいとさえ思うでしょう、ちょうどそこへ僕が現れて、『あなたは実に誇りの高い人です。あなたは立派にそれを証明なさった。さあ今度は受け取ってくださるでしょうね。ご無礼は赦して下さい』こういえばきっと受け取るにきまっています……
リーズはアリョーシャの洞察力に簡単する。そんなにお若いのに、よく人の心のなかまで知っているのね。……
しかし、こうした私たちの態度には、あの不幸な人を軽蔑するような気持ちはないか、まるで上から見下ろすようにあの人の心の中を解剖していることに……とリーズ懸念する。
とはいえリーズのアリョーシャへの感嘆はおさまらず、二人は良い雰囲気に。
「……ちょっと行ってドアのあたりを見て来て下さらない。ドアをそっと開けて、ママが立ち聞きしていないか見て頂戴な」と突然リーズが言う。
誰も立ち聞きしていないのを確認してから、リーズは愛を語り出す。きのうのお手紙ね、あれは冗談じゃなくて、まじめな気持ちで書いたの……
アリョーシャも愛を語る。リーズにキスする。
どうしてあなたはわたしみたいなお馬鹿さんを、こんな病身の馬鹿な娘をお選びになったの、あなたみたいに頭のいい、考え深い、なんでもよく分かる人が。……
あなた以上の相手はいない……あなたは幼い少女のように笑ってはいるけれども、心のなかでは殉教者のように考えておられるんだ……さっきあなたは、あの人の心のなかをそんなふうに解剖するのは、あの不幸な人を軽蔑する気持ちが僕たちにあるからじゃないかと言った……こういう考えは殉教者的なんです……あなたは自分も苦しむことのできる人です……
リーズはうっとりとする。
あの手紙について。実は庵室に置いてきたのではなく、ここに持っている。ただ返しませんよ、この手紙は大事ですからね……
リーズ、また母親が立ち聞きしていないかどうかアリョーシャに確認を頼む〔伏線〕。お母さんをそんなふうに疑うのはよくない、とアリョーシャは言う。
突然リーズ言う。……ねえ、アレクセイ・フョードロヴィチ、どうしてあなたはこの二、三日、そんなにふさいでいるの……
秘密の悲しみがあるのです……それがわかったとすると、あなたは僕を愛していてくれるわけですね……
どんな悲しみなの?
父のこと。兄のこと。長老の命。
リーズは言う、わたし、あなたのお兄さんのイワン・フョードロヴィチは嫌いよ〔次々章の暗示か?〕
兄たちは自分で自分の墓穴を掘っているのです……父もそうです……そうして自分と一緒に他の人たちまで破滅させるのです……パイーシイ神父が言われたように、《地上的なカラマゾフの力》が働いているのです……この力の上にも神様の御心があるのか、──僕にはわからない……わかっているのは、僕自身もカラマゾフだってことだけです……リーズ、僕はひょっとすると神様を信じていないかも知れませんよ〔これも次々章の暗示か?〕
「あなたが信じていないなんて、あなた、どうなさったの?」と小声で慎重にリーズが言った。しかしアリョーシャはそれには答えなかった。このあまりにも唐突な彼の言葉は、何かあまりにも神秘的な、あまりにも主観的な響きがあった。それは、ことによると彼自身にも不明瞭なことかも知れなかったが、それが彼を苦しめていることは疑いなかった。
……リーズ、(長老が亡くなれば)僕はこれからひとりぼっちになるのです……リーズ、これから先ずっと一緒にいましょうね……
ええ、一緒にいましょう、これからはずっと生涯……
別れの挨拶。
リーズの部屋を出て階段の上へ出たところで、夫人の顔を合わせる。その最初の言葉から、アリョーシャはホフラコーワ夫人がわざとここで待ち伏せしていたのを知った。
あれは恐ろしいことですわ……あれは子供のたわごとです……あなたがあの子に同意なさったのは、あの子の病気に同情なさっただけでしょう……
いえ違います、僕は非常にまじめな気持ちで……
今後わたくし決してあなたをお通ししません!
ホフラコーワ動転している。これでゆうべの恐ろしい騒ぎも、さっきのヒステリーも、みんな謎がとけました、娘の恋は母親の死ですわ……
ホフラコーワ夫人は、アリョーシャに「手紙」を見せろという。
いや、いけません……
アリョーシャ、カチェリーナの具合を聞いてから、別れの挨拶。明日また参りますから、なんでしたら、その時いろいろとご相談しましょう……
2 ギターを弾くスメルジャコーフ
〔この章は小学生と知り合いになる章と同じで、重要な展開が始まる前の助走的クッション〕
アリョーシャはリーズに別れの挨拶をした時、ある考えを思いついていた。兄ドミートリイを確実に捕まえられる方法を。もう午後二時。彼はできるかぎり急いで僧院に戻りたかったが、兄のドミートリイに会って、恐ろしい大異変を止めなければならないという思いの方が強かった。もっとも、その大異変とは何か、彼自身にもはっきりわかっていなかったが。
彼の計画は、昨日の例のあずまやに隠れること。兄はきっとそこへ来るだろう、グルーシェンカを見張るために。
「すべては調子よくすすんだ。」誰にも見られずに例のあずまやに忍び込むことができた。アリョーシャは腰をおろして待ち始める。人を待つ退屈な時間にいつも浮ぶ無意味な、何の役にも立たないさまざまな考えが彼の頭に忍び込む。自分は今きのうと同じ場所に腰をおろしたが、なぜ別の場所に坐らなかったのだろう……とか。そうして十五分とたたないうちに、間近でギターの音が聞える。そういえば昨日、兄と別れてあずまやを出るとき、左手の垣根のそばに緑色のベンチを見たような気がした。そのベンチに誰がかがいるのだ。と、突然、男の声がギターに合わせながら歌い出した。
歌声が途絶えると、男と女の話声。男の方が優位に立っていて、女は機嫌を取っているらしい。『男はスメルジャコーフだな……女のほうは、きっとここの家主の娘にちがいない……例のモスクワ帰りの、裾の長い服をひきずって、マルファのところへスープをもらいに来るという……』
どうして続きを歌わないの……と女。
歌う。
この前の詩の方が良かったわ
詩なんてつまらんものですよ……だっていいですか、この世に韻を踏んで話す人がいますかね?
あんたは利口なんだねえ、と女。
「おぎゃあと生れた時からあんな運命じゃなかったら、私はもっとえらくなっていましたね、もっと物知りになっていましたね。私のことを、スメルジャーシチャヤの腹から生れた父なし子だから、それで卑しい男だなんて言う奴がいたら、決闘してピストルで殺しちまってまさあ。モスクワへ行ってまで、私は面と向かってそう言われたことがあるんです。グリゴーリイ・ワシーリエヴィチがご親切にもこの町からそんな噂を飛ばしたもんでね。……私はロシア全体を憎んでまさ、マリヤ・コンドラーチエヴナ」「……ロシアの国民は、きのうフョードル・パーヴロヴィチが言ったとおり、鞭でぶん殴らなけりゃ駄目なんだ。もっともそういうご当人も三人の子供も、そろって気違いですがね」
でもあんたはイワン・フョードロヴィチをとても尊敬してるじゃないか……
「しかしあの人は、私のことをいやな臭いのする下男だって言ったんでさ。あの人は私が謀反を起こしかねない男だと思ってますがね、それはあの人の誤解ですよ。私はまとまった金さえふところにあれば、とっくの昔にこんなところをおん出てまさあ。……そりゃ私はただの料理人にすぎないにしても、これで運さえ向けばモスクワのペトロフカあたりでカフェ兼レストランぐらいは開けまさ。……」
またギターを弾きながら歌う。
「その時ふと思いがけない事態が起こった。アリョーシャが突然くしゃみをしたのだ。一瞬、ベンチの歌声がやんだ。アリョーシャは立ちあがって、ふたりのほうへ歩いて行った。……」
ドミートリイ兄さんはもうすぐ帰って来るかしら?……とアリョーシャはできるだけ落ち着いた口調で言った。
どうして私がお兄様のことを存じておりましょう……
しかし兄さんに聞いたんだけれど、お前は家の中の出来事をすっかり兄さんに知らせているそうじゃないか……
スメルジャコーフはわるびれない。
あなたは今どこからここへはいっておいでになったのでございます?
横町から垣根を乗り越えて……大至急兄を捕まえる必要があったものだから……僕は今、とても兄を探しているのです、兄にとって非常に重要な用事があるのです……
でもあたしども何もうけたまわっておりませんわ、とマリヤ。
私はご近所の気安さからこちらへ遊びにうかがうんですが──とスメルジャコーフ──あの方はここまで来てしつこく旦那様のことをおききになって、さんざん私を困らせるです……二度ばかり殺すぞと言っておどかされましたっけ
どうしてまた殺すなんて、とアリョーシャ。
あの方のご気性からすれば、当然でございましょう。あなたもきのう自分でごらんになったじゃありませんか、もし私がアグラフェーナ様をお通しして、あの人が泊っていくようなことがあったら、真っ先にお前を生かしちゃおかないぞ、とこうおっしゃっておられます……私は恐ろしくて恐ろしくて
それは言葉のあやだろうけれど……今すぐ兄さんに会えればその話も持ち出せるのになあ……
「ひとつだけお知らせできることがあります」とスメルジャコーフ。私がここへ来ているのは日頃のよしみで、来ていけないわけはございますまい。それはそれとして、実は今朝はやく、イワンの使いでドミートリイの家へ行った。手紙はなかったが、ドミートリイと一緒に食事をしたいからぜひ広場の料理店へ来るようにとの言伝〔実際イワンにどういう用件があったかはどうでもいい。プロットを進展させるためのトリガーだから〕。だが家にドミートリイは居なかった。その時は八時頃で、すでにどこかに出かけたとのこと。で、ひょっとすると、今ごろはイワンと一緒にその店に坐っているのかもしれない。イワンは食事のために帰らなかったし。……ただくれぐれも、このことを私が教えたことは内密にお願いします……さもないと、きっと殺されますから
この新情報にアリョーシャ興奮する。その店ってのは広場の『みやこ』だね?
さようで
ありがとう、スメルジャコーフ、これは重大な情報だ。すぐに行ってみよう
私を売らないで下さいまし
大丈夫だよ、偶然、立ち寄ったような顔をするから、安心して
アリョーシャは料理店へ向かって急いだ。彼が料理店のそばまで行った時、とつぜん窓のひとつが開いて、その窓から兄のイワンが彼に声を掛けた。
アリョーシャ、今すぐここへあがって来てくれないか。そうしてくれるとありがたいんだがね
いいですとも……
一分後、アリョーシャは兄と並んで坐っていた。イワンは個室でひとりで食事していた。
3 兄弟、互いに知り合う
イワンは料理店をあまり好きでないはずだった。とすると、彼がここにいるのはドミートリイとの約束で落ち合うために違いなかった。
何を注文する?……桜ん坊のジャムは?……お前はまだポレーノフの家にいた時分、桜ん坊のジャムが大好きだったじゃないか
そんなことを覚えているんですか、じゃジャムも下さい
僕は何でも覚えているよ……が、今まで僕はお前とゆっくりと話し合ったことが一度もない……僕は明日ここを発つので、今ここにすわりながら、何とかしてお前にあって別れの挨拶をしたいと考えていた……するとお前が通りかかるじゃないか
じゃ、兄さんはとても僕に会いたかったんですね
とても会いたかった……視顎に一度お前と近づきになって、僕がどんな人間か知ってもらいたかったんだ……それでおさらばだ……この三月のあいだ、お前の目にはたえずある期待があった……お前はなぜか僕が好きらしいね、アリョーシャ
好きですよ、兄さん、ドミートリイ兄さんはあなたのことを、イワンは墓石だと言っています、でも僕なら、イワンは謎だって言うな……
イワン愉快に語り始める。僕は今ここに坐って、何を自分に言い聞かせていたと思うね?──たとい僕が人生を信じられなくなったとしても、愛する女性も信頼できず、事物の秩序にも疑惑を抱き、それどころか一切は無秩序な、呪うべき、たぶん悪魔的な渾沌なのだと思い込んで、人間的な幻滅のあらゆる恐怖に打ちのめされたとしても、──僕はやっぱり生きて行きたい。……僕は何度も自分にこう問いかけてみた。この世の中には、僕の内部のこの狂おしい、恐らくは不作法な生活欲に打ち勝つような絶望がはたしてあるだろうかと。そうしてこう結論したんだ。そんな絶望はあるまいと。……僕は生きていたい。だから論理に逆らってでも生きているんだ。たとい僕が事物の秩序を信じないとしても、僕には春ごとに萌え出るあのねばねばした若葉が貴重なんだ。るり色の空が貴重なんだ。……なあアリョーシャ、僕の馬鹿ばかしい話から何か理解できたかい……
わかりすぎるぐらいわかりますよ、兄さん……
ときに今日ドミートリイを見かけなかったかい
見かけません、でもスメルジャコーフには会いました。アリョーシャがスメルジャコーフと会った時の様子を話すと、イワンは急に身を入れて聞き始めた。
だが、あいつのことはどうでもいい……僕はぜひドミートリイと会いたかったんだが、今はもうその必要はない……とイワン。
兄さんはそんなに急いで出発するんですか、じゃ、ドミートリイ兄さんとお父さんはどうなるんです? あの結末は?
イワン苛立つ。それがこの僕に何の関係があるんだい……僕がドミートリイの番人だとでも言うのかい……僕は単に用事が終わったから発つんだ。まさかお前は、僕がドミートリイからあの美人のカチェリーナを横取りしようとしていたなどと考えちゃいまいな。ちぇっ、僕には自分の用事があったんだ、その用事が終わったから、出かけるんだ……いや、アリョーシャ、僕が今どんなにさばさばした気持ちでいるかわかってもらえたらなあ!
すると、さっきカチェリーナさんと?
僕はあの令嬢に、あの女学生に惚れていた、それがとつぜん氷解しちまった……自分がぜんぜんあの人を愛していないってことがさっき、わかったんだ。もっとも、好きなことは好きだったが、あの人から離れて旅に出ると思うとせいせいするんだよ……ああ、あの人は僕が愛していることを知っていたんだ、あの人も僕を愛していた、ドミートリイでなしに……しかし問題は、あの人がそれを悟るまでには十五年か二十年はかかるってことだ……
でも兄さんはさっきあの人に言ったじゃありませんか、あの人は一度だって兄さんを愛したことはないって
あれはわざと言ったんだ……
アリョーシャはどうも気が滅入る、と言う。
イワン曰く、お前は、僕が発つことをどうしてそんなに心配するんだい、僕たちふたりには、出発までにまだたっぷり時間があるんだぜ
あした発つというのに!
自分たちのことなら、僕たちはまだ十分話し合う暇があるんだぜ……そのためにここへ来たんじゃないのかい? ……さあ返事をしてみろ、何のために僕らはここで落ち合ったんだ? カチェリーナに対する恋の話をするためかい? 親父とドミートリイのことを話すためかい? それとも外国の話のためかい? ええ? そんなことのためなのかい
いいえ、そんなことのためじゃありません
じゃ自分でも何のためかわかっているわけだ……お前にしたって、この三月のあいだ、期待の眼差しで僕を見つめていたろう、それは僕にこう詰問するためじゃなかったのかい、『神を信じるか、信じないか』と。──なあ、そうだろう?
そうかもしれません
じゃ何から始めようか
何からでも、好きなことから始めてください……でも兄さんはきのうお父さんのところで、神はないって言い切ったじゃありませんか
あれはわざとそう言ってお前をからかってみたのさ……しかし今はお前と話し合うつもりでいるから、これは非常にまじめな気持ちで言うんだ……実はね、僕だって神を認めているかも知れないんだ……
イワンの長広舌。神は存在することは認めてもいい、しかし神の創造したというこの世界を、自分は絶対に許容できない……楽園さえも許容しない……
「でも何だって兄さんは、《世にも馬鹿げた話》からはじめたんです」とアリョーシャは、物思わしげに兄の顔を見つめながらたずねた。
「うん、まず第一に、ロシア式にやるためさ。こうしたテーマに関するロシア人の会話は、いつも世にも馬鹿げたやり方で進められるんだ。第二に、ここでもまた馬鹿げていればいるほど、本題に近づくからさ。馬鹿げていればいるほど明瞭なんだ。愚かしさというのは単純で素朴だが、利口というやつはごまかして姿を隠すからな。利口は悪党、愚かしさは正直者だ。僕は絶望的な結論に達してしまった。愚かしく見せれば見せるほど、僕としては有利なんだ」
「兄さんはなぜ《この世界を認めない》か、そのわけを説明してくれるでしょうね」とアリョーシャが言った。
「むろん説明するとも。別に秘密じゃないし、そのために話を進めて来たんだから。なあアリョーシャ、僕はお前を堕落させて、足場から引きずり下ろそうとは思っちゃいない。ことによると、僕のほうがお前の力で治療してもらおうと思っているかも知れないんだぜ」イワンは、こう言うと、まるでおとなしい幼い子供のように突然にっこり笑った。アリョーシャは兄がこんな微笑を浮かべるのを、まだ一度も見たことがなかった。
4 反逆
「僕はひとつお前に告白することがある」とイワンは口を切った。「どうすれば自分の身近な者を愛することができるか、僕にはどうしても理解できないのだ。……」
人間の苦悩について、特に子供の苦しみについての長広舌。
「兄さん、何だってそんな話をするんです」とアリョーシャがたずねた。
「僕は思うんだが、もし悪魔が存在しないとしたら、つまり人間が悪魔を作ったとしたら、人間は自分の姿に似せて悪魔を作っただろうね」
「そんなことを言えば、神様だって同じことじゃありませんか」
「お前は『ハムレット』の中のポローニアスのせりふじゃないが、言葉を裏返す術をいやによく心得ているなあ」と言ってイワンは笑い出した。「お前はうまく僕の言葉尻をつかまえた。いや結構、大いに愉快だ。人間が自分の姿に似せて作ったなら、お前の神様はさぞかし立派なことだろう。……」
幼児虐待の話。「……そのとき将軍が、『小僧を追え!』と命令した。『走れ、走れ!』と犬番どもがわめいたので、少年は走り出した。……『かかれ!』と将軍は叫んで、猟犬の群れをいっせいに少年めがけて放した。母親の目の前で犬の餌食にしたのだ。犬どもはたちまち子供をずたずたに噛みちぎってしまった!……そのために将軍は後見人の監視を受けることになったらしいがね。さあそこで、……この男をどうすべきか。銃殺にすべきだろうか。道徳的な感情を満足させるために、銃殺にすべきだろうか。言ってみろ、アリョーシャ」
「銃殺にすべきです」とアリョーシャは、青白いゆがんだ微笑を浮かべて兄の顔を見あげながら小声で言った。
「ブラボー!」とイワンは有頂天になって叫んだ。「お前までがそう言うとなると、これは……いや、あっぱれな苦行僧だ! すると、お前の胸の中にもけっこう悪魔の子供がひそんでいるじゃないか、アリョーシャ・カラマゾフ君!」
「僕は馬鹿げたことを言いました。しかし……」
「それそれ、そのしかしだよ。……」とイワンが叫んだ。「いいかい、坊主君、この地上じゃその馬鹿げたことが大いに必要なんだ。世界がその馬鹿げたことの上に成り立っていて、それがなかったらこの世界には何ひとつ起こらなかったかも知れないんだ。僕らは自分の知っていることしか知らないんだ!」
「じゃ、兄さんは何を知っているのです」
「僕には何もわからん」とイワンは、うわ言でも言うように言葉をつづけた。「今は何ひとつわかりたいとも思わない。僕はただ事実のそばにとどまっていたい。ずっと前から僕は理解するまいと決心したのさ。何かを理解しようと思うと、僕はたちまち事実を曲げてしまうんでね、それで事実のそばにとどまろうと決心したんだ。……」
「何のために兄さんは僕を試みるのです」とアリョーシャは発作的に悲しげな声で叫んだ。「もういいかげんに言って下さい」
「もちろん言うとも。それを言うためにここまで話を進めて来たのだ。お前は僕にとっては大事な人間だ。僕はお前を手放したくない。ゾシマなんかに譲るもんか」
子供の苦しみによって贖われるハーモニーなど拒絶する、という話。「僕はハーモニーなど欲しかない。人類に対する愛ゆえに欲しくないのだ。僕はむしろ恨みをはらすことのない苦しみとともにとどまりたい。たとい僕が間違っていようとも、むしろ僕は恨みをはらすことのない苦しみと、いやされぬ怒りを抱いたままでいようと思う。……」
アリョーシャがキリストのことを持ち出す。
イワンは自分は前にある叙事詩を作ったことがあると言い出す。
5 大審問官
イワンの叙事詩。思想的問題を仮構的に考えるための寓話。司牧権力の悪?
アリョーシャ、聞き終わると興奮してそれを馬鹿げた話だと非難する。
「まあ待て、待ってくれ」と言ってイワンは笑いだした。「馬鹿にいきり立つじゃないか。お前が幻想と言うなら幻想でもいい。むろん幻想さ。しかしな、お前はほんとうに今まで何世紀ものあいだのカトリック教の運動が、すべてけがれた幸福だけを目的とする権力への欲望にすぎないと、実際そう思っているのかい? お前にそう教えたのはパイーシイ神父じゃないのか」
「いええ、とんでもない。それどころかパイーシイ神父は、前に兄さんと同じようなことを言っておられました。……でも、むろん違います、ぜんぜん違います」突然、アリョーシャはこう言い直した。
「しかし、そいつは貴重な情報だな。いくら《ぜんぜん違う》と言い直したにしても。僕はお前にききたいんだが、なぜお前のそのイエズス会の連中や審問官たちは、ただ物質的なけがらわしい幸福のためだけに結合したのだろう? なぜ彼らの中には、大いなる悲しみに苦しみながら人類を愛する受難者がひとりも出ないのだろう? だって考えてみろよ、こうした物質的なけがらわしい幸福だけを望んでいる連中の中にだって、せめてひとりぐらい、──せめてひとりぐらい、僕の老審問官みたいな人間がいたってよさそうなものじゃないか。彼は荒野で草の根をかじりながら、自分を自由で完全な人格に仕上げるために、肉欲の征服を心がけて我を忘れていたが、しかし人類を愛する気持だけはそのあいだもずっと変わらなかった。そうして突然ふと目が開けて、意志の完全さに到達することは何も偉大な精神的幸福ではないということに気づいた。なぜかと言えば、どっちみち数百万の残りの神の子たちがただ嘲笑の対象として放置されていることを認めなければならないからだ。彼らがせっかくの自由を活用する術を知らず、またこうしたみじめな反逆者どものなかからは、バベルの塔を完成する巨人が決して出て来ないことを認めねばならないからだ。あの偉大な理想家がハーモニーの世界を夢みたのは、これらの鵞鳥どものためではない。こう悟ると、彼は引き返して、……賢明な人々の仲間に加わったのだ。こういうことが起こらなかったと言えるだろうか」
「どんな人の仲間に加わったんですって? 賢明な人々とは誰のことです?」とアリョーシャはほとんど我を忘れて叫んだ。「あの人たちにはそんな知恵など決してありません。そんな神秘や秘密も。……あるのは無神論だけです、それがあの人たちの秘密の全部なんです。兄さんの審問官は神を信じていないのです。それが彼の秘密の全部なんです!」
「それならそれでいいじゃないか。ようやくお前も気がついたな。実際そのとおりだ。すべての秘密はその一事にあるんだ。だが、はたしてそれは苦しみではないだろうか。たといそれが彼のような人間、荒野での苦行に生涯を葬り、なおかつ人類への愛から脱却できなかった人間であっても。生涯の終わりに至って、ようやく彼はあの恐ろしい偉大な悪魔の忠告だけがいくじない反逆者どもを、《嘲笑のために作られた未完成な試験的生物ども》を、多少ともましな秩序のなかに収めることができたはずだとはっきり確信する。そうしてそう確信すると、彼はあの聡明な悪魔、死と破壊の恐ろしい精霊の指示に従って進まねばならぬと知る。そのためには嘘と欺瞞を受け入れ、意識的に人間どもを死と破壊へ導かねばならず、しかもせめて途中だけでもこれらのみじめな盲人どもに自分は幸福なのだと思わせるために、何とか彼らが自分たちの行く先に気付かないように道々ずっと彼らを欺きつづける必要があるのだ。そうして注意すべきことは、この欺瞞がキリストの名において、老人がその理想を生涯かけてあれほど熱烈に信じて来たキリストの名においてなされることだ。これがいったい不幸ではないだろうか。もしもこの《けがれた幸福のためだけに権力を欲する》全軍隊の頭に、ただのひとりでもこんな男が現われたならば、そのひとりの男だけで悲劇を生むには十分ではないだろうか。そればかりではない、その軍隊やイエズス会の連中を全部ひっくるめて、ローマの全事業の真に指導的な理念、この事業の高遠な理念を生み出すには、このような男がたったひとりその頭に立っていれば十分なのだ。僕はお前にはっきりと言う。こうした唯一者はあらゆる運動の指導者たちのあいだに決して絶えたことがないのだ。……もっとも、こんなふうに自分の思想を弁護しているところは、お前の批評にむきになった作者そっくりだね。もうやめようぜ」
兄さんもその老人の仲間なのでしょう、兄さんも?──とアリョーシャ。
「だってこれは馬鹿げたたわ言なんだぜ、アリョーシャ、いまだかつて二行と詩を書いたことのない、愚劣な学生の愚劣な詩にすぎないんだぜ。それをお前は大まじめに取るのかい? まさかお前は、僕がこれからあのイエズス会の連中のところへ行って、キリストの偉業を訂正する人々の群れに加わるなんて考えているんじゃないだろうな。とんでもない、僕のあずかり知らぬことさ。僕はお前にそう言ったじゃないか。僕は三十まで生きればいい、三十になったら──酒盃を床にたたきつけるって!」
「じゃ、ねばねばする若葉は、大事な墓は、青い空は、愛する女の人は! いったい兄さんはどういうふうに生きてゆくのです、どんなふうにそれを愛してゆくんです?」と悲しげにアリョーシャが叫んだ。「そんな地獄を胸に抱き頭に描きながら、そんなことができるでしょうか。いや兄さんはきっとあの人たちの仲間に加わるために行くんだ。……そうじゃなかったら、自殺するにきまっている。こらえ切れなくなって!」
「そういう力があるんだよ、何でも我慢できるような」冷ややかなあざけりを浮べながら、イワンが言った。
「どういう力なのです?」
「カラマゾフ的な力さ、……カラマゾフ的な下劣の力だよ」
「それは淫蕩に溺れることですね。堕落の底で魂を押しつぶすことですね。そうでしょう、そうなんでしょう?」
「あるいはそうかも知れない。……しかしそれも三十までだ。ことによると避けられるかも知れない。そうすれば……」
「どんなふうに避けるんです? 何によって避けるんです? 兄さんみたいな考えを持っていたらだめです」
「それもカラマゾフ流にやるのさ」
「《何をやっても許される》からですか。何をやっても許される、そうなんですか、ほんとうに?」
イワンは眉をしかめ、とつぜん妙に真っ青になった。
「ああ、お前はきのうミウーソフが腹を立てたあの言葉を持ち出したんだな。……ドミートリイが無邪気に口を出して繰り返したあの言葉を」と言って彼はゆがんだ微笑を浮かべた。「なるほど、いったんその言葉を口にした以上、《何をやっても許される》かも知れない。僕は否定はしないよ。それにミーチャ式の表現も悪かないな」
アリョーシャは無言のまま兄の顔を見つめていた。
「僕はね、アリョーシャ、ここを去るにあたって、世界じゅうでせめてお前だけは僕のものだと思っていたんだがね」と不意にイワンは、思いがけない感情をこめて言った。「今はお前の心のなかにも僕の居場所がないことがわかったよ、かわいい隠者君。《何をやっても許される》という公式を僕は否定しない。そこでどうなんだね、お前はそのために僕を否定するだろうな。なあ、そうだろう?」
イワンは席を立つ。「じゃ出かけようぜ」
二人は店の外へ。
イワン曰く、実はね、アリョーシャ、もし本当に僕がねばねばした若葉に心をひかれるとしたら、お前を思い出すからこそなんだ……僕にはお前がこの世界のどこかにいるという一事だけで十分なのだ……その一事で人生に愛想をつかさずにすむのだ……しかしお前はもうこんなことにはうんざりだろうな……だから、今はお前は右へ行き、僕は左へ行く……これで何もかもすんだ、話はすっかり終わった、そうだろう?……じゃ僕のほうからもひとつ約束しておこう、三十近くなって、《酒盃を床にたたきつけ》たくなったら、たといお前がどこにいようとも、僕はきっともう一度お前と話をしに来るよ……じゃあ、もうお前の長老のところへ行くがいい、臨終の床にあるんだろう?……じゃ、さようなら、もう一度キスしてくれ、そうそれでいい。じゃ失敬。……
イワンは振り返らずに去っていく。アリョーシャはなぜかイワンが左肩より右肩を下げてふらつきながら歩いているのに気づく。アリョーシャは走るように僧院へ向かう。『イワン、かわいそうな兄さん、今度またいつ会えるのか……』何故かこの時、兄のドミートリイのことはすっかり忘れていた。
6 今はまだ、とても不明瞭だが
「一方、イワンはアリョーシャと別れると、父の家へ向かって家路についた。」ところがなぜか突然耐え難い憂鬱が襲ってくる。内語で色々理由を考えるのだが、それをはっきりと突き止められない。「……いずれにしても、彼の心には確かに新しい未知のものへの憂慮があったのだが、この瞬間、彼を苦しめていたのはそれとは全く別のことであった。」
その憂鬱は偶然的な外的な姿を取っている。ずっと気づいていないのだが目の前に突き出ている小さな邪魔物のようなものだ。やがてイワンは世にも醜悪ないらいらした精神状態で父の家にたどり着いた。そうして門のほうを見て、やっと自分を不安に駆り立てていた原因に思い当たった。〔無意識の陰謀〕
門のそばのベンチには下男のスメルジャコーフが腰をおろして夕すずみしていた。イワンはようやく自覚した。さっきアリョーシャからスメルジャコーフと会ったことを聞かされて以来、ずっと自分は何か陰気で忌まわしいものにとらわれていたのだ。「その後、話に夢中になって、スメルジャコーフのことはずっと忘れていたが、しかし心の奥には残っていて、アリョーシャと別れてひとりで家路をたどりはじめると同時に、忘れられていた感覚が不意にまた素早く表面へ浮び上がって来たのである。……」
〔時間幅を過去へ広くとった文脈の導入〕イワンはこの二、三日、この男が嫌で嫌でたまらなくなっていた。イワンがこの町へ来た最初のころは、スメルジャコーフに特別な関心を持っていたのだが。ふたりは哲学的な問題についても語り合った。だが語っているうちに、スメルジャコーフの際限のない侮辱された自尊心が顔を見せるようになって、それ以来イワンは彼を嫌った。スメルジャコーフは兄や父やグルーシェンカにまつわる家庭内の悶着を、大そう興奮して見守っていたが、彼自身が何を望んでいるかは全然つかめなかった。……しかしとうとうイワンを徹底的に苛立たせたのは、スメルジャコーフが露骨に示すようになったあるいやらしい、一種特別ななれなれしさだった。彼はなぜかイワンとある点で連帯関係にあるとでも思いはじめたらしい。……〔ここから現前的記述に戻って来る〕「今も彼は嫌悪といらだちを覚えて、無言のままスメルジャコーフのほうを見ずに木戸をくぐろうとしたが、その時スメルジャコーフがつとベンチから立ちあがった。その動作ひとつで、イワンは瞬間、相手に何か特に話したいことがあるのに気づいた。……」スメルジャコーフは『われわれ利口な人間にはお互い何か話がありますな』というような様子をしている。イワンは『どけ、ろくでなしめ、おれはお前の仲間じゃないぞ!』と言いかけるが、われながら驚いたことに、出て来たのは全然別の言葉だった。
「親父さんは眠っているかい、それとも起きたかい」こう言って彼はこれもまったく思いがけなくベンチに腰をおろしてしまった。その瞬間、彼はほとんどぞっと恐怖に襲われたのを、のちになって思い起こした。
会話。イワンは自分が激しい好奇心を抱いていて、それを満足させないうちは決してここを立ち去るまいと気づいて嫌悪に襲われる。〔無意識の陰謀〕
なぜ若旦那はチェルマーシニャへお出かけにならないんでございます……。スメルジャコーフ、なれなれしい微笑。
なぜ?
大旦那様がお頼みになったじゃございませんか
ちぇっ、畜生、もっとはっきり言え、いったい何の用があるんだ……
イワンはとうとう立ち上がろうとするが、その一瞬を捉えてスメルジャコーフが語り始める。イワンはまた腰をおろす。
わたしの立場は恐ろしいものでございますよ……フョードル様には『なぜあの女は来ないのだ? どうして来なかったんだ、いつ来るんだ』と真夜中までひっきりなしに責め立てられ、ドミートリイ様には『もしあの女を見逃して、ここへ来たことをおれに知らせなかったら、真っ先に貴様をぶち殺してやるからな』と脅される。毎日毎時間、おふたりのお腹立ちは激しくなり、わたしは恐ろしくなる……ねえ若旦那、わたしゃきっと明日、長い癲癇が起こるだろうと思っておりますんで
???? しかし癲癇というのはいつ起こるか予知できないという話じゃないか、それをどうしてお前はあした起こるなどというのだ……(イワンはいらだたしげな好奇心を示す)……どうもお前の言うことは腑に落ちない、……明日から三日間、お前は発作が起きたふりをするつもりじゃないのか。
スメルジャコーフは地面を見つめながらまたもや右足の先を動かしていたが、やがて右足をもとへ戻すと今度は左足を前へ出して頭をあげ、にやりと笑って言った。
そういう芝居を打つのは、経験者にとっちゃ朝飯前のことでしてね……自分を救うためにそういう手を使う権利がたっぷりあるような場合にはね……たとえば、万一大旦那様に何かとんでもないことが起こったとしても、寝ていればぐるだと思われることもない……
どうしてお前がぐるだと思われるんだ?
内々の秘密になっている例の合図をドミートリイ様にお教えしちまったので
その合図の説明。大旦那はここ何日か、暗くなるとすぐ部屋の内側から鍵をかけてしまうようになったのだが、そのドアをグルーシェンカが来た場合、ないしはもっと緊急の用が出来た場合、開けさせるためのドアの叩き方=合図を取り決めた。しかしその合図がドミートリイに筒抜けになっている。『貴様はおれを騙しているな』とドミートリイに脅されて教えてしまったので。
兄貴がその合図を利用して押し入りそうだと思うなら、お前が通さなけりゃいいじゃないか……
でも、わたしが発作を起こして寝ていましたら、通すも通さないもございません……
ええ、畜生! なぜお前は癲癇が起こると頭から決めているんだ
癲癇が起こるような予感がしますんで、そういう予感がありますんで
ええ畜生め、お前が寝込んだら、グリゴーリイが見張りをするさ、前もってあの爺さんに言っておけば、決して通しゃしない
ところがグリゴーリイはちょうど昨日から具合が悪いらしい。
なんてくだらん話だ! それに何もかも、まるでねらったように一時に起こるじゃないか……いや、お前がわざとそう仕組むつもりじゃあるまいな?
どうしてわたしがそんなことを、……それに何のために? すべてはドミートリイ様の出方ひとつに、お考えひとつにかかっているじゃございませんか……
そもそも、俺はあの淫売女は決して来やしないと確信してるんだ、あの女が来ないとしたら、ドミートリイが親父のところへ暴れ込む必要もないじゃないか
とはいえ、ドミートリイ様は大旦那様の手元に三千ルーブリ入った大きな封筒があることもご存じでしてね……
馬鹿な! ドミートリイは金を強奪しに来るような男じゃない……
しかしお兄様は今、大そうお金に困っておられますからね……それにもうひとつ歴とした事実がございます、いずれグルーシェンカが大旦那様と結婚してしまえば(それを商人のサムソーノフもまんざら悪くないと言っているそうですが)ドミートリイ様も、あなた様も、アレクセイ様も、びた一文手に入りませんが、まだそうならない今のうちに大旦那様がお亡くなりになれば、あなた方ご兄弟のひとりびとりに即刻四万ルーブリずつのお金が確実にはいりましょう……まだ遺言状ができておりませんからね……
それじゃお前は……そういう事情がありながら、なぜおれにチェルマーシニャへ行けとすすめるんだ? おれが出かけたら、その留守に大変なことが起こるじゃないか……
「全くそのとおりでございますな」とスメルジャコーフは静かな、慎重な口調で言ったが、そう言いながら食い入るようにイワンの顔を見つめていた。
「全くそのとおりだと?」とイワンはやっとのことで自分を抑え、威嚇的に目をぎらつかせながら聞き返した。
「わたしはあなた様がお気の毒だと思って申しあげたのでございます。わたしがあなた様の立場にいたら、こんなことにかかり合うよりも、……いっそ何もかも放り出してしまいますがね。……」とスメルジャコーフは、ひどくあけっぴろげな様子でイワンのぎらぎら光る目を見つめながら答えた。ふたりはしばらく黙っていた。
「お前はとんだ低能らしいな。それにむろん……恐ろしい悪党でもある!」イワンは突然ベンチから立ちあがった。それからすぐに木戸をくぐろうとしたが、ふと立ち止まって、スメルジャコーフのほうを振り向いた。ある奇妙なことが起こった。イワンは急に、まるで痙攣でも起こしたように唇を噛み、拳を握りしめた。──そして次の一瞬、当然スメルジャコーフに飛びかかると思われた。相手は少なくともその瞬間そう気づいてぎくりと身ぶるいし、体全体を後ろに引いた。が、その一瞬はスメルジャコーフにとって無事に過ぎ、イワンは無言のまま、それでも何か思い切りの悪そうな様子で、くるりと木戸のほうへ向き直った。
「知りたけりゃ教えてやるが、おれは明日モスクワへ立つぜ。──明日の朝早く。──それだけだ!」と彼は憎々しげに一語一語くぎりながら、とつぜん大声で叫んだ。どういうわけでその時スメルジャコーフにこんなことを言う必要があったのか、彼は後になって我ながらふしぎでならなかった。
「それが何よりでございます」と相手は、その言葉を待っていたように答えた。「ただ何か変わったことが起こった場合には、モスクワへ電報を打ってお騒がせするかも知れません」
イワンはふたたび足を止めて、素早くスメルジャコーフのほうをまた振り返った。だが、今度は下男のほうに何かが起こったらしかった。なれなれしさと無頓着な様子が一瞬のまに消えて、顔全体に異常な注意深さと期待が浮んだ。しかしそれはもう臆病者らしい、へつらいの表情だった。『まだ何かおっしゃることはございませんか、うけ加えることは』──こんな意味の言葉が、じっと食い入るようにイワンを見つめるその眼差しに読み取られた。
「チェルマーシニャへ行ったんじゃ、呼んではくれないのか、……何かが起こった場合も」何のためともわからずに、とつぜん大声を張りあげて、イワンが叫んだ。
「チェルマーシニャにおいででも、……やはりお騒がせすることでございましょう。……」まるで気が抜けたように、スメルジャコーフはほとんどささやくような小声でこう言ったが、相変わらずじっと食い入るように、真っ直ぐイワンの目を見つめていた。
「しきりにチェルマーシニャへ行けとすすめるのは、モスクワは遠いがチェルマーシニャなら近いから、馬車代が安くてすむとでもいうのか。それとも僕に遠回りをさせちゃ気の毒だとでもいうのか」
「全くそのとおりでございます。……」とスメルジャコーフは醜い微笑を浮かべながら、ふたたびいつでも後ろへ飛びのけるように痙攣的に身構えて、とぎれがちな声でつぶやいた。しかしイワンは、スメルジャコーフの驚きをよそに、不意に笑い出すと、そのまま笑いながら素早く木戸をくぐって行った。そのとき誰か彼の顔を見た人があったならば、彼が笑ったのは決して愉快だったからではないということにきっとひと目で気づいただろう。それに彼自身、そのとき何が自分に起こったかは絶対に説明できなかったに違いない。動作も歩き方も、まるで痙攣を起こしたみたいだった。
7 『利口な人とはちょっと話をするだけでも面白い』
家の中へ入っていったイワン、父を避けて二階へ。
イワンは眠らずに物思いに耽る。「しかし、筆者はここで彼の思考の流れを伝えるのはやめておこう。それに今はまだ彼の心の内部へ立ち入るべき時ではない。やがてそうする時期が来るはずである。……」そもそもそれは漠然としていた。突然階下へ行ってスメルジャコーフをぶちのめしたくなったり。階下の部屋で父親が身動きしたり歩き回ったりする物音に耳をすましたり。「何のためにそんなことをしたのか、何のために耳をすましていたのかはもちろん自分にもわからなかった。この《行為》を彼はその後、一生のあいだ《醜い行為》と呼び、一生涯心の奥底で、魂の秘密の部分で、わが生涯の最も卑劣な行為だと考えていた。」フョードルが床についてから彼も眠り、翌朝七時頃に目を覚ました。
-----------------------------------------------------3日目
イワンは何か異常なエネルギーが体内に満ちているのを感じ、さっそく荷造りを始めた。この出発は突然だった。彼はカチェリーナ、アリョーシャ、スメルジャコーフに明日発つとは言ったものの、ゆうべ床につく時には、出発のことなど考えもしなかったのだから。九時頃、お茶を飲みに階下へ。父親に愛想よく挨拶し、一時間たったらモスクワへ出発して二度と帰らないつもりだから、馬車を呼びにやってもらいたいと宣言。老人は驚いた様子もなかったが……
「……まあいい、今からでも話をつけよう、なあイワン、頼むから、チェルマーシニャへ行っちゃくれまいか」
駄目ですよ……モスクワ行きの汽車に間に合わない
明日の汽車にすればいいじゃないか……今日はチェルマーシニャへまわってくれよ……手があいてりゃ、とっくの昔にわしが自分で飛んで行っているところなんだが……。用件の説明。チェルマーシニャにフョードルが持っている林を、一万二千で買いたいという買手が出て来た。そいつは一週間ほどしか滞在しないので、早く出かけて行って話をつけなければ……
手紙を出せばいいでしょう
いや、この買手は根っからの悪党で、大した嘘つきなのだ……相手の申し入れが嘘かまことか突きとめる必要があるんだ
それじゃ僕だって何の役にも立ちませんよ
待て、お前ならきっと役に立つのさ、あいつには嘘をつくとき、ひげを左手で撫でながら、にやにや笑う癖があるんだ。本当のことを言う時はぷりぷりしてものを言う。おまえはあいつと話し合ってみて、本当のことを言っていると思ったら『嘘にあらず』と書いてよこせばいい……おまえは目が利くからな(アリョーシャでは駄目だ)……そしたらわしがすぐに飛んで行ってけりをつける……今のところはわしが駆けつけるほどのことではないんだ……
暇がないんです、勘弁してください
おまえは薄情だなあ……一日や二日どうだというんだ……行ってくれるだろ?
わかりませんよ……行くかどうか、途中で決めます
途中だと?……
しかしそれを聞いて希望を見出し、フョードル有頂天になる。すぐに馬車を呼ばせる。別離の感動はなし。玄関先へ送り出したときにはさすがにキスしようとしたが、イワンが拒否したので、握手。
それじゃ達者でな、達者でな!……
家中の者が見送りに出て来た。イワンが馬車に腰をおろしたとき、スメルジャコーフが敷物を直しに駆け寄った。
「いいか、……おれはチェルマーシニャに行くんだぜ。……」突然こんな言葉がイワンの口をついて出た。
「そういたしますと、よく世間で『利口な人とはちょっと話をするだけでも面白い』と申しますのは、本当でございますな」とスメルジャコーフ。
旅行馬車はごとんと動いて、まっしぐらに走りはじめた。心のなかは動揺していたが、イワンは周囲の野原や、丘や、木立や、頭上高く晴れ渡った大空を飛ぶ雁の群れなどを貪るように眺めていた。と、突然、とてもいい気持ちになってきた。彼はためしに御者に話しかけてみた。すると、御者の返事のなかにある非常に面白い話があったが、一、二分して考えてみると、すべてがただ耳のそばを素通りしただけで、実際には御者の話が自分には何もわかっていないのだという気がした。……駅は馬を替えるだけで素早く通り過ぎ、ひたすらヴォローヴィヤへ向けて疾駆をつづけた。『利口な人とはちょっと話をするだけでも面白いとはなぜだろう。あの男は何のつもりであんなことを言ったのだろう?』急に彼は息がつまりそうな気がして来た。『それになぜおれはあの男に、チェルマーシニャへ行くなんて報告したのだろう』やがてヴォローヴィヤ駅に。イワンは客待ちの御者たちに取り囲まれた。チェルマーシニャへ行く話がまとまりかけたところで、彼は考えを変える。
チェルマーシニャへ行くのはやめだ……おい、七時の汽車には間に合うだろうか
間に合うようにいたします……
そして御者たちの中で明日町へ行く者を探して、フョードルに「おれがチェルマーシニャへは行かなかった」と伝えてくれと頼む。
晩の七時にイワンは汽車に乗って、一路モスクワへ向かっていた。これまでの世界とは永久におさらばだ! 何の知らせも聞かないようにするんだ! 新しい世界へ、新しい土地へ! ……ところが歓喜の代わりに、彼の心は黒々とした闇におおわれ、胸の中で今まで一度も味わったことのない深い悲しみがうずいた。『おれは卑劣な男だ!』
一方、フョードルは息子を見送ると、心から満足しきった気持ちでいた。ところが突然家の中でいまいましい出来事が。スメルジャコーフが癲癇の発作を起こし、穴倉のいちばん上の段から落っこちたのだ。病人はかつぎだされたが、なかなか意識を取り戻さなかった。医師のヘルツェンシュトゥーベも呼ばれたが、《危険な事態が起こらないともかぎらない、自分としてははっきり分からない》などと言う。病人は別棟のグリゴーリイとマルファの居間につづいた小部屋に寝かされた。
この事件のあと、折悪しくグリゴーリイも腰が立たなくなって寝込んでしまった。フョードルはできるだけ早くお茶を済ますと、ただひとり母屋に閉じこもった。彼は今夜こそグルーシェンカが来るに違いないと思っていた。その日の朝早くスメルジャコーフから、『あの方が今日こそきっとお出になると約束なさいました』と聞かされていたからだ〔フョードルにグルーシェンカが来るを思い込ませるための、便宜的な文脈〕。老人の胸は不安げにどきどき鳴る。耳を澄ます。グルーシェンカは例の合図も知っている(おととい、スメルジャコーフから合図をグルーシェンカに伝えたとの報告を受けている)。できるだけ早く戸を開けてやらなければならない、どこでドミートリイが彼女を張り込んでいるか知れないのだから……。
▼第六篇 ロシアの修道僧
-
1 ゾシマ長老とその客たち
〔ここで時間は2日目のアリョーシャに巻き戻る〕
アリョーシャが長老の庵室へ入ったとき、長老は瀕死どころか晴れやかな顔で肘掛椅子に腰掛けていた。アリョーシャを見ると、長老は微笑む。「よう帰って来た。よう帰って来てくれた。これでお前の顔も揃った……」最後の長老の法話。
2 今は亡きゾシマ長老の生涯
3 ゾシマ長老の法話と説教より
長老は夜中のうちに〔つまり3日目未明に〕突然亡くなった。
長老死去の知らせはただちに僧院じゅうに伝えられた。遺骸納棺の準備が始まる。明け方には町にも知らせが届いていた。しかし、それから一日と経たないうちに、ある意外な事件が起こったのだ……
■第三部
▼第七篇 アリョーシャ
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1 腐敗の匂い
ゾシマ長老の遺骸の納棺。庵室に安置。鎮魂の儀式が終わると、パイーシイ神父が福音書を読誦。
夜が明けると、激しい、いらだたしいとさえ言える期待を抱いた俗界の人々が押しかける。
この性急な期待は、心ある神父たちには罪への誘いのように感じられた。偉大なことをそのようにあわただしく期待するとは……
長老の庵室にひしめきあっている人々の中には、例の遠方から来た客僧や、ラキーチンなどの姿も。ラキーチンはホフラコーワ夫人の使いで、これから起こる一切のことを観察して報告するよういいつかっていた。夫人は彼を敬虔な青年だと思い込んでいた。
アリョーシャの姿は見えない。僧庵のはずれの塀のそばで彼はむせび泣いていた。パイーシイ神父は彼に慰めの言葉をかける。
「ところが、午後もまだ三時をまわるかまわらないうちに、前節の終わりでひとこと触れておいたある事件が起こった。」それはかなりくだらない出来事だが、アリョーシャの心に強烈な影響を与えたのだ。
それは、長老の遺体を安置したときに、そばに居合わせた人々のうちの一人がふと窓を開けた方がよいのではないかと言ったことから始まった。だがその時は、こういう聖者の遺体が腐臭を放つなんて、それもこんな早くに、とみなが思ったのでその言葉は黙殺された。しかもみなは全く正反対なことを期待していたのだからなおさらだ……
ところが午後三時ぐらいになると、庵室に出入りしていた人々の頭に浮んでいた疑念が、ついに口に出されるようになり、一挙に僧院中へ広まった。町へも伝わった。不信者は小躍りして喜び、信者の中にも正しき者の堕落と汚辱を喜んだ者がいた。
つまり午後三時頃にはもう棺の中からの腐臭が強烈な悪臭となってただよってきていたのだ。考えてみればあくまで自然現象の結果に過ぎないのだが、これがスキャンダルとして受け取られたのには、僧院内につねづねくすぶっていた長老制度への反感、また生前あまりにも神聖視されていた故人の地位への羨望、といった要因があった。
腐臭があらわになってから、庵室へ出たり入ったりする修道僧の眼差しに毒々しい喜びが見られるようになった。俗界の人々までこの誘惑的なニュースに惹かれて駆けつけた。長老制度を是認していた人々はひどくおどおどしており、逆に長老制度を無用の新制度とする反対者たちは、傲然と頭を反らしていた。「あの人の教えは間違っていた。あの人の教えによると、人生は涙に満ちた忍従ではなくて、偉大なる喜びだそうだ」「精進も厳格に守らず、甘いものを平気で口に入れ、お茶に添えて桜ん坊のジャムを食べていた。大好物で、地主の奥さんたちが届けていたものだ……苦行僧にあるまじきことだ」
そこへフェラポント神父がやってきて、さらに大騒動。「悪霊をば退けてくれよう!」と十字を切る。パイーシイ神父と口論。「おのれの僧位にふさわしい精進を守らぬために、このような啓示が現われたのじゃ……」さらに宗教狂人らしく振舞ったので、そのに集まっていた人々の中から、「これこそ聖者だ、心正しき人だ!」という歓声も上がる。
パイーシイ神父は読誦をイオシフ神父に引き継いで、階段を下りていく。愚劣な連中の歓声に動揺する彼ではなかったが、心に悲哀を覚える。何故か。他でもない、彼は興奮した群集の中にアリョーシャの姿を認めたからだ。『だが、あの青年が今日の私の心にそんな大きな意味を持っているのだろうか』……と、ちょうどその時、アリョーシャがすぐそばを通りかかった。「ふたりの目が会った。アリョーシャは素早く目をそらして視線を落とした。その素振りを見ただけで、パイーシイ神父は今この瞬間、青年の心にどんな激しい変化が生じつつあるかを見抜いた。」
お前まで迷いが起こったのか……
アリョーシャはうつろな目つき。
庵室を出て行くのか? 許しも乞わずに、祝福も受けずに?
アリョーシャは突然ゆがんだ薄笑いを浮かべると、返事をしないまま、庵室の出口へ急ぎ足に歩き出した。
2 こんな時に
この時のアリョーシャの心理についてディエゲーシス。彼は信仰の薄い連中の仲間になってしまったのではない。むしろあまりにも彼の信仰が篤いがゆえに、動揺が起こったのだ。
問題は奇蹟が起こるか起こらないかではなかった。性急に奇蹟を期待などしていなかった。彼の中で最も重要な位置を占めていたのは、彼があれほど敬いあがめていたあの心正しき人の顔だけだった。アリョーシャの若く清らかな心に潜む《万物万人》に対する愛は、その前年から当時にかけて、ただ一人の人物に集中していたのだ(そのゆえに、彼はこの重苦しい一日のあいだ、前日にあれほど心配して悩んだ兄ドミートリイのことをすっかり忘れていたし、スネギリョーフに二百ルーブリ届けることも忘れていた)。ところが、世界中の誰よりも高い位置に昇るべきだと信じ込んでいた人が、その人が今、当然受けるべき栄誉の代わりに、恥辱を受けたのだ。何のために? 誰の裁きによって? この疑問は青年を悩ました。なぜあんな恥辱が投げつけられたのだ、なぜあんなに早く腐敗が起こったのだ、フェラポント神父が勝ち誇って持ち出したあの《啓示》とやらは何のことだ? アリョーシャは侮辱と憤怒を覚えた。神の摂理はどこにあるのだ……。この時のアリョーシャの脳裏には、昨日兄のイワンと交わした会話の悩ましい印象もしきりによぎった。「彼は自分の神を愛していた。突然、神に対して不平を訴えはしたけれども、断固として神を信じていた。だが、それでも兄のイワンと交わしたきのうの会話を思い出すと、ある不明瞭な、しかし悩ましい、邪悪な印象が改めていまとつぜん魂の内部でうごめき出し、それがしだいに強く魂の表面へ出ようとしはじめたのである。」
「あたりがすっかりたそがれて来た頃、僧庵から松林を通って僧院へ向かっていたラキーチンが、突然、木陰にうつ伏せになって倒れているアリョーシャの姿を見つけた。……」ラキーチンは声をかける。
こんなところにいたのか、アレクセイ、いったい君は……そんな打撃を受けたのか
アリョーシャは振り向かなかったが、自分の声が開いてに聞えているのは分かった。ラキーチンはあざけりの表情を帯びてきた。
いったいどうしたのさ……ここで何をしているんだい?……馬鹿な真似をするもんじゃないよ……
アリョーシャは顔を上げて坐りなおしたが、その顔は苦痛を表わし、眼差しにはいらだちの色が見られた。
放っておいてくれ
君のあの老人が悪臭を立てたことがそんなに打撃なのかい?
そうさ……さあ、まだ何か用があるのか
ちぇっ、馬鹿馬鹿しい……それで君は今、自分で信じていた神様に腹を立てたんだな……謀反を起こしたんだな……へっ!……馬鹿げた話はもうたくさんだ、本題に入ろう、君は今日食事をしたのかい
覚えてない
君はゆうべも寝ないで、ひきつづいて今日はあの騒ぎだ……聖餅のひと切れでも食べてりゃ上出来だ……君は少し元気をつける必要がある。僕はちょうどポケットに腸詰を持っている。もっとも、腸詰じゃ君は食うまいな……
腸詰を食おう
へえ! こいつは驚いた、それじゃ完全な反逆じゃないか……いや、君、大変結構なことだよ、さあ、僕んところへ行こう、ちょうどウォッカを一杯やりたいと思っていたんだ……君も一杯やってみるかい
ウォッカもやろう
そいつぁ凄いぞ! 千載一遇の好機だ!
アリョーシャはラキーチンの後から歩き出す。
ラキーチンは歩きながらイワンのこと、ホフラコーワ夫人のことを話す。ホフラコーワ夫人も今日あったことには腹を立てたらしい……『ゾシマ長老ともあろうおかたが、そんな振る舞いをなさろうとは、思いも寄りませんでした』だと書いてよこしてきた。本当に『振る舞い』と書いてあったんだぜ。……まてよ……
ラキーチンはアリョーシャの肩をつかむ。彼は突然ひらめいた新しい考えにわくわくしながら、試すように相手を見つめる。これからグルーシェンカのところへ行かないか?
グルーシェンカのところへ行こう
そ、そう……そりゃいい!
ラキーチンはアリョーシャの気が変わりはしまいかと心配しながら、彼を引っ張っていった。
ラキーチンは利己的な男だったから、自分な有利な目的がなければ何事もたくらまない。彼には二重の目的があった。一つはアリョーシャが聖者から罪人へ堕落するのが見られるかもしれない、という期待。第二には、ある金銭的な目的。
『つまり、好機到来というわけだ……とすれば、こっちはその好機の襟髪を捕まえてやる』
3 ねぎ
「グルーシェンカは、ソボールナヤ広場に近い、町でもいちばんにぎやかな場所にある商人の未亡人モローゾワの屋敷内に、ささやかな木造の離れを借りて住んでいた。……」〔ここからグルーシェンカの過去について説明的ディエゲーシス。『白痴』題一篇第2章のように、章初めにまとまった説明的ディエゲーシスを持ってくるパターンの典型〕この未亡人はグルーシェンカの公然のパトロンである商人サムソーノフのご機嫌を取り結ぶために、彼女を借家人として入れたらしい。
老人が十八歳になる、いたって気の小さい、やせて細っそりした小娘をこの町に連れて来てから四年になる。だがこの娘の生い立ちについては、町の人々はわずかな知識しか持っていない。十七歳の少女だったころ、ある将校にだまされて捨てられたとのことだが。
この四年のあいだに、小娘はむっちりしたロシア風の美女に一変した。しかも傲岸不遜で、金に抜け目のない、大胆でてきぱきした性格の女だった。彼女は誰にもなびかなかった。この一年ほどでは、サムソーノフから与えられた《自分の資本》を元に、フョードル・カラマゾフと組んで手形の買占めをやり、ひと財産築いたらしい。
当時かなり多くの人が、グルーシェンカをめぐってのカラマゾフ親子の馬鹿馬鹿しい醜い争いのことを知っていたが、老人と息子に対する彼女自身の態度の本当の意味を理解していたものはほとんどいなかった。
「ラキーチンとアリョーシャがはいって行った時は、もうすっかり夕闇がおりていたが、家の中にはまだ明かりがともっていなかった。問題のグルーシェンカは、客間の大きな不恰好なソファに寝そべっていた。……」〔ここから現前的場面に戻る。ただしアリョーシャとラキーチンの視点ではなく、まずはグルーシェンカが一人で部屋の中にいる様子を描写〕彼女は誰かを待ち受けてでもいるように黒の絹服を着て、頭には薄いレースの飾り布をつけていた。
ラキーチンとアリョーシャが玄関に現われると、一騒動。だあれ? あの方ではございません……
ラキーチン戸惑う。
客間へ。グルーシェンカ、アリョーシャが来たのを見て驚く。ラキーチン横柄に振舞う。この家では指図もできるんだとでも言わんばかりに。
グルーシェンカは何か不満げ?
アリョーシャ、あなたが来てくれてあたしとっても嬉しいのよ……でもとってもびっくりした……ミーチャがあばれ込んだとばかり思ったのよ……実はね、今日あの人をだまして今家に閉じこもっているの(ミーチャは彼女が商人のお爺さんのところにいると思っている)……そしてある知らせを待っているの……
なぜ今日にかぎってミーチャがそんなにこわいのさ
言ったでしょ、ある知らせを待っているって……それで今ミーチャに来られると困るのよ……きっと今ごろは、親父さんの家の裏庭に坐って、あたしが来ないか見張ってるに違いないわ……
じゃそのおめかしは何のためさ?
知らせを待ってるって言ったじゃないの、その知らせが来たら、すぐに飛び出して、飛んでいくのよ……そのためにおめかししているの……でもね、ラキートカ、ここにこんな立派な貴公子がおいでなのに、あんたなんかとお話することないわ……
彼女はいたずらっぽくアリョーシャのすぐ横へ腰をおろした。アリョーシャの見たところでは、彼女の表情はおとといとは別人のように善良だった。あの甘ったるい口のきき方も消えていた。
はしゃぐグルーシェンカ。アリョーシャの膝の上に飛び乗る。
アリョーシャは失神したように返事をしなかった。しかしアリョーシャの内部に生じていたのは、例えばラキーチンが自分の席から好色の目を光らせて期待し想像していたであろうこととは大違いだった。魂の大いなる悲しみが、彼の心に生じたにちがいないあらゆる感覚を奪い取ってしまったので、もしこの瞬間、彼が自分を冷静に見つめることができたなら、自分が今あらゆる誘惑やまどわしに対して最も堅固な鎧を着ていることに気づいたことだろう。グルーシェンカに対しては、女性についての恐怖などみじんも感じず、純真な好奇の念しかなかった。
ラキーチンとグルーシェンカが言い争う。ラキートカ、あんたはきのこだけど、この人は貴公子ですからね……
ラキーチン、どんな《知らせ》を待っているのか尋ねる。
将校さんが来るのよ、ラキーチン、あたしの将校さんが来るのよ
すでにもうモークロエ村まで来ている。ミーチャはもちろんそのことを知らない。
グルーシェンカ興奮して喋る。「……お黙り、ラキートカ、あたしにミーチャのことを思い出させないで頂戴。あの人はあたしの心をこなごなに砕いちまったんだもの。あたしは今そのことを考えたくないの。アリョーシャのことなら考えてもいい。あたしアリョーシャの顔をじっと見てるのよ。……あたしね、アリョーシャ、あんたがおとといのことで、あのお嬢さんのことであたしに腹を立てているんじゃないかと、ずっと考えていたの。あたし犬畜生だったわ。……でもね、やっぱりああなったほうがいいの。悪いことだったけれど、あれでよかったの」突然グルーシェンカは残酷な影をひらめかせて、にやりと笑った。「ミーチャの話だと、あの女は《鞭でひっぱたいてやる!》とわめいたそうね。あの時にはあたし、ずいぶんあの女を怒らせたわ。だってあたしを呼び出して、チョコレートで釣って負かそうとするんだもの。……いいえ、やっぱりあれでよかったのよ」
なんであんたはそんなにアリョーシャの機嫌を恐れているんだ?……
アリョーシャ、あたしはあんたを自分の良心みたいなつもりで見ることがあるの……しじゅうこう考えるのよ……『あの人はきっと今、このけがらわしいあたしを軽蔑しているにちがいない』って……アリョーシャ、あんたを見ていると、あたし本当に恥ずかしくなることがあるの……
シャンパンを注いだグラスが来る。
ラキーチン歓声を上げる。一杯やろうぜ! アグラフェーナさん、あんたは興奮して言葉が支離滅裂になってるだけだよ
アリョーシャはグラスを取り上げて一口飲んだが、すぐグラスを置いた。
いや、やっぱり飲まない方がいい
さっきの元気はどうした?とラキーチン。
それじゃ、あたしもやめておくわ、とグルーシェンカ。アリョーシャが飲まないなら、自分も飲まない。
ずいぶんお優しいことだ!……とラキーチンからかう。自分はちゃっかり膝に乗ってさ。こいつは神様に謀反を起こして、腸詰を食おうとしてるんだぜ……
どういうわけなの?
こいつの長老がきょう死んだんだよ、ゾシマ長老が、神聖なる──
グルーシェンカ驚く。あたしちっとも知らなかった! 彼女はうやうやしく十字を切って、慌ててアリョーシャの膝から飛び降りる。アリョーシャは驚いてまじまじと彼女を見つめる。
アリョーシャは突然しっかりした大きな声で言う。ラキーチン、僕が神様に謀反を起こしたなんて、からかうのはやめてくれたまえ……僕はね、君が一度も持ったことのないような宝物をなくしたんだもの……君はいま僕を裁くことはできないんだよ……それよりこの人を見てみたまえ、この人がどんなに僕をあわれんでくれたか、君にもわかっただろう……僕はここへ来る途中、邪悪な魂を見つける覚悟でいた……ところが僕はここで誠実な姉を見つけた……この人はたったいま僕をあわれんでくれた……アグラフェーナさん、あなたはたった今、僕の魂を生き返らせてくれたんです
ラキーチン意地悪く笑う。この人は君を取って食べるつもりだったんだぜ
お黙り、ラキートカ、とグルーシェンカ。興奮して喋り出す。ラキートカ、そりゃ前にはこの人を取って食べようなんて卑しい考えも起こしたけれど、今はあんたの言うことは嘘よ、今は全然ちがうわ……アリョーシャはあたしを姉と言ってくれたのよ、あたしこのことを決して忘れない! でもね、ラキートカ、あたしいけない女だけれど、それでもねぎをあげたことがあるの……
何だい、ねぎって? ちぇっ、畜生、ほんとに気が違ったな
「ラキーチンは、歓喜に酔ったふたりの様子を見て、あっけにとられると同時にむかっ腹を立てた。静かに考えたならば、人生にめったに起こらないことがちょうど同時にふたりの心に起こって、その魂を揺すぶったのだと思い当たったはずである。ところがラキーチンは、自分に関係にあることなら何でも敏感に理解することができるのに、自分の身近な人々の感情なり感覚なりの理解にかけては、きわめて鈍感だった。──それはひとつには若くて経験が浅いせいでもあったが、またひとつには持ち前の強いエゴイズムのせいでもあった。」
グルーシェンカ、アリョーシャに向かって「ねぎをあげた」話をする。譬え話。「……アリョーシャ、ラキートカにはあたしねぎをあげたことがあるって自慢したけれど、あんたには別の言い方をするわ、あたしは生涯にたった一度だけ小さなねぎを恵んだことがあるの……あたしの善行はそれひとつなの……だからね、アリョーシャ、もうあたしを褒めないで頂戴、あたしを善良な女だなんて思わないで頂戴……あたしはいけない女なの、それはそれは意地の悪い女なの……ああ、もう何もかも白状するわ……実はね、アリョーシャ、あたしラキートカにせがんで、もしあんたを連れて来てくれたら、二十五ルーブリあげるって約束したの……お待ち、ラキートカ、お待ちよ!
グルーシェンカ、引き出しの財布から二十五ルーブリ紙幣を抜き取る。
ラキーチン狼狽する。羞恥を威勢のよさで隠しながら、金を受け取る。「むろん要らないとは言わないさ……これでお互い五分五分だ」
アリョーシャのいる手前で金を受け取ったのが恥ずかしかった。彼はその金をあとでこっそりもらうつもりだったのだが。
グルーシェンカ、「あたしがどんなにいけない女か、あんたに知ってもらいたいの……」と告白を始める。かつて彼女を捨てた将校について。捨てられて以来、彼女はずっとあの男に復讐心を抱いていた。朝起きて自分の屈辱を考えると、犬よりも意地悪になって世界じゅうを丸飲みにしてやりたくなるほど。しかしひと月ほど前に、奥さんに死なれたあの男がまた彼女に会いたいという手紙を寄越した。さて、自分はあの男に復讐できるのだろうか? それとも、あの男が口笛を吹いて自分を呼んだら、しおらしく這い寄っていくのではないか? それほどに自分は卑しい女ではないのか? あたしは今日あそこへナイフを持っていくかも知れない……
グルーシェンカは幼い子供のようにおいおい泣き出す。
アリョーシャはラキーチンにグルーシェンカのことを弁護し出す。君はこの人から侮辱を受けたけれど、腹を立てないでくれ……君も今の話を聞いただろう?……五年も苦しみぬいてきて……ただ僕が訪ねてきて言葉を掛けたというだけで、すべてを赦し、すべてを忘れて泣いている……ナイフなんか持って行くもんか、持って行きはしないよ!……この人の魂はまだ安らぎを知らないのだ……
ラキーチン嘲笑する。
グルーシェンカは涙ではれぼったくなった顔を感激の微笑で輝かす。
「アリョーシャ、あたしの天使、こんな人うっちゃっときなさい、ほんとうになんて人だろう、人もあろうに。……」グルーシェンカ、アリョーシャに教えを乞う。あたしは自分を辱めたあの男を、愛しているのかしら、それとも愛していないのかしら? あの男を赦したものかしらどうかしら?
やはり残忍な影がグルーシェンカの顔にちらりとひらめく。
もう赦してるじゃありませんか……
ことによると、まだ赦そうと思っているだけかもしれないわ……あたしもう少し自分の心と戦ってみるわ……ひょっとすると、あたしの愛していたのは自分の受けた屈辱だけで、あの人じゃないのかも知れないわ……
じゃ、そのおめかしは何のためだい?とラキーチン
このおめかしが? もしかしたら、あの男への復讐のためかもしれない。『こんなあたしを見たことがあるかい、はじめてだろう? でもおあいにくさま、あんたの口にははいりませんからね!』こう言ってやるためかもしれない……
グルーシェンカ、ヒステリーを起こす。「ねえ、アリョーシャ、あたしは気違いじみた女なの、凶暴な女なの。自分の服を引き裂いて、自分を片輪にして、自分の器量を台無しにして、顔を焼くかナイフで切りきざむかして、乞食になってやるの。その気になれば、今だってどこへも、誰のところへも行かないの、その気になれば、明日にでもサムソーノフからもらったものを全部、お金も全部あの人に返して、一生、日雇い女になってやるの!……
ラキーチン立ち上がる。もう時間だぜ、帰ろう
グルーシェンカ飛び上がる。じゃ行ってしまうつもりなの、アリョーシャ!……「あたし、これまでずっと、あんたのような人を待っていたの、誰かそういう人が来て、あたしを赦してくれるに違いないと思っていたの、あたしみたいなけがれた女でも、きっと誰かが愛してくれると信じていたの、いやらしい目的のためじゃなしに!……」とひざまずくグルーシェンカ。
一体僕が何をしたと言うのです……僕はあなたにねぎをあげただけです、それだけですよ……
と、その時、とつぜん玄関で騒々しい音。女中が駆け込んでくる。奥様、お使いが参りました……〔一つの場面を切り上げるためのタイミング合わせ〕
「さあお声がかかった!」と真っ蒼になってグルーシェンカ叫ぶ。行こう、あたしの五年間よ、さようなら!……さあ、帰って頂戴、帰って頂戴、みんなあたしのそばから出てって……運命は決まったの……!
彼女は突然ふたりを放り出して、寝室へ走りこむ。
もうわれわれどころじゃないんだ……とラキーチン。行こうぜ、あの涙っぽい叫びはもううんざりだ……
二人は外へ。外には一台の旅行馬車が止まっている。アリョーシャとラキーチンが玄関の階段を下りると同時に、グルーシェンカの寝室の窓が開いて、声が飛んでくる。アリョーシャ、お兄さんのミーチャによろしく言って頂戴、『グルーシェンカはあんんたみたいな立派な人のものにならないで、卑劣な男のものになりました』って、このとおりの言葉で伝えて頂戴……
ラキーチン笑う。とうとうミーチャをばっさりやっちまったな……
ラキーチン、歩きながら将校をくさす。噂じゃ失職したんだとさ、グルーシェンカが小金を貯めたと聞いて、それで舞い戻ってきた、──これが奇蹟の正体さ
アリョーシャ何も言わない。ラキーチンは苛々して毒づく。君はさっきの二十五ルーブリのことで僕を軽蔑してるんだな?……まことの友を売ったというわけか?
ああ、ラキーチン、僕はそのことを忘れていたんだ、君が言わなきゃ、思い出しもしなかったのに……
ラキーチンは完全に腹を立ててしまう。
君みたいな奴はみんなくたばるがいい!……勝手に一人で行きやがれ、君の道はそっちだ!
ラキーチン、別の通りへ曲がって行く。アリョーシャは野原を横切って僧院へ。
4 ガリラヤのカナ
「僧院の習慣から言うと、アリョーシャが僧庵へ帰った時は、もう大そう遅かった。……」九時過ぎ。柩を安置した庵室では、まだパイーシイ神父が福音書を読誦している。
アリョーシャはひざまずいて祈祷を始める。
長老とキリストの幻覚を見る。
彼は庵室の外へ出て行く。「喚起に満ちた彼の魂は、自由を、場所を、広い天地を求めていたのだ。……」
彼の魂は《他界との接触》に打ちふるえていた。彼は一切に対してすべての人々を赦し、自分のほうからも赦しを乞いたいと思った。おお、しかしそれは決して自分のための赦しではなく、万人のため、万物のため、一切のための赦しを乞うのだ……
この瞬間に、一生涯変わることのないだろう、堅固な観念を彼は抱く。
「三日後に、彼は僧院を出た。それは《世の中へ出よ》と彼に命じた今は亡き長老の言葉にも、かなうことであった。」
▼第八篇 ミーチャ
-
1 商人サムソーノフ
〔ここまでで明らかになっている3日目の出来事をまとめておくと、朝にイワンがモスクワへ経ち、長老腐臭事件が起き、ミーチャがグルーシェンカを送っていき、アリョーシャとラキーチンがグルーシェンカを訪れ、グルーシェンカはモークロエ村へ発っていった。〕
-----------------------------------------------------2日目(巻き戻し)
2日目と3日目の間、ミーチャは万が一グルーシェンカが自分の愛を受け入れた場合、彼女を連れ出すのに必要な金の工面に奔走していた。
「アリョーシャと野原で話し合ったあと、ミーチャはその夜ほとんど一睡もしなかったが、次の日の朝十時ごろ、サムソーノフの家を訪ねて取り次ぎを頼んだ。……」
2 リャーガヴイ
ミーチャ、馬車を飛ばしてイリインスコエ村へ。リャガーヴイを探しているうちに夜に。リャガーヴイは酔って寝込んでいたので朝まで待つ羽目に。
-----------------------------------------------------3日目
無駄足だった。また町へ馬車で戻る。
3 金鉱
まずグルーシェンカの家を訪れ、彼女をサムソーノフの家まで送ってやる。
ピストルをかたに十ルーブリを若い官吏から借りる。
ホフラコーワ夫人の屋敷へ。
「同じことですよ、ドミートリイ・フョードロヴィチ、あなたに必要なのは、あなたがご自分でも知らずに夢中で望んでおいでなのは、そのことなのです。わたくし今日の婦人問題とまるきり縁がなくはありませんのよ、ドミートリイ・フョードロヴィチ。女権の拡張と、さらには最も近い将来における婦人の政治への参加──これがわたくしの理想ですの。わたくしにも娘がありますからね、ドミートリイ・フョードロヴィチ。わたくしのこうした一面はあまり知られておりませんけれど。わたくしこの問題について作家のシチェドリーン〔諷刺作家〕に手紙を書いたことがありますの。あの作家にわたくしたくさんのことを教えられましたので、女性の使命について色々なことを教えられたものですから、去年、無名の手紙をたった二行──『わが作家よ、現代の婦人に代わっておんみを抱擁し接吻を送る、いっそうのご健筆を』と書き送りましたの。そうして署名は《母より》としましたの。いっそ《現代の母より》と署名しようかと迷ったのですけれど、結局、ただ《母より》に落着しました。そのほうが精神的な美しさがありますもの、ドミートリイ・フョードロヴィチ。それに《現代》という言葉は雑誌『現代人』を思い出させるでしょうし、──これは近頃の検閲のしぶりから見て、あの人たちには辛い思い出ですものね。……おや、どうなさいましたの?」
またグルーシェンカの家へ。きねを掴んでどこかへ飛び出して行く。
4 暗闇のなかで
グルーシェンカがフョードルのところにいると思い込んで、庭の塀を飛び越えて母屋へ。
………………………………
グリゴーリイを打ち倒して逃げる。
またグルーシェンカの家へ。グルーシェンカがどこへ行ったか知る。
5 突然の決心
夜八時半。ピストルをかたに金を借りた、例の役人、ペルホーチンの家へ。ピストルを返してもらう。ミーチャ、なぜか大金を持っている。
プロートニコフの店で買い物をして(三週間前にやったのと同じ)、モークロエ村へ馬車を飛ばす。
6 おれが来たんだ!
モークロエ村に着く。宿屋へ。
グルーシェンカと会う。マクシーモフとカルガーノフもいる(偶然この宿屋に泊っていた)。
7 歴然たる初恋の男
グルーシェンカの初恋の男であるポーランド人を追い出す。
8 夢見ごこち
飲めやうたえやの乱痴気騒ぎ。
そうこうしているうちに日付をまたぐ。
-----------------------------------------------------4日目
ミーチャ、自分がグリゴーリイを殺したと思っているので、自殺したくなる。
グルーシェンカとの睦言。
突然そこへ、警察署長と検事補、予審判事が入って来る。「退役陸軍中尉カラマゾフ殿、私はあなたが、ゆうべ起こったあなたのお父上フョードル・パーヴロヴィチ・カラマゾフ殺害事件の犯人として告発されていることをお伝えしなければなりません……」
▼第九篇 予審
-
1 官吏ペルホーチンの出世の糸口
〔ここで時間を少し巻き戻して、3日目の夜十一時頃〕
ドミートリイと別れたあとのペルホーチン、ホフラコーワ夫人の屋敷へ(ミーチャに大金を渡したのが夫人かどうか確かめるため)行った後、警察へ。
2 恐慌
ペルホーチンが知らせる前に、警察ではすでに事件を知っていた。グリゴーリイが意外に早く意識を取り戻したから。
ペルホーチンの情報で、警察はモークロエ村へ。
3 魂の苦難の遍歴──第一の苦難
ミーチャの予審。
フョードル殺害については、否認。しかし他に誰が殺したというのか……?
父親と金銭にまつわる諍いがあったことについて。
4 第二の苦難
二日前からの行動を逐一語っていく。
銅のきねが提示される。ミーチャ、「何の目的もなくそれを掴んだ」としか言えないのだが、自分自身でもそう言っていて不可解だと感じるので、不機嫌になる。
5 第三の苦難
豪遊のための大金をどこから手に入れたのか、が焦点になる。ミーチャは答えることを拒否する。
6 検事、ミーチャを追い込む
グリゴーリイの証言との食い違いが焦点に。グリゴーリイは母屋のドアが開いていたのを見た?
これでドミートリイ追い詰められる。金の出所を打ち明ける決意をする。
7 ミーチャの大事な秘密──一笑に付される
守り袋に縫いこんであった千五百ルーブリについて。その微妙な恥辱は検事たちには理解されない。
訊問終り。
8 証人たちの証言。餓鬼
証人たちの証言、とくに宿屋の主人とポーランド人の証言はミーチャに不利に働くものだった。
ミーチャ、自己犠牲精神を目覚めさせるような夢を見る。「そればかりか彼は、自分の心のなかに、今までついぞ覚えのないある感動が湧き起こるのを感じている。彼は泣きたかった。もう二度と餓鬼が泣かないように、乳のひからびた黒い餓鬼の母親が泣かないように、今この瞬間から誰の目にも涙一滴なくなるように何かをしてやりたい。それもたった今、たった今してやりたい、一刻の猶予もなしに。たといどんな障害があろうとも、カラマゾフ式のがむしゃらさでもって。」
9 ミーチャ、護送される
ほとんど犯人のような扱いをされる。
■第四部
▼第十篇 少年たち
- -----------------------------------------------------二ヵ月後
1 コーリャ・クラソートキン
十一月の初旬。
コーリャ。十四歳。列車が通るあいだ線路の上にうつ伏せになっていた「向こう見ず」な少年。ひと月ほど前から犬のペレズヴォンを飼っている。
「ついでに、──私は触れるのを忘れていたが、このコーリャ・クラソートキンは、すでにご存じの退役二等大尉スネギリョーフの息子イリューシャ少年が、学校友だちから父親のことを《へちま》とからかわれて、ペンナイフで太腿を突き刺したあの相手の少年である。」
-----------------------------------------------------二ヵ月後-1日目
2 子供たち
「さて、この寒さの厳しい、北風の吹きすさぶ十一月のある朝、コーリャ少年はわが家に坐っていた。……」十一時。外出しなければならない重要な用事がある。
3 中学生たち
外出したコーリャ、スムーロフと合流。「このスムーロフは、もし読者がお忘れでないならば、二ヵ月前にどぶ川をはさんでイリューシャに石を投げていた少年たちのひとりで、……」
会話から、これからイリューシャの家へ行こうとしていることがわかる。
「……それにしても、なんだって君たちは、あんなセンチメンタルなことをはじめたんだい? クラス全員があそこへ行っているらしいじゃないか」
「全員じゃなくて、十人ぐらいがいつも、毎日、行っているんです。別に何でもないんです」
「僕が驚いているのは、この問題でのアレクセイ・カラマゾフの役割さ。自分の兄貴が明日あさってあんな犯罪のために裁判にかけられようというのに、あいつにはよくも子供あいてにセンチメンタルな真似をする暇があるもんだなあ!」
「センチメンタルなことなんか全然ありませんよ。そう言う君だって、こうしてイリューシャと仲直りにし行くんじゃないの」
コーリャはラキーチンの影響で「社会主義者」を自称しているらしい。
スネギリョーフの家の近くまで来ると、スムーロフを先に行かせてカラマゾフを呼び出して貰う。
4 ジューチカ
ここでコーリャの外貌描写。
アリョーシャ姿を現わす。
アリョーシャの外貌描写。以前とは全く違っている。僧服を脱ぎ、素晴らしい仕立てのフロックを着ている。〔アリョーシャがどこに住んでいるかは、第十一篇5章になるまで分からない〕
イリューシャが連れている犬はペレズヴォンであって、ジューチカではない?
ジューチカに関するいきさつ。ペンナイフで腿を刺されたこと。
アリョーシャがコーリャを対等に扱うので、コーリャ喜ぶ。
5 イリューシャの枕もとで
スネギリョーフの家の中へ。
スネギリョーフはイリューシャの病身を案じて恐慌状態。
コーリャは突然ジューチカの話を出す。イリューシャ動揺。
しかしコーリャの連れて来た犬が実はジューチカだったのだ。
皆幸福になる。鵞鳥の話。トロイの建設者の話。
偉そうな医者が入って来る。少年たち帰る。
コーリャは帰らず、アリョーシャと外で待つことにする。
6 早熟
アリョーシャとコーリャの会話。「僕はずっと前から、あなたを珍しい人として尊敬してきたんです。……」
コーリャ、自意識過剰でしばしば赤面する。
……
「社会主義者?」アリョーシャは笑いだした。「いつのまにそんなものになったんです? だって君はまだ十三なんでしょう?」
コーリャは痛いところを突かれた。
「第一に、僕は十三じゃなくて十四です、二週間もすれば十四になります」彼は真っ赤になって言った。「第二に、どうして僕の年が関係があるんです。問題は僕がどんな信念を持っているかにあって、僕がいくつかってことじゃありませんよ」
……
(『だが、もしこの人が、親父の本箱に「警鐘」が一冊あるだけで、僕がそれしか読んでいないことを知ったとしたら』コーリャはちらりとこう思って、ぞっとした。)
……
「しかし、あなたはほんとうにそんなに疑ぐりぶかいんですか。その年で! 実は、あの部屋で、あなたが話をしている時のお顔を拝見して、これは非常に疑ぐりぶかい人に違いないと、そう僕は思ったんです」
「ほんとうにそう思ったんですか。何という眼力だろう、やっぱりなあ。賭をしてもいいです、それは僕が鵞鳥の話をしていた時のことでしょう。あの時は、僕もあなたが僕をひどく軽蔑しているような気がしていました。僕があまりあせって自慢話ばかりするものだから。そう思うと、僕は急にあなたが憎らしくなって来て、それで愚にもつかない話をはじめたんです。それから(これはもう今、ここでの話ですが)、『神がいなければ考え出す必要がある』と言った時も、僕は自分の知識をひけらかそうとあんまりあせっているなという気がしました。ましてや、この言葉は本で読んだものだったのですから。しかし誓って言いますが、僕があせって自慢したのは虚栄心のためじゃないんです。そう、なぜかわからないんですが、あんまり嬉しかったから、何か嬉しくってならなかったからなんです。……もっとも、嬉しさのあまり誰かれの見境なく首ッ玉にかじりつくなんて、恥ずべき性質ですけれど。……」
……
医者が出て来たことによって対話は中断される。
7 イリューシャ
医者とスネギリョーフの話の模様からすると、イリューシャは助からないと医者が断言したらしい。
皆家の中へ。皆泣く。「パパ、泣かないで。……僕が死んだら、他のいい子をもらって、……あの子たちのなかからいちばんいい子を選んで、その子をイリューシャと呼んで、僕の代わりにかわいがってやってね、……」
コーリャ、夕飯を食べるために一旦帰るが、また戻ってきて、一晩中イリューシャと一緒に居るとを約束する。アリョーシャにも、あなたもきっといらして下さい!と言う。
アリョーシャ曰く、晩にきっと来ます。
▼第十一篇 兄イワン
-
1 グルーシェンカの家で
アリョーシャはこの日のうちにグルーシェンカを訪ねるつもりだった。なぜなら彼女がこの日の朝はやく使いを寄越して、来てくれと頼んでいたから。〔一応今のところプロットを進展させるトリガーはこれだけだが……〕
ミーチャが逮捕されて以後ふた月の間にあったことを、説明的ディエゲーシス。ミーチャが逮捕されてから、グルーシェンカは五週間近く病床にあった。アリョーシャはこのふた月の間にしばしばグルーシェンカを訪れていた。グルーシェンカは、逮捕されたミーチャのことでカチェリーナを嫉妬している? もっともカチェリーナは一度も拘留中のミーチャを訪ねていなかった。
「彼は心配そうな顔つきで彼女の住まいへはいって行った。……」彼女は三十分ほど前にミーチャのところから帰って来た〔時間幅を過去へ広く取った文脈の導入〕。部屋には彼女のほかに、マクシーモフ。説明的ディエゲーシス。彼は二ヵ月前にグルーシェンカと一緒にモークロエ村から戻ってくると、そのまま彼女の家に居ついた。今では彼女にとってなくてはならぬ友人になっている? ちなみにサムソーノフは、ミーチャの裁判があってから一週間後に死亡〔時間幅を未来に広く取った文脈の導入〕。
「とうとう来てくれたのね!」と彼女は叫んでトランプを放り出し……〔ここから現前的場面〕
グルーシェンカの話。今日ミーチャに会いに行って、そこで喧嘩した。ミーチャが《初恋の男》のことでやきもちを焼いた? グルーシェンカが出る時、代わりにラキーチンが面会に来ていた。
グルーシェンカはミーチャのやきもちを忌々しく思う。「……せめてあのポーランド人がいなければいいのに、アリョーシャ、だって今日はあの男までがわざわざ病気になったりするんですもの。あたしあの男のところへも行って来たの。こうなったらわざとあの男にもピロシキを届けてやる。あたしが届けもしないのに、ミーチャったら届けただろうって責めるんですもの。こうなったらわざと届けてやるわ、わざと! ああ、今度はフェーニャが手紙を持って来た! やっぱりそうだ、またあのポーランド人からだわ、またお金の無心よ!」
説明的ディエゲーシス。あのポーランド人もこちらで乞食同然の暮しをしていて、下宿のおかみに借金をして動きがとれなくなっているのだった。しょうがないのでグルーシェンカはこの《初恋の男》にも金を恵んでやった。するとそれ以来ポーランド人は毎日のように無心の手紙を彼女に寄越すのだった。
あんたはあたしがあのふたりにピロシキを届けたことを、ミーチャに話すのよ……
まっぴらごめんですよ、とアリョーシャにっこり。
あんたは兄さんがやきもちで苦しんでると思ってるのね……そうじゃない……兄さんはわざとやきもちを焼いて見せたのよ……あたしみたいな女は、やきもちを焼いてもらえなかったら却って癪にさわるくらいだけれど、あたしが怒っているのは、兄さんがあたしをぜんぜん愛していないくせに、今とわざとやきもちを焼いて見せることなのよ……「兄さんはさっき突然あの女(カチェリーナ)のことをあたしに話すのよ……」から、カチェリーナへの怨みを語る。
兄さんはカチェリーナさんを愛していませんよ……
こんな話はもうたくさん!と言って、グルーシェンカは明日の裁判を話をする。あの人はスメルジャコーフの身代わりになって裁判を受けるんですね!
厳しく訊問したんですが、裁判所はスメルジャコーフは犯人じゃないという結論を出したのです……あの男はずっとひどい病気で寝ていたのです……
アリョーシャとイワンとカチェリーナがお金を出し合って有名な弁護士を雇ったという話。
グルーシェンカはそんな奴期待できない、と言う。
ミーチャに不利な証言ばかりそろっている。彼女の下女のフェーニャまで。一番致命的なのが、下男のグリゴーリイの「ドアが開いていた」という証言。
ミーチャが気違いかどうかの鑑定に医者も呼ばれている。「そう言えば今でもあの人すこし変なのよ」……餓鬼の話をするようになった。『おれがシベリアへ行くのは、あの餓鬼のためだ、おれは殺さなかったけれど、シベリアへ行かなければならない……』。アリョーシャ、あれはどういうことなの? あの《餓鬼》って何のことなの?
アリョーシャ、今日行って訊いてみますと約束。〔これでプロット展開のトリガーがまた追加された〕
あれは弟さんのイワンがあの人の心をかき乱しているからなのよ、イワンさんがよく行くもんだから、それで……と、グルーシェンカ口を滑らす。
「イワンが行っているんですって? ほんとに行っているんですか。ミーチャは僕に、イワンは一度も来ないって言ってたんだがなあ」〔不穏な謎の伏線〕
グルーシェンカはどぎまぎする。ついうっかり……仕方がないわ、ほんとうのことを言います、イワンさんは二度、面会に来たんです……最初はモスクワから帰ってきてすぐ、二度目は、一週間前。そしてミーチャに、自分が来たことをアリョーシャに言ってはいけない、決して言ってはいけない、誰にも言ってはいけない、こっそり来たんだからって口止めしたの……
アリョーシャ衝撃を受ける。
イワン兄さんとはこのふた月のあいだほとんど話をしていない……僕が訪ねて行くといつも嫌な顔をするんです……
イワンにどんな秘密があるのか? なんでミーチャに口止めする必要があったのか? グルーシェンカはそれを探り出して欲しいと頼む。「あんたを呼んだのはそのためなの」
グルーシェンカの予想では、張本人はカチェリーナ。カチェリーナとイワンとミーチャがぐるになって何か考えている? それが秘密? 「……まあ、待ってるがいい、裁判の時にあのカチェリーナをひどい目に合わせてやるから。取っておきのひと言を言ってやる、……何もかも洗いざらいぶちまけてやる!」
グルーシェンカが泣き出す。アリョーシャ慰める。
「こんな状態のまま彼女を置き去りにして行くのは気の毒だったが、彼は急いでいた。まだたくさんの用事が待っていたのである。」〔?〕
2 病める足
「第一番目の用事は、ホフラコーワ夫人の家を訪ねることであった。彼は一刻も早くその用事を片付けて、早くミーチャのところへまわろうと道を急いだ。……」ホフラコーワ夫人は三週間前から具合が悪かったが、にもかかわらずお洒落を始めていた。〔時間幅を過去へ広く取った文脈の導入。基本的に章の冒頭に持ってくる〕これは、このふた月ばかり、例のペルホーチン青年が夫人を訪ねるようになったことと関連している(とアリョーシャは推測するが、浮ついたこととして詮索はしなかった)。彼が夫人を訪ねるのは四日ぶり。「用事」というのはリーザのこと。リーザは昨日使いを寄越して、《非常に重大な事態が起こったから》ぜひともすぐ来てほしいと頼んだのだ〔プロットを進展させるためのトリガー追加〕。だからすぐにもリーザのところへ行こうとしたが、その前にホフラコーワ夫人に捕まった。
余談ばかりする夫人。「ああ、いま何が肝心なお話か、どうしてわたくしにわかりましょう。……ねえ、わたくしすっかり混乱してしまいましたわ。あわてていますの。どうしてわたくしあわてているのでしょう。……」話の中で、リーザがアリョーシャとの婚約を解消したことに触れられる。
ミーチャの裁判に関連して、夫人は世間の評判を気にする。ペテルブルグやモスクワの新聞という新聞に、何回書きたてられたことでしょう……。
説明的ディエゲーシス。「今度の恐ろしい事件についての噂がロシア全国にくまなく広まっていることは、アリョーシャも前から知っていた。……」ホフラコーワ夫人もゴシップの犠牲になっていた。どうもその記事はラキーチンが書いたらしい。ペルホーチンに嫉妬して? ラキーチンは自分が書いた詩をけなされて、ペルホーチンに食ってかかったらしい……『君はと言えば農奴制の支持者じゃないか、ひとかけらのヒューマニズムも持っていない、現代の開化の感情をいささかも感じていない、時代の進化に触れようともしない……』
ラキーチンに関するホフラコーワ夫人の話はどんどん長くなる。
僕は今日どうしても時間内に兄のところへ行かなければならないのです……
ホフラコーワ夫人はまた別の話を始める。ドミートリイの精神鑑定のために呼ばれた医者について。ホフラコーワ夫人もドミートリイが正気でなかったことに賛成。殺すまいと思いながら、殺してしまった、この点であの人は赦されるんですわ……
しかし、兄は殺さなかったのです……。アリョーシャ苛々しはじめる。
でもね、ドミートリイ・フョードロヴィチが殺したのでしたら、そのほうがずっと素晴らしいことですわ。そして、あの人に無実の判決を言い渡す、それこそ人道的で、世間に新裁判の恩恵を目のあたり見せることですわ……あの人が無罪になったら、わたくし裁判所から真っ直ぐにあの人をうちへ食事にお招きして、知り合いをみんな呼び集めて、みんなで新裁判のために乾杯しますわ……でも肝心なことは、今の世の中で正気を失わない人があろうかということですわ……あなたもわたくしも、みんな正気じゃないんですわ、……実はうちのリーズも正気じゃないんですの、わたくしきのうもあの子のために泣かされましたわ……
アリョーシャはリーズのところへ行こうとする。
「あら、ちょっとお待ちになって、アレクセイ・フョードロヴィチ、これがいちばん肝心なことかも知れませんわ」とホフラコーワ夫人は叫んで、とつぜん泣き出した。「誓って申しますが、わたくしあなたになら安心してリーズをお任せできますの、あの子が母親に内証であなたをお呼びしても、何とも思いませんわ。でも、あなたのお兄さんのイワン・フョードロヴィチには、失礼ですけれど、そう気軽に娘をお任せできませんわ。……実は、あの方、突然リーズを訪ねていらしたの、わたくしの知らないまに」
何ですって? いつのことです? アリョーシャ驚愕。〔また不穏な謎の伏線〕
イワンはモスクワから帰って来てから、二度ほどここを訪れた。一度は知人として。二度目はここにカーチャが来ていてそれを知って立ち寄った。だがその後もイワンは来たらしい、それもホフラコーワ夫人のところへではなくてリーズのところへ。六日前のことだ。それからどんどんリーズのヒステリーが酷くなっていった。とうとう昨日は正気を失ってしまった! 突然『わたしあのイワン・フョードロヴィチは大嫌い、あの人もう家へあげないで頂戴!』と言いだしたのだ。何が何やらさっぱりわからない……。ぜひリーズのところへ行って、何もかも聞き出して下さいまし……それができるのはあなたお一人ですもの……。「……あら、やっとペルホーチンさんがいらした!」〔会話場面を首尾よく打ち切るテクニック〕
目を輝かすホフラコーワ夫人。
アリョーシャはリーズのところへ。
3 小悪魔
リーザの部屋へ。
あなたはご機嫌が悪いんですね
とんでもないわ、とっても愉快なのよ……わたしあなたを断ってよかった、あなたの奥さんにならなくてよかったって……
そんな会話から始まる。
わたしあなたをとても愛しています、でも尊敬していないの、もし尊敬していたら、恥ずかしくてこんなこと言えないわ、そうでしょ?……
そうですね
ねえ、アリョーシャ、あなたはほんとうにいい人ね! わたしきっとあなたが好きで好きでたまらなくなると思うわ。だってこんなに早く、あなたを愛さなくてもいいって承知してくださったんだもの……
「きょう僕を呼んだのは何のためなんです、リーズ?」
「わたしの希望をひとつ、お話ししたかったの。……」幸福になりたいとか、誰かに思いっきり苦しめてもらいたいとか、家に放火したいとか。
わたしがお金持ちで、みんなが貧乏だとしたってかまやしないわ……わたしお菓子を食べたりクリームをなめたりして、誰にも分けてやらないから……あなたはわたしが神聖なことを話さないものだから、ひどく腹を立てているのね……
アリョーシャは彼女の真剣さに驚く。彼女にはからかい半分のふざけたところは少しもない。
人間には犯罪を好む瞬間があるものですね……
そうよ、そうよ!……人間は犯罪が好きなの、誰でも好きなの、いつでも好きなの……わたし自分をだめにしたいの……
「そうそう、わたしの見たおもしろい夢のお話をしてあげるわ……」悪魔の夢。神様の悪口を言うと悪魔たちがぞろぞろ近寄ってくる。そこで不意に十字を切ってやると、悪魔たちはさっとあとずさりする。何度もそれを繰り返す。「とってもおもしろくって、息がつまりそう」
わたしがこんなことを言うのはあなたに対してだけなの……とリーザ。「ねえ、アリョーシャ、ユダヤ人が復活祭の時に子供を盗んで切り殺すって、あれほんとうなの?……わたしのところにある本があって、どこかの裁判の話を読んだことがあるの。ユダヤ人が四つの男の子を捕まえて、最初、両手の指を全部切り落として、それから壁にはりつけにしたんですって、釘で打ちつけて、はりつけにしたの。……子供がうんうんうなっている間じゅう、そのユダヤ人は立って、見とれていたんですって。すてきだわ!」
「すてきですって?」
「すてきだわ。わたし時々、その子供をはりつけにしたのがわたしだと考えてみるの。その子がぶら下がってうめいている前に坐って、パイナップルの砂糖漬けを食べてやるの。わたしパイナップルの砂糖漬けが大好き。あなたもお好き?」
リーザの顔が歪む。彼女はそのユダヤ人の話を読んだ晩、ひと晩じゅう涙を流して震えていたが、その間じゅうずっと砂糖漬けのことが頭をはなれなかった。「あくる朝、わたしはある人のところへ手紙を持たせて、ぜひ来てほしいって頼んだの。その人が来た時、わたし不意にその子供のことと砂糖漬けのことを話して聞かせたの、何もかも、残らず話して聞かせたの、《すてき》だってことも言ってやったの。その人はとつぜん笑いだして、それはほんとうにすてきだと言ったわ。それから立ち上がって、帰って行ったの。五分ほどしかいなかったわ。その人わたしを軽蔑したのかしら、わたしを? ねえ、教えて、アリョーシャ、その人わたしを軽蔑したのかしら?」
じゃ、あなたのほうが呼んだんですね、その人を?〔さらに不穏な謎の伏線〕
そうよ
その子供の話を確かめるだけのために?
いいえ、全然ちがうの、全然……ところがその人が入って来ると、ついその話をしてしまったの、その人は返事をして、笑って、立ち上がって出て行ったわ
その人は立派な態度をとったわけだ
でも、わたしを軽蔑したでしょう? あざ笑ったでしょう?
違いますね、なぜならば、ことによるとその人自身、パイナップルの砂糖漬けを信じているかもしれないからです……その人は誰も軽蔑してはいない……誰も信じてはいない……もっとも、信じていないとすると、当然軽蔑することになりますね……
リーズは毒々しい、燃えるような笑いをアリョーシャに浴びせる。突然寝椅子から飛び起きるとアリョーシャを抱きしめる。ねえ、アリョーシャ、アリョーシャ、わたしを助けて頂戴!……わたし自殺します、何もかもがいやなんですもの……もう生きるのはいや、何もかもがいやなんですもの……わたし何もかもがいやなの、いやなの!……わたしに必要なのはあなたの涙だけなの……
とつぜん彼女はアリョーシャから身を離す。もうお帰りなさい、アリョーシャ、お兄さんのところへ行く時間よ! さ、早く、早く!
アリョーシャは戸惑うが、腕ずくでドアに押しやられる。その時右手に小さな紙を握らされる。《イワン・フョードロヴィチ・カラマゾフ様》という宛名を読む。リーザは威嚇するような表情。
お渡しして、必ずお渡しして!……今日、今すぐ……わたしこのためにあなたを呼んだの!〔これもプロットを進展させる一つのトリガー〕
そう言うとリーザは急いでばたんとドアを締めた。
アリョーシャは手紙をポケットへ入れ、階段を下りる。
4 聖歌と秘密
「アリョーシャが監獄の門のベルを鳴らした時は、もうだいぶ遅かった。」〔移動場面は章間で済まして完全に省略〕もう夕方?
説明的ディエゲーシス。アリョーシャとグルーシェンカとラキーチンは、ミーチャとの面会に関して例外的な自由を許されていた。特にアリョーシャは警察署長に愛されていたので。監獄の面会時間に遅れても、うまく取りはからってもらえた。
ミーチャが呼び出される。アリョーシャはラキーチンとばったり出くわすが、ほとんど口もきかない。
ミーチャはずっとアリョーシャを待っていたという。
いよいよ明日は公判だが、そんなことはどうでもいい……それより俺の頭の中に居座っていた思想がなくなっちまった……神様が気の毒になったんだ……
ラキーチンの話。ベルナールの話。ラキーチンは事件のことを論文に書いて、文壇に乗り出そうとしているらしい。ラキーチンは神様を嫌っている、これがあの連中の最大の泣き所だ……
ラキーチンがホフラコーワ夫人に取り入っているという話。彼女を利用してペテルブルグで新聞を発行するつもりだった? 夫人を誘惑するために詩まで書いたのだが、追い出された。……
兄さん、僕は長いこといるわけにはいかないんです……
ミーチャは突然アリョーシャに接吻。ラキーチンにはこのことはわかるまいが……お前なら、お前なら、何でもわかってくれるだろう……だからおれはお前が来るのを待ちこがれていたんだ……とうとう最後の時が来たから、胸のうちをお前に打ち明けよう……おれはこのふた月ほど自分のなかに新しい人間を感じて来た……。あの時見た《餓鬼の夢》の話。『どうして餓鬼がみじめな目に会うのか』──この疑問はあの瞬間おれにとって予言だった!……おれが行くのは《餓鬼》のためだ……なぜなら、われわれみんなはすべての人に対して罪があるからだ……
ミーシャの顔は蒼ざめ、唇はふるえ、目からは涙。
……アリョーシャ、おれの天使、おれは今いろんな哲学のために殺されかけている、畜生! 弟のイワンが……
イワン兄さんがどうしたんです?
……イワンはラキーチンとは違う、彼は思想を隠している、イワンはスフィンクスだ。彼は黙っている。しじゅう黙りこくっている。だが、おれは神のことで苦しんでいる。おれが苦しむのはそのことだけだ。もし神がいなかったらどうなるだろう? もしラキーチンの言うことが正しかったら、神が人類の作った人工的な観念にすぎなかったら?……神がいなかったら、どんなふうに人間は善行を行なうのだ!……おれはこの問題のために、ふた晩、眠らなかったんだ……イワンには神がない。あの男は思想を持っているのだ……おれなんかと規模の違う思想を……だが、あいつは黙っている。おれが何をきいても黙っている。あいつの知恵の泉の水をひと口飲みたいと思ったんだが、──何も言わないんだ。……あいつはラキーチンよりはうわてだよ
さらにイワンの話。カチェリーナの話。あの女が法廷で、例の四千五百ルーブリを受け取ったあとで平身低頭した話をはじめはしないかと心配だ……。俺はあの女の犠牲など欲しかない!
グルーシェンカの話。アリョーシャ、どんな立派な男でも、必ず女の尻に敷かれるものなんだ。……彼女はお前におれのことをなんて言っていたんだい
アリョーシャ報告。グルーシェンカはイワン・カチェリーナ・ドミートリイの三人に秘密があることを疑っている……。
それを聞いてミーチャ、打ち明けることを決心する。そしてアリョーシャに、裁判官になって俺の運命を決めてくれと頼む。……イワンはミーチャに(グルーシェンカを伴っての)逃亡をすすめているのだ。イワンはそれをしつこくすすめている。逃亡費用もイワンが(相続した遺産から)出す。このことをアリョーシャには漏らすなともイワンは言った。……
アリョーシャの答え。実際に判決があるまでは決められない。でも兄さんは、ほんとうに無罪になる望みをすっかり捨ててしまったのですか……
イワンのやつは、俺に逃亡をすすめておきながら、自分じゃおれが犯人だと信じているんだ……「……アリョーシャ、そろそろ時間だぜ、看守が外でどなりだした……もう遅いから、規則違反だ……」
別れの挨拶をする。が、アリョーシャが出て行こうとしたとき、ミーチャがまたアリョーシャを呼ぶ。
おれの前に立ってくれ……
ミーチャはアリョーシャの肩を両手でしっかり掴む。
「アリョーシャ、神様の前へ出たつもりでほんとうのことを言ってくれ、お前はおれが殺したと思っているのか、それとも思っていないのか。……ほんとうのことを聞かせてくれ、嘘をつかないで」
たくさんです、何を言うんです……
ほんとうのことを、ほんとうのことを言ってくれ!
「僕は兄さんが人殺しだなんて、一瞬たりとも信じたことはありません」突然ふるえる声がアリョーシャの胸の奥からほとばしって出た。そうして彼は、自分の言葉の証人として神に呼びかけるように、右手をさっと差しあげた。仕合せの光が、一瞬ミーチャの顔をくまなく照らした。
「ありがとう!」と彼は、気を失っていた人がはじめてほっと息をはき出すように、ゆっくりと言った。「お前のおかげでおれは今よみがえった。……実は、今までお前にきくのがこわかったんだ、お前に、お前にきくのが! さあ、行くがいい、行くがいい。お前のおかげでおれは明日のために元気を取り戻した。ありがとう。さあ、お帰り、イワンを愛してやってくれ!」最後にミーチャはこう口走った。
アリョーシャ外へ。《イワンを愛してやってくれ!》──事実、アリョーシャはこれから、イワンを訪ねて行くつもりだった。今朝から彼はぜひともイワンに会う必要があった〔これはイワンとスメルジャコーフの対話を前提として、過去からのかなり長い射程の文脈を背景に持っている〕。ミーチャのことに劣らず、彼はイワンのことでも苦しんでいたのだ……。
5 兄さん、あなたじゃない!
「アリョーシャはイワンのところへ行く〔イワンと別々のところに暮している、という空間設計〕途中、カチェリーナの借りている家のそばを通らなければならなかった。窓には明かりがさしていた。彼はとつぜん立ち止まって、訪ねてみようと決心した。……」カチェリーナとはもう一週間以上も会っていなかったし〔時間幅を過去へ広く取った文脈の導入〕。ことによるとイワンが来ているかもしれない。ベルを鳴らして階段を上ってゆくと、上から下りてくるイワンとすれ違う。
イワンは帰るところだったが、カチェリーナがドアを開けてアリョーシャと、イワンにも部屋に入るよう呼びかける。イワンはためらっていたが、アリョーシャと一緒に戻る。僕は一分以上お邪魔するつもりはありませんよ……
アリョーシャはミーチャの託を伝える。ご自分を大切にして、法廷であの一件を決してお話しにならないように……
カチェリーナは自分で自分が分からないと言う。ことによると、明日の訊問のあとで、あなたはわたしを足で踏みにじってやりたいとお思いになるかも知れませんわ……
カチェリーナは「いったいほんとうにあの人が殺したんですの? 殺したのはあの人なんですの?」とヒステリックに叫ぶ。アリョーシャが来る前にも、イワンにこの質問を繰り返したらしい。
「わたしスメルジャコーフのところへ行って来たの〔これは、アリョーシャの科白とともに、今日イワンをスメルジャコーフのところへ向かわせる重要なトリガー〕。……あんたが、あんたが親殺しはあの人(ミーチャ)の仕業だと主張するんだもの。わたし、あんたの言うことばっかり信用して来たのよ!」とカチェリーナ、イワンに。イワンにやりと笑う。
そういう話はもういいでしょう、と言ってイワン部屋を出て行ってしまう。
カチェリーナ、アリョーシャにイワンの後を追うように頼む。あの人、熱に浮かされていますの、神経的な熱に!……あの人を一分間でもひとりにしちゃいけませんわ……
「何の用だい?」アリョーシャが追いかけて来たのを見て、イワンは後を振り向く。僕が気違いになったから、急いで追いかけろと命令されたんだろう……。イワン苛立つ。
アリョーシャ心配する。
「そうそう、忘れないうちに……」アリョーシャ、リーザの手紙を渡す。
それが誰かからか分かると、イワンは憎々しげに笑って手紙を引き裂く。まだ十六歳にもならないだろうに、もう色気を出してやがる! さも軽蔑するように。
あれはまだ子供なんです、兄さんはあんな子供を侮辱するんですか……僕は反対に、兄さんから何か聞けると思っていました、あの人を救うような言葉を……
聞けるはずがないじゃないか……もうこの話はやめてくれ
しばらく黙って歩く。
イワンがカチェリーナのことを口にする。
アリョーシャはおずおずとイワンを非難する。カチェリーナさんはイワン兄さんを愛しているんです……
そうかもしれない、ただ僕は気が進まないのだ
あの人は苦しんでいます……なぜ兄さんは、時々、あの人が希望を持つような言葉を……あの人に言うのです?……僕は兄さんがあの人に思わせぶりなことを言ったのを知っています……
人殺し(ミーチャ)に判決が下るまでは、あの女と手を切るわけにはいかないのだ……今もし手を切れば、僕に対する復讐の気持ちから、あの女はあした法廷であの悪党(ミーチャ)を破滅させることだろう……あの女はミーチャをほんとうは憎んでいるからな、今は万事が嘘なんだ、嘘の上に嘘を重ねているのだ!……僕が手を切らないうちは、あの女もまだ希望をもって、兄貴を破滅させることはしない……僕が兄貴を苦境から救い出そうと思っているのを知っているからね……。とイワン苛立たしげに。
素朴な疑問。カチェリーナさんはミーチャを破滅させることができるんですか?
彼女はある文書を持っている。ミーチャ自筆の、彼が父親を殺したことを数学的に証明する文章を
アリョーシャ叫ぶ。
そんなはずはありません
そんな文書はあるはずがありません
なぜならば、犯人はミーチャじゃないからです
お父さんを殺したのはミーチャじゃありません!
イワン立ち止まる。
じゃ、お前は誰が殺したというのだ?
兄さんは自分で誰かご存じでしょう
誰だ? あの気違いの、癲癇もちの白痴の仕業だというやつか? スメルジャコーフのことか?
兄さんは自分で誰の仕業かご存じのくせに
いったい誰なんだ、誰なんだ?──イワン凶暴な口調で。
僕の知っているのは、お父さんを殺したのは、兄さん、あなたじゃないってことだけです
《あなたじゃない》だって! あなたじゃないとはどういう意味だ?──イワン棒立ち。
お父さんを殺したのは、兄さん、あなたじゃない、あなたじゃない!
三十秒の沈黙。
おれでないことぐらい、自分で知っている……何を寝ぼけているんだ
いいえ、兄さん、兄さんは自分で何度も、犯人は自分だと自分に言ったはずです
いつおれがそんなこと言ったんだ……?
この恐ろしいふた月のあいだ、兄さんはひとりになると、何度も自分にそう言ったはずです……兄さん、あなたは自分を責めて、親殺しの犯人は自分以外の誰でもないと、心のなかで認めているのです……しかし殺したのは兄さんじゃない……これは兄さんの思い違いです……犯人は兄さんじゃありません、兄さんじゃないんです! 僕は兄さんにそう言うために、神様からつかわされて来たのです……
一分間の沈黙。
イワンがアリョーシャの肩を掴む。お前は俺の家に来ていたんだな!……あいつが来た夜、おれの家に来ていたんだな……
誰のことです……
お前はあいつがよくおれのところへ来るのを知っているな? どうして嗅ぎつけたんだ、言ってみろ!
あいつって誰のことです?……
いや、お前は知っている、……さもなけりゃどうして……
しかしイワンは自分を取り戻す。アリョーシャがまた《兄さん、あなたじゃない!》を繰り返すと、今度は冷ややかな微笑を浮かべる。アレクセイ、僕は預言者だの癲癇持ちだのが我慢ならないんだ。とりわけ神の使いなんてものがな。……今この瞬間から僕はお前と絶交する。今すぐこの十字路で別れてもらいたい。……とくに今日は僕のところへ来ないでくれ、わかったな?
くるりと背を向けると、断固たる足取りで歩いていくイワン。
アリョーシャは兄の姿がすっかり闇の中に消えるまで十字路の街燈のそばに立っていて、それから向きを変えて自分の住まいの方へ歩き出す。ここで説明的ディエゲーシス。「彼とイワンは別々に、違う家に下宿していた。ふたりとも人気のない父の家に住む気にはなれなかったのである。アリョーシャはある町人の家に家具つきの部屋を借り……」〔という空間設計〕そしてイワンの下宿について細かく説明。ある裕福な官吏未亡人の家の離れ。彼はその掃除を自分でやり、ほとんど世話をやかせず、ひとりでいるのを好んでいた……。〔で、ここからイワンに焦点が移る。アリョーシャは第10章になるまで出て来ない〕
「イワンは家の門の前まで来て呼鈴のひもに手をかけたが、ふとそのまま足を止めた。彼は相変わらず全身が憎悪にふるえているのを感じていた。とつぜん彼は呼鈴のひもを放すと唾を吐き捨て、くるりと向きを変えて、ふたたび正反対の町はずれに向かって足早に歩きだした。彼の住まいから二キロほどはなれたその町はずれには、一軒の小さな、軒の傾いた丸太づくりの家があって、その家には以前フョードルの家の隣りにいて、スープをもらいによく台所へ来たマリヤ・コンドラーチエヴナが住んでいた。これはあの頃スメルジャコーフが歌をうたって聞かせたり、ギターをひいてやったりした女である。以前の小さな家を彼女は売りはらって、今では母親と一緒に百姓小屋のようなこの小さな家に住み、フョードルの死んだ直後から病気で死にかかっているスメルジャコーフを引き取っていた。イワンが今とつぜん矢も楯もたまらずある考えにひかれて歩きだしたのは、このスメルジャコーフに会うためだったのである。」
6 第一回目のスメルジャコーフとの会見
章冒頭から説明的ディエゲーシス。今から会えば、イワンがスメルジャコーフと話をするのは、モスクワから帰って三度目となる。ここひと月あまりはずっと会っておらず、その消息も聞いていなかった。「あの時イワンがモスクワから帰って来たのは、父の横死の五日目だったが、そのため彼は父の柩を見ることができなかった。……」
-----------------------------------------------------殺人事件から5日後(イワン帰郷の当日)
イワンの帰郷が遅れたのは、誰も兄のモスクワの住所を正確に知らなかったから。だからモスクワでイワンが訪れるだろう知人に電報を打って、イワンがそこを訪れるのを待つしかなかったのだ。電報を見て、イワンは直ぐ帰ってきた。最初に会ったのはアリョーシャ。なぜかアリョーシャが真犯人をスメルジャコーフと断定したので、イワンは驚く。警察署長や検事の話を聞くと、ますますアリョーシャの意見が異様に思われて来る。ドミートリイに対する同情ゆえだろうか? ……ついでに長兄ドミートリイに対するイワンの感情を述べておけば、それは大部分嫌悪で、同情があるとしても、侮蔑のまじった同情だった。それゆえカチェリーナのミーチャに対する愛はイワンには噴飯ものだった。
帰郷の当日、被告としてのミーチャとも面会した。この面会はミーチャの有罪に対する彼の確信を弱めるどころか、逆に強めた。ミーチャとの面会を終えると、イワンはその足でスメルジャコーフのところへ向かった。
「モスクワから飛んで帰る汽車のなかで、彼はスメルジャコーフのことや、出発の前夜、彼と交した最後の会話のことを絶えず考えつづけた。多くのことが彼の心をかき乱し、多くのことが疑わしく思われた。……」だが彼は予審判事にはあの会話のことを話さなかった。すべてはスメルジャコーフと会ってからだ。スメルジャコーフは町立病院に入院していた。医師のヘルツェンシュトゥーベは彼は癲癇を起したことは間違いないと断定。イワンが仮病ではないかと質問すると、むしろ驚かれた。病院ですぐに面会。〔段落中途から現前的場面開始〕イワンの姿を見ると、スメルジャコーフはにたりと笑ったが、それもほんの一瞬のことで、そのあとずっと落ち着き払っていた。スメルジャコーフは病人らしく変わり果てていたが、「しかし何かを暗示するように左目を細める癖は、以前のスメルジャコーフの面影を伝えていた。《利口な人とはちょっと話をするだけでも面白い》という例の言葉を、とたんにイワンは思いだした。」
会話をはじめる。
僕と話ができるかい
そりゃできますとも……だいぶ前にお帰りなすったので?
きょう帰ったところさ……ここの騒ぎの仲間入りをしようと思ってね
スメルジャコーフは溜息をもらす。
どうして溜息なんかつくんだ……お前にはわかっていたんじゃないか?
予想はしていましたよ、ただ、まさかこんなことになろうとは思いませんでしたね
こんなことになろうとは思わなかっただと?……やい、お前はあの時、穴倉へ行けばすぐに癲癇が起こると予言していたじゃないか……はっきり穴倉と言ったんだぞ
イワンはかっと腹を立てるが、スメルジャコーフは落ち着き払っている。
イワン曰く、癲癇の発作を前もって予言できるはずがない。しかも穴倉という場所まで! あの時の会話はまだ判事に話していないが、いずれ必ず言うつもりだ……
穴倉のことにやけにこだわりますね、あの日は穴倉へおりてまいりますと、恐ろしい不安な気持になって、《落ちやしまいな、落ちやしまいな》と心配しているうちに、その心配がもとになって喉のあたりに猛烈な痙攣が起こったわけで……予審判事のニコライ様もそのとおりに調書に記録なさいましたよ
イワンはすでにスメルジャコーフがかなりのことを供述しているのを知って驚く。
門のそばで一緒に話したこともすっかりしゃべったのか?……癲癇の真似をするぐらい朝飯前だと、あのとき僕に自慢したことも、話したのか?
いいえ、それは言わずにおきました
それじゃきくが、何のためにあの時お前は、僕をチェルマーシニャへやったのだ?
モスクワへ行っておしまいになるのが恐ろしかったからでございます、チェルマーシニャならまだ近うございますから
??????? お前が行けとすすめたんだぞ?
そう、あの時は、災難を避けてお出かけなさいと申し上げました──そう申し上げれば、お屋敷に面倒が起こるから、残ってお父様をお守りしなければなるまいとわかっていただけると思ったのでございます
それならもっとはっきり言えばいいじゃないか、馬鹿!
どうしてあの時、はっきり申せましょう? わたしはただ恐ろしさのあまりああ申し上げに過ぎなかったのです……せいぜい、あの方は旦那様が蒲団の下に入れておかれたあの三千ルーブリを盗むのが関の山だと思っておりました……あんな人殺しが起ころうなんて誰が思いましょう? あなただって思いも寄らない事件だったでございましょう?
お前が思いも寄らない事件だといっているのに、僕がそれを察知して家に残るはずはないじゃないか……どうしてそんなつじつまの合わないことを言うんだ?
それでも、わたしがモスクワでなしにチェルマーシニャ行きをおすすめしたことからも、察しがつきそうなものじゃございませんか
察しがついてたまるか!
わたしはモスクワ行きを止めてチェルマーシニャ行きをおすすめした、つまりわたしはあなたにすぐこの近くにいていただきたかった……何かの場合、大至急あなたに駆けつけていただいて、おすがりできますからね……そのためにこそグリゴーリイの病気のこと、自分の発作の心配、そして亡くなった旦那様のお部屋へ入る合図がドミートリイ様に筒抜けになっていることお話ししたのです……そうすればあの方がきっと何かしでかすに違いないとあなたがお察しになって、チェルマーシニャへ行くどころかここにずっとお残りになると考えたからでございます
イワン、スメルジャコーフの詭弁に翻弄される。
お前はおれをペテンにかけるつもりだな、畜生!
正直なところ、わたしはあなたがすっかりお察しになったものと思っておりました……その上で、災難を避けたい一心から大至急お出かけになるんだとばかり思っておりました……
僕が察していたのは、お前が何か醜悪なことを企んでいるらしいってことだけだった……お前は今嘘をついているんだ……覚えているだろう、あの時お前は馬車に近寄って来て、《利口な人とはちょっと話をするだけでも面白い》と僕に言ったんだぞ……してみると、僕が発って行くのを喜んでいたんじゃないか!
わたしが喜んだとすれば、あなたがモスクワでなしに、チェルマーシニャへ行かれることを承知なすったからでございます……しかしわたしがあの時あの言葉を申しましたのは、非難の意味でございました
何の非難だい?
ああいう災難が起こることを前もってご存じのくせに、ご自分の父親を見捨てて、わたしどもを守ろうとなさらないからでございます……何しろわたしはあの三千ルーブリのことで、わたしが盗んだと疑われる立場にいたのでございますからね
畜生……だが待てよ、〔盗難の嫌疑がかかることを心配するということは〕お前はあの合図のことを予審判事や検事に供述したのか
ありのままに申しました
イワン驚く。
僕があの時何か考えたとすれば──と彼はまた言いはじめた──お前が何か醜悪なことをするに違いないということだけだった……ドミートリイは人殺しはするかもしれない、だが盗みはしない……ところがお前からはどんな醜悪なことでも考えられたからな……第一、お前は自分から癲癇の発作の真似なんかわけはないと言っていた……何のためにあんなことを言ったんだ?
わたしが馬鹿正直なためでございます……ただあなたに自慢したいばっかりに申しましたので
兄貴は、殺したのも盗んだのもお前の仕業だと決め込んでいるぞ
スメルジャコーフは苦笑する。あの方としてはそう言うより仕方がございますまい……ですが、あんなに証拠があがっていては、誰も信用する者はございません……まあ何とでも言わせておけばいい!
スメルジャコーフ一旦口をつぐむ。
それに、癲癇の発作のことでございますがね、たとえわたしが癲癇の真似ができるとしても、もしあのときほんとうにあなたのお父様に対して何かの企みを持っておりましたなら、前もってあなたに癲癇の真似なんて朝飯前だなどとお話するはずがないじゃございませんか……そんな不利な証拠をお話しする、それも実の息子さんに正直にお話しするなんて、そんな馬鹿なことがあるでしょうか? あるはずございませんよ……もしあなたがあのことを検事様にご報告なさったとしても、結局かえってわたしの立場を弁護することになりましょう……
イワンは会話を打ち切ろうと席を立った。いいかい、僕はぜんぜんお前を疑っちゃいないよ……お前に罪を着せるのを滑稽だとさえ思っている……それどころか、お前が僕を安心させてくれたことを感謝しているくらいだ……ま、また来るよ、早く元気になれよ……。なぜか優しげに。
お気遣いありがとうございます……
「じゃ失敬。もっとも、お前に癲癇の発作の真似ができるってことは黙っておくからな。……お前も言わないほうがいいぜ」突然イワンはなぜかこう言った。
「よくわかっております。あなたがそれをおっしゃらないのなら、わたしもあのとき門先であなたとお話ししたことを黙っておきましょう。……」
「イワンはこうして不意に部屋から出て行ったが、廊下を十歩ほど歩いた時、ふとスメルジャコーフの最後の言葉に何か侮蔑的な意味が含まれているのを感じた。彼はもう一度引き返そうかと思ったが、その考えは一瞬ちらりとひらめいただけで、『馬鹿ばかしい!』とひと言つぶやくとそのまま彼は足ばやに病院から出て行った。肝心なことは、彼が実際に安堵の気持ちを感じたことである。つまり彼は、犯人がスメルジャコーフではなくて兄のミーチャらしいという形勢を確かめて、──実際にはその反対であるべきところであるが、──安心したのである。〔この「安心」が彼に無意識の陰謀を仕掛けていると言えよう〕なぜそんなことになったのか、──その時の彼は自分の気持ちを解剖する気になれなかったし、そうした自分の心理を掘り下げることにむしろ嫌悪さえ感じた。彼は一刻も早く何かを忘れてしまいたかったらしい。……」〔段落中途で現前的場面終了〕その後数日の間、彼は事件を調べて、ミーチャに不利な証拠をいっそう詳しく知って、完全にミーチャの有罪を確信した。
-----------------------------------------------------その後数日のあいだ
イワンが調べた証言のうち、グリゴーリイの妻マルファのものは、スメルジャコーフがひと晩じゅう寝床から離れなかったことを語っている点、注目に値した。医師のヘルツェンシュトゥーベはイワンの疑念をやはり否定し、スメルジャコーフが気が違ったことをはっきり語る。イワンは結局、すべての疑惑を放棄した。しかし相変わらずアリョーシャがドミートリイではなく《まず恐らく》スメルジャコーフこそ真犯人だと主張しているのが不思議でならなかった……。
「もっとも同時にイワンは、ある全く関係のない事柄に大そう心を奪われていた。」モスクワから帰ると最初の数日のうちに、イワンはカチェリーナに対する燃えるような情熱に深々と溺れてしまったのだ。ゆえに、彼がアリョーシャに「僕は気が進まないのだ」と言ったのは嘘だったわけだ……。彼は彼女を憎悪すると同時に愛していた。彼女の方では、ミーチャの事件で動◯していたところに、前から自分を愛してくれていた男──彼女はそのことをよく知っていた──しかも知性にせよ感情にせよ自分より遥かにすぐれている男が姿を現したので、まるで救い主か何かのようにイワンにすがりついた。が、彼女はすべてをイワンに委ねようとは思わなかった。同時に、彼女は自分がミーチャを裏切ったという後ろめたさにたえず苦しんでいた。そのことからイワンと激しく言い争いにもなった(イワンが「嘘の上の嘘」と呼んだのはこのこと)。……つまり、イワンは一時スメルジャコーフのことをほとんど忘れていた。ところが……
-----------------------------------------------------殺人事件から二週間+5日後
「……ところが、最初の訪問から二週間ほどすると、ふたたび例の奇怪な考えが彼を苦しめだした。それはこう言えばわかっていただけよう。彼はなんのために自分があの時、出発を明日にひかえたあの最後の夜、父の家にいて泥棒のようにこっそりと階段の上に出て、父が階下で何をしているか聞き耳を立てたのだろう、またのちにそのことを思い出した時、なぜあんなに嫌な気持ちがしたのだろう、翌日の朝、途中でなぜあんなにとつぜん憂鬱になったのだろう、汽車がモスクワの町なかへはいった時、なぜ《おれは卑劣な男だ!》とひとり言を言ったのだろうなどと、しきりに自問自答をはじめたのである。そうすると、彼はそうしたあらゆる苦しい考えのために、自分がカチェリーナのことさえ忘れてしまいそうな気がした。それほど強く、その考えが突然また彼の心をとらえたのである。ちょうどそのことを考えていた時に、彼は往来でばったりアリョーシャに出会った。〔段落中途から現前的場面へ移行〕彼はすぐに弟を呼び止めて、不意にこんな質問をした。──」
覚えているだろう、いつか食事のあとでドミートリイが家に暴れこんできた日、あのあと僕は庭で《自分の希望の中にはたっぷり余白を残しておく》とお前に言った……そこでお前に訊きたいのだが、あの時お前は、僕が親父の死を期待していると考えたかい?
考えました──と小声でアリョーシャ。
もっとも、実際そのとおりなんだから推察するまでもないわけだ……しかしお前はあの時、ドミートリイが親父を殺す、それも一刻早く殺すことまで、この僕が望んでいる気はしなかったかい……僕がその手伝いさえしかねないと?
アリョーシャ無言。
さあ、言ってくれ!──とイワン叫ぶ。お前があの時どう思ったか、僕はどうしても知りたいんだ。真実を、ほんとうのところを僕は知る必要があるんだ!
許して下さい、僕はあの時そう思いました
「ありがとう!」イワンはぶっきらぼうに言うと、アリョーシャを置き去りにして自分の道を足ばやに歩きだした。その時いらいアリョーシャは、兄のイワンがことさら自分を避けはじめ、自分を嫌ったようにさえ思われるのに気づいた。そうしてそれからは、自分のほうから兄を訪ねるのをやめた。ところがイワンはその時、アリョーシャと会った直後、家へ帰らずに突然ふたたびスメルジャコーフのところへ出かけたのである。」
7 二度目の訪問
「その頃までにスメルジャコーフは退院していた。イワンは彼の新しい住まいを知っていた。……」というのは、5章の最後でも触れられた、マリヤ・コンドラーチエヴナが母親と一緒に住んでいる「百姓小屋のような小さな家」のこと。これは二つの部屋から成り、一つにはマリヤと母親が、もう一方にはスメルジャコーフが一人で暮していた。「のちに推察されたところによると」、彼はマリヤの婚約者という資格でここに同居して、ただで世話になっていたらしい。母親と娘は大そう彼を尊敬していた。
イワンはノックして玄関を入り、スメルジャコーフが占領している部屋へ。ごきぶりがいる。家具は貧弱。
スメルジャコーフはテーブルに向かって腰を下ろしていた。手帳にペンでしきりに何か書いている。鼻眼鏡をかけている。イワンは『生意気な野郎だ、鼻眼鏡なんかかけやがって!』と腹立たしさが倍加した。スメルジャコーフは面倒くさそうにイワンを見る。それは『何だってやってきたんだ、この前すっかり話がついたじゃないか?』とでも言わんばかりの無愛想。
お前のところは暑いなあ──とイワン外套のボタンをはずす。
お脱ぎなさいまし──とスメルジャコーフ、許可でも与えるように。
すぐに本題に入る。話は向こうに聞えないだろうな?……いいか、おい、この前おれが病院から帰ろうとした時、お前は妙なことを言ったな……お前が癲癇の真似の名人だってことをおれが黙っていたら、お前も門のそばでいろいろ話したことを予審判事に言わないでおくと言ったじゃないか。その《いろいろ》とは何のことだ? どういう意味であんなことを言ったんだ? おれを脅迫するつもりだったのか?
スメルジャコーフの目が憎々しげに輝く。
わたしがあのとき言おうと思ったのは、……あなたが前もってお父様が殺されることを承知していながら、みすみすお父様を見殺しにしたということでございます……その結果、世間の人々があなたのそういう気持ちについて、とんでもないことを言い出すかもしれません……ですから警察に言わないでおくと約束したのでございます
スメルジャコーフの声には挑戦的な響き。イワンは眩暈がする。
え? 何だって? いったいお前は正気なのか? お前は、あの時おれが人殺しを知っていたと言うのか!……その《とんでもないこと》を言い出すかもしれないとは、何のことだ? さあ言え! 言ってみろ!
スメルジャコーフ相変わらず無遠慮な目つき。
《とんでもないこと》と申しましたのは、あなた自身がお父様がお亡くなりになることを大そう望んでいたかもしれないということですよ
イワンは立ち上がると、スメルジャコーフを殴りつける。
一分経つ。
……お前は、あの時俺がドミートリイと一緒になって親父を殺したがっていると思ったんだな?
いえ、あなたのお考えは、あの時分にはわからなかったのでございます……ですからあの門のところでお引止めして、その点についてあなたのお気持ちを試したのです
何を試したんだ? 何を?
ですから、お父様が一刻も早く殺されることをあなたが望んでおいでかどうか!
とつぜんイワンは叫ぶ。……親父を殺したのはお前だな!
スメルジャコーフにやりと笑う。わたしが殺したのではないことは、あなたご自身よくご存じじゃありませんか……わたしはまた、利口な人間ならこんなお話をする必要はないと思っておりました
なんでそんなことを試したんだ……
もしあなたまでがお兄様と同じことを望んでおいでだとすると、万事はもうおしまいで、わたしも蝿のように叩き殺されてしまうかもしれないからでございます……あの時はただもう恐ろしくて、相手かまわず疑うという状態だったので
おい、二週間前には、お前はそんなことは言わなかったぞ……
同じことを申し上げたつもりでございます、ただ余計なことを言わないでも、わかっていただけると思ったまでで……
ちぇっ、糞!……おれはこのままじゃ引き下がらんぞ……いったいどうして、このおれの何を根拠に、あの時お前の卑しい心はそんな下劣な疑いを抱いたんだ?
人殺しなんてあなたにはできっこない、でも誰か他の人間が殺してくれたらという気持ちは、あなたにもあっただろうと推測したのでございます……
よくもぬけぬけと! なぜおれがそんなことを望むんだ?〔望んでなどいなかった、とははっきり否定しない。このようにスメルジャコーフを問い詰めていくこと自体が無意識の陰謀〕
なぜとおっしゃる……じゃ、遺産はいかがでござます? アグラフェーナ様と結婚するより先にお父様がお亡くなりになれば、あなた方ご兄弟はめいめい四万ルーブリ弱ずつ分けてもらえる……
イワンは苦しそうに自分を抑えた。
……その先を言え……お前の考えでは、おれがドミートリイに人殺しの役を押しつけて、兄貴を当てにしていたというのだな
当てになさらないはずはございますまい……ドミートリイ様が犯人になれば、流刑は確実、遺産はアレクセイ様と山分け、めいめい六万ルーブリずつ手に入る勘定でございます……
おれは堪忍嚢の緒をしっかり抑えているんだぞ! じゃ聞くがいい、ごろつきめ、もしあの時俺が誰かを当てにしていたとすれば、そいつはむろんお前で、ドミートリイじゃない……誓って言うが、おれはあの時お前が何か醜悪なことをやりそうな予感がしていた、……あの時の感じは今でもありありと覚えている
「わたしもあの時、ちょいとそんな気がいたしましたよ、あなたがこのわたしのことも当てになさっておられるような」スメルジャコーフはあざけるようににたりと笑った。「そういうわけであなたはあの時、わたしの前にいっそうはっきりと正体を暴露なさったわけでございます。と申しますのは、わたしに対してある予感をお持ちになりながら、そのままお発ちになったとすると、つまりお前は親父を殺していいのだぞ、おれは邪魔しないとおっしゃったも同じでございますからね」
「悪党め! お前はそんなふうに取ったのか!」
「それもこれもあのチェルマーシニャのためでございます。考えてもごらんなさいまし。あなたはモスクワへいらっしゃるおつもりで、チェルマーシニャへ行ってくれというお父様たってのご依頼をお断りになりました。ところが、わたしみたいな愚か者がひとこと申し上げると、突然、承知なさった。あなたは何のためにあの時チェルマーシニャ行きを承知なさる必要がございましたので? わたしのひと言で何の理由もなくモスクワ行きを中止して、チェルマーシニャへお出かけになったとすると、つまりわたしに何か期待なさっておいでだったわけでございましょう」
「違う、絶対に違う!」とイワンは歯ぎしりして叫んだ。〔ここで、スメルジャコーフを唆したことは否定する〕
「どうして違うのでございます? 本来ならばあなたはお父様の息子なのですから、あの時あんなことを申し上げたわたしをただちに警察へ突き出すか、……少なくともその場で横面を張りとばすところでございましょう。ところがあなたは反対に、腹をお立てになるどころか、わたしの愚かな言葉をそっくりそのまま、すぐに愛想よく実行に移してお出かけになった。これはどうも理屈に合わないことでございますね。なぜと言って、あなたはお父様の命をお守りするために、お残りになるのが当然だったのでございます。……わたしがああ考えるのも無理からぬことじゃございませんか」
イワンは顔をしかめ、ふるえる両手の拳で膝を押さえて坐っていた。
いいか悪党め……おれはお前の言いがかりなんかこわくはない……だからおれのことで言いたいことを何でも供述するがいい……俺はこの犯罪についてお前を疑っている、お前を法廷へ引っ張り出してやる……おれはきっと化けの皮をひんむいてやるぞ!
そんなことしないほうがお得でしょうな……何の罪とがもないわたしを、いったいどうして犯人だなどとおっしゃれます?……誰が信じるもんですか……利口なお人におなりなさいまし
イワンは立ち上がって、外套を着て外へ。「思想と感情の恐ろしい悪夢が、彼の心のなかでふつふつと沸き立っていた。……」自問自答。スメルジャコーフのことを訴えてやる……だが、何を訴える?……やっぱりあいつは無実じゃないか……そうだ、おれは何かを期待していた、確かにあいつの言うとおりだ……(彼はあの最後の夜、父の家の階段の上で階下の様子をうかがったことがふと記憶に浮んで来た。その思い出は刺し貫くような苦痛を伴う)……そうだ、おれは望んでいたのだ、殺人を望んでいたのだ……だがはたしておれは本当に望んでいたのだろうか……。イワンはその足でカチェリーナを訪ねた。突然の訪問で彼女は度胆を抜かれた。彼はスメルジャコーフとの会話の一部始終を彼女に話した。……
「犯人がドミートリイじゃなくてスメルジャコーフだとすると、当然、僕にも共同の責任があるのです。僕がそそのかしたからです。……いや、それはまだわからない……しかしもし犯人があの男で、ドミートリイでないとすると、僕も人殺しだ」
この言葉をきくと、カチェリーナは一枚の紙切れをイワンに見せる。これが父を殺したのがミーチャであることの《数学的な証拠》。それはカチェリーナがグルーシェンカに侮辱されたあの日、ミーチャがそのあと僧院へ帰るアリョーシャと野原で出会ってから、その夜酒に酔ってカチェリーナにあてて書いた手紙。長たらしい手紙。その引用。「例の三千ルーブリを君に返す……もし手にはいらなければ、誓って約束するが、イワンが出発したらすぐ親父のところへ押しかけて、あいつの頭をぶち割って、枕の下の金を奪い取ってみせる」「やはりまずあの犬を殺すのだ、三千の金をもぎって、君に投げ返すのだ」「親父を殺して、自分をも滅ぼすのだ」という言葉が見える。
イワンはそれを読んで、やはりドミートリイが犯人なのだと確信を得て、落ち着く。イワンは安心。数日たつと、彼はスメルジャコーフの言いがかりをどうしてあんなに苦にしたのか、不思議に思いさえした。
-----------------------------------------------------殺人事件からひと月+二週間+5日後
「こうしてひと月たった。」彼はもうスメルジャコーフのことを気に掛けなかった。スメルジャコーフは容態がまた悪くなったらしいが。彼にとっての問題はまたカチェリーナとの愛になった。「ふたりはお互いに惚れ合っている一種の仇敵同士であった。」とくにミーチャに対するカチェリーナの愛が一時復活すると、イワンは狂乱状態におちいった。ところが、奇妙なことに、カチェリーナはミーチャは有罪であると完全に決めてかかっていた。それを疑う一言さえ口にしなかった。さらに奇妙なことに、イワンはミーチャを嫉妬しているのではなくて、ミーチャが父を殺したからこそ、自分はミーチャを嫌悪しているのだと考えていた。
-----------------------------------------------------公判の10日前
イワンは公判の十日ほど前にミーチャを訪ねて〔これがグルーシェンカの言っていた「二度目の訪問」か〕、兄に逃亡の計画を提案した。逃亡させるための資金に、彼は自分の財産から三万ルーブリ出すつもりだった。こういう計画を彼が立てたのには、「兄に罪を負わせれば遺産の取り分が増えて有利だ」というスメルジャコーフのひと言から受けた侮辱の傷跡もあずかっていた。しかし、彼はそれをミーチャに伝えた面会の後で、不意に、なぜか、悲しい困惑した気持ちになった。自分が兄を逃亡させたいと思うのは、三万ルーブリ提供して自尊心を癒すためばかりでなく、その他にも理由があるような気がしはじめたのだ。……
-----------------------------------------------------二ヵ月後-1日目
〔ようやく5章末尾からつづいていた迂回が終わる。ここで5章の段落と完全に記述が重なっている〕「アリョーシャと話を交わしたあと、わが家の呼鈴のひもに手をかけて、突然スメルジャコーフのところへ行こうと決心した時、イワンは不意に一種特別ないきどおりが胸にわきあがるのを感じた。とつぜん彼は、たった今カチェリーナがアリョーシャのいる前で、『あの人(つまりミーチャ)が犯人だってわたしに断言したのはあなたなのよ、あなただけなのよ!』と叫んだことを思い出したのである。それを思い出すと、イワンは思わず棒立ちになった。彼は今まで一度もミーチャが犯人だと彼女に断言した覚えはなかった。それどころか、スメルジャコーフのところから帰って来た時には、彼女の前で自分自身を疑っていたぐらいである。反対に彼女こそ、彼女こそあのとき例の《文書》を取り出して兄の有罪を立証して見せたではないか! それなのにとつぜん彼女は、いま、『自分でスメルジャコーフのところへ行って来た!』と叫んでいる。いつ行ったのか。イワンは全く知らなかった。してみると、彼女はミーチャの有罪をそれほど信じてはいないわけだ! スメルジャコーフは何を彼女に話すことができただろう。何を、何を彼は彼女に話したのだろう。恐ろしい怒りが彼の心のなかに燃えあがった。彼はどうして三十分前にそうした彼女の言葉を聞き流して、すぐにわめきださずにいられたのか、われながらふしぎでならなかった。彼は呼鈴のひもをはなして、スメルジャコーフの家へ駆け出した。『もしかすると、今度こそおれはあの男を殺すかもしれない』──道々、彼はこう思った。」
8 三度目の、最後の面談
「まだ道のりの半分も行かないうちに、その日の早朝と同じ刺すような空っ風が吹きはじめて、細かいさらさらした粉雪がさかんに降りだした。……」吹雪の中を歩いていくイワン。途中で、「ああ、イワンさんは都へ行った、あたしゃお帰り待ちませぬ!」だの歌っている酔っぱらいの百姓とぶつかる。酔っぱらいは仰向けに倒れて気を失う。凍死するぞ、と考えるが、イワンはスメルジャコーフの家をさして歩きつづける。
玄関の間で、ろうそくを手に戸を開けに駆け出して来たマリヤが、パーヴェル・フョードロヴィチ(スメルジャコーフ)は加減がとても悪いようだとイワンにささやく。
部屋へ。
前とは違って、マホガニー色の大きな古い皮張りのソファがあり、その上に蒲団が敷かれている。スメルジャコーフはその蒲団の上に腰をおろしている。やつれている。
お前はほんとうに病気なんだな……おれはすぐ帰るから、外套も脱がないよ……
イワン椅子を引き寄せて腰を下ろす。
何だって黙ってじろじろ見ているんだ?……今日はひとつだけ聞きたいことがあってきたんだ……お前のところにカチェリーナさんが来ただろう?
スメルジャコーフしばらく返事しない。
そんなことどうでもいいじゃありませんか……もうお帰りになってください
いや、帰らん! さあ言え、いつ来たのだ!
スメルジャコーフ、人を小ばかにしたような態度。
いいか、お前の返事を聞かないうちは、おれは帰らんぞ!
どうしてあなたはわたしにしつこく付きまとうのでございます? どうしてわたしを苦しめるのでございます?
ちぇっ、畜生、きいたことに返事をしろ、そうすればすぐに帰る
あなたにお答えすることなど何もございません!
どうあってもお前に返事をさせてみせるからな!
突然スメルジャコーフはイワンの顔をじっと見る。あなたは何がそんなにご心配なのでございます?……明日、公判がはじまるからでございますか……それならばあなたにとっては、どうということはございますまい……安心しておいでなさいまし……
何を言ってるんだおまえは……さっぱり分からない……どうして俺が明日の公判を恐れなければならないのだ?──イワンは驚く。が、ある恐怖がひやりと彼の心をなでる。
おわ・かりに・なり・ません・か……利口なお方がそんな喜劇を演じるなんて、物好きなこった!
「イワンは黙って相手の顔を見た。この思いがけない口調、もとの下男がいま彼に向かって言ったこのひどく横柄な調子、これだけでも常態ではなかった。この前の時でさえ、こんな口調は聞かれなかった。」
あなたは心配なさることはないと言っているのです。わたしはあなたのことは黙っています。証拠がないわけです。おや、手がふるえていますね。どうして指をそんなに動かしているんです? さ、家へお帰りなさい、あなたが殺したんじゃない
イワンぎくりとする。
おれでないことは、わかっている……
おわ・かり・です・かね?
イワンはさっと立ち上がって、相手の肩を引っつかむ。
すっかり言え、毒蛇め! すっかり白状しろ!
それじゃ言いますがね、殺したのは、ほら、あなたですぜ
「イワンは何か思い当たることでもあるかのように、がっくりと椅子に腰をおろした。……」
お前が気違いだってことは分かるよ
まだそんなことを仰るんですか。こんなふうに顔をつき合わせて坐って、今更何のためにお互いだまし合ったりなさるんですね? わたしひとりに罪を着せるおつもりですか? 殺したのはあなたですよ、主犯はあなただ、わたしはただあなたの手足を勤めただけだ、わたしはあなたの言葉に従って、あの一件を実行したんです……
実行した? じゃ、殺したのはお前だな?
イワンはわなわなと震えはじめる。スメルジャコーフも、イワンのあまりにも正直な驚きにぎょっとする。
それじゃ、あなたはほんとうに何も知らなかったのですか
イワンの頭のなかで「ああ、イワンさんは都へ行った、あたしゃお帰り待ちませぬ!」こんな歌声が響いた。
おれの前に坐っているのは、幻じゃないだろうな……
突然気違いのようにイワン叫ぶ。お前が殺したっていうのは嘘だ! お前は気が違ったのか、この前のようにおれをからかっているんだ!
「スメルジャコーフはさっきと同じように、びくともしないで相変わらず探るように相手の様子を見守っていた。彼はいまだにどうしても自分の疑惑に打ち勝つことができなかった。相変わらず彼はイワンが《すべてを知って》いながら、《自分ひとりに罪をなすりつけるために》芝居をしているだけのような気がした。」
スメルジャコーフは、ちょっとお待ちなさい、と言って自分の長い靴下の中から、紙包みを取り出す。ごらんになってください。
虹色の百ルーブリの札束が三つ。そっくりここにあります、三千ルーブリそっくり。
イワンは紙のように青ざめている。びっくりさせるじゃないか……そんな靴下の中に……
ほんとうに、ほんとうにあなたは今までご存じなかったのですか
いや、知らなかった……おれはドミートリイだとばかり思っていた……兄さん! 兄さん! ああ!
あなたと二人で、あなたとご一緒に殺したのですよ……ドミートリイさんにはぜんぜん罪はございません
……おれのことはあとにしてくれ……何だっておれはこんなにふるえているんだろう……
あの頃はいつも大胆でいらっしゃいましたな。《何をやっても許される》などとおっしゃって。ところが今は、そのとおりおびえていなさる!──とスメルジャコーフ、不思議そうに。
イワンはスメルジャコーフに、どのように実行したかをすっかり話せという。癲癇の芝居をして穴倉に落ちたところから。スメルジャコーフは基本的にドミートリイに期待していた。自分が寝込んで情報が入らなくなったら、必ず自分で塀を乗り越えてやって来るだろう……そしてドミートリイがフョードルを殺すのを期待していた。合図だって知っているのだから。
しかし、兄貴が殺してしまったら、金を持っていってしまうじゃないか……そうなったら、お前の手には何もはいらないぜ……
ところが、ドミートリイは三千ルーブリがどこにあるのか知らないのだ。蒲団の下にあるというのは、スメルジャコーフが勝手に教えたことで、実際には手箱の中にあったのだ。ドミートリイが殺しても何も手に入れられず、スメルジャコーフは後から行ってその金を回収すればいい。
待ってくれ……おれは混乱してきた……すると殺したのはやっぱりドミートリイで、お前は金を盗んだだけか?
いいえ、殺したのはあの方ではございません……あなたの前で嘘をつきたくはないですね……なぜって、やっぱりあなたは事件全体に対して罪がおありになる、あなたは殺人が行なわれることを知っていながら、わたしに殺人を依頼しておきながら、すべてを承知のうえでお発ちになってしまったのですからね……わたしは今晩ここで、この殺人事件の主犯はあなたのひとりで、わたしは犯人であっても決して主犯ではないことをあなたに証明したいと思っているのです……
どうして、どうしておれが人殺しなんだ、ああ!──ここでイワンは自分の話を後回しにするのを忘れて、こらえ切れずに叫ぶ。──これもやっぱりあのチェルマーシニャが原因なのか? だが待ってくれ、そもそもどうしてお前には俺の同意(チェルマーシニャ行き)が必要だったんだ? これをどう説明する?
あなたの同意を確かめておけば、……たとい何かの拍子でわたしがドミートリイ様の代わりに当局から嫌疑をかけられたり、あの方とぐるだと疑われたりしたとしても、わたしをかばって下さるに違いないと思ったからでさ……それにあなたが遺産を手に入れなされば、そのあと一生わたしの苦労に報いて下さるでしょう……だってあなたが遺産をおもらいになったのはわたしのお陰ですからね……
ああ! それじゃお前はそのあと一生涯おれを苦しめるつもりだったんだな!
あなたがあの時お残りになれば、その時は何事も起こらなかったでしょう……あなたがあの一件をお望みじゃないんだなと思って、わたしは実行に移さなかったでしょう……それをお出かけになったのは、あなたがわたしの殺人を黙認して、三千ルーブリは勝手に取っていいぞと内諾して下さったことになります……あなたはあのとき同意をなさって、暗黙のうちにあの一件をやっていいと許可なさったのです
イワン歯ぎしりする。
先をつづけろ……あの晩の話をつづけるんだ
話再開。自分よりグリゴーリイが先に様子を見に行った。グリゴーリイの悲鳴。長い静寂。我慢できなくなってスメルジャコーフが見に行くと、フョードルは生きている。そこで一旦がっかりするのだが、状況を確認すると、ドミートリイが来たことは間違いなく、逃げるときにグリゴーリイを倒していったらしい。「すぐにわたしはその場で、よし、このさい一気にやってやろうと決心しました。……ただひとつ危険なことは、マルファ婆さんが不意に目をさましはしないかということでした。その瞬間ふとわたしはそのことを感じましたが、その時はもう激しい欲望のとりこになって、息も詰まるほどの気持でした。」グルーシェンカが来ているという嘘でフョードルの警戒心を解いてから、テーブルの上の文鎮で後ろから撲殺。そこで小箱から三千ルーブリを抜き取り、封筒を床に投げ捨てて、庭へ。りんごの木の空洞に金を隠してから、自分の寝床へ戻った。……
思い巡らすように、イワン言う──待ってくれ、じゃグリゴーリイのドアが開いていたという証言は?
そりゃあの爺さんにただそう見えただけのことですよ……あの爺さんは強情な去勢馬みたいなやつでございましてね……実際に見たんじゃなくて、見たような気がしただけなんですが、言い出したら最後、あとへは引かない……もっとも、あの爺さんがそう思いついたのは、わたしたちふたりにとっちゃもっけの仕合せでしたよ、そうなれば、間違いなくドミートリイ様の犯行ということになりますからね……〔逆に言うと、ここだけリアリティを優先すると不自然になる。グリゴーリイが「ドアは閉まっていた」と正確に証言することを見越して、スメルジャコーフは殺した後ドアを閉めておくべきだったのでは?〕
イワン途方に暮れる。おれはお前にききたいことがたくさんあったのに忘れてしまった……そうだ! じゃせめてこれだけでも教えてくれ……なぜお前は封筒の封を切って、床の上へ捨てて行ったんだ? なぜ封筒のまま持って行かなかったんだ?……
スメルジャコーフがそうした訳。スメルジャコーフのように前からその金を見ている人間なら、盗み出す時にわざわざ封筒を開けて確認するわけがない。が、ドミートリイのように封筒のことを話しに聞いて知っているだけで現物を一度も見たことがない人間なら、大急ぎでその場で封を切って、本当に例の金が入っているかどうか確かめるだろう。それが証拠になるなんて考え及ばず。スメルジャコーフはこうしたことを取調べのときに検事にほのめかしてみせた。
……つまり悪魔がおまえに加勢したってわけだな!……いや、お前は馬鹿じゃない、おれが考えていたよりもずっと頭がいい……
ここで一旦話が途切れる。「イワンは明らかに部屋の中を歩きまわるつもりで立ちあがった。恐ろしく憂鬱な気持ちになっていたのだ。ところが、テーブルが邪魔をして、壁とのあいだにやっとすり抜けられるほどの隙間しかなかったので、彼はその場でくるりと一回転しただけで、ふたたび腰をおろした。部屋を自由に歩きまわれなかったことが、とつぜん彼をむしゃくしゃさせたのであろう、イワンはさっきと同様にほとんど気違いじみた口調で急にわめきはじめた。──」
おい、聞け、俺が今おまえを殺さずにいるのは、あした法廷でお前に答えさせるためなんだぞ……ことによるとおれにも罪があったかもしれない……しかし誓って言うが、おれはお前が考えているほどあの事件に罪はないのだ、ことによると、全然お前をそそのかしたりしなかったかもしれないんだ、いいや、そうだとも、おれはそそのかしはしなかった!……だが、どっちでも同じことだ、おれはあしたの法廷で自分のこをすっかり告白するつもりだ……そう決心したんだ!……お前も一緒に出るんだぞ!……そしてお前が法廷でおれのことを何と言おうと……どんな証言をしようと、おれはそれを甘んじて受け入れる……必ず、ぜひともそうしなければならないのだ、一緒に行くのだ!
スメルジャコーフは考え込むようにしばらく黙る。
決してそうはならないでしょう……第一に、何の役に立つんです? そうなったらわたしは、はっきりこういってやります……わたしはあなたにそんなことを言った覚えはない、あなたは病気のためか(実際そうらしいですね)、ご自分を犠牲にして兄さんを助けたいという同情の気持ちからか、わたしに言いがかりをつけているのだ、と……いったい誰があなたの言うことを真に受けますかね?
お前が見せたこの金が、証拠じゃないか
スメルジャコーフは札束の上に置いてあった本をどける。
この金を取ってお持ちください──スメルジャコーフはほっと溜息をつく。
持って行くさ……だがなぜお前はおれに寄越すのだ……
わたしには全然必要ないんです──スメルジャコーフは片手を振って、ふるえる声で言った──前にはこういう大金を持ってモスクワか外国へ行き、新しい生活をはじめようと考えたこともありました。そういう夢を持っていたのです。それと言うのも《何をやっても許される》と思っていたからです。これはあなたが教えてくれたことですぜ。あの頃あなたはそういうことをいろいろ話してくれましたからね。永遠の神がなければ、いかなる善行もない、そうなれば善行の必要もないって。確かにおっしゃるとおりです。それでわたしもそういう考えになったのです
じゃなぜ金を寄越すんだ……今は神の存在を信じたってわけか
いいえ、信じてなんかいません……もうたくさんです……何でもありやしません!
スメルジャコーフはふたたび片手を振る。あなたはあの頃、しじゅう何をやっても許されると言っていらしたのに、今はなぜそんなにびくびくしておられるんです、あなたともあろうお方が。おまけにわざわざ行って自白までしようなんて……。でも、そんなことできっこない! あなたは自白なんかしに行きやしませんよ!
まあ見てるがいい!
できるはずがない。あなたは利口すぎますよ。何しろお金を愛しておられる、名誉も愛しておられる、それに何たって、あなたは安らかに満足して暮らしたい、誰にもへいこらしたくない……それが本音ですからね、ですから、法廷でそんな恥をさらして、永久に生涯を損なうような気持ちを起こされるはずがない。……さあ、この金を受け取って下さい
イワンは三つの札束全部を掴む。
あした法廷で見せてやるんだ
誰も本当にしませんよ、いいあんばいに今じゃあなたはお金持ちなんだから、手箱から出して持って来たとしか思いませんよ
イワンは立ち上がった。
「繰り返して言うが、おれがお前を殺さなかったのは、あしたお前という人間が必要だからにすぎない。このことを覚えておけよ、忘れるんじゃないぞ!」
「殺すならお殺しなさい。いま殺して下さい」異様な目つきでイワンを見つめながら、突然スメルジャコーフは奇妙な口調で言った。「それもおできにならないでしょう」と彼は付け加えて苦笑をもらした。「なんにもおできにならない、前には大胆なお方だったのに!」
「明日まで待て!」とイワンは叫んで、帰りかけた。
「待って下さい、……もう一度その金を見せて下さいませんか」
イワンは札束を取り出して彼に見せた。スメルジャコーフは十秒ほどじっと見つめていた。
「さあ、お帰りなさい」と彼は片手を振って言った。「イワン・フョードロヴィチ!」と突然、彼はまた後ろから呼び止めた。
「なんだ?」イワンは歩きながら後ろを振り向いた。
「これでお別れですね!」
「あしたまでな!」イワンはふたたび叫んで、部屋から出て行った。
吹雪はまだつづいていた。イワンは自分を苦しめていた動揺に終止符が打たれたと思い、幸福な気分になる。さっき突き飛ばした百姓のそばを通りかかった時には、その百姓を助けて警察へかつぎ込んでやったほど。イワンは非常に満足した。思索が次から次へと広がって、頭がよく働いた。こんな自分が病気だったり発狂しかけているはずはない……
しかしわが家へたどりつくと、ふしぎなことに、すべての歓喜、満足が一瞬の間に消えてしまった。「自分の部屋へ入ったとき、彼はとつぜん何か氷のようなものがひやりと心臓に触れたような気がした。それはある思い出、──もっと正確に言えば、この部屋の中に以前もあったし、現在も、今この瞬間も感じられる何やらやり切れない、嫌悪すべきものの記憶とでも言えよう。」ソファに腰をおろす。眠りかけるが、不安にかられて立ち上がり、部屋の中を歩きはじめる。……ふたたび腰をおろす。彼の視線がある一点に注がれた。そこには何か彼を苛立たせるものがあるらしかった……。
9 悪魔。イワンの悪夢
イワンの病気? イワン、悪魔の幻覚を見る。
悪魔は彼自身の分身。《何をやっても許される》という思想をより愚劣な形で復唱する。
突然、外から窓枠を激しく叩く音。アリョーシャ。
僕は来るなといったじゃないか!……何の用だ? 一言で言え、わかったか、一言でだぞ!
一時間前に、スメルジャコーフが首をくくったんです
10 あいつが言ったんだ
アリョーシャは部屋へ通される。どういう状況だったのかの報告。テーブルの上には書置きがあったらしい。『他人に罪を及ぼさぬため、自分の意思と希望によってわが命を絶つ』警察には既に知らせた。(時刻は零時前)
イワンの凄惨な表情。僕はね、スメルジャコーフが首をくくるのを知っていたんだよ……
誰から聞いて?
誰から聞いたかはわからん……が、僕は知っていた、僕は知っていたのだろうか……そうだ、あいつが僕にそう言ったんだ、たった今そう話したんだ……
誰なんです、そのあいつって
あれは夢じゃなかった、あいつはここに来て、ここに坐っていたんだ……そのソファに……あいつは馬鹿なんだ、あいつはおそろしく馬鹿なんだ……
アリョーシャ、イワンがうわ言を言っていると思う。ソファに坐らせる。濡れたタオルを額に当ててあげましょうか……
さっきお前はリーザのことを何と言ったんだい?(イワンは饒舌になってきた)おれはリーザが好きだ。おれはあの子のことで何かひどいことをお前に言ったな。あれは嘘だ。おれはあの子が好きなんだ。……おれは明日のカーチャのことが心配だ……あの人は明日おれを捨てて、足で踏みにじるだろう……あの人は俺が嫉妬のためにミーチャを破滅させると思っている……とんだ誤解だ!……おれはね、アリョーシャ、絶対に自殺できないのさ。卑劣だからか。おれは臆病者じゃない。生に対する貪欲さのためだ。おれはなぜスメルジャコーフが首をくくったのを知っていたのだろう? そうだ、あいつが言ったんだ……
じゃ兄さんは、誰かがここに坐っていたことを本気で信じているんですね……
あの隅のソファに。……ときに、あいつは──実はおれなんだ、アリョーシャ、このおれなんだ、おれの一切の下等なところ、一切の卑劣な、軽蔑すべき部分なんだ!……あいつはおれについて本当のことをたくさん言った、自分じゃとても言えないようなことを……実はなあ、アリョーシャ、おれはあいつが本当にあいつで、おれでなければいいと心から思うんだ……『良心! 良心とは何だ? 自分で作り出したものだ。じゃなぜ苦しむのか。習慣のためだ。七千年に及ぶ全世界的な人類の習慣のためだ。いっそ習慣を捨てて、神になろうじゃないか』これはあいつの言ったことなんだ、あいつが言ったんだ!
じゃ、兄さんじゃないですね、兄さんじゃないんですね……
そうだ、しかしあいつは意地が悪い……俺を嘲笑しやがる……僕を中傷しやがった……『ああ、君は偉大な善行をしに行こうとしている、父を殺したのは自分だ、自分が下男をそそのかして殺させたのだと供述しようとしている。……』こう言うんだ。『君は善行を信じてもいないくせに、偉大な善行をしに行こうとしている、だから腹を立てたり苦しんだりするんだ』あいつはおれのことをこう言うんだ。……『君は誇りの気持ちから行くんだ』こうあいつは言う、君は立ち上がってこう言うだろう、《殺したのは僕です、何だって皆さんは恐怖にちぢみあがるのです。あなた方は嘘を言っている。僕はあなた方の意見を軽蔑します、あなた方の恐怖を軽蔑します》……『ところが実は、君はみんなにほめてもらいたいんだ。なるほど犯人で人殺しではあるが、何という立派な感情の持ち主だろう、兄を助けたい一心から自白したのだ、こう言ってもらいたいんだ』こんなことを言う。しかしこれは絶対に嘘だよ、アリョーシャ!(イワンは目をぎらぎらさせる)僕は百姓どもにほめてもらいたいとは思わない! あいつの言ったのはでたらめだよ、誓って言う、アリョーシャ、でたらめだ!
兄さん、落ち着いて下さい、病気のせいで、うわ言を言って、自分を苦しめているのです……
いや、あいつは人を苦しめる術を心得ている、残酷なやつだ……『君は誇りの気持ちから行くくせに』とあいつは言う。『その実、スメルジャコーフが有罪になって懲役にやられ、ミーチャが無罪になる、そうして自分は精神的な裁きを受けるだけで、他の人たちからはほめられるかも知れないという、そんな希望を抱いていたんだ。ところが、スメルジャコーフが死んでしまった、首をくくってしまった、──とすると、今や法廷で誰が君ひとりの言うことを信じるだろう。それでも君は行こうとしている、行こうとしている。やっぱり君は行くだろう。行こうと決心している。このうえ君が行くのは何のためだ?』恐ろしいことじゃないか、アリョーシャ、僕はこういう質問には堪えられない、こんな質問をする勇気のあるやつは誰だ!
アリョーシャは恐ろしさを感じる。兄さん、僕が来るまでに、スメルジャコーフが死んだことを兄さんに教えることができるはずはないじゃありませんか……
あいつが言ったんだ。イワン、一点の疑念もはさまずにきっぱりと。……スメルジャコーフは殺さなければならん……カーチャはおれを軽蔑している……リーザだってそのうち軽蔑しはじめるだろう……『ほめてもらうために行く』これは残酷な嘘だ……アリョーシャ、おまえも俺を軽蔑している……おれはまたおまえを憎悪するだろう……ミーチャも俺は憎悪している……あの人でなしを助けるなんて真っ平だ……懲役に行ってくたばるがいい……聖歌なんか歌いやがって……ああ、明日おれは行くぞ……
ほとんど発狂しているイワン。とうとうイワンは意識を失っていく。相変わらず話しつづけていたが、言葉はすでに支離滅裂。やがてその場でよろめく。アリョーシャが寝床に連れて行く。イワン寝る。
アリョーシャ、イワンのことを祈る。イワンの病気の正体は、傲慢な決心の苦しみ、深い良心の呵責に違いなかった。彼が信じなかった神とその真実が、なおも服従を望まなかった彼の心を征服したのだろうか? だとしたら、どうなるだろう? 『神様が勝って真実の光のなかに立ち上がるか、それとも、自分の信じないものに奉仕したことによって自分と万人に復讐をしながら、憎悪のなかに身を滅ぼすかだ』
アリョーシャはふたたびイワンのために祈りをあげた。