resume:河野多恵子『小説の秘密をめぐる十二章』
- 小説の創作プロセスを音楽に喩えると、それは作曲と演奏が一つになって成り立っているものだが、作品の前のほうでは作曲の要素の比重が大きく、後へ進むにつれて演奏の比重の度合いが増していく、と言えそうだ。
- 標題なり、主人公の名前なりがしっかり定まらないときは、まだ書きたい題材・モチーフが書き手の中で本当に生きはじめていないことを意味する。つまり、書く前にまだまだ考えなければならないことがあるということだ。
とりわけ標題にネガティヴなものを選ぶ場合は、よくよく考えてからにした方がいい。そのネガティヴな標題は、作者の執筆意欲の張りのなさや姿勢自体の消極性をあらわしてはいないだろうか。書き手はその作品の創造に意欲がそそられていると言えるだろうか。たとえば、「不毛」や「酔生夢死」といったタイトルで自分が長篇を書こうとしていると想像してみるがいい。本当にそのタイトルの下で、しっかりした手応えと魅力のある小説を最後まで書き切ることができるだろうか?(おそらくできはしないだろう) また、もっと俗な話をすると、「どんなに内容の良いものでも、ネガティヴな標題の作品は大抵売れ行きが芳しくない」という出版業界内の通説もある。
モチーフを鮮やかにずばりと据えた標題の好例としては、三島由紀夫「仮面の告白」を一つ挙げておこう。
- モチーフという言葉は解釈が難しいが、フィクションという「嘘」を創作する場合のモチーフにかんしては、次のように考えたい。フィクションとは、より自分を現わすためのものだ。なぜ作者は自分自身を隠し、自分を幾重にも包みこんでフィクションを構築するのか。それによって、自分の事実を超えた自分の本質を現わすことができるからだ。そのままの自分自身を告白し書いているだけでは、とても自分の精神の真の様相は表わせないからこそ、われわれはフィクションを書く。フィクションの嘘は単なる変装や偽装ではない。あるいは事実以外のことが書かれていればすなわちフィクションというわけでもない。
引きこもりだったエミリ・ブロンテが、あの「嵐が丘」ではなく、そのままの自分、あるいは変装にすぎない自分においてそれを書いていたらどうだったか。とても彼女の稀有な精神の様相は表わせなかったにちがいない。
フィクションのモチーフとは、作者の精神の本質に根ざしたものでなければならず、それ以外のなにものでもあり得ない。
そして、作家にとって真に書くべき独創的なモチーフを得て書かれた文学作品──そのような作品は言うまでもなく「いかに生きるべきか」という指針を得るために読まれるのでは、ない。むろん、教養を高めるために読まれるのでもない。単に面白いからこそ、読まれるのだ。それが事柄上は荒涼としていようと、あるいは主人公の自殺をもって締めくくられようと、読者自身がこの世にあり、人間のひとりであることを読書前よりも深く新鮮に感じさせ、また人生に対しても〈べき〉などで肯定しない無言の力強い教唆を伝えてくるからこそ、小説は面白い。私はそのようなものこそ真に独創的で優れた作品だと考えている。
- 良い文章は健康な脈搏を打つ。健康人の脈搏数の個人差が僅少で、一定範囲であるように、良い創作の文章では、どれほど起伏や逸脱があっても奥底の脈搏は必ず一定範囲の数値で打っているものだ。文章から文章が生み出され、自由に展開して行くという素直な呼吸がそなわっている良い文章。その健康な脈搏さえあれば、一人称の話し言葉であろうとセンテンスの長さ・短さが極端な文体であろうと、文章は書こうとしている事物を鮮やかに定着する。逆に、異常脈の文章では、表現したいことをしっかりと引き出して托すということができない。
何が異常脈であるかは、健康な脈搏の文章に触れてその〈感じ〉を体得すればわかる。一例として、吉行淳之介訳・ヘンリー・ミラーの短篇「ディエップ=ニューヘイヴン経由」を挙げよう。アメリカ作家の原作だが、この訳文は日本語の良い小説に共通している文章の感じ、その手応えのある脈搏をしたたかに伝えてくれる。
文章が上達するためには、既存の文学作品の文章に習慣的に関心をもつ必要がある。
- 良い作品の導入部は、その作品全体の気配の手応えが早くも感じられるものだ。その気配があいまいだったり、さんざん迂回を重ねてから途中で急に良くなるような作品など、滅多にあるものではない。作品の導入部では、比喩として言うのだが、その作品が山へ向かって行こうとしているのか、海へ向かって行こうとしているのか、その〈気配〉が何となく、だがしっかりと感じられるのでなければならない。読者の関心を惹き付ける網が無駄なく広がっているのでなければならない。
導入部の気配を作り出すには、まず、書こうとしている作品のどこから、どう書きはじめるかという問題を解決せねばならない。その部分を導入部とすると、どういう利点があるか、弱点は生じないか、ということをさまざまに検討する必要がある。冒頭から実質的な効用のとぼしい事柄を些細な便宜上あれこれと書く必要があるようだと、廻りくどくて、作品の向かおうとしている気配の不確かな導入部にしかならないだろう。そんな作品が、以後の展開によって傑作になることなどあるだろうか。導入部の失敗はそれ以降の展開に拡大して影響してしまう──そのことを肝に銘じてほしい。
導入部がそなえるべき、その作品の向かおうとしているところの気配の手応え。それは、読者に対する以上に、作者にとって大切なものだ。導入部がしっかり書かれていれば、導入部の〈気配〉が次に書くべきブロックを自然に告げ知らせてくれるものだからだ。そしてそのブロックがモチーフを深く担い得ていれば、そこから次のブロックが生まれてくる。先行のブロックとの間にいくら飛躍と断絶があろうとも、「筋」「起承転結」とは異なる、本質的な脈絡、呼応が構築されていく。だからこそ導入部は重要なのだ。
- 一人称と三人称の相違について。比喩的に言うと、一人称では、自分の頸筋を描くことができない。自分自身では見得ない部分については、一人称では無理なく表現できないのだ。それを描くべきでありながら、一人称体で書かれてしまったため何か重要なものを欠落させているというような失敗作は、ときどき見受ける。
逆に、一人称体をもちいると、三人称体によって伝えようと思えば丹念に・生真面目に書かざるを得なくて退屈になってしまうようなことでも、軽妙に、かつ一定のユーモアや感情のニュアンスをこめて描くことができたりする。一人称で書くなら、そのような一人称に特有の便宜を大いに利用すべきだろう。
三人称の方が工夫が必要で難しいのは確かである。一人称では描けない様々なことを書き得るから、作者は用いるべき事柄の選択に苦労しなくてはならない。事柄のどう取り合わせるかの苦労も並みではない。
- 草稿の書き直しは、単に書きたいことを補強すること、詳しく書き込むこととは限らない。仮りに原稿用紙一〇枚分ほどのある部分を切り捨ててしまい、代わりに挿入した一枚たらずものが、書きたかったことの鋭い、密度の濃い定着となった、そういう書き直しの仕方もあるのだ。
- 書くもの書くものがことごとく気に入らない、書く題材にも行き詰まる、日常の生活態度すら荒んできて、人間関係でも好ましくない状態が相次ぎ、一層書くことに悪影響を及ぼしてくる──こういった「スランプ」に陥ってしまった人には、伊藤整氏の次の言葉を送りたい。「努めて素直になりなさい。拗ねてはいけません。素直になるのが、スランプから抜け出る最短の道です」。
- 書誌情報:河野多恵子著、『小説の秘密をめぐる十二章』、文藝春秋、2002年
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