:内容要約
- 十七世紀の初頭には、まだ「セックス」についてある種の率直さが通用していたと人は言う。当時、人々は「セックス」について秘密めかそうとすることはほとんどなかった。言葉で言うことを極端に避けるとか、婉曲に言うとかいうこともなかった。卑俗なもの、猥褻なもの、淫らなものに対する基準は、十九世紀のそれに比べればずっと寛容だった。あけすけに体も見せ、たやすく交わった。ませた子供たちが走りまわっても、大人たちは大笑いするだけで、誰も照れたり恥かしがったりはしなかった。
ところがそのすべてが、ヴィクトリア朝のブルジョワジーの時代になって一変する(と言われる)。セックスは用心深く閉じ込められる。夫婦を単位とする家族というものがセックスを押収する。生殖の機能という正当性のなかにセックスをことごとく吸収してしまう。そして、セックス、性器、性交、性欲のまわりで人々は口を閉ざす。社会において承認されるセックスの唯一の場は、有用かつ生産的な両親の寝室のみとなる。子供たちには性を禁止し、それを口にすることさえ禁ずる。不躾にセックスを誇示する者は異常者としての身分を定められる。もっとも、否応無しにいくつかの譲歩はなされざるを得なかったが。非合法のセックス、生産性のないセックスにどうしてもその場を与えてやらねばならなくなった時、人々は別の場所へそれを押し込んだ。すなわち娼家と精神病院という許容地へ。こうしてあくまで自然であったはずのセックスは、ブルジョワ社会にいたり、ひどく抑圧される仕儀となった。
そして同時に、ブルジョワ社会は、このような「性の抑圧」への告発として、私たちは性的に自由になり、快楽を復権させ、権力による禁忌や検閲から解放されねばならない、という言説をも対抗的に生じさせることとなった。近代になってはじめて、セックスについて積極的に、解放的に語るということが一種革命的な価値を帯びるようになったわけである。
この「抑圧の仮説」と、それに対する批判的言説について、いくつかの疑義を呈することができると思う。まず、セックスの抑圧を侵犯することは、本当にラディカルで自由であろうか、それは権力・既成の秩序に本当に対抗していると言えるのか、と問おう。ラディカルを装うそれらの言説が主張しているのは、性の抑圧がなくなれば、われわれは別の身体、より新しく、より美しい身体を手に入れることがき、よりよきセックスを享受することができるだろうということだ。端的に言えばそれは明日の快楽を約束する。諸権力に逆らって語る、ブルジョワの偽善を暴くという熱情と、期待されるセックスの逸楽の園とが一つに結ばれるような言説。しかし、それは非常に耳当たりのよい誇張を含んでいるのではないか?
ここでもっと本質的な疑義に進むことができる。すなわち、我々の社会のような社会において働いている権力の仕組みは、本当に抑圧の次元のものであるのか?と。本当に、禁忌、検閲、資格剥奪、消去、隠蔽、弾圧といったものが、我々の社会で権力が働く形式なのだろうか。もし、その前提がくずれるならば、セックスの自由を謳う言説が「抑圧」と名付けて告発している現象が、単なる仮象にすぎないかもしれないという疑いは避け得ない。その仮象の下では、権力のメカニズムも抑圧に対する批判的言説も実は通底しているのではないか、という可能性もでてくる。
こうした指摘は、セックスに対する近代社会の権力の働きかけは、人が批判するよりもはるかに寛容だ、などというような、最初の仮説に対してその正反対の反-仮説を立てるために導入するのではない。むしろ論じてみたいことはこうだ。セックスの快楽と権力の関係は抑圧の関係ではない、ということ。セックスの快楽はむしろ権力作用に取り込まれて用いられているのではないかということ。真に告発すべきは、「権力=快楽」とでも言うべき体制ではないか、ということ。セックスの快楽を権力に抵抗するための切り札とみなしているかぎり、セックスという、最も細くかつ最も個人的な行動の水脈に、いかに権力がしのびこんでいるか、その隠微な浸透を分析することはできはしない。権力は、むしろ、ほとんど知覚されないほどの道筋を通って、我々の日常の快楽を統制しすることもあり得るという視座こそ、必要なのだ。セックスに対して働きかける権力の技術は、厳密な抑圧の手法には従わない。反対に、権力は様々の多形的なセックスの快楽の分散と浸透の技術を用いているという事実、それこそを剔抉せねばならない。
- 今一般に受入れられている「抑圧の仮説」──ブルジョワ社会になって、セックスをはっきりその名で言うことは一層難しくなった、という仮説。セックスを口に出していわない、他人にも沈黙を課するという過度の慎ましさの蔓延を憂う仮説。それを検討してみよう。
たしかに過去三世紀にわたって、セックスについて語ることの統制が行なわれたことは史料からも分る。しかし人々はセックスについて絶対的に沈黙したわけではない。起っていることはまったく逆のこと、セックスについての言説の爆発的な増殖である。この変化に大きな役割を果したのは明らかに権力だと言える。権力がセックスについて語ることを厳密に統制しようと己れを行使する、その力は、むしろ人々がセックスについて語ることを煽り立て、それを執拗に記録しようとしてきたのだ。セックスは危険な問題となった。セックスにまつわることで、取るに足らぬ軽々しいものは存在しないとされた。夢想を横切るふとした影、追いはらえないイメージ、精神の動揺と肉体の反応とにかかわる生理学的認識の累積、記憶の陰部の追求……。至るところで、聴き取り、記録するための装置がつくられ、至るところで観察し、問いかけるための手続きが作られた。性的欲望は、もはや曖昧さも猶予も与えられない、あたかも追いつめられた獲物のように狩りとられねばならない。権力はそう要求する。
端的に問おう、このセックスにかんする想念、欲望、認識のはてしもない追求は、禁欲のためであるどころか、まさに「快楽」を目的として作動されていたのではないか、と。人々のセックスを微に入り細を穿ち丹念に調べて理解しようとすること、新しい厳格な規則によってそれを断罪すること、それは、一転すれば、容易にポルノグラフィックな語り、快感を、快感について詳細に語ることによって増幅する身振りと完全に重なり合うのではないか。権力が欲望を余すところなく執拗に精査すること、それはやがて課せられる禁止する掟ということに尽くされない。実際にその効果は、人々の欲望そのものの転位や強化や新しい方向づけとして機能する。もっとも重大な変化は、セックスから率直さが失われて皆が紳士・淑女ぶりはじめた、などという点にあるのではない。セックスの快楽が「公共の利益」として精緻に展開し得るものとみなされたこと、これこそが深く格段の変化であったと、まず言いうる。
近代以後に生まれた新奇な要請とは、セックスを「勘定につける」こと、セックスについて道徳的なだけでなく、合理性的な言説を述べること、セックスを分析し、記録し、分類し、特性決定して、計量的あるいは因果論的に探求するという要請であった。この変化を一言で言い表せれば、セックスが道徳の対象でなく、行政の対象となった、と言えるだろう。セックスを禁欲や倫理の問題として考えるのではなく、経営・管理すべきもの、有用性のシステムの中に挿入し、万人の最大の利益のために調整し、最適に機能させるべきものとして考えること。この転換には、混乱状態を抑圧する権力のイメージよりも、集団的・個人的な幸福の秩序だった増幅を担う手段、という権力のイメージがふさわしい。セックスの行政・監督機関。その目的は、禁止を厳重にする道徳至上主義ではなく、公にとって有用になるようセックスを調整するエンジニアリングである。
十八世紀における権力の技術にとって大きな新しい様相の一つは、経済的・政治的問題としての「人口問題」であった。今やセックスを分析しなければならないのだ、出生率や結婚年齢を、正当なあるいは不倫に基づく出生を、性的交渉の早熟さや頻度、それを多産にしたり不毛にしたりするやり方、独身生活や禁忌の作用、避妊法の影響を。なぜなら、国家の生産力は、単に市民の美徳に左右されるのではなく、各人が己れのセックスを用いるそのやり方に直に結びついているのだから。住民人口の経済学を通じて、セックスに関する観察格子が作られたのはこれがはじめてのことだった。
子供の性的早熟にまつわる言説の変化もここから分析できる。たしかにそれは十七世紀以前よりも闊達さを失った。教育者が自分の弟子に対して、よき娼婦をどのように選ぶかを助言するなどということは考えられなくなった。しかしそれは沈黙が取って代わったということではない、反対である。人々は別の形でそれを口にするようになるのだ、別の視点から、別の効果を引き出すために。十八世紀の学生寮の建築上の様々な仕組みと規律を一瞥してみるがいい、そこではあられもなく絶えずセックスが問題になっているのだ。子供たちのセックスに対する、不断の警戒態勢。大人たちは子供に、セックスについてのある種の言説を、合理的で制限された言説を強制した。一種の言説による身体矯正法である。くりかえす、それはセックスにかんする沈黙を意味しない。むしろ、子供と思春期の少年たちにセックスを組み込むための様々な巧緻な設置点が確立されたということなのだ。セックスの治療学という名目の、快楽の社会的統制。
われわれがセックスについて口数が少なくなったということはない。むしろわれわれはセックスを語るべきものとして見出した、しかも権力の外で、権力に逆らってではなく、まさに権力が行使されているその現場で。「抑圧の仮説」が流布する、われわれがあまりにも臆病で気が小さく、あまりに権力に服従しているために、セックスについて本質的なことを口に出来ない、抑圧を打破することがセックスへと導く道を開いてくれるのだ──、などという通念が、いかに誤っていることか。むしろこの通念は、人々をセックスへと多形的に煽動して調整する権力の要請の一部をなしているのではないか。セックスをラディカルなものとして評価させることは、セックスの快楽の生産・配分構造に必要な一つの虚構物語として機能しているのではないか。まさに、今。
- 「抑圧の仮説」はもう一つの「抑圧」のテーマを持っている。すなわち、やはり近代社会は、生殖機能の厳密な運用にしたがわないセクシュアリティを追放し、不毛な活動を否定するという点で、弾圧として機能しているではないか、と。つまりそこには、人口の増殖を保証し、労働力を再生産し、経済的に有用なセックス活動だけを整備しようとする、政治的に「保守」的な性向が働いているのであり、それを「革命」として打破せねばならない、と。
しかしここであらためて逆の現象を指摘できるのだ。つまり十九世紀と我らの世紀ほど、セックスの倒錯的で多様な形が認められる時代はなかった。それはむしろセクシュアリティの形態の増殖の時代であった。
十八世紀を振り返れば、セックスについての禁忌は結婚の神聖にまつわる道徳的なものにすぎなかったと知れる。淫行(結婚外の関係)、姦通、未成年者誘拐、近親相姦の禁止、いずれにせよ生殖能力に対する逸脱という意味で罪の重大が測られたことはない。
決定的な変化はセックスの快楽へ医学が大挙して入り込んだことによって訪れた。医学は性的行為から生ずる器官的、機能的、あるいは頭脳的な快感の由縁をつきとめる生理学をそっくり発明した。生殖という自然に反する、不完全なセックスの付属的な快楽が、注意深く分類され、あらゆる形態が分析され、それを本能の攪乱として位置づけた。目指されていることは明らかだ。雑多なセクシュアリティの運用と管理である。そこで行使されている権力を、単なる禁忌や弾圧とみなすのは無邪気にすぎる。
例えば少年の自慰を追及するあの新しい管理方式。それは姦通を禁止するような権力のメカニズムとは明らかに異なる。一方で医学的処方が、他方では法的刑罰が問題になるからというわけではない。そうではなく、そこで動員される戦術そのものがもはや同じではないのである。医師は、どのように少年の自慰を「禁じ」たのだろうか。倫理を強いることによってではない。自慰の脈絡をたどり、それを誘発するか、少なくともそれを可能にするようなすべてを狩り出し、快楽が現われ得るような場所をすべて監視し、少年には自慰への誘惑があるという不安を、親や教育者たちにたえず植え付けることによって。結果は何が得られただろうか。自慰が根絶されたとは思われない。その際限のない矯正的管理の帰結は、家族の空間に医学的な体制、セックスにまつわる権力の拠点が根付いたということである。親や教育者たちは、医学による警告におそれをなして、権力が己が中継地と己が作用とを前進させ増大させるのをなすがままにさせた。幾つにも別れ、枝状に細分化した権力が、現実の中に侵入していく。性教育という名の管理形式の成立だ。
もう一度問おう。このような権力の統制によって、異形で不自然なセクシュアリティ、倒錯的な性的欲望というものははたして抑圧され排斥されたのだろうか。否。自慰を消滅させようと固執する態度が必然的に挫折し、むしろ、自慰という権力の侵入ラインによって少年の内部が捕えられたというあの現象、権力と統制の対象との同時的伝播は、至るところで生じている。十九世紀の同性愛者に対して一体何が行なわれたか、思い返してみるがいい。そこでは、同性愛を一つの性格として解明することが追求されたのだ。すなわち、同性愛は理解可能なものとなり、その存在理由さえ精神医学的、病理学的な根拠があたえられたのである。精神医学者が洗礼名を与えたのは同性愛者にとどまらない。露出狂、フェチシスト、動物愛好症、単独性欲症、視姦愛好症、女性化症、老人愛好症、冷感症。この雑多なすべてを追い回す権力の仕組みは、それらの「症候」をつかまえるという名目で、人々の身体の内部に侵入し、器官の奥底に、皮膚の感覚に、行動の表面下にまでしのびこむ。権力の目的はそれら無数のセクシュアリティの排除であろうか。否。むしろ個人のセックスの深いところまで触れるために、医学化された異形のセクシュアリティを個人の内部に組み込み、快楽という特典で管理すること、それこそが権力の目的であると断言しよう。セックスする身体をしっかりつかまえることが要なのだと、権力は熟知しているのだ。権力はそれが監視しているものを排除するどころか、狩り出して引き出す。狩り出された快楽は、権力の上にひろがり、権力は今狩り出したばかりの快楽を生理学的テクノロジーを駆使してわがものとする。われわれは、医学的な凝視に対してほとんど抵抗することができない。医学的検査、精神医学的調査研究、教育学的報告、家庭内の管理、問いただし、監視し、様子を窺い、観察し、下までまさぐり、明るみに出す、──その結果、われわれの快楽は抑制されるどころか増幅されるのだ。権力は快楽によって侵入する。セックスについてあけすけに語ることのできなくなった私たち、その私たちは、セックスの本来的な快楽から見放されてしまったのか。否。私たちは今や、絶えず、セックスについて丹念な知識を蒐集した権力の網の目によって、一人一人が医学化された快楽を、ふんだんに享受するよう使嗾されつづけているのだ。それはわれわれが望んだことでもある。すなわち、権力よる快楽の追跡とその増幅を。
したがってもはや、十九世紀の家族を、単なる夫婦という最小単位で考えることはできない。家族は生殖という最低限の目的に閉じた不自由なものであろうか。明らかにそうではない。家族は多種多様な点と変形可能な関係とに機能的に結びつけられた、「権力=快楽」の中継地でもあるのだ。子供たちの思春期の重視、性行動に対する不断の注意としつけ、監視の目を逃れられることの恐怖──、それらを夫婦のセックスの正当性とそれ以外に対する禁止、などという概念で説明できるはずがない。家庭はあきらかに、快楽の煽動と多様化のメカニズムの装置として機能する。監視方式が精緻になればなるほど、そこには権力が様々な性的欲望を配分する、制度的な侵入ラインが呼び込まれるのである。
権力の概念はもはや変質した。セックスする身体に直に触れようともくろむ権力は、禁忌の作用をもっていない。それは、性的欲望の多様な形態を追跡し、個人の身体のなかに無限に侵入する。権力は人々の快楽を厭わない、むしろ促進する。権力が一夫一婦のセックスのみに調節的役割を与えようとして、他のセクシュアリティを許容しなかった、などと想像するのは的外れである。今日、自分が異形のセクシュアリティを持っている故をして、権力体制による迫害を言い立て、自分の性的欲望を誇示してみせる者たち、彼らは、まさに当の権力が身体へ干渉したことによって、自分たちの異形のセクシュアリティが呼び出されたことを、知らない。まさに権力こそが彼らの性的欲望を濃密にし、強化したのである。それがセックスの名の元に誇示される以上、かならずそうなのだ。
禁忌、検閲、資格剥奪、消去、隠蔽、弾圧により抑圧的な掟を課す権力、というイメージはもう放棄しなければならない。われわれが直面しているのは、社会のなかで至る所に複雑な網目を張り、複雑で隠微なメカニズムにしたがってわれわれの快楽の増殖と多様性を教唆するような権力、身体に快楽の強度で触れて来て、個人を性倒錯者として特殊化して組み込むことさえやってのける、分析的で細分化した権力だ。
- かつて古代ローマにおいて権力と呼ばれていたものは、君主の至上権、臣下の生殺与奪の権利であった。それは剣によって象徴される。簡潔に言えばそれは、逆らう者、命令に従わない者を「殺そうとする」権力である。だから復讐的な対抗ということも可能であった。
しかし現代社会はすでに、権力のメカニズムの極めて深い変更を被っている。われわれの時代の権力はもう、それに服従するものを「殺そうとする」ことを許されてはいない。恣意的に命を奪われないための権利が、われわれ一人一人には保障されている(ことになっている)。代わりに権力が積極的に為すことは、われわれを「生かそうとする」こと、われわれの生命からできるかぎりの力を産出させようとすること、われわれの生命を整えつつも徹底して拡大させることだ。今日の権力は、生命そのものを経営し、管理し、発展させ、増殖させ、厳密な管理統制をおよぼそうと企てる。しかしかつて十九世紀以降の時代ほどに戦争が血腥かったことはなかったし、国家単位でこれほどの大量殺戮が行なわれたことはなかった。何故か? 理由はあきらかだ。一つの国家の国民の生命を拡大し発展させつづけることを保証する権力は、別の国民を死にさらすという権力の裏側に他ならないから。戦争による大量抹殺は、古き「殺そうとする」権力への回帰ではない。人口という厖大な生命の問題に直面し、行使されざるをえない現代の権力にとって、死は権力の限界となっている。戦争によって命を奪われた者たちは、権力によって「殺された」のではなく、生命を保証し、支え、管理する権力の外へと「廃棄された」のである。
戦争の例の代わりに、死刑を例に取ることもできるだろう。生命を経営・管理する権力、あくまで人口を「生かそうとする」権力にとって、死の執行=死刑は権力のヴァニシング・ポイントであり、スキャンダルであり、アポリアだ。死刑の適用を困難にしているものは、人道主義的感情などではなく、権力の存在理由を根本から転覆させかねない、「殺そうとする」大権の行使なのである。したがって権力は、合法的に殺してよいと見なした者を、権力の外へ追い出してしまわねばならない。犯罪者が、他の社会の成員にとって一種生物学的危険をもたらす反-生命として措定されたとき、はじめて死刑は執行される。
君主の持つ剣によって明白に対峙していたはずの生と死は、現代では「権力によって生かされる」ことと、「権力の外へ廃棄される」こととの対立へ転化した。今や生に対して、その展開のすべての局面に対して、権力はその掌握を確立する。それと呼応して、死は人間存在のもっとも秘密で私的な点、公の手のとどかぬものとして析出された。十九世紀に社会学的に注目され「発見」された人間の行動が「自殺」であったのは偶然ではない。死に対する個人的で私的な権利は、自らの務めとして生を経営・管理することを掲げる政治権力がまさに不可避的に出現させたものである。
生に対する権力がその行使する対象としてまず見定めたものは何であったか。身体だ。十七世紀末に形成された人間の身体の「解剖-政治学(解剖学的政治学)」は、身体の調教、身体の適性の増大、身体の有用性と従順さとの並行的増強、効果的で経済的な管理システムへの身体の組み込み、こういったすべてを組織した。つづいて十八世紀中葉に形成されたのが人口を調整する管理、人口の「生物-政治学(生物学的政治学)」である。すなわち、繁殖や誕生、死亡率、健康の水準、寿命、長寿、そしてそれらを変化させるすべての条件を組織化する政治。「解剖-政治学」「生物-政治学」という二重の顔立ちを持つ、解剖学的でかつ生物学的でもある巨大なテクノロジーが設置されたという事実、それは権力の機能がもはや殺すことにはなく、際限なく生を取り込むことへ変化した、その画期を端的になす。
君主の剣によって象徴されていた権力はもはやない。今あるのは、身体の行政管理と生の勘定高い計算を展開する、注意深く滲みひろがった権力だ。それは無数のテクノロジーの爆発的出現、出生率、長寿、公衆衛生、住居、といったさまざまの問題を政治的に解決するための、すなわち身体の隷属化と住民の管理を手にいれるための多様なテクノロジーの急速な発展と並行している。「生物学的権力」の時代が始まったのだ。セクシュアリティを使嗾する装置は、こうした権力の具体的な構成=配備の一つであり、しかももっとも重要なものの一つでもある。
明らかにこの権力は経済のレベルでも働いている。「解剖学的で生物学に基づく政治学」は、資本主義の発達に不可欠の要因であった。資本主義が保証されてきたのは、生産機関へと身体を管理された形で組み込むという代価を払って、一般に生を増大することを人々に実現してきたからだ。人間の蓄積を資本の蓄積に合わせる、人間集団の増大を生産力の拡大と組み合わせる、利潤を差別的に配分する、この資本主義が必要とする三つの操作は、生きた身体を取り込んで価値付与する、「生物学的権力」の行使によって、はじめて可能になったことだ。
資本主義以前/以後の断絶は未曾有のものだった。政治の技術の領域へ、人間の生命という現象が登場したこと、そんなことは例がなかったのだから。この断絶はこうも言い換えられる。「殺してやろう」と言うよりも、「生かしてやろう」と言うことの方が、はるかに力を広く行使できるということを、権力が気づいたその転回点。それには生物学的、解剖学的な、生命一般にかんする知識の発達が疑いもなく貢献している。生命の存続を対象とする方策が急速に整備されたことにより、十八世紀以降、死の切迫した脅威(餓死、疫病)はかなり遠ざけられるようになった。死の偶然とその宿命という圧力が急速にゆるめられてゆく時代。そして人々は知ったのだ、生の確率や個人的・集団的健康を変更する力、その力を最も適した形で配分し得る空間のなかで「生きる」「身体を持つ」とは如何なることであるのかを。そして権力が気づいたのだ、生とそのメカニズムをあからさまに計算し、経営してみせる空間、その空間の組織と維持と拡大こそが、殺害の脅迫以上に、掌握の手を深く遠くまで伸ばせるということを。人間は数千年のあいだ、古代ギリシャにおいてそうであったもののままでいた、すなわち、なによりもまず生きた動物であり、あくまで付随的に、政治的でもあり得るような存在である。だが「生物学的政治学」が社会に断絶を画した後、人間はもはや単なる生きた動物ではあり得ない。なぜなら、人間の生命は、政治的戦略の中にその賭金として組み入れられてしまったのだから。歴史上はじめて、生命の問題が政治の問題に反映されるようになったのだから。
- 人間が生物である限りの生を経営する技術、テクノロジー、その今世紀における肥大化についていまさら強調する必要があるだろうか。人々の健康、食事や住居のあり方、生活条件、生きる上での空間の全体、そして何よりも身体を、テクノロジーはくまなく貫いてしまっている。
テクノロジーは絶対的脅迫として表立ってあらわれることはない。テクノロジーは持続的な調整機能をもっぱらとする。主権の場で死を与えることはもはや問題ではない。生きている者を価値と有用性の領域に配分する作業、姿を現わさずに、暗に測定し、評価し、資格を定め、上下関係に配分する作業、それらすべてをテクノロジーは差配する。あらゆる制度は、もはやテクノロジーの連続体にますます組み込まれてゆくほかはない。
解剖学、生物学にもとづく政治的テクノロジーがクリティカルにわれわれを捕えているその場所は、言うまでもなく、セックスにおいてだ。セックスは解剖学と生物学のつなぎ目に位置する。一方ではセックスは、身体感覚の規律に属する。身体的な快楽の訓練の強化と配分であり、労働力の調整とその生産・管理である。他方では、セックスは、それが誘導するすべての作用を通じて、住民人口の調整・制御に属する。だからこそそれは無限に細かい監視と、あらゆる瞬間における管理統制と、細心の空間的配備と、無際限の医学的・心理学的検査──身体に体する一連の「微小権力」の構築を急務の課題として浮かび上がらせる。セックスは個人的な身体への手掛かりであると同時に、社会全体の大々的な措置や統計学的測定の手掛かりでもあるのだ。だからこそ十九世紀には、性的欲望は人間生活の最も取るに足らぬ細部にまで追跡されたのだ。一体、「生物学的政治学」という体制を抜きにして、若年者のセクシュアリティなどが関心の対象になりうるだろうか? 以前には、それらは狩り出し、追いつめる必要などなかったのだ。しかし今や性的欲望は、政治的操作が介入する絶好の侵入ラインとなる。個人の分析と個人の教育と集団の調整とを同時に可能にする鍵穴として。
生を標的とする権力の、近代的テクノロジーの進展。その狡智な戦術を分析して、逆転させるためには、もはやセックスの素朴実在論的な見方とは手を切らねばならないだろう。つまり、セックスそのものは権力とは無縁な、人間にとって本来的なものである、という素朴な見方と手を切らねばならない──政治を通じて形成された抽象観念ではないものが、身体的部位、機能、解剖学的・生殖学的システムによっても捉えがたいものが、感覚、快楽とも異なる別の何かが、奥処に存在する、という見方。何か別のもの、何かこれら以上のものであり、内在する特性と固有の神秘性をもつ何物か、すなわち「セックス」。その実在を素朴に信じること。そんな見方は、絶対に受け入れてはならない。指摘したいことはこうだ。フェティシズムとも自慰とも膣外射精とも無縁な本質的な「セックス」、そのような自然で野性的なもの、近代の権力を巧みに躱していると想定されているもの、いや、それこそが、「権力」を単なる禁止や抑圧としてのみ思考する通念と、共犯関係をなしているのだ、と。セックスという自律的で本来的なものが、権力によって抑圧され、多様で二次的な形態へ堕落させられている、などと考えてはならないのだ。本来的なセックス、という観念こそ、権力の装置が産み出すもののなかでもっとも観念的な仮象なのであり、権力が身体の物質的現実を支配し、身体のエネルギー・感覚・快楽を掌握してゆくのを容易にさせる小手先として働くのだ。
もっと穿って言おう。権力装置が、人々の目を死の不気味さから反らせるために、すなわち権力の外部というグロテスクな世界を視させないために、十全なセックスという虚構は、きわめて有効に機能してしまう、と。考えてもみよ、われわれは真実のセックスを手に入れるためには死を代償にしてもよいと、しばしば口にしはしないだろうか。なぜエロスとタナトスは結びつくのか。なぜ生命をセックスと引き換えてもよいという幻惑が生まれるのか。簡潔に言えば、理想化されたセックスは、各個人の身体の全体性を象徴的に構成し、十全な意義に満たされた自己同一性を付与するから、ということになろう。セックスという「名付けようもない暗い衝動」は、謎めいていて、かつ、身体の現実の部分でもあるがゆえに、個人の歴史の索漠を一つにまとめあげる特異な点として機能する。むろんそれは、権力の装置自体が印した虚構である。「セックス」そのものを到達したいもの、発見したいもの、真理として表明したいものとして作り上げること、これは「生物学的政治学」の装置の、もっとも本質的な要素の一つである。身体の感覚と快楽と幸福と生の意義を、権力装置によって徹底的に馴致された主体が、「あらゆる権力に逆らって」セックスの真の可能性を主張する。それこそがわれわれを性的欲望の装置に結びつけるという逆説。「セックス」という観念をめぐって目下くりひろげられている喜劇とは、そのようなものだ。
セックスを混沌とした情念や幻想の側に置いてはならない。性的欲望は極めて現実的な歴史的形象なのであって、それが自己の機能に必要な要素として、真のセックスという概念を生み出したのである。セックスを肯定すれば権力を拒否することになる、などとは馬鹿げた考えだ。
もし権力による掌握に対して、性的欲望の様々なメカニズムに抗して、身体を、感性を、知を、価値あらしめようとするなら、セックスという呪文からこそ自由にならなければならない。権力の装置に対抗する反撃の拠点は、セックスの名の元に語られる生の輝きではなくて、なによりもまず、身体、ただ身体であるはずだから。
:文体のイメージ(部分抜き書き)
- この白日の光に続いて、たちまちに黄昏が訪れ、ついにはヴィクトリア朝ブルジョワジーの単調極まりなり夜に到り着く。性現象はその時、用心深く閉じこめられる。新居に移るのだ。夫婦を単位とする家族というものが性現象を押収する。そして生殖の機能という真面目なことの中にそれをことごとく吸収してしまう。セックスのまわりで人は口を閉ざす。夫婦が、正当にしてかつ子孫生産係りであるものとして君臨する。
礼儀なかなった態度が身体を巧みに避け、上品な言葉が言説を洗って白くする。
彼らは、口外できぬ快楽を勘定される物事の領分へと、こっそり移しかえたように思える。その時代にはひそかに許可されていた言葉や仕草が、そこでは最高値で取り引きされる。
けだし、いかに微かな真実のきらめきも、政治的条件の下にあるからだ。
すなわち、性がこれほど厳格に抑圧されているのは、とりもなおさず性が、全般的でかつ強化された労働への組み込みという事態と相容れないからである。組織的に労働力を搾取している時代に、それが快楽の中で四散するなどということを人は許容できたであろうか。
性もまた、未来の中に書き込まれているのだ。
彼は法を揺がし、多少とも未来の自由の先取りをするのだ。そこから、今日、性について語る時のあの荘重さが生じる。
既成の秩序に対抗しているという意識、自らは体制破壊的であるということを示す高い調子、現在の悪を祓い、未来を呼んで、その日の出の到来を早めるのに貢献していると信じている熱情がそれだ。反抗と、約束された自由と、別の掟の君臨する近い将来の時代というものの幾ばくかが、性の弾圧についてのこの言説の中にた易く入り込むことができる。
明日にはよきセックスが、という訳だ。
諸権力に逆らって語り、真実を述べ、快楽の享受を約束する。啓蒙と解放と増大する官能的快楽とを互いに結びつける。知の熱情と、掟を変えようという意志と、期待される逸楽の園とが一つに結ばれるような言説を語る──
己れの性について語りたいという欲求と、人がそこから期待する興味=利益が、聴取の様々な可能性を大幅にはみ出しているかの如く、ある人々に至っては、自分たちの耳を貸しに出している。
いかなる螺旋状の運動によって、我々は、性が否定されていることを肯定し、我々が性を隠していることを誇示し、性を沈黙させていると語るに至ったのか──
そして最後に第三の疑い、すなわち、抑圧に語りかける批判的言説は、それまでは異議をさしはさまれることなく機能してきた権力のメカニズムに交叉してその道をはばもうとするものなのか、それとも、その言説が「抑圧」と名付けて告発している(恐らくは変装させてもいる)ものと、同じ歴史的網の目に属しているのではないか。
これらの言説と、これらの権力作用と、そしてそれらによって取り込まれ用いられている快楽との繋がりはどういうものか。
すなわち、どのような形のもとに、どのような水路を辿り、どのような言説に沿って、権力というものが、最も細かくかつ最も個人的な行動の水脈にまで忍び込んでくるものか、どのような道筋が、権力をして、欲望の稀な形態あるいはほとんど知覚されないほどの形態までも捉えることを可能ならしめているのか、どのようにして権力が日常の快楽に浸透しそれを統制しているのか──こういうすべては、拒否や消去や資格剥奪という作用を伴って行われ得ると同時に、煽動でもあり強化でもある作用を伴ってなされることも可能なのであって、要するに「権力の多形的な技術」ということだ。
これら否定的なすべての要素──防禦、拒否、検閲、否認といったもの──それは、抑圧の仮説が、否定の表明を目的とする巨大な中心的メカニズムに取り集めたものだが、おそらくそれは、言説化や権力の技術や知への意志といった、今述べた否定的要素に還元することはできないようなものの内部で、演ずべき局地的かつ戦術上の役割をもっている部品にすぎないのだ。
性に対して働きかける権力の技術は、厳密な選別の原則には従わず、反対に、様々の多形的な性現象の分散と浸透の原則に従っていたこと、知への意志は、廃止してはならぬタブーを前に立ちどまりはせず、性現象の科学を成立させるのに熱中していた、という事実である。まさにこれらの運動こそ、私が、抑圧の仮説とそれが訴えかける禁止と排除の事象の言わば裏側を通って、目印としての価値のあるいくつかの歴史的事実から、図式的に、今出現させようとするものに他ならない。
十七世紀。それは抑圧の時代の始まりであり、ブルジョワ社会と呼ばれて、我々もまだ完全にはそこから脱却していない社会に固有の、抑圧の時代であると。セックスをはっきりその名で言うことは、この時代には一層難しく、一層高くつくものとなった。あたかも、性を現実において支配するには、まず言語のレベルでそれを切りつめ、言説内部でのその自由な循環を制御し、口に出して言われる事柄の中からそれを追放し、それを余りにも感覚的に現前させるような言葉を消すことが必要であったかの如くに。
口に出して言わないという態度は、執拗に押し黙った結果、他人にも沈黙を課するようになる。検閲である。
暗示と隠喩という一連の修辞を全面的に規則の体系として組織化するということも確かにあっただろう。慎ましさに関する新しい規則が言葉を選別したことは疑いようもない。言われることの管理である。
性についての言説は増殖することを止めなかった。十八世紀以来、このような言説の醗酵はその速度を増した。
その理由は、反宗教改革がすべてのカトリック教国において、年間の告白のリズムを早めることに腐心するからである。
思考、欲望、肉感的な想像力、悦楽、魂と肉体の結びついた運動、こういうすべてが、爾後は詳細にわたって、告白と精神指導のかけひきの中に入ってこなければならない。
しかしその様々な様相、その様々な相関関係、その作用といったものは、枝葉末節に至るまでことごとく追及されねばならぬ。夢想を横切るふとした影、追い払おうとしてもなかなか追い払えないイメージ、肉体の仕組みと精神の迎合的な働きとの間の捨て切れない共犯関係。すべてが言われなければならない。
強制的で注意深い言説が、肉体と魂の接合線を、その曲折のあらゆる点に沿って、追っていかなければならないわけだ。それは、罪という表面に、〈肉-欲〉の切れ目なき筋目を出現させる。性が直接的に呼ばれることがないようにと人々が細心の注意を払って洗練した言語という覆い=保証の下で、性は、もはや曖昧さも猶予も与えようとはしない一つの言説によって、あたかも追いつめられた獲物のように、引き受けられるのである。
キリスト教司教要綱は、基本的な義務として登録したのだ、性に関わるすべてのことを言葉の終わりなき水車にかけるという務めを。ある種の単語についての禁止、表現の慎ましい上品さ、語彙に関する検閲のすべて、こういったものは、この巨大な隷属の仕組みに比べれば、二次的な装置に過ぎないだろう。この隷属を精神的に受け入れられるものとし、それを技術的に有用なものとする手口である。
すべてを語ることだ、と精神指導に携わる者は繰り返す。「単に実行された行動だけではなく、官能を刺戟する触れ合い、すべての不純な目差し、すべての猥褻な言葉を……進んで受け入れてしまった想念のすべてを」と。
いずれにせよそれは、性の言説化の巨大なプロセスの内部で、一つの突発事故、一つの洗練、一つの戦術的裏返しに他ならないだろう。
おそらく、統御し、超越・離脱するという効果には違いないが、しかし同時に、精神の再回心の、神への逆戻りの効果であり、自分の体の中に誘惑の噛み跡と誘惑に抵抗する愛とを共に感じるという至福に満ちた苦悩の肉体的な作用である。
何よりもまず、性に言説を、それも多様な作用をもつ複雑な装置に従って、繋いだのであり、その装置の仕組みは、禁止する掟という関係に尽くされるようなものではない、ということだ。
性を「勘定につけ」る、性について、もはや道徳的なだけではなく、合理性的な言説を述べること、これは極めて新奇な要請であったので、初めのうちは、この要請自体が自らに驚き、自分のために言い訳を探し求めたほどなのだ。
人は性について、単に断罪されあるいは許容されるものとしてではなく、経営・管理すべきもの、有用性のシステムの中に挿入し、万人の最大の利益のために調整し、最適の条件で機能させるべきものとして語らねばならない。性は審判の対象となるだけではない、行政の対象なのだ。それは公共の力に属し、経営・管理の手続きを要求する。
政府は気が付いたのだ、相手は、単に臣下でも「民衆」ですらもなく、「人口」という形で捉えられた住民であって、そこにはそれ固有の特殊な現象と、固有の変数があると。出生率、罹病率、寿命、妊娠率、健康状態、病気の頻度、食事や住居の形がそれだ。すべてこれらの変数は、生に固有の運動と制度に特有の作用との交叉点に位置する。
今や分析しなければならないのだ、出生率や結婚年齢を、正当なあるいは不倫に基づく出生を、性的交渉の早熟さや頻度、それを多産にしたり不毛にしたりするやり方、独身生活や禁忌の作用、避妊法の影響──大革命前夜に、すでに農村部ではよく行われていたことを人口学者たちは知っていた、あれら名高い「不吉な秘密」の影響などを。
重商主義時代の大々的な人口増加論から、目的の緊急の要請に応じて産児奨励と産児制限の二つの方向に揺れ動く、より微妙でよりよく計算された調節の企てへと変わるのだ。住民人口の経済学を通じて、性に関する観察格子が作られる。
国家は、市民の性と市民の性の用い方の現状を知らねばならないが、市民のほうも各人が、性の用い方を自分でコントロールできなければならない。国家と個人の間で、性は一つの賭金=目的に、しかも公の賭金=目的になった。言説と知と分析と命令の大きな一つの網の目が、性を取り込むことになったのだ。
語らぬという態度自体も、自分から言うことを拒否するかあるいは言うなと命じられているかする事柄も、ある種の話し手の間で必要とされるに至る遠慮も、すべては、言説の絶対的な限界、つまり言説が厳密にそこから切り離されている向う側に属するよりは、むしろ、口に出して言われる事柄の傍で、それらと共に、そして全体の戦略の内部でそれら口に出して言われる事柄との関係において機能する要素なのだ。口に出して言うことと言わないことの間に、二項対立的分割を立てるべきではない。はっきり把えるように努めなければならないのは、それらを言わない様々なやり方であり、それについて語ることのできる人々とできない人々とがどのように配分されるのか、この両者にとって、どのような形の言説が許され、どのような形の遠慮が要求されるのか、である。ただ一通りの沈黙があるのではなく、複数の形の沈黙があるのであり、それは言説を下から支え、言説を貫通している戦略の必要不可欠の部分なのである。
一部でも権威を握っている者はすべて、不断の警戒態勢に置かれており、設備や必要な予防措置、刑罰と責任の絡み合いが、一刻たりとも疎かにすることを許さないのだ。
最後に人々は、大人たちの前で、言説と性の花飾りを巧みな知によって編み上げたこれらのまだ童顔の残る少年たちに喝采を送るのである。
反対にそれは、十八世紀以来、この問題について、言説の形態を細分化したのである。それは性のために、性の組み込まれる様々な設置点を確立した。
子供と思春期の少年の性は、十八世紀以来、重要な賭金=目的となったのであり、それをめぐって無数の制度的装置と言説の戦略とが張りめぐらされることとなった。
しかしそれは、別の言説が機能するための代償、いやおそらくは条件に他ならなかったのであり、そのような別の言説とは、多様で、錯綜し、微妙に階層構造に仕組まれ、しかもすべてが権力の関係の束を中心に強固に組み立てられたものなのだ。
それは性の周囲に言説を発散し、それが不断の危険という自覚を強化させるが、この自覚がまた性について語ることへの煽動を一層掻き立てるのである。
しかしそれは、おそらくは、知と権力の制度がこの日常の小劇場を己が荘重な言説で覆いつくしてしまうための一つの条件に他ならなかった。
至るところで、聴きとり、記録するための装置が、至るところで、観察し、問いかけ、文章化するための手続きが作られた。人々は性を狩り出し、否応なしに言説として存在することに追いつめるのだ。
我々はこの務めに固執している。
性について、最も無尽蔵かつ最も熱心な社会があるとしたら、それは我々の社会に違いない。
最近の数世紀の間に、この相対的な統一性が解体され、分散され、細分化されて、はっきり相異なる言説形態の爆発となり、それが人口統計学、生物学、医学、精神病理学、心理学、道徳、教育学、政治批判において形をとったのである。
むしろそこに見なければならないのは、これらの言説が成立する場の拡散であり、それらの形態の多様化であり、それらを結びつけている網の目の錯綜した展開なのである。
性の周囲に、多様でかつ特殊で強制的な、言説化の大きな網の目が張りめぐらされる。古典主義の時代によって押しつけられた言語的抑制に始まる広大な検閲だろうか。むしろそれは、言説への、調整された多形的な煽動なのである。
執拗に姿を見せるものとしてではなく、至るところで姿を隠すもの、それが低い声で、しばしば面を偽る声で語っている限り、人が聞きそびれるおそれのある、油断のならない陰険な存在としてである。
取るに足らぬ気紛れな行為のまわりに、道学者と、とりわけ医者とが、大袈裟な嫌悪の語彙を狩り集めた。こういうすべては、生殖に中心を定めた性行動のために、かくも多くの実りなき快楽を吸収するために仕組まれた様々な手段なのではないか。
性行動を分散化すること、その雑多な諸形態をそのようなものとして強化すること、「倒錯」を多様な形で樹立することがそれだ。我々の時代は、性行動における様々な異形性の秘儀伝授の時代であった。
結婚関係は桎梏の最も集中する中心であった。
その秘密を探り出すことはやめにするし、日々その実態を語ることを要求するのもやめにする。
彼の死は、侮辱と断罪の超自然的回帰が、反-自然の中への逃走と交叉する瞬間である。
十八世紀末から今世紀に至るまで、彼らは社会の隙間を走りまわっている。追及されてはいるがそれは必ずしも法によってではなく、しばしば監禁されるがしかし必ずしも監獄にではなく、おそらく病人ではあるがしかしスキャンダラスで危険な犠牲者であり、悪習とか時には犯罪という名を負う奇怪な病いの餌食となっているのだ。
しかし、教育ならびに治療学によって設定されたあれらすべての管理機関、監視方式を考えるならば、それは厳格さを補足する巧みな策略である。
それに反し、医学のほうは、夫婦の快楽に大挙して入り込んできた。医学は、「不完全な」性的行為から生ずべき器官的、機能的、あるいは頭脳的な疾病の病理学をそっくり発明した。附属的な快楽のあらゆる形態を注意深く分類し、それを本能の「発展」と「攪乱」へと併合した。
少年期の性的欲望の統制は、その統制の権力そのものとこの権力が統制の対象とするものとの同時的伝播を通じて、目標に達しようとする。そのやり方は、無限に延長された二重の増殖に従っているのだ。
現実には、大人の世界を少年の性のまわりに動員したこの一世紀にわたるキャンペーンを通じて、問題は、これらの微かな快楽を足場にすること、それを秘密として設定すること、その脈絡を遡り、源泉から作用までそれを追い求め、それを誘発するか少なくとも可能にするようなすべてを狩り出すことであった。これらの快楽が現れるような所にはすべて、監視の装置を設定し、あくまでも告白されるような罠をしつらえ、際限のない矯正的言説を課した。
家族の空間に、医学的・性的な一大体制の拠点を根づかせたのである。少年の「悪習」は、敵というよりは支えである。確かにそれを、消滅させるべき悪として名指すことはできる。必然的な挫折と、このようなかなり空しい努力に極端に固執する態度そのものが、人はこの悪習に、永久に消え去るよりは、むしろ存続することを、可視と不可視の境界で増殖することを求めているのではないかという疑いを抱かしめる。この支えに沿って、権力は、己が中継地と己が作用とを前進さえ、増大させるが、その間に、権力の標的は拡がり、幾つにも分かれ、枝状に細分化して、現実の中に権力と並んで侵入していく。外見上は堰き止めるための装置のように見える。が、実際には、少年の囲りに無限の侵入ラインをしつらえたのである。
彼が総体としてそうであるところのいかなるものも、彼の性的欲望から離れることはない。彼の内部の至るところに、彼の性的欲望は現前している。それは彼のあらゆる行動の内部に隠れている。
それはまた、彼の顔や体に恥かし気もなく書き込まれている、何故なら、それはあらゆる機会に自らを露呈してしまう一つの秘密なのだから。それは彼の基質と分かち難く結びついていて、習慣上の罪というよりは、異形な本性なのだ。
権力の仕組みは、それを身体の内部に侵入させ、行動の表面下にしのび込ませ、それを分類と理解可能性の原理とし、無秩序の存在理由であり自然的秩序であるものとして成立させる。
これら無数の性的欲望を、分散させつつ、現実の中に撒き散らし、個人の内部に組み込むことなのである。
それはまた、身体的なアプローチや濃密な感覚の遊戯を内包する。性的異形性の医学化は、こういうすべての結果=作用であると同時にその道具でもあるのだ。身体の内部に深く入り込み、個人の根深い性格となったこれら性の奇怪な姿は、健康と病理学的異常のテクノロジーに属する。そして今度は、それが医学的かつ医学化可能なものとなるや、反対にそれを、傷害あるいは機能障害、症候として、器官の奥底に、皮膚の表面に、あるいは行動のあらゆる徴の中につかまえにいかねばならなくなるのだ。
このようにして性現象を引き受ける権力は、身体に触れる用意をする。身体を目で愛撫し、その部位を強化し、表面を帯電させ、妖しげな瞬間を劇的に仕組む。権力は性的身体を両腕でしっかりつかまえるのだ。
告白の密度は、質問者の好奇心を一層かき立てる。発見された快楽は、そのありかを限定し包囲した権力のほうへと逆流する。しかしこれほど多くの執拗な質問は、答えねばならない者において、彼が覚える快楽を特殊なものに仕立てる。視線がそのような快楽を凝視し、注意がそれを孤立させ、掻き立てる。権力は召集のメカニズムのようにして働き、それが監視しているこれら異常なるものを引きつけ、引き出すのである。快楽は、自分を狩り出してきた権力の上に拡がり、権力は今狩り出したばかりの快楽をしっかりと繋ぎとめる。
質問し、監視し、様子を窺い、観察し、下までまさぐり、明るみに出す、そういう働きをする一つの権力を行使する快楽である。そして他方には、このような権力をくぐり抜け、その手を逃れ、それをたぶらかし、あるいはそれを変装させなければならないが故に興奮するという快楽がある。
自らが追い回している快楽によって侵入されることを諾う権力と、そしてそれに対峙するようにして、自らを誇示し、相手の眉をひそめさせ、あるいは抵抗するという快楽の中に自らを主張する権力がある。籠絡と誘惑であり、対決と相互的補強である。
これらの呼びかけ、これらの逃げ、これらの循環的煽動は、性器と身体のまわりに、越えるべからざる境界をではなく、権力と快楽の無限に繰り返される螺旋を張りめぐらしたのである。
同じようにしてこう言うこともできるだろう、それは、多様な要素をもち、現に通用している性行動に基づく集団を、発明したのではないにせよ、しつらえ、増殖させた、と。上下関係あるいは対決関係にあるものとして、権力の作動する点を分配するのである。「追跡される」快楽──すなわち欲望されると同時に追いまわされている快楽、許容されあるいは奨励される細分化された様々の性行動、監視の仕組みとして与えられ、しかも強化のメカニズムとして作動する隣接的存在、誘発的な接触などがそれだ。
十九世紀の家族は、一夫一婦制の夫婦を中心とした社会の細胞=最小単位であろうか。ある点までは、おそらくそうだ。しかし家族はまた、多種多様な点と変形可能な関係とに機能的に結びつけられた〈権力である快楽〉の網の目でもあるのだ。
十九世紀の「ブルジョワ」社会、それは今なお我々の住む社会であろうが、それは性的倒錯が炸裂してあからさまになると同時に分裂・解体もした社会である。
この権力は、まさに、法の形も禁忌の作用ももっていない。反対にそれは、異形な性的欲望の細分化によって事を進める。それは性的欲望というものの境界を定めはしない。その多様な形態を延長し、それらを無限に侵入する侵入線に従って追跡するのである。性的欲望を排除するのではなく、個人の特殊化のありようとして、身体の内に包含させるのだ。権力はそれを避けようとはしない。快楽と権力とが相互に補強し合う螺旋構造によって、その様々な変種をひきつける。防壁を作るのではなく、最大飽和状態の場をしつらえるのだ。
これらの多形的な行動は、現実に人間の身体と彼らの快楽から引き出されたものだ。というか、それらは人間たちの身体や快楽において確実なものとされたのだ。権力の多様な装置によって呼び出され、白日のもとに発き出され、強化され、組み込まれたのである。
それは、ある種の型値の権力が身体ならびに身体の快楽に干渉することで生じた現実的産物である。
性倒錯の樹立は〈道具である作用〉なのだ。まさに周縁的な性的欲望の切り離し、その濃密化ならびに強化によって、性と快楽に対する権力の関係は細分化し、多様化し、身体の上を歩きまわり、行動の内部に侵入する。そしてこのような権力の突出部に、散乱し、特定の年齢や場所や好みや行為のタイプに標本をピンで留めるようにして固定された性的欲望が、定着するのである。権力の拡大による性的欲望の増殖であり、これら特定領域の性的欲望の一つ一つが介入の界面を提出している権力というものの増加である。
この連鎖は、特に十九世紀以降、無数の経済的利益により保証され中継されているが、その経済的利益は、医学や精神病理学、売春やポルノグラフィーのお蔭で、このような快楽の分析的細分化と、それを統制する権力のこのような増加とに、同時に連結されてきたのだ。快楽と権力は互いに互いを否定しない。両者は相反目することがないのだ。互いに互いを追い回し、互いに馬乗りになって走り、更に遠くへと互いに相手を投げ送る。両者は、煽情と教唆の複雑で積極的なメカニズムに従って連鎖を構成するのである。
かつてこれ以上に多くの権力の中心があったことは例がない。かつてこれ以上に多くあからさまで多弁な注意も、これ以上に多くの循環的触れ合いや繋がりも、例がなかった。例がなかったのだ、これ以上に多くの火の中心があって、そこでは、更に先へ行って広く散乱するために、快楽の強度と権力の執拗さとが互いの焔を掻き立てているという現象は。
こうして、性は、次第次第に、大きな疑惑の対象となっていった。我々の意志に反して我々の行動と実存を貫いている、すべてに関わる、不気味な意味である。そこを介して悪の脅威が我々に訪れる弱点である。我々の一人一人が自己の裡に持っている夜の断片なのである。すべてに関わる意味、普遍的な秘密、偏在する原因、絶えることなき恐怖である。
ますますその輪を狭めていく円環に沿って、主体の学の企てが、性の問題の周囲を回転し始めたのだ。
反宗教改革期のカトリック教においてあれほど頻繁に見られた憑依や忘我・入神の現象は、おそらく、肉慾に関するこの精緻にして微妙な学に本質的に内在する性愛的技術から溢れ出した、統御不可能な現象でもあったのであろう。
考慮に入れねばならぬのは、言説の、しかも権力の要請のなかに入念に組み込まれた言説の増殖である。多様な性的異形性の固定化と、それを孤立させるばかりではなく、それを呼び出し、惹き起こし、注意と言説と快楽の中心としてそれを成立させることが可能な装置の成立である。
排除の拒絶の否定的メカニズムの点火であるよりは、遥かに、言説と知と快楽と権力からなる一つの複雑・微妙な網の目に火を点け作動させることである。野性の無秩序な性を、何か暗く手の届かぬ地帯へと是が非でも排除し追いやるという運動ではなくて、反対に、そのような性を、事物と身体の表面へと分散させ、それを刺戟し、それを顕現し、それに語らせ、それを現実の世界に樹立し、それに真理を語れと命ずるプロセスなのだ。
言説の多様性、権力の執拗さ、知が快楽とする戯れ、これらが、はっきりと目に見えるきらめきとして写し出す、性的なるもののことごとくがそれである。
これらいくつかの燐光のきらめきの彼方に、常に否を言う暗い掟を再び見出ださなくてよいのであろうか。
あたかも我々が、性という我々のこの小さな断片から、単に快楽だけではなく、知と、そしてこの両者の間を往復する微妙なゲームのことごとくを引き出し得ることが最も重要であるかの如くにである。
また、性のほうも我々に我々の真実を語ってくれねばならぬ、というのも我々の真実を闇の中で握っているのは性なのだから。隠されているのか、性は? 新しい羞恥心によって隠され、ブルジョワ社会の陰気な要請により底の底にしまい込まれているのか。反対である、白熱している。
権力が何かを産み出すとしたら、それは不在と欠如だけである。権力は様々な要素を除去し、様々な不連続性を導入し、結びついていたものを切り離し、境界を隠す。
上から下へ、総合的決定においても毛細管的末端の介入においても、権力が支えを見出だす機関あるいは制度がどのようなものであっっても、権力は一様な一塊りものもとして働きかけるだろう。
十八世紀フランスにおいてなされた王政制度に対する批判は、法律的-王政的な体制に対してなされたのではなく、すべての権力メカニズムも行き過ぎにもならず不規則にも陥らずに流し込まれ得るような純粋で厳密な法律的体制の名において、絶えずその主張にもかかわらず法律的権利からはみ出し、法を越えたところに自らを置いていた王政に反対してなされたのだ。
絶えざる闘争に衝突によって、それらを変形し、強化し、逆転させる勝負=ゲームである。これらの力関係が互いの中に見出だす支えであって、連鎖ないしはシステムを形成するもの、あるいは逆に、そのような力関係を相互に切り離す働きをするずれや矛盾である。更に言うなら、それらの力関係が効力を発揮する戦略であり、その全般的構図ないし制度的結晶が、国家の機関、法の明文化、社会的支配権において実体化されるような戦略である。
権力が可能になる条件、というか少なくとも権力の行使をその最も「周縁的な」作用に至るまで理解し得るものとする視座であり、それはまた、〈社会的な場〉を理解可能にする読解格子として権力のメカニズムを用いることを許す視座だが、このような条件あるいは視座は、最初に存在するものとしての中心点に、つまり派生して下へと降る諸形態がそこから拡がるはずの主権の唯一の中枢に求められるべきではない。
そして通常言われる権力とは、その恒常的かつ反覆的な、無気力かつ自己生産的な側面において、これらすべての可動性から描き出される全体的作用にすぎず、これら可動性の一つ一つに支えを見出だし、そこから翻ってそれらを固定しようとはかる連鎖にすぎないのだ。
おそらく、戦争と政治の間で隔たりを相変わらず保有しようとするならば、むしろこの多種多様な力関係は──部分的にであって決して全体としてではないが──あるいは「戦争」の形で、あるいは「政治」の形でコード化され得るのだと主張しなければなるまい。これこそ、これら不均衡で異質の、不安定で緊張した力関係を統合するための、相異なるが、しかし一方から他方へとたちまち雪崩込むような二つの戦略のはずである。
権力は、無数の点を出発点として、不平等かつ可動的な勝負の中で行使されるのだということ。
すなわち生産の機関、家族、局限された集団、諸制度の中で形成され作動する多様な力関係は、社会体の総体を貫く断層の広大な効果に対して支えとなっているのだと。このような効果が、そこで、局地的対決を貫き、それを結びつける全般的な力線を形作る。もちろん、その代わりに、これら断層の効果は、局地的対決に働きかけて、再配分し、列に整え、均質化し、系の調整をし、収斂させる。
しかしそれは、抵抗が単なる反動力、窪んだ印にすぎず、本質的な支配に対して、常に受動的で、際限のない挫折へと定められた裏側を構成するのだ、ということを意味しはしない。
それ故、抵抗のほうもまた、不規則な仕方で配分されている。抵抗の点、その節目、その中心は、時間と空間の中に、程度の差はあれ、強度をもって散らばされており、時として、集団あるいは個人を決定的な形で調教し、身体のある部分、生のある瞬間、行動のある形に火をつけるのだ。
しかし、最も頻繁に出会うのは、可動的かつ過渡的な抵抗点であり、それは社会の内部に、移動する断層を作り出し、統一体を破壊し、再編成をうながし、個人そのものに溝を掘り、切り刻み、形を作り直し、個人の中に、その身体とその魂の内部に、それ以上は切りつめることのできない領域を定める。権力の関係の網の目が、機関と制度を貫く厚い織物を最終的に形成しつつ、しかも厳密にそれらの中に局限されることはないのと同じようにして、群をなす抵抗点の出現も社会的成層と個人的な単位とを貫通するのである。
どのようにして、これら権力の関係は、その行使そのものによって変更されるに至るのか──関係内部のある種の項の強化と他の項の弱体化、あるいは抵抗の作用や反対の力の備給であって、その結果、決定的に安定した隷属の型というのは存在しないことになる。
大雑把に言えばこうである、すなわち、巨大な《権力》という唯一の形態へと、性に対して働くすべての極小的暴力を、性に対して人が抱くすべての乱れた目差しを、性についての可能な認識を抹殺するすべてのマスク(不透明紙)を結びつけるというよりは、性についての言説の夥しい産出を、多様かつ流動的な権力関係の場に沈めてみることだ。
同様にして、子供の身体というものが、その揺籃において、そのベッドあるいは寝室において、輪舞の如く次から次へと現われる人々、すなわち両親、乳母、召使、教育者、医師によって監視され、取り囲まれて──彼らはすべて、子供の性のどんな取るに足らぬ発現にも注意深い連中だ──特に十八世紀以降、〈知である権力〉のもう一つの「局地的中枢」を形成したのである。
「権力の分配」とか「知の獲得」とかが表現するのは、結局のところ、最も強い要素の集中的強化とか、関係の逆転、あるいは両項の同時的増大といったプロセスについての、ある瞬間における切断面以外の何物でもない。
十九世紀に、父と母と教育者と医師が、子供とその性の周囲に構成する全体は、絶えざる変更と不断の移動によって貫かれており、その最も花々しい結果の一つは、奇妙な逆転の光景なのであった。
むしろ想定しなければならないのは二重の条件づけであり、それは、可能な戦術の特殊性による戦略の条件づけと、そのような戦術を機能せしめる戦略的覆いによるこれらの戦術の条件づけである。
またまさにこの理由によって、言説というものを、一連の非連続的断片として、その戦術的な機能が一様でも一定でもないものとして構想しなければならない。
言説は権力を強化するが、しかしまたそれを内側から蝕み、危険にさらし、脆弱化し、その行手を妨げることを可能にする。同様に、沈黙と秘密は権力を危険から守り、その禁忌を根づかせる。
それはむしろ、権力の関係にとって極めて密度の高い一つの通過点として立ち現われる。男と女の間で、若者と老人の間で、親たちと子供の間で、教育者と生徒の間で、司祭と俗人の間で、行政機関と住民の間で、である。権力の関係にあっては、性的欲望は最も内にこもった要素ではなく、むしろ、道具となる可能性の最も大きい要素の一つだ。極めて多くの作戦に用いることができるし、極めて多様な戦略の拠点、連結点となり得るからだ。
子供は、「始まりの」性的存在として定義されており、性の手前にいると同時にすでに性の中心にいて、危険な分割点に身を置いているというわけだ。両親、家族、教育者、医師、やがて心理学者は、この貴重で危うい、危険かつ危険にさらされている性的な芽を、絶えず引き受けなければならないのだ。
性的欲望とは、権力が挫こうとする一種の自然的与件として、あるいは知が徐々に露呈させようとする暗い領分として想定すべきものではない。
後者にとっては、身体の感覚、快楽の質であり、いかに微かで捉え難いものであっても、それらの刻印の性質である。
性的欲望の装置の存在理由は、生殖=再生産することではなく、増殖すること、いよいよ精密なやり方で、身体を刷新し、併合し、発明し、貫いていくこと、そして、住民をますます統括的な形で管理していくことにある。
告解と、次いで良心の検証なりびに精神指導の実践が、その形成上の核であった。
関係の問題系から、「肉欲」の問題系へと移った、すなわち、身体や、感覚、快楽の性質、情慾の最も微かな運動、悦楽と同意の微妙な形態といったものの問題系へと移っていったのである。
家族は、婚姻に与えられた特権と同質ではない性的欲望の産出を保証するが、同時に、婚姻のシステムが、それまでは知らずにいた一連の新しい権力技術によって貫かれることを可能にしていく。家族は性的欲望と婚姻=結合の交換器である。
それは絶えず要請され、しかも絶えず拒絶されており、強迫観念と呼び掛けとの対象であり、恐れられている秘密であると同時に不可欠な継ぎ手である。
その家族とは、かつて婚姻の装置においてそれが果していた古い機能に対しては、再構成され、おそらくしめつけられ、明らかに濃密化された家族である。
家族とは、性的欲望の装置の内部におかれた水晶である。それは性的欲望を広めているように見えるが、実は、それを反射し、回折させているのである。その透過性と、外界へのこのような送り返すの作用によって、家族はこの装置にとって最も貴重な戦術的要素の一つなのだ。
精神分析と共に、性的欲望のほうが、婚姻の規則に、それを欲望で充満させつつ、身体と生を与えるのだ。
むしろそれは、経済の管理された回路において性を多様に通過させることによって果される。
これらの措置の年代を追ってみなければならない。つまり新しい方法の発明、道具の面での決定的変化、残留磁気とも言うべき影響などについてだ。
このような手続きすべての内部で、制限や羞恥心や逃げや沈黙の部分を切り離して、それらを、あるいは抑圧あるいは死の本能といった、何か本性上の禁忌に照合してみるというやり方はよそう。
十八世紀に支配権を握るこの階級は、生殖だけを目的にしなくなるやたちまち無用かつ浪費的で危険なものとなる性というものを、自己の身体から切断しなければならないと考えるどころか、反対に、自らに一つの身体を与えたのだ、陶冶し、守り、養い、あらゆる危険やあらゆる接触から保護すべき身体、その固有の差異という価値を守り通すためには他の身体から切り離すべき身体というものをである。そしてそれを果したのは、様々な手段のうちでもとりわけ性のテクノロジーを、自らに賦与することによってなのであった。
それは、性的欲望を婚姻のシステムの上に重ねて留めるメカニズムである。それは、病的変質の理論に対しては正反対の立場に立つ。
死なせるか生きるままにしておくという古い権利に代わって、生きさせるか死の中へ廃棄するという権力が現われた、と言ってもよい。
それは、生に対して行使される権力の境界にあって、その間隙にあって、死ぬことに対する個人的で私的な権利を出現させたのだ。
西洋的人間は次第次第に学ぶのだ、生きている世界の中で生きている種であるとは如何なることか、身体をもつとは、存在の条件を、生の確率を、個人的・集団的健康を、変更可能な力を、その力を最も適した形で配分し得る空間をもつとは、如何なることであるのかを。
それは、性が、〈生に基づく政治的テクノロジー〉のことごとくが発展を見た二つの軸の繋ぎ目に位するからである。
性は同時に二つの領分に組み込まれるのだ。それは無限に細かい監視と、あらゆる瞬間における管理統制と、細心の空間的配備と、無際限の医学的・心理学的検査と、身体に対する一連の〈微小権力〉とを引き起こす。
飢饉と疫病と暴力とが死を切迫したものにしている社会にとって、血は本質的な価値の一つをなしている。
血は快楽の間じゅう流れ続ける──
万能なる怪物性の無際限な権利である。血が性を吸収してしまったのだ。
身体というものを、それを知覚したやり方とか、それに意味と価値を与えた方法とかを介してのみ取り上げる類の「思考様式の歴史」ではなく、「具体的な身体の歴史」であり、具体的な身体において最も物質的で、最も生き物であるものを資本として用いるそのやり方についての歴史である。
しかしまた、それだけで女の身体を構成し、女の身体の全てを生殖の機能に結びつけ、そしてまさにこの機能の作用によって絶えず女の身体を掻き乱すものとしても定義された。
幼少年期の子供を性的活動に組み込むことによって、人々は、現前と不在の、隠れたものと顕現しているものとの本質的な戯れ=働きによって特徴づけられている性という考えを作り上げたのだ。
次いで性は、統一的に、解剖学的現実でありかつ欠如、機能でありかつ潜在性、本能でありかつ意味として自らを提示したから、人間の性的欲望に関する知と生殖に関する生物科学との間の接線を記すことができた。
性という自律的な決定機関があって、それが権力との接触面において性的欲望という多様な作用を二次的に産み出すのだ、と想像してはならない。性は反対に、性的欲望の装置の中で最も思弁的かつ最も観念的で、最も内面的ですらもある要素なのであり、そのような性的欲望を、権力が、身体や身体の物質的現実、身体の力やエネルギー、身体の感覚や快楽に対するその掌握・支配の中で組織していくのである。
そして、性的欲望の装置が権力の技術に、生を取り込んで用いることを可能にしている間に、この装置自体が印した性という虚構の点は、人々に極めて強い幻惑を及ぼしているので、そこに人々は、死の不気味な蠢きを聞くことを受け入れているほどなのである。
まさにこの欲望可能性が、我々をして、我々はあらゆる権力に逆らって我々の性の権利を主張しているのだと信じさせているものであるが、しかし事実は、我々を性的欲望の装置に結びつけているのであり、この装置=仕組みが、我々の深層から、我々が自分自身の姿をそこに認めると信じている一つの幻影のようにして、性の黒々しい輝きを立ち昇らせてきたのである。
しかし盲目であるように見える人々は、おそらく、それを主張した人々であるよりは、あたかもこの非難が単に古き羞恥心の恐怖であるかのように、手軽にそれを退けた人々のほうである。というのも、前者は結局のところ、すでに久しい以前から始まっていて、ただそれが自分たちのまわりを囲み尽くしていることに気付かなかったそういうプロセスに不意を打たれただけなのであるから。