resume : ドゥルーズ+ガタリ「被知覚態、変様態〔affect〕、そして概念」
- カンバスに描かれた若者の微笑は、カンバスが持続するかぎり、やむことがないだろう。女のようなこの顔の皮膚のしたで血が脈打つように流れ、そして風が枝を揺すり、支度をおえた一群の男たちがいま出発しようとしている。
小説のなかで、あるいは映画のなかで、若者は微笑をやめるかもしれないが、しかるべき頁をめくれば、あるいはしかるべき場面を見れば、また微笑みだすだろう。
- 芸術とは何かを保存するものであり、しかも保存されるこの世で唯一のものである。芸術は、事実上は、石、カンバス、化学塗料などの支持材やマテリアルよりも長くは持続しないにせよ、しかし、それ自体において保存しかつ保存されるものである。
- 芸術による保存、それはもちろん、工業生産が物を持続させる仕方とは別のものだ。
- 少女は、彼女が五千年前にとったポーズをいまも維持している。ということは、少女がいましている身ぶりは、その身ぶりをしてみせたときの少女にはもはや左右されないということだ。
画面のなかの空気は、それが去年の或る日に保持した乱れ、そよぎ、光をいまも維持しているが、その日の朝にその空気を吸った者にはもはや左右されることがない。
- 芸術は「モデル」から独立する。しかも絵画のなかに描かれた人物からも独立する。それにおとらず、芸術は、現にいる観衆や聴衆からも独立している。彼らは、体験する力があるにしても、事後的に体験するだけであるから。では、創作者からはどうか。芸術は、それ自体において保存される創造物の自己定立によって、創作者からも独立している。
- 保存される物、つまり芸術作品は、諸感覚のブロック、すなわち被知覚態と情動(変様態 affect)の合成態である。
被知覚態はは、もはや知覚ではない。被知覚態は、それを体験する者の状態から独立している。情動は、もはや情緒あるいは感情ではない。情動は、それを経験する者の能力をはみだしている。感覚、すなわち被知覚態と情動は、それ自身で妥当性をもつ存在であり、あらゆる体験を超え出ている。それは主観としての人間の不在において存在すると言ってもよいだろう。
芸術作品は、或る感覚存在であり、他の何ものでもない。すなわち、芸術作品は即自的に存在するということだ。
- 協和していようと不協和だろうと、和音は音楽的情動である。色の調和は絵画的情動である。
芸術家が創造するのは被知覚態と情動(変様態 affect)のブロックなのだが、ただし、そのような合成態は自分ひとりで持ちこたえなければならないという唯一の創造条件がある。芸術家がそうした合成態を自分ひとりで立って持ちこたえるようにさせること、これがもっとも難しい問題である。そのためには往々にして、その作品の「モデル」から見れば、また普通の人々によって体験される知覚と感情から見れば、幾何学的にありそうにもないこと、物理的は不完全であること、器質的には異常であることが多く必要になるのだが、しかしそれら崇高な誤謬は、立って(あるいは坐って、あるいは寝て)持ちこたえるための内的な手段である以上、芸術の必然性に通じているのである。物理的な可能性とは何の関係もない絵画的な可能性が存在するのであって、それが、このうえなくアクロバティックな姿勢に、安定する能力を付与するのである。
それに反して、かくも多くの作品が、芸術たらんと欲しながら一瞬のあいだも立って持ちこたえることがない。
- 短音階が音楽家に突きつけている挑戦は、短音階を、アクロバティックな位置のなかでさえ、堅固で持続可能なものに、自己保存的なものにするために、短音階をその移ろいやすいコンビネーションから引き離せるかということにある。それだけに、短音階は、音楽においてますます本質的な試煉なのである。音は、その発生と展開においてはもちろん、その消滅においても保持されなければならないのだ。
- つぎのような問題がある。麻薬は、芸術家がそれらの感覚存在を創造する手助けとなるのかどうか、麻薬は、内的な手段の一部であるのかどうか、麻薬は、わたしたちを実際に「知覚のドア」に連れていってくれるのかどうか、麻薬は、わたしたちを被知覚態と情動のもとに届けてくれるのかどうか、という問題である。そのような問題は、麻薬の影響下でつくられた合成態がほとんどすべての場合異常にもろく、おのれ自身を保存することができず、できあがるそばからまた見ているそばから壊れだす以上、すでに一般的な答えが出ている。
- 被知覚態としての感覚は、ひとつの対象(指示対象)を指し示すような知覚ではない。
カンバスに描かれた微笑、それはたしかにマテリアルのなかに実現されている。それは油の微笑であり、カンバスの地塗りであり、筆の毛先の跡であり、光と影である。だがそれでもなお、感覚そのものは、少なくとも権利上は、マテリアルと同じものではない。マテリアルはたんに事実上の条件をなすにすぎない。それ自体において保存されるものは、被知覚態もしくは情動である。たとえマテリアルが二、三秒しか持続しなくても、その短い持続とともに共存する永続性のなかで、存在し、それ自体において保存される能力を、マテリアルは感覚に与えるのである。つまり、知覚がマテリアルに(科学的に)依拠するということを超えて、マテリアルが全面的に感覚のなかに、すなわち被知覚態あるいは情動のなかに移るということが起り得るのだ。材料全体が表現的になるということ。メタリックであったり、結晶質であったり、石状等々であったりするのが、まさに情動であるということ。アルトーの言葉(ゴッホ論)を引こう。画家が「わたしたちの目の前に、そして固定されたカンバスの前に到来させる」ものは、モデルの模写物ではなく、「ねじ曲げられた花の、斬りつけられ、切り傷をつけられ、圧しつぶされた風景の」──「絵画の水を自然に」返す──純然たる感覚である。
- マテリアルの諸手段によって芸術が目ざしているのは、対象知覚からそして知覚主体の諸状態から、被知覚態を引き離すことであり、或る体験から別の体験への移行としての感情(変様)から、情動(変様態)を引き離すことである。諸感覚のブロックを、純然たる存在感覚を、抽出すること。そのために必要になるのは、作者ごとに異なり、しかも作品の一部をなす方法=スタイルである。
小説家に特有のマテリアルは、語であり、統辞法である。彼の作品のなかに抑えがたく浮上して感覚のなかに移る創造された統辞法である。体験された知覚の外に出るためには、たんに、古い諸知覚を呼び起こすような記憶にたよっても明らかに不十分であり、現実=現在を過去とダブらせる非意志的な記憶にたよっても、まだ不十分である。
断言するが、記憶というものは、芸術にはほとんど介入してこない(プルーストにおいてさえ、そしてプルーストにおいてはとくにそうである)。
あらゆる芸術作品は、過去の保存ではなく、現前する現在の諸感覚のブロックなのであり、この諸感覚は、おのれ自身の保存をおのれ自身だけに負い、出来事に、それを祝福する合成態を与えるのである。
創作の行為とは、記憶することではなく、虚構することである。作家は、こども時代の思い出によって書くのではなく、現在の〈こどもへの-生成〉としての様々な〈こども時代のブロック〉によって書く。そこで必要になるのは記憶ではない。記憶のなかにではなく、語のなかに、音のなかに見いだされる複合的なマテリアルが必要になるのだ。
- そして方法が、芸術ごとに、さらには作家ごとに異なるとはいえ、それにもかかわらず芸術作品の大きな類型の特徴を、あるいは感覚合成態の特徴を、次のように示すことができる。
まず、振動。──単一の感覚の場合。
つぎに、密着あるいは接し合い。──二つの感覚が緊密に公接しながら、互いに他方のなかで共振する。
さらに、後退、分割、膨張。──この場合、二つの感覚は互いに離れ、ゆるんで開くのだが、それら二つの感覚は、それらのあいだに、あるいはそれらのなかに、楔として打ち込まれる光、空気、あるいは空白によるのでなければ、もはやふたたび結びつけられることはなく、しかもこの楔は、あまりに密度が高くあまりに軽いので、二つの感覚が離れれば離れるほどあらゆる方向に拡大し、もはやいかなる支えも必要としないひとつのブロックを形成する。
感覚を振動させること → 感覚をカップリングすること → 感覚を切り開き、あるいは切り裂き、えぐること。たとえば彫刻は、以上のような類型をほとんど純粋な状態で提示してくれる──強拍と弱拍の順序で、凹凸の順序で振動する石感覚、大理石感覚、あるいは金属感覚によって、また、それらを絡み合わせる強力な接し合いによって、さらにひとつのグループと他のグループのあいだの、かつ同じひとつのグループの内部の、大きな空白の調整によって。そのとき、彫るのは、あるいは彫られるのは、光であるのか否か、空気であるのか否か、もはやわからなくなっている。
- 小説はしばしば被知覚態に達している。
たとえばトマス・ハーディにおける、荒野の知覚ではなく、被知覚態としての荒野。
メルヴィルの海洋の被知覚態。
ヴァージニア・ウルフにおける都市の被知覚態、あるいは鏡の被知覚態。
ドストエフスキーの描くペテルブルグの酷暑の被知覚態。
風景を見るのではない。風景が見るのだ。
一般的に言って、作家が、或る日の時間を、或る瞬間の温度を、それ自体において保存するそれらの感覚存在(たとえば、フォークナーの丘、トルストイのステップ地帯、あるいはチェーホフのそれ)を創造することができなかったとするなら、どうして彼は偉大な作家だと言われえようか。
被知覚態、それは、人間の不在における、人間以前の風景である。
……とはいえ、小説の中の風景は、「登場人物」によって知覚され体験されるものではないか? ということは、そもそもそれは作者の知覚と想起から独立したものではありえないのではないか? 人間以前の風景──そんな風に言い切ってしまってよいものだろうか?
この疑問に対する答えはこうだ。登場人物が存在することができ、作者が登場人物を創造することができるのは、登場人物は風景のなかで知覚せずに、風景のなかに移ってしまい、それ自身が感覚合成態の一部になっている、ということだけを理由にしている。
海の知覚を有しているのはもちろんエイハブであるが、しかし彼がその知覚を有しているのは、かれがモービー・ディックとの関係のなかに移ってしまい、この関係が彼をして〈鯨への-生成〉たらしめ、こうして、もはや人称を必要としないひとつの〈諸感覚の合成態〉つまり《海洋》を形成する、という理由だけにもとづいている。都市を知覚するのはダロウェイ夫人であるが、その理由は、彼女が、「すべての事物を通過するひとつのナイフ」として、都市のなかに移ってしまい、彼女自身は知覚されえないものに生成するということにある。(都市をも含めて)被知覚態が自然の非人間的な風景であるとすれば、情動はまさしく、人間の非人間的な〔人間ではないものへの〕生成である。
ひとは世界内に存在するのではない、ひとは世界とともに生成する、ひとは世界を観照しながら生成する。いっさいは、ヴィジョンであり、生成である。ひとは宇宙へと生成する。動物への、植物への、分子への、ゼロへの生成。
- 体験された知覚から被知覚態へ、体験された感情から情動へ高まるためには、そのつどスタイルが──小説家の統辞法、音楽家の音階とリズム、画家の描線と色が──必要になる。
- ここで小説という芸術をとくに強調するのは、それが或る誤解の源泉になっているからである。多くのひとがこう考えている。すなわち、作家は、自分の知覚と感情を、自分の思い出と昔の記録を、自分の旅行と幻想を、自分のこどもと親を、自分が出会うことのできた興味深い人物を用い、さらにとりわけ自分自身が当然そうである興味深い人物(そうでない人物などいるのだろうか?)を用い、そして最後に自分のオピニオンを用いて、全体を緊密にまとめあげ、小説をひとつ仕立てあげることができるのだと、こう考えている。そうやって結局のところひとは、自分自身のなかにしか見つからない永遠のファミリー・ロマンスを求めているのだ──ジャーナリストの小説。実体験とのあいまいな関係を維持しつづける、残酷で哀れっぽい、愚痴っぽくて満足げな、文学。
そんな考えから、たとえばヘンリー・ミラーのような、自分の人生を語ることしかしなかったような大作家がひっきりなしに引き合いに出される。
- ひとはたしかに、観察の大いなるセンスと多くの想像力を持つことができるだろう。だが想起をいくら増幅してみても、幻想をもちだしても、創造的虚構はそんなものとまったく関係がない。事実、芸術家は、小説家も含めて、体験の知覚的状態や感情的変動を遥かにはみだしてる。芸術家は、見者であり、生成者である。彼は、生に、何かあまりにも大きいもの、またあまりに耐え難いものを、そして、生を脅かすものとその生との密着を見てとってしまい、したがって、彼が知覚する自然の片隅、あるいは都市の街区とそこにいる人物たちは、それらを通してあの生の、あの瞬間の被知覚態を合成するひとつのヴィジョンに達しており、もはやそれ自身以外の対象も主体ももたない、一種のキュビスム、なまの光あるいは黄昏、緋あるいは青のなかで、このヴィジョンが、体験された知覚を炸裂させるのである。……生が囚われの生であるまさにそのときに生を解放すること、もしくは或る不確定の戦闘のなかでそれを試みること、これがつねに問題なのである。
- 小説家的行為が創造する被知覚態は、望遠鏡的または顕微鏡的なものだと言ってよい。あたかも、どのような生きられた(体験された)知覚によっても手が届かない或る生が、人物と風景とを満たしてふくらませるように、被知覚態は、風景と人物に、巨人的な諸次元を与える。バルザックの偉大さ。小説に登場する人物たちが凡庸であるのか否か、ということはどうでもいい。ブヴァールとペキュシェ、ブルームとモリー、メルシエとカミエのように、小説家が創造する人物は巨人へと生成し、絶えずそれがそれである当のものになる。凡庸の、そして愚鈍あるいは下劣さえの力によってこそ、人物は巨大なものへ生成することができ、単純なものにはならないのだ(人物はけっして単純ではない)。小人や不具者ですら、おおいに有用でありうる。あらゆる虚構は巨人の製造であるということだ。
凡庸であろうと偉大であろうと、人物はあまりにも生きているので、生きられうる(体験されうる)ものでも生きられた(体験された)ものでもありえない。ヘンリー・ミラーの偉大さは、都市からひとつの黒い惑星を引き出したことに存する。ヘンリー・ミラーが生きた体験と、彼の作り出した作品とには確かに共通点があるだろう。だが、それを数えあげたところで、吠える動物としての犬と天の犬座とのあいだにある類似ぐらいしか見い出せまい。
- どうすれば、世界の一瞬間を持続可能にすることが、あるいはそれ自身で現存させることができるだろうか? ヴァージニア・ウルフは、エクリチュールばかりでなく絵画や音楽にとっても価値があるひとつの答えをだしている。「それぞれの原子を飽和させること」、ありふれたそして生きられた(体験された)わたしたちの知覚に貼りついているすべてのものを、小説家の糧を平凡なものにしてしまうすべてのものを、「屑にすぎないすべてのものを、死を、そして余分なものを排除すること」、わたしたちに被知覚態を与えてくれる飽和だけを守ること、「瞬間のなかに、不条理なものを、諸事実を、汚いものを、ただし透明にする処理をほどこしたかぎりで、含めること」、「そこにすべてを置くこと、けれども飽和させること」。
- 小説家たちは或る意味アスリートだ。とはいえ、体を鍛えあげて生きられたもの(体験)を養ったようなアスリートではない。むしろ、カフカの「断食芸人」、あるいは泳げない「偉大な泳ぎ手」というタイプの奇妙なアスリートである。有機的または筋肉的ではない《陸上競技》、他者の非有機的な分身でもあるような「変様の陸上競技」、おのれの力ではない力だけを開示する生成の陸上競技、「可塑的なスペクトル」。
芸術家たちの健康は、多くの場合、あまりにも弱くもろい。しかしそうであるのは、病気のせいでも神経症のせいでもない。それは、彼らが、生のなかに、誰にとっても何か大きすぎるもの、彼ら自身にとっても何か大きすぎるものを見てしまっているからであり、この何ものかが、彼らに死の密やかな烙印を押してしまっているからである。だが、この何ものかがまた、生きられたもの(体験)の病をつらぬいて彼らをなお生きさせるあの源泉であり、あの息なのである(それをニーチェは健康と呼んでいる)。「ひとは、いつの日かおそらく、芸術というものはなく、ただ医学だけがあったということがわかるだろう」。
- 芸術は体験された(生きられた)知覚と感情を超越している。
被知覚態が知覚のなかに収まらないように、情動は感情のなかに収まらない。情動は、ひとつの体験された状態からもうひとつの体験された状態へ移行することではない。情動とは、人間が非人間的なものに生成することである。エイハブはモービー・ディックへの生成においてモービー・ディックを模倣しているのではなく、ペンテジレーアは雌犬への生成において雌犬を「演じる」のではない。そうした生成は、模倣でも、体験された共感でもなく、想像上の同一化でさえもない。
生成は類似に属さない。むしろ、生成とは、類似なき二つの感覚が密着するときの、あるいは反対に、そうした二つの感覚を同一の反映のなかに取り込んでしまうような光から遠ざかるときの、或る極度の近接なのである。
人間の形態と動物の形態との類似を示し、それらの変形をわたしたちに目撃させるようなデッサン画家がいるが、生成が必要としているのは、そうした技巧ではない。必要なのは、反対に、形態(図)を崩潰させることができる背景(地)の力である。
- 一個の偉大な物語作家は、何よりもまず、未知の、あるいは〔一般には〕誤解されているようないくつかの情動を考案する芸術家なのであって、彼は、それから情動を、おのれの人物たちの生成として明瞭に描写するのである。
ゾラが、読者に、「注意せよ、私の人物たちが感受しているのは後悔ではない」と呼びかけるとき、わたしたちがそこに見るべきものは、ひとつの生理学的テーゼの表現ではなく、かえって、自然主義における人物たちの創造、たとえば《凡》人、《倒錯》者、《獣》人の創造によって湧きあがる新たな情動の特定である(しかもゾラが本能的と呼ぶものは、或る〈動物的への-生成〉と切り離せないものなのだ)。
エミリー・ブロンテがヒースクリフとキャサリンを結びつける絆を描くとき、彼女は、二匹の狼のあいだの同類関係のような激しい情動を考案しているのであって、この情動は、とりわけ愛情と混同されてはならないものである。
プルーストが嫉妬をたいへん細かく描写しているように見えるとき、彼が考案しているのは実はひとつの情動なのである。というのも、彼は感情の秩序を、すなわちそれに従えば嫉妬は愛情の不幸な帰結になるであろう秩序を、絶えずひっくり返そうとしているからである。情動としての嫉妬は、プルーストにとっては逆に、目的因、目的地であり、愛する必要があるのは、嫉妬することができるためなのである。
どのような芸術に関しても、こう言わねばなるまい──芸術家とは、彼がわたしたちに与えてくれるもろもろの被知覚態あるいはもろもろのヴィジョンと連関した、情動の遣い手、情動の考案者、情動の創造者である、と。
- 小説家はもちろん語を用いるのだが、ただし、或るひとつの統辞法を創造しながら言葉を用いるのであって、この統辞法によってこそ、語は感覚そのもののなかに移り、滑らかな日常語は吃音になり、あるいは震え、あるいは叫び、あるいは歌いさえするのである。
小説家は、言語活動をねじ曲げ、震わせ、締めつけ、切り裂き、こうした被知覚態を知覚から、情動を感情から、そして感覚をオピニオンから引き離すのである。
- 知覚的かつ感情的な肉ではなく、感覚存在を構成しているもの、それは〈動物への-、植物等々への-生成〉であって、この生成は、ヴィーナスのように優美で、このうえなく繊細な裸体のなかから、肉色の帯域のもとで、さながら生皮をはがれた獣、あるいは皮をむかれた果実の現前のように上昇してくる。あるいは、その生成は、トーン転化の溶解、その煮え立ち、その流れのなかから、獣と人間との不可識別ゾーンのように立ち現われるのだ(肉なるものは、ひとりでもちこたえることができない。肉は柔らかすぎる)。
- 芸術はおそらく、動物とともに始まる。少なくとも、テリトリーを裁断し家をつくる動物とともに始まる。外界のマテリアルの処理に関しても、動物の体の姿勢や色に関しても、また、テリトリーを印づける鳴き声や叫び声に関しても、そのような発現は、すでに芸術に属している。線、色、音の噴出、かがむ、そして頭をあげる、輪になって踊る、何かを撃つ。
こうして芸術はたえず動物に付きまとわれている。カフカの芸術は、テリトリーと家についての、巣穴についての、また、姿勢の描写(首を前に傾けてあごを胸にうずめる住人、あるいは反対に、自分のとんがった頭で天井に穴をあける「偉大な恥ずかしがり屋」)についての、さらには〈音-音楽〉(姿勢そのものからして音楽家である犬、歌うのかどうか誰にもわからない歌姫ネズミ、ヨゼフィーネ、部屋-家-テリトリーという複雑な関係のなかで妹のバイオリンに自分の鳴き声を結びつけるグレーゴル)についてのこのうえなく深い省察であろう。そこにこそ、芸術をおこなうために必要な一切がある──ひとつの家、もろもろの姿勢、もろもろの色、もろもろの歌声──それらすべてが、あたかも魔女の箒のような発狂したベクトルに、つまり宇宙のあるいは脱テリトリー化の線に沿って開かれ、飛び出すという条件のもとで。
- 家=枠構造について。たとえばプルーストにおいては、一切はいくつかの家から始まっていて、どの家もその部分面を接合していなければならず、コンブレ、ゲルマント公爵の館、ヴェルデュラン夫のサロンといったいくつかの合成態を持ちこたえさせねばならないのであり、しかしそれらの家自体がいくつかの接続面にしたがって接合されているのであるが、しかし、ひとつの惑星状《コスモス》がすでに現に存在し、望遠鏡で見ることができ、そしてこのコスモスが、それらすべてを破壊しあるいは変貌させ、そしてひとつの無限のなかに──人間以前のあるいは人間以後の世界のなかに──吸収するのである。プルーストは、有限な事物をみな、ひとつの感覚存在に仕立てあげる。無限に終了してゆく、いくつもの宇宙の歌。
- 書誌情報:G・ドゥルーズ+F・ガタリ著、財津理訳、『哲学とは何か』、河出書房新社、1997年
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