resume : 中井久夫「創作過程の生理学」
- 創作者への道の最初は甘美ないざないである。この幸福な地平を垣間見ずに書かれたものは悪達者な作品にすぎない。しかし少なくない人間が、思春期以降にこのいざないを感得する。人が、己も創作家たりえるのだという幻想を頭に抱くことは希有なことではない。
- ところが、この甘美ないざないは、白紙に直面して己に没入し、己に問うと、たちまち激しい無力感に転じて、人は己の不毛、才の乏しさに直面する。垣間見られた幸福な地平はおおむね雲散霧消する。
- この危機を乗り越えるために、人は己の全経験を投入しなければならない。たとえば試験場に臨んで蔵書のすべてを持ち込めないのと同様に、人は、それまでの内的資産のみを以て創作に当たる。それは燃料が尽きて船体を汽缶に投入しながら前進を続ける蒸汽船に似ている。彼の内には、暗く、陰鬱な、言語以前の、それまでは深く抑圧されていたものが、断片的に乱舞している。それでいて、表現面に打って出ると「これはほんものでない」という感覚に圧倒される。
- 創作の道を選んだ者が、この砂漠的不毛の危機を通過するのはほとんど必然である。若きマラルメのように、この時期を「死んでいた」と実感する作家もいよう。 これは弱さだが、しかし創作者とは決して自己確実な存在ではない。完全に自己確実な人はものを書かないだろうと思われるぐらいだ。さらに言えば、この不毛・抑鬱・空虚・索漠の時期を通らない創作行為は、せいぜい趣味の手遊びに過ぎないであろう。実際、この索漠とした不毛な「抑鬱」がひどかったものほど、ふり返ってみれば出来がわるくないということが往々にしてある。絨毯でいえば織糸が細かいというような。この砂漠的不毛のあいだ、意識せぬところで知性の蜘蛛は糸をつむいでいるのだろう。
- どんな人間であろうと、創作過程に没頭しているときには「退行」すなわち「幼児化」が起こることは避けがたい。創造のための「デーモン」は著者の無意識の中にある破壊的な力であって、それは容易に自己破壊・他者破壊へと結びつく(一九二〇年代フランス・ダダイズムの衰退は、実に自動書記が殺人衝動を高めたことによるところが少なくない)。それを辛うじて制作のチャンネルに結びつけられるかどうかは、おそらく、なお前進していると信じつづける前進感覚、「一本の紅い導きの糸」から手を放さないことが死活的重要性を持つだろう。
- 創作の全過程は精神分裂病の発病過程にも、神秘家の完成過程にも、恋愛過程にも似ている。この危機の時期にもっとも危険なのは、広義の権力欲(キリスト教にいう傲慢)である。もし、名声を、たとえ死後の名声であっても、求めるならば、すべては空しくなるだけでなく、病的な妄想に落ち込み、創作欲は病いに似てくる。そうした陥穽を警戒して「野心を完全に軽蔑すること」と明言しているのはポーである。
- この時期、作家は自分がいかに矮小な存在であるか、いかに自分がダメな存在であるかを、これでもかこれでもかと自分に言い聞かせている。たしかなはずの作家の自己規定さえ動揺しかけている。或る種の無私な友情は、この時期に保護的にはたらく。作家の伝記における孤独の強調にもかかわらず、完全な孤独で創造的たりえた作家を私は知らない。もっとも不毛な時に彼を「白紙委任状」を以て信頼する同性あるいは異性の友人はほとんど不可欠である。多くの作家は「甘え」の対象を必ず準備している。 逆に、それだけの人間的魅力を持ちえない人、持ちつづけえない人は、この時期を通り抜けることができない。
- もう一つの危険は、創作によって「人間であること」「人間であるという病い」「人間の条件」からの治療を求めることである。これが権力欲と結びつくと、「不死」の希求となって現われる。
- では創作行為という困難な道を歩きとおすための決定的な条件の一つとは何か。それは(そのつど個々の作品毎の)「文体の獲得」である。
- 文体において、伝統とオリジナリティ、創造と熟練、明確な知的常識と意識の閾下の暗いざわめき、言葉の意味の多層性と明晰、努力と快楽、独創と知的公衆の理解可能性とが初めて相会うのである。これらの対概念は相反するものである。しかし、その双方なくしては、その作品が他者に読まれる糸口はないであろう。「文体」とはこれらの「出会いの場」である。
- (二十世紀後半の文学の衰微は、外的理由もさまざまあろうが、「文体」概念を「テクスト」概念に置換したことにあると私は思う。それによって既成テクストの批評は深まった一方、第一級の文学が生産されることは遂になかった。どのような弁明によってもこの失敗を覆い隠すことはできない。)
- 「文体」を獲得して初めて、作家は、机に向かわない時も作家でありうる。なぜなら、「文体」を獲得した時、言語は初めて、書かず語らずとも、散策の時も、友人との談話の時も、地下鉄の中でも、まどろみの中でも、作家の中で働きつづけるからである。
- 文体(=言語の肉体)の獲得のためには、人は多くの人と語り、無数の著作を読まなければならない。語り読むだけでなくて、それが文字通り「受肉」するに任せなければならない。そのためには、暗唱もあり、文体模倣もある。プルーストのようにパスティーシュから出発した作家もある。
- すぐれた作家への傾倒も欠かせない。しかしその傾倒は、決して、作家の思想ゆえでなく、「文体=言語の肉体」の獲得のためでなければならない。そうでなければ、その人はたかだか作家の「取り巻き」に終わるであろう。実際、作家志望者を既存作家への傾倒に向わせるものは、「文体」の親和性、「文体」への道程の最初の触媒作用であり、決して作家の思想の冷静な吟味によってではない。
- 人はいう、読書が経験と相会わなければすべては虚しい、と。しかし、もし相会う場所が表層であれば、それもまた虚しい。なぜならそれは、経験を追認するためだけに読書する文学消費者の態度に過ぎないからだ。作家にいざなわれている者にとっては、経験と読書の出会いの場の少なくとも一部が、いったん言葉をこえた深層に到ることが必要条件である。「受肉」のためには意識の表層からいったん消失する必要がある。
- 一方、言語への或るタイプの禁欲も必要である。この禁欲が意識的に破壊された時、しばしば「ジャーナリストの文体(むしろ非文体)」が生まれる。ジャーナリストを経験した作家は、大作家といわれる人であっても、或る「無垢性の喪失」が文体を汚している。
- (自動書記による文学の試み或いは類似の試みが成功しなかったのは、「文体獲得」が回避できないものであることを証明する事実である。ジェイムズ・ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』さえも「文体獲得」の後に生まれたものである。定型詩が束縛であるよりも解放であるのもこのためである。)
- 「文体」獲得の過程は長い準備期間である。そして最後に仕上げの過程があり、何かの事件がなくてはならない。確実に言えることだが、「文体の獲得」は、ほとんど一瞬にしてなされる。作家自身がその日付を記憶していることも少なくない。
- 契機となる事件を異質なものとの遭遇として要約することができるかもしれない。単純な場合として、外国語、外国文学との接触が挙げられよう。或いは意外な人物との対話など。
- (個人の日記、ノートの類は文体獲得の契機となり得ない。それらによって得られる満足感は、文字言語的定着による前ゲシュタルト的言語・イマージュ複合の減圧、貧困化、明確化による癒しに過ぎない。)
- 作家においては、おそらく「文体獲得」によって初めて、創造と熟練、オリジナリティと伝統との幸福な結婚が糸口につき、作家は仮に孤独のうちに仕事をしつづけていても、広い社会あるいは世界(時には「宇宙」)とつながっているという感覚を持つことができる。深層構造と表層構造との風通しがよくなり、言葉の意味が多層的でありつつ明晰であることが可能となる。だからといって、「文体獲得」後の道程が平穏であるとは限らないのだが……。
- 書誌情報:中井久夫著、『アリアドネからの糸』、みすず書房、1997年
- 書誌情報:中井久夫著、『家族の深淵』、みすず書房、1995年
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