:ジーン・ベネディティ『演技──創造の実際 スタニスラフスキーと俳優』のレジュメ
- 私は私以外の誰のものでもない。他人の感情をそのまま味わうことなどできない。自分以外の誰か別の人間を演じるにしても、自分の人生以外に、演技を創り出す土台はない。
スタニスラフスキー ……すべての優れた芸術作品には感情の論理があるものだ。私たちは役に近づきながら、さまざまな感情や自分たちの知っている身体行動を発見する。しかもその身体行動は、ほぼ同じ道筋を辿って台本と一致するということが言える。だから、私はきみの中にその役の人物を捜しているんだ。しかも、一番単純なことをやってほしいと言っているんだよ、それによってきみが与えられた役の論理を理解することができるのだ。……
俳優はもっとも完全な人間でなければならない。舞台上の役の行為は、観客たちの生活と相通じるようなものでなければならない。俳優の芸術は、日常生活でわれわれが、人間が、どのようにふるまっているかを学ぶことに基礎を置く。
助手 自分としてふるまうということは、生徒には一番むずかしいことじゃないですか。生徒は、坐ったままで考えてると、どうしてだか、自分自身としてじゃなく、誰か他の人間としてその行動をとっている、という印象を私は持ちます。
スタニスラフスキー きみは、実生活で本来の自分として振舞うのは難しいことかね?
ポローニアス役 たしかにそうです。しかし自分が本当にそうやっているかどうか? 心の中にぼくは第二の自分のようなものをこしらえて、その人間がどんなふうに行動をとるか、想像しています。その人間が動き回る、みんなに挨拶する、誰かに何かを尋ねられている、だけど、同時に、それは自分なのだと分かっています。
スタニスラフスキー つまり、きみは自分を真似ているというの? できるだけそんなことはやめた方がいいね。せいぜい、陳腐な紋切型になってしまうのがおちだよ。それに、模倣は芸術じゃない。いつでも、どんなことでも、自分自身として行うことだよ、こんなふうに自分に投げかけるんだ、「もし私がこんなふうな状況におかれたなら、今日、私は、どんな行動をとるだろうか?」
演技している時の私は、今のままの私ではなく、「劇的なる私」だ。それを生み出すには二つの基本的な原則がある。
(1)その時点での劇中の状況、それがどんな状況であるか、それが何を要求しているのか、ということを完全に理解する。
(2)次に、その与えられた状況で身体的にはどうしたいのかを決定し、さらにその行動に確信を持つことで、無理強いされたものでもなく、紋切型の反復でもなく、あくまで創造的なものとして、自分の自然な情緒的反応を解き放つ。
戯曲の中の出来事や人物は、現実の出来事や人間が存在するような形では存在しない。しかし、ごくありきたりな物体、例えば椅子のようなものでも、それを「もしこれが馬だったら」「もしこれがモーターバイクだったら」「もしこれが芝刈り機だったら」と見なして、本当にそれが想定したとおりの物体であるかのように扱うことができる。端的に言ってしまえば、芝居のリアリティは「……らしく見せかける」ことにある。そして、大切なことは物体や人の側にあるのではなく、物体・人に向かっている俳優自身の「態度」にあるのだ。
台本を与えられたら、俳優は、まず台本に作家が書き込んだ状況についてよく調べ、次に、「もしも(ここで・今)私がこういう状況になったらどうなるだろうか? “私なら”どういうことをしそうか?」と自分に問い掛けてみよ(これは「創造的もしも」と呼ばれる)。すぐにその場で答えを出すこと。反応と振舞いがあやふやになってしまうのなら、その状況への理解が足りていないということだ。
状況理解のための訓練。以下の六つの質問を、戯曲中の役の人物として即興でやってみよう。
●どこから:(私は今)どこからやってきたところだろうか?
●どこに:(私は今)どこにいるのだろうか?
●なにを:(私は今)何をしているところだろうか?
●なぜ:(私は今)なぜそんなことをしているのだろうか?
●いつ:この出来事が起こったのはいつか? 何年、何月、何日、どんな時代か?
●どこへ:(私は今)これからどこへ向かうつもりなのだろうか?
そして、自分の一連の行動が論理的につながっているかどうかに注意しよう。
さらに、今やった行動の裏側にある内面のモノローグ・内面のイメージというものを構築してみよう。今・ここで自分自身が感じることでよい。私はそのつどそのつど、内面で一体何を考えるのだろうか? スタニスラフスキー「適切に、論理的に、きみの現在の気分で、今日、きみがやるようにしてやってみることだ……」
このような手順を踏むと、自然に一連の情緒や精神状態が生じてくる(その情緒の一貫性にも注意を払おう)。
その情緒は架空のものではある。だがそれは、俳優自身の人生体験における情緒の記憶が呼び起こされて、用いられたものでもあるはずだ。反応も情緒も行動も、自分自身の人生体験を思い起こすことによって深められていく。
こうやって一つ一つ段階をたどっていくことによって、「今のままの私」が、次第に(架空の)役の人物の行動に巻き込まれていく。私はその状況を信じ、心中、あたかも本当のことのように受け止めはじめる。「私」と「役の人物」との境い目が不分明になる。これが「劇的なる私」の誕生の瞬間だ。
紋切型をしりぞける創造的自発性が生まれ、ぎごちない意識のかわりになめらかな潜在意識の働きが優勢になり、私の一つ一つの行動は、実生活における行動と同じように即時性を帯びながら、研ぎ澄まされ、透明な、美的な、独創的なものへと変ずる。
ここまでのプロセスに稽古時間の半分を費やしていい。残りの半分は、さらなる台本の研究(筋の骨組みの特徴、舞台様式、書かれた時代背景、一定の社会的前提からくる人間関係、役の身体的性格づけ)、そしてまだ即興にとどまっている動きを適切なものへと仕上げていくこと、演出家の意向や舞台装置・音響・照明のデザイナーがこしらえた演技空間という条件にそってそれを見直すこと、他の俳優の身体的行動との一貫性を編み上げていくこと、等に費やされる。
- 〈システム〉の技法には二つの方向性がある。一つは、心と想像力とで役の人物の思想や感情をこしらえていく内に向かう方向、もう一つは、内面で起こっていることを身体で表現し相手に伝達する外へ向かう方向。
身体行動は演技の基礎だ。私たちは人々が生活の中で実際にやっている身体行動を観察し、記憶し、点検を重ねた上で、そのメカニズムがさまざまな劇的状況の中で芸術的に機能するにはどうしたらよいかを、理解しなければならない。
私たちの演じる行動のほとんど(90%?)は、無意識的で習慣的なものだ。しかもその多くが有機的行動──順番が入れ替わると絶対に困る一連のセットになった行動──だ。そのことを頭に入れた上で私たちの振舞いを分析してみよう。
そうやって分析し学んだことを劇的状況に合流させるには、次のようにする。(1)その劇的状況で何がやりたいか(課題)をはっきりさせる。(2)そのやりたいことを満たしてくれる基本的行動を決める。(3)その基本的行動をやり遂げるのに必要なそれぞれの小さな行動を演じる。
原則として劇的状況は日常の経験に基づくことが何より肝心だ。
行動あるいは姿勢は目的をこしらえることで正当化されていく。任意の行動やポーズをしてみて、それを後から意味付けていくという訓練をしてみよう。「その身体のポーズをどのように正当化しますか? あなたの行動は何ですか? 床に視線を向けていますね。なにか怖いのですか? 坐っているときに、自分を守ろうとするかのように両手を外側に広げているのはなぜなんです?」
もともと意味なく単純にとられたポーズ、単純な身振りでも、きちんと正当化され、目的が生じたならば「行動」になってくるものなのだ。
言うまでもなく、舞台上には演技の空間がこしらえられる。そして俳優にとって心理面での初歩的な技術とは、まず演技空間にある人間(相手役)と物体に焦点を合わせ、焦点の輪郭を明確にし、集中力をコントロールしつづけることだ。それによって観客の注意を惹き付け、観客の注意をも方向づけてやる。こうして劇は生き生きと理解されていく。
集中を切り替える際のスムースさ、対象に応じた集中の仕方のヴァリエーション、複数の対象への集中の分割、ごく身近なものからかなり遠くのものまでというふうに集中力の働く空間(注意の環)の自在にコントロールする能力、そのつどそのつど具体的に集中することへの役に準じた理由・根拠づけ(集中力の正当化)、……あらゆる面での習熟が望まれる。
実生活では身体(行動)も心(考え)も同時に働く。たとえ身体が止まっていても心は休みなく働いていることもある。劇では、この心の働きがそれぞれの役において創造されねばならない。その創造には二つのものがある。
(1)内言:俳優が話すことは劇作家が与えてくれているが、内面のモノローグなり、その会話の裏に込められている思想というものは、自分で創造しなければならない。
(2)内面で捉えている知覚イメージ:たとえば「私は家に帰る」と言うとき、それが実生活上でのことならその「家」の様子はありありと分かっているはずだ。だが劇の中で言われたなら、俳優みずからその「家」のイメージを新たに創造し、わが物とし、そこに住んでいる感覚までをも捉えなければならない。そして舞台で「家」のことを話題にするなら、その間ずっと心中でその「家」を把握していなければならない。
台本を読み込んで正確な身体行動を明らかにし、それを実演すれば、或る程度それに伴う感情や情緒も生じる。だが、それだけでは足りない。その場面が要求しているものをさらに掘り下げるには、意識的に自分自身の人生経験に頼らなければならない。つまり自らの「情緒の記憶」を活用するということ。
私たちの経験する感情の大部分は、実際には以前すでに経験したことがあるものだったり、それと似通っていたりする。言わば、何度も繰り返される「よみがえる情緒」というわけだ。まったく新しい、初めて味わう情緒などというものは滅多にない。そして、演技においてもほとんどの場合この「よみがえる情緒」を利用する。演技行動にともなう感情が自然に湧き上がるように、情緒の記憶を引き出してくるのだ。
理想は、稽古のときでも、役づくりのときでも、すぐ役立つ「記憶のレパートリー」をこしらえておくことだ。これは自宅でもできる基本作業だ。
スタニスラフスキー ……芸術の第一の条件をいうと、ひとたび役があたえられたら、そう、ハムレットだ、その瞬間から、ハムレットと私との間にはなんの区分もない。私はハムレットの状況の中にいる。だからきみの情緒の記憶からなんでも取り出しなさい。
情緒の記憶の練習課題:寒さ、湿気、霧、雪、夜、夏の炎昼、雀蜂、毛虫、烏の死体、猫、犬、星空、青空、月、昔住んだことのある家、職場の雰囲気、トラックの騒音、プラットフォームに来る列車、階段を昇る辛さ、チョコレート、ロースト・ビーフ、レモン、熱湯、紙やすり、かじかんだ指、生魚、不愉快なこと、朗報、笑わずにはいられないこと、腹立たしさ、恥ずかしさ、好奇心、退屈、喧嘩、騙された時、騙した時、隠していたことの告白、嫌いな人と遭遇、ペットの死、闇の恐怖、など
即興稽古をするときには、情緒の記憶を使って忘れていた感情を誘発するように試みる。俳優個人の記憶としてでなく、役の人物の体験の一部として自然に情緒の記憶がよみがえり、直接演技に反映されることが理想だ。もしそうならなければ──
(1)役の人物が経験することとよく似た、自分自身の情緒的経験を思い出そう。“そのとき(過去)”
(2)それと同じ情緒を引き起こすはずの状況を、いま、即興で想像してみよう。“いま(現在)”
例題。『マクベス』第二幕第二場──
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マクベス (囁き声で)やってしまったぞ……音が聞こえなかったか?
マクベス夫人 聞きました、ふくろうが軋むように啼くのとこおろぎの声を。
あなた声をお出しにならなかった?
マクベス いつ?
マクベス夫人 今。
マクベス 下りてくる時にか?
マクベス夫人 ええ。
マクベス あの音は!
(二人、聞き耳をたてる)
次の間に寝ていたのは誰だ?
マクベス夫人 ドナルベインよ。
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これを演じて適切な緊張感がごく自然に生まれるようになるまでには、情緒の記憶を使った即興稽古を相当積み重ねねばならないだろう。物音への過敏さ、恐怖心、暗闇のなかでの息詰る想い、狭い空間での圧迫感……。もし演ずることに難しさを感じるのなら、もっと多くの“そのとき(過去)”、“いま(現在)”のプロセスの稽古をこなしてから戯曲に戻ろう。
言うまでもなく、「恐怖感」そのものを演じようとはしてはならない。感情を直接出すのではない。感覚の記憶や過去の経験という自分の情緒の記憶を用いて、感情が現れやすくなるようにするのだ。
それでもダメなら、劇的状況と情緒の記憶の相関についてもっと精密に研究しよう。
また、身体の状態・姿勢が自分の心理に与える影響も見逃してはならない。同じく、照明や音響の影響も過敏に分析すること。
次の段階では、情緒の記憶から導かれた感情を相手にまっすぐに伝える、という努力をしてみよう。生き生きとした対話のしている二人の人間を観察すると、二人のまわりに生じるエネルギー圏のようなものが感じられる。劇場でも同じような積極性を創り出そう。自分の科白の番がまわってきたときだけ生き返る俳優であってはならない。
相手の目を見つめる。相手に見せる表情をつくる。だが、それは意識的であってはならない。それでは単なる紋切型演技だ。対話の中で私たちはさまざまな思想や感情を繊細微妙に送り合い、受け取り合う、それを演じるには、内面の感情のごく自然な反応に頼るのが一番だ。つまり、情緒の記憶の技術を使って捉えた感情の確かさに。
テンポ-リズムについて。テンポとリズムの統一がなければ音楽の合奏がほとんど成り立ち得ないように、二人以上の人間の運動(移動・身振り・発話・しぐさ・意志的行動)が必須の演劇においても、テンポ-リズムの要素は無視できない。劇場でのシーンの連続した流れは、正しいリズムパターンをもった適切なテンポで演じられたときにこそ生まれる。舞台上にテンポとリズムの統一性・一貫性がなければ、劇中の行動に観客を引き込むこともできず、情緒的な影響を及ぼすこともできない。
テンポとは、基本的な拍の速度のこと。
リズムとは、時間と空間のなかでの静と動の関係のこと。
内面的なテンポというのものもある。気持ちがはやっているとき、私たちの感情と考えは普段とは異なるテンポを持つ。さらにそれが外見は落ち着いてみせなければならない状況であるなら、抑制された外面のテンポと心中穏やかでない内面のテンポとが別々になる。そういうこともある。それが、その役の人物の性格に色彩を与えることもある。ただし、そうした特殊なテンポ-リズムも、当然他の登場人物との相互作用のなかで総体的に統一されていなければならない。
以上のことの最終的な仕上げとして「正当化」がある。真似は演技ではない。たとえば障害者の身振りを真似るだけでは演技とは言えない。すべての障害者が自分の障害について同じように受け止めているわけではないからだ。人間の特徴には、必ずその人の全生活からくる「理由」と「根拠」があり、それらの特徴を俳優は正当化しなければならない。それではじめて基本的行動や身体的要素といったものが、私たちの肉体的体験として生気を帯びるのだ。
ところで、私たちは同じ作品を一週間に何回も演じなければならないことがある。当然、そのたびごとに自然な過程のなかで感情が沸き起こり、それに身をまかせることが理想だ。やってはいけないのが、前回の演技の反復。これでは行動そのものではなく、行動の結果を演じることになってしまう。感情が自然に湧くはずもなく、演技は紋切型に堕す。スタニスラフスキー「いいかね、大事なことは、俳優のなかに、行動を促す衝動をこしらえることなんだ。」
どうしても演技を新鮮に保ちつづけることが難しいなら、自分自身の情緒の記憶の中から、その飽きがきた箇所となにか関係があり、しかも新しいものを見つけ出すようにするといい。
スタニスラフスキー どうやらきみは、自分がどんな気持でいるのかを知り、それを準備しておきたいみたいだね? そりゃ無理だよ。それは、私は恐ろしさを経験しなきゃ、と言ってるようなもんだよ。恐ろしさを経験するかもしれないし、しないかもしれないんだ。亡霊がどんなふうであれ、きみがまずすべきことは“もし私ならこういう場合どうするか”と自分に問いかけることなんだよ。
- 精神面でも身体面でも技術的なことをほぼマスターしたとしても、それらを総合して舞台上で役立てるのでなければ、一切は目的のない無関連なテクニックの集積になってしまう。だから私たちは具体的な作品に即して、「この劇は何に“ついて”書かれているのか? 書かれた理由は? 俳優一人一人が演じる役の課題が目指すところは何か?」ということをつねに問いながら、技術を総合的な演技行動にしていかなければならない。さもなければ、観客が納得する統一された目標と調和が演技の中に生まれ出ることはないだろう。
「この劇は何に“ついて”書かれているのか?」──こうした問いへの答えは総じて「超課題」という。「俳優一人一人が演じる役の課題が目指すところは何か?」──こうした問いへの答えを総じて「貫通行動」と呼ぼう。そして或る貫通行動の目的に対して対立するような行動を「反対行動」と呼ぶ(分かりやすく言うと、ヒーローの貫通行動に対しては敵役がその反対行動をとる、など)。
「超課題」「貫通行動」「反対行動」これらの答えは、戯曲中のすべての主なエピソードについて妥当だということを確認しておくこと。
見出された「超課題」は戯曲を読みこなす際のあらゆる判断の尺度となるだろう。ただし、いつでも最初から適確な「超課題」が導き出せるとは限らない。はじめに見出されたものはつねに暫定的なものと置き、その吟味は稽古の過程でさらに深化させられるべきである。場合によっては、二つのどちらも妥当と思える「超課題」のうちどちらか一つを選ばなければならないこともある。
:論文「スタニスラフスキーの『身体的行動の方法』 〜演技想像における俳優の心身をめぐって〜」(谷賢一)のレジュメ
- http://www.playnote.net/docs/physical-action.html
- 一人の演出家でもあり名優でもあったコンスタンチン・セルゲーエフ・スタニスラフスキー(1863-1938)が、俳優たちの演技にむらがあり、日によって上手くいったりいかなったり、あるいは役によって全く手も足も出なかったりすることに深刻な問題を見出し、その克服、真実の演技を実現するために構想した俳優育成のための方法論、それがスタニスラフスキー・システムだ。
スタニスラフスキー以前にももちろん名優というのはいた。ところが彼らの能力は生まれもっての才能や個人的な独創性であるという以上の説明をされたことがなかった。演技創造のための技術が省みられたことはさらに稀だ。今でこそ、自分が科白を喋る時以外は死んでいる役者というのは非難の的になるが、当時は、相手役との相互作用などはなから意に介さず、自分自身の芸を見せつけるためだけに舞台に上がるという俳優も少なくなかった。あるいは、かつての名優を真似ただけの紋切型の身振り手振りの使い回しが、真の演技と区別なく賞讃されたりした。迫真性のある感情を舞台上で自分のうちに湧き上がらせるためにはどうしたらいいのか?という生徒の真率な問いに対し、「そんなこと知るか。詩でも読んで涙を流せ」と言い放つ俳優学校の講師さえいた──それが珍しくなかったのだ! そのような状況に対し、スタニスラフスキー・システムは決定的な画期をもたらしたのだと言える。
しかし、今なおスタニスラフスキー・システムが正統的に理解されているとは言い難い。原因はスタニスラフスキー自身の側にもある。彼の「システム」は最晩年に至るまでたび重なる試行錯誤の上に改良を加えられつづけ、最終的に「身体的行動の方法」という具体的かつ包括的な方法論に結実する。ところがスタニスラフスキーがもっとも手応えを感じていたはずのその最晩年の実践について、彼自身による解説があまりに少ない。彼が「システム」を普遍化し普及させるためにものした主著『俳優修業』三巻本は、当初スタニスラフスキーが望んでいたようには三部を一度に出版することがかなわず、『俳優修業・第一部』が1936年、『俳優修業・第二部』が1949年に刊行され、さらに第三部は1961年と大幅に刊行が遅れた。そのためにシステムが世界中の演劇人に興味を持たれ普及していく過程で、第一部・第二部で触れられた俳優の基礎訓練のための方法論──「感情の記憶(情緒の記憶)」「魔法のif(創造的もしも)」といった個別的テクニックの周辺──がスタニスラフスキー・システムの根本なのだという誤解が広まり、たとえば今なおアメリカにおけるスタニスラフスキーの心理主義的演技論的な理解は、その延長線上での発展にとどまっている。つまりスタニスラフスキーの「身体的行動の方法」は現代でもなお見過ごされたままだ。だが、スタニスラフスキー自身も第三部『俳優の役への仕事』の中でさえ、「身体的行動の方法」について明快な説明を記さなかった。私たちがスタニスラフスキー・システムの最終進化形に接近しようと望むとき、その手掛かりとして、彼の晩年に付きしたがった俳優や生徒たちの記録と回想に頼るしかない、というのが現状だ。
だがそうした手掛かりを通して浮び上がってくるのは、初期の「感情の記憶(情緒の記憶)」に代表されるような技法を通過点として、より俳優の創造性発揮のために実践性を特化していった、晦渋とは無縁な、あくまでシンプルかつ強固な方法論の姿だ。この方法論、「身体的行動の方法」の正しい検討は、現代演劇における俳優育成の膠着状態を打破するために有益なアプローチの一つであるに相違ない。
- スタニスラフスキーは俳優が真に役を生き演劇を芸術の域に高めるための確かな技術を模索した。
初期のシステムにおいて特に強く意識されたのは、外面的行動を正当化するためのしかるべき内面的状態を準備する、ということだった。ト書きにある通りに、あるいは演出家の指示通りに行動すればそれで足りるとする当時の常識に、彼は満足しなかった。彼は、俳優たちは戯曲のなかでその局面・その役に応じた適切な心理や動機を自分のうちにこしらえ、それによって外面的行動に生命を与えなければならないと考えたのだ。とはいえ、かりに俳優が「悲しい! 悲しい!」と直接感情を引き起こそうとしても、自意識が強まり緊張するばかりだろう。ではどうすればいいのか? それまでの演出家がひたすら「感じろ! 感じろ!」と絶叫して指導するのみだったところへ、スタニスラフスキーは、感情や衝動や気分を準備するための具体的な方法論──今日なお有名な感情の記憶(情緒の記憶)、注意の圏、魔法のif(創造的もしも)、課題、超課題、テンポとリズム等々の技法──を持ち込んでみせた。大半は意識的に操作することのできない無意識の領域に属する私たちの感情や気分を、直接に捕まえようとするのではなく、想像力の助けを借りて、役の動機や目的を鮮明にしつつ、もし自分自身がその状況に置かれたらどうするかを考える(魔法のif)、自分自身の過去の体験から役に近い感情を想い起こし参照する(感情の記憶)、戯曲の筋をエピソードや事件ごとに細かく切り分け、それぞれの単位における動機と課題を探す、──といったさまざまな方法を用いて「誘発」すること。それによって自然に生まれた感情から、紋切型でない演技行動が創造的に導かれるようにすること。スタニスラフスキーの初期のシステムは、おおむねそういった企図につらぬかれており、それだけでも当時の演劇の常識からすれば画期的であり得た。それまでの俳優たちは、劇的感情を生むところの土台を丹念に確認していくという問題意識すら、持つことがなかったのだから。
才能に頼るのでもない。霊感に頼るのでもない。つねに演技のための充実した内面を得るための手続きを技法として確立すること。この目的意識は、演劇人としてのスタニスラフスキーの生涯において一貫していたと言い得るが、ところが、ベネディティの伝記によれば、実は少なくとも1920年の段階でシステム中もっとも代表的な「感情の記憶(情緒の記憶)」の技法が、スタニスラフスキー自身によって放棄されている。というのは、この時点ですでに初期のスタニスラフスキー・システムは、晩年に完成を見る「身体的行動の方法」へと発展的に解消しつつあったということだ。この変遷を一言で言えば、感情・気分・意志・思考が先にあってそこから外的行動が生まれてくるとする精神優位の行動図式が、決定的転回を被ったということを意味する。
ではその「身体的行動の方法」の実態とは、いかなるものであったか。
- 方法論としての「身体的行動の方法」の原則は次の二つに要約される。
(1)行動は感情を呼び起こす。
(2)行動を「スコア(譜面)」として記録しておけば、その手順を辿ることで、俳優は安定して意図した感情を呼び起こすことができる。
ここで言う行動は、台本の余白やノートに記録しておけるほどシンプルではっきりしたものを指す。行動だから、その時の気分や感情は一切記録する必要はない。気分や感情は、「スコア」に記録された身体的行動によって安定してアクセス可能なものと考えられている。これが「身体的行動の方法」の発想だ。
これは想像力や記憶を媒介にして感情にアクセスしようとしていた初期のスタニスラフスキー・システムの発想とはまったく異なる。もちろん直接に(媒介なしに)感情に掴みかかることは不可能というのは大前提だし、行動の土台としての劇的状況への理解、役が持っている課題・動機への深い理解は依然として不可欠ではある(戯曲を分解し単位ごとに役の課題を抽出する分析方法、登場人物の一貫した目的や望みの理解と把握=「貫通行動」)。意識を通して無意識へ向かうという試行錯誤のプロセスも以前と変わらない。だが、「身体的行動の方法」において技法の力点は行動の本質の方に託されている。言わば、感情の記憶ならぬ「肉体の記憶」を媒介にした演技創造の方法論。
この方法論が実践に移された稽古場の様子は、おそらく次のように描出できるだろう。たとえば、ある役を与えられた俳優がいるとする。彼が直面している劇的状況は、負債で首が回らなくなりほとんど経済的に破滅しかかっている人生の瀬戸際で、起死回生の一手としてなんとかある役人の助力を得なければならない、という切羽詰まった窮地だ。しくじりはゆるされない。あの役人にも拒絶されてしまったら、もはや彼は浮浪者として極寒の路地で野垂れ死ぬか、あるいは自殺するかしかないのだ。彼は賄賂を使ってでも絶対にこの交渉を成功させなければならない(目的=課題)。彼は死の淵でぎりぎり踏みとどまっているような状況だ、あの役人を懐柔しないかぎり、彼はその深淵へ真っ逆さまに転落するという未来しかないのだ……その絶望感、背筋が凍るようなその恐怖! 彼は思い詰めた表情で夜の街を探しまわり、ある日、ついに酒場にその役人の姿を認めることになる。あの男だ! 幸運なことに、このような状況であれば人目につかずに賄賂を渡すことだってできそうだ……。彼は武者震いする。さあ、今夜こそ彼の運命が決まるのだ、彼は勇気をふるってその役人に話し掛けなければならない──
ここからその俳優の即興稽古(役人との会話シーン)がはじまるとして、しかし俳優はこの難しいシーンをどう演じたらよいか分からない。俳優は、この状況で彼(その役の男)がどのような「感情」を持つかうまく想像できないというのだ。しかしそんな俳優に対して演出家は言う。「そんなことは考えなくていい! その役の人間がどんな感情を持つのか? そんなことはどうでもいいのだ。考えるべきは、こういう状況・事情のもとできみ自身だったらどんな行動をとるか?ということにつきる。行動! 行動! さあ、やってみなさい。科白もト書きも無視してすべてアドリブで。しっかりと自分自身に引きつけてみて。この役人との一度切りの会話に、きみ自身の運命が、これまでのきみの人生の重みすべてがかかっているんだよ! 失敗は死を意味するんだ。かつてないほどにきみは慎重にならざるを得ないだろうし、同時に何の成果も得られないような臆病さにとどまってもいられない。相手の表情の変化にはおそろしく敏感にならざるを得ないだろう。目線の動きはどうなる? グラスの口に持っていくのだって気を遣わざるを得ない。言葉づかいは? 少しでも相手の機嫌を損ねないためにはどうしたらいい? 手の位置は? 姿勢は? お辞儀の仕方は? 相手との距離感は? いや、いや、ちがうよ、きみ! 強いて緊張している状態を演じようとしては駄目だ、表情をつくろうとしても駄目だ。むしろ、ここできみはできるだけ緊張しまいとするはずだろう? 相手に不審がられまいとするはずだろう? 目下の行動の目的は、交渉を成功させることだ、緊張することじゃあないんだからね。そら、見たまえ、(即興課題)どうやら相手はきみの頼みに耳を貸さずに店を出ようとしているらしいぞ! さあ、どうする? きみならどうする? このままじゃまずい、引き留めなくちゃ! でも腕を掴んだり立ちふさがったりなんて真似は駄目だ、そんな無茶なことはできない、それは最後の手段だ。ええ? どうしたらいいか見当がつかない? そんなはずはない、今まさにきみの身の破滅が賭けられているんだよ、しかもこれはきみの未来を切り開く千載一遇のチャンスでもあるんだ、見当がつかないなんてことがあるはずがない、きみがもしその状況にいたら、何かしら行動しているはずだ。さあ、やってみたまえ。ただ、やってみようじゃないか!」
もしこの即興稽古の目的が「上手く役を演じること」にあるのだとしたら、「ただ、やってみたまえ」と言われて俳優たちが途方にくれるのも無理はない。しかし、ここでの目的は、アドリブを重ねるうちにさまざまな「行動」の選択肢を発見し、その多くを切り捨てながらこの状況に最適な行動を見出していく、体験的かつ分析的な試行錯誤にあるのだ。俳優たちは「さあ、やってみたまえ」に始まる一連の稽古のなかで、その状況に応じた数多くの身体的行動の新鮮なアイディアを生み出すことができる。アドリブを多様に繰り返すうちに、そのシーンに適切な身体的行動の有機的な線も徐々に確定されていくことだろう。やがて、これ以外あり得ないというところまで妥当な身体的行動の線が洗練されたとき、そのときには俳優のシーンへの理解も、ほとんど身体化されるレベルにまで深まっているにちがいない。そしてそのレベルにまで達したならば、彼がすでに発見された身体的行動の線をなぞることによって、そのシーンにともなうはずの自然な内面をも繰り返し掻き立てることが可能となる。そう、これが、「身体的行動の方法」の原則にのっとった即興稽古が目指すところである(その後は、この確定された身体的行動の線をほとんど変えないまま、戯曲中の科白を使って演じる稽古を重ねていくことになる)。
注目すべきことは、上記のようにアドリブを通じて発見された身体的行動の線は、シンプルかつ具体的であるがゆえに、言葉としてそっくりそのまま書き留めることができる──小説における登場人物の身体的描写のように──という点だ。本来固定化し得ない感情をそのまま再体験しようとすることは、「感情の記憶(情緒の記憶)」の技法のようにたとえ個人の過去の体験を参照するにしても、そもそも無理があった。もとより「感情の記憶(情緒の記憶)」の技法では、想い起こされた個人的な体験と戯曲中の状況との誤差をどうやっても埋めようがない。しかし、「感情の記憶(情緒の記憶)」の技法を捨て去ったのち、スタニスラフスキーはあえて感情の領域には手を付けずに、書き留めておくことができる外面的な身体的行動のみを記録するという「スコア(譜面)」の技法を新たに発展させた。この「スコア」から誘発される感情はそのつど異なってよい。そこに揺れ幅があるとしても、「スコア」として具体的に固定された身体的行動の記録の線には、その劇的状況に即した動機や課題が封じ込められており、行動の中に潜在している妥当な内面状態を安定して呼び起こすことができるはずだからだ。むしろ、感情そのものの想起という無理難題から離れることによって、固定された身体的行動の点を辿りながら、俳優が自分のうちに呼び覚す感情は、常に新しい。新しいものでありながら「スコア」に準じた、安定して意図どおりのものであり得る。
このように、感情を誘発する身体的行動を生き生きした演技のために活用するというのが、スタニスラフスキーの演技術が最終的に到達した方法論であった。これはまた図らずも、「人間が自発的行為をするときには、身体の方が先に動きだしており、意識の方は時間を置いてその意図を知る、しかも意識は自分が身体に行動するように指示したのだと錯覚する」ということを提起している現代の神経生理学の知見に、即応するものでもあるようだ。
つけ加えておけば、「身体的行動の方法」の原則の有効性(行動で感情を呼び起こせる/記録可能である)を認識した上でなら、「感情の記憶」や「魔法のif」といった技法を補助的に用いていけない理由はない。むしろ適切な身体的行動の線を見出していくプロセスで、これらの技法は積極的に用いられるべきだろうし、ある意味、初期システムの技法は潜在的に「身体的行動の方法」の中に取り込まれているとも言えるだろう。「身体的行動の方法」を、初期のシステムの否定ではなく、スタニスラフスキー・システムの最終進化形と見なすべき所以である。
:アリソン・ホッジ編『二十世紀俳優トレーニング』第1章、第7章のレジュメ
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▼スタニスラフスキイ・システム
スタニフラフスキイは演劇においてリハーサルや戯曲の準備といった慣習全体を根底から変えた。明確で体系的な俳優トレーニングを構築した二十世紀最初の演劇人として、我々は何よりもまず彼の名を挙げなければならない。彼は生涯に渡って憑かれたような情熱で演技という実践を一つのシステムにまで高めようとした。もちろん、それは容易なことではあり得なかった。演技は自転車に乗るのと同じで、体系化して説明するより実際に行なう方が効果的であるから。
いずれにせよ、スタニスラフスキイのシステムには首尾一貫した認識的な前提がある。彼のエクササイズ、技法、関心領域はすべてそうした本質的な考えに基づいている。
その前提の中で第一に挙げられるのが、精神と身体の相互性という考えだ。彼はそのヒントをフランスの心理学者テオドール・リボーから得たらしい。リボーは「身体から切り離された情緒は存在しない」と主張した。それを敷衍してスタニスラフスキイは「あらゆる身体的行動には何か心理的なものが存在するし、心理的な行動には何か身体的なものが存在する」という認識に到った。あくまで身体と精神は相互的だということだ。彼は晩年にはまたこうも言っている、「人は俳優にさまざまな方途を与えなければならない。そのうちの一つは身体的行動の途である。しかしもう一つの途もある。諸君は、最初に感情を惹き起こし、感情から行動へ移ることもできる」。
この第一の前提の帰結として、スタニスラフスキイは身体の緊張は創造性の最大の敵だと考えた。全身の筋肉の緊張と緩和の状態の違いを経験的に習得させることは、彼の教えに当然のように含まれる。
システムの認識的な前提の第二のものは、観客を前にした演技の現前性の重要さという信念である。すなわち、上演中には本質的にダイナミックで即興的でありつづけることが俳優たちには要求される。俳優たちは、綿密にイントネーションと身振りを作り上げて登場人物を再現するためではなく、舞台上でその都度のインスピレーションによって登場人物を「体験する」(俗な言い方をすれば「役を生きる」)ことに向けて稽古を積まなければならない。システムは、「体験する」ことを促進するような心と身体の状態を俳優が発達させるのを助ける特別な技術を提案する。
スタニスラフスキイ・システムに含まれるエクササイズについて簡潔に羅列して紹介しよう。
たとえば「集中」。俳優は舞台上で集中力を研ぎ澄まし、あるいは集中力を自由に操作できるのでなければならない。そのためのエクササイズとして、古典的な鏡のエクササイズ(リーダーが動き、もう一人が正確にその動きを模倣する)や、聴覚の焦点を自分の居る空間→建物内の音すべて→戸外の通りの物音と広げていくエクササイズ、想像力だけで匂いや視覚的印象や味覚を再現する──そこからさらにそれらの諸感覚にともなう情緒の記憶もできるだけ鮮明にしてみる──エクササイズなどがある。
スタニスラフスキイはさらに「注意の輪」を意図的に変化させるエクササイズも提案している。俳優の注意の輪は、一番小さな時にはまったく自分自身の周囲だけに集中する。その時俳優は自分の周囲以外に存在する物は無視し、人前でも独りで部屋にいる時のように振舞う(いわゆる「衆人の前の孤独」)。これが上手くいけば俳優は舞台上で十分にくつろいで居られるだろう。注意の輪が中くらいになると、目の前の物よりは少し遠くにある物、テーブルの向こうの椅子やソファなどにまで注意が及んでいく。さらに注意の輪が最大になると、俳優の意識するものは(相手役であれ小道具であれ大道具であれ想像上のものであれ)舞台全体に広がる。この注意の輪を変化させることを通して、俳優は決められた範囲内の対象にだけ焦点を当てることを学ぶわけだ。さらには、或る一定の注意の輪を維持しながら舞台空間を歩いて、どんなものが目に入ってくるか、何を知覚するか、(目に見えなくても)何の存在を感じているかを意識し、後に立ち止まってからそれらをできるだけ正確に描写する、といったエクササイズもある。〔→空間歩き?〕
あるいは「想像力」。スタニスラフスキイ・システムにおいて、架空の環境をまるで現実のように取り扱う俳優の能力=想像力は決定的に重要である。スタニスラフスキイは「魔法のif」といった方法によって想像力を鍛えることを提案する。様々な出来事・事物・瞬間と自分との関係を変えるために、「もし……ならどうだろう?」と自分に問い掛けて、そこから想像力を活発に働かせてその細部にできるだけ正確に反応する、という方法だ。
あるいはまた「コミュニケーション」。スタニスラフスキイにとって、舞台の俳優同士の交流、俳優と観客との交流は演劇に欠かせないファクターである。しかし対話の言葉は演劇の持つ相互交流の力の一部に過ぎない。ヨーガの影響を受けていたスタニスラフスキイは、コミュニケーションを魂の電波のようなエネルギーの放射線の送受信としてイメージしていた。したがって俳優たちはまず言葉を使って演じる前に、無言の瞬間が自然に含まれる状況(「図書館でAはBが有名人に似ていると思って挨拶をしようとするが、Bは邪魔されたくない」「歯医者の待合室」「駅のプラットフォーム」)を即興で演じるようなトレーニングをこなすことが奨励される。
スタニスラフスキイ・システムは俳優のための戯曲分析の方法論も含む。俳優は戯曲を、まるで潜在的な演技を含む様々な手掛かりの体系として読むべきだということ。その方法論も、以下簡潔に紹介する。
スタニスラフスキーは演劇を他の芸術から分かつのは「行動」だと考えた。「行動」とは、服を着たり家を掃除したりといった場面の脈絡を作る「行為」とは区別される。戯曲中の「与えられた状況」によって登場人物に切迫する「問題」を解決するために、俳優たちが行なうものが「行動」だ。したがってそれは何かを──説得を、復讐を、和解を、誘惑を、保身を、略取を──達成しようとする。「行動」は「行為」と違って人間的な意味合いを色濃く帯び、そのために同じ動作、たとえば「手を握る」という動作であっても、謝罪をするために握るのか、親友をもてなすために握るのか、相手の出方を観察するために握るのか、愛想で相手を騙して信頼させようとして握るのか、自分より上位の権力者に迎合するために握るのか、で「行動」としての性格はまったく異なってくる。この「行動」を確定するために、スタニスラフスキイは戯曲を断片に分けて、一つ一つの断片について「与えられた状況」を読解し、登場人物の状況を形容詞で描写してみる(困惑的、焦燥的、自己卑下的、警戒的、親愛的、沈滞的、etc)ことを勧める。その形容詞は「問題」に結びついているのであり、俳優はその状況で定められた問題を解くために登場人物がどのような適切な「行動」をすべきかを決定する(スタニスラフスキイは行動の確定を助けるために例の「魔法のif」=「もし私がこの状況にあったら、どんな行動をとるだろう」を用いることも勧めている)。そして演技中、その行動のスコアに没頭することによって、自然に俳優の内にはその瞬間の登場人物の感情が湧き上がってくるはずだ。いや、その登場人物の「生活」さえまざまざと体験することができるはずだ。「行動」とは身体的でもあり精神的なものでもある。スタニスラフスキイが「与えられた状況」と言うことで歴史的背景、社会学的研究、さらに演出家の方針や舞台装置の効果の一切を含んでいることに注意せよ。
こうした発想の元には、登場人物のリアルな生活は、時によると役の内面的な仕事よりも役の身体的な動きを通してのほうがずっと容易に惹き起こされ、演技としても定着させ易い、というスタニスラフスキーの考えがある。戦略的な身体的行動の繋がりは「スコア」と呼ばれる。その状況に適した身体的行動のスコアは「魔法のif」によっても導けるが、スタニスラフスキイはさらに「無言のエチュード」という方法論を提案している。というのは、俳優たちに場面の一区切りをまず一切の科白抜きで即興で演じさせるという方法だ。この「無言のエチュード」によって俳優たちは非言語的な反応のみでその場面を身体化することができる。それによって導かれた説得力のある身振りと位置取りは、科白を用いる演技にもそのまま適用できるだろう。「無言のエチュード」は俳優たちがその場面の鍵となる要素を上手く表現できるようになるまで続けられる。すなわち、身体的行動のスコアのテストを繰り返すわけだ。
「無言のエチュード」の次には、その場面を俳優自身の言葉を使って即興で演じるという行動分析のプロセスが来る。「与えられた状況」として示される要素はすべて組み入れた上で、科白は覚えずに、その場面を即興で行なう。おそらく初めはその場面に必要な何かを幾つか落としてしまうはずだ。その場面を読み返すことでそうした要素をチェックし、即興をもう一度繰り返す。そうやってその場面の身体的行動のスコアを具体化していく。科白を覚えるのはその後だ。
稽古の初期の段階では戯曲のあらゆる局面での即興を奨励するのが、スタニスラフスキイの取り組み方であった。
二十世紀の俳優トレーニングの歴史は、スタニスラフスキイにその端緒を持つ。それは疑い得ない。だが我々は晩年のスタニスラフスキイの次の言葉も銘記しておくべきだろう。「『システム』は便覧です。開いて、読んでください。『システム』は手引書であって、哲学ではありません。/『システム』が哲学になり始めたら、それは終わりの瞬間です。/家では『システム』を検討しなさい、でも舞台ではそれについては忘れなさい。/『システム』を演じることなどできません。/『システム』など存在しません。自然があるだけです。」
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▼メソッド演技──ストラスバーグ、アドラー、マイズナー
スタニスラフスキイのテクニックの発展と普及を基礎づけた指導者として、リー・ストラスバーグ、ステラ・アドラー、サンフォード・マイズナーの三人を挙げられる。彼らの演劇へのアプローチは「メソッド」と呼ばれる(「スタニスラフスキイ・メソッド」の略)。彼ら三人は1930年代にニューヨークのグループ・シアターでともに活動していたのだが、各自が発展させた方法論でそれぞれ「メソッド」の別の側面を強調していた。とはいえ、それは互いに互いを排他するものではないし、「メソッド」のエクササイズの本質をなす原理に関しては、おおよそ三人は一致していたと言い得る。その原理とはたとえば以下のようなものである。
●俳優は、舞台上のあらゆる言葉、行動、関係性を正当化し、その根拠が確かなものとなるよう、リハーサルの間に考え抜かねばならない。
●登場人物の動機-目的を支えるために、俳優は、科白の言葉以外にも、登場人物のサブテキスト=登場人物の思考の過程を創造する必要がある。サブテキストは役の内面的な明確さを補う。
●役の形象化にあたっては、俳優は、その戯曲に特有の「与えられた状況」、時代様式や社会的背景や登場人物の生活、生き方、そして他の役との相関関係に到るまであらゆることを考慮に入れる。
●感情の真実性の強調。舞台上の情緒は振りをするのではなく、リアルなものでなければならない。そのために俳優は、衝撃に対して瞬間瞬間で動き、舞台上の出来事があたかも今現在、初めて実際に起きているように話したり聴いたりすることになる。「メソッド」演技においては、登場人物の性格は固定したものではなく、舞台上の出来事に対する流動的で自発的な反応としてある。
●リハーサルは台本に基づいて即興的に演じること──ちんぷんかんぷんに(ストラスバーグ)、置き換えながら(アドラー)、エクササイズの反復(マイズナー)──を含む。俳優は言葉の依存から解き放たれなければならない。
リー・ストラスバーグのアプローチで顕著なのは、リラックスと集中と情緒的記憶の重視だ。ストラスバーグにとって自由な演技はリラックスと集中で始まる。俳優は観客の前でリラックスしなければならないが、それは容易ではない。特に重要なのは顎の緊張を解くことだ。リラックスと集中が可能になれば、情緒がさまたげられることがなくなり、深く響く声とともに創造的な表現が解放される。「プライベート・モーメント」という、人が独りでいる時にする行為をそのまま演じるというエクササイズも、俳優の抑制を取り除くことを目的としたものである。「プライベート・モーメント」のエクササイズはまた、人前では抑圧されているような感情を俳優に例外的に経験させることもある(引っ込み思案だが音楽が好きな女優は、独りで部屋に居る時には音楽に合わせて好き勝手に激しく、表現豊かに踊るかもしれない)。
ストラスバーグの「情緒的記憶」の方法論は、舞台上の俳優の情緒は自発的なものであってはならない──それは常に思い出されただけの情緒であるべきだ、という考えに基づいている。たった今自発的に湧き上がった感情はコントロールできない(繰り返すこともできない)が、思い出された情緒ならコントロールも繰り返すこともできる。俳優のリアリティの基本的な源には、俳優自身の心と身体に染み込んだ過去があるというわけだ。そして俳優がリラックスしていればこそ、適切な感情を生じさせるために、情緒的記憶を無理なく引き金として用いることができるのだ。彼は言っている、一つの演技をくり返すためには「情緒的な記憶を(リハーサルの過程で)見つけ出し、それを持たなければならない、さもなければそれは外面をただくり返すだけになる」と。
ステラ・アドラーは俳優の技術の源として、情緒的記憶よりも想像力を強調する。アドラーは俳優に、意識的な過去よりも創造的な想像力に注意を向けさせようとする。しかし、アドラーにおいても感情の重要性が見過ごされているわけではない。登場人物に合致する状況を想像するためにいくら戯曲の時代背景や人々の生活や歴史研究を知的に「正確に」分析したとしても、俳優が感情を欠いたままなのであれば、実際の演技はつまらなくなる。重要なことは、内的感情を呼び起こすイメージをこそ想像力で描き出すことだ。万が一書かれた役と背景とが俳優に情緒的な霊感や感動を与えられない場合には、アドラーはイメージを別のものに移し替えることも奨励している。もし富士山を見て熱狂する気持ちを俳優が現実の富士山そのものに感じることが一切できないなら、富士山をモンブランに置き換えてもよいということだ。俳優は自分たちの想像力の内に、自分たちを反応させ、話させ、動かせるものをありありと描き出さなければならない。「俳優は自分たちを反応させるような事柄を意識的に取り上げるべきなのだ。何を選ぶかということにこそ才能が問われるのだ」。
アドラーの身体的行動の重視も、このことに関連する。ある場面にぴったりの身体的行動を見つける(それによって俳優は自然な情緒的反応に巻き込まれる)ことは、想像力によってぴったりしたイメージを描き出すことと類比的だ。アドラーにとって、演技の構成要素は想像力の中に見出され、戯曲の与えられた状況と身体的行動の要求に応じて調整されるのである。
サンフォード・マイズナーは言う、「演技の基礎は行動のリアリティである」。
マイズナーにとって演技の本質は行動にある。そこから役の他の面すべてが派生する。彼の教室には「考える前に行なえ」「一オンスの行為は一ポンドの言葉に値する」と書かれた標語が貼られていた。この点、マイズナーの志向は身体的行動を強調するアドラーに通ずるところががあるが、反復エクササイズを導入したことが彼の独自なところだ。
反復エクササイズは二人の俳優が互いに向き合いながらエッセンスを共有する科白(「君は私を見ている」/「私は君を見ている」)を無考えに反復する、という単純なものである。その反射的な応酬の中で、俳優は相手の俳優の中に知覚したものに応じて、科白を本能的によって変化させることが要求される。口にする言葉は単純であるだけに、「『頭』の作業すべて」が取り除かれ、想像上の操作さえ解除され、俳優の意識は互いに相手の身体に表われる徴候を読むことに集中することになる。俳優は共演者の観察に専念し、その結果「本能が相手の俳優の行為の変化と反復する対話の変化を嗅ぎ付け」、衝動的に、自然発生的にリアクションが飛び出してくる、というわけだ。俳優が反復エクササイズに慣れるにつれ、彼の観察力は表面の変化に潜む相手の感情や思考まで洞察できるようになっていき、それが「君は怒っている」、「君は嘲笑している」といった真正なリアクションをともなう言い回しに結実するまでになる。
反復エクササイズよって、抑圧されない本能的な行動を演技の中心に据えるという姿勢が、俳優に育まれる。共演者がどんな人間であるか、知的に・社会的に理解した情報=先入観はそのままでは受け取られず、俳優の自発的な反応は、まさにその場での現前的な知覚に従っていく。つまり、対話やプロット以上に俳優にとって現前的な観察の方が重要になっていく。反復エクササイズは、言葉よりもアンサンブルの相互作法、俳優同士の交感を育むことを促す。今、或る共演者が喚いている。それは舞台上に居る俳優の誰もが(そして観客のすべてが)聞いたり観察したりできることだ。そして別の俳優は相手の叫び喚くという行為の徴候を読み取り、本能的にそれに反応する。行為の徴候を読み取ることは、俳優にプロットの虚構性以上に場面の共演者に焦点を合わせることを強いるだろう。それによって演技=行動の原動力である衝動が洗練されるのだ。マイズナーは俳優たちが前もって計画した行為からではなく、どの瞬間にも(内的または外的な)刺激に対する反応から、自発的に出て来る「衝動的な」行為を創り出しながら、行動の真実性へ到達するよう、教える。
行動は関係性の中にある(登場人物の性格や戯曲のプロットの中ではなくて)。反復エクササイズはその認識を前提とする。反復エクササイズは、俳優が他の俳優との交流を通じて衝動が生じるところへ達することを、その目的とする。自分と相手との関係性なしには反復エクササイズはない。しかも、その相手とはまさに共演者のことであって、登場人物のことではないのだ。マイズナーに言わせれば、登場人物の形象化は、仕立て上げられた性格描写(=演技プラン)以上に相手役や観客との関係に基づいている。だからそれは流動的で自発的であるのが当然だ。共演者が行為を変えたら、私はその異なる徴候や刺激に応じて自分自身の行為を調節しなければならない。実際、現実生活において我々はそのようにやり取りしているではないか?
ジャズ演奏のような自発的なアンサンブル行為を重視する点で、マイズナーはストラスバーグとアドラー以上である。また、共演者を重視する点、マイズナーはスタニスラフスキイの「与えられた状況」の観念を「与えられた状況の中の誰か」という発想に切り替えたと言えるだろう。俳優間の真率な相互反応と、瞬間瞬間の自発的な行動がなければ、演技はその特質と力を失うとマイズナーは考えていた。そこから彼独自の「メソッド」への貢献が生まれたのだった。
余談だが、反復エクササイズによって活気づけられる関係性の中には、俳優対俳優だけでなく俳優と観客の結び付きも含まれることに注意しよう。
:ステラ・アドラー『魂の演技レッスン22』のレジュメ
- 「感性を磨け」とはよく言われる。もっとも重要なのは俳優の「目」だ。俳優は具体的にものを見なければならない。一般化された考えに満足しないこと。たとえば、「赤」と一言で言ってもさまざまな色がある。レーシングカーの赤、ハイビスカスの赤、マニキュアの赤、血の赤、古びた消火栓の赤、消防車のランプの赤。それぞれ違う。そして通常われわれはそれぞれの赤に対してまったく違ったリアクションの仕方をする。そのつど内面に生まれるはずのものが異なる。その差異を積極的に把握しているか?
科白を言うことだけが演技ではない。登場人物は、何らかの行動を常にしている。そしてそれらの行動は第一に「見る」ことから始まるのだ。
仮にここで「見て!」とだけ言っても、あなたがたは何をしたらいいか分からないだろう。しかし「眼鏡を掛けている人の数を数えて!」と言ったら、あなたがたはすぐさま何を見たらいいか理解する。どんなアクションにも着地点、つまり目的となるものがある。「目的が何か」がはっきりしていればそのゴールに向かって具体的に行動ができる(何に向かって行動をしかけるのかわからないままに動いたり、途中でうやむやにならないように注意せよ)。そして、具体的に実行できるアクションは、「見る」ことからすべてが始まるのだ。ものによっては、非常に細かく見る必要も出てくるだろう。
演技とはなんとなく漠然とやるものではない。あなたの周囲にあるもの全部が、あなたにとってリアルでなくてはならない。舞台に椅子がある。あなたが演じる人物にとって、その椅子は何なのか? あなたがその椅子に坐る、そのふさわしい坐り方とは何か? 背筋を伸ばすべきか、前屈みになるべきか? その椅子が舞台上でどんな意味を持つのかが分からなければ、分かっているふりをして演技をすることになる。俳優にとって最悪のことだ。
状況がリアルに想像できてこそ、演技にリアリティが生まれる。そこが海辺だとする。どんな場所か? 何がどこにあるか? 周囲の状況、環境はどうか? 舞台上の椅子はビーチに置かれていることになる。さて、あなたはそこが海辺だと信じて身体を反応させることができるか? 戯曲を読んでも「そこは浜辺である」としか書いていない。それがどんな浜辺であるか、イマジネーションを使って作り出すのは俳優の仕事だ。
舞台の上でイマジネーションを使うことがどれだけ大切か! 状況を使うことがどれだけ大切か! 「アートにリアリティをもたらすものは状況」と、スタニスラフスキーも言っている。状況が分からなければ、演技も空疎になる。自分でも漠然としか理解できていないものが、観客に伝わるはずはなかろう。
あるいはまた、スタニスラフスキーは「舞台で夕食をとってはいけない」とも言った。どういう意味か? 「夕食をとる」というだけでは漠然としすぎている、どんな夕食なのか、テーブルの上にのっているものは何か、食器の格調は、……そういった周囲の状況を具体的にしないかぎり演じることは不可能だ、という意味だ。状況が変わったのに演技がほとんど変わらないとしたら、それは何かが致命的に間違っているということだ。
もう少し「状況」の話をしよう。ここでもポイントは「目」だ。目に見えるように想像すること。
架空の場所を想像してみよう。あなたは広場にいる、人々があなたのスピーチを聞きに集まっている。はっきり具体的に想像すること。広場の周りにはどんな建物がある? そこはどんな地域か? 何年、何月? 集まっているのはどんな人たち? 彼らはどんな服を着ている? 社会的な階層は? 古い建物がある歴史的な広場なのか、公園なのか? 公園だとしたら周囲にはどんな木がある? 花は? そのすべてが「目に浮かぶように」ヴィジュアルで想像できなくてはならない。俳優の目に見えて初めて、観客も同じものを見ることができる。俳優が漠然とした気分で満足していたら観客には何も伝わらない。
観客に理解させるということは、観客の目にも見えるように話す、ということ。ステージで話す言葉は、目に見えるぐらいにクリアーでなければならない。
たとえばあなたがカーネーションをプレゼントされたと仮定する。そのときそのカーネーションがはっきりあなたに見えていたら(「とても鮮やかな赤色のカーネーションだ、信じられないほどの深い赤色だ!」)、豊かな表現が出せるようになる。逆に、芝居がかった大袈裟な演技をする人は、カーネーションをきちんと心で見ずに、感動をでっちあげているというわけだ。
「自分だけが分かっていればいいや」という態度は即刻捨てること。あなたの目に見えるもの、あなたに分かるもの、それを他者と共有するよう努力せよ。
目に見えるように話す……つまり、視覚的な像を浮かべることが非常に重要だということ。たとえばお札を思い浮かべるのならば、金額ではなくて、そのお札が真新しいか、汚れているかということこそがまず思い浮かぶのでなければならない。
視覚的に状況を想像=創造する。たとえば中国の皇帝のガウンを想像してみよ。上達しないうちはイメージするのに時間が掛かって当然だ。すらすらと「これはオレンジ色で錦織のガウンです」と口にするのは、ただ文章を読み上げているだけだ。実際にガウンの映像をたぐりよせ、心の目でそれを見ようとし、言葉を探そうとすれば、科白を言う前に間が入るはずだ。「(間)それはオレンジ色のガウンでした。大変鮮やかなオレンジ色をしていました」というふうに。
「ここはどこ? これは何だろう? 私が見ているのは何?」とつねに自分に尋ねること。脚本に書かれていることをやってみせるだけでは全然足りない。
上達したら、場所やモノだけでなく自分がはたらきかける相手も想像の中に入れること。
演技が上手くいかない場合、状況が把握できていないことが多い。科白だけに頼っている。もちろん科白にも状況説明は入っているが、それだけでは演技にはならない。
演技をする際、まず第一に考えるべきは場所、状況だ。「ここはどこだろう?」そこがどんな場所かしっかり想像し、把握できれば、動きが自然にできるはずだ。さらに「どこに、どんなものがある?」と想像せよ。想像で描いた状況を真実のものと信じれば、それにふさわしい人物たちの動きも見えてくる。あなたの動きは周囲の環境を背負ったものとなる。それができない人間が「演技しなきゃ」と必死になり、わかっているふりをして感情を無理やりこめる。それでは観客に通用しない。
上記のことは演出家も理解すべきことだ。人物と作品が置かれた状況ついて理解せず「こういう雰囲気で演じてくれ」などと言い出す演出家は万死に値する。技術がない証拠。「それっぽく見せればいいや」という貧しい考えの持主だ。
- 演技とは何を見たかレポートすることではない。演技とは体験することだ。たとえば「かわいそうな馬が、鞭で打たれている」と言うのは演技ではない。「見ろよ、あの人、鞭で叩いている、なんてかわいそうな馬だろう、ひどいなあ……」これなら演技だ。前者は最初から馬がかわいそうだと感想を決めてしまっているのに対して、後者は現実の状況に心を動かされてから「かわいそう」と言っている。後者の順序であればこそ、話者が見ているものを観客も体験できるのだ。これは簡単な例だが、演技の本質はここにある。
あるいは子供が車にはねられた、としたら? まず叫び声を聞いて、それから感情的なリアクションが生まれる。リアクションを無理やり作っては駄目だ。今、目の前で起こっていることをありありと感じれば、リアクションも自然に生まれてくるものだ。あるいは今、あなたに手渡されたボウルに「とても熱いお湯が入っているよ!」と言われたらどうする? 「いかにも熱そうに見せなきゃ」という態度は間違いだ。その熱さを想像して、しかるべき反応をするだけで十分なのだ。
たしかにそれは容易ではない。日常生活においては、私たちはつねに環境・状況の中にいるから、自分が何を見ているかなんて意識しないでも、それなりに状況に反応して行動できる。舞台では、その状況を自分で想像して作らなくてはならない。でなければリアクションは自分勝手な、周囲とつりあわないものになる。
当然ながら、あなたに対する相手役の俳優も、あなたの想像の中の一部である。あなたが相手をどのような人物として想像している=受け止めているかによって、あなたは刺激を受ける。嫌な相手に対するのと好もしい相手に対するのでは、まったく感情が異なるだろう。その上で相手の言うこと、やることをちゃんと見て理解しなければ、的確なリアクションを返すことはできない。
ためしにシンプルな演技、シンプルなアクションをやってみよ。
言うまでもなく、いきなり科白を言ったりアクションを起こしたりするのは愚か者のやることだ。どんなシンプルな行動であっても必ず準備・確認が必要。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。その状況に対してどんな意識を持っているのか。その行動をやる前とやる後ではどう状況が変わるのか。それをきちんと(観客にも伝わるように)具体的に想像しなければならない。想像が具体的であればあるほど、目的もなくふらふらしなくて済む。
舞台で何か探すという演技をするとき、目線を単にきょろきょろ動かすだけの俳優がいる。愚かしい。舞台上の状況に全然集中できていないからそうなる。あなたはそれがどれほど致命的に嘘っぽいお芝居か、理解しなければならない。
例えば「空き瓶を手に取って飲む」というアクションについて。空き瓶に飲み物が入っている、という演技をするわけだから、アクションする前にはまず「飲み物はどれだけ入っているんだろう?」という疑問を持ってしかるべきだ。それから空っぽの状態と満タン、両方の状態を想定して瓶を持ち上げる練習をしなければならない。中身の状態に応じて腕の筋肉がどう動くかを記憶する。この練習だけで二十分は掛かるだろう。「いかにも中身が入っているように見せ掛けよう」といくら意識しても無意味だ。それは演技ではない。心をごまかすのは簡単、しかし身体に嘘をつかせるのははるかに難しい。むしろ筋肉を正確に・正直に動かすことで、身体に自然なリアクションを引き起こしていくことが、正しいやり方だ。心についても、身体が本当の動きをすればきちんと反応してくれる(固く閉められた瓶をフタを開けたときの「ふぅ!」と一息つく感じ等)。
必要に応じて筋肉をさまざまに的確に動かす。それができるようになるには、重い段ボール箱を持ち上げたり、固く閉めた瓶の蓋を開けたり、針の穴に糸を通したり、ドアを開けたり、パイプ椅子を引いたりするとき、どこの筋肉にどれくらいの力が入っているか、注意深く意識して身体に記憶させるというエクササイズを色々やってみるべきだ。大袈裟に身体を使ったり嘘の動作を作らないようにするために。適当なふりだけでやっている動きは、観客はすぐにそれと見抜く。
こうした準備を怠って舞台に出るのは、家から出る時服を着るのを忘れるに等しい。
つまらない演技はしたくない。といってオーバーにやりすぎて「わざとらしい」と観客に思われたくもない。これが現代の俳優が直面するジレンマだろう。だがこの問題への答はただ単純に、「状況に対して誠実に演技をせよ」だ。細部まで想像して演じれば、誠実さが出て、説得力が増す。リアクションが生き生きとしてくる。
与えられた状況の中でイマジネーションを使えば、どんな行動も豊かになる。「普通はこうするものだ」という紋切型の演技ではいけない。
そして、想像の世界に生命を吹き込むには、理屈にあわないほど大袈裟にしてみてもかまわない。観客にはそれを受け入れる力がある。時には理屈を離れ、荒唐無稽になってもいい。
舞台の袖で出番を待つ時間は居心地の悪いものだ。緊張に対してどう対処すればいいか? リラクゼーション法? 呼吸法?
これは別に難しく考える必要はない。舞台に出る前からすでにあなたの「状況」へのかかわりは始まっているからだ。本番待ちの時間を最大限利用して、劇で描かれる状況および舞台に登場したら行うアクションについて想像を巡らすこと。時代や社会や環境を意識的に把握すること。衣装のボタンを観察してその時代のことを想像したり、「こんなボタンが付いているスーツを着る男はどんな階級に属しているんだろう」と考えてもいい。小道具を手に持ち、作品の世界をイメージしてもいい。その小道具にふさわしいライフスタイルについて考えよう。これから出ていくところが庭園なら、その庭園をしっかり想像して慣れること。その庭園があなたの寝床と同じくらいに懐かしくて心を落着けるようになるほどに。
想像は、もちろん単に知識として想起されるだけでは駄目だ。しっかりとそれがあなたの目に見えるのでなければならない。その場所や状況にふさわしい、その世界に存在するものとして。「確かに私はそれを見た!」と感じられるように準備しなければならない。
劇に描かれる状況、環境を細かく細かく想像するこに没頭すれば、観客を気にする暇などなくなるだろう。逆に観客のことが気になるとすれば、あなたが劇の中の世界に没頭できていないということだ。
舞台の袖にいる時から、あなたの演技は始まっているのだ。「舞台の中央に行ってから演技を始めよう」というわけにはいかない。あなたが舞台の中へ登場するにも、想像で作られた理由が存在しているはずなのだ。「郵便物を届ける」のだったら、すでにそのアクションをやりながら舞台に登場するのでなければならない。舞台に登場してから「さあ、郵便物をお渡ししますよ」というのでは遅い。あなたはどこからやってきたのか? あなたはどこへ出て行くのか? 舞台の袖でぼんやりと突っ立っているわけにはいかない。きちんと舞台上の状況の中に歩いて入って行く理由を考え、想像すること。
- 人物がどんな人間か、その人の感情を見ても判断はできない。行動が人物を表わすのだ。感情は行動の結果生まれるものだ。役作りの基本は、「その人物は何をするのか?」を知ることにある。
「あの時、僕は泣いた」「この時、私はこう感じた」という過去の体験はそのまま演技に持ち込むことはできない。使うべきは感情ではなく、過去にあなたが起こした行動だからだ。その時の状況をしっかりと思い浮かべながら、どう感じたかではなく「何をしたのか」を思い出すこと。それにつれて感情は自然に湧いてくるはずだ。そして舞台の上では実際の行動からひらめきを得て、作品に描かれる世界の中で行動するのだ。
あなたは「演技するぞ!」などと力んではならない。演技するのではなく、行動しなければならない。
俳優の道を目指すなら、さまざまなアクション動詞を使いこなせる必要がある。つまり、人間の行動全般に対する理解を深めること。
たとえば単に科白の言うだけであっても、「話す」、「しゃべる」、「会話する」、「議論する」、「口論する」──それぞれリアリティのあり様は異なる。「話す」はコミュニケーションの基本。自分の体験してもいないことでも何でも話題にできる。声のトーンは事務的で、感情は出ない。「しゃべる」はもっと軽薄な調子。心地良く、礼儀正しく、風のようで、軽い。中身はない。単なる時間つぶし。「会話する」は一種の社会的行為だ。人間は社会に適応する手段として会話する。きちんと相手の言葉を聞き、受け答えする。といっても「議論する」レベルまでは行かない。大抵「会話」のなかではそこまで相手に肉迫しようという欲求は起こらない。「議論する」、すなわち思想や価値観について持論を戦わせることは、近代演劇の核だ。二人の登場人物が舞台上で互いに同意しあったら、そこで劇は終わり。「議論」が成立するには、二つ以上の異なった視点があり、参加者がそのトピックに対して真剣でなければならない。そのやり取りには燃えるような何かがある。「絶対にこれを言わなければ!」というモチベーションがある。あらかじめ用意しておいた考えを述べるのではなく、必ず相手に対する反応として自分の発言がある。それが「議論する」というアクションだ。こうした要素をすべて備えていなければ、その行動は「議論」でなくなってしまう。「口論する」は「議論する」の発展形。怒りにまかせて発言する。相手の発言を論理的には聞いていない。
ある種の動詞は必ず周囲の状況への想像をともなう。例えば「衣服を手で洗う」だったら水への想像力が不可欠だ。「火を起こす」というアクションなら、ちゃんと目の前に火を起こせる状況を作り出さなければならない。
そして、大抵のアクションはそれが働きかける相手を必要とする。たとえば「世話をする」というアクション。これは相手が誰かによって、行動の仕方が変化する。あるいは医師や看護士として行うなら、病院に行って観察してこなければならない。
そしてまた、「教える」というアクション。それは「説明する」というアクションとはまったく異なるものだ。教えるには、教えるだけの価値があるものを自分のなかに抱いていなければならない。「説明する」よりももっと切実なアクションでなければならない。「これから○○を教えます」なんて気の抜けた始まり方はしない。「是非教えたい!」という衝動がまずあるべきなのだから。この衝動を作り出すにも、場所、時間、状況、相手に対する想像力が不可欠である。
さらに言えば、アクションには強いものと弱いものとがある。強いアクションには終着点=目的がある。「何かが飲みたい」は弱い。「コーヒーを飲みたい」なら強い。「どこかへ行こう」は弱い。「公園へ散歩に行こう」なら強い。
ただし、演劇で行うアクションは日常生活と同じでは困る。演劇では一瞬たりとも退屈な時間があってはならないからだ。つまらないアクションがつづけば観客は居眠りしはじめる。そこに、日常生活との違いがある。「実際にはこれだけの時間がかかる」と分かっていても、それと同じ動きを舞台で表現するときは、アクションを凝縮して見せる必要があるわけだ。「この動作にどれだけ時間をかける価値があるだろうか?」と自問し、ひとつひとつの動作を短くし、無駄を省き、編集すること。たとえば、電話帳で頭文字Hのページを探してある名前を探そうとするアクション。実生活と同じ所要時間をかけて見せるほど価値のあるアクションではない。だから、編集する。前もってどのページを開くか分かるようにしておき、そこを開いたら、いくつかの名前を読むだけで、目当ての番号に鉛筆でマークをつける。これだけでいい。これだけで、アクションが表わそうとする真実を伝えることができる。
あらゆるアクションは舞台上で行えるほどの分量で、観客に飽きられる前に切り上げられるものでなければならない。舞台で沢山のことをする必要はないのだ。だからこそ人間の行動の緻密な分析を徹底せよ。それぞれの行動で一番重要な核をつかむこと。「自然体の演技」「リアルな生活感」などといったちゃちなものを舞台に持ち込まないように。
あらゆるアクションには動機がある。何の理由もなしに窓を開ける人間がいるだろうか? 「暑いから」、「煙草の臭いが籠っているから」、窓を開ける。アクションを行う理由は脚本=アウトラインには書かれていない。あなたが考えて選ぶのだ。しっかりした理由をもとにアクションを行えば、それにつれて何かを感じる──自然に感情が生まれてくる。何も感じないなら、理由が漠然としているか、状況に合っていないかだ。
そう、アクションに理由づけをするということは、ようするにシチュエーションを細かくリアルに想像するということと同値だ。暑いから窓を開けるなら、室内が暑いということがすでに想像されている。煙草の臭いの換気のために窓を開けるなら、大量の煙草を吸っているという状況がすでに想像されている。どんなありふれたアクションにも想像力を使った理由づけは必須である。
科白を発話する行為にも動機がある。たとえば「あなたのその服、似合ってるわね」という科白。なぜそんなことを相手に言うのか。初対面の相手の機嫌を取るためのお世辞か? 相手のことが好きで、ほんとうにそう感じているのか? それとも嫌いな相手への皮肉か? 隠れた理由づけはどれだけ深くてもいい。理由もなしに科白を言うのは、単に決められた架空の科白を機械的に肉声に置き換えているというだけだ。あなたは相手の科白を今初めて聞いたのだ! だから、あなたは毎回言葉を言う理由を思い付いてリアクションをしなくてはならない。
あらゆる場面で理由づけが正確になされなければ、真実の効果は得られない。たとえば、チェーホフの戯曲を読んでみるがいい……科白だけを表面的に読み上げるのではほとんど面白さを感じることができないだろう。
- アクション動詞の中でもっとも厄介なものの一つ、「回想する」についてやや詳しく述べよう。
「回想する」アクションは近代演劇で頻繁に出てくるものだ。古きよき過去を振り返るアクション。ときに耐えがたい現実からの逃避も表わす。
回想は相手に働きかけることを意図しない例外的なアクションである。回想する人は現実から離れ、かつて見たものを再び目に浮かべ、思い出の世界に遊び、周囲のものを度外視し、ほとんどモノローグの中にひきこもってしまう。したがって、回想することは「小さい頃、イギリスに行ったことがあってね……」とストーリーを語ることとは異なる。回想は相手が聞いていようと聞いていまいとおかまいなしに行われるからだ。しかも、身体的動作もまったく必要ない。手をさっさと動かして何かを「(記憶から引き出して)描写する」こととも違うわけだ。
回想とはひとり語りだ。回想とは、過去を追体験することだ。回想することが引っぱり出すのは大抵愛した人や愛したものである。回想のなかで美しいものはより美しく、悲しみはより深く感じられる。すでに消え去ってしまったけれど、まだ自分のなかでは痛切に生きているものを精神によって優美に再構築すること。回想というアクションは、どう転んでもカジュアルにはできない。ダークなレベルで、ハイレベルで行うことになる。
「回想する」には、一定の時間を掛ける必要がある。ゆっくりと、ゆっくりと回想の世界に入り体験をなぞるようにしなければならない。暗記したテキストをちゃっちゃか性急なテンポで喋るだけでは、回想はまったく空疎なものになってしまう。稽古においては、まず回想するものごとをしっかり想像して、自分のものにすること。そして、回想を始める前、回想を始めるきっかけとなるイメージを必ず思い描くようにすること。回想がなされるからには、何か自分に過去を思い出させるきっかけがあったわけだ。それを具体化すること。
さらなる次のステップとして、その人物が回想を行う理由を想像しよう。なぜその人物は、突然そこで過去の追憶にとらわれてしまったのだろうか。人生の原点を探そうという衝動に憑かれたからか? 離れて暮らしている家族のことが気になったからか? それとも、今の現実の生活があまりにも辛いからか? 「回想する」だけではアクションにならない。回想のアクションをアクションたらしめるものは日常生活のレベルとは異なる悲劇的なレベルだ。その内容に生命を与えなければならない。
最後に、「回想する」は回想の世界から現実の世界に戻る契機を得て、完結する。回想からの出口のアクションもきちんと構想すること。
俳優は、人物の心の中にあるものをも見せなければならない。それができてはじめて人物を演じたと言える。たとえば、非常にパワフルな怒りを表現するには、単に怒っているという身振りだけでは足りない。それではタクシーの運転手の怒りに過ぎない。真実の怒りは心の中にこそ鬱積する。神への怒り、人類に対する怒りを表現しようと思えば、叙事詩のように壮大なサイズが必要だ。
等身大の人物を演じることには意味がない。自分と違う人物をただ演じることにも意味はない。自分より大きな役を演じることにこそ意味がある。それは偉大な人物を自分のサイズに合わせて縮小して演じるというのとは真逆のことだ。
話し方にも大きなサイズが必要だ。薄っぺらくて小さい声では駄目だ。内輪だけのおしゃべりから抜け出すこと。よく言われる「日常生活のリアル感」というのは日常に対するちゃちな考えの反映にすぎない。偉大な思想を孕んでいる科白を「タバコ一本くれる?」と言うような感じでしか言えないのでは、お話にならない。
当然ながら、俳優にはテキストの読解力が必須である。非常に長いモノローグを発話するとき、どのように感情を変化させていけばよいのか? まずはそのモノローグを、意味やメッセージのかたまり、部分に分けて解釈する。そしてそのモノローグの中核のアイディアを(時には複数)抽出する。それを目に見えるイメージの想像によって置き換え、そのアイディアに共感する。最後にそれらを、全体として一つの意味が次々に発展していくような流れになるよう抑揚やエンファシスを組む。
つねに言葉の裏のイメージが目に見えているかと、問え。つねに映像を目に浮かべられるように準備せよ。「それぞれの言葉が表わしているのは、こういうイメージなんだ」という解釈を深めること。
:サンフォード・マイズナー『サンフォード・マイズナー・オン・アクティング』より抜き書き
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▼簡易レジュメ(マイズナー・テクニック実践メモ)
【1】
・目を使って、隣りにいるパートナーを観察して、観察したことを数え上げる。それは、何かの役になってやるのではなく、自分自身の自発的な行為として行なう。やるべきことは具体的なのだから、ただやればいいだけだ。頭を使う必要はない。
・同様に、今度は耳を使って、相手が言ったことを正確にくり返す。或いは逆に自分が何かを言って相手にそれをくり返させる。相手を見て目につく特徴をそのまま口にすればいい。考え込む必要はまったくない。「黒いセーターを着ている」。その程度のことでいいのだ。そしてその言葉を二人で交互にくり返す。聞いて、口にする。それをくり返す。単調に思われるかもしれないが、これは頭を使わずにただお互いに相手の言うことを聞き、それに反応することによって生まれる関係の端緒なのだ。この端緒が最後には感情を含んだ会話となる。
・次に、言葉の繰り返しをもう少し人間的なものにする。相手から「君はペンを持ち歩いている」と言われたら、「ええ、僕はペンを持ち歩いています」と内容を変えずに同意の形で応える。それをやはり交互にくり返す。重要なのは、何も考えずに、自分の言うことを操作しようとせずに、単純にやること。そうすれば自意識はなくなり、自分が具体的に実行していることに集中できる。それが役というものなのだ。役とは、何かを演じるということではない。具体的に行動していればそこには確実に役が現われるのだ。
【2】
・ふたたび、相手を観察して出て来た言葉(或いは相手の何かの行動から反射的に出て来た言葉)を同意の形に直して内容を変えずに二人でくり返すということをやる。しかし今度は、そのくり返しをやっているうちに本能的に・瞬間的に衝動が起こったら、言葉のやり取りを変化させてよいものとする。何か相手の言い方や態度(や沈黙)が自分の本能に働きかけてくる瞬間を待つのだ。注意しなければならない。本能による変化が起きないとしたら、それはあなたが「上品でなければならない」「理性的でなければならない」「礼儀正しくなければならない」といった自意識に縛られて、自分の言うことをコントロールしてしまっているからだ。頭を使い過ぎるな。言葉の受け答えを操作しようとするな。頭の中で会話を勝手に書き上げるな! 本当の本能的な発言を抑えようとするな。抑えようとするから顎に緊張が起こる。それは俳優にとって良いことではない。だからこそ、くり返しによって自意識を稀薄にしようというのだ。勝手に頭で考えて何かを作り出してはいけない。礼儀正しくないことでも、大人のやるべきことでなくとも、あなたはそれを衝動に従ってやらなければならない。
・くり返しは、頭による操作をすべて取り去り、リラックスして、感情と衝動が自由に働くようにするためのものだった。作り物でない感情と衝動がだ。だからこそくり返しは退屈な練習ではない。
・わざと感情を出したりする必要はない。衝動はそれが起こればもはや隠すことはできないのだから。
【3】
・台本を使ったエクササイズ。だがテキストをこの感じとか気分とか、あなたが考えたものに従って読んではならない。頭を使わないこと。すべての注意を相手役だけに向け、リラックスして相手役に感応し、次から次へと感情的に移って行く。そして自分の衝動と本能だけを使うこと。「演技とはすべてお互いに影響を与える衝動のやり取りだ」。これは本質的には即興だ。
・台本は一切の抑揚を付けずに、機械的な精密さでまずは覚える。科白を勝手に感情的に把握するな。解釈せず、固執せず、リラックスして覚えること。そのように透明なものとして科白を覚えてしまえば、あとは感情はパートナーが与えてくれるものから出て来るのだ。
・科白を使って相手役と会話する。その時、自分の行動を起こすきっかけの相手の科白を待つのではない。相手の話を聞きながら衝動を拾い上げるのだ。そしてその衝動を相手が話終わるまで保つ。拾い上げるべきは科白ではなくて衝動だ。自分の科白のための衝動や感情が起きるかどうか? 衝動とうまく同調するためには、もっとよく台本を覚えていなければならないだろう。次の科白のことを考えてしまうと、感情の流れが止まってしまう。
・原則は「あなたに何かをさせることが起こるまで、何もするな」だ。
【4】
・科白も覚えた。相手役を前にして本能と衝動を使いこなせるようになった。次は感情準備だ。自分が登場するシーンに「空っぽのまま出て来る」ことをしないために、シーンを生き生きとした状態で始めるために、そこに想像力によって感情的な状況を付け加える。科白も何も変えずに、感情的状況だけを付け加えるのだ。なぜなら演技にとって意味のあることは、何か感情的なものだからだ。想像のもの(例えば劇場の壁に向かって降りしきる雪を見るとか)を見るという問題は、その見た時の感情が自分の中にあれば簡単に解決できる。
・ただし感情の準備はシーンの最初の瞬間しか続かない。
・感情準備のために想像する状況は、抑制もなく、礼儀作法にも捕われず、個人的かつ私秘的なものとして空想されるべきだ。空想することは恥ずかしいことじゃない! フロイトは我々の空想はすべて性欲と野心に関係していると述べたが、これはヒントになるだろう。空想の内容はそのシーンの必要性と必ずしも関連している必要はない。できるだけ感情を揺さぶられた状態で、感情準備をいっぱいにして舞台に出て行くことが重要なのだ。一度手に入れたら、感情はあなたとパートナーと観客に感染するだろう。しかしあなたが持っていない感情を無理に見せようとしたら、最低の結果となるだろう。
※マイズナー・テクニックはフロイトの自由連想法における分析者と被分析者の「無意識が意識を迂回して他人の無意識に反応する」動的関係=転移に近いのではないか? 自己の注意力からすべての意識的影響を遠ざける「平等に漂う注意」の状態の重要性。
《……他者の無意識的表明を意識を介さず理解するこの能力は、また精神分析技法を支える重要な柱でもある。一二年のテクスト「精神分析治療における医師への諸注意」を見てみよう。そこではフロイトは、患者が与える情報の処理方法について語っている。医師はときに複数の患者を同時に扱う。しかしそのとき、「ひとりの患者が何ヵ月、何年にもわたり持ち出す無数の名前、日付、想起の細部、思いつき、治療中の症状生産物をすべて記憶にとどめ、さらにそれらの記憶を、それと同時あるいはそれ以前に分析したほかの患者が呼び出した類似の材料と混同しないようにする」ことは明らかに不可能だ。ではどうするか。フロイトの助言はきわめて簡潔だ。医師は患者の話を聞くだけでよい。「自己の注意力からすべての意識的影響を遠ざけ、自らの『無意識的記憶』に完全に身を委ね」れば、「医師の無意識は自分に語られた無意識の派生物から、患者の諸々の思いつきを決定している無意識を再構成することができる」だろう。……あらゆる意識的注意を排したその純粋な聴取状態を、フロイトは「平等に漂う注意」と呼んでいる。そしてその分析者の技法は、「思いついたことをすべて、いかなる批判も選択もなしに語れという被分析者への要請」に構造的に対応するものだった。ここで主張されていることは明確である。分析状況においては、分析者の意識も被分析者の意識も大きな役割を演じてはならない。彼らの無意識は直に、媒介によらず応答しあう。一五年の論文「無意識」ではフロイトは、その状態を「UbwがBwを迂回して他人のUbwに反応する」と表現している。無意識が声-意識、つまり自己の固有性から遠いのは、この迂回、他者の無意識との連結可能性のためである。そしてその連結は具体的には、夫婦関係や分析状況、つまり転移において生じる。》(東浩紀『存在論的、郵便的』第四章)
※山城むつみの『ドストエフスキー』からの次の一節も啓発的かもしれない。やはり何故リピティションによって本能的に・瞬間的に衝動が起こるのかは謎だからだ。そもそも我々は相手の言葉を聞いてそれをくり返す、自分の言葉を相手が聞いてそれをくり返される、という耳と口とを使って身体的に生じてしまう生まの関係性に対してアレルギーを持っていて、普段は礼儀や自意識の強度でその違和感を抑え込んでいるのだが、一旦その抑圧が除去されると、そのアレルギー反応が衝動として俄然不気味に賦活されてしまうということだろうか。つまり相手の意識によって自分の生み出した言葉が模写されると、物凄い気持悪さを感じるということ。自分一人で自分の言葉を聞いているかぎり命題A=命題Aの同一性は揺るぎないが、それが他人の口によって模写されると命題A≠命題A'のように同一性が揺るがされ始め、他者性の光が破壊的に差込んで来る。「言葉が同じなら他人の口から発せられても全く同じニュアンスで響くという人はいないだろう」。それが──普段のなめらなか日常会話の中では見えて来ない──対人コミュニケーションの本源的な不思議さというものだろうか?
《私はバカだと思う、そう思うばかりでなく、そう人に言いもする、そういう謙虚な人も、人から「おまえはバカだ」と言われるとカチンと来る。どうしてだ、私はバカだと言いながら、実は本気でそう思っておらず、ただ人前ではへりくだってそう言ってみただけだからか。そういう場合もあるだろう。だが、では、私はバカだと本気でそう考えていれば、他人から「おまえはバカだ」と言われても、カチンと来ないものなのか。そんなことはない。言葉が同じなら他人の口から発せられても全く同じニュアンスで響くという人はいないだろう。自分で私はバカだと言うのと、他人が「おまえはバカだ」と言うのと、指している事柄、言わんとしている意味は全く同じなのにニュアンスは反対になってしまうはずだ。では、どうしてそういうことになるのか。言った言葉の内容のためではない。言い方のためでもない。意味(内容)も言い方(形式)も全く同じであってさえ、その言葉を発するのが自分の口なのか他人の口なのかによって全く別の価値を持ってしまう。考えてみると、これはフシギなことではないか。誰かこのフシギを解いてくれているのだろうか。言語学は、むしろ、それを切り捨てることで学として成立してはいないか。些末なことにこだわるようだが、生の言葉が、文学において、いや、すでに日常生活において、魅惑なり眩惑なり、あるいは困惑なり迷惑なり、あるいは笑いなり嘲りなりを振り撒きながら人々の間を往来する理由を考えつめてゆくとこのフシギに行き当る。》(山城むつみ『ドストエフスキー』序章)
※過去のWSから参考になると思われる何やかや
・「何も演出をつけなくても、見たものをただ伝えようとするだけでこれほどに豊かな仕草が出てくる。ただ見たもの、イメージしたものに対してリアクションするだけでいいのだ。戯曲中の科白だって、相手のイメージ──美しい人、ウザい人、駄目人間──に対するリアクションとして語るから、語調もアクセントも千差万別になる。」
・「見たものに対するリアクションではなく、自分の中から悲痛さを出そう出そう、自分の中から出てきたものでやろうとするから、嘘っぽくなる。リアクションでやれば、すべては真実になるはず。表現しようとしなくていい。ただ見る。そしてリアクションとして言う。ちゃんと見ているなら、眼以外のところでも身体は色々反応しているはず。」
・「メールだけでやりとりしているのでないかぎり、実際の対面での会話においても、言葉だけのやり取り以外にそういう丹田でのつながりみたいなのを通してコミュニケーションしているだろ。それがお芝居になったとたんに言葉だけになるのはおかしい。リアクションとして嘘だ。」
・「言葉でのやり取りがいくら精巧に構築されていても、イメージとリアクションで芝居がつながっていないと、なんか退屈さが出てしまう。逆に、イメージとリアクションで芝居が完璧につながっていれば、科白と科白の間に一、二分ぐらい無言の時間があっても全然舞台上にいられるのだ。そして、もしリアクションでしか喋らないような状態に持って行ければ、テキストは消える。自分が何を言ったかさえ覚えていない感じになる(細かい言い回しなんか絶対覚えてないはずだ)。」
・「余談だが、科白に頼らずにリアクションを増幅させて盛り上げていくには、自分のイメージの仕掛けを途中で変化させて(例:なんか相手の頭上に今にも爆発しそうな爆弾がある!みたいな)、それに応じてリアクションし、それに対するさらなるリアクションで相手の反応が激化していくのを待てばよい。わざと怒ったり大声を出したりすることは演技として簡単なのだが、リアクションとして嘘では、駄目なのだ。注意すべきは、リアクション自体を大きくしようとするのではない、ということ。リアクションを大きくするのではなく、リアクションをより大きく取れるものを想定し、イメージを置いていき、それに対して反応せよ。」
・「ひとりよがりにならず、相手がどうしたいのか、相手に自分のオファーが伝わっているのかどうか、注意深く見つついかにして相手にかかわっていくかということ。相手を注意深く見て、何かもらって、それで湧いてくるもので科白を言う。」
・「相互のリアクションの重要性ということで言えば、「相手の見ているものを見ろ」と忠告したい。劇中のやりとりのさなかでも、相手が自分をどう見ているかをちゃんと気づき、感じなければならない。リアクションの前にまずレセプションがある。相手の中で自分がどう思われているのかを感じることができれば、それによって態度を変化させざるを得なくなるはずだ。そのようにして関係性が生まれてくる。」
・「あなたは自分が言うことに対する相手の反応を見ていない。見ないまま科白を喋っている。あなたがその科白を言うときに「こいつは帰ってくれるだろうか?」というリクエストが感じられない。「自分の言うことを聞いて帰ってくれるかな?」と様子をうかがう感じがまったくない。相手役にもっと頼らなければならない。 」
・「科白が入っているから止むを得ないということでもないのだが、あたかも相手がどんな言葉を返してくるかを知っているかのような雰囲気を出しては、駄目だ。たしかに情報としては知っていることなのだが、それをまったくの新しいものとして受け止めなければならない。そのためにはフィーリングに着目しよう。相手の言うことをどう理解するか、ではない。相手にそう言われてどう感じるか。そのフィーリングを毎度毎度喚起するようにし、フィーリングの流れで自然に気持・態度の変化が演技にあらわれてくるといい。 」
・「テキストの意味を理解してそのままやろうとすると、その場で生まれた感じがしない。決めたこと、解釈したことを忘れる勇気を持て。 」
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▼エレオノラ・デュース
《「エレオノラ・デュースの話をしたかな」マイズナーは最近、事務所を訪れた人にたずねた。「話したことはなかったね?」と確認してから、彼は、ハーマン・スダーマン『Heimat(家庭)』に出演した伝説的なイタリアの女優のことを、バーナード・ショーが一八九五年に書いた批評について話し始めた。ショーは、主役のマグダを演じたイタリアの女優デュースのことを、次のように書いている。
「マグダは、父親に逆らったため、家から追放された若い娘だ。父親は粗暴な人間で、家庭の神聖なる規律を守るためには、すべて自分の思い通りにしなければいけないと思い違いをしている。マグダは、苦しい時を過ごす。孤独な葛藤から逃れるかのように、彼女はひとりの学生にひかれてしまう。やがて彼は去り、彼女は母親となる。しかし、彼女はついにオペラ歌手として成功する。名声とともに、彼女は故郷に帰り、懐かしさのあまり父のもとに向かう。そして、父も再び娘を受け入れる。家に落ち着いてまもなく彼女は、家族のもっとも親しい友人の一人が、子供の父親であることに気づく。芝居の第三幕で、彼女は舞台の上で、彼が訪ねてきたと知らされる……」
「召使から手渡された訪問カードを見たときに、彼女がその男に会わなければいけないことがわかる。男が入ってきたとき、彼女がどのようにやってのけるか、私は注目した。全く彼女はうまくやってのけた。男は挨拶を述べ、花を贈る。二人は一緒に座る。彼女は、最初の出会いを何とか無事にすませたといった感じだ。彼女は気持ちを落ち着けて、男が変わったか見ようとする。そのとき、困ったことが起こった。顔が赤らみ始めたのだ。次の瞬間、彼女はそれを意識した。赤色はゆっくりと拡がり、深まっていった。そして、顔をそむけたり、それとなく彼の視線をそらしたり、無駄な努力をした後、とうとう諦め、両手で顔を隠してしまった。その鮮やかな演技を見て、私はデュースがなぜ化粧をしないのかよくわかった。トリックは全くなかった。私には、演劇的な想像のすばらしい効果のように思えた。そして、私は、あの赤面がいつでも自然に起こるのか、専門家として大いに興味を持っていると告白しなければならない。」
…………
「……ショーは、専門家としての興味から、デュースはこの場面を演じるときいつも赤面するのかと自問している。いつもではない。しかし、この赤面は、想像上の状況の中で本当に生きるということの見本だ。これこそ私がいう、真の演技なのだ。赤面は彼女の内面から起こった。彼女は天才だ!」》
(31-34頁)
《「デュースが一八九五年にロンドンで出演した芝居のある瞬間、彼女は子供の父親である三十年前の恋人に出会い、喜んでいるように努めたが、突然赤面した。それは、全く天才的なことだった。私たちは赤面を作り出すことはできないし、楽屋に走り込んで頬紅を使うこともできない。また準備することもできないし、計画することもできない。ジョージ・バーナード・ショーは、ある有名な批評の中で、専門家の立場から、あの赤面がいつも起きるのか、興味があると書いている。私は、あれは起きるときに起きたのだと思う。それだけだ。赤面は準備できない。それが私がいいたいことだ。さらにいえば、もし台本に多くの言葉を費やして、『彼女は赤面し始める』と書いてあったら、線で消してしまえ。」
「なぜですか」レイがたずねた。
「そんなものは、線で消してしまうことだ。なぜなら、直感的に捉えるものではないからだ。台本の中の役の名前の下にある、カッコに入れられた小さな言葉、たとえば(柔らかく)、(怒って)、(懇願するように)、あるいは(努力して)、などは読者の助けにはなるが、俳優たちの助けにはならない。いますぐ、線で消してしまうことだ。」
「なぜ線で消すのか教えてください」レイがたずねた。
「なぜなら、それらは、自然発生的にしか現れない人生を支配するからだ。」
「覚えとかなくちゃ」ベティがいった。
「君たちは、ユージン・オニールの後期の脚本を読んだことがあるか。その中にはあまりにも多くの指示が書き込まれている。もし君たちがある役をもらったら、最初にすべきことは鉛筆を買ってきて、それらを線で消すことだ。なぜなら、脚本家でさえ、舞台の上で生命がどのように感覚的に、また本能的に生きるのか決めることはできないからだ。しかし、この警告を付け加えておこう。俳優の生命は、脚本家が書いた脚本のより深い暗示まで無効にすることはできない。」》
(315-316頁)
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▼リピティション/本能/自然発生的/自分を見つけること
《少したって、アンナは、ビンセントの背中を肘でついた。
「ぼくの背中をつっついた。」
「あなたの背中をつっついたわ。」
「ぼくの背中をつっついた。
「ええ、あなたの背中をつっついたわ。」
「うん、ぼくの背中をつっついた。」
「ええ、ええ、あなたの背中をつっついたわ」アンナがビンセントが不機嫌なのをおもしろがりながら、いった。
「何がおかしいの?」彼は言い返した。
「何がおかしいの?」
「何がおかしいの?」彼はくり返した。
「何がおかしいの?」
「何がおかしいの?」ビンセントは最初の言葉に不自然なアクセントをつけていった。マイズナーは、すぐに彼らを止めた。
「そうじゃない! それは読んでいるんだ。そこまでは、とてもよかった。しかし、『何がおかしいの?』は、変化をつけるためにやったことだ。いいかい。言葉のやりとりが変化するときがある。しかし、それは本能によって起こるんだ。本能だ。どういうことか、やって見せよう。ビンセント、友だちとデパートの中を歩いているときに、君がいう。『あのネクタイ、いいなあ!』また、パーティに出かけたとき、部屋の向こうに女性を見つけて、ひとりごとをいう。『あの娘をものにするぞ!』これらは、君の本能から起こるんだ。わかるか。」
「さて、この練習の中では、本能に支配されて言葉の中に変化が起こる。どのように起こるのか、やってみせよう」彼は、ビンセントの方に屈んで、小声でいった。「ビンス、私が何を聞いても、ノーと答えるんだ」それから、彼は大きな声でいった。「二十ドル貸してくれないか?」
「二十ドル貸してくれないか?」
「二十ドル貸してくれないか?」
「だめです。二十ドルは貸せません。」
「二十ドルは貸せないって?」
「二十ドルは貸せません。」
「貸せないって?」
「貸せません。」
「貸せないって?」
「貸せません。」
「いやなやつだ!」
「いやなやつだって!」
「これが私がいったことだ」クラスが笑った。笑いがおさまったとき、マイズナーはつけ加えた。「つまり、この変化は、本能によって引き起こされた。……君は私に二十ドルを貸してくれなかった。だから私は、君はいやなやつだといった。……さて、練習の中でこのようなことが起こり、会話を変化させる。本能が会話を変える。そして、会話を再び本能が変えるまで続く。……別の言葉でいえば、君の本能が、パートナーの行動の変化を拾って会話を変えていくんだ。私は本能のことを話している。店に入って、ドレスを見る。『これは私のものだわ!』これが本能だ。ゆっくり時間をかけてやれば、君たちの中に変化が起こる。自動的にとはいわない。私はこの言葉が嫌いだ。自然発生的にという言葉を使おう。これからは、自然発生的にやってほしい。ただのくり返しではなくて、君たちの本能に変化を支配させるんだ。」》
(54-60頁)
《「……私は才能は本能からやってくると信じている。どういう意味か、だれか説明できるか。」
ローズマリーが手を上げた。「私たちはみんな同じ本能を持っていると思います。そして、もし私たち自身をシンプルにして混乱させなければ、本能もしくは才能が現れてくると思います。もし、私たち自身を開いて正直になっていれば、ということです。」
「そう」マイズナーはいった。「しかし最近の傾向では、私たちは社会的に受け入れられるときだけ、本能に従おうとしている。私たちは、あるものを好きになったり、嫌ったりすることによって、野蛮人と決めつけられることを恐れている。フィンチ女史の女学校を出た女の子を例にとろう。彼女たちは、社会的に受け入れられることだけ、口に出すように教えられる。その女の子が友だちの芝居を見に行ったが、演技はとてもひどかった。しかし、彼女は楽屋に行って微笑み、歯をきらめかせながらいう。『すばらしかったわ!』
マイズナーは、ウエストチェスターから社交界入りする女の子の模写を正確にやった。クラスは笑った。
「本当の本能的な発言を抑えよとすると、顎に緊張が起きる。それは、俳優にとってよいことではない。私がいう、自然発生的な深い本能的な行動と、全く反対のことだ。」》
(60-61頁)
「私は、俳優のために知性の働く余地のない練習を手に入れようと決意した。頭の作業をすべて取り除き、頭による操作をすべて取り去り、衝動が働くようにしたかった。そして、もし相手のいうことを聞いてくり返せば、頭は働かないという前提から始めた。聞いているときは、頭の働きは完全に取り除かれる。もし、君が、『あなたのめがねは汚れている』といえば、私は、『私のめがねは汚れている』という。そして、君は『あなたのめがねは汚れている』という。この中には、知性の働きはない。」
…………
「それから、次の段階に進む。たとえば、君に『十ドル貸してくれ』という。すると、君は『十ドル貸すんですか』という。これを五、六回くり返す。すると、これがとても重要なんだが、君の拒絶のくり返しが直接、私の中に衝動をつくりだし、私に「いやなやつだ!」といわせる。くり返しが、衝動に導く。この過程は知性的なものではない。感情的で、衝動的なものだ。そして、私が訓練した俳優は、次第に頭の作業ではなく、衝動から本当に生まれた即興をやるようになる。作曲家が作曲をするようにだ。……なぜくり返しが本質的に退屈ではないかをいおう。それは、すべての有機的な創造力の源、つまり内面の衝動に基づいているからだ。……」
…………
「……私は、全く知性的じゃない演技の教師だ。私のやり方は、俳優たちを彼らの感情的な衝動に向かわせ、本能にしっかりと根づいた演技を身につけさせようというものだ。なぜなら、すべてのよい演技は心から生まれてくるもので、その中には頭の働きなんてないからだ。」》
(70-72頁)
《「ライラ、私たちがここでしなければならないことは、論理を遠ざけることだ。なぜなら、くり返しは本当の感情を引き起こすが、論理は知的なものにとどまるからだ。わかるか。」
「はい」ライラが行った。……
「さて、君には多くの経験がある。今まで君が台本を手にとるときは、これは私の想像だが、ここはこの感じとか気分とか、君が考えたものにしたがって読む傾向があった。これは君の意志だといっておこう。ところで、私はその習慣をやめさせようとしている。簡単なことだ。ばかみたいに、くり返すんだ。何かが君に起きるまで、くり返しをすること。君自身から出てきた何かが起きるまでだ。いいか」
「はい」
「しかし、君がやったようにパートナーにたて続けに質問するのは、頭を使っているからだ。私がやろうとしていることは、君が頭を使わないようにすることだ。いいか」
「頭を使わないようにしうます。」
「何を使うんだ。」
「私の感情。」》
(87-88頁)
《「俳優になるな」マイズナーがいった。「想像上の状況の中に存在するものに感応する人間となれ。演技をしようとするな。演技は自然にされるんだ。」》
(215頁)
《「サンディ、今レイチェルとやったことは、とてもすばらしいと思います。あんなふうに質問することを、私たちは学ばなければいけないと思います」ベティがいった。
「あれが、役を演じるときのやり方だ。長ぜりふの練習は、すべて解釈と関係している。大胆にいえば、スプーンリバー選集を通して、君たちはとても本質的なことを学び、役にどのようにアプローチするかわかったはずだ。もし、これからオセロを演ろうという俳優が演出家にいったとする。『オセロの嫉妬について説明してください』これはいったいどういうことだろう?」
「その俳優はその役を演るべきではないと思います」ベティがいった。
「それは疑問の余地がない。人はどのようにして、オセロは大きな愛と嫉妬の芝居だと知るのだろう。」
「テキストを読んで、打たれます。心の中の何かが打たれます。」
「打たれる! いい言葉だ。君たちは打たれる。このクラスには、役のことで気をわずらわせている生徒たちがいる。しかし、役とは何だろう? この質問に君たちはどう答える?」
…………
「それは、君たちと君たちの想像にかかっている。感情はやっていることをどのようにやるかによって決まる。君たちが瞬間、瞬間ごとに生きていて、その瞬間がそれぞれ意味のあるものであれば、感情は流れ続けて行く。要するに、君たちが本当に感動するものの中に、解釈は見つけられるということだ。複雑なものではない。初めていわれたことでもない。それは君たちだ。君たち自身だ。……」》
(282-283頁)
《「テキストを読むとき、最初にしなければいけないことは、自分を見つけることだ。本当の自分をだ。最初に自分を見つければ、役を演じる方法を見つけることができる。それは、自分が役の人物の中にいるということだ。君たちは、そのリアリティに基づいて、役の核心を獲得することができる。そうでないとしたら、エラスムス・ホール高校の秀才たちは、みんな俳優ということになる。なぜなら、文字を読むことができるからだ。『あ、忘れていた』というせりふがある。エラスムス・ホ−ル高校演劇クラブのスターがやってきていう。『あ、忘れていた』これは率直だが、面白くないせりふの読み方だ。一方、学校に行ったこともないうすのろがいったとする。『あ!』」マイズナーのこぶしは、苦痛に満ちた思案の間、額につけられた。長い沈黙が続いた。そして、もう手遅れで最善をつくすしかないと気がついたとき、彼は肩をすぼめてあっさりといった。「『忘れていた』どちらが俳優だ?」
「うすのろのほうです」ベティがいった。
「みんなは文字を読むことができる。しかし、演技とは想像上の状況の中で生きることだ。台本──このことは以前にいったと思うが──台本は、リブレットのようだ。君たちはリブレットが何か知っているな。」
「オペラのために、作曲家が曲を付けるテキストです」レイがいった。
「そうだ。作曲家は紙の上の文字を読む。『君はなんて冷たい手をしているんだ!』そして、彼の中の音楽家は、その文字を厳かなメロディに移し変えていく。俳優は音楽家のようだ。本の中に書かれているのは、役を演じるときに行うことの指示だけだ。」》
(295-296頁)
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▼他人に対し真に反応すること/相互的な衝動のやりとり/即興
《「……そうだな。演技は話すことではない。他の人を使って生きることだ。どういう意味かわかるか?」
「演技はおしゃべりではない」ベスが答えた。「他の人の真実に反応することです。」
「そうだ。ジョゼフ、要約してくれないか。」
「意味は行動の中にある。行動が君たちに何かをさせるまで、何もするな。」
「そして、何かをするときは、どういうふうにするんだ?」
「真実に、十分に、そのことを本当にやります。」
「やってみるんだ!」
「やらなくてはいられなくなったことをすること。」
「やらなくてはいられなくなったことをすることだ。……」》
(80頁)
《……「ジョセフ、君が出て行ってしまったのは正しかった。行きたいという衝動は本物だった。彼女が挑発し、君はそのメッセージを受け取った。そうだな。演技はすべてお互いに影響を与える衝動のやりとりだ。私のいっていることがわかるか。」
「はい」ジョゼフがいった。》
(110-111頁)
《「ジョン、彼女の左腕をつかんで、部屋から放り出せ! 今すぐにだ!」
ジョンはウェンディの腕をつかんで、部屋の外へ冷たく押し出し、ドアをばたんと閉めた。
「さて、君は私にいわれなくても、それをやるべきだった。なぜ、しなかったんだ?」
「練習のためには、しないほうがいいと思ったからです。あなたのいっていることはわかります。ぼくの衝動は、彼女を放り出そうとしていました。なぜなら、彼女は本当にぼくを悩ませていたからです。」
「じゃあ、なぜしなかったんだ。」
「しなかったからです。」
「だから、なぜしなかったんだ。」
「頭で考えていたからです。やるべきだと頭で考えたことをやっていました。」
「彼女を放り出したら、練習にならないのか。」
「ええ」
「しかし、君は真実に従う練習をしているんだ!」
「わかっています。見逃してしまいました。それだけです。」
「いいか、これは真面目な話だ。人生では……人生はひどいものだ。しかし、舞台の上では、真実を語るというすばらしい機会を得られる。真実から出てくるものはすべて称賛される。わかるか」ジョンは頷いた。「君の演技はよかった。しかし、質は量よりもっと重要だ。これはどういう意味だ?」
「それは、練習が四分の一で終わったとしても、彼女を放り出したいという衝動に従っていたら、練習はもっと真実なものになっていたということです。」》
(116-117頁)
《……「……ありがとう、ジョン。座って。さて、もし君たちが無色なら……無色とはどういう意味だろう。影響を受けやすいということだ。もし無色なら、君たちは感情に対して適応力を得ることができる。そうだな。もし緊張して、リラックスしていないと、最初ジョンがそうだったように、君たちは私の押しの影響に反応することができない。結論として、論理的なことがいえる。『テキストにできるだけ意味を持たせず、リラックスして覚えること。そうすれば、どのような影響も受け容れられる』この論理がわかるか。わからなければ、いってくれ。」
フィリップがいった。「無色でリラックスしていること。堅く緊張していないこと。」
「構えず、固執しないことだ。私がいっているのは、俳優としてせりふや言葉を学ぶときはいつも、私が押したときのジョンのように、空っぽで、固執せず、リラックスして覚えることだ。何か質問があるか。これが、私が機械のような精密さでせりふを覚えるように頼んだ理由だ。機械的精密さ、そこから私たちは先に進む。」
…………
「しかし、私たちはみな感情を使って記憶し、言葉にある重要性を持たせます。だから、覚えることができるのです。だから、記憶するときはある抑揚を伴うのが普通です。」
「それは耳の中に残っている抑揚だろう。このようにやることで、それを取り除くことができる。それは君にとって、どんな価値があるだろう。」
「ええ、あらかじめ獲得している感情の結びつきを取り除くことができます。そして、いったんこのように文章を覚えてしまえば、感情はパートナーが与えてくれるものから出てきます。」
「まず、君たちは次のようなことはいわなくなる。『店に行ってサラミ・サンドウィッチを買ってきてくれ。ぼくはあれに目がないんだ!』」彼のマイクロフォンを通した不気味な声が、目がないという言葉のところで上がってから一オクターブ下がったので、クラスが笑った。
「この目がないという言葉はありきたりのいい方だ。他に気がついたことがあるか、ジョン?」
「この練習から得られるものは完全で、正直なものだと思います──」
マイズナーは割り込んだ。「そして即興的だ。これは、やがて即興になる。基本的には即興はとても健全なものだ。それは君たちの過去の習慣を取り除いてくれる。」》
(121-125頁)
《「では、自由に──本を持たずに──ほとんど即興的にやってくれ。自分の感情の自由を得るためには、何をしてもいい。」》
(400-401頁)
《「ラルフ、こんな言葉を聞いたことがあるか。『何かが起こるまで何もするな』」
「間をつなぐために、何かをしてはいけないという意味です。」
「そうだ。……」》
(207頁)
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▼感情準備(野心と性欲)
《ローズマリーが真剣にたずねた。「あなたのおっしゃっている意味はどういうことですか。もし夢が普通だとしたら、才能がないというんですか。もしそういうことをいったら、価値がないというんですか。」
「私がいっているのは、願望は想像力の産物だということだ。もしだれかが、『今後五年間の家賃を払います』といったら、私はいう、『くだらない。あまりにも現実的で、想像力がなく、実用的だ』一方、ある女の子が『エメラルドをちりばめたドレスを着て、ホワイトハウスに行くわ。ゴージャスでしょう! 本物のエメラルドよ! インドのたった一人の尼さんにしか作れない布にちりばめているの!』これはひどい贅沢だ。しかし、願望についての本質がある。」
マイズナーは、めがねのマイクロフォンを直すために間をとった。「私は想像力について話している。願望は、想像力に基礎をおいている。想像力を刺激すること。──わかるか。もし私が『十万ドルをあげたら、何をする』とたずねたら、君たちは、『家を買って、家具をそろえ、税金を二十年間払います』と答える! それは実際的だ。しかし、君たちの想像力に富んだ魂から出てきたものではない。安全でいたいという望みから出てきたものだ。しかし、エメラルドをちりばめたドレスは純粋で、汚れのない想像の産物だ。それが願望だ。この違いがわかるか。一つは、想像力の産物で、もう一つは、平凡な現実に基礎をおいている。この点ははっきりさせておきたい。なぜなら、これが感情準備への序曲だからだ。今いえるのはこれだけだ。これは君たち自身を想像的に使うことへの序曲だ。くり返すが、これは序曲だ。感情準備への序曲ということだ。」》
(132-133頁)
《「感情準備の目的は、シンプルだ。それは感情を自分で刺激することと関係がある。ローズマリー、君は宝くじに当たったと想像することは君にとって刺激的だといった。なぜなら、もうチーズバーガーを売らないで、演技することに専念できるからだ。君はうれしくて涙が出てしまうといった。覚えているか。だから、そのお金で何をしようかと考え始める前には、君はただの人間だ。それから賞金についての考えが君に働き始めると、君はもう同じ人間ではない。喜びでいっぱいのローズマリーだ。そうだろう。」
ローズマリーは頷いた。
「だから、感情準備は一種の白昼夢なんだ。白昼夢。君たちの内面の状態を変化させる白昼夢だ。もう、君たちは五分前の君たちではない。なぜなら、空想が君たちに働いているからだ。しかし、白昼夢の性格は芝居によって決められる。ジョゼフ・モーガンを例にとろう。パートナーのベスとのシーンの前の状況はどうだっただろう。彼は、妻が彼に対して不実を働いていることを知っていた。フロイトは、空想は性欲か野心から生まれるといった。私たちは年を取るにつれて、空想することは恥ずかしいと考えるようになる。そして、空想は大人のものじゃなく、子供のものになる。」
マイズナーはジョゼフを見た。「もし──この仮定に従うことはない──ジョゼフ・モーガン、私は君のシーンを例にしている。なぜなら、比較的やさしい例だからだ。もし妻が不実を働いていることは、君にとって惨めな屈辱だと決めたとしよう。そうすると、屈辱を受けた正確な状態にするために、君は内面に働きかける作業をしなければいけない。さて、どのようにしたらそのような状態になることっができるだろう。たとえば、演出家が君を三日間使った後、リハーサルからはずした出来事を考えたとしよう。これは、君の実人生で実際起きたことかもしれない。あるいは、もっと重要なことだが、君はこの話を作りあげたかもしれない。どちらでもいい! 演出家は出演者全員の前でいった。『ジョゼフ、おまえはくびだ。おまえの才能は死んだ鶏みたいだ!』わかるか。君は自分の好きなように話を作りあげることができる。その演出家は本当にいやなやつだ。彼は君にいう。『おまえをよく知っているという女から聞いたよ。不能なんだってな。おまえがルドルフ・バレンチノになろうとした話は、傑作だったよ!』空想の中の一つ一つの言葉は、ナイフのように君を刺す。君はテーブルの下をはって、消えてしまいたいほどだ。それほど、君は恥ずかしくなる!」
ジョゼフは居ごこちが悪そうに、座り直した。
「このプロセスがわかるか。想像を続けよう。この感情準備が、ジョゼフの中に、隅の方に行って消えてしまいたいという気持ちを生じさせたとしよう。そのとき彼の妻が入ってくる。シーンは妻と一匹の虫の間のものになる。さて、その虫、恥ずかしめられ屈辱をうけた哀れをさそう男は──何とでも呼べばいい──想像から生まれたんだ! 君は準備ができた。用意ができた。そこからシーンが始まる。私は論理的にプロセスを伝えているか。」
クラスは頷いた。
「白昼夢における空想は、演技の価値規準の中でもっとも個人的で、もっとも秘められたものだ。もっと一般的な言葉で説明すると、シーンが始まる前におそらくこうだろうと決めた感情の状態で私たち自身を満たすために、想像を使うということだ。私はフロイトを引用した。私は感情準備は野心的、または性欲的な想像の産物だといった。バスの男は、デビッド・メリックが彼の次の作品の権利を懇願しにきたら、ひどい扱いをしてやると想像したが、それは野心的な想像を使っているんだ。性不能のために、死ぬほど恥ずかしい思いをするのは、明らかに性的なものだ。しかし、君たちはそのような状態を、音楽から得られるかもしれない。それはどこからでもやってくる。想像から生まれる自己誘導であり、創造力の産物だ。》
(144-147頁)
《数分後、ドアが開き、レイが入ってきて、ベッドに座った。レイチェルが入ってきて、シーンが始まり、彼らは最後まで演じた。
「いいよ」マイズナーがいった。「感情準備が役に立った。行動は前回より、意味を持っていた。さて、やってみたいことがある。レイチェル、外へ行って、ついに自分の夢がかなったという気持ちになったら、踊りながら入ってくるんだ。何をやってもいい。外へ行って、準備をするんだ。」
「はい。テキストを使いますか。使いませんか」レイチェルがいった。
「使おう」マイズナーがいった。「しかし、レイチェル、私は君がもっとも恍惚としている姿を見たい。もし君がその状態を、ソバ粉ケーキから得てもかまわない! それから、レイ、君はあのベッドにドアを背にして座り、胸が張りさけるまで泣くんだ。もし君がその状態を飼い犬が死んだということから得てもかまわない。ひとりになりたければ、外に出て、戻ってきてもいい。」
二人は準備するために出て行った。数分後、二人は戻り、シーンを演じた。
「あまり変化がなかったようだ、レイ。しかし、君はわずかだったが」マイズナーはレイチェルを見た。「レイ、君は泣くことに感じやすいのか。」
「ほかの人が泣くことに感じやすいという意味ですか。」
「君はなぜ泣かなかったんだ。」
「わかりません……」
「自意識にとらわれていたのか。」
「いくらか。一生懸命やろうとしすぎていたと思います。成功しなければいけないと思っていました。そのことを考えていました。」
「成功する必要はない。学ぶ必要があるんだ。いいか。」
レイは、頷いた。
「私は『泣け』といった。それは結果だ。たとえウェイターがスクランブル・エッグじゃなく、目玉焼きを持ってきたという理由でもかまわない。私は君が悲嘆にくれるのを見たかった。それだけだ。それから、レイチェル、私は君がカルメンのように入ってくるのを見たかった。それが私が探していたものだ。」》
(156-158頁)
《……「……感情準備は、演技の中でもっともやっかいな問題だ。私は感情準備が嫌いだ。」
「私もです」アンナがいった。
「君が? どうしてだ?」
「自分を刺激するものを探すときのフラストレーションは、すばらしいと思います。しかし、それをやっと見つけても、とても強く、深く根づいてないと、すぐに失くしてしまいます。自分の抑制と、羞恥心と、自意識に打ち勝つほど強くないと、すぐに消えてしまいます。」
「まあ、やってみるんだ。少しずつ身につけられるようになる。」……「自己刺激。野心か性欲だ。君はセックスとは何か知っているか?」マイズナーは、ベティにたずねた。
「汚らしいいこと!」彼女は大声を上げた。「胸がむかつくわ。」
「そのとおり!」マイズナーがいって、クラスが笑った。「野心か性欲だ。フロイト博士の考えだ。私はそれを信じている。経済的に慎ましい人々の芝居をしているとしよう。君は店員の役で、品物を包装する仕事をしている。ある日昇進して、包装部門の監督になり、週五ドル多くもらうことになった。さて、芝居の中でその役を演じている俳優にとっては、その五ドルは陶酔するような額だ! そして、俳優は、その状態に至るには、ベートーベンの第九交響曲『歓喜の歌』を歌うだけでいいことを知っている。偉大な歌だ。それを歌えば、彼は宙に浮かぶことができる。これは、五ドルの昇給を得た店員の法外な幸せを、自分自身の中に引き起こすための一つの選択だ。いちばんひどい選択は、五ドルで何ができるか想像することだ。これはばかげている。なぜなら、私たちはみんな、五ドルで何ができるか知りすぎているからだ。だから、君たちが自分自身を陶酔させる方法が、非現実的で、幻想的であればあるほど、その幸せは正当性を持ち、その五ドルは貴重になってくる。五ドルの昇給を受けた男は、喜びに飛びはねながら部屋に入ってくる。しかし彼〔の喜びの幻想的原因〕は、ただある女性に『今夜、つきあってもいいわ』といわれただけかもしれない。」》
(199-200頁)
《「感情は隠すことはできない。しかし、君たちの行動を正確に色づけるために、感情は三トンも必要ない。空っぽでなければいいんだ。……」》
(203頁)
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▼劇場の視点まで拡大された自己暴露
《私がアリストテレス以来のもっとも優れた劇評家だと信じているバーナード・ショーが、書いている。「劇場の視点まで拡大された自己暴露こそ、演劇芸術のすべてだ」。ショーの意味する自己暴露とは、純粋な、自意識にとらわれていない、才能のある俳優のもっとも内面の、最も個人的な存在を観客の目に晒すことだ。》
(14-15頁)
《「デイブのことが気になっている。彼の演技の中には、あるレベルの感情の留保がある。それは俳優にとって生産的ではないものだ。まるで彼は巻き込まれたり、充分に演技をしなくてすむ理由を探しているようだ。慎みは美徳だ。しかし、俳優の遠慮はそうではない。これは彼がこれから闘わなければいけない問題だ。もちろん、私はシュトゥルム・ウント・ドランクが好きだ。もしレストランに行って、テーブルの上に塩がなかったら、連中は私をベッドにかつぎこまなくちゃならないだろう。デイブにも、少し塩をすり込んでやりたいよ。」》
(160-161頁)
《「フィリップは、気持ちの優しい少年だ。たぶん俳優として生き残っていくには、優しすぎる。しかし、彼は心から俳優になりたがっている。スコットから聞いたが、彼はオールナイトのカフェテリアで仕事をしている。そうすると、午後はクラスを取ったり、オーディションを受けたりできるからだ。彼が演技をしたいのはわかる。しかし、抑制が、それは彼の両親のせいだが、彼を不自由にしている。私には、彼が俳優として成功するとは思えない。」
「おかしなことに、ブルースも同じだ。彼はこの世界に二十年いる。ライラと同じように──ライラを追いやるべきかどうかは、まだわからない。しかし、ブルースには技術がない。そのかわり、うんざりするほどの表面的な仕掛けを身につけている。それは私が思うに、自分自身を安全に保つための試みだ。結果として、とても強い自意識が彼をパートナーと切り離し、恐れている自分自身を乗り越える可能性をも切り離してしまう。演技とは、恐ろしい、逆説的な仕事だ。もっとも逆説的なことは、俳優として成功するには自分自身の意識を失くして、芝居の中の性格に自分を変身させなければいけないことだ。それはやさしいことではない。しかし、可能なことだ。……」》
(191-192頁)
《「せりふは一艘のカヌーのようだ」マイズナーがいった。「そして、カヌーの下を感情の川が流れる。せりふは川の上に浮かんでいる。もし川の水が激しく流れているとしたら、言葉は急流の上のカヌーのように出ていく。すべては感情の川の流れ次第だ。せりふは感情の状態の上に乗っている。この練習の目的は、感情の流れを自由に起こし、その上に言葉を浮かばせることだ。」
ブルースは神経質そうに薄くなった髪をかき分けていた。……
「これは君には、とても大切な練習だ。なぜなら、ブルース、君は感情が出てきたとき、それを隠す癖があるからだ。ライラが入ってくる前、すすり泣きたい瞬間があったと思う。しかし、君はそれを抑え込んでしまった!」
「自分の感情をなかなか解き放てないんです」ブルースがいった。
マイズナーは、耐えられないように手を振った。「この問題を解決するには、やり過ぎるくらいやるしかない。……やらない弁解を自分に与えるんじゃない。君が床に身を投げだして、そのテーブルの足にかみつきたかったら、やっていい。それは、品が悪く、男らしくなく、紳士的ではないことだ。しかし、君の演技にとってとても役に立つことだ!」
「やってみます」ブルースがいった。
「いつせりふを覚えてもかまわない」マイズナーがいった。「しかし、君がここはこうだと考えた感情と関係づけて、せりふを覚えてはいけない。最初にカヌーを作って、水の上に乗せる。後は、水がどう動こうと、カヌーはそれについて行く。せりふはカヌーだ。しかし、君は荒れ狂った水を際だたせることから始めなければいけない。私は、これ以上うまく説明できない」……
ブルースとライラは席に戻った。マイズナーは続ける前に少し待った。「このクラスは君たちを混乱させていると思う。私たちはとても深いテーマを扱っているんだ。」
「少し混乱しています」ジョンがいった。「私たちの生活がいかに私たちを抑制しているかを知ることは、私たちを混乱させます。私たちがすべてを隠すように条件づけられていることは、とても恐ろしいことのように思います。そして、すべてをさらけ出すことが、私たちの仕事なのです。」
「そのために、みんなはここにいるんだ」マイズナーがいった。》
(195-196頁)
《……「……できるだけ多くのせりふを覚えろ。なぜなら、次のせりふについて考え始めると、感情の流れが止まるからだ。……」》
(220頁)
《「最初は何だ? ──自分の言葉で語るんだ。」
「はい、もったいぶったバカなやつが立ち上がって、国を守らなければいけないと演説しました。ぼくは若かったので、彼のいったことを信じてしまいました。そして、町を去り、軍隊に入りました──」
「もっと君には自己嫌悪があるように思うのだが。『自分がしたことを憎んでる。彼らが俺にやらせたことを憎んでいる。帰ってきたとき、やつらが俺にしたことを憎んでいる!』これは何か、君にとって意味があるか。」
「はい」
「それが素直に出てくれば、ジョゼフ・モーガンの感情になる。自分を完全に亡くしたジョゼフ・モーガンだ。それが出てくるときは、いつも君自身だ。私は今、何をいった?」
「感情はぼくから出てくることです。」
「君は怒りっぽいか。」
「はい、そうです。」
「じゃあ、君の抑制はどこからやってくるんだ?」
「たぶん、ぼくの育てられ方からです。」
「私は親たちを憎む!」マイズナーが大声を上げて、クラスが笑った。「君は麻酔なしで手術を受けたいか。」
「いいえ、結構です。」
「これがそれなんだ、ジョー。これがそれなんだ。」》
(263-264頁)
《スコットは咳ばらいをして、フロイトの革新的な本を読み始めた。
「今日の講義を終わる前に、ごく一般的な関心の空想生活の一側面について、少しの間、君たちの注意を引きたい。実際、空想から再び現実に戻る道がある。それは芸術だ。芸術家も、内向的な気質があるが、神経症になるまでには至らない。彼は、あまりにも要求の強い本能的な欲求によって駆り立てられ続けている。彼は、名誉、権力、富、名声、そして女性の愛を獲得したいと願っているが、それらを満足させる手段がない。したがって、満たされない願望を抱いている他の人々と同じように、彼は現実から離れ、すべての関心、またすべてのリビドーを、空想の世界での願望の実現へと向ける。そして、その道は、確かに神経症へと続いている。神経症が彼の成長の全結果となるのを防ぐためには、さまざまの組み合わさった要因があるに違いない。そして、ある芸術家たちが、神経症が才能を部分的に抑制するために、たびたび苦しんでいることはよく知られている。おそらく、彼らの性質には、強い能力と、葛藤を決定する抑圧に対するある融通性が授けられているのだろう。しかし、芸術家によって発見された現実に戻る道は次のようである。芸術家だけが空想の生活を持つのではない。空想の中の世界は、一般的に人々によって同意され、認可される。そして、すべての飢えた魂は、そこに快感となぐさめを見いだす。しかし、芸術家でない人々には、空想の飛躍によって得られる満足は、極めて限られている。彼らの情け容赦のない抑制がすべての喜びをさまたげ、貧弱な白昼夢だけが意識されるようになる。真の芸術家は、自由にもっと多くの白昼夢を見る。まず彼は、白昼夢を苦心して仕上げる方法を理解している。したがって、他人には耳障りな個人的な特徴は消え、他の人々にとって楽しいものとなる。彼はまた、禁じられているその源を容易に探られないように修正する方法を知っている。さらに、彼はある材料を、空想の概念を忠実に表現するまで、形づくる不思議な能力を持っている。そして、そのとき彼はこの空想生活の反映を快楽の流れに強く繋げる方法を知っているので、少なくともある期間、抑制は均衡をなくし、消えてしまう。彼がこれらをすべてできるとき、他の人々に彼ら自身の快楽の源である安らぎと慰めへと戻る道を開き、彼らから感謝と称賛を得る。そして、そのとき彼は──空想を通して──それ以前には空想の中でしか得られなかった、名誉と権力と女性の愛を勝ち取っているのだ。」
ロバートは、本を閉じて、マイズナーのマホガニーの机の上に置いた。
「すばらしいと思わないか」マイズナーがたずねた。「『そのとき、彼は空想を通して、名誉や権力や女性の愛を勝ち取っているのだ』私はこの一節が好きだ。」》
(223-225頁)
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▼才能について
《「……才能を生かし発揮させるものは、一つには、おそらく自信のなさであり、自分は愛されていないという思いだ。……」》
(292頁)
《「かつて私は勇気を奮い起こして、ある有名な精神分析家に、二つの樽についての小さなたとえ話を話した。床の上に笑い転げるかわりに、彼はその中にある真実を見つけたといった。話は次のようなものだった。
われわれはみんな二つの樽を内面に持っている。最初の樽は、われわれの悩みからにじみ出た液体で満たされている。そのすぐ右側に二つ目の樽が置かれている。浸透の作用で、最初の樽の悩みは二つ目の樽に浸出する。そして、だれも完全には理解できない奇跡によってそれらの液体は、絵を描いたり、作曲したり、文章を書いたりする能力、そして演技をする能力へと変形する。したがって、われわれの才能は、本質的には変形したわれわれの悩みから出来上がっている。」》
(314頁)
:トポルコフ『稽古場のスタニスラフスキー』(早川書房)より抜き書き
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▼与えられた状況
《「きみは、役のためにこしたえた〈調子〉をもって役を演じようとしている。……きみは、考え出した何かをもって、あらかじめ自分をしばりつけている。それがきみに、きみの周囲で行われていることを生き生きと、有機的に知覚することを妨げているのだ。きみが演じているのは生きた人間ではなく、役柄だった」
「すると、どうすれば……」
「きみの出納室の中には何があるか、いってみたまえ」
「わかりません……」
「きみは出納係のはずだった。するときみの出納室の中にあるものは?」
「金です……」
「そう、金がある。が、そのほかに? もっとくわしくいってみてくれたまえ。きみは金があるといった。よろしい、では、その金額は? 金の種類は? それはどんな風にたたんであるか? どこにおいてあるのか? きみの出納室の中にはどんな机があり、どんな椅子があるか、電燈はいくつついているか……まあ、一般に、きみの執務に関係のあることをすべて、くわしく話してみたまえ。……きみはその世界を創造してもいなかったし、それを内面的に感じてもいなければ、それを舞台の上に形象化しようともしなかった。作者はそんなことを示していなかったということは、何も重要なことではない。だがきみは自分のために、演技中、窓のまだ閉まっている出納室の中にいて、誰からも見られていないとき、あるいは稽古のはじまる前に、この自分の小さなわが家の中できみの主人公のそれらのこまごました仕事──ほこりを払ったり電球を掃除したり、お金の包みをこしらえたり、エンピツを削ったり等々──をもって実際に生きようとしたろうか? 否、きみはそのあいだ、せいぜい、きみの出納室の窓が開いて、きみの役の一部が観客に見えるようになったとき、自分の最初のフレーズをどう発音しようかと、抑揚を調べていただけだった。きみは、きみの役の栄養を吸収する根を創り出していなかった」》
(32-35頁)
《「きみは、あきないをすることができますか?」──と彼はわたしにたずねた。
「あきないですって?」
「そう、何かを安く買って、高く売りつけるとか、お客の目をごまかしたり、自分の品をふいちょうし、売手の品をけなしたり、そのぎりぎりの値段を見抜くとか、あわれっぽくもちかけたり、断言したり、誓ったり、そのほかいろんなことを」
「いいえ、ぼくにはそんなことはまるでできません」
「それをおぼえこまなくてはならない。きみの役にとっては、それが一番大切なことなのだから」
最初の稽古のとき、コンスタンチン・セルゲーエヴィチは、わたしのはずれた関節を直してやろうというので、わたしひとりだけをよび、わたしといっしょに、ひじょうに注意深く、用心深く、まるで医者が病人を扱うように課業をやった。今思い出してみると、課業はチチコフの身体的行為の線を組織し、造型する方向に向って進められていたのだった。これが彼の治療手段であった。つまり、彼がのちに、舞台的形象をそっくり完全に把握するという究極目的にまちがいなく導いてゆく手段として提起した手段、今日〈身体的行動〉の方法とよばれるようになった手段であった。》
(81頁)
《「が、何んのためにチチコフは死んだ人間を買占めているのだろうか?」──と、コンスタンチン・セルゲーエヴィチはだしぬけに質問した。
そんなことは答えなくなってわかっているじゃないか? それこそ誰だってよく知っていることなんだが、それでもまあ仕方がない……。
「え、『何んのため』にですって? 小説の中にちゃんと書いてあるじゃありませんか。彼は彼等を生きた人間として貴族保護局に抵当に入れて、金を借りるためだと」
「が、何んのために」
「つまり、『何んのため』かとおっしゃるのですか? それはもうかるからです……彼は彼等と引替に金が借りられるからです」
「なぜですか?」
「『なぜ』ですって?」
「なぜ彼はそれでもうかるのか? 何んのために彼はお金が入用なのか? 彼はそのお金で何をしようとしているのか? きみはそのことを考えてみましたか?」
「いえ、そんなにくわしいことまでは考えませんでした」
「じゃ、考えてみたまえ!」
(長い間)
「さあ、農奴は抵当に入れた、お金は手にはいったと──で、それからさきは?」
(ふたたび間)
「きみは、自分のやっているすべてのことの究極的目的をはっきり、できるだけくわしく、またきわめて具体的に知っていなければならない。彼に対する実際的仕事のための材料を集めるために、とっくりと考えてみたまえ、チチコフの全経歴をたどってみたまえ」
コンスタンチン・セルゲーエヴィチは、ひじょうにデリケートに、巧妙にわたしを彼の望んでいる考えの方へ誘導していった。けれども彼はちゃんと用意してあったものをわたしに押しつけるようなことはしなかった。ただ上手にわたしの空想に刺激を与えただけだった。》
(82-83頁)
《さて、警察署長が登場する段となった。彼はチチコフが宿っている旅館に立ち寄ってきたのだ。一同は彼のところにとびついてくる。
『どうでした?』
『イチヂク入りの牛乳で口をゆすいでいましたよ』
「たまげた──とスタニスラフスキーの声が響きわたった──きみは、せっかく築き上げたものをいっぺんにこわしてしまった。ぼくにはきみが何をいっているのかさっぱりわからない」
『イチヂク入りの牛乳で口をゆすいでいましたよ』
「そら見たまえ、きみはそんな重大なニュースを持ってきているのだ。『イチジク入りの牛乳で口をゆすいでましたよ』、が、きみはそれをどう判断しているのか──よいことに考えているのか、悪いことにかんがえているのか? それ見たまえ、きみはそれすら解釈しもしないでしゃべろうとしている。あァ、あァ、あァ! あきれたことだ! きみはどこからそのニュースをもってきたのですか?」
「旅館からです」
「じゃ、きみがどんなあんばいに旅館へ出かけていったか、そこでどんな手はずをしたとか、どんなぐあいにのぞいて見たかといったようなことを話してみたまえ……」
「ぼくは……旅館へいって……チチコフがどこに、どの部屋に宿っているかとききました……そして、錠穴から、チチコフが口をゆすいているところをのぞいて見ました」
「それだけ? やれやれ、なんとなさけないファンタジーだろう! そりゃまったくの大事件だ。警察署長がじきじきに犯罪者を捜査するなんて──冗談じゃありませんよ! 警察署長はちゃんとした計画をつくるべきなのだ。誰にも気づかれないように、つまり尾行で旅館の中にしのびこむことのできるように、何等かの手はずによって旅館の主人と打合わせなくてはならない。そうしなかったら、どんな騒動がもちあがるか、考えてもみたまえ。もしかすると、変装して行ったかも知れない。あり得べきことはいくだもある! そこのところをようく考えてみたまえ。あらゆる種類の冒険がいくらでもあるだろう。つまり、この『イチヂクで口をゆすいだ』というニュースは警察署長が大きな努力と才能と創意によって手に入れたものでなければならないのだ。そうなればきみも、ニュースをもってきて、今きみがやったように、ペラペラと、代償なしにしゃべってしまいはしないだろう。きみは舞台に過去をもってやってこなかった。きみは過去も知らなければ過去をもってもいなかったのだ。諸君も聞きたまえ。これはすべてのものにとって重要なことなのだ。きみたちひとりひとりが、現に舞台で演じていることだけでなく、その前にはどういうことがあり、そのあとどういうことになるかということを詳細に知っていなければならない。それを知らなくては、きみたちは現に舞台で演じていることさえわかるはずはない。それらはすべて相互関係によって成立っているのだから。
役の連続した映画フィルムをつくり出すことが必要なのだ。もしそれがなかったなら、きみたちは一つ一つに切りはなされた場面を演じることはできない。さあ、そこで今度は、警察署長が旅館でどんな行動をとったか話してくれたまえ」》
(168-169頁)
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▼課題と行動
《「……待った! きみは今立ち聞きをしたつもりか?」
「そうです」
「ちがう、きみは何かを演じようとしていた。が、きみのやるべきことは立聞きだった。ところがきみは何も聞いてはいない。きみはどういうわけで立聞きしたくなったのか?」
「好奇心からです……」
「わたしはそうは思わない。が、まあそれはたいしたことではない。ではちょっと立聞きをやってみたまえ。もし、きみがこの部屋の中で起っていることをどうしても聞かなければならない、知らなければならないとしたら、きみはどのような行動をするだろうか? きみはいつも何かを演じようとしてばかりいる。きみはまだ一度も立聞きをやったことがないのか? きみがそれをどんな風にやったかを思い出してみたまえ。……」》
(41頁)
《「きみは、どんな風にやりたかったのか?」
「自宅でやったときには、このモノローグはとてもうまくできたんですがね」
「はっきりいうと?」
「感情がこうたくさんあって……ぼくは泣いてしまったほどなんですが……」
「そら見たまえ、きみは今そのことを考えていたのだ。『どうかわたしから感情がにげて行きませんように!』とね。まったくまちがった課題だ。それがきみを駄目にしてしまったのだ。ヴァネチカは、百姓と話しているときそんなことを考えていたろうか? きみもそんなことは考えないがいい。なぜきみが泣くのだ? 観客に泣かせておけばよいではないか」
「でも、ぼくには、その方がずっと感動的になるだろうと思えたので……」
「そんなことはない! それは月なみな感傷だ。能のない物もらいたちはよくその手をつかうものだが、結果はいつもあべこべになって、相手をおこらせてしまうのだ。ヴァネチカはここで何をやっているのか? 百姓から何を得ようとしているのか? ただ一つのこと──彼等におふくろの住所をはっきりおぼえてもらいたいということだけなのだ。住所はたいへんわかりにくいところだったし、百姓たちはかなり物わかりの悪い連中ときている。きみは、課題がどんなに行動的で積極的であるかを感じているか? 泣いているどころの騒ぎではないのだ! だいたい、きみ自身、ペレゾフカ村や、おふくろの百姓小舎へ行くまでの街道や、小道や、目じるしをいちいちはっきりいえるだろうか? きみが今演っていたことから判断すると、いえそうもないようだが、これが大切なのだ。まずきみは、きみ自身のためにできるだけ複雑な、わかりにくい土地の地図をこしらえ、それから、しじゅう百姓のひとりひとりの様子に注意して、彼が自分のいっていることを正しく理解しているかどうかを確かめながら、その地図をできるだけはっきり描いて見せたまえ。自分の体験だの、感情だのについての心づかいはすっかり頭の中からたたき出してしまうのだ……」》
(44-45頁)
《……この俳優の注意を自己の内部的感情の探究から舞台的課題の遂行に転換させることこそは、まさにスタニスラフスキーの偉大な発見の一つであり、まさにわたしたちの技術上の大宿題を解決するものであった。
では、彼はわたしたちの創造の情緒的面を全然無視していたか? というと、決してそうではなかった。彼はいたるところでそれを繰返していたし、また、俳優の芸術的創造は、芸術家がそれに真の情熱とテンペラメントを打ちこんだときはじめて高い芸術となるのだと考えていた。だが、彼は俳優をそのことにあまりひどくこだわることから解放させ、俳優が自分の感情におぼれる可能性を取りのぞき、そして、相手役に積極的に作用するという舞台的課題の遂行に適合する俳優のほんとうの感情の開発への、もっとも正しい唯一の道を示していたのであった。》
(50頁)
《「ふむ、ふむ。……何んというおっちょこちょいな連中だろう。きみがまずく演じたのは、統一とか、集中とか真剣な態度とか、そのほかどの芸術家の仕事にも欠くことのできない条件の結果ではけっしてない。ただきみは集中すべきものに集中していなかっただけなのだ。一切の不幸はそこにあった……だからきみが、このいつわりの、きみをさまたげていた集中をかなぐり捨てたとき、ずっとよくなって来たのだ。だがもしきみが、さらに、真の人間的注意と集中を、演ずべき場面の中に課されている具体的な舞台的課題の遂行へ導いていったならば、きっともっと完全によくなっていたにちがいない」》
(52頁)
《プロローグの後段は、「あア、おれはなんという大まぬけだ!」という言葉ではじまるチチコフのモノローグですっかり占められているのだが、コンスタンチン・セルゲーエヴィチは、こんな、身体的行動など何ともありそうもないところからさえも、ふたたび身体的行動線を嗅ぎ出して来たのだった。そこでは、チチコフはテーブルの前にすわって、ただモノローグをしゃべっているだけだったのに。
「これは、モノローグではない、対話なのだ。ここでは理性と感情がはげしくあらそっている。このけんか相手を二組に分けて、一方を頭の中に、も一方は、どこか太陽神経叢の中に入れて、彼等をたがいに交流させてみたまえ。すると、そのどちらが勝つかにしたがって、チチコフは、あるいは、椅子から飛びあがり、自分の思いつきを横取りされないうちに思惑を実行してしまおうと、いそいででかけ出そうとするか、あるいはその反対に、総身の力をしぼって自分を椅子の上におさえつけようとするだろう。きみはこの、行動への躍動を感じ、理解したまえ。そしてその行動を実行してみたまえ」》
(90頁)
《チチコフにとっては、この訪問はきわめて重要なことであった。まず第一に、この県知事の自宅において、のちに自分の〈商品〉を買い取ることになる地主たちとも、その手を経て取引が成立することになる役人たちとも近づきになれるからであった。だが、彼等と近づきになるだけでは十分ではなかった──彼にとっては県知事が直々にこれらの仲間に引合わせてくれることであった、つまり、知事の紹介を手に入れることが彼にとっては重要なのだった。では、万事がそういった風に運ばれるためには、チチコフはこの短い訪問中にどんなことをやってしまわなければならないか?
「さあ、それを何かひとつの言葉でいってみたまえ。それを、何か、きみの行動線をもっと鋭いものにさせるような動詞をもっていいあらわしてみたまえ」
「県知事に気にいられること」
「そう、が、もっと正確にいうと」
「では、彼を魅惑するということに」
「いや、征服するといった方がいい、彼の心を征服するということに……きみにはそれがわかりますか?」
「わかります」
「ではどういうことがきみにとって、きみの目的が一〇〇パーセントに達せられたと考えられる、自分が完全に満足していると感じられる具体的徴候となるだろうか?」
(間)
「きみは、この訪問のあいだに、きみの貫通行動によって、県知事から何か得たものがあったか?」
「あります」
「たとえば?」
「さようですな、彼はわたしに親切にしてくれました。ニコニコ笑ったり、手を差しのべてくれたり……」
「それは、彼が一家の主人として、愛想のよいふりをしていたのかも知れない。もっと考えてみたまえ」
(間)
「では、いったいきみには何が必要だったのかね? どういうわけできみは彼の家へ入りこもうとしたのか?」
「そこで、地主達や……」
「だが、きみが知事の自宅へ行くのにはそこへはいりこむためには、きみは何を得なければならないか、さあそれは何んだろう?」
「招待です」
「が、きみはそれを得ましたか?」
「はい、彼はこういいました──『きょう、宅へ夕食にお越しねがいたい』と」
「それなのだ。きみが訪問中に獲得した、一番重要な、一番現実的なものはそれだった。この場面はただただそのためにあるのだ。一切をそこへもってゆき、ただそれだけを手に入れたまえ。招待を手に入れること──これがきみの課題だ……そこで、きみはどう行動するだろうか?」
「わたしは大いに彼のごきげんをとるように彼と口をききます」
「そんなことをしたら、彼はこういうだろう──『なんておべっかつかいの野郎がきやがったのだろう』と。そして、三分とたたないうちにきみを追い出してしまうね。なにか策略をほどこそうとするときには、まず自分の相手をはっきり見きわめなければならないものだ。そこには、方向を探知したり、自分の相手を嗅ぎ分けるモメントが必要なのだ。ところがきみは、いきなりやってのけてしまおうとする……きみは、知事とは初対面のはずなのだ。だから、やりそこなわないためにまず第一にやらなければならないことは、きみの前にいる人間がどういう人物であるかということを、この人間にはどんなぐあいに近づいていったらよいかをすばやく見きわめることなのだ。二三度会話をやったあとでなければきみは確信ある攻撃に出てはならない。この場面におけるきみの行動の最初のモメントは──迅速に方向を探知し、対象をさぐり知ることなのだ。これは、わたしたちが、実生活ではいつもやっておりながら、舞台ではいつも見おとしていることなのだ。では、はじめよう」
「わたしにはわからないのです……特に何をやっていいのか? テキストをしゃべるのでしょうか?」
「テキストはわたしには重要ではない。きみは行動しはじめればいいのだ」
「でも、相手役が……」
「相手役にはわたしがなろう」
…………
わたしたちは、その家の主に最大の好印象を与えようとしている客人の微妙な行動について一歩ずつ研究を積み重ねていった。その中には、静かに、音を立てないように扉を開けてはいってくることとか、主の偉大さに打たれてすっかり呆然としてしまうことだとか、主の言葉を高く評価し、自分はへりくだって見せるとか、室内の調度(博物館的品物)をたいそう注意深く扱うとか、質問にたいして分別のある、はきはきした、そつのない応答をするとか、そのほかいろいろな行動が含まれていた。だが一番重要なことは、これらすべての中に誠実さがあるということ、チチコフの本性をあらわすようなどんな些細なうそもないということだった。すなわち、プロローグを見ていない観客がこれを見たならば、彼をほんとうに上品な、つつしみ深い人間と思いこんだかも知れないし、また、プロローグを見ている観客がこれを見たならば、このペテン師のあまりの狡猾さにさぞかし舌をまくであろう、ということがもっとも重要なことだった。
…………
こんな風に、たいして重要でもない、ほんの発端的場面に過ぎない「県知事の場」の場面が、スタニスラフスキーの手にかかると、すっかりするどい、おもしろい、波乱のある、ユーモアと哲学的概括に富んだ演出的構図に変わってしまうのだった。この場面には発端も、発展も、解決もあった。すなわち、はじめ憎悪をもってチチコフを迎えた知事が別れるときにはもう彼と仲のよい友人となっており、チチコフの方は知事を愚物ときめこみ、彼を手だまに取りやすいお人よしで、いくらか足りない相手と見くびりながら別れてゆく。またこのふたりの人物の相互関係の段階もすべて明瞭で、一貫しており、論理的であり、正当化されており、逐次的であった。したがって説得的であった。》
(103-110頁)
《わたしたちは、コンスタンチン・セルゲーエヴィチの見ている前で、いろいろの訓練をやった。
「きみたちは、マロニフとチチコフとがもっているそれぞれちがった課題を感じているだろうか? もし、マニロフがただの、愛想のよい、客好きな、もてなし好きの主であったなら、ことは簡単であったろう。ところがマニロフは自分のことばかり愛する人間だった。ほんとうの愛想のよい、客好きの主の心づかいは、その客人に満足を与えることにあるのだが、マニロフは満足を自分だけに与えて、客人を苦しめている。彼はこんなミザンセーヌをこしらえてみることに興味をもっているのだ──『こうやって、パーヴェル・イワノヴィチといっしょにテーブルをかこんで食事をしたり』『こうして、ふたりで安楽椅子に腰をおろして哲学を論じたり』『こうして、わたしと家内とパーヴェル・イワノヴィチとで、同じ屋根の下で暮すことを空想したり』といったようなことを。だから彼が客の世話をする仕方は、いわば、団体写真を撮ろうとする写真師の世話焼きみたいなものなのだ。きみたちは、それがどんなに人びとをじりじりさせるものであるかを感じていよう? ましてや、チチコフはあぶない、容易ならざる問題について話すつもりでやって来ているのだから。さあそこで、そういったつもりで何かやってみたまえ」
この課題はわたしたちの気にいった。そこにはたしかによりどころとなるものがあるからだった。わたしたちは仕事に取りかかり、スタニスラフスキーの与えたテーマを発展させながら、ますますエチュードに熱中し、そして、きわめてはっきりした喜劇的モメントをたくさん発見した。だが重要なことは、わたしたちが支えを感じたこと、ここではどこに衝突が、闘争があるかということ、どこに葛藤があるかということを理解したことだった。
「きみたちは、どこに問題があるかがわかったろう? たいへん微妙な、複雑な、あぶない問題をかかえてやってきたチチコフは、彼の訪問を利用して、『パーヴェル・イワノヴィチ、わが領地を訪る』と題する一組の〈写真〉をこしらえることを課題にしている人間にぶつかってしまったのだ。きみたちは、彼等の課題がどんなに食いちがっているかを、彼等がそれぞれ相手が目的を達するのをどんなぐあいにじゃまし合っているかを感じているだろうか? チチコフにとって、自分の誇大妄想的な、センチメンタルな〈写真〉を創作しようとしている執念深い〈写真師〉を克服し、彼を地上に引きおろすことがどんなにむずかしいかということが、またその一方、ひょっこり飛び出して来た死んだ農奴をどう自分の〈写真〉にモンタージュするかというマニロフの課題がどんなにむずかしいかということを。
きみたちはそれぞれの自分の行動にテンペラメントに最大限を投じたまえ。チチコフは自分の怒りの暴発をやっとのことでおさえているというのに、いんぎんに、デリケートにふるまっていなければならず、会話のイニシアチーブを最後には自分の手に握るための何かうまい策略を考え出さなければならない。それからさらに、あの宿命的言葉が発せられて、あまりの思いがけなさにあっ気にとられたマニロフが、自分の相手が気ちがいであるかどうかという問題を解こうとするとき、チチコフにとって、彼の意識を取り戻し、死んだ農奴の取引こそふたりの世にもめずらしい友情のきずなを一層かためるものだということを信じこませるために、どんなに努力を払わなくてはならないことだろうか。マニロフは、それを信じこむと、すっかり熱情にかり立てられ、今度は妻やこどもを加えた牧歌的なグループといったものを創作しはじめる。ここでチチコフにとってもっとも困難な課題が起る──何んとかして一刻も早くマニロフの家から出てしまわなければ、という。一方、死んでもチチコフを放すまいということが、マニロフの課題となる。きみたちは、ここでどんなリズムを感じているか? きみたちはたいへん不活溌に場面を演じていた。だがここな情熱的場面なのだ。ここで、場面のはじめを吟味してみたまえ。チチコフはいっぱいになった胃袋をかかえてテーブルから立ちあがる。だが、マニロフ夫妻はなおも彼に無理に食べさせようとする……それはもうすすめるといった生やさしいものではなく、わたしがはっきりいったように、無理にやらせようとするのだ。無理に食べさせようとしたまえ、要求したまえ、強制したまえ、そしてきみの方はそれをうまくにげたまえ。さあ、今のことからひとつの場面を創り出してみたまえ。それから、それと同じように書斎にはいるときの戸口における闘争の場面といった風に次々に創り出してゆきたまえ。チチコフは全身汗びっしょりになってマニロフの家から出て行くのだ。きみたちには今のことがすっかりわかったろうか?」
「すっかりわかりました」
「それではやってみたまえ。だがさし当り、きみたちが理解したことをすべておぼえようとか、考えたりしないがいい……」》
(119-121頁)
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▼リズム
《リズムという概念については、わたしは演劇学校にいたころにも教師から教えられたこともなければ、わたしのその後の実際の仕事においても演出家から教えられたこともなかった。……
スタニスラフスキーはいろいろの方法をもってわたしを正しい道に導こうと努力してくれたのであったが、とりわけ彼は、彼自身の、いろいろなリズムをつかいわける手腕をおどろくべきほど鮮やかに実地に見せてくれたのだった。彼は何かきわめて単純な生活的エピソード、たとえば、駅の売店で新聞を買うといったようなことを選んで、それをきわめてさまざまなリズムで演じて見せてくれたのだった。彼は、列車の出発までまだたっぷり一時間もあり、その時間をもてあましているといったとき、あるいは第一鈴か第二鈴かが鳴っているとき、あるいはもう列車がうごき出しているとき、といったようにさまざまな新聞の買い方をして見せてくれた。行動はどれも同じなのだがリズムはまったくちがっていた。スタニスラフスキーは、これらの練習をどんな風にでもやって見せることができた。リズムの増大の線でも、消滅の線でも、そのどちらでもない線でも、どれでも自由自在であった。しかもそれはきわめて信憑性があった。わたしは、彼がそれらすべてのものを頑強な修業によって修得したのだということを見たのだ、理解したのだ。わたしは巨匠の名技を見たのだ。技術というものを、わたしたちの芸術のほんとうの手に触れてみることのできるような技術というものを見たのだった。》
(52-57頁)
《……一例をあげて見よう。わたしたちは『公金横領者』の中のこんな小場面を稽古したことがあった。出納係ヴァネチカといっしょに、さんざんあっちこっち旅をしてまわっていた上級会計係は列車専門のペテン師の手におち、カルタの勝負にまきこまれ、まだヴァネチカの折カバンの中に残っていた、つかい残りの金をすっかりはたいてしまおうとする。おどろいたのは哀れな出納係であった。ちょうどそのとき、列車はとある駅に到着する。会計係は勝負を途中でやめて、列車から飛びおり、ウォッカを一杯ひっかけるために駅の食堂へかけこむ。ヴァネチカは、彼に客車へはもどらないで、駅に残っているように説き伏せるか、せめて何かで彼の注意をそらせて列車の出て行くことに気がつかせないようにしようというので、これも連れのあとを追って客車を飛び出す。だが、勝負にすっかり夢中になっている会計係をだますのはそう簡単にはゆかなかった。なにしろ彼はなんとかしてはやく負けを取りもどそうという一念ですっかりこり固まっているのだから、列車の出発の間近なことを告げる駅の鐘が鳴っているというのに彼を食堂に引き止めようなどとはきわめてむずかしいことだった。ましてや相手は口下手なヴァネチカときていたし、おまけに作者は「フィリップ・ステパノヴィチ! フィリップ・ステパノヴィチ!」という叫声以外何ひとつ彼に与えていないのだから。場面はどうもうまくいかなかった。わたしは、うまくいかない罪は自分にあるとは承知していたが、わたしは罪を作者になすりつけたのだった──まったくのところ、たった一つのフレーズをあてがわれただけで、いったい何ができますかね?
そこへゆくとタルハーノフ(上級会計係役)はしあわせだった。彼はこの場面をじつにりっぱに演じた。が、彼には何かを演ずるだけの十分な言葉があった。ところが、わたしには「フィリップ・ステパノヴィチ! フィリップ・ステパノヴィチ!」というフレーズがたった一つあるきりだった。
だから、コンスタンチン・セルゲーエヴィチがこういったときのわたしのおどろき方といったらなかった。
「ワシリー・オシポヴィチ、これはきみの舞台だということを、ここでは主役はきみであって、タルハーノフではないということを念頭におきたまえ」
「そうですか、でも、ここでは、わたしには『フィリップ・ステパノヴィチ!……』以外何一つないので……」
「問題はそこにあるのではない。きみはたいへん積極的な課題をもっている。何が何んでも会計係を引き止めて列車のところへゆかせまいとする。で、きみがそれをどのようにやるかが、きみの腕の見せどころとなる」
「ですが、私にはまったく言葉がないので、それでとても骨が折れ……」
「ここでは、問題は言葉にあるのではない。タルハノフと停車中の列車を同時に注視してみたまえ。列車は今にも発車しようとしている。それがきみの唯一の救いなのだ。さあ、ためしてみたまえ……」
じょうだんじゃない、〈ためしてみろ〉だなんて! どうやって? わたしは、狐につままれたように突っ立っていた。
「さあ、タルハーノフはきみのところからどっちにいるのか、列車はどこに? すべてをきみのために、正確に、具体的にきめておきたまえ……タルハーノフを注視したまえ……彼は何をやっているか、列車は? きみはこの場面のリズムを感じていますか?」
そら、あれが、〈リズム〉という言葉が出て来たぞ! わたしはこの言葉についての観念はこれっぽっちも持ち合わせてはいないのだ。
それからこうきた。
「きみはそのリズムに立っていない!」
リズムに立つ! リズムに立つとは何んのことなのだ? あるくとか、踊るとか、歌うとかいうのならわかるが立つというのは!
「もしきみがタルハノフが列車にもどった場合に生ずべき由々しき結果に恐怖を抱いているとしたら、そんな立ち方をするだろうか?」
「待ってください、コンスタンチン・セルゲーエヴィチ、ぼくはまだリズムということがちっともわかっていないのです」
…………
「おや、きみは何を考えこんでいるのかね。これは皆きわめて単純なことなのだ。ほかのリズムに生きるようにためしてみたまえ。それは、純外部的方法によっても発見できるのだ。いそいで腰かけてみたまえ、それから今度は立って、また腰かけたまえ、一秒間に姿勢を十回も、二十回も変えてみたまえ、何も考えないで……さあこの場面を指揮してみたまえ……きみは、もしきみの場面の指揮者だったら、どんな風に指揮するだろうか?……ちがう、それは andante だ。ここは presto なのだ。きみは、タルハーノフを食堂に引き止めることに成功するか、しないかということがきみにとっては、生きるか死ぬかということと同じだということを理解したまえ。もし実際にそのとおりだったとしたら、きみはのほほんと考えたりするだろうか? きみはどんな行動をするだろうか?」
わたしたちは、自分ではそれと気がつかないで、いつのまにか一風変った遊戯に夢中になっていた。タルハーノフは部屋から出て行こうとする。わたしは彼を行かせまいとする、が、彼のからだには手を触れてはならなかった。それは欠くことのできない条件であった。この遊戯はじきと何か真剣な競争といったような性質を帯びてきて、わたしたちはたがいに闘争の腕を磨き合った。スタニスラフスキーはすぐにこの状態を評価して、口をつぐみ、鳴りをしずめた。それが彼にとって必要なものだったのだ。遊戯はますます熱烈さを加えて続けられた。と、突然、列車の出発を告げる鐘が鳴った。わたしたちは思わず手綱をゆるめた。
「なぜやめてしまったのか?」
「終ったのです。列車は出て行ってしまったのです……これ以上の闘争はもう無意味だからです」
「とんでもない。闘争はそこからいよいよ佳境にはいろうとしているのだ。今のはまだ二鈴なのだ。まだ三鈴もあるしそのあとで気笛が鳴る。気笛が鳴ってしまったらもう気をゆるめてもさしつかえない。勝負はきまったのだ。だが今のところは増して行く最中なのだ、リズムはどんどん鋭くなって行くのだ……さあ続けたまえ」
というわけで、わたしたちは例の闘争のやり直しにかかったが、コンスタンチン・セルゲーエヴィチは今度は第三鈴と気笛を彼の合図で鳴らすようにいいつけた。彼はそれからたしか二〇分ばかりもわたしたちにきわめて緊張した闘争をやらせたのであったが、わたしたちの創意工夫の種は尽きなかったばかりか、あべこべに、すっかり熱中したわたしたちは、自分たちのテーマをますます強烈に発展させていった。そして、最後に、列車の出発を、会計係と出納係の闘争が終ったことを告げる気笛が鳴ったときには、わたしは、この興味ある遊戯をやめるのがいくらか惜しいような気がしたほどだった。それほどこのはち切れるような脈搏を、この積極性を身内に感じることが心地よかったのだ! いろいろな方法を発明することが、相手役としっくり結びついたことが快感を与えたのだ。わたしは、よくもまあ、無からこんな場面が創り出せたものだとすっかり感心してしまった。わたしのノートに書いてあることといえば、結局は「フィリップ・ステパノヴィチ! フィリップ・ステパノヴィチ!」という一つフレーズを繰返すことだけなのだ。どんな俳優だってわたしの立場に立ったなら、やっぱりわたしと同じように──「ここは何も演ることがない」というにちがいない。ところが、おっとどっこいなのだった!》
(53-59頁)
《「ではどうぞ、も一度」
そこでわたしはまた駆けこんでいった。するとまた「ストップ」ときた。
「きみは『演技』をやりに駈けこもうとしている。きみはあらかじめ、何が、どこで、どうするかを知っている。きみは何をしに酒場へ駈けこむのか? フィリップ・ステパノヴィチに重大なニュースを報せるためにだ。だが、きみは彼がどこに坐っているかを知っているだろうか? 酒場は広いし、人は大ぜいいる。とすると、きみはどう行動するね? リズム! リズム!……どうしてそんな気の抜けたリズムなのだ! たまげた! さあ、もう一度。あァ! あァ! あァ!」
こうして、四時間にわたる稽古がそっくりわたしの駈けこみの仕上げだけに費やされたのだった。……》
(63-64頁)
《この幕の仕事のはじめの方は、いくらか風変りなものだった。スタニスラフスキーはまず一般的リズムの研究から出発し、テーブルについている俳優たちに各自の行為をきわめてさまざまなリズムに合わせるようにすすめながら、ちょうど指揮者がオーケストラ部員と稽古をやるように稽古をはじめた。そして、零、つまり静止的状態から最高積極的状態に至るまでのいくつかのリズムの単位が定められた。テーブルには二〇人ばかりの俳優がすわって、しずかに話をしている。彼等のうちの半数は語り手で、半数は聞き手なのだ。やわらかい、ビロードのような調子で響く声。それは一番のリズムであった。二番のリズムはほとんどそれと同じだが、いくらかそれより高く響く声。第三番のリズムはそれよりもっと高く響く声、テンポは前よりもっとはやくなり、聞き手はすでに語り手の腰を折ろうとする気配を示している。五番のリズムになると、声の響きはもっと高くなり、テンポももっとはやくなるだけでなく、いくらか切れ切れになり、聞き手はもう聞いてなんかいないで、なんとかして語り手の腰を折る機会ばかりさがしている。六番のリズムでは、もうたがいに相手のいうことを聞いていないで、高い声で同時に語り合っており、テンポは滑ってゆくような、省略したようなテンポになる。七番のリズムは最高音、最大の省略的音であって、誰も相手のいうことを聞いてなんかいないで、ただもう自分のいうことを相手に聞かせようとばかりしている。それは、ドラマ演劇の稽古よりもむしろ音楽の課業に似たものだった。が、それはまたすばらしい、魅惑的なものだった。誰れもじっとしていられなくなって、皆んな全般的リズムに引きずりこまれ、全員そのリズ務の魅惑に圧倒され、そしてそれを正常化することにつとめた。
わたしはそのころには、リズムについての若干の観念は持ってはいたのだが、それをこんなにはっきり、こんなに具体的に感じたのははじめてだった。それはわたしにとっては新しいものだった。わたしをおどろかしたのは、こんな、純機械的とも見えるような訓練が、その結果として、あのような生きた、有機的な、きわめて細やかな、色彩の変化に富んだ人間的行為の線を生み出したことだった。……》
(173-174頁)
《けれどもわたしたちにとっては、実のところむずかしかったのだった。わたしたちはどうしても、わたしたちが要求されているものを発見することができなかった。またスタニスラフスキーがどんなにわたしたちを相手に躍起となってもいっこうに効果がなかった。
「あァ、あァ、あァ! きみたちのところには意志が欠けている……それはおそるべきことだ! そんな風に仕事をしてはならない」
そこでわたしたちはとうとう彼に向って、わたしたちは意志ももっていれば、課題を遂行しようという欲望にも燃えているのだが、それでいてわたしたちが何もできないというのは、これらのすべてのものがまったくわたしたちにとって勝手がちがっているからだと断言した。わたしたちには、ひとつところにすわっていながら、しかもはげしいリズムをもって行動するなどということはできない。どうしても何かうそができてしまうから、わたしたちは自分を信じることができない、ただ混乱するだけだ。だいたいわたしたちは、そんなことは不可能なことだと考えているくらいなのだ、と。
「くだらぬことをいうものではない! リズムは目の中に、ちいさな運動の中に感じられるべきものなのだ。それはまったく初歩的なことなのだ。ぼくはきみたちに、一定のリズムの中にすわってください……自分の行為のリズムを変えてみてくださいといっているのだ。こんなことは学校の三年生でもできるはずだ」
演技者のひとりが、むかっ腹を立てて、こうたずねた。
「では、コンスタンチン・セルゲーエヴィチ、あなたは自分でそれができますか?」
わたしたちは、はっと身を固くした。嵐を待った。ところがスタニスラフスキーは、ほとんど間をおかせず、すぐにこう答えたのだった。
「もちろん、きみたちが、はげしいリズムを所望とあらば──はいどうぞ」
といったかと思うと、その場で、ソファーに腰かけたままで、あっというまに彼は姿を変えてしまった。わたしたちの前には、炭火の上にでもこしかけているような、ばかにそわそわした人間が腰かけていた。彼はポケットから時計を引き出して、ちらっとそれをながめてみたり、またそれをもとのところにもどしてみたり、あるいは立ちあがる身構えをするかと思うと、またソファーに身を沈めたり、あるいはすっかり身を固くして、いつでも猛然と飛びかかる身構えをするなど、かぞえ切れないほどたくさんの素早い運動をやって見せた。それらの運動は一つ一つ内面的に正当化されており、きわめて説得的であった。それはこうこつとするような見ものであり、わたしたちはもうすっかり有頂天になってしまった。だが彼の方は、まるで何んでもないように自分の練習を続け、しばらくしてから、しずかにこうたずねた。
「お望みならばほかのリズムでやってみましょうか?」
そして、まえと同じことをやって見せたのであったが、それはすでに、これから寝ようとして、しばし寝るのをのばしているのだといったような、まったくしずかな、おちついた人間であった。まったくそれは説得的であった。
「けれども、どうすればぼくたちはそれができるようになるのでしょうか」
「ただ日常の訓練をとおすほかはない。きみたちが今やったことは、たいへんりっぱだった。だが、それになおリズムの勉強をつけ加えたまえ。きみたちは、リズムを把握しなかったならば、身体的行動の方法を把握することはできない。すべての身体的行動はリズムと固く結びつき、それによって特徴づけられているからなのだ。もし、きみたちがいつも、そしてあらゆることを、きみに固有のリズム一本槍でやっているとしたら、どうしてきみたちは再化身に到達することができるだろうか?」
「ですが、あなたがおっしゃったように、わたしに固有するリズムが事実不活溌なリズムであったとするならば──とさっきの勇敢な俳優がまたもや口を出した──ぼくらは自分自身から、つまり自分の質から出発しなければならないのでしょう? だとすれば、ぼくがはげしいリズムをまったく身につけていないときには、いったいどうすればいいのです?」
「それは時と場合によるのだ……もし、きみが痛いイボを踵で踏まれたとしたら? それでもやっぱりきみはいつもの不活溌なリズムに止どまっているだろうか?」
「それはそうですが、しかしそのときは……」
「きみの不活溌なリズムはきみが腹を立たされるまでは続くだろう。この戯曲の中では、きみの腹をそれほどたたせはしないような事件が演じられているかも知れない。だがもしこれがほかの事件であったなら? きみが、まさに腹を立てたきみ自身がふるまうであろうようにふるまってみたまえ。
はっきり定まった身体的行動をとおして、まず最初に新しい行動の誘い出しを練習したまえ。だがきみたちはこの誘い出しの行動を実際にやるのではなく、それを検証してみるだけなのだ。ぼくにはそれをやることはできるのだが、まだそれをやることができないのだということを。行動の論理を、連続性を守りながら、作者の言葉でなく自分の言葉をもって役を練習したまえ。役のテキストを勉強するときでさえ、言葉を声に出していってはならない。おちついて、そして大胆に仕事をしたまえ。『えい、畜生、また失敗だ!』などと叫んで自分の気をくじいてはならない。
舞台における信頼とは何か? 大胆に、きちんとやりはじめること、つまり、はっきり、論理的にとっかかることが必要なのだ。そうすれば、観客はきみたちのあとをつけてくる。しずかにそれからさきをやりつづけておればきみたちは自分の仕事の過程の中に引きこまれてゆく。それはすでに信頼の半分なのだ。観客を征服するためにはこの半分の信頼を完全なものとしなければならない」》
(208-211頁)
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▼身体的行動の線
《スタニスラフスキーが、この場面においてわたしが生きた、有機的な行為を行えるようにさせるためにとった教師的な細やかな心づかいを、わたしはいちいちここにはあげないが、その仕事が長い、丹念な、しかしさし当りはただ身体的行為に関するものだけ、つまり、相手役にはきみが見えないが、きみは、ほとんど相手役に背を向けてすわっていながら彼を観察できるようにテーブルのそばにかくれたまえとか、あるいて行く相手役をいきなりびっくりさせて立ち止まらせたまえとか、たえずじゃまをして、彼を出口の方へやらせないようにしたまえとか、誰れにも見られないようにうまく彼にわいろをにぎらせたまえ、といったようなことばかりであったことだけをいっておこう。さし当り、わたしたちはテキストにはふれなかった。
「さあ、きみはもういろいろな身体的行動ができるようになった。それを一本の連続した線につなぎ合わせて、プロローグの身体的行動の図式をこしらえてみたまえ。きみがここで、ぜひやらなくてはならない肝心なことは何んだろう? すわって待ち伏せ、きみのどんな些細なうごきをも見のがさないように見張っていること。彼が出て行こうとする素ぶりを見せるや否や、すぐさま彼を引き止め、巧みに彼の行手をさえぎり、何かで彼の興味を引きつけたり、びっくりさせて彼をまごつかせ、そのすきを利用して、誰れもほかの人間には気のつかないようにわいろを彼ににぎらせてしまうこと。さし当りはこれだけで充分だ。これはプロローグのきわめて重要な発端であるから、きみはそれができるように勉強したまえ。もしそのために、きみに言葉が必要だというなら、言葉をつかってもさしつかえはない。だが、原文のテキストどおりでなく、その中に含まれている思想だけにしたがいい。何ごとも演じてはならない。ただ行動したまえ。何ごともわれわれのためになさず、ただ相手役のためにだけなしたまえ。きみの行動のよし悪しは、すべて相手役をとおして判断したまえ」
…………
しばらくのあいだ、万事純身体的行為を中心として行われた。そして、その研究や完成化にはきわめてさまざまな方法がもちいられたが、行動の種別も『公金横領者』の仕事のときよりは、はるかに多く、また変化に富んでいた。この方法による仕事は、あるときは遊戯の形式をとったり、またあるときは、課業の形式をとって、もっとも単純な身体的行動の単位の練習をし、スタニスラフスキーがすっかりやかましやの、この上もなくきびしい教師に変ってしまったり、またあるときは、プロローグの登場人物の全行動線を言葉に引直すといった形式をとることもあった。この仕事は、わたしたちが与えられた課題をある程度遂行できるようになり、プロローグの身体的行動の図式を満足に語り、かつやって見せることができるまで続いた。》
(89-91頁)
《役のテキストを完全に知ってから最初の稽古にのぞもうという、一部の良心的な、熱心な俳優に持ち前の気質は、古い型の演出家からはいつもほめたたえられて来たものだったが、おそらくそうした気質には、コンスタンチン・セルゲーエヴィチは手こずったにちがいない。彼は時期尚早に俳優に言葉をつかわせることをひどく恐れていた。彼は役のテキストが《舌の筋肉の上に腰をすえる》ことを恐れていたのだった。抑揚は舌の筋肉の単なる練習の結果であってはならない。もしそうであったなら、それは必然的に空虚な、つめたい、がさつな、何も語らない、暗記しっぱなしものとなってしまうであろう。それは、俳優が自分の創造的器官のほかの複雑な部分を準備しないで、いきなり台本のセリフをしゃべる仕事からはじめるときには、きっとそういうことになってしまうのだ。その反対に、抑揚は、もしそれはほんとうの衝動、欲求、はっきりした幻像、はっきりした思想や、そのほかの、舞台的形象を創り出しているところの、そして、役に対する仕事の際にまず第一に注意を払わなければならないところの諸成分の結果である場合には、それはいつも生きた、有機的な、はっきりしたものとなる。
このことについて、『タルチュフ』のある稽古のときに、スタニスラフスキーがいったことがあった──「まず第一に、わたしたちの身体的行動の論理的連続性を決定しなければならない。役の準備はこのことからはじめるべきである。俳優の仕事が舌の筋肉によって組み立てられているところには──職人芸があり、俳優が幻像をしっかりもっているところには──創造がある」》
(113頁)
《「きみたちは、感情については話さなくてもよい。感情は固定化することのできないものだ。記憶したり固定化することのできるのは身体的行動だけなのだ。この場合には、この行動は〈かばう〉という言葉をもっていいあらわすことができる。きみたちは、じゃけんな父親からマリアアヌをかばなければならない。で、きみたちはそれをやるわけだが、きみたちはどんな風にやるだろうか? もし、ゴム判的に、つまり俳優的にやるとすると、さしずめここのところは、自分のからだでさえぎるとか、手をうしろにしたり、おどおどした目つきをするといったところだが、創造的にはどんなあんばいにやるかということは、ぼくは知らない。が、ともかく重要なことは──〈かばわなければ〉ならないということなのだ」》
(196頁)
《スタニスラフスキーがその後期の探究において決定的意義を与えていたのは、まさにこの身体的行動の構造を創り出す仕事であった。
「役に対する仕事をするに当っては──と彼は語った──第一に身体的行動をしっかり固めあげることが必要であり、それを記録することさえ有益である。第二はその自然を吟味してみることであり、第三は、大胆に、思案しないで行動にかかることである。きみたちは行動にかかるや否や、たちまち、これらの行動を正当化しようという要求を感じるだろう」
それこそはスタニスラフスキーが表象の芸術と区別して体験の芸術とよんでいた、あの演技に俳優がより正しくより近く接近することのできる道であった。真の有機的行為、体験の誠実さ、芸術的フィクションへの信頼、すなわち演劇においてほんとうに説得的なもの、観客を征服し、その魂にはたらきかけるもの──それこそは演劇の偉大な巨匠たちに固有し、わたしたちのもって範とすべきところの質であり、芸術なのだ。
「役はいきなり把握するわけにはゆかない──とコンスタンチン・セルゲーエヴィチは教える──役の中にはいつもはっきりしないものや、わからないものや、克服し難いものがたくさんある。だから、もっともはっきりしているものから、もっともとっつきやすいもの、固定しやすいものからはじめるがいい。きみたちにとって明瞭な、もっとも単純な身体的行動の真実をさがしたまえ。身体的行動の真実はきみを信頼に導いていってくれるだろう。それからさきはすべて〈われあり〉にのり移り、さらに行動へと、創造へとほとばしり流れてゆく。すなわちぼくはきみたちに行動への手引きを与えようとするものなのだ」
身体的行動の方法は、俳優がそれにたよりながら、信頼を手に入れ、真の感覚と深い体験の領域に滲透し最短経路をもって舞台的形象の創造に到達する方法であった。それと同時にまたそれは、一とたび創り出された舞台的形象のその後における存在と発展の維持を助ける方法でもあった。
「もしも身体的行動線が、きみたちの個人的な、生きた、提供された状態の中に充分踏みこなされておれば──と、スタニスラフスキーは言葉を続けた──もしもそれがきみたちによってしっかり固められておれば、たとえ感情がどこかへいってしまっても恐れることはない。身体的行動にもどりさえすれば、その身体的行動がきみたちのなくした感情を取りもどしてくれるからなのだ」
だが、身体的行動は役に対する俳優の仕事の過程において俳優を正しい道に導いてゆくだけのものではなく、それはまた俳優の表現力の主要な手段でもあった。だから、スタニスラフスキーが俳優のことを身体的行動の巨匠と定義したのも、決して偶然ではなかった。
人間の身体的行為、すなわち一連の身体的行動ほどはっきりと、説得的に人間の精神的状態を伝えるものはない。古今の名優たちがしばしばこの手段に頼ったのもまたいわれなきことではなかった。わたしたちがエルモロワとか、サヴィナとか、ダヴィドフ、ダルマトフといった名優たちのある何かの名演技を思い出すとき、わたしたちはたいていの場合こういう。
「おぼえているでしょう。彼女がつべこべと問いただされたとき、彼女がいらだって手ぶくろをぬいでソファーの上に投げつけ、つかつかとテーブルのところに近づいていったのを!」
あるいは──
「彼女は自分の恋人の葉巻がのっている灰皿に、夫が吸差をおこうとしたとき、どんな風にいそいでほかの灰皿をさし出したか、おぼえていますか?」
「『椿姫』の最後の幕の、あのドーゼの鏡を相手の演技をおぼえていますか?」
実例はいくらでもあげることができるが、対話と独白の術にかけては真の名人の域にあったあの偉大な言葉の巨匠ヴェ・エヌ・ダヴィドフでさえ、あの大いなる〈旅役者的〉ポーズをもっていつもその役のクライマックスを飾っていた。彼はそのポーズの中で、ごくわずかな言葉か、あるいはまったく言葉なしで、ただ、一連の微妙な熟慮され選択された身体的行動のみをとおして、形象のきわめて奥深い感情をこの上もなくはっきりとあらわしていた。そして、まさにその瞬間に、その形象の本質をあますところなく観客の前にひろげて見せていたのであった。
「われわれの五官はすべてこれをきわめて細かな身体的行動に分解し、それらの身体的行動を記録して虎の巻とすることができる」──とスタニスラフスキーはあるときの『タルチュフ』の稽古で語った。》
(197-199頁)
《身体的行動をもって舞台的表現力の主要な要素と認めていたスタニスラフスキーは、一とたび問題がこの領域に触れるときには、俳優たちに対してきわめて厳格であった。彼は演技の純粋さ、手ぬかりないことをいつも要求していた。彼は、身体的行動のりっぱな〈語法〉とでもいうべきものをつくりあげようとしていたのだった。彼はそのために、想像的物体を相手とする訓練に特別の注意を払い、それを俳優の日常の〈身だしなみ〉となすようにすすめた。想像的物体を相手の行動の訓練は、俳優のうちに集中力を──わたしの芸術にとってあの必要欠くべからざる質を発達させるものであった。俳優が、この訓練を行う場合には、一回ごとにだんだんそれを複雑にし、ますます細かな群に分割し、そうすることによって身体的行動の自分の〈語法〉を発展させてゆくのである。
書類に署名するといったようなことは、一つの行動に過ぎないように思われるだろう。ところが、俳優・芸術家にとっては、それが状態に応じては一〇一の行動ともなり得るのだ。署名することそのものは、ときとしては何んの意義をももたないこともあろう。そんなときには、このきわめて単純な行動によけいな細分化を施すことは、ただいら立たしさを呼び起すだけである。だが別の場合には、それが俳優にとってその役のもっとも興味あるモメントとなることがあろう。そういうときには、この、実際には単純な行動を遂行するために、一〇〇あるいはそれ以上のありとあらゆる陰影が俳優にとって必要となってくる。》
(200頁)
《「おぼえておきたまえ──と彼はいった──感情は記憶することも、固定化させることもできないものだということを、そして、記憶することのできるものは、固定させ、踏み固めて、それをやりやすく、手慣れたものにさせることのできるのは身体的行動線だけだということを。この場面を稽古するのには、もっとも単純な身体的行動線からはじめ、それを最大限に正しく行い、どんなくだらないことの中にも真実を探究したまえ。きみたちは、そうすることによって、自分に対する、自分の行動に対する信頼を得るであろう。きみの行動に関係のある一切のものを、そして特に、すべてのものと同じように、ある一定の提起された状態の結果であるリズムのことをよく考えておきたまえ。ぼくたちは、どんなぐあいにもっとも単純な身体的行動を行うかということは知っている。だが、提起された状態にしたがって、これらの身体的行動は精神的生理的行動に転化してゆくのだ」》
(215頁)
《わたしたちが期待していたとおり、スタニスラフスキーが第一にわたしたちの注意を向けさせたのは、すでにある程度わたしたちが発見したふたりのけんか相手の身体的行動を完成することであった。あの〈焼けた鉄板の上にすわっている〉ところなどは、すでにわたしたちによっていろいろなヴァリアントが研究され、こしらえられていたし、血相を変えた身うち同志のもののけんかの構図もすべて、わたしたちは、稽古のときに自然に口に出てくるようなものは別として、独白も言葉もつかわないで、細部にわたってくつり上げてあった。つまり、わたしたちが一番重きをおいていたのは戯曲登場人物の身体的行動であった。たとえば、こんなぐあいに──ひとりがふいと立ちあがり、そして相手を安楽椅子におさえつける(もちろん、からだをつかわないで、自分の内的威圧によって)、安楽にすわっている方は、まるで追い詰められた野獣のように、飛びあがるすきを油断なくうかがい、相手ののどに飛びかかり、爪で相手をひっかいてやる機会を待っている。が、相手はそいつをたたき潰すようにして、もういうだけのことはいってしまったのだ、これ以上の議論はしたくないといったふりをし、静かに安楽椅子に腰をおろし、何か雑誌をさえ取り上げる。これが一層そのけんか相手をおこらせ、彼は何んとかして相手をおこらしてやろうとさかんに知恵をしぼるのであるが、実はそんなにむきになる必要はなかったのだ。相手のおちつきぶりは見せかけだけのものなのだ。見れば、彼の上体はじっとしているのに、そのクツの先はぶるぶる小さくふるえている。そこに彼のほんとうのリズムが出ているのだ。果せるかな、いきなり雑誌は部屋の隅に飛んでゆき、彼はまるで蜂に刺されたように飛び上り、そしてふたりの敵同志は二羽の闘鶏のように鼻先を突きあわせて立ちはだかる。
ざっとこんなぐあいに稽古をしながら、わたしたちはきわめてたくさんの興味あることを発見することができ、またそれらのものはのちに劇のいわゆる楽譜の中に取り入れられたほどだったのだが、しかし、わたしたちのために場面を把握する道を開いてくれたこれらの発見の大部分のものは実際にはつかわれずにおわったのだった。公演においては、けんかの場面はもっと抑制された、お行儀のよい形式で演じられるようになったが、それはこの場面の内的緊張を弱めなかったばかりか、むしろそれを強調させていた。》
(234頁)
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▼言葉と幻像
《「ああ、おれは何んという大まぬけだ……」云々と、今でも憶えているが、わたしはモノローグを一気呵成に読み終わり、「出かけるんだ」の最後の言葉で、いせいよくテーブルを拳でたたくと、わたしはさっと立ち上ってテーブルからはなれ、意気揚々とコンスタンチン・セルゲーエヴィチの方をながめたのであった。
「ふむ! ……ふむ! ……なんにも、きみは見ていない……」
「? ? ?」
「きみは言葉をしゃべっていた……きみはそれらの言葉の中に、ノートに書いてあるとおりの文字を見ていた、が、それらの言葉の背後にあるものを見てはいなかった……」
「どうもよくわかりませんが」
「そう、たとえばきみがこういいますね──『ふんずかまって、皆んなの前でむちでぶんなぐられ、おまけにシベリアおくりということにでもなったら』と。そうしたらきみは……きみはこれらの言葉のうしろに体刑や、足枷、罪人宿場、おそろしいシベリアといった情景を見るべきであった。それが一番大切なことなのだ。さあ、も一度はじめたまえ」
「あア、おれは何んという大まぬけなんだ……」
「見ていない……言葉をしゃべっているだけだ。まず幻像をまとめ、大まぬけものである自分を見てから、自分がまぬけだったことをののしりたまえ。さあ、大まぬけとはどんなものか、きみはそれをどのようなものとして見ているか? では、どうぞ!」
「あア、おれは……」
「たまげた! ……ふむ! はじめから電圧が高い。きみは自分を外観的に興奮させよう、神経的緊張を呼び起させよう、一切何が何んだかわからないようにしてしまおうとしている。だがきみはただ集中しさえすればよいのだ。自分はどういうところがまぬけだったかをはっきり見て、そして自分をこっぴどくののしる。ただそれだけでよいのだ。さあ!」
…………
「わたしたちが今稽古しているプロローグは──と彼はいった──全戯曲のための調音叉なのだ。きみはどういう責任を感じるか? そのためには何が必要だろうか? ただ注意が、集中が、すぐれた、はっきりした幻像が、真実の感覚が必要なのだ。今きみは、テーブルの向こうから、貴族保護局の書記が酒場から出て行かないように彼を見張っている。そのことにきみの生命はかかっているのだ……きみはここでどんなリズムを、どんな考えを、そして書記が出て行く路をふさぐために、一〇メートルでも、一五メートルでも一と飛びに飛ぶだけの用意を感じているだろうか? まずこの一番単純な身体的行動だけを吟味したまえ……それから、きみが書記に発する最初のフレーズ、つまり『ここをうごきません……』というフレーズの幻像を、もし書記がそれでもなお出てゆこうとしたら、きみがここで、この酒場の中でどんな騒ぎをおっぱじめるだろうかということが彼にはっきり見えるように彼の前に描き出したまえ。きみは、『ここからうごきません……』ということが、どんなことを意味しているかを見ているだろうか? 次に、きみが彼と話はじめるところまでやっとこぎつけたら、きみは、酒場の中で誰にも見られないように、また彼がいいがかりをつけたり、おもて沙汰にしようとしたら、うまくいいのがれができるようにうまく彼にわいろをつかませるのだ。おまけに、この仕事はすべてきわめて迅速にやってのけなければならない。というのは『あしたはわたしの代理指名者が出発してしまう』からなのだ。そして最後に、悪魔的考えの一滴が、チチコフという血のめぐりのいい人間の上に落ちこぼれてきたならば、一刻の猶予もなく、超冒険的計画の実行に取りかからなければならない。ここでは、きみの内面的幻像を特にどこに置くべきだろうか……きみはそれを理解しているか? 一方にあるものは公開むち打ちの刑……足枷……シベリアであり、他の一方にあるものは二〇万の大金、すばらしい領地……妻とか子どもとか家庭といった地上の楽園、人生究極の願望なのだ。今か、しからずんば永久にか──きみが見なければならないもの、この両極のいずれかへのきみの激発が内面的に正当化され、最大限度に充実されたものとなるためにきみが最大限度にはっきり見なければならないものは、まさにこれなのだ」》
(96-99頁)
《「はて、いったい何がきみを妨げているのかな?」──と、わたしがコンスタンチン・セルゲーエヴィチの前でこの場面を頼りない片言でしゃべって見せたとき、彼はたずねた。
「何が妨げているのかは知りませんが、これはどうにも物になりそうもありません。この場面は奇智に富んでもいるし、優美にできているということはわかりますが、いざ取りかかってみると、何もかもぐにゃぐにゃに、カサカサに、くそおもしろくもないものになってしまうのです」
「ふむ! ふむ!……それは、きみが見るべきものを観ていないからだとぼくは思う。きみは、場面の外部的面を、その優美さばかりを見ているが、きみは〈視覚〉を妻の寝室に、タルチュフの部屋に、つまりドリイヌがきみに語って聞かせている場所に向けさせなければならないのだ。きみは彼女のいうことを聞いていない。相手役の思想を理解しようと努力してみたまえ。ドリイヌの話を聞きたまえ。
『おくさんはご病気です……』
それを聞いていなくてはいけない。手だの、頭だのの運動は一切いらない。ただそれその目──ドリイヌから留守の様子を吸い取ろうとするきみの忠実な目。
『どうか、すっかりくわしく話しておくれ』
きみは一言一言にちいさな間を置いている。きみのところでは何もかもが舌の筋肉にかけられている。きみには〈幻像〉がない。きみは自分の寝室のことも知らないようだが、それをどんなこまかな点に至るまでも知っていなければいけない。
『おくさんはご病気です……』
そしたら、きみの考えはもう寝室に飛んでいなければいけない。妻はそこで夜中に熱に浮かされながら寝ている。家の中では誰も寝ないで皆んなあくせくとかけまわっていることだろう。それを見なくてはいけないのだ。医者を迎えに行くもの、氷を運ぶもの、物音、右往左往の騒ぎ……だが待てよ、ときみは考える、寝室に行く途中にはタルチュフの寝室がある。そこで彼は神と交霊をしているのだ。その彼の祈祷が妨げられている。となるともう妻のことなどは打ち忘れられ、この世の一切のものは忘れられ、ただ一刻もはやくタルチュフの様子が知りたくなる。
『で、タルチュフさんは?』
きみが練習しなければならないのはこれなのだ。言葉をどのように発音するかなどということを考えたりしていないで、ドリイヌのいうことを聞きたまえ、注意して聞きたまえ。そしてこのような状態のもとではタルチュフの身の上にどんなことが起きるだろうかということを考えてみたまえ。きみの──
『で、タルチュフさんは?』
という質問に対してドリイヌは──
『シャコを二羽おたべになり、羊の腿をすこしおたべ残しになりました……』
と答える。
おお神よ! 人がこのようななみはずれた食欲を起すまでに至るまでには、さぞかし夜っぴて苦しみ明かしたことだろう。そこで
『おお、かわいそうに!』とくる。
きみは彼女のことばを聞きながら自分で仮定をこしらえるのだ。つまり、テキストには書かれてはいないが、その結果がテキストとなっているそのものをこしらえあげるのだ。この場面の一切の秘密はまさにこの聞き方の手腕いかんにあるのだ。ドリイヌの方は、自分のフレーズがきみに与える印象をいちいち頭におきながら、それに応じて、あれこれのものをぶつけてよこす。ドリイヌは目によってきみの考えていることをすぐに察してしまう。彼女はそれほどりこうな女であり、おまけにきみのことをよく知っている。だからきみはテキストのほかにそれに平行する対話をもつことになる。……
……声に出されるセリフに何が挿入されているか、それがどのような思考とからみ合っているかを忘れてはならない。人は、頭の中にあることの一〇パーセントだけしかしゃべらないものであり、あとの九〇パーセントはしゃべられずにおわってしまうものだということを念頭におきたまえ。とかく舞台ではこのことを忘れ、言葉に出されたものだけで片をつけようとするから、生きた真実をこわしてしまうのだ。
あれこれの場面を演じるときには、きみたちはまず何よりも、あれこれのセリフに先行する思考を再現しなければならない。それを言葉にあらわす必要はないが、それに生きることが必要である。すこしぐらいのあいだは、言葉に出さない自分や相手役のセリフならびに思考の交替をもっとよく把握するために、全部言葉に出しながら稽古してみることはさしつかえない。それは言葉に出さない思考もたがいに相手役のそれと一致するものだからなのだ。
…………
きみは、あらかじめその道をつくっておきもしないで、思考や幻像を分明にしたり、練習もしないで、場面を把握しようとし、いきなり結果をつかんで、一足とびにこの場面をものにしてしまおうとしていた。だが、この場面はすこぶる簡単そうでいて、実際にやってみるとうまくゆかないことがわかったろう。もちろんうまくゆくこともあろうが、うまくゆかないとなると、それこのようにきみはいばらの道を切り開いてゆかなくてはならない。が実際のところ、この場面はたいへん困難なのだ。これはモリエルの喜劇の典型的形象だということを記憶しておきたまえ」》
(222-227頁)
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▼注意の相互作用
「で、きみたち自身はどう考えているのか、この場面は成功しているのか、していないのか?──とスタニスラフスキーは見おわったあとでたずねた──きみたちは、自分の演技の中で何がうまくゆき、何がうまくゆかなかったと考えているか?」
「将棋を指すところを削ってしまうわけにはゆきませんか?」
「どうして?」
「あれは、わたしたちの仕事をすっかりだめにしてしまうものです。わたしたちもいろいろ手を尽くしてみたのですが、とうとうものになりませんでした。とても演りずらい場面なんです。どうしても、こう何かよけいな……いらないようなものになってしまうので……」
「この場面中で一番重要なところは将棋を指すところなのだ。きみたちもそう思わないかな!」
「そいつが場面のリズムを止めてしまうのです」
「それみたまえ! 場面の一番緊張したモメントなのに、いきなり……ここははげしいリズムなのだ」
「わからないですね……ただすわって、駒をうごかしているだけで……」
「きみたちは、将棋の試合を見たことがないのですか? そこでもただすわって、駒を指しているだけだが、それでもなおきわめて緊張したモメントはある。きみたちはこの場面に対して多くの仕事をしたといっている。それは結構だが、しかしその仕事というのが見当をはずれていたらしい。きみたちがどんなぐあいに仕事をしたか、何をやったか話してくれたまえ」
わたしたちは話せるだけのことをくわしく彼に語って聞かせた。
「ふむ! ふむ!──(間)──で、チチコフはこの勝負にいくら賭けたのですか?」
「一〇〇ルーブルです」
「で、ノズドリョフは?」
「ノズドリョフは……彼は……彼は……彼は何んにも賭けていませんね。彼は死んだ農奴を張っているんですから」
「すると……──(間)──彼はそれをどのくらいもっているのです?」
「何をです?」
「死人を」
(沈黙)
「ぼくは、ノズドリョフのところには死んだ農奴がどのくらいいたかと聞いているのです」
「そうですな、あそこには、全体で……いく人ということは書いてないので……かなりいるだろうということはたしかですが、しかしわかりませんなあ……」
「わからないですって? じゃ……ワシリー・オシポヴィチ、きみもわかりませんか?」──と彼はわたしに向っていった。
「まるでわかりません」
「やあれ、やあれ!……これはまた何としたことだ? つまりきみたちは……ぼくはきみたちに何を教えていたのだ!? ふむ!……ふむ!……きみたちはまったく別の線をたどっているのだ……あア、あア、あア! 何もかもはじめっからやり直しだ! きみたちがいくらこの場面に骨を折ってみたところで、この場面を演じられなかったのは当然だった。きみは一番重要なもの、そのためにきみが演じているもの──きみのもうけ高を知らずにいるのだ! 人が五カペークの勝負を争うときと、一と身代を賭けた勝負を争うときとでは、問題はおのずと異なってくる。それは別個のものなのだ。仕事をはじめるためには、まずきみが何をやろうとしているかを知らなければならない。いったい、きみはきみの場面にどんな題をつけるつもりか? 『賭金なしの勝負』とするか、『一六勝負』とするか、『生か死か』とするか、それとももっと何かほかのものにするか? きみは、何も知らないでいて、何かをやろうとしていたのだ。きみの仕事が正しい線をたどっていなかったことは明らかだ。きみたちはあらゆる飾りや、小片をさがしまわっていた。だが本質をさがさなかった。さあ、ノズドリュフのところに死んだ農奴が何人ぐらいいるにちがいないか、考えてみたまえ」
わたしたちは、稽古の残り時間を全部、地主の生活や、農奴のことをテーマとした談話に費やした。……
「今度は、きみたちにもチチコフがどんな勝負をやっているかがわかったであろう? 一〇〇ルーブルの金を賭けて、彼は四万ルーブル、つまり一と身代もうけることができるのだ。まずきみたちが一点の不審も残らないように理解しなければならないことというのはこのことなのだ。きみたちは、駒の一つ一つのうごきが彼にとって何を意味するかということを、このすばらしい賭金がノズドリュフのいかさまのためにふいになってしまったとき、彼がどんな体験をしたろうかということを感じたまえ! これらsぶえてのことを十分に考え、そして、こんな場合にきみたちがどんなことをやるだろうかということを理解することに努力したまえ」
……………………
「きみは、何がなんでも勝たなければならないのだ。名誉のためにでも、生活のためにでも、名目な何んでもかまわない。将棋は運ではない、腕前、あたまの勝負なのだ。きめ手の絶交のチャンスをのがしたり、はずしたりしないためには、まず何を心の中に動員しなければならないか? さっききみがあんなにおもしろく話してくれたきみの実生活中のモメントを思い出してみたまえ。そら、イルクーツクでどえらい大金を張ったときのことを」
「ぼくはあのときこう感じました……」
「いや、ぼくには、感情のことなどには用はない。どう行動したかを語ってくれたまえ。そう、思い出したね」
「ぼくは、親が自分の手もち札をながめるところをじっと見ていました。そして、彼がいい札をもっているかどうか、どういう手を打ってやろうか、札を取り換えるか、それとも五で行こうか? と一生けんめいにさぐっていました」
「で、相手は?」
「相手も、やっぱり、わたしのことを注意深く見つめていたようでした」
「どうして、注意深く見ていたことがきみにわかった?」
「彼の目でそれがわかりました」
「モスクヴィンの目はどんな色をしています? なぜ、きみは今さら見直したりするのか? きみはとっくに知っていなければならないはずだ。いったいきみは、稽古で何度彼と将棋を指したというのだ! それだのに彼の目の色さえおぼえていないとは? が、きみは、イルクーツクのきみの相手の目の色は今でもきっとおぼえているだろう。きみには何が足りなかったのだろうか、何がぬかっていたのだろうか? どんなところで、きみは一六勝負の自然をぶちこわしてしまったのだろうか? きみは、自分の相手、モスクヴィンに対して不注意だったのだ。注意の要素が、とぎすまされた注意の要素が欠けていた。まずこのことから仕事をはじめるべきだったのだ──自分の注意を訓練すること、自分の注意に課題を与えること、相手の行動、はじめはごく単純な行動からだんだん微妙な行動、次いできわめて微妙な行動に対し注意深くできる能力を発展させること。記憶しておきたまえ──もし何かの場面を演じたあとで、きみの相手のかすかにとらえられるかとらえられないような微妙な行動が記憶に焼きつけられたならば、それは、きみ自身その場面をうまく演じたのだということを、きみがもっとも重要な舞台的素質──集中をもっていることを意味することを。きみがイルクーツクでカルタをしていたときは、きみはそれを本能的にやって、きみが負けた場合こうむったであろう破局からまぬかれたのだった。舞台では、きみは現実的危険はない。だがきみは自分の経験によっていかに行動すべきかを知っている。その行動を練習したまえ。きみは将棋が上手ですか?」
「いや、下手くそなんです」
「駒を盤の上にならべて、勝負をはじめたまえ……何んのためにその駒を進めたのです? きみはそれをやるまえに、二三手さきを考えたり、モスクヴィンがどんな手を打ってくるか、そのときはきみの駒がどうなるかを推量してみたまえ。自分の注意をそのことに集中したまえ……モスクヴィンがどういうふうに打つかわかりましたか?」
「いいえ」
「勝負を続けたまえ。ただ、今度も二手さきのことを考えると同時に、モスクヴィンの左手に注意したまえ。彼はきみの百ルーブル紙幣をテーブルから引いてゆこうとしている。イワン・ミハイロヴィチ(モスクヴィンのこと)、ひとつそれをやってみてくれたまえ。そして、ワシリー・オシヴポヴィチ、きみはイワン・ミハイロヴィチがそっちの方へ手をうごかしかける前に、すばやく紙幣をかくしてしまい、そして自分の駒のうごかし方を、ただそればかりを考えていたまえ……さあ、勝負をつづけたまえ。ただ、真剣になって、あくまで勝利をするように。ぼくらはどっちが上手に指すか見ていよう……え!……見たまえ、きみの一〇〇ルーブル紙幣がもうなくなっている。それが不注意なのだ。一にも注意、二にも注意、三にも注意を……イワン・ミハイロヴィチ、きみのいかさまはあんまり目立ちすぎる。それではチチコフにすぐきみと指すのをことわられてしまう。それをやるには適当な時機が必要なのだ……勝負を続けたまえ」
わたしたちのこの練習は、仕事に正しい方向性と根気強さがあれば、その結果として最後にはきっと訪れてくる、あの急転がやってくるまで、長いこと続けられたのだった。わたしたちはもう将棋に本気になって没頭し、おたがいに相手のうごきを注意深く見まもるようになっていた。だから椅子に腰かけているわたしたちの様子も、もうけっして呑気なものではなかった。そこにはすでにふたりの一六勝負師たちの注意の集中が、彼等のリズムが感じられており、あの、「ぼくはしばらく駒を手にしなかったんでね」「うまくないなんていったって、知っているぞ」というフレーズをいうときのふてくさった外観的平静さは、ふたりの勝負師のほんとうの体験をより一層強調させていた。わたしは、モスクヴィンの目が燃えているのを見たのだった。この舞台は、のちには、この劇全体中で一番気に入った舞台となった。》
(126-132頁)
《「……これはプリューシキンにとってはどういうことだろうか? これこそは彼がこの世で一番おそれていたこと、いつも追っかけまわされている悪夢だった。彼のたからもののそばへどろぼうがしのびよって来た。しかも、こんなとんでもないやつが! たしかにこれは、そこらに、彼の領地のまわりにうろついているどろぼうの仲間ではない。──あの連中ならば、彼は皆んな知っている──いやこれは、新来の掠奪と人ごろし専門の大どろぼうさまにちがいない。
さあ、どうしよう? はじめ幾分かのあいだ呆然としていたブリューシキンは、今度は自分の命を救うために、いろいろな警戒措置をとろうとする。けれども、どろぼうの目をごまかしてうまく部屋から飛び出し、救いを求めようというので、自分がのがれようとしていることをどろぼうに悟られまいと苦心しながら警戒措置をとっている。
このような状態のものとでは、チチコフにとっては会話のきっかけをつかむことはすこぶる困難だが、この相互的誤解の中にも、このたがいに食いちがった目的(ひとりは──話をしかけようとし、他は──部屋から逃げ出そうとする)への希求の中にもまたきわめて興味ある舞台的モメントがあるのだ。
最後にやっと最初のフレーズが発せられ、事態がいくらか明らかになってきて、ここにはじめて対話がはじまる。
ところがきみは、今いきなり対話からはじめ、もっとも興味あるもの──方向探知のモメントを、相互的態度決定のモメントを見のがしていた。
実生活においては、きみはそれを見のがすはずは決してない、ところが、舞台の上では、どういうわけか、いつもそれを見のがしている。
わたしは断言するが、これはきわめて重要なことなのだ。それは何よりもよく観客を説得し、俳優を真実と、自己の行動に対する信頼の道に立てさせる。それがもっとも大切なことなのだ。
方向探知のモメントは、そのときの状態に応じて、短い、やっととらえられる程度のものであることもあるし、ときにはその反対であることもある。方向探知のモメント、相互さぐり合いのモメントは、かならずしも一方の相手方が会話にはいると同時にやまるものとはかぎらない、最初のフレーズというものは、まだほんとうの行動的響きをもっていないのが普通である。というのは、相手役同志のいずれにも、相手方に対する準備評価さえできていないからなのだ。彼等は、相手法に対してより効果的な行動に出るために、なおもさぐり合いを続けるだろう。プリューシキンのようなうたぐり深い人間の場合には、特にそうにちがいない。
現に、彼は、チチコフという人物を見直し、この男はきっと、自分の善根と忍従に対し徳をほどこすべく天からつかわされた人間にちがいないと信じこむまでは、チチコフを強盗と思ったり、お客となって他人の家にあがりこみ、たらふくごちそうにありつこうとする地主か、金をねだりにきたおちぶれ驃騎兵か何かだと考えていた。そこにはしじゅう方向探知、態度決定のモメントがあったし、その後にも新たに発生した事態に応じて方向再探知や新たな態度決定があるだろう。》
(141-143頁)
《「きみは誰と話をしているのです? 今きみの前にすわっているのは誰ですか?」
「コンスタンチン・セルゲーエヴィチ・スタニスラフスキーです……」
「おっとちいがいます──ここにいるのはペテン師ですぞ……」
「なんですって?」
「ほら見たまえ。きみは今、さっき場面を演じていたときよりも一層注意深くぼくの方を見た。そこには、すでに何か生きたものがあった。もしもぼくが一目瞭然たるペテン師であったなら、きみは会話中どんな風にわたしの様子を注視するだろうか? そう、きみは、当然ペテン師を見る目でもってぼくを見るだろう。ぼくのたくらみを見ぬきその機先を制するだろう。では、突然、ぼくのそばにあったナイフが消えてなくなったとしたら? きみが一番だいじにしているものが、屋敷のどこにおいてあるかをとっさに思い出してみたまえ。何にも演じてはいけない。ただ自分のためにだけ頭をはたらかせるのだ。きみはいつも何かしらを演じようとしている。が、きみはまだ何も演じることはできないのだ。まず思想を積み重ねたまえ」
このとき、スタニスラフスキーは、何か書こうと、テーブルの上にあったペンに手をのばそうとした。その途端ペトケルはすばやくペンを横どりして、それをわきの方においた。
「今のはまったく正しかった。今度はぼくがもっと何をやろうとしているか見ぬいてみたまえ。ぼくをようく見まもって。だめだ。演技をやってはいけない。ほんとうに見まもりたまえ。そらまた演技をやった!……ではひとまわり庭を散歩してくることにしよう。ぼくがきみの隣人で、ここはきみの農園というわけだ。きみのところの様子をくわしく話してくれたまえ。おや、これは何んの納屋ですか?」──と彼は何かの建物を指しながら、まじめくさってたずねた。
ペトケルはなにかありふれたフレーズをもってそれに答えたが、彼はそれに満足しないで、なおも一層くわしく細かなことをいちいちたずねた。》
(148-149頁)
《コンスタンチン・セルゲーエヴィチは、ちらりとわたしの方を見ると、ペトケルにこうそっとささやいた。
「誰かやって来ましたよ。あの男には気をつけなくてはいけない。そばへよせつけてはいけませんよ……あれはペテン師です」
わたしはすぐにことの次第を悟って、さっそく芝居に加わった。
スタニスラフスキーは舞台をわたしたちに譲ると、たちまち地主から演出者に早変りして、わたしたちを注意深く見まもりはじめた。
わたしはペトケルのそばへ近づいていった。すると彼はきゅうにとびあがって、いそいで逃げ出した。
「ふむ!……ふむ!……〈演った〉な、ボリス・ヤコヴィレヴィチ。ただ二三歩あとずさりするだけでいいのだ。……さあ、も一度そばへよってゆきたまえ、ワシリー・オシポヴィチ。ふむ! また演りすぎた!……それでは、きみがこわがっていることがすぐにチチコフにわかってしまう。きみはただ、安全をはかるために必要なことだけをやればいいのだ」
わたしたちは、最初は自分たちの即興的な言葉をつかい、のちには台本のテキストをつかって、だんだんにペトケルとの会話にはいっていった。コンスタンチン・セルゲーエヴィチは、わたしたちの会話がお芝居的な形式を帯びてきたり、有機的流れを失ったりすると、そのたびごとにわたしたちの演技を中止させ、幾度も幾度もわたしたちを真実にもどらせたのだった。
「なにも演じる必要はない。きみは、チチコフが自分の話をどこへ向けようとしているかを、ただ聞いていれば、頭をはたらかしていればいいのだ。今ぼくに必要なのはきみの注意だけなのだ……何んのためにこの招れざる客人がきみのところへやってきたかを、洞察することに努力したまえ。では今度は、チチコフに腰をかけるようにすすめてみたまえ。……だめだ、そんなふうにやるもんではない。それじゃ、チチコフに短刀でぐさりとやられてしまう、……それもいけない……もっとぐあいのいい……そしてもっと危険のすくないやり方を発見したまえ」
スタニスラフスキーは、こうして一歩一歩、俳優の中の一切の生きたものを掘り出し、一切の俳優的なもの、職人的なもの、お芝居的なものを取りのぞいていった。すでに、ペトケルのうちには、彼の老人的〈調子〉も、彼のいつもの演技のくせも消え、生きた顔、注意深い、うたぐり深い目がのぞいていた。わたしも、たしかにそれと同じものをもって彼に答え、ふたりは、わたしたちを結びつける一本の相互的興味の糸を感じていたのだった。
わたしは用心深く自分の用件を切り出しはじめた。彼はわたしのいうことに耳を傾け、その真意をつかもうと努力した。
…………
「そう、今のはたいへんよかった……役というものはいかに慎重に探り出すべきものであるかということを、つまり、形象の行為の有機的織物で細いくもの巣を編むようにしなければならない。やぶけないようにきわめて慎重に編まければならないということを感じたまえ。このくもの巣に、いきなりお芝居的職人芸の太網を突っこんだりしないで、このくもの巣から辛抱強く高い有機的な芸術の織物を編んでゆきたまえ、そうすればその織物はおのずと丈夫さをもつようになるから、もうそれに対して気を病む必要はなくなってくる。稽古を続けたまえ。万事無理をしないで、もっとも単純な、生活的な、有機的な行動から出発するように。さし当り、形象のことは考えなくてもよい。役の与えられた状態の中できみが正しく行動するとき、その結果として形象があらわれてくるのだ、きみはいま実例によって、いかに慎重に自分のうちに細道を切開き、小さな真実から他の小さな真実に移りながら自分を信頼し、自分のファンタジーの翼をひろげて、そして、はっきりした、表現的な舞台的行動に到達することができるかを知った。今後もこの呼吸で仕事をしたまえ。これで、もうきみは何をすべきかがわかったでしょう──それから彼は演出家たちに向っていった──もすこしたったら、またぼくのところへ見せにきてくれたまえ」》
(150-152頁)
《「きみは何をやっているのですか?」
「雨の中をあるいて来たので、滴をはらっているところです」
「第一、それはそれらしくないし、それからまた、部屋の中のテーブルのそばで滴をはらうとはなにごとです? それは女主人に対し失礼ではないですか」
「でも、彼は女主人を見ていないのですから」
「信じられない。どうして彼は見ていないというのですか? それできみが彼女を見ていないというのはおかしい」
「ここでは、そういうミザンセーヌになっていて、この部屋に……」
「ぼくにはミザンセーヌなんか重要ではない。論理が重要なのです。もし、きみが濡れねずみでやって来たとしたら、今日、この場で、この状態のもとで、きみはどのように行動するか? たまげた!……きみは何をやるのだ」
「ぼくは……つまりこういうつもりで……」
「何も信じられない……」
でも、場面のはじめの方はどうにかこうにか方がついて、いよいよ対話にはいっていった。
『ひとつお茶うけを、あんたさん』
『わるかないですな、奥さん』
「たまげた!……わたしには何んのことかさっぱりわからない」
『わるかないですなあ、お、く、さん』
「それから……」
『あんたさん、お茶うけにはなにがようごわすかいな? そのとっくりには、果物汁がはいっていやすけどな』
『わるかないですな、その果物汁もいただきましょう……』
「あァ、あァ、あァ! 何もかも忘れてしまっている……きみは言葉をしゃべっている、ただ言葉だけを。……きみはごちそうになるときにはどのようにふるまうだろうか? きみはお茶を、果実酒をごちそうされている。つまりきみは注意を払われている。きみもまた同様にしてこれに報いるべきだ。雨にあたったあとであたたかい部屋でお茶をごちそうになるということは、いったいどんなことを意味するだろうか? わたしにはそれがちっとも見られなかった。さあ、はじめましょう」
稽古が進むにつれてコンスタンチン・セルゲーエヴィチはますますわたしに手きびしく当ってきた。そのくせ彼は、リリーナにはてんで目もくれようとはしなかった。彼女のできも、わたしの見たところでは、たいして上できでもなかったのに。
わたしはもうすっかりがっかりしてしまった。わたしは、何かこうわたしを催眠術にでもかけるような、スタニスラフスキーの、情け容赦のない視線からのがれるために、ありったけの力をしぼってみた。も一度最後の努力をやってみて、それでだめだったら、何もかもなげうっちゃって、稽古場から出て行こう。あとはどうにでもなるがいい。ところが、突然……どうしたことか? 何かこうあたたかい、生きた抑揚がふっとわき上がってきたのだった。わたしはテーブルの上のとっくりに手をのばし、果実酒をさかずきに注ぎ、ひょいとコロボチカの方を見た。と、リリーナの明るい、注意深い目を見た(それまで、わたしは彼女をただぼんやり見ていただけだった)。わたしは急に彼女と何んとかして交流してみたくなってきた。
「ところで失礼ですが──とわたしはたずねた──あなたのご苗字は?……ぼくは昨夜、あんなにおそくやってきたりしたもんですから、ついおききするのを、失念していましたが……」
このわび言葉はきわめて真摯に響いたので、コンスタンチン・セルゲーエヴィチも口をつぐんでいた。が、わたしの方は、どういうわけか彼のことをもう忘れていた。わたしの興味をとらえていたのは、さし向いにすわっている老婆だけだった。すこしずつ、彼女との心地よい会話がほぐれていった。彼女は自分のくらしのことや、生活的不幸のことをしゃべった。と、突然、どういうわけだか、何もかもが興味あるものになってきた。わたしは彼女をいいくるめて、彼女の死んだ農奴を全部で一五ルーブルで買ってみたくなった。この婆さんは、たしかに利口じゃない。仕事はぞうさなく片づいてしまうにちがいない。
『それをぼくにゆずってくれませんか奥さん』
『それをおゆずり申すって、どうするんでごわすかいな』
『そりゃ、簡単ですよ……』
『それだってそれはもう死んでいるんでごわすもんね』
『生きているなんて、誰れがいいました? それだのにあなたはやつらのために税金を払っているんじゃありませんか、ところがぼくはそのような煩いや税金をのぞいてあげたうえに、こちらから一五ルーブルもさしあげようといっているんですよ、さあ、もうおわかりになったでしょう?』
『やっぱり、わたしにゃ、どうもよくわかりやせんよ、あんたさん……』
わたしはリリーナの生きた目を見た。その目は、あるときはわたしの方をむさぼるように見つめ、あるときは紙幣の上をなでまわしていた。わたしはその目から答を待った。わたしには言葉は必要なかった。わたしは彼女の瞳によって彼女が迷っていることがわかった。
『おわかりですか奥さん──とぼくはやっきになっていってきかせた──これはお金ですよ、お金なんですよ。道ばたにころがっているといった代物じゃありませんぞ……ところで、蜂蜜はいくらでお売りになりました? 奥さん、そりゃ恥さらしってもんですぜ──わたしはもうセリフなしでも彼女の考えていることをのこらず読むことができた。リリーナはそれほど正しくコロポチカの思考に生きていたのだった──いいですか、それは、さんざん苦労した蜂蜜なんですよ……蜂蜜……ところがこれは、つまりただの代物なんですよ。それだのにぼくはそのただの代物にこちらから一二ルーブルどころじゃない、一五ルーブル、それも銀貨なんかじゃなくて、青紙幣でさしあげようというわけなんです』
…………
それからさきは、場面はすらすらと運んだ。わたしたちはたがいに問答しあったり、たがいに相手の考えやたくらみを見破ろうとしたり、だましあったり、おどしたり、すかしたり、泣きついたり、えらい剣幕でたがいに攻撃しあったり、退却して、息をついてからふたたび闘争をはじめたりした。が、わたしたちのすべての行動の中には論理があり、合目的性があり、今行われていることは重大なことであるという確信、相手にだけ向けられる注意の方向性があった。わたしたちは観客のことを考えてはいなかった。わたしたちがうまく演っているかどうかという問題にはまったく無関心であった。わたしたちは自分の仕事にすっかり没頭していた。わたしにとって必要なことは、コロボチカの頭の中にある複雑怪奇な機械を何がなんでも回転させなければならないということだった。そしてわたしがここで獲得したものもそれであった。わたしたちは何も特別変ったことはやりはしなかった。それでもなおスタニスラフスキーをはじめとする少数の観客たちは、文字どおり椅子から笑いころげおち、コンスタンチン・セルゲーエヴィチなどは腹痛を起したほどであった。わたしは、この瞬間こそ、われわれがゴーゴリにもっとも接近していたように思うのだ。それはまさに、スタニスラフスキー自身すらけっして反対することのできないグロテスクであった。
「さて、今のはなんであったろうか?──と、コンスタンチン・セルゲーエヴィチは稽古がおわったときにいった──きみたちは直観の波につつまれ、そしてみごとに場面を演じたのだった。それは芸術においてもっとも価値あるものなのだ。それなくしては芸術もまたない。きみたちはもうけっしてあのように演じることはできないだろう。きみたちはもっとまずく、あるいは、もっとうまく演じることはできるだろうが、今ここにあったものは、ふたたび繰返すことはできない。それだから価値があるのだ。きみは今やったことを繰返してみようとしても、決して成功しないだろう。それは固定化されないものだからである。固定化することができるのは、きみをこの結果に導いていった道程だけなのだ。ぼくは、ワシリー・オシポヴィチ、きみのことを、もっとも単純な身体的行動の真実の感覚の探求によってさんざん苦しめてきた。あれが直観を目ざまさせる道だった。つまりぼくはきみを、単純な論理的一貫性への道に、有機的な、真の感覚的道へおしやっていったのだ。自分の行為の論理を知覚したきみは、自分の行為を信じ、舞台の上で真の有機的生活に生きるようになった。その論理はきみの手に握られており、それは固定化することもできるし、理解することもできる。がそれはまた直観への道なのだ。この道程を研究し、このことだけを記憶しておきたまえ。そうすれば、結果はひとりでにあってくる。ぼくはワシリー・オシポヴィチに最初の数歩をあるくことを援助しただけであり、これからさきは、きみはなんらの援助も受けないで、ひとりであるいていった」
「では、マリヤ・ペトローヴナは?」
「マリヤ・ペトローヴナは、はじめはただわたしたちの仕事に、つまり、トポルコフ君がだんだん〈活気を帯びてゆく〉過程に興味をもっていただけだった。が、ほんとうに興味をもつことによって、彼女はきみに対する真の注意を発見した。その注意は──対象に対する真の集中であった。ぼくたちは、彼女をさまたげていた一切のものから、一切の呪縛から彼女を切りはなし、生きた人間との生きた交流に導いていってやったのだ。そこでは、ひとりが他のひとりにはたらきかけていた……つまり一種の発火作用が行われたのであった。一切の質はそこから生まれてきたのだ」》
(157-163頁)
「セリフのいいまわしの稽古を、五日おきに十五分間といった風にではなく、毎日、毎時続けて行うようにしたまえ。といって十五分間の稽古のときには正しくしゃべり、毎日の、九時間の稽古のあいだででたらめにしゃべったのでは問題にならない。言語的行動とは、つまり俳優が自分の幻像をもって相手役を感染させる手腕なのだ。が、それには、きみたちが相手役に語って聞かせることを、相手役にもはっきり、くわしく見るようにさせるために、きみたち自身がはっきり、くわしくそれらすべてのものを見ていることが必要なのだ。言語的行動の領域は広大であって、思考は叙述によっても、抑揚によっても、感嘆詞によってもその他の品詞によっても伝えることができる。自分の思考の伝達ということもまた行動なのだ。きみたちの思考も、言葉も、幻像もすべて相手役のためにある。きみのところでは、はたしてそうなっていたろうか? ワシリー・オシポヴィチ、今きみは場面を演じていたが、きみの左肩はまるで燃えあがっていたようだった。きみはいつも観客を感じているからなのだ。それではいけない。すべては相手役に向けられていなければならない。いったいきみは、この場面で何を得ようとしているのか?」
「クレアントを説得すること……」
「それなら、彼がきみを見るその目の表情を見たまえ。その表情が別のものになるように、明るい目なざしになってくるようにしてみたまえ。そのためには、きみは何をしなければならないか? きみの幻像を彼に伝えることが、彼にきみの目をもってすべてを見ようにさせることが必要なのだ。魂のためにではなく、目のために語りたまえ。この場合は、おどかそうと、すかそうと、哀願しようと、その他何をやろうとかまわないが、すべて相手役だけのために行うのでなければならない。自分の努力の結果は相手役の目の表情によってあとづけてゆくようにし、自分と相手役のあいだに頭で考え出した対象をおいてはならない。そうすることが避け難いこともあろう。それは観客がいつもきみたちの注意を引きつけようとするからだ。だが、観客から自分を引離して対象にもどることができなくてはならない。……けっして、言葉の準備をしてはいけない。さもないと、抑揚のかわりに、意識がきみにあらわれてくるからだ。準備することのできるものは、注意と、いつかわたしが話した創造的身だしなみだけなのだ。思考は完全に語らなければならない、だが、それが説得的に響いたかどうかを判断することのできるのはきみの相手役だけなのだ。きみは相手役の目によって、彼の表情によって、きみが何等かの結果を得たかどうかを調べてみる。もし得ていないならば、すぐにほかの方法を工夫し、別の幻像を、別の絵具をつかってみる。わたしが舞台でやっていることが正しいか、正しくないかを審判するものは、相手役だけであり、わたし自身にはそれを判断することはできない。が、重要なことは、役に対して仕事をしながら、これらの幻像を自分のうちに発展させてゆくことなのだ。……自分の行動の正しさを説得する力は、幻像が具体的であり、委曲をつくしているときにおいてはじめてあらわれるのであり、また有機的なものとなる。さもないと、説得は無理におしつけたものとなり、観客を納得させない。……」》
(234-236頁)
《繰返していう──すべてはクレアントのみのためであることを。おどかしでも、泣きおとしでも、その他きみの好きな方法で彼をうごかしてみたまえ。が、もしそれが効き目がなかったなら、もっと絵具を、もっとほかの手をつかいたまえ。だが、抑揚のことは考えないでいい。ひとつのフレーズを語ることでなく、全情景を描くことが必要なのだ。ヴィナスを粉々にしたり、それをばらばらに見せてはならない。ヴィナスの全身を示したまえ。観客というものは俳優を創造から引き離しがちなものだから、意志をもって、リズムをもって、はっきりした幻像をもって相手役を興味づけなければならない。だから、俳優が生くらな意志をもっているということはおそろしいことなのだ。一切の努力を、タルチュフに対するクレアントの態度を変えさせることに向けたまえ。俳優との演技は将棋の勝負のようなものなのだ。必要なものさえ注意していれば、つまり、相手役の声とか、抑揚とか、目なざしとか、筋肉の運動をいちいち注意していれば、相手がどう駒を進めてくるかわかる。きみは相手役によって、それから先、どう行動すべきかをきめなければならない。そうすれば、それはほんとうの行動となる。》
(238頁)
《「オルゴンのいうことなんか聞きたくない──ときみはいっている。それは行動ではなく、状態なのだ。が、ここでは身体的行動はどのようなものであろうか? まず第一に、〈耳を貸さない〉こともできるだろう──つまりそれがきみの単純な身体的行動となる。それから〈冷淡を装おう〉こともできるだろう──これもまた行動なのだ。きみはそれをどうやってみるか? ここには幾千のちがったやり方がある。が、それはいちいちの具体的場合のために頭で考え出したものであってはならない。ここで大切なことは──〈無価値にする〉ことができるか、または〈奨励する〉ことができることなのだ。では、耳を借さないでいるか、冷淡を装うかして、それによってきみの相手役から出たものを全部無価値にしてしまうには、どうふるまうか? まずはじめに、相手のいうことに耳を澄まして聞く場合に人がいつもやることをやってみ、次にその反対のことをやってみたまえ。きみの行動は相手役の行動のための調音叉であり、一つ一つの間の変化が相手役のセリフとなるのだ。》
(239頁)
《「きょうのきみたちのしくじりの原因はどこにあったか? 交流がなかったし、対象もなかった。ときとして交流があることもあったが、きみたちはそれを失ってしまったり、あるいは、対象がフランスの戯曲にとっては、重苦しいものとなっていた」
スタニスラフスキーは、俳優たちがしばしばこのきわめて重要な生活的過程を無視したり、それを研究しようともしなければ、この過程のきわめて細かな連鎖や、とりわけ、人間ばかりでなく、あらゆる動物に固有する、あの行動開始前の原始的な方向決定についての観念をこれっぱかりも持ち合わせていないといって、よく嘆いていた。
彼は再三こう語っている。
「犬が部屋の中にはいってくる様子に注意してみたまえ。犬はまず最初にどんなことをするだろうか? 犬ははいってくると、まず空気を嗅いでみて、主人がどこにいるかを確かめ、それから主人のそばへ寄っていって、自分の方に主人の注意を引きつけてから、そこではじめて主人と『会話』をはじめる。人間もまたそれとまったく同じように、だがもっと細やかに、もっと変化があるように、ふるまうべきだ。
ところが、俳優はどんなことをやっているか? 俳優はミザンセーヌどおりに、まっすぐに舞台に出てきて、つかつかと定められた場所に近づいてゆき、彼を聞く段取りになっているかどうかにはてんでお構いなしに、いきなり会話をおっぱじめる。彼の前に、女性のかわりに男性を立たせても、おそらく彼はそれに気がつかないで、男性に向って愛の告白をすることだろう。正しい方向決定がなければ有機的な生活過程は崩れてしまう。俳優はうそを語り、自分の行動を信じないで、俳優的職人芸の道を突っ走るようになる。行為のあらゆる細やかさをゆるがせにしないことによって、はじめて舞台における真実の知覚に、自分の有機的自然から出でた創造に到達することができるのだ。
交流とはどんな要素から成立っているか?
(1)方位決定 (2)対象の探知 (3)注意の牽制 (4)さぐり(心眼をもってする)
交流の本質は、一方が受取り、他方が与えるところにある。そしてそれに到達するきみたちのための足がかりは──(1)方向決定 (2)対象に狙いをつける (3)注意牽制 (4)さぐり (5)幻像、すなわち、きみたちの目をもって他人に見させること (6)言葉を口に出すことを決して考えないで、幻像のことを、つまり、どうしたらもっとよくこれらの幻像や事件を相手に伝えることができるかということを考えること。
今、きみたちはふたりの人間のはげしい口論の場面を演じたが、その前につながる一番重要な部分、すなわち、方向決定、さぐり合い、双互的態度決定、このややこしい会話をはじめるのに、きみたちにとってぐあいのいい〈電波〉の決定を見おとして、いきなり口論からはじめてしまった。今いった微妙なことがらや細かな身体的行動は、一部は会話のはじまる前に、一部は最初の五つか一〇ばかりのセリフのあいだにはじまり、この場面のそれ以後の全行動線の最初の連鎖となっているのだ。きみたちはそれをすっかり見おとし、そのおかげで真実をぶちこわしてしまった。
ひとりの男がほかの男のところへ何か借りようとやってくる。が、彼がまだ用件を切出さない前に、いやまだ最初の言葉を口にしない前に、ひとりはすでに勝算ありと見てとり、他のものは、相手のやってきた目的をほぼ察してしまう。それは、彼等のすばやいさぐり合いや、方位決定、互いに相手方の行為や挙動を注意深く観察した結果なのだ。いくつかのあいさつのフレーズを取りかわしたあとで、彼等のうちのひとりが、その問題を話すにぐあいのいい距離をとって座を占め、相手方の気分をも含めて一切の事情を考慮しながら自分の頼みごととか、用件の本題にはいる。
これはすべて、人間がほかの人びとと正常に交流するときには、かならずついてまわる心理的デリケートさなのだが、ぼくらの芸術においては、それは決して無視することのできないものであり、ぼくらにとっては決定的なものなのだ。これらのデリケートなものは、舞台で行われていることがすべてほんとうであり、真実であることを俳優ならびに観客に確信させる。それは、ぼくらの技術、すなわち体験芸術の俳優的技術中のもっとも重要な部分なのだ。
きみたちの口論の場面は、さぐり合いと、相互的態度決定からはじまり、ついでその最高点にまで発展し、最後に完全な激発をもって終るべきだ。そうした演技のみが、観客に、弱まることのない注意をもってきみたちの闘争を追跡させ、彼等を闘争の論理的終結に至るまで緊張させておくことができる。もしきみたちが基本的論理を破壊したならば、観客はきみたちを信じなくなり、無関心になってしまうから、ふたたび人間的交流の一切の細やかな論理を守る道に立ちどまらないかぎり、観客の注意を獲得することはできない。……」》
(241-244頁)
-
▼役の形象化
《舞台芸術とは体験の芸術、再化身の芸術にほかならないと理解していた彼は、感情を演じようとする、形象を演じようとする一切の試みを断乎として排撃した。「形象をもって行動することが必要なのだ──と彼はいった──どの道、きみたちは感情なしで行動することはできないのだが、しかし、そのことに心をつかったり、考えたりしなくてもいい。それは、提起された状態においてきみたちが積極的行動をとらんとする意志の結果として、ひとりでに起ってくるのだ」
それとまったく同じように、外的特徴の探究も、何よりもまず、形象の内的世界に深く沈潜することから出発しなければならないのだ。特殊な外的特徴というものは、形象の行為の全論理的線が把握され、ぴったり身についたとき、俳優はたやすくそれを発見することができる。そして、りっぱに発見された形象の内的〈種子〉はかならず形象の外的種子を示唆するものなのだ。外的特徴こそは俳優の仕事を完成させる補足物なのだ。……》
(251頁)
《……わたしはこの戯曲ではピックウイック氏の召使サム・ウォラーを演じた。わたしとスタニスラフスキーとの会談は電話で行われたものであったが、今、それを思出すままにここに再現してみよう。コンスタンチン・セルゲーエヴィチはわたしにこう語ったのであった。
「きみのところでは、外的方面は何もかもよくできていた。きみは若々しく、大変器用であったし、みごとにうごいていた。だがまだきみは、それらすべてが、何んのためにきみにとって必要であるかということを知っていない。器用のための器用か? そんならそれはサーカスだ。きみの行為はあいまいで、共通の目的によって統一されていない。それは部分的に矛盾していて、あるものはまったくよけいであった。きみにはまだ、きみの一切の衝動や行為を統一させるような、またきみの行動に対する確信をきみに与えるような内的形象の〈種子〉が熟していないのだ」
「けれど、この役にどんな種子があるというのですか、コンスタンチン・セルゲーエヴィチ?」
「さあ、それをひとつ考えてみるのだ。それは一と口にいうことはむずかしいが──まあ、ピックウィックの乳母といったようなものではなかろうか? そこでひとつ、きみの一切の行為をこの一つの目的に従がわせてみたまえ、つまり、ピックウイック氏のお守りをしたり、めんどうをみたり……きみがもっているものの中から、この目的に必要なものだけを取って、あとのものは、たとえ、それ自身としてはどんなによいものであろうと、思い切って捨ててしまいたまえ。そうすれば、形象は積極性と目的をもつようになってくる。……」
ロシア演劇の最大の俳優のひとり、ヴェ・エヌ・ダヴィドフは弟子たちとの談話の中で、いつも彼等にこういって聞かせていた。
「まず、役の幹を発見し、それからその主要な分枝を、次いでもっと小さな小枝を、さらに次いで細枝や樹葉を、そして最後に樹葉の葉脈を発見することが必要なのだ」
スタニスラフスキーもまた、形象創造の道を、一定の連続性の中に見出していたのであった。つまり、まず役の行動線を把握し、強化し、次いでそのほかの、役の外的構図をも含む一切のものを逐次行ってゆくという風に。だが、研究された役の一つ一つの要素が、それぞれほかの要素を含んでいることはいうまでもないことであって、俳優は、仕事のごく最初の段階である身体的行動の構図を組立てているときでも、彼はある程度まで、特徴の探究にはいっているのだ。……》
(254-255頁)
《俳優の舞台的説得性は、まさにこうした法則の上に立脚しているのだ。人物の論理的に一貫した行動線の創造や、その生きた、有機的な形象化は未来の完成した舞台的形象の基礎であり、土台であるのだから、役に対する俳優の仕事は、当然に、この行動線、その〈器官〉の探究からはじめられなければならない。それがもっとも正しい、おそらくは唯一の正しい道なのだ。任意の行動の形象化は、人間の行為を組立てている一切の要素の動員を要求する。実生活においては、この動員は、外部のある一定の事件に対する必然的反応として、無意識に行われている。が舞台においては、一切の事件は虚構であって、俳優にそれに対する反応を起させ得ない。では俳優はどうして舞台的形象の有機的行動線の形象化に到達することができるのだろうか?
コンスタンチン・セルゲーエヴィチは、あらゆる人間的行為のうちで一番触知しやすいもの、もっとも具体的なもの、すなわち、人間の身体的面にわたしたちの注意を向けさせていた。彼はその演出・教育的実践において、特にその晩年において、役の生活のこの面を、形象に対する仕事の組織的原理として、これに決定的意義を与えていた。人間の行動の身体的面とその一切のほかの要素との分離は、もちろん条件的なものであり、また、スタニスラフスキーが考え出した、いくらか教育的な便法であった。彼は、俳優の注意を感情や、心理の領域から引き離し、俳優を〈純身体的〉行動の遂行に導いてゆくことによって、俳優がこれらの行動を満たしている感情の圏内に浸透するための有機的な、自然の道を切開くことを助けていたのであった。
「役の身体的行動のもっとも単純な図式を組立て──とコンスタンチン・セルゲーエヴィチは語った──これらの行動線を連続したものとしてみたまえ、そうすればきみたちはもう、すくなくとも三五パーセントは役を把握したのだ」
身体的行動の図式は、人間的形象の本質を組立てている一切のものがその上で育てられる骨組みなのだ。と同時にそれはまた、舞台的行動の有機性を吟味する方法であり、あらゆる感情や体験や、一般に、舞台的形象の中に宿されている一切のもののもっとも表現的な反映なのだ。》
(268-269頁)
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▼貫通行動/超課題/その他
《きわめて長時間にわたったこの談話のあいだに、彼は役の中に前にあったものと今のものとのあいだの本質的な相違についてわたしに説明してくれた。
「あのときは、きみの役の中に、連続した、有機的な行動線を発見したのだった。そしてきみはその線に沿って事件から事件へと渡りあるきながら自分の目的を追っていた。それから、公演のとき、観客は彼等の反応をもってきみの特に成功した個々の箇所をきみに報せてくれた。きみはそれに目を止め、それらの箇所をつかまえ、特にそれを増強するようになった。きみは、役や、抑揚や、ミザンセーヌのそれらの個々の箇所ばかりを愛し、ほかのものはすっかり見のがしてしまった。きみは、安直に栄冠の得られる、きみの役のうちの気に入りの箇所ばかりを今か今かと待っていた。だから役は片輪になってしまったのだ。それはばらばらになって、その完全性を、志向性を失ってしまったのだ。以前には、きみには自分がやっている演技が味も素っ気もないもののように思えたものだった。あるいは実際にそうだったのかもしれない。だが、きみは正しく演じていたのだった。そしてきみは、個々の効果を追わずに、正しく発見したものを定着さすべきだった。役の貫通行動を確定すべきだった。ところがきみはまったくちがった方向へ走ってしまったのだ。ぼくがきみに語ったことを記憶に留めたまえ。そして、何よりもまずこのまちがった道──個々の〈小片〉を演じたり、場面の最中や、退場際に安価な拍手を稼ぐといった道を警戒したまえ。役を一つの全体として見たまえ。観客に、きみの闘争の論理を追跡させ、観客にきみの運命に興味を抱かせ観客が拍手どころか、きみのあらゆる繊細な行為を見ることを妨げるようなどんな小さな身うごきをすることさえも恐れながら、目もそらさずきみのあとを追跡するようにさせたまえ。これが俳優の演技なのだ。それは観客をまぎらすものではなく、観客の胸を深く突くものなのだ」》
(65頁)
《「きみは、この演技においてミザンセーヌがやる度ごとにだんだんにおもしろい、変化に富み、思いがけないものになっていったのを見たであろう。このように、やるたびごとに新しいものになるということはいいことなのだ。ぼくは、俳優たちが、きょうはいったい四つの壁のうちのどれが観客席の前に開けられるのかを知っていないといったようなスペクタクルをときどき空想してみることがある」》
(214頁)
《「わたしたちの芸術についての回想を研究すればするほど──と、あるときスタニスラフスキーはいった──高級な芸術についてのわたしの定義は、ますます短い公式に縮められるであろう。もし、きみたちが、高級の芸術についてのぼくの定義をたずねたなら、ぼくはこう答えるだろう。『それは、超課題と貫通行動とをもっている芸術のことであり、またくだらない芸術とは、超課題も貫通行動もないような芸術のことなのだ』と」
このことは、スタニスラフスキーにあっては、芸術に対する必要な要求が、その内容の思想性を要求することにあったことを語っている。だが、彼は冷たい、職人的俳優技術の手段をもって、舞台的作品の形象化とは考えていなかった。彼はアルチザン的技術、つまり、真の人間的感情を処理することのできる、真の人間的体験や情熱を語ることのできるような技術を夢見ていたのであった。》
(265頁)
:鈴木忠志氏のスタニスラフスキー・システムへのコメント(要約)
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「俳優の演技について書かれた書物でスタニスラフスキーの『俳優修業』を一番面白い一冊として挙げることに、私はやぶさかでない。ただしこの書物が演技についての誤解をふりまいたことも否定できない。この書物が広めた誤解というのは、以下のような先入観のことである。
──われわれの日常生活の描写をそのまま再現するのが演技の目的である。
──戯曲中の登場人物を演じるには、その人物が置かれている(具体的・日常的)環境に自分が置かれたらどうするかという仮定から出発しなければならない。
──俳優は舞台の上で実生活と同じ感情を生き直さなければならない。
私が言いたいのは、舞台上で俳優が演じる感情は、あくまで演劇形式という一つの虚構の様式の中での「舞台感情=舞台上の現前性の中での動き」にすぎず、それを「現実感」「日常生活」「実生活と同じ」ということに近似させなければならない理由は一切ないということだ。だいいち戯曲自体が人工的な会話から成っている。そして俳優とはそもそも、演技することによって実生活に回帰していくのではなく、実生活を参考にしつつも、それをまったく別のイリュージョンに昇華して舞台上で具体化する存在ではないのか。私はスタニスラフスキーもそう感じていたにちがいないと思う。実生活の人物を再現すること、あるいは実生活にこそ正解があるとする考えは、スタニスラフスキーの一言一句が教条主義的に受け入れられていった結果の誤読にすぎまい。
たしかに、スタニスラフスキー・システムは単に鬼面人を驚かすたぐいの職人芸的な紋切型演技の批判としてあらわれたが、それは、実生活に即したリアルな芝居によっていかにも演劇的に誇張された演技を批判した、ということではない。むしろ役者が創造性を発揮するために障害となっているさまざまな要素を取り除いてやり、つねに、惰性的で反復的な「実生活」を送るうちに私たちが習慣のうちに忘れてしまう、人間の身体にひそむ潜在的な魅力を再発見させるために、このシステムは考えだされたのではないか。したがってスタニスラフスキー・システムは、紋切型の職人芸と同様に、習慣まみれで鈍色になった私たちの実生活の感覚というものをも同時に切断しているはずである。」
(『演劇とは何か』岩波新書)
:レオニード・アニシモフ(スタニスラフスキー・システムの研究者、演出家)
- 「Idiot 〜ドストエフスキー白痴より〜」稽古風景その1
http://www.youtube.com/watch?v=99A08-xf16E
「Idiot 〜ドストエフスキー白痴より〜」稽古風景その2
http://www.youtube.com/watch?v=QqXaxVmwjlM
「Idiot 〜ドストエフスキー白痴より〜」稽古風景その3
http://www.youtube.com/watch?v=wMz6NSb3TNc
「ドストエフスキーには感情っていうのはない。そこにあるのは情念。すべてが情念で充満している。感情っていうのはムイシュキンにあるもの。ナスターシャには情念がある。アグラーヤにも情念がある。もちろん情念も感情になることはできる。でも感情まで行き着けない、なぜなら別の情念がその情念に対抗して駄目にしてしまうから。感情っていうのは私が与えるときどんどん与えたくなるもの。情念っていうのは自分がどんどん取りたい取り込みたい。情念は「自分に!」「自分に!」「私の!」「私の!」ってばかり。誰かが「私の!」っていう言葉を言ったら、それはもう情念だ。ナスターシャはアグラーヤにムイシュキンを与えようとする試みを一回やるんだが、うまくいかない。できないんだ。「私の!」「私の!」というところでエピソードが終わっちゃう。つまり感情まで行き着くことができなかった。アグラーヤも感情まで行き着けなかった。愛の感情にまで行き着ける人は滅多にいない。非常に稀。基本的にはひとびとはその情念で生きている。『白痴』はそのことについての小説だ。ひとりの人間がひとびとのところにやってきた、その人には感情がある。彼はいつもいつも他の人たちに自分を与えている。他の人たちはみんな自分のために取って取って取って取りまくる。そういうことについての小説。例としてキリストというものがある。それを理解することは非常に重要。なぜか。それが存在方法に強い影響を与えるから。情念っていうのはものすごい巨大なエネルギー。情念っていうのは凄い早い大きなテンポ。自分をちょっとスローダウンしてしまうと、それはもうこの作品にふさわしくない方向にいっちゃう。そうするとあなたがたはドストエフスキーからどんどん離れてしまう。チェーホフはゆるやかな流れの川のようなものだ。だがドストエフスキーのこの作品は、ただ一人静かなムイシュキンのまわりで台風がうずまいている。ムイシュキンだけがどこにも急いでいない。彼ひとりだけだ。他には誰ひとりそんなことは許されない。昨日この前のエピソードをやりましたね? 普段よりも四倍も五倍もエネルギッシュにやること。それを毎回リハーサルのたびに確認しているんだ。あなたは今ゆっくりと平静に話しはじめた。そしたらそれもうドストエフスキーじゃない。つまりドストエフスキーの中にいるためにはそういう課題・行動がそういう存在方法の中でぐるぐる回っていなくちゃいけない。レーベフェフには聖書を読み解く能力があるという話はしましたね。彼が自分を「私は低俗です、低俗です」と言うとき何を意味しているか。そのこともわれわれは話してきましたね。聖書には、人は他人に権力を持っちゃいけない、と書いてある、そのことを私は知ってますよとレーベジェフは言っている。レーベジェフ自身ではムイシュキンに対する権力を望んでしまっている。ムイシュキンのおかげで他の人たちに対する権力も持つことができるし。だからレーベジェフにとってムイシュキンは資本のようなものですね。レーベジェフは中心にいたい。そしてムイシュキンをコントロールしたい。聖書にはそれをやっちゃいけないと書いてある、唯一自分に与えられた権力、それは自分自身に対する権力だけだと書いてある。ところがレーベジェフは他人に対する権力を望んでいる。だからあなたが行動を組み立てるときはそこから出発しなきゃならない。そうするとまったくちがうことになる。エネルギーも別のものになる。ここであなたは彼〔ムイシュキン〕に何をやろうとしているのか、ということを正確にしてみましょう。あなたは彼に対する権力を持ちたいと望んでいる。だからここでは科白に対し行動は垂直の立場になくちゃならない。すべてのドストエフスキー作品の中の科白はパラドックスによって組み立てられている。例えばアグラーヤ。「あたしこれから笑ってやる。あたしはこれからうんと大声で笑ってやる」とアグラーヤは非常に悲しげに言った、と小説にはある。まさにドストエフスキー。大笑いしてやる、ととても悲しげに言うということ。それがドストエフスキー。まったく反対のことが科白に込められている。われわれはそれを今探しているんだ。ロゴージンが言う。「まだ帰るなよ。俺と一緒に坐っていてくれ。久し振りに会ったんじゃないか」で、公爵が坐る。するとロゴージンが突然「おまえが悪い! おまえが悪い!」というものすごいエネルギーを公爵にぶつけはじめる。パラドックスだ。友情の平和の言葉が穏やかな流れをつくりだすのかと思えば、ドストエフスキーはそんなことはやらない。ロゴージンは公爵をぶちはじめる。壊しはじめる。パラドックス。それがドストエフスキー。この場面でもそういうものをぶつけなくちゃならない。科白に垂直な感じを対抗させる。そんなふうに一致しちゃいけない。しかもそれを強力な、すごいテンポでやる必要がある。芝居全体がおそるべきスピードで進行していかなきゃならない。全員がものすごい情念、ものすごいエネルギーを持っていて、ものすごい戦いがある。難しさもそこにある。どっからそんなエネルギーを持ってくればいいのか? ……レーベジェフはいつもいつも一つのことばっかりやってる。一人一人の貫通行動〔登場人物に一貫性をもたせる行動と行動の連絡〕は一つだけなんだ。」
「もしも私が〔こういう状況にいたらどういう行動をとるか?〕……、と問えばあなたは非常に具体的にやることになる。いつくかのヴァリエーションが可能だ。でもそれは非常に具体的なものにならざるを得ない、なぜならそれはあなたの「もしも」を通して出てきたものだから。たとえば演出家が「ああ、その二番目のヴァリエーションがいいね」と言う。しかしそれは間違いだ。あなたの行動が具体的になるには、あなた自身の「もしも私が……」を通したときだけなんだ。そのヴァリエーションは他の俳優には使えない。それはあなたの個性、あなただけの行動だから。それが足りないから、われわれは必要以上に時間を使ってしまうんだ。」
「善良さ、無垢さ、子供らしさ……そういうものは確かにレーベジェフがムイシュキンの中に見出すものだが、まだ具体性がないな。役について非常にはっきりした具体性・正確性が必要な段階にきているんだ。さもないと次のレベルのリハーサルに移行することができない。来週には次の段階のリハーサルをやる。もう科白や形だけにとらわれていては駄目だ。貫通行動について何から考え始めるべきかというと、「何において、あなた〔レーベジェフ〕は自分が貶められたと感じているか」「レーベジェフは何を言って自分が貶められたと感じたのか」それが主要な問題なんだ。そしたらあなたは一つ一つのエピソードでそのことをチェックしよう。抽象的な結論で満足してはいけない。たとえば、他人から評価されないことで傷つく、そんなことは誰にでも当てはまることだ。レーベジェフ=あなたはなにを目指しているのか? そういう問いから始めてもいいが、答えは具体的でなければならないだろう。小説の中でレーベジェフは法律家だ。「分かってますよ、私は私有財産には手をつけませんよ」なんて科白もある。彼はいつも自分の法律の知識を利用している。それどころか彼は聖書の解釈までやっている。そうした要素もレーベジェフという人間について非常に多くのことを語っているのだ。彼はいつも誰かに何かを教えているね。聖書の講釈できるほどに彼は教養の持主だ。社会的な知識、法律の知識とともに、それもまた彼の権力の源だろう。一方、ムイシュキンはそういうことを何も知らないね。さあ、レーベジェフはどこへ向かおうとしているのか?」
- 【写真レポート】東京ノーヴイ・レパートリーシアター「レオニード・アニシモフの俳優の為のマスタークラスvol.2」2007年10/16、11/06東京ノーヴイ・レパートリーシアター劇場
(しのぶの演劇レビュー:2008年02月12日)
http://www.shinobu-review.jp/mt/archives/2008/0212164843.html