1.1(第一部第一章) 26枚
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1.1.1
七月初め夕暮れ近く、日時時間指定(小説内一日目)。青年が建物を出て外へ歩いていくことを叙述。「思いまようらしく……」明らかに外的描写、語り手からの記述。
1.1.2
括複法的記述。下宿のおかみに言及。おかみの台所との位置関係(犯罪実行時の伏線)。おかみに会うことを恐れる青年のいつもの気持ち「そして青年はその台所のまえを通るたびに、なんとなく重苦しい気おくれを感じて、そんな自分の気持ちが恥ずかしくなり、顔をしかめるのだった」(習慣の記述)。
1.1.3
やはり括複法的記述。「あるときから」彼は苛立たしい気持ちで暮している。引きこもって暮している。彼の貧乏について。彼が仕事を辞めてしまったことについて。おかみをそれほど恐れているわけではないことについて(家賃や賄い費を催促されるのが、鬱陶しいだけ。1.3.2への伏線)。
1.1.4
通りへ出る。おかみを恐れていた自分に気づく。
1.1.5
内語。おかみなんかを恐れる自分を叱咤。《もしかしたら、何もしないから、しゃべってばかりいるのかもしれぬ》自分の現状への自己推察。この一月の生活を反省。《果しておれにあれができるだろうか?》──伏線。
1.1.6
通りの描写。ペテルブルクの夏の悪臭。そして「深い嫌悪感が青年の端正な顔にちらとうかんだ」から青年の容姿の描写。「おどろくほどの美青年」(語り手による評価)。描写が終わると、青年はもうまわりも見ずに(通りの描写も終わったことだし!)歩き出す。自分がひとりごとを言っていること(これは括複法的記述になっている──「時折り、この頃のくせで、ぶつぶつひとりごとを言ったが……」)、身体がひどく衰弱していることに気づく。昨日から何も食べていないのだった(これは時間幅を広くとった文脈の設定)。現前的描写がメインの段落だが、現前性だけから成り立ってはいない。語り手の重要性。
1.1.7
彼の服装について。そのぼろな服装に見合った周囲の街の風景について(これは括複法的な説明の記述になっている──「奇妙な服装が街の風景をいろどることは珍しくなかった、だからへんな風采に会ったからといって、びっくりするほうがおかしいようなものだ」)。青年の心につまっている毒々しい侮蔑の心について(「時には少年のように恥ずかしがるのに……」「しかし常々会いたくないと思っているような旧友たちと出会うとなれば、話は別である……」──これも括複法的説明)。「そのとき」大きな駄馬にひかれた荷馬車に乗っている一人の酔っぱらいが、青年の帽子をなじる。しかし青年が感じたのは羞恥ではなかった。
1.1.8
独り言文体(内語ではない)。「だから言わんこっちゃない!」うろたえる。帽子が目立つせいで自分の計画がすっかりくずれる?(伏線) 細部が大事なのに……。
1.1.9
「そこまではいくらもなかった」。目的地について。彼はそこまで自分の家の門から何歩あるかまで知っている。括複法的記述開始──近頃ずっと繰り返している空想のために、一度それを測ったことがあった。自分でその空想が実行できるとは信じていなかったが、その空想には慣れてしまった。(括複法終わり)今歩いているのも、その空想のリハーサルである。
1.1.10
緊張しながら大きな建物へ近づいていく青年。語り手による「この建物」についての説明的ディエゲーシス(青年がかねがね知っていることの開示?)──「この建物は全体が小さな貸間にわかれていて、……」、そしてそれにつづいて説明的括複法──「だから出入りがはげしく、二つの門と二つの内庭にはほとんど人の行き来がたえたことがなかった」。庭番にも出会わなかった……で現前的記述に戻ってくる。裏口階段をのぼっていく。内語。四階で、除隊兵の運送人夫たちに出くわす(超-伏線)。時間幅を取った記述──「彼はもうかねがね、この部屋にはドイツ人の官吏の一家が住んでいたことを知っていた」。内語で、しばらく四階が「婆さん」の部屋だけになることを認識。その婆さんの部屋の呼鈴を押す。呼鈴が彼にあることを想起させる(予感的に未来へ時間幅を広げた記述? これ自体が伏線!)。ドア開く。意地悪そうな老婆の描写。警戒の目。(目の描写に注目。「意地悪そうなけわしい小さな目を持ち……」「老婆の目にも不意にまたさきほどの警戒の色がうかんだ」)
1.1.11-12
科白・会話。青年名乗る(「ラスコーリニコフ」)。一月ほどまえに一度訪れている(と科白で)。地の文で青年の内面に沿っての態度描写の補完(「もっとやさしくしなければならないことに気がついて、軽く頭を下げながら、あわてて……」)。老婆は彼を覚えていた。
1.1.13-16
会話。用件を切り出そうとするが、老婆の疑り深さにうろたえる。内語《この婆さんはいつもこうで、あのときは気づかなかったのかもしれん》──「あのとき」で時間幅を広くとった文脈を設定。しばらく思案していた老婆だったが、青年を奥の部屋へ通す。
1.1.17
外界との対話的情景法(「室内の配置を頭の中に入れておくため」。何故? これも伏線)。青年が通された小さな部屋の描写。入日が入るのは時間的に夕暮れだから。描写の後に思考=内語。《あのときも、きっとこんなふうに……》伏線。家具。安物の絵。すべてが非常に清潔なのは、《リザヴェータのしごとだな》と洞察=伏線(この時点ではリザヴェータが誰かは不明。ただ青年がそれを知っているに違いないことは分かる。やはり時間幅を広く取った文脈の設定)。部屋の奥にさらに次の間がある(「そこは老婆の寝台とタンスがおいてある部屋で、彼はまだ一度ものぞいて見たことがなかった」──やはり時間幅を過去に広くとった文脈の設定)。
1.1.18
老婆のとげとげしい科白。「ご用は?」観察中断。
1.1.19-28
会話。青年質草の銀時計を出す(=用件)。これで老婆が質屋だと分かる。前にも指輪を預けていることが分かる(伏線。ドゥーニャの指輪)。時計は父親のもの(伏線。父親は既に亡くなっているはずだが、その開示は?)。「この時計でどのくらい貸してもらえるかね、アリョーナ・イワーノヴナ?」。結局、一ルーブリ半で利息天引き分しか借りられず、青年がっかり。
1.1.29-31
青年かっとなって品を引っ込めようとするが、ここへ来た本来の目的を思い出して、やはり質入れすることにする。「まあいいや!」
1.1.32
「老婆はかくしへ手を突っ込んで鍵をさぐり、カーテンのかげの次の間のほうへ行った。青年は部屋のまん中に一人だけになると、身体中を耳にして、計画をねりはじめた」。外界との対話的情景法。次の間へ行った老婆の立てる物音から部屋の様子を探るというシチュエーション的に、非常に注意深い描写+内語となる。《……とすると、ほかにまだ手箱か、長持があるにちがいない……》鍵は右ポケットに入れていて、まとめて鉄の輪に通してあることを知る(伏線)。
1.1.33
一行段落。老婆戻って来る。
1.1.34-36
会話。細かい計算、今回の利息と前回の利息分を引いた金額を手取り。青年「なんですって!」というが、本来の目的からすれば、これは演技?
1.1.37
金を受け取った青年、帰り渋る。「彼はしたいことがありそうな気がするのだが、それが何なのか、自分でも分からないらしかった……」と外的焦点化、語り手からの態度描写。
1.1.38-43
会話。二、三日じゅうに「銀のシガレットケースを質入れに(伏線)」またくるかもしれない、と言ってどぎまぎする(自分に対する犯行予告に等しいので)。「……」を多く挟む文体。控室の方へ出て行きながら、妹(=リザヴェータ)のことも訊く。警戒されただけだったが。
1.1.44-45
うろたえて部屋を飛び出る。階段おりる。通りへ出る(この一連の流れは素早く、要約法的)。出てから、内語でこらえきれなくなって叫ぶ。自分の「恐ろしい考え(まだ詳細不明)」をけがらわしいこととして罵る。《それなのにおれは、まる一月も……》時間幅を過去に広く取った文脈の設定。
1.1.46
「しかし彼は言葉でも、叫びでも、心のみだれを表現することができなかった。」胸苦しさが募る(語り手がラスコーリニコフの内面に寄り添って、心理描写)。ふらふら歩道をたどる。やっと我に返ると、偶然(地下)居酒屋の前に立っていた。ちょうどその時、酔っぱらいが入り口から出てきた。彼は何も考えずに階段を下りて行った。括複法的記述「彼はこれまで一度も居酒屋へなど入ったことがなかったが、いまは頭がくらくらしていたし、それに焼けつくような渇きに苦しめられていた」。ビールを頼む。一杯飲むと気分がすっきりしたので、調子づいて、内語──《何もうろたえることなんかなかったんだ! ただの肉体の不調さ!》──これは勿論真の不安の否認。親しげにあたりの人々を見回しはじめる。
1.1.47-50
居酒屋にちらほらいる客たちの描写。ニュートラルな描写で、ふとった大男が歌うばかげた唄の引用など、なかなかのリアリズム。
1.1.51
「しかし誰もその男の幸福を喜んでくれる者はなかった。」そして店内にいる客のうちの最後の一人に焦点があう。退職官吏風の男(次章への伏線)。ラスコーリニコフと同様あたりを見回している。
★一番重要なのは、ドストエフスキーが主人公を、単なる肉体的実在でも知覚の集積としてではなく、想像する人間として描いている点。外貌描写などは実際にはほとんどどうでもいい。この人物が何を想像しているのか、それを構想することだ。外界と内界の対話性にもとづく立体的な情景法なども、想像する人物という構想があってはじめて可能になる。
※主人公の意識の経路に入り込んで来る様々な事件の配置が上手い。主人公が注意力を高めざるを得ないように事件を集中させる。偶然を利用して。
※時間としては夕暮れということになっているが、夕暮れらしい描写は、一箇所のみ。しかも主人公の意識にとって意味があるからこそ描写されたに過ぎない。
※括複法的記述をときどき混ぜることによって文脈の密度を高めていることに注目。大抵、青年が「かねがね知っていたこと」に該当する。情景法に厚味を増す手法とでも言うか。これがあるから、オーソドックスのようでオーソドックスでない小説空間になる。
※とにかくドストエフスキーは(時間幅を過去に広くとった文脈を設定し)一触即発の状況を作り出すのが上手い。これが主人公の意識の経路を中心にすえた小説作法と噛み合っている。
1.2(第一部第二章) 55枚
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1.2.1
括複法的記述。ラスコーリニコフは人ごみの中に出つけなかったし、およそ人に会うことも避けていたが、しかし……今は、人が恋しくなっている(語り手がラスコーリニコフの内面に寄り添う心理描写「彼はまる一月にわたる思いつめた憂鬱と暗い興奮に、へとへとに疲れはてて、せめてひとときでも……」)。だから居酒屋の汚らしさも気にかからず満足して身をおいていた。
1.2.2
店主についての描写。給仕の描写。料理の描写とあわせて、いっさいが醜い。
1.2.3
段落冒頭、非現前的注釈「ぜんぜん見知らぬ人で、まだ一言も口をきかないうちから、どうしたわけか不意に、……」。兆候的記述。ラスコーリニコフは客の退職官吏風の男にまだ一言も口をきかないうちから、妙に心を惹かれる。さらに先説法=時間幅を未来に広くとった文脈の設定「青年はあとになって何度かこの第一印象を思いかえしてみて、それを虫の知らせだとさえ思った」。官吏に対する詳しい描写。特に目の描写に注目──「亭主をふくめて、店内にいたほかの客たちを見る官吏の目には、妙ななれなれしさと、もうあきあきしたというような色さえ見えて、同時に、話すことなど何もない、地位も頭も一段下の人間に対するような、見下すようなさげすみの色もあった」「はれぼったい瞼の下には、割れ目みたいに小さいが、生き生きした赤い目が光っていた。しかし、何かこの男にはひどく不思議なものがあった、その目には深い喜悦の色さえ見えるようで、どうやら思慮も分別もある男にちがいないと思われたが、同時に、狂気じみたひらめきがあった」。着ているのはぼろぼろのフロック(官吏の制服ではない──伏線)。髭を剃っていないらしく無精ひげがある(伏線)。描写が終わると、突然その男がラスコーリニコフに話しかける。
1.2.4
科白。話相手になってくださらんか?と。また、自分の職業と名前を告げる。ラスコーリニコフの職業を訊く(そりゃそうだ、マルメラードフが知るわけがない)。「わたし自身つねづね、あたたかい心情ととけあった教養というものを尊重してきたし……」これが特にラスコーリニコフを選んで話し掛けた理由らしい。
1.2.5
青年は「勉強中=学生」だと答える。これは読者にとっても新情報。だが実際声を掛けられてみると、人恋しさが消えて青年に人間嫌いの気が起こる。心理的実在。
1.2.6-7
科白。学生だと訊いてわたしの睨んだとおりだ、話し相手にもってこいだと考えたか、大声を出す官吏。青年のテーブルへ寄ってくる。勢いよくしゃべり始めるのを「彼もまたまる一月も誰ともしゃべらなかったみたいに……」と形容。
1.2.8
科白。マルメラードフの印象を決定付ける。貧乏が罪悪だ、という自己卑下。だからこそ酒を飲んでさらに自分を貶める。一ヵ月ほどまえ、家内がレベジャートニコフ氏にぶちのめされた(超-伏線。なぜならこのレベジャートニコフ氏こそ、ペテルブルクに来たルージンの隣人になる男だから。ありえないほど都合よく、偶然に関係が出来る場合でも、事前に伏線を張っておけば自然に受け入れられるのか?)。脈絡なく、最後に「もうひとつあなたにうかがいますが」ネワ河の乾草舟に寝たことがあるか訊く。
1.2.9-11
青年が否定的に答えると、自分がそこから来たと言う。で、描写。マルメラードフ酒飲む。彼の服や髪に乾草の茎が付いている。
1.2.12
「彼の話は一同の注意を惹いたらしい」から周囲の描写。給仕たち。亭主。時間の幅を広くとった推察の記述「どうやら、マルメラードフはこの店では古顔らしい」。酔っぱらいについての法則的記述。
1.2.13
亭主が大声で「どうしてはたらかないんだい?」とマルメラードフに訊ねかける(これで描写・ディエゲーシスが中断)。
1.2.14-15
それを受けてなぜかラスコーリニコフの顔を見ながら、マルメラードフ答える。「どうして勤めないかって? それじゃ、わたしがこんなみじめなざまで平気だとでもおっしゃるんですか?」問いかけの文体。突然問う、「見込みのない借金をしたことがありますか?」脈絡ないな。
1.2.16-19
会話。見込みのないとはどういうことか聞き返す、マルメラードフが言うにどうまちがっても金を貸してくれる心配のない人間に借りに行くということ。どうして行くのか?とラスコーリニコフ。どこかへ行くあてがなければ、やりきれないから。娘が黄色い鑑札をもらいに行ったときでさえ、自分は借金しに出掛けていった……という形で、マルメラードフの娘が娼婦だということが言及される(必須の伏線。ここで張っていたのか)。まわりの給仕たちが笑う。マルメラードフは強がる。「笑うがいい! 笑うがいい!」そして最後に、また突然問う、「学生さん、あなたはできますかな、わたしが豚だときっぱり言い切ることが」(この問いはマルメラードフの自己卑下の表現であるとともにカテリーナの話題を引き出すための技巧。会話設計)。
1.2.20-21
答えない青年(一行段落)。「どうです──と彼は、またしても店内におこったヒヒヒという笑いがおさまるのを待って、今度は一段と威厳さえ見せて、おちつきはらって言葉をついだ──なあに、わたしは豚でもかいません、だが彼女はりっぱな女ですよ!……」、この科白で、話題をカテリーナに移すことを自然に。カテリーナ・イワーノヴナの育ちについて。性格について。寛容な心をもっているくせにかたよっている? カテリーナはマルメラードフの髪をつかんでひきずりまわす(このことが語られると、「──また、ヒヒヒという笑い声を耳にすると、彼はいっそう威厳をこめてくりかえした──」と地の分挿入)。最後は、家内への愚痴を引っ込めて、自分をののしる。「それにしても……おれは生まれながらの畜生なんだよ!」
1.2.22
「そのとおりだよ!」と亭主があくびまじりに言う。一行段落。ポリフォニック効果?
1.2.23-25
マルメラードフが拳骨でテーブルをたたく描写が入ってから(一行段落)、また長科白。さっきからの続きで、「これがおれの性根なんだよ!」から始まる。家内の靴下まで飲んでしまった。カテリーナは肺病にかかりやすいのに、朝から晩まで働きづめ。マルメラードフの良心は痛んでいる(「わたしにはそれがわかるんです、わからずにいられますか!」)。言わば憐憫の達人であり、それゆえに、「だから飲む、飲めば、あわれみと同情が見つかるような気がして、それで飲むんですよ……飲むのは、とことんまで苦しみたいからさ!」、痛ましい。そして、絶望にうちのめされたようにテーブルの上に頭を垂れる(一行段落)。
1.2.26
なんと数頁にわたる長科白。まず最初になぜ特にラスコーリニコフを選んでこんな話をするかを語って、長科白の前準備。「いまさら言わんでももうすっかり知りぬいているそこらののらくらどものまえに、恥をさらしたいためじゃなく、知と情のある人間をさがしていたんですよ」(確かにこれは重要で、マルメラードフに対してステレオタイプにしか反応できない亭主や客たちと違って、ラスコーリニコフはその痛ましさに共鳴できる感受性を持っている)。「実は……」から家内の育ちを語る。賞状の話から、家主のかみさんとの言い合いの話。「そうですよ、そうですとも、あれは気性がはげしく、気位の高い負けずぎらいな女ですよ」から家内の性格の話。「だいたいわたしが家内をひきとったときは、……」から家内の経歴の話。前夫のこと。駆け落ち(だったために夫の死後の身寄りゼロ──「わかりますかね、学生さん、もうどこへも行き場がないということが、どんなことか?」)。再婚(ちょうどそのころ、マルメラードフも死んだ妻にのこされた十四の娘と二人暮らし)。そして彼の失業(定員が改正になったため)。酒に手を出す。ペテルブルクへ。職にありついたがまた失くす。現在の住所=ソドム(マリヤ・フョードロヴナ・リッペヴェフゼルという婦人の家。これがさっきの「家主」)。前妻が残した娘、ソーニャについて(名前初出)。継母のいじめ。無教育。ラスコーリニコフに疑問符で呼び掛け「学生さん、つかぬことをお尋ねしますがね、どうでしょう、貧乏だが心のきれいな娘がですよ、まともなしごとでたくさんのお金をかせげるでしょうか?」──修辞疑問文。一家の困窮、カテリーナのヒステリー。ダーリヤ・フランツォヴナ(『貧しき人々』におけるアンナか)による売春業の仲介。カテリーナのヒステリー《そんなに惜しいものかい? 宝ものでもあるまいし!》。ついにソーニャは売春へ。もどってきて銀貨を机の上に。寝ながら震え泣く。カテリーナはソーニャの足元にひざまずく。マルメラードフは無為に寝転がっていた。……おおむね、複数の文章を、うまく話体の接ぎ穂を使って連想的に繋げているという印象。律儀に入り口から出口までという感じではない。が、マカール・ジェーヴシキンの手紙全体の思わせる流れではある。
1.2.27
地の文。声がぷつッと途切れる。酒を呷る。
1.2.28-29
また長科白。中断なんかなかったかのように、続き。というより、話の中で時間が少し飛ぶので、切りのよい中断ではあった。ソーニャが黄色い鑑札を受けて一緒に暮せなくなった。レベジャートニコフの掌返し(これにカテリーナがつっかかってこの男に殴られる羽目に。孤立して浮いていた事情が繋がった。伏線回収!)。ソーニャの暮らしぶりについて、括複法的注釈。ソーニャの現在の住所(スヴィドリガイロフがそこの隣人になることを考えると、こうしてソーニャが別居するのもまた伏線か!)。マルメラードフの再就職活動。イワン・アファナーシエヴィチ閣下に対する超卑下。家に帰って報告したときの喜びよう。そこで一旦「マルメラードフは深い感動にとらわれて、また口をつぐんだ」で科白中断、そのとき偶然酔っ払いの一団がどやどやと店に入って来て、亭主と給仕はそちらにかかりきりに。官職復帰成功の思い出で元気づいたマルメラードフの表情描写も。そして「新手の客たちには見向きもしないで、また身の上話のつづきをはじめた」。注意深く相手の話を聞いているラスコーリニコフの表情描写も。……なるほど、長科白の中で話題をつなげられない箇所は、こうして(複線的現前性の挿入で)中断させればいい。すべてを一息で構想する必要はまるでない。ばらばらに構想して、組み合わせればいいということ。聞き役のラスコーリニコフの表情も刻むことができる。
1.2.30-31
ほぼ前の科白からの連続。「それ(官職復帰)はね、あなた、つい五週間前のことでしたよ。……」。カテリーナの態度豹変。食卓も一変。カテリーナは一週間前に言い合いをしたおかみをコーヒーに呼んで、(嘘を交えた)夫の自慢話。「どうしてそれが責められますか!……」それを語るマルメラードフも酷く喜々としているようだが、科白を一旦切った後の地の文では、マルメラードフは笑おうとしても下顎がひくひく震えるだけ。今この居酒屋ではおちぶれはてた姿になっていることと、話の中での家族愛とのギャップが痛ましく、「ラスコーリニコフは一心に、しかし痛ましい気持ちで聞いていた」。亭主や給仕のようにステレオタイプに反応しない、ラスコーリニコフの感受性が垣間見られる(その感じやすさこそが悪の原動力なのか?)。
1.2.32
科白。「学生さん、ねえ学生さん!」「あんたにも、他の連中みたいに、こんなことはつまらないお笑い草で、わたしの家庭生活のくだくだしい馬鹿話が、ただいやな思いをさせただけかもしれん」という呼びかけで一旦中断した科白を再開。細かいテクニック。俸給を持ち帰った天国のような一日の話。夢のような将来を思い描く。「ねえ、それがですよ……」トランクの鍵を盗み出し、俸給をかっさらって、家を抜け出して酒場へ。制服さえ酒代に取られて。で、このざま。「これで何もかもおしまいさ!」
1.2.33
かなり長い一連の科白が終わった後の、マルメラードフの動作・表情描写。拳骨で自分の額を叩き、片肘をテーブルに落とし……。「ところが一分もすると」ずる賢く笑う。
1.2.34-36
過去を語る感傷的な調子から、一転して卑屈な調子に。科白、ソーニャのところへ行って、酒代をねだりに行ったと。ここで「客の一人」から合いの手が入るが、それがあたかもラスコーリニコフからの言葉であったかのように、それに応えて(「この小びんがあれの金だよ」)、話をつづける。文句一つ言わず、なけなしの三十コペイカをくれるソーニャ(この態度描写自体が、大きな伏線か)。呼びかけによる自己批判?……「三十コペイカ、そうです、この金が、いまのあの娘にだって、どんなに欲しいかわかりませんよ! そうじゃありませんか、学生さん?」自己の罪深さの自覚を叫ぶ(そう、無知な良心=感受性というものはあり得ないのだ)、「ところが、この吸血鬼みたいな親父が、虎の子の三十コペイカを、酒代にふんだくったんだ!」それまでの自己批判を受けて、最後に問いかけ、「わたしみたいなこんな男を、あわれんでくれる人がありますかね? ええ? あんたはいまわたしに同情しますかね、どうです? おっしゃってください、同情しますか、しませんか?」
1.2.37-39
すぐラスコーリニコフの何らかの反応を描くかと思ったら、酒を注ごうとするマルメラードフの動作を描く一行段落。それから、ラスコーリニコフでなく、亭主が「なんでおまえをあわれむのさ?」と口を挟む(上手い複数的意味レベルの構築。亭主とは違って、ラスコーリニコフは憐れんでいるはず──だからこそマルメラードフも特にラスコーリニコフを選んで喋ったのだ──だが、その点は黙説法)。それでまわりで笑いが起こり、マルメラードフはみんなから罵声を投げつけられる。
1.2.40
全員からののしられたことを受けて、まるで舞台役者のように、「あわれむ! なぜおれがあわれまれるのだ!」(まわりの反応を復唱して、自己対話に取り込む)と叫んで立ち上がる。そして長科白。マルメラードフのクライマックス。「でもな、判事さん、十字架にかけるのはいい、かけなされ、……」エア対話。こんな救いようのないおれたちを憐れみ、許してくれるのはキリストだけだ……という信仰告白。裁きの日の実演。そして新生の希望? 「そこではじめて目がさめるのだ!……みんな目がさめる……カテリーナ・イワーノヴナも……やはり目がさめる……主よ、汝の王国の来たらんことを!」
1.2.41-45
ぐったりと椅子にくずれるマルメラードフ。さすがのクライマックス科白でちょっとの間店内はしーんとなるが、すぐにまたののしる声が起こる。三種類。一行段落「こんな罵言が次々ととびだした」。
1.2.46
「行きましょう、学生さん」マルメラードフの、ラスコーリニコフに向けての科白。カテリーナのところへ送ってってくれないか、と。唐突な申し出だが、ラスコーリニコフがマルメラードフ一家(特にソーニャ)と深い結びつきを得るためには、必須のプロセス。必須プロセスの消化。なぜマルメラードフがそんなことを青年に頼んだのか? しかもたまたまこの日このときに?──といった疑問は問わなくていい。
1.2.47-48
かなりの要約法。ラスコーリニコフも送って行こうとは自分でも考えていた、として流れを自然に。そして居酒屋から出る描写すらなく、「そこからは二百歩から三百歩の距離だった」で一気にマルメラードフの家付近まで飛躍。そして青年にもたれて歩きながらのマルメラードフの科白。なぐられるのは苦痛ではない、それでカテリーナがせいせいしてくれれば……。科白の末尾に「それもう家だ。コーゼルの家だよ。ドイツ人の錠前屋さ、金持で……」
1.2.49
中庭到達、階段のぼる、時刻十一時(なので階段暗い)という情報を与える短い段落。
1.2.50
階段をのぼりつめたところから、わりと五感で観察できる順番に描写。人物より先に(外から窺える)部屋内部の様子。途中で、「つまり、マルメラードフは片隅だけではなく、一つの部屋を借りていたのである」という時間幅を広くとった説明的記述(必ずしもラスコーリニコフの推察という風には書かれていない)。その部屋が通り抜けになっている描写から、ふたたび「アマリヤ・リッペヴェフゼルは自分が借りた住居をこまかくいくつにも仕切ってまた貸ししていたのである」と説明的記述。やはり感覚描写だけではなく、時間幅を広くとって習慣の記述を入れていくのがドストエフスキーのスタイル。
1.2.51
次に、人物へ焦点を合わせる。そのための段落第一文「ラスコーリニコフはすぐにカテリーナ・イワーノヴナがわかった」。ところでここですぐに分からせるためには、マルメラードフの語りの中でカテリーナの人物像を際立たせていなければならない。カテリーナ表情描写(1.2.50で出て来た蝋燭の光を利用)。目は熱病やみのようにギラギラ光っている。神経が高ぶっている。痛ましい印象。(自然な話題切り替えで)部屋の中の息苦しさについて。奥のほうから煙草の煙が波のように入ってくる(他の住人の存在についての軽い伏線=兆候的描写であると同時に、1.2.26で現住所を語ったときに言及された「あそこには、わたしたちのほかにも、たくさんの人がいますが……その醜悪なことったら、まさにソドムですな……」の回収でもある)。女の子二人。小さな弟。暮らしぶりの貧しさ。そして「マルメラードフは、部屋へ入ろうとしないで……」の記述で、描写休止法から時間の動く情景法へ。カテリーナはラスコーリニコフに気づき(外的描写「女は、見知らぬ男に気づくと、……と考えたらしかった」)、ついで良人に気づく。長い段落だった。
1.2.52-56
ちょっとした一触即発場面。叫び立てるカテリーナ。「もどってきやがった!」「お金はどこへやった?」ポケットを探るが金無し。わめくカテリーナ。マルメラードフの髪をつかんで部屋の中へひきずりこむ。小突き回されながら、「これがうれしいんだよ! 学生さん」とマルメラードフ。子供泣き出す。子供ふるえだす。カテリーナやけになって叫ぶ。「どうしてくれるの!」とばっちりがラスコーリニコフに行く。「酒場から来たのね! いっしょに飲んだのね? あんたまでいっしょになって! 出て行きなさい!」で、この場面は幕。
1.2.57
「青年は何も言わずに、急いで部屋を出た」、これが段落第一文。が、すぐに青年の動きを追わず、時間軸と視野を広くとって、「それに、奥の戸がすっかり開いて、もの好きそうな顔がいくつかのぞいていた」から他の住人たちの様子を描写。「マルメラードフが、髪をつかんでひきまわされ、これがうれしいんだと叫んだとき、彼らの笑いは一段とはげしく爆発した」からも分かるように、少し時間を巻き戻すことによって、単線的に現前的時間を追わず、描写・記述を生成している? そのうちアマリヤ・リッペヴェフゼルが登場(「明日中に出て行ってくれと口汚く言いわたすことによって、哀れな女をおどしつけるという、もう百ぺんもつかった彼女一流の手」──語り手しか知りようのない、習慣についての記述あり)。ラスコーリニコフは出がけに、居酒屋でくずれたおつりの銅貨を、誰にも見られずにそっと小窓の台にのせた(詳しくは書かれないが、明らかにラスコーリニコフがマルメラードフ一家に同情した証。見事な行動設計)。だが、階段を下りかけてから、思い直す? 心理的手順の実在性。
1.2.58
前の段落最後を受けて、内語。ばかなことをしたと思うが、あきらめる。自分の家の方へ歩き出す。そして歩きながらの内語。ソーニャについての毒舌(超-伏線)。《たいしたもんだよ、ソーニャ! それにしても、よくまあこんな井戸を掘れたものだ! そしてくみ上げている!……》
1.2.59
「彼は考えこんだ」。内語の途切れと、ふとした気づきを示す一行段落。
1.2.60
独り言文体。「彼は思わず大きな声を出した」。内容は、「人類全部が、卑劣でさえない(悪事に慣れる必要さえない)としたら……すべては見せかけの恐怖にすぎぬ」と訳さないと意味が通らない。
※基本的に主人公の目に入ってこないものは見られない、という文体か。括複法で補助しているとはいえ。
※語り手が主人公の内面に寄り添う心理描写は、展開を進めるための心理的手順として重要な場合が多い。
※未知の人間と知り合うという必須プロセス。鍵は、「感受性」「共感性」「想像力」「兆候」か。
※兆候描写=時間幅を未来へ広くとった文脈の導入。
1.3(第一部第三章) 42枚
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1.3.1
2章〜3章への切り替わりで時間を飛ばして、すでに翌朝おそく(十時頃?)、ラスコーリニコフは自分の部屋で目を覚ます(小説内二日目)。「(彼は)憎悪の目であなぐらのような自分の部屋を見回した」という文章から部屋の描写に入るが、ラスコーリニコフの目を通してではなく、語り手による説明的描写。「その上(机)には何冊かのノートと本がのっていたが、ほこりがいっぱいにつもっているのを見ただけでも、もう長いこと誰の手もふれていないことは明らかだった」といった推測・断定ムードの文体は語り手のものでしかありえない。また、やはり時間軸を広く取っての習慣の記述もあり。「よく彼は服もぬがず、シーツもしかずにその上(不細工なソファ)に横になり、古いすりきれた学生外套をかぶり、それでもぺしゃんこの枕だけはあてて、その下に洗ったのから汚れたのからありたけの下着をつっこんで、いくらかでも頭を高くしてねていた。」
1.3.2
改行後も語り手からの記述がつづき、現前性から離れて時間幅を広くとった括複法的記述が見られる。「彼は亀が甲羅にもぐったように、徹底的に人から遠ざかって、……」「家主のおかみが食事を出さなくなってからもう二週間になるが、……」。しかも、この語り手はラスコーリニコフのことをよく知っている立場であるかのように、ラスコーリニコフの内面にまで立ち入って解説している。段落最後に、料理女について括複法的に言及(「料理女もかねているナスターシャは、……彼の部屋の片づけや掃除からすっかり手をぬいてしまって、週に一度だけ、それも気まぐれに、箒を持つくらいだった」)、その女中が彼をつつき起すことで、現前性に戻ってくる。
1.3.3-9
ナスターシャとの会話。お茶と朝食についてのやりとり。現前的会話の中でも地の文でちらっと括複法的記述がまざるスタイルは健在(「彼は例によって着たままねていたのだった」)。会話の中でも、昨日からとっておいてあったキャベツ汁、という時間幅の広い文脈を導入。
1.3.10
「シチーじゃどうお?」という科白直後の改行でもう「シチーがはこばれて来ると、彼はそれをすすりはじめた」。そしてナスターシャはしゃべり出す。やはり括複法的記述「彼女は田舎生れで、ひどいおしゃべりだった」を追加して、以降の会話の流れを自然に。
1.3.11-15
会話。ナスターシャ曰く、プラスコーヴィヤ・パーヴロヴナ=おかみが、ラスコーリニコフを警察に訴えるつもりだという(超-伏線。無駄なおしゃべりでなく。後の展開のために必須の会話)。渋い顔をして「今日おかみのところへ行って、話すよ」とラスコーリニコフが言うのは、1.3.2で「家主のおかみが食事を出さなくなってからもう二週間になるが、彼はいまだに話をつけに下りて行こうとは思わなかった」につながっている。
1.3.16-22
非常に重要な会話。おかみが警察に訴えようとしているという話を受けて、ラスコーリニコフが「ばかな女だ」(1.3.15)とつぶやいたのを受けて、「そりゃおかみさんは馬鹿だわよ、じゃあんたは何なの、嚢みたいにごろごろねそべってばかりいて、……」とラスコーリニコフ自身のことへ自然に話題が移る。技巧的な会話設計。考えごとという仕事をしている、というラスコーリニコフの言にナスターシャは笑い出すが、ラスコーリニコフが企てていることからして、このラスコーリニコフの言葉は大真面目で、伏線でもある、そしてそれを理解できずに笑い出すナスターシャ(ちなみにここでまた、現前的会話場面の地の文で括複法的習慣の記述。「彼女は笑い上戸で、……胸がへんになるまで、声も立てずに笑いころげるのである」)を、ラスコーリニコフの孤独から遠い人物として設定しているわけだ。
1.3.23-29
ナスターシャが笑い終わって重要会話再開。「お金がたくさん入ることでも、考えついたのかい?」/「靴がなけりゃ子供たちに教えにも行けん。それにいやなこった」/「でもあんた、〔我が身を養う〕井戸に唾なんか吐くもんじゃないわよ」/「子供を教えたって銅貨にしかならんよ。銅貨で何ができる?」──よく見ると、ナスターシャに対するまともな応答になっていない。単にナスターシャの声に触発されて自分の考えを答えているという感じ。ひとつ、ナスターシャの問いに真正面から答える箇所では、「彼は異様な目で彼女を見た」という地の文が挿入され、そこは注目すべき箇所であることが示唆される。もちろん、「そう、大金を」という答えはラスコーリニコフの企てに直につながっているからこそ(ナスターシャは理解しないが)、先の「考えごとさ」の科白と同様、重要なわけだ。……こうして見ると、会話の中には重要な注目を集めるべき科白もあれば、軽く読み流されるべきやりとりもある、そして後者は前者を導くように配置されている、と言えそうだ。
1.3.30-31
これも重要な科白を導くためのやりとりか。固パンのこと、ナスターシャにとってはまず聞くべきことだが、ラスコーリニコフにとってはどうでもいい話題。
1.3.32-35
この章の転回点。ナスターシャにとっては忘れてもいいことで、郵便屋に立て替えた三コペイカにしか興味がないが、ラスコーリニコフにとっては(この小説の展開にとっても)致命的に重要なこと。昨日のラスコーリニコフの留守中に手紙が来ていた(時間幅を広くとった文脈の設定、そして1章、2章を経てここで手紙を読むことになるという前後関係・手順の設計に注目!)。ラスコーリニコフ興奮。誰から来たものか予想ついているはず(これも時間幅を広くとった文脈の設定)。
1.3.36-38
一気に緊張感が高まり、要約法による圧縮もあって緊迫感が高まる記述。しかし心理描写も逃さず(「しかしいまは、それとは別な何ものかが不意に彼の心をしめつけた」)、必要なことだけを的確に撃っている。手紙はR県の母から。ナスターシャに三コペイカ渡して追い払う(ラスコーリニコフの科白「ナスターシャ、たのむから、一人にしてくれないか。……」によって実現される)。ナスターシャが出て行くのを待って、宛名をしげしげ眺める。ここで解説的記述が入る、「むかし彼に読み書きを教えた母の、見なれた、なつかしい、……」。心理描写もありながら、外的な表情描写もあり(「彼はぐずぐずしていた、何かを恐れているようにさえ見えた」)。そして封を切る。
1.3.39
あらためて読むと随分説明的な手紙だと思う。わざとらしいまでに、一々色々な情報をここで開示している。まず二ヵ月以上手紙を書けなかったことを詫びるところから始まる(後に明らかになるように、この無音には理由があるので、すでにこの詫び自体が時間幅を広くとった過去の文脈の折り込みだ)。愛情について。そして家族が母、妹、ラスコーリニコフの三人であることが間接的に語られる(「おまえはわたしたち、わたしとドゥーニャのたった一人の頼りです」)。何ヶ月も前にラスコーリニコフから知らせてきた、ということで彼が大学を辞め、家庭教師の口も途絶えてしまったことを開示。恩給暮らしの母親の貧しさ(ラスコーリニコフの苦境にも、満足に仕送りできない)。その恩給を担保にしなければ、当地の商人ワフルーシンから金を借りて四ヶ月前に十五ルーブリ送れなかった。苦しい生活……。しかし今度こそ運がひらけてきた? まずかれこれ一ヵ月半も母が妹と一緒に暮しているという「結果」を告げてから、ここ二月の間何があったのかを語る。「二月ほどまえ、ドゥーニャがスヴィドリガイロフさん(!!!!超-伏線!!!!)の家で乱暴なあつかいを受けて、ひどい苦労をしているというような噂が、誰かの口からおまえの耳に入ったと見えて、くわしい事情を知らせてくれと手紙で言ってきたことがあったけど、……(小説の冒頭よりさらに二ヵ月遡る、時間幅を広くとった過去の文脈の導入)」本当のことを知らせはしなかった。当時いちばん困ったのは、ドゥーニャが家庭教師を辞めたくても辞められないことだった、俸給を前借していたので、しかもその前借した百ルーブリのうち六十ルーブリはラスコーリニコフに去年送ったものだったので。だが事情がすっかり好転したので、今になって、ラスコーリニコフに何があったかすべて知らせる。家庭教師に入った家で、主人のスヴィドリガイロフに不躾に扱われた。しかしそれはドゥーニャに気があってそれを隠すためにわざと邪険にあたったのだった。そしてとうとう我慢ができなくなってドゥーニャを口説き始めた。スキャンダルを恐れて六週間ドゥーニャは耐え忍んでいた──前借しているてまえもあり、抜け出す決心がつかなかった。ところが或る日偶然、奥さんのマルファ・ペトローヴナが庭で良人がドゥーニャをくどいているところを盗み聞きし、しかもドゥーニャが良人を誘惑したものと誤解して、ドゥーニャを辱めた。ドゥーニャは百姓馬車で母親のところへ送り返された。これが二ヶ月前の状況。住んでいる町でこの事件に関する中傷が流れて、ドゥーニャと一緒に教会にも行かれないほどになった。マルファ・ペトローヴナが軒並みにドゥーニャの悪口をふれまわったせい。最悪の状況。だが、スヴィドリガイロフが思い直して、「おそらくドゥーニャがかわいそうだと思ったのでしょう」、ドゥーニャに罪がないことをマルファ・ペトローヴナに示した。決め手になったのは、ドゥーニャがあいびきや告白を断るためにスヴィドリガイロフに渡して、残っていた手紙。その手紙の文面の気高さは無類。マルファ・ペトローヴナはショックを受け、「あくる日は日曜日でしたので」教会で祈ってから母とドゥーニャのところを訪れ、すっかり後悔して、ドゥーニャに許しを乞うた。さらにはまた町中の家を軒並みたずねて、ドゥーニャをほめちぎり、あの手紙を朗読さえしてみせた。名誉は回復され、急に掌を返してみながドゥーニャのことを尊敬しだした。何軒かの家から子供の勉強を見てくれと頼まれただけでなく、「わたしたちの運命を変えるといってもさしつかえないような、あの思いがけぬ幸運が訪れたのです、ねえ、かわいいロージャ、ドゥーニャが結婚を申し込まれて、もう承諾をあたえてしまったんだよ、その事情をこれから大急ぎでお知らせしましょう」。──ここまではまあ、一元的な物語言説に過ぎないが、ここから記述に少しずつ精神分析的なブレが孕まれてくる──ポイントは、この結婚についてのラスコーリニコフの判断を母親が明らかに恐れており、それを抑圧しようとしていることだ(一切が兆候=伏線である!)。「これはおまえに相談もしないできめられてしまったけど、でも、おまえは、きっと、わたしにも、妹にも反対しないだろうと思います。……それにおまえだって、はなれていては、何から何まで正確することはむずかしいでしょうし……」。ぐずぐず待っていなれなかった事情があった? 婚約者の名は、ピョートル・ペトローヴィチ・ルージン、七等文官(初出)。マルファ・ペトローヴナの遠縁で、彼女が仲立ちした。なんと「近づきになりたい」と言って会った翌日には、もう手紙で丁寧に結婚の希望を述べたてきた。しかも自分は実務家で忙しく「もうすぐペテルブルグへ行かなければならない(1.3.40への伏線)ので至急返事をよこせと(ブイコフと同様、忙しがる人間は大抵意味レベルが低劣)。ドゥーニャの検討。生活安定、財産有り、年は四十五だが、礼儀は正しい、だが、高慢そうに見える? 「それから、かわいいロージャ、あらかじめおまえに注意しておくけど、ペテルブルグであの方に会ったら、もうじきにそういうことになるでしょうが、第一印象で何か気に入らないところがあっても、いつもの癖をだして、あまりにせっかちにきびしい判断など下したりしないように、くれぐれもおねがいしますよ」。コミュニケーションでは自分の言葉を相手がどう解釈するか不可測だ。そういうズレを科白の中にこうして折り込むからドストエフスキーの対話はリアルなわけだ。また、手紙の文面としても時間幅を未来へ広くとった文脈の導入(一種の伏線)、時間幅を過去へ広くとった文脈の設定=以前からの習慣についての記述が見られる。また、間接的には、家族の中でラスコーリニコフの発言力が高いことを開示している。父親不在だしな。つづいて「はじめてお見えになったとき、……」からルージンの態度描写。「もっとも新しい世代の信念」に共鳴している?(これはレベジャートニコフとの関連性を暗示する伏線か) ドゥーニャのルージンに対する評価──「あの人は教育はあまりないけど、頭がよくて、性質もいいらしい」(この「らしい」について後でラスコーリニコフに突っ込まれる。伏線)。そこからドゥーニャ自身の気質について。別に強い愛情があったわけではないが……「いまのところ、ドゥーニャが不幸になるのではないかと案ずるような大きな理由は別にありませんもの」。暗示的否認。とにかくこの結婚は大丈夫だと言い聞かせる、たとえルージンが「性格にいくらかねじけたところがある」「古い習慣がぬけきらない」としても。ドゥーニャの言葉を引用してみせる──「すこしも心配はいりません……たいていのことは我慢できます……」、つまり、ドゥーニャの言葉自体も、母親にズレて受け取られているわけだ。コミュニケーションの不可測性=別様に解釈する潜勢力。つづいて、母親によるルージンの評価。どうもぶっきらぼうすぎる人のようだが、「でもそれはおそらく人間が率直だからそんなふうに見えたのでしょう、きっとそうにちがいありません」。そしてルージンの致命的科白、二度目にあったばかりで「嫁にするなら持参金の娘、苦しい境遇に耐えてきた娘がいい、夫を妻に恩人と思わせたほうがいい」などと言った(超伏線)ことに言及。だがこのぶっきらぼうさについてドゥーニャに言うと、ドゥーニャは苛立った。そして、一晩中眠らず、聖像の前で一晩中祈っていてから(暗示)、翌朝嫁ぐ決心をしたと告げた。
1.3.40
前段落で一度言及したとおり、ルージンはもうすぐペテルブルグへ来る(タイミング合わせ)。段落冒頭「ピョートル・ペトローヴィチがもうじきペテルブルグへ発つことは、もう書きましたね」。ペテルブルグに法律事務所を開くとか。ドゥーニャと母は、ラスコーリニコフがそこで将来働くことを期待している。ルージンはその仄めかしを聞いて慎重な態度を見せ、「秘書に俸給を払うなら身内の人間の方が確かに得だが……(「それに、おまえには大学の授業があるから事務所ではたらく時間があるかしら」──つまり、ラスコーリニコフが金がなくて大学を辞めてしまったことを知らないわけだ、伏線)」などとけち臭さをまたも露呈したとの由。だがドゥーニャは未来の良人の弁護士仲間に兄がなるという空想に夢中。もとより、ラスコーリニコフは法科の学生なのだし(初出)、もってこいだというわけだ。煮え切らないルージンに対しても、ドゥーニャ自身の働きかけで何とかなると思っている。しかしルージンがどのような態度に出るかは不可測であり、最低限必須な学資の援助のことさえ、母とドゥーニャはおくびにも出していない。「あの方は、きっと、よけいなことは言わなくても、自分からそれを申し出るでしょう……まして、おまえが事務所であの方の右腕になることができるとなれば、学資の援助だってほどこしとしてじゃなく、当然の報酬として受けることになるのですもの……」。ルージンのブイコフ的兆候からして、この空想は破綻するだろうが、母とドゥーニャはコミュニケーション(時にそれは命令・強制である)の不可測性を否認してしまっているようだ──ということも読者=ラスコーリニコフは見抜く、だからこうしたズレ、否認、臆病それ自身が伏線。しかしこの否認をうすうす自覚しているのか、次にこのような話題がつづく、「ねえ、わたしのかけがえのないロージャ、わたしはいろいろ思いあわせてみましたが、……」娘の結婚後は別々に暮した方がいいのじゃないかという気がする、と。当然同居が最善なのだが、ルージンはそれを言い出さない(「むろん、言わなくてもわかっているからでしょう、でも……」)、わたしはことわることにする……。そもそもルージンが同居を申し入れることが起こらないだろうし、母親はうすうす感づいている。だが、ラスコーリニコフやドゥーニャの傍で暮らすことはできる、と話を持っていき、最後に、もうじき自分とドゥーニャはおまえに会えるだろう、と告げる。要はルージンがペテルブルグへ行くのに合わせて、結婚式はペテルブルグで開く、結婚式はできるだけ急いで遅くとも八月十五日までにはと言っているので。数週間以内に会える。「ドゥーニャはおまえに会える喜びで、まるでそわそわしていて、一度なんか冗談に、このひとことだけでもピョートル・ペトローヴィチと結婚したいくらいだわ、なんて言いました」──妹の愛情の開示、つまりは、兄のために妹が犠牲になっているというこの婚約の本質を開示(伏線)。というわけでもうじき会えるのだが、二三日のうちに二十五◯三十ルーブリの金を送るという。ルージンとの婚約で母の信用が増して、当地の商人アファナーシイ・ワフルーシン(再登場)から金を借りられるので(伏線)。もっと送ってやりたいが、旅行の費用を考えると無理。というのも、ルージンがペテルブルグ行きの費用の一部を引き受けてくれたから(=というのも、ルージンが母親と嫁のための旅費も滞在費も出してくれないから)。母親とドゥーニャは、汽車の駅まで九十露里を知り合いの馬車で、そこから汽車の三等車でペテルブルグまで(伏線)。ここまで書いて便箋の余白がなくなったので終わり、最後に、「ロージャ、妹のドゥーニャを愛しなさい、あの娘がおまえを愛していると同じように、あの娘を愛してあげなさい、そしてあの娘は……わが身よりもおまえを愛していることを、知ってあげなさい」。そして造物主と救世主の慈悲を信じているかどうか念を押して、筆を置く。
1.3.41
段落冒頭「手紙を読みはじめるとすぐから、ほとんど読んでいる間中、ラスコーリニコフの顔は涙でぬれていた。だが、読み終わったときは、……」──いきなり読み終わった瞬間に繋ぐのではなく、少し時間を巻き戻して時間幅を広くとった記述。ラスコーリニコフの表情、態度描写。あくまで外的描写の距離を維持しながら、「考えがはげしく波打った」「この穴ぐらにいるのが息苦しく窮屈になった」と主人公の内面にも寄り添った記述。心理的経緯を経て、青年、部屋を出る。要約法で、どんどん歩いていく、V通りを越えて、ワシーリエフスキー島のほうへ。歩いている時の様子描写。その様子が「道行く人をびっくりさせた、多くの者が彼を酔っぱらいだと思った」──やはり外的描写の距離感維持。
※章の切り方が見事だ。一段落文前にずれ込ませたかのようで、次の章の大元になる文脈(歩きながらの思索)の仕込みをこの章末尾で済ませている。だからこそ、4章の冒頭からラスコーリニコフの内語を追うことに集中できる。これは1章末尾についても同様のことを指摘できる。1章と2章、3章と4章はつなげようと思えば内容的につなげられたが、わざわざ切り方を工夫して二章に分けたという印象だ。そしてそれぞれの章で、特に一つのモティーフを主として扱っている。週刊連載漫画家のような見事さ。
1.4(第一部第四章) 41枚
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1.4.1
前章の切り方がうまく、ラスコーリニコフが歩いていることの描写は済んでいるので、ラスコーリニコフが考えながら歩いていることについては、1.4.7になるまで一切言及されない。重層的に隠れ文脈を導入しているわけだ。だから、現前的でない記述から章を始めることができる。「母の手紙は彼をひどく苦しめた。しかしもっとも重要な根本問題については、まだ手紙を読んでいる間でさえも、彼の心にはちらとも疑いが生まれなかった。……」ちなみにここでも少し時間を巻き戻して、時間幅を過去へ広くとった文脈に基づいた記述(現前的でない記述だからこそできること)。この現前的でない記述から内語につなげて、一挙に内的独白的な現前性をスタート。《おれが生きている間は、この結婚はさせぬ、ルージン氏なんて知ったことか!》
1.4.2
段落冒頭「《だって、あまりに見えすいているよ》彼はせせら笑って、自分の決定の成功を意地わるく前祝いしながら、つぶやいた。《だめだよ、母さん、だめだよ、ドゥーニャ、……》」──わざわざ改行を入れたのは、前段落の非現前性からの切り替えのためだろう。現前的な心理描写の地の文も入って、ここから現前的内語のスタートだ。母親の手紙を前提としての、挑発的な想像的対話。ラスコーリニコフに相談しなかったことをルージンの性急さのせいとした「言い訳」を責める。嫁ぐ決意をするまえにドゥーニャが一晩何を祈っていたかも自分には分かるという。せいぜい「(ドゥーニャの言葉によれば)善良な方らしい」ルージンとドゥーニャとの結婚を「素敵だ!」と反語的に皮肉る。
1.4.3
まるごと内語の段落。母親とドゥーニャとの間でどの程度すっかり話し合われたのかの推測。母親がルージンをぶっきらぼうと言ったことに対して、ドゥーニャが腹を立てたことへの解釈。《つまらないことを聞かれるまでもなくもうすっかりわかっていて、おまけにもう決ってしまって何も言うことがないときに、そんなことを言われたら、怒らないほうがどうかしている。》さらに、「ドゥーニャを愛してあげなさい、ロージャ」という言葉を問題視。まさにこれは娘を息子の犠牲にすることだと解釈する。ラスコーリニコフとしてはそんなことは断じて許せない。
1.4.4
感情が募った内語を一旦切って、別の流れを始めるために挿入された地の文。語り手が思い切りラスコーリニコフに寄り添っている。「いまルージン氏に会ったら、いきなりたたき殺したかもしれぬ!」
1.4.5
段落冒頭「《フム、それはそうだ》彼は頭の中に旋風のように吹き荒れている考えのあとをたどりながら、ひとりごとをつづけた。《どんな人でもよく知るためには、ゆっくり時間をかけて注意深くつきあってみなければならぬものです。……》こういう切り替え方は上手い。これならどんな話題でもつづけていける。母の手紙を復唱しつつの注釈。ゆっくり時間をかけて? だがルージンの人間はもうわかっているという。花嫁と母親の旅費を出してやらないけち臭さの指摘。問題なのはけちなことよりも、結婚のことまでも人情ぬきの商取引のように扱おうとする全体的なトーン。それが結婚後の不幸を予告する。ペテルブルグへ来るというが、母の手紙からしても、ルージンとドゥーニャと一緒に暮せないことは見抜いているだろうに、何をして暮そうというのか。やはりルージンを当てにしているのか。つまり母親はルージンの人の悪さを否認して、はかない期待を掛けているわけだ。
1.4.6
改行。母親の盲目は仕方ないとしても、ドゥーニャはどうなのか。「たいていのことには耐えられる気性」だから、ルージンも我慢できるというのか。ドゥーニャはルージンの人間が良く分かっているはずだ(手紙からでも確かに推察可能)。《あの娘は黒パンだけかじって、水をのんでも、自分の魂は売らない女だ。》財産のためではない。ならば何故結婚を承諾するのか。疑問符連発で高速自問自答。《真相ははっきりしている、自分のために、自分の安楽のために、自分を売りはしないが、他人のためなら現にこのように売るのだ!》ラスコーリニコフの幸福のため、彼を大学に通わせ、事務所で主人の片腕にしてやり、彼の生涯を保証してやるためにだ(伏線回収)。長男のために娘を犠牲に。ここで、何故か突然ソーニャのことが言及される。《なんということだ、これではわれわれはソーニャの運命も否定できないではないか!》なるほど、家族のために自分を売る結婚と、家族のために売春することのアナロジー。このアナロジーが成立するからこそ、マルメラードフ一家との出会いが母親の手紙(の中で語られるドゥーニャの婚約)と隣接しているのか!! ドゥーニャの将来の不幸を想像。《もう嫌悪、侮蔑、憎悪の気持が生れているとしたら、どうなるだろう?》《後悔してももうおそいよ、どれだけ悲しみ、なげき、呪い、人にかくれて涙を流さなければならぬことか……》また段落最後に行くにつれて感情が募る、ドゥーネチカの犠牲を拒絶、《させないよ、させるものか! ことわる!》
1.4.7
一行段落、彼が不意にはっとして足をとめた、と。ここで考えながら歩いていたことへ少し読者の注意を向けさせる。同時に、内語が一本調子にならないように、切り替えのために挿入された地の文でもある。
1.4.8
一つ前の内語の《させるものか!》を受けて、ドゥーニャと母親に対する挑発的想像的対話が自己批判の内的対話に切り替わる。《させるものか? じゃ、それをさせないために、おまえはいったい何をしようというのだ?》 自分の現状への批判的毒舌。大学に行ってもいない。働いてもいない。むしろ妹と母親を食い物にしている。今までの仕送りは母親が年金を担保にしたり、妹が俸給を前借りしてできたものだった。自分は若いから将来がある?といってもあと十年もしないうちに母や妹の身にどんなことが起こり得るか? 《わかったかい?》★ラスコーリニコフの想像力の豊富さを見よ。
1.4.9
段落冒頭は「こうして彼は自分を苦しめ、このように問いつめることによって、一種の快感をさえ感じながら、自分をからかった。……」で、前段落の内語をまとめてディエゲーシスにつなぐ。そして例によって時間幅を過去へ広くとって文脈を設定、こうした自問がラスコーリニコフにとって最近習慣になっていたことを記述。そう、括複法的注釈。「近頃」その自問が怪物的に膨れあがっていたところに、「今」母親の手紙が衝撃を与え、一挙に解決を求めたいという心理が彼に生まれる、という心理的手順を記述。解決するか、しからずんば……
1.4.10
いきなり内語が爆発。《さもなければ、生活を完全に拒否するのだ!》つまり愛も善もすべて捨ててしまって、ただ卑怯に生きるのだ、と。
1.4.11
段落冒頭から、いきなりマルメラードフの科白の不意打ちのような挿入。《どんな人間だってどこか行けるところがなかったら、やりきれませんよ……》不意の想起。
1.4.12
心理的手順では、このように不意、不意を連携させていくことが重要なのか。またしても「不意に彼はぎくっとした」。そして何故かマルメラードフの科白につづいて、「あの考え」が彼の頭をかすめる。しかも解決として自分がその考えを想起することを彼は予感さえしていたという(時間幅をやはり広くとる!)。だがその考えは今や、空想の衣を捨てて、まったく見知らぬ形をとってあらわれた……。心理描写の妙。
1.4.13
3章から6章の途中までは一日の出来事で、一連の流れになっているといえるが、さまざまな出来事の組み合わせによって成り立っている。だからその“つなぎ”が非常に重要だ。この段落はそのつなぎで、まず、前段落で不意の自分の思索の道筋に自分で衝撃を受けたことを受けて、「彼は急いであたりを見回した」とつづく。ベンチを探していた。「彼はそのときK通りを歩いていた」(時間幅を少し過去へ広くとった文脈の設定)。ベンチが一つ見えたのでそこへ急ぎ足で向かう(ちなみにこのベンチの存在は、空間設計的に重要)、が……。ここで、時間幅を未来に広くとった、先説法的な記述が入る。「ところが途中であるちょっとしたできごとが起って、数分の間彼はそれにすっかり気をうばわれてしまった。」こういう記述が入ることで二つの異なった内容の「つなぎ」になっている。単調に一つの内容をずっと追っているというわけではない。いわゆる、先説法の襞。
1.4.14
現前的だが現前性一辺倒ではない段落。その鍵は、ラスコーリニコフに焦点化した、外界と内界の対話性を前提とした立体的情景法にある。「ベンチのほうへ目をあてていると、彼は二十歩ほど前方を歩いている一人の女に気が付いた、……」──ただ女が歩いていることを事実としては書かない。ラスコーリニコフの気づきによってそれを提示する。が、はじめのうちはラスコーリニコフも特にそれに注意しなかったので、女の輪郭は曖昧なままだ。ちなみにここで括複法的記述も挟まれる!「家へ帰ってから、歩いてきた道をぜんぜん思い出せないということが、これまで何度となくあったので、彼はもうそんなふうに〔何事にも気をとめずに〕街を歩くことに慣れていたのである」。重要なのは、外界のすべての対象を主人公の注意力を通してのみ描いているが、語っているのはあくまで外的な「語り手」だということが、こうした括複法的な文脈への言及によって示されるというスタイルだ。ラスコーリニコフの女への注意は段々に強くなっていき、ついに目が離せなくなる、そして「この女の奇妙なところはいったい何なのか、彼は急につきとめてみたくなった。先ず第一に……」でようやく詳しい女の描写に入る。が、これも現前的描写というよりは、特徴を一つ一つ数え上げてその意味を推理するという解釈学的描写になっている。女は若い。絹地の服の着方はおかしい。足取りがおぼつかない。彼はベンチのそばで少女に追いつくが、ちょうどそこで少女はベンチに倒れこむ(空間設計上のベンチの重要性。前段落から企てられていたこと!)。彼女をのぞきこむと、ひどく酔っている。「十六くらいか、いやまだ十五にもなっていないかもしれぬ」「どうやら、往来にいるということがほとんどわかっていないらしい」──語り手の声だが、推察・解釈しているのはラスコーリニコフの注意力だろう。対話的立体的情景法。
1.4.15
とまどってラスコーリニコフは立ち尽くす。また括複法的記述が入る「この並木道はふだんからさびしい通りで、ましていまは、かんかん照りの午下がりの二時ときているので、ほとんど人影がなかった。」一人の紳士が近くに立ち止まっている。下心ありげ。推測「彼も、どうやら、遠くから少女に目をとめて、追ってきたところ、ラスコーリニコフに邪魔されたらしい。」紳士の外貌描写。ラスコーリニコフは、不意に(また不意だ!)腹が立って、その紳士を侮辱したくなる。少女をおいて近づいていく。
1.4.16-19
口げんか。「おいきみ、スヴィドリガイロフ!」と言っているが、もちろんスヴィドリガイロフ的紳士、という意味で言っている。「立ち去れ」「ごろつきめ」。ところで、ディエゲーシスから会話へ切り替わるときは、最初の科白には「……とどなりつけた」という風に地の文を付けるのが常套手段なのか?
1.4.20-21
会話から切り替わって、「そう言うと、紳士はステッキを振りあげた。」ラスコーリニコフは相手が「自分のような者が二人くらいかかっても歯のたつ相手じゃないことを考えもせずに」とびかかる(行為の意味を注釈する地の文)。「しかしそのとき」誰かにうしろから抑えられる。巡査。巡査は「やめなさい」と言い、「ラスコーリニコフのぼろぼろの服装をじろじろ見て」、むしろラスコーリニコフの方に怪しみの目を向ける。複雑な意味レベルの交錯。ラスコーリニコフからすれば正しいのは自分だが、世間的には紳士VS貧乏な若者、になってしまう。
1.4.22
非常に緊迫した場面なので、当然ラスコーリニコフは「巡査を注意深く観察した」。巡査は「もののわかりそうな目」をした奴だと推測(この評価が重要で、口髭や頬髭をはやしているといった外貌描写自体はどうでもいい)。対話的立体的情景法。
1.4.23
上手く巡査に自分の潔白を説明しなければならない、緊迫した場面。段落冒頭は「「あなたに来てもらいたかったんだ」と彼は巡査の腕をつかみながら、叫んだ。……」そして段落末尾は「「あなた、さあ行きましょう、あなたに見てもらいたいものが……」」。
1.4.24
一行段落で状況変化を伝える。ラスコーリニコフは巡査の腕をつかんでベンチの方へ行く(先ず少女を見せるということを選んだわけだ。賢い)。
1.4.25
科白。段落冒頭「これです、見てください、すっかり酔っています、いましがたこの並木道を歩いていたのです。……」そして少女が酒を飲まされて男に陵辱されて通りへ放り出されたのだろうという推測を述べる。「……さあ今度はこっちを見てください。ぼくがいま喧嘩しようとしたあのきざな男は、何者か知りません、はじめてです。……」あの紳士が娘に下心を持って近づこうとしたのだという推測を述べる。そしてこの娘を家に無事にとどけてやってくれ、と言う。
1.4.26-27
ものわかりのいい巡査はたちまちすべてを理解。少女の方へ身をかがめて、気の毒そうな顔をする。「やれやれ、かわいそうになあ!」住所を聞こうとするが、少女はにごった目をあけて、片手を振るだけ。
1.4.28
唐突だが、「「ねえ」とラスコーリニコフは言った。「これで(彼はポケットをさぐって、手にふれた二十コペイカをつかみだした)……」」と、巡査に娘のための金を与える動作。ラスコーリニコフの善性の開示。
1.4.29-30
段落冒頭「「娘さん、ねえ娘さん?」巡査は金を受け取ると、また呼びはじめた。……」──金を受け取った動作の前に科白を出している(ただし、「と」では繋がない)。改行後はまず短く科白、それから地の文というのがドストエフスキーのスタイルなのか? 確かにこれによって、前段落のラスコーリニコフの突然の行動が、流れに溶け込むようになっている。少女はうるさがって、巡査をつきのけようとする。
1.4.31
巡査は、困ったように頭を振って、ラスコーリニコフのことを見るのだが、ここでちょっとした立体性が生起する。「巡査は……そのついでにまたちらッと〔ラスコーリニコフの〕頭から足へ目をはしらせた。こんなぼろをまとっていながら、気前よく金を出すなんて、どうにも腑におちなかったらしい」。基本、ラスコーリニコフ以外の人間の現前的認識については「らしい」で表現。
1.4.32-33
また巡査がラスコーリニコフに、娘をどこで見かけたか尋ねる。といって、ラスコーリニコフを疑ったということでもないだろう。ラスコーリニコフは、先ほどの(読者のおなじみの)経緯を簡潔に説明。
1.4.34
巡査の科白。最近の若い者の堕落をなげく。娘のいでたちに注目する、「見たところ、華奢で、まるで大家のお嬢さんのようだ」。また娘の方にかがみこむ。
1.4.35
謎の段落。「あるいは、巡査にもこんな娘があったのかもしれぬ──《華奢でお嬢さんのような娘》、流行にかぶれて、お嬢さんを気取っているような娘……」これがラスコーリニコフの考えだというメルクマールはない。あたかも語り手がこの巡査に同情的想像力を発揮しているかのような! このようにあくまでも語り手の認識・想像が叙述に絡んでいるから、現前性一辺倒の息の短さを免れているのか?
1.4.36
前段落とは直接関係なしに、ラスコーリニコフの科白。まだその辺をうろうろしているあの紳士を警戒せよ、と。
1.4.37
前段落の科白を受けての地の文、「ラスコーリニコフはわざと大きな声で言いながら、まっすぐに彼のほうを指さした。……」そして紳士の様子描写(1.4.40でまた登場する)。
1.4.38
巡査の科白。科白→地の文→科白→地の文。あの男に渡さないことは任せろ。だが、このお嬢さんの住所が分からないことには。
1.4.39-40
「娘は不意にぱっちり目をあけて」、ベンチから立ち上がって歩き出す。改行後、「フン、恥知らず、しつこいわね!」の科白、ふらつきながらあるく、例の紳士は反対側の並木をつたって娘についてくる。
1.4.41-42
科白→地の文、改行、科白→地の文。両方とも巡査のもの。紳士にわたさない、と言って娘のあとを追う。また若者のふしだらを嘆いて、ため息をつく。
1.4.43
素早い転換の一行段落。「その瞬間、ラスコーリニコフはいきなり何かに刺されたような気がして、とたんに考えがひっくりかえってしまったようだ。」あくまで語り手としての距離感を維持。語り手=(未来の)ラスコーリニコフで、自分を他者のように記述しているといったらよいか。
1.4.44
一行段落。巡査に声を掛ける。
1.4.45
巡査振り向く。
1.4.46
簡潔に、科白のみ。「よしたまえ! 放っておきなさい!」娘を紳士に渡してしまえという。
1.4.47
「巡査はきょとんとして、目を皿のようにした。ラスコーリニコフはにやりと笑った。」必要最小限のことを的確に。
1.4.48
科白→地の文。「「ば、ばかな!」とはきすてると、巡査はあきれたように手を振って、しゃれ者と娘を追ってかけ出して行った。」そして推測の文。「どうやらラスコーリニコフを頭がおかしいか、あるいはそれよりも始末のわるい何かの病人と思ったらしい。」
1.4.48
改行後すぐに短く内語、それから地の文、それからまた内語。 「《二十コペイカを持っていかれてしまったわい》一人きりになると、ラスコーリニコフは苦りきってつぶやいた。《なあに、あいつからもとるんだな、……》」──一人きりになった状態を記述する前に内語を出している(ただし「と」では繋がない)。上手い切り替え方・省略法? なんで自分は助けようとかかりあったのか、について自問。
1.4.49
前段落の内語を代名詞で受けて「こんなおかしなことを言ってはみたが、彼は苦しくてたまらなくなった。……」そしてベンチに腰をおろす(このベンチから立ち上がるのは、1.5.7)。彼が感じている苦しさについて、心理描写。完全に語り手が主人公に寄り添っている。
1.4.50
今度は改行後すぐに科白、それから地の文、それからまた独り言。「「あわれな女だ!」彼はからっぽのベンチの隅へ目をやって、つぶやいた。「気がついて、泣く、やがて母親に知られる……」」──ベンチの隅へ目をやるという記述より先に、科白を出している(ただし「と」では繋がない)。こうやって上手く多彩な段落をつなげていくことは、長編を書く上で重要そうだ。娘の運命を同情的に想像。家から追い出される、娼婦になる、病院行き、酒、二三年で廃人(★ラスコーリニコフの豊富な想像力を見よ)。自問自答「おれはこんな例をこれまで見てこなかったろうか? ……チエッ! かってにそうなりゃいいのさ!」統計上何パーセントかの不良化の一つに過ぎない。「パーセント! 彼らに言わせれば、これはまったく素晴らしい言葉だ」。ドゥーニャもその何パーセントに堕ちることになったら、と自問して終わる。
1.4.51
今度は改行後すぐに内語、それから地の文、それからまた内語。「《ところでおれはどこへ行こうとしているのか?》と彼は不意に考えた。《おかしい。おれは何か目的があって出かけて来たはずだ。……》」こうやって短い科白・内語を段落最初に出すスタイルと、「不意に」のメルクマールで長篇のリズムで段落を繋ぎ、必要な叙述を並べていく。母の手紙を読み終わって、ラズミーヒンのところへ行こうと思ったことを思い出す(次段落からラズミーヒンについて語るための布石)。しかし今となっては、何故行こうとしていたのか分からない。
1.4.52
段落冒頭「彼は自分におどろいた。」これは前段落の内語を受けたものだが、次文「ラズミーヒンは大学の頃の友人の一人だった。ことわっておくが、ラスコーリニコフは大学当時ほとんど友だちというものを持たず、……」から、前段落で突然出て来た固有名ラズミーヒンを説明するディエゲーシス。ラスコーリニコフはベンチに坐らせたまま。ラズミーヒンが前景化してくるのはずっと後だが、このタイミングでしか紹介できないのか。ラスコーリニコフは大学時代には人嫌いだった。勉強には精を出していたから尊敬はされていたが、同窓たちは彼を傲慢だと思っていた。
1.4.53
にもかかわらず、「ラズミーヒンとは、彼はどういうわけか親しくなった、とはいってもいわゆる親しみとはちがって、彼とならわりあいに話もしたし、腹もわったという程度である。……」そしてラズミーヒンの性格について。陽気、素朴、しかしその素朴の陰に威厳。誰にでも好かれる。外貌について。背が高い。無精ひげ。力持ち。「ラズミーヒンのもう一つの人と変ったところは」どんなに失敗しても決してへこたれない。我慢強さ。どんなひどい飢えも寒さもしのぐことができる。何でも屋をやって金を稼いで、自活していた。稼ぎの種を見つける才覚あり。一時的に大学を休んでいる。ラスコーリニコフはもうかれこれ四ヶ月も彼を訪ねていない。二月ほどまえ、二人は街で顔を合わせそうになったが、ラスコーリニコフの方から避けた。(当然ながらこうした説明自体が、時間幅を過去に広くとった文脈の導入・記述である。)
※マルメラードフの長広舌と、ラスコーリニコフの長い内語には構成上の共通点がないか。最初は支離滅裂で改行も多く、話題があちらこちらに飛躍する(ばらばらに発想されたものを組み合わせている)ようなのだが、段々もっとも語るべき本題を取り上げるようになって、段落一つ一つが長くなる。
※ラスコーリニコフが自分で自分に「金貸しの老婆を殺す」とは一度も明言しないことに注目。最終的に一度も言及されないはず。読者はそれを、断片的情報(下見したこととか)を一つ一つ蓄積していくことによって認識する。『永遠の夫』と同様に、主人公に“否認の核”のようなものがあって、それだけは語らずに、まわりに言葉の伽藍を築くというのがドストエフスキーの霊感の形なのか。フォークナー的な隠蔽/現前の技法でもあるな。
※ドストエフスキーの現前的場面においては、括複法的習慣的記述や、時間幅を過去へ広くとった文脈の設定が不可欠なのか? マッカーシーみたいな純粋な現前的記述の連続ということがまったくない。別の言い方をすると、叙述に語り手の想像力や認識が絡みついている。これが現前性の息苦しさ・単調さを緩和する。
※「不意に」のトリガー。つまりあまりにも様々な考えが主人公の頭に飛び交っているので、不意の切り替えという形でしか思考できない。たった一つの考えにじっくり集中するというような余裕は主人公にはない。そのように設定されている。
1.5(第一部第五章) 31枚
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1.5.1
いきなり内語から始まる。前章末尾でラスコーリニコフがベンチに坐っているという静止状態を利用して、ラズミーヒンに関するディエゲーシスへ逸れたが、戻って来るのに章の区切りを利用したという感じか(逆に言えば、章の区切りがあると分かっているからこそ、あんなに大胆にディエゲーシスを導入したのか)。例によって内語→地の文→内語。「《たしかに、おれはこの間まではまだラズミーヒンにたのんで、家庭教師の口か何か、しごとを見つけてもらうつもりだった……》とラスコーリニコフは考えの糸をたぐっていった。《だがいまとなっては、……》」内容としては1.4.51の《なんでラズミーヒンのところへ行こうなんてしたのか?》に、正確には1.4.52のディエゲーシスと現前性をつなぐ一文「彼は自分におどろいた」に直に繋がっている。「この間までは」という形で内語の中でも時間幅を過去へ広くとった文脈に触れていることに注目。今更ラズミーヒンのところへ行ってもしょうがない、と考え直す。
1.5.2
地の文。なぜラズミーヒンのことなんか?という疑問がラスコーリニコフを「不安にした」ことについて。語り手からの心理描写。何にでも不吉な兆候を見てしまう彼。
1.5.3
内語。自分がかつてそんなにもラズミーヒンに期待を掛けていたことに呆れて自問。
1.5.4
額の汗を拭う。「すると、おかしなことに、まったく思いがけず、不意に、しかもほとんどひとりでに」奇妙な考えがヒョイと浮かぶ。ここでの「不意に」は、無意志的連想的思索、のようなもの。
1.5.5
内語。ラズミーヒンのところへは、いまじゃなくて、あれの翌日に行くことにしよう、と内語で口走る。これはほとんど無意識に彼が考えたことで、次の段落でこんな言葉を口走ったこと自体に驚くことになる。(これは、1.5.60につながる伏線。)
1.5.6
一行段落「とたんに、彼ははっとわれにかえった。」
1.5.7
内語→地の文→内語。最初の内語で、自分の無意志的つぶやきを復唱。《あれのあとで》ということは、《あれ》をやることは自分の中で既定のことなのか? 自分で自分に驚く。(ようやく!)ベンチから飛び上がる。
1.5.8
ベンチを捨てて、走るように歩き出す。家へ帰る気はない。《あれ》の考えが一月もまえからくすぶっていたあの納戸のような部屋に戻りたくない。「彼はそこで足の向くままに歩き出した。」
1.5.9
段落第一文「神経性のふるえが熱病の発作のようなものにかわった」。少しだけ時間幅を広くとって、前段落と時間的に浸透しているかのような第一文。前段落から連続性に違和感がないようにするためのテクニックか。彼は寒気がする。歩きながら、気を紛らわそうとするが甲斐が無い。語り手が、外部から、彼の内的感覚を透視して記録していっているかのような文体。「そして彼はたえずもの思いにおちた。」これは要約法だが、それが可能なのも、内的独白的ではないから。小ネワ河へ出る。群島のほうへ。風景はさわやかだが、彼は病的に苛立つ。時々別荘のまえに足を止めて、垣の中をのぞいたり、子供たちを眺めたり、花に目をとめたり。一度彼は立ち止まって、ポケットの金を数える。内語で計算し、昨日マルメラードフ一家に何コペイカあげたかを算出。なんのためにポケットの金を取り出したのかも忘れてしまうが、安食堂風の一軒の飲食店の前をとおりかかると、そこへ入り、食事。ウォトカを飲み、急激に眠気。家へ帰ろうとするが、ペトロフスキー島までくるともう動けなくなり、道をそれて潅木へ、草の上に寝転ぶ。──一連の行動を、要約法で。
1.5.10
すぐにラスコーリニコフの夢の話に入りたいところだが、語り手による一段落が入る。「病的な状態で見る夢は、間々、異常に鮮明で、気味わるいほど現実に似通っていることがある。時によると、奇怪な光景が描き出されるが、その夢ものがたりの舞台装置や筋のはこびが、あまりにも正確で、しかもそのデテールがびっくりするほど細密で、唐突だが、芸術的に絵全体が実にみごとに調和している。それでその夢を見た本人が、たとえプウシキンかツルゲーネフのようなすぐれた芸術家でも、現のときにはとても考え出せないというような場合があるものだ。このような夢、つまり病的な夢は、いつも長く記憶にのこっていて、調子をみだされてたかぶった人間の神経に強烈な印象をあたえるものである。」このように、現前的に次へ次へと進めずに、何かしら時間幅をゆったりと取って括複法的記述なり、法則的記述なり、語り手の注釈なり、説明なり入れられる場合には入れるというのが、長篇において段落をうまく繋げていくテクニックなのか。それでいて無論、余計な風景描写などは一切ないことにも注目せよ。
1.5.11-55
シンプルな出だし──「おそろしい夢をラスコーリニコフは見た。彼が夢に見たのは、まだ田舎の小さな町にいた子供の頃のことだった。彼は七つくらいの少年で、……」──から、ラスコーリニコフの夢。略。
1.5.56
段落はじめは夢の中の父の科白、段落末尾になって、ようやく「彼は息苦しくなって、叫ぼうとすると、目がさめた。」
1.5.57
ワンクッションおく段落。「目がさめてみると、……」で前段落末尾を受ける。汗びっしょり。肩で息をしながら、身を起す。
1.5.58
科白→地の文→科白。木の根方に坐ったという動作描写の前に科白が来る。夢でよかった! それにしてもいやな夢だ!
1.5.59
また地の文でワンクッション(次の段落もまた科白→地の文→科白)。心が乱れている。頭をかかえこむ(次の科白の予備動作)。
1.5.60
「「ああ!」と彼は思わず叫んだ。「いったい、いったいおれはほんとに斧で頭をわり、頭蓋骨をたたきわって……あたたかいねばねばする血に足をとられながら、鍵をこわし、金をぬすむつもりなのか?……」」──長期的な(短期的にはこの章の前半の)伏線回収。自分の想像したことを言語化する、という想像力のある主人公の面目躍如。
1.5.61
また地の文でワンクッション(次の段落もまた科白→地の文→科白)。「彼はこんなことを口走りながら……」で前段落とも連携。身体をふるわせる(横たわったまま?)。
1.5.62
独り言文体。「「おれはいったいなんてことを!」彼はまた頭を上げながら、ぎょっとしたように言葉をつづけた。「あれがおれには堪えられぬことは、知っていたはずじゃないか、……」」──自分に「あれはできない」ことを言い聞かせるように、「……じゃないか」「……ではないか」と自分に尋ねかける。ほんと疑問符多い。「おまえは馬鹿か? ……してるじゃないか?」といった形の自己言及系独り言。
1.5.63
前段落は鍵括弧閉じで終わっているのだが、また科白が続く。トーンが変っている(「いや、おれには堪えられぬ、堪えられぬ!……」──自問自答の「自答」の部分か)ので、改行を入れて二つ科白を連続させたということか。ともかく、「あれ」を実行することは不可能だということを叫ぶように自分に言い聞かせる科白。
1.5.64
立ち上がる。T橋の方へ歩き出す。「目は熱っぽくひかり(外からの描写)」、身体は疲れているが、彼の心の重荷はなくなったようだ(この章の一連の手順で、犯罪計画を思い切ったため)。内語で神に祈る。「《神よ!》と彼は祈った。《わたしに進むべき道を示してください、わたしはこの呪われた……わたしの空想をたちきります!》」
1.5.65
ここでようやく風景描写が入るが、あくまでラスコーリニコフの目に映るものとして。心の重荷が取れ、景色を穏やかに眺める余裕ができたということ。そして語り手がラスコーリニコフの内面に調子を合わせるように、地の文で叫び出す。「彼は弱っていたけれど、疲れを感じもしなかった。……自由、自由! 彼はいまあの諸々の魔力から、妖術から、幻惑から、悪魔の誘惑から解放されたのだ!」
1.5.66
前段落とはうってかわって。1.5.10における“現前的に次へ次へと進めずに、時間幅をゆったりと取って記述を入れていくのが、長篇で段落をうまく繋げていくテクニック”の応用。時間幅をまず未来へ広くとった先説法(の襞)から段落を始めて、前段落の流れから「偶然」の出来事(手順としては必須!!!)で叙述の流れが変るのを、丁寧につなげていく。「あとになって、彼はこのときのことと、この数日の間に彼の身に起ったことを一秒、一点、一線も見のがさず、細大もらさず思い起すとき、必ずひとつのできごとに行きあたって、迷信じみたおどろきにおそわれるのだった。それはそのこと自体はそれほど異常なことではないが、あとになってみるとどういうものか彼の運命の予言のように思われてならなかった。というのは、へとへとに疲れ果てていた彼が、直線の最短距離を通って家へ帰ったほうがどんなにとくか知れないのに、どういうわけか、ぜんぜん立ち寄る必要のなかったセンナヤ広場をまわって帰ったことである。……」決して現前性一辺倒にはしないドストエフスキー。ところで、これだと語り手は「未来のラスコーリニコフ」みたいだな。括複法的な記述もあり。「たしかに、どこを通ったかまるでおぼえがなく、家へ帰ったことが、これまで何十度となくあった」。そしてやはり先説法の襞を折り込む。「それにしてもなぜ? 彼はあとになっていつも自問するのだった」。ともかくこの帰り道に決定的な出来事が起ったことを予告。この段落では、一切現前的記述がない。
1.5.67
段落冒頭「彼がセンナヤ広場を通ったのは、九時頃だった」から情景法に戻ってくる。商人たちは店じまい。居酒屋近くには職人むらがる。ここでまた括複法的記述、「ラスコーリニコフはあてもなくぶらりと街へ出たとき、得にこのあたりや、この近所の横町を歩きまわるのが好きだった。このへんでは彼のぼろ服も、誰からも見下すような目でじろじろ見られなかったし、……」。K横町へ入る曲がり角の片隅で、露天商の夫婦。知り合いと立ち話。その知り合いというのは、「リザヴェータ・イワーノヴナ、……昨日ラスコーリニコフが時計をあずけに行って下見をしてきた、あの十四等官未亡人で金貸しをしている老婆アリョーナ・イワーノヴナの妹である。」説明的ディエゲーシスが入る。リザヴェータの外貌描写。リザヴェータは露天商の夫婦の話を思案顔で聞いている。段落最後の文は「ラスコーリニコフは思いがけず彼女の姿を見かけたとき、このめぐりあいにはおどろくようなことは何もなかったけれど、深い驚愕に似た奇妙な感情に、いきなり抱きすくめられた。」そして、改行で、完全現前の会話がしばらくつづく。
1.5.68-75
会話。町人がリザヴェータに七時頃こいと言う。「「明日?」リザヴェータはどうしようかと迷っているような様子で、のろのろと考えこみながら言った。」話し相手の二人は、老婆(アリョーナ・イワーノヴナ)に遠慮する必要はない、いい儲け口だから、来い来いという。「「寄ってみようかしら?」/「七時ですよ、明日の。あっちからも来ますから、自分できめるんですな」」──この間、ラスコーリニコフはまったく登場しない。
1.5.76
現前性から入って、注釈的ディエゲーシスへ抜けていくという感じの段落。「ラスコーリニコフはちょうどそのとき通りすぎた(=1.5.68-75の背景で歩いていたということ。空間幅を広く取った?)ので、その先は聞こえなかった。彼は一言も聞きもらすまいとして、そっと、気付かれないように通りすぎた。ひどい寒気が背筋を通るように、最初の驚愕がしだいに恐怖にかわった。彼は知った。突然、不意に、しかもまったく思いがけなく、明日、晩のちょうど七時に、老婆の妹で、たった一人の同居人であるリザヴェータが家にいないことを、従って老婆は、晩のちょうど七時には、たった一人で家にいることを、彼は知ったのである。」──後半、この出来事の意味を注釈している記述。
1.5.77
段落冒頭「家まではもう五、六歩のところまで来ていた。」家へ入る。死刑宣告を受けたように。段落最後は「……もう考える自由も、意志もなくなり、いっさいが決定されてしまったことを、直感した。」で締めくくられているが、これは次の段落の内容を先取りしたかのような文。
1.5.78
段落冒頭「むろん、このような計画を持ちながら、何年間も適当な機会を持ちつづけたとしても、それでさえ、いま思いがけなく彼のまえにあらわれた機会以上に、この計画の成功への確実な一歩は、おそらく望めなかったにちがいない。……」接続詞「むろん」ではじまり、語り手が概言のムードを使っている文。つまり謀殺を狙う相手が明日確実に一人でいることを知る機会の僅少を言っている。ラスコーリニコフの「いっさいが決定されてしまった」心理を裏打ちする。完全に語り手のディエゲーシス。章の終わりだからこその自由な叙述か。
※基本的に現前的に時間が進んでいく叙述に括複法的記述や時間幅の過去へ広い文脈を大胆に導入したい時は、章の区切りを利用するとよいのか。
※語り手が未来のラスコーリニコフ(当時のドストエフスキーと同じ、四十五歳?)のように思われることもある。
※複線的な記述の可能性(時間幅・空間幅を広くとる)を意識しつつ、段落を「置いていく」というイメージだろうか。単線的にただ一つ一つ段落を書きついでいくというイメージだと、すぐ息切れしてしまい、長篇には適さない。当たり前だが、「内的独白」に頼っていると、複線的な記述の可能性を利用できない。外界と内界の衝突である「不意に」のトリガーも使えない。
1.6(第一部第六章) 37枚
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1.6.1
前章の最後の段落がちょっとした付足しみたいだったように、この段落も、この章の頭にちょっと付足したような先説法の段落。「あとになってラスコーリニコフは、どうして商人夫婦がリザヴェータを自分の家に呼んだのかを、偶然に知った。……」時間幅を広くとった文脈の導入。女ものを売りさばいてくれる女商人の口を紹介。リザヴェータはその方面では「ひどく正直で、いつも掛け値なしの値段を言い、一度言ったらもう絶対にまけないので」評判がよかったらしい。説明的ディエゲーシス。(基本的にこれは「事情の均し」だ。前章では物語に必要だから「偶然」を作為的に利用したのだが、そうしたことが起っても不自然ではない──リザヴェータが商人夫婦に呼ばれて家を空けるのも不自然ではない──と思わせるために、「リザヴェータが副業で商いをしている、なかなか評判がよい」という事情を補完しているわけだ。)
1.6.2
この段落は前段落に接続詞「しかし」で無理矢理つながっている。とまれ、章の切り替わりを利用して過去の再現を入れる(或る意味、ラスコーリニコフが部屋に帰っていく時間を利用して、語り手が過去を呼び出している)というテクニックの一例として注目したい。冒頭から「しかし、ラスコーリニコフはこの頃(=時間幅を過去へ広く!)迷信深くなった。その迷信のあとはその後長く彼の中にのこって、ほとんど消すことができないものになった。そしてこの事件全体に、あとになって考えるといつも、彼は何かしら奇妙な神秘的なものがあるような気がして、目に見えぬ何ものかの力と符合の存在を感じるのだった。……」段落冒頭からの文章をうまく考え出すことで、いくらでもこうして非現前的記述を導入することができる? まだ冬の頃、知り合いの学生が質屋の老婆アリョーナ・イワーノヴナのことを彼に教えた。初めて行ったのは一月半ほど前。故郷を発つとき妹が記念にくれた指輪を曲げたが、一目見ただけで老婆に嫌悪を覚える。帰り道、飲食店に立ち寄る。椅子に腰を下ろすと深い物思いに沈む。「ひなが卵をつつきやぶるみたいに、奇妙な考えが彼の頭の中にでてきて、すっかり彼をとりこにしてしまった。(次段落への伏線)」
1.6.3
前段落までは要約法的だったが、ここから情景法。「すぐとなりのテーブルに、彼のぜんぜん知らぬ、見おぼえもない一人の大学生と、一人の若い士官が向いあっていた。……」彼らは玉突きを終わったところ(重要。あとで二人が会話を切り上げるときに、「もうワンゲームやろうや!」と言うから)。大学生が士官に老婆アリョーナ・イワーノヴナの話をする。「もうそれだけでもラスコーリニコフは何かしら妙な気がした。彼はいまそこから出てきたばかりなのに、ここでまたその噂話を聞かされる。むろん、偶然にはちがいないが、彼があるまったく異常な印象からぬけきれずにいるのを見ぬいて、まるで何者かがおせっかいに耳打ちしてくれているようだ。……」三人称的一人称……というか語り手からの叙述なのだが、あらゆる対象がラスコーリニコフの意識を通して意味づけされるということ。知覚的一人称ではなく、意味付け的一人称。だからこその外界と内界の衝突=対話、立体的情景法。段落最後は「大学生は不意にアリョーナ・イワーノヴナについていろんなことをこまかく相手に教えはじめた」。で、改行で会話が始まる(ラスコーリニコフは背景で聞いている)が、現前的記述とディエゲーシスが混交した文体では、こういうつなぎの文章が案外重要なのか。
1.6.4-6
科白→地の文→科白から入る。「「便利な婆さんだよ」と大学生は言った。「いつだって借りられるよ。……」」科白から入って、次の段落は要約法(「そう言って彼は……などという話を始めた」)で、老婆のけち臭さやリザヴェータのこき使われようについて。「「これもまさに稀有なる現象だよ!」と大学生は大声で言って、からからと笑った。」で締め。科白で科白の要約を挟む。ラスコーリニコフの深刻さとの対比で大学生の軽薄さ。
1.6.7
また「二人はリザヴェータの話をはじめた」(つなぎの文章)からの要約法。ラスコーリニコフは一言も聞き漏らすまいとして耳をそばだてている。そして老婆とリザヴェータについてのあらましを知る──と書いて、リザヴェータの暮らしぶりについて説明的ディエゲーシス。ここで主人公が初めて知ったことをディエゲーシスとして展開しているわけ。三十五歳、老婆の奴隷、にもかかわらず老婆の遺言状でリザヴェータに残されるのは家財道具だけで、末代までの供養のために(なんて醜悪なんだ!)金はのこらず修道院に寄付される。リザヴェータは独身、不器量、年中すりへった山羊皮の靴を履いている。老婆の嫌らしさ、リザヴェータの惨めさが意味レベルとして成立(1.6.11の伏線)。
1.6.8-10
「「でも、きみの話では、ひどい不器量だっていうじゃないか?」と士官が言った。」からまた現前的会話が少し入るが、これは前段落の最後「学生があきれ顔に笑っていたいちばんおもしろいことは、リザヴェータが年中妊娠しているということであった……」というディエゲーシスに対する現前的応答になっている。これも混交テクニック。学生がリザヴェータの容姿の優しさについて言うと、士官はやや冷やかす。
1.6.11
学生、冷やかしに応えて蓼食う虫も好き好き、と。そして「そんなことより、ぼくがっきみに言いたいのはこれだよ。……」から突然に、老婆を殺してあり金を全部奪っても良心の呵責を感じない、という言葉を「はげしい口調で」付け加える。1.6.5、1.6.7で語られた老婆の嫌らしさからすれば、確かにそう言いたくなるが……会話設計見事。
1.6.12
背景にいるラスコーリニコフに照明を当てる地の文。「士官はまたからからと笑った、が、ラスコーリニコフはぎくッとした。なんという不思議なことだ!」ここではこれだけしか書いていないが、1.6.2で彼の頭に浮かんだ奇妙な考えが、大学生の言う老婆強盗殺人だったということ。それが明言されるのは1.6.23。だがここでラスコーリニコフの反応を入れておくのは上手い。次段落からは、大学生と士官の会話がしばらくつづくので。
1.6.13-22
科白→地の文→科白──「「そこでだ、ぼくはきみに一つのまじめな問題を提起したい」と学生はむきになった。「いまのは、もちろん、冗談だが、……」」から、学生の殺人弁護論を、士官の合いの手を入れつつ現前的に展開。大学生は言う、意地の悪い老婆なんて社会的には無価値、かえってみんなの害だ、一方、修道院に寄付されるはずの老婆の金があれば、いくらでも社会に貢献することができる、若者を窮迫から救い、家庭を貧困から救い、公共の福祉に奉仕する、一つの死と、百の救済の交代、これは罪か否か? 社会全体からみたら老婆はしらみみたいなものだ。士官は、「自然はそういうふうにできているものだよ」と乗ってこない。自然は改善できる、だからこそ偉人が出てくるのだ、と大学生。世間並みの良心なんて糞くらえだ。士官の方から、実際に君は老婆を殺すつもりがあるのか、と問う。そんなつもりはない、正義について論じただけで、と学生。自分でやるつもりがないなら、正義もへったくれもない、と士官。「どれ、もうワンゲームやろうや!」学生の青二才っぷりがよく表現されている、入念に虚構された会話。
1.6.23
段落冒頭直ぐ「ラスコーリニコフは極度の興奮にとらわれていた」で一挙に照明を切り替え。背景にいたラスコーリニコフが前景に。といっても、現前的記述ではない。「むろん、これはすべて、形式とテーマがちがうだけで、もう何度となく聞かされた、ごくありふれた、しごくあたりまえの青年たちの話題や思想であった。しかしどうして時もあろうに、彼自身の頭の中に──それとまったく同じ考えが生まれたばかりのいま、そんな話をそんな考えを聞くはめになったのか?……」体験話法的というか、その時のラスコーリニコフの思考のプロセスに語り手が寄り添って記述している。先説法の襞の折込み(「……その後思い出すごとに、この符合が彼には不思議に思われた」)があるので、明らかに語り手からの記述なのだが、「まるで実際そこに(飲食店で聞いたつまらない会話に)宿命とでもいうか、指示のようなものがあったかのようだ……」の絶句したような言い切りは、まるでラスコーリニコフと同様に語り手もショックを受けているかのような文体。★ところで、注目すべきは、この会話を聞いたこと自体は伏線的には何も付け加わっていないということ。考え自体はラスコーリニコフの中ですでに生まれていた──つまり他人から聞いて初めて思いついたわけではない──ので、伏線消化のプロセスとしてはこの大学生と士官の話を聞いたことは無駄でしかない。だが、こういう一件無駄に思える場面の重ね塗りがなければ、ラスコーリニコフが決定的に犯罪におもむかされることもなかったというのがドストエフスキーの描きたいことである。ポイントは、伏線や論理的な因果関係とは無縁に、ただ出来事が「シンクロ」することによって事態が深刻化することがあるということか。
1.6.24
一行丸ごと「…………」になっている。頭と足に一文字分ずつ空いている。ルバテも使っていたなこの技法。ラスコーリニコフの「今」の現前性から離れて(今彼はセンナヤ広場から部屋へ帰るところだった)、章の区切りを利用して過去の再現に入ったはいいが、また章の区切りを利用して「今」に戻って来るわけにもいかないので、章の区切りの変わりにこの「…………」を使ったということか。
1.6.25
時間的には迂回を経て、1.5.77に接続(多少重複)。「センナヤ広場からもどると、彼はソファの上に身を投げて、……」やがて眠る。ちょっとした先説法的記述「彼はそのとき何かを考えていたのかどうか、あとになってどうしても思い出せなかった。」
1.6.26
眠った。ナスターシャに「翌朝十時」起こされる(小説内三日目)。パンとお茶。
1.6.27
ナスターシャの科白→地の文→科白。寝てばかりいやがる!
1.6.28-32
ラスコーリニコフ、身体を起こすが、またソファの上に倒れる。またねるのか!とナスターシャ喚く。「彼は何も答えなかった。」茶は飲むのか?という質問に対しては、後でと答える。ナスターシャはしばらく彼の様子を見る。
1.6.33
「「ほんとに、病気かもしれないわ」と言うと、彼女はくるりと向うをむいて、出て行った。」意味レベル的に無知なナスターシャ。
1.6.34-38
時間飛んで、二時にナスターシャがスープを持って来る。彼はまだ寝ている。ナスターシャ苛立つ。なんで寝てばかり?怒鳴る。彼は身体を起こすが、無言。病気なの?少しは外へ出てみたら?という気遣いにも、彼は邪険な態度。
1.6.39
「彼女はそれでもしばらく突っ立って、気の毒そうに彼を見ていたが、やがて出て行った。」
1.6.40
二、三分すると、彼は目をあげて、パンとスープを食べ出す。
1.6.41
長い段落。「彼はまずそうに、ほんのすこし食べた。……」食べ終わると、また横になる。うつ伏せになって身じろぎせず。夢を見る。黄金時代の夢を見る。「……不意に彼は時計がうつ音をはっきり聞いた」。もちろんここで、昨日得た謀殺の機会の情報が効いてくる。彼はハッとわれに返る。時間を悟ると、ソファから飛び起きる。下の階段の気配をうかがう。迫真の心理描写「……昨日からまだ何もしないで、何の準備もしないで、よくもこんなにぐっすり眠りこけていられたものだと、彼は自分でも不思議な気がした……それはそうと、さっきたしかに六時をうったようだ……そう思うと不意に、いつになく熱にうかされたような、うろたえ気味のあせりにとらわれて、眠気やもやもやなどすっとんでしまった。」「しかし」準備といっても大したことじゃない。何も忘れることがないように極度に気をはりつめる。しかし胸の動悸は高まるばかり。まず、輪をつくって外套に縫い付ける。枕の下の古いシャツから紐を裂き取る。それを夏外套の左の脇の下の内側に縫い付ける。針と糸は前から準備していた。この輪は、斧をかくすためのもの──説明的ディエゲーシス。「この輪も彼がもう二週間もまえに考えついたものだ」。
1.6.42
「これがおわると、……」まえまえから用意していた偽質草を、ソファと床板の間から取り出す。鉄板を板切れに張り合わせたもの。それをきれいな紙に体裁よくつつみ、固く縛ったもの──説明的ディエゲーシス。説明が終わるとまた現前的場面に戻る(或る程度重複的な記述を利用)。「彼がその質草を取り出すと同時に、不意に庭のほうで誰かが叫ぶ声が聞こえた。」
1.6.43
「六時はとっくにすぎたぞ!」
1.6.44
「とっくに! さあたいへんだ!」
1.6.45
飛躍。彼は戸口へかけより、気配をうかがってから、帽子をつかみ(伏線)、部屋の外へ。階段を下りる。(ところで、斧を隠すことにはやたら気をつかっていたが……)「台所から斧をぬすみ出すという、もっとも重大なしごとがひとつ残っていた。」説明的ディエゲーシス。斧でなければならない。ナイフは持っていたが、軽すぎて自信がない。ここで、一つの心理分析的ディエゲーシスが加わる。むろん、語り手による、非現前的記述。「ついでに心にとめておきたいのは、この事件で彼がとったすべての最終的決定には、一つの変った性格があったことである。その性格というのは実に奇妙なもので、決定が最終的なものになるにつれて、それが彼の目にはぶざまな理にあわぬものに見えてきたということである。……」こうして、階段を下りるから先の現前的場面のつづきは、1.6.50まで持ち越される。
1.6.46
「だから、いずれ、もうすべては最後の一点までしらべつくされて、……そこにはもうすこしの疑いものこされていない、というような状態になったとしても、……」から前段落の心理分析的ディエゲーシスのつづき。計画自体が、完璧であればあるほど、彼にはまったく疎遠なものになっていくということ。その計画において、斧をどこで手に入れるかという問題は、容易なこととされていた。「というのは、ナスターシヤは、わけても晩には、ほとんど家にいたためしがなかったからである」(判断基準に括複法的事実が)。そっと台所にしのびこんで、斧を持ち出せばよい。問題は、斧をもどしに帰った時、そこにナスターシヤがいたらどうか。斧がないことに気付かれたら困る、「──そこに嫌疑が生れる、あるいは少なくとも嫌疑の理由になる」。ラスコーリニコフの思考を語り手がトレース。そしてこれは、“皮肉な伏線”である。1.6.50で判明するように、彼は容易だと見なしていた斧の入手でまず躓くから。
1.6.47
「しかしこんなことはまだ些細なことで、彼は考えをすすめようともしなかったし、そんな暇もなかった。……」非現前的な心理分析的ディエゲーシス。部分的には先説法的で、今まさに犯行をしようとしているのに、すでに未来からの犯罪心理の総括のような趣あり。彼は自分の計画のすべてに確信を持つなどということはありえないと思っていた。いずれ計画が完璧になり、実行に移るなど想像することもできなかった。一昨日の下見だって形式的なもの。「しかし一方、問題の道徳的解決という意味では、いっさいの分析がもう完成されていたようだ」(これは、ポルフィーリイが読むことになる論文まで考えると、超-伏線か)。犯罪を実行しない倫理的な理由は見出せないということ。「ところがいよいよとなると、彼はただわけもなく自分が信じられず、まるで誰かに無理やりそこへひきよせられたように、かたくなに、卑屈に、本道をはずれた脇道のほうに手さぐりで反論を求めるのだった。」凄まじい心理分析、内省能力、特徴的な心理の再現。「まったく思いがけなく訪れて、一挙にすべてを決定してしまったあの最後の日は……」これ、今進行中なのだが。先説法的に予告を挟むのがほとんど恒例になっている。ともかくこの日この時、彼はほとんど有無をいわさず犯罪の実行に巻き込まれていったということ。
1.6.48
「最初、──といっても、もうずいぶんまえのことだが、──彼はひとつの問題に興味をもっていた。」から、次の段落と合わせて、時間幅を過去へ広くとった文脈の導入。非現前的記述、彼の犯罪に関する思索、なぜ犯罪者の足跡はあんなにたやすくさぐり出されてしまうのか?という問い。答えは、犯行遂行の間際でも平常を保てる人はそういないから。(これも、ポルフィーリイが読んだ論文の超-伏線)
1.6.49
「このような結論に達しながら……」で前段落を受けつつ。自分は犯罪の遂行において平常を保てるだろう、というのは、彼の計画は犯罪ではないから、と彼は(かつて)断定した。「……彼が最後に決定に達するにいたった過程の詳細は省略しよう。そうでなくてもあまりに先へ走りすぎたようだ……」先説法的(後説法的でもあるが)迂回の弁解。「ただつけ加えておきたいのは」彼にとっては計画の実際上の困難というのは、瑣末なこと見られていた。いざとなったら、なんとでもなる、と思っていた(伏線)。とはいえ、自分の計画が実行可能だとは自分でも信じてはいなかったのである。「だから最後の時がうたれると、何もかもが思っていたこととはまったくちがって、不意をうたれたというか、ほとんど意外な感じさえした。」
1.6.50
段落冒頭「ほんのちょっとしたことが、まだ階段を下りきらぬうちに、彼をとまどわせた」で1.6.45以来の現前的場面につなぐ。まあ前段落で一応非現前的記述が一段落したので、唐突でもこうやって始められる。まさに段落を「置いている」という感じだ。何が彼をとまどわせたかというと、ナスターシヤが台所にいること。しかも仕事をしている。彼に気づくと彼が通り過ぎるまで見守る。「しかし万事休した。斧がない!」このために、特に1.6.48-49のディエゲーシスが必要だったのか?
1.6.51
内語。自分を罵倒。何故彼女はこの時間に絶対に家にいないなどと決め付けたのか? 妙にみじめな気持ちになる。にぶい、残忍な憎悪がたぎる。
1.6.52
「彼は思いまどいながら門の下に立ちどまった。」散歩に行く気にもならず、部屋に戻る気もない。内語《またとないチャンスを永久に逃してしまった!》(この辺りからもうまともな内省能力が失われて、状況に受動的になっているのが分かる)。彼の目の前に戸が開いたままの庭番小舎。「不意に彼はぎくッとした。」何か光るものがある。あたりを見回す。誰もいない。小声で庭番を呼ぶ。内語《案の定、いないぞ!》斧にとびつく。そしてその場で例の輪にしっかり差し込む。庭番小屋を出る。「誰にも見られなかった!」体験話法的記述。内語《理性じゃない、悪魔の助けだ!》この偶然によって、極度に元気づく彼。特徴的心理の具体化。
1.6.53
「彼はすこしも怪しまれないようにしずかに、落ち着きはらって、ゆっくり通りを歩いていった。」目立たないように。すると、帽子のことを思い出す(1.1.8、1.6.45の伏線回収)。買い替える暇も金もあったのに、忘れていた! よくあるよくある。
1.6.54
具体的思考。小店の柱時計を見るともう七時十分。急ぐことも必要だが、まわり道もしなければならない……
1.6.55
現前的な具体的心理の記述でありながら、時間幅を過去へ広くとった記述からスタート。段落冒頭「まえには、たまたま頭の中でこの計画をすっかりたどったりすると、よくいざとなったらすっかり怯気づいてしまいそうな気がしたものだ。ところがいまはそれほど恐ろしくなかった。……」具体的心理こそ、広い時間幅の文脈に基づいているということか。いよいよ人を殺そうという今、つまらないことばかりが彼の心をとらえる。広場の噴水。なぜ人々はごみごみした場所にかたまりたがるのか。なるほど、特有心理としての茫洋とした連想? ハッとわれにかえる。内語「《何をつまらないことを》と彼は考えた。《いや、それより何も考えないことだ!》」
1.6.56
改行してまた内語から始まる。語り手が主人公に内化したリアルタイムな心理的記述。「《きっとこんなふうに、刑場へひかれて行く者も、途中で目にふれるすべてのものに、考えがねばりついてゆくにちがいない》──こんな考えが彼の頭にひらめいた、が、稲妻のように、チカッとひらめいただけだった。彼は自分ですぐにその考えを消した……いよいよもうすぐだ、そら建物が見える、あそこが門だ。不意にどこかで時計が一つ打った。《おや、もう七時半か? そんなばかな、すすんでいるにちがいない!》」ルバテ的体験話法。
1.6.57
段落冒頭「幸運にも、門をまたうまく通りぬけることができた」。1.1.10を踏まえての「また」。何かいくつかの声々が叫んだり、言い争ったりしているのが聞えた(伏線?)。誰にも見られない、誰にも出会わない。中庭を通る間、顔を上げる勇気はなかった(特徴的心理)。老婆の部屋へのぼる階段口へ来る。
1.6.58
「一息ついて、どきどきする心臓のあたりを手でおさえ、すぐさまもう一度手さぐりで斧をたしかめると、……」(特徴的心理!)階段をのぼりはじめた。誰にも会わない。二階の一つの空室のドアが開け放されて、中にペンキ屋が働いていた(超-伏線)。ペンキ屋はラスコーリニコフを見もしない。内語《もちろん、誰もいないにこしたことはないが、でも……上にまだ二階ある》
1.6.59
段落冒頭「ところで、もう四階だ、ドアが見えた、向いに部屋が一つあるが、空室だ。……」地の文でラスコーリニコフの思考(外界との対話)をトレース。三階の老婆の部屋の真下にあたる部屋も、以前あった(過去文脈!)名札がなくなっている、引っ越していったのだろう、空室だ! 「彼は息が苦しくなった。一瞬彼の頭に、《このまま帰ろうか?》という考えがちらと浮んだ。」特徴的心理。耳をすまして、あたりの気配をうかがう。もう一度輪にさした斧をたしかめる。内語、自分の顔が真っ蒼すぎて疑われるのではないか、と心配になる。《もう少し待ったほうがよくはないか……動悸がおさまるまで?……》
1.6.60
「しかし、動悸はおさまらなかった。」がまんできなくなって呼鈴鳴らす。三十秒おいてもう一度鳴らす。
1.6.61
「返事がない。」だが彼は老婆の癖をわかっている。老婆はむろん部屋の中にいる。疑い深いだけだ。そこで耳をぴったりドアにつけて、感覚をかみそりのようにとぎすます、不意に、手がそっと取手にさわったような音を聞いた。地の文でラスコーリニコフの思考トレース「何者かがきっとドアの取手のところに立って、こちら側の彼のように、内側から息を殺して、耳をすましているにちがいない、そしてやっぱりドアにぴったり耳をつけているらしい……」で改行。
1.6.62
段落冒頭「彼はかくれているなどと思わせないために、わざと身体をうごかして、すこし大きな声で何やらひとりごとをいった。」特徴的心理。それから、完全に落ち着き払って三度目の呼鈴を鳴らす。ここで、例によって先説法的注釈。「あとでそれを思い出したとき、この瞬間がはっきりと、あざやかに、永遠に彼の記憶に刻みこまれた。それほどのずるさがどこから来たのか、彼は理解できなかった。まして頭が瞬間的にいくらか曇ったようになり、自分の身体をほとんど感じなかったようなときだから、なおさらである……」こうなると完全に、小説全体がすべてが終わった未来の時点から回顧され記述されているかのよう。鍵をはずす音が聞えた。
※士官と大学生の会話を偶然聞くという場面に顕著だが、伏線や論理的な因果関係とは無縁(会話を聞いて老婆殺しを思いついたわけではないので)に、ただ出来事が「シンクロ」することによって事態が深刻化することがあるのだろうか。伏線の仕掛け・回収だけでなく、この「シンクロ」も考えて情景設計をしなければならないのか。
※犯行遂行の迫真の現前的場面で、あまりに先説法的な記述が多すぎる。1.6.25「彼はそのとき何かを考えていたのかどうか、あとになってどうしても思い出せなかった。」1.6.47「まったく思いがけなく訪れて、一挙にすべてを決定してしまったあの最後の日は……」1.6.55「まえには、たまたま頭の中でこの計画をすっかりたどったりすると、よくいざとなったらすっかり怯気づいてしまいそうな気がしたものだ。ところがいまはそれほど恐ろしくなかった。……」1.6.62「あとでそれを思い出したとき、この瞬間がはっきりと、あざやかに、永遠に彼の記憶に刻みこまれた。」1.7.22「そのときは非常に細心で、注意深く行動し、血を服につけないようにたえず気をくばっていたことが、あとになってはっきり思い返されたほどだ……」あくまで三人称的な語り手からの記述だが、未来のラスコーリニコフによる手記的回顧の趣がある。あ、そうか、もともと草稿は『未成年』的な手記として書かれたのか。もともとこうした先説法的な襞をもっていて当然なんだ! この観点から、「『罪と罰』創作ノート」をもっと分析してみるべきだな。
1.7(第一部第七章) 31枚
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1.7.1
「ドアは、あのときのように、細めに開いて、……」過去文脈言及。また老婆の警戒の目。ここで次の段落の先触れとなる段落最後の一文は「とっさにラスコーリニコフはうろたえて、とんでもないミスをしでかそうとした。」
1.7.2
前段落で言ったミスの内容。老婆がドアを閉めてしまうのを恐れて、いきなりドアに手をかけてひっぱってしまう。取手をつかんだままの老婆をドアごと引き出しかねないところだった。老婆は戸口に立ちはだかる。彼はまっすぐに老婆のほうへ歩く。老婆はぎょっとしてとび退るが……
1.7.3
科白から。「「こんにちは、アリョーナ、イワーノヴナ」と彼はできるだけぞんざいにきりだしたが、声が意にしたがわないで、ふるえて、とぎれた。」質草をもってきたことを告げて、「あちらへ行きましょうよ……」と老婆にかまわずいきなり部屋へ通った。老婆はその後を追ってきた。
1.7.4
老婆の科白。いったいなんの用か? そもそもあんたは誰か?
1.7.5
ラスコーリニコフの科白。あんたのご存知のラスコーリニコフですよ……質草を持って来たんですよ……。「そう言って、彼は質草を老婆のほうへさしだした。」
1.7.6
老婆の様子。「老婆は質草へ目をやりかけたが、……」意地の悪い、疑り深そうな目色を変えない。一分すぎる。ラスコーリニコフの心理描写。老婆にすっかり見抜かれたように感じる。恐怖する。「あまりのおそろしさに、老婆がもう三十秒ほど何も言わずに、こんな目で見つめていたら、彼はここを逃げだしてしまったかもしれない。」(おお、こんなところで、想像的仮定の記述!)
1.7.7
(老婆の態度を軟化させるための工夫)ラスコーリニコフの科白。「どうしてそんなにじろじろ見るんだね、まるで見おぼえがないみたいに?」「とる気がないなら、ほかへ行くよ」突然嫌味たっぷりな調子に変わる。
1.7.8
前段落の見事な調子の変化は、無意志に行ったこと。「彼はそんなことを言おうとは思いもよらなかった。突然、ひとりでに口をついて出たのである。」
1.7.9
老婆われに返る。急に平常どおりになる。
1.7.10
老婆の科白。だしぬけでびっくりするじゃないか。その質草は何?「……と老婆は質草を見ながら、尋ねた。」
1.7.11-16
会話。1.6.42で偽質草の解説をした、そのとおりに効果発揮。銀のシガレットケースだとラスコーリニコフ。老婆は片手を差し出す。「いったいどうしたんだね、真っ蒼な顔をして?」熱がひどくある、ずっと何も食べていないと言い訳。「また力が彼を見捨てた。」だが返事はもっともらしく聞えて、老婆は質草を手にとる。また「何だねこれは?」と疑わしげに。また「シガレットケースですよ……銀の……見てください」と言う(そう、見てもらわなきゃ困るのだ。1.6.42「それは老婆がその結び目をときにかかたときに、いっときそれへ注意をそらせて、その隙をとらえるためだった」)。
1.7.17-18
老婆科白。「おかしいね、銀じゃないみたいだが……またおそろしくゆわえたものだねえ」で改行、「結び目をとこうとして、窓明りのほうへ向きながら、老婆は数秒の間すっかり彼を忘れて、背をむけていた。」すべて伏線どおり。彼、外套のボタンをはずして、斧を輪からはずし、右手でおさえる。特徴的心理・特徴的状態──「手はおそろしいほど力がなかった。一秒ごとに、ますます手の感覚がまひして、重くこわばってゆくのが、自分でもはっきりわかった。」めまい。
1.7.19
また老婆に焦点。固い結び目に苛立つ科白、そして彼の方へ身をうごかしかかる。
1.7.20
段落冒頭「もう一刻の猶予もならなかった。」おそろしいほど力がないので、斧を取り出し、振りかざすと、ほとんど機械的に老婆の頭に振り下ろした。
1.7.21
(決定的瞬間から直ぐに現前的、現前的で進めない)「老婆は、いつものように(時間幅を広く!)、帽子をかぶっていなかった。」老婆の頭髪、後頭部描写。「老婆は背丈が低かったので、いいぐあいに斧はちょうど頭のてっぺんにあたった。」小さな叫び声。床へくずれる。片手にはまだ質草を握り締めている。そこでラスコーリニコフはもう一撃。血が流れでて、身体は仰向けに倒れる。彼は身をひいて、老婆の身体を自然に倒れさせる。それから顔をのぞきこみ、死を確認。死に顔の描写。
1.7.22
彼の認識、行動、そして特徴的心理を素早く追っていく記述。斧を死体のそばにおく。血で服や手をよごさないように気をつけながら、老婆のポケットをさぐる。ここで時間幅を過去に広くとった記述、および先説法的回顧的記述が挟まる。「──老婆がこのまえ鍵をとり出したあの右ポケットである。彼は理性が完全にはっきりしていて、くもりやめまいはもうなかったが、手はやっぱりふるえていた。そのときは非常に細心で、注意深く行動し、血を服につけないようにたえず気をくばっていたことが、あとになってはっきり思い返されたほどだ……」鍵発見。「あのときのように」束になって輪に通してある。寝室へ。「それはひどく小さな部屋で……」から部屋の中の描写。ラスコーリニコフが必死で部屋を見回す視線と、描写の尖筆が一致する。壁際にタンス。そのタンスを開けようとするのだが、「不思議なことに、鍵をタンスの鍵穴にあわせようとして、そのガチャガチャという音を聞いたとたんに、戦慄のようなものが彼の身体をはしった。彼は不意にまた、何もかもうっちゃらかして、逃げ出したくなった。しかしそれは一瞬のことにすぎなかった。逃げようにももうおそかった。彼は自分の弱気にあざけりの笑いさえうかべた、とたんに今度は、別な不安が彼の頭を打った。もしかしたら老婆がまだ生きていて、いまに目をさますのではないか、不意にそんな気がした。」特徴的心理。タンスをすてて、死体のそばへ。観察。死んでいるのはたしかだ。不意に彼は老婆の首にひもがかかっているのに気づいて、それをひっぱる。とれない。「彼はいらいらして、斧を振り上げて、身体ごとひもをたたききってやろうとも思ったが、さすがにそれはできなかった」(特徴的心理)。二分かかって、斧と手を地まみれにして、ひもを切ってひっぱりだした。「果して──財布だった。」財布と紐の先描写。中身も調べずにポケットへ。今度は斧を持って(伏線!)、寝室へまた駆け戻る。
1.7.23
「彼はひどくあわてて、……」鍵束をつかむと、こねくりまわす。どれも鍵穴にあわない。「手がそれほどふるえていたというわけではないが、彼はさっきからまちがいをおかしていた。というのは、この鍵はちがう、合いっこないと知りながら、さしこもうさしこもうとしていたのだ。」特徴的心理。そうこうするうちに、鍵束の一つ、ギザギザのついた大きな鍵は、タンスの鍵ではなく長持ちの鍵だと気が付く。寝台の下をのぞくと(「年寄りというものはたいてい長持を寝台の下においていくことを、知っていたからだ」)、思ったとおり、立派なトランクが。トランク描写。ギザギザ鍵合う。毛皮外套、絹の衣装、その他こまごました衣類(残念)。彼はまず赤い絹で血によごれた手をふく。内語「《赤いきれか、ふん、赤いきれなら血が目立つまい》──彼はこんなことを考えたが、不意にわれにかえった。《おれは何を考えているのだ! 気が狂うのではあるまいか?》──彼はぞうッとしながら考えた。」(どんな瑣末な思考も書き落とさない)
1.7.24
「ところが、……」思いがけないことに、そのきれをちょっと引っ張ると毛皮外套の下から金時計が。さらにひっかき回すと、きれの間から金の品々が。おそらくみな抵当物。腕輪、鎖、耳飾、ブローチ。それらの保管状態の描写。手当たり次第にズボンと外套のポケットにおしこむ。しかしたくさんは入らない……。
1.7.25
段落冒頭「不意に、老婆が死んでいる部屋に、人の足音が聞えた。」(1.6.56時点で七時半だったのであり得る話か……?)手を止めて息を殺す。静か。気のせい? だが、突然今度ははっきりした悲鳴が聞える。つづいてまた静寂、一分、二分、彼はトランクのそばでやっと息をつぎながら待ち構えていたが、不意に斧をつかんで寝室からおどり出る。
1.7.26
段落冒頭「部屋の中ほどに、大きな包みをもったリザヴェータが突っ立って、殺された姉を呆然と見つめていた。」一瞬で状況を理解させる一文。ラスコーリニコフを見るとふるえるリザヴェータ。彼女は片手をまえにつきだす。隅のほうへのがれようとする。リザヴェータ声が出ない。ラスコーリニコフは斧を振りあげてとびかかった。「彼女の唇は、幼い子供が何かにおびえて、そのおそろしいものに目を見張りながら、いまにも泣き出そうとする瞬間のように、みじめにゆがんだ。そして哀れにもリザヴェータは、いやになるほど素朴で、いじめぬかれて、すっかりいじけきっていたので、斧が顔のすぐまえに振り上げられているのだから、いまこそそれがもっとも必要でしかも当然の動作なのに、両手をあげて顔を守ろうとさえしなかった。」(傍線部分では、緊迫した現前的場面なのに、括複法的な性格描写が入っている)斧の刃は一撃で彼女の頭を断ち割る。彼女倒れる。ラスコーリニコフとりみだす。彼女の包みをひったくる(無意味)。すぐまた放り出して、(寝室ではなく)控室のほうへ駆け出す(意味不明)。
1.7.27
「恐怖がますますはげしく彼をとらえた。このまったく予期しなかった第二の凶行のあとは、それが特にひどくなった。彼は一刻も早くここを逃げ出したいと思った。そしてもしもその瞬間に彼がもっと正確に事態を見て、そして判断することのできる状態にあったなら、自分の立場の行き詰り、絶望、醜悪、そして愚劣さのすべてをさとり、そしてここを逃げ出して、家までたどり着くためには、このうえさらにどれほどの困難を克服し、あるいはもしかしたら凶行をさえ犯さなければならぬかを、理解することができさえしたら、彼はおそらくすべてを投げすてて、いますぐ自首してでたにちがいない。それも自分の良心がこわいからではない、ただ自分のしでかしたことに対する恐怖と嫌悪のためである。……」特徴的心理。傍線部分では語り手による想像的仮定! 嫌悪は刻一刻と募る。もうトランクの方へ戻る気にはなれない。
1.7.28
「ところが放心というか、瞑想とさえいえるような状態が、しだいに彼をとらえはじめた。数分の間彼は自分を忘れたようになっていた。いやそれよりも、肝心なことを忘れて、つまらないことばかりにひっかかっていた。……」特徴的心理。台所の水のはいったバケツで、手と斧を洗い始める。何分かかかって、手と斧の血を丁寧に洗い落とす。跡はのこっていない。斧を外套の輪におさめる。それから、服に血がついていないかしらべる。長靴の血のあとを、ぼろきれでこすり落とす。「しかし彼は、まだよくよく見きわめたわけではないから、見おとしているもので、何か人目につくものがあるかもしれないことを、知っていた。彼は思いまよいながら、部屋の中ほどにつっ立っていた。苦しい、暗い考えが大きくひろがってきた──」行動が鈍化するほどに、精神が緊張しすぎている。自分は狂っているのではないか、判断をあやまっているのではないか、今やっていることも何の必要もないことではないか……という猜疑。《何をしているのだ! 逃げるのだ、逃げることだ!》と突然つぶやくと、控室の方へ。ここで、段落最後で次段落予告。「ところがそこに、彼がこれまでに一度も経験したことのないような恐怖が待ちうけていた。」
1.7.29
「彼は立ちどまって、目を見はったが、自分の目が信じられなかった。」ドアが鍵がはずれたままで、開いている。老婆が、彼が入ったあと、用心のためにしめなかった? 地の文がラスコーリニコフの思考と一致して絶叫、「うかつだった! 現に、あのあとで彼はリザヴェータを見たではないか!」彼女がどこから入って来たと思っていたのか?
1.7.30
ドアへとびついて掛け金を下ろす。
1.7.31
独り言。「いや、ちがう、またヘマをやっている! 出なくちゃならんのだ、出るのだ……」
1.7.32
掛け金を外して、ドアを開け、階段の方に耳を澄ます。
1.7.33
段落冒頭「長いあいだ彼は気配をうかがっていた。」はるか下のほうで、「おそらく門の下のあたりだろう」(これは語り手の概言?)、二つの甲高い声が言い争ったりわめいたりしているのが聞える(伏線?)。内語《何をしているのだ?……》しんぼう強く待つ。やがて静かになる。彼がいよいよ出ようとすると、不意に一階下で人がドアを乱暴にあけて、鼻唄を歌いながら階段を下りていく。彼はまたドアを閉めて足音が消えるのを待つ。ついにあたりがしーんとなる。彼は階段を一歩下りる、「とたんにまた、誰かの別な足音が聞えてきた。」段落最後で次の段落の前触れ。
1.7.34
段落冒頭「その足音はひじょうに遠くに聞えた。まだ階段ののぼり口のあたりらしい。ところが、あとになって思い返しても、はっきりと記憶しているのだが、その足音を聞くと、とっさに、どういうわけかそれはきっとここへ、この四階の老婆のところへ来るにちがいない、と思いはじめた。なぜか? その足音に何か特別の意味でもあったのか?……」また先説法的回顧的記述だが、突飛で運命的で根拠不明で特徴的な心理の前に置かれることで、その心理の記述を自然にする効果があるのか? 足音はよどみない。そら、もう足音は一階をすぎた(地の文がラスコーリニコフの思考をトレース)。さらにのぼってくる。足音ははっきりしてくる。「そら、もう三階にかかった……ここへ来る!」不意に彼は身体がこわばる。特徴的心理「まるで夢の中で、追いつめられ、もうそこまで来ていて、いまにも殺されそうだが、まるでその場に根が生えたようになって、手も動かせない、そんな気持だった。」
1.7.35
「そして、ついに、客がもう四階の階段をのぼりはじめたときに、……」やっと素早く踊り場から部屋の中へすべりこみ、ドアを閉める。掛け金を、音のしないようにしずかに穴へ差し込む。「本能がそれをさせたのである」。ドアのかげにかくれて息を殺す。客ももうドアの外に来る。ドアを隔てて向かい合う。
1.7.36
息切れしているのでふとった男だろうと、ラスコーリニコフは「斧をにぎりしめながら」思う。客は呼鈴を激しく鳴らす。
1.7.37
「呼鈴のブリキのような音がひびきわたると、不意に彼は、部屋の中で何かがうごいたような気がした。」特徴的心理。客はまた呼鈴を鳴らした後、しびれを切らしてドアの取手を力まかせに引っ張りはじめる。掛け金おどる。手で掛け金をおさえる? いや、そんなことをしたら相手に感づかれる。頭がくらくらする。そのとき客の声が聞えて、ハッとわれにかえった。
1.7.38
科白→地の文→科白。婆ぁ、寝てやがるのか? おーい、アリョーナ・イワーノヴナ、鬼婆ぁ、すてきなべっぴんさん! あけてくれ!
1.7.39
「そしてまた、……」客は十度ほどたてつづけに、呼鈴鳴らす。地の文で推測、どうやらこの客は婆さんに顔のきく人間らしい。
1.7.40
段落冒頭「ちょうどそのとき、不意にちょこまかしたせわしい足音が、近くの階段に聞えた。」また誰かのぼってきた。
1.7.41
「「おかしいな、誰もいないのですか?」のぼってきた男は、まだ呼鈴をひっぱりつづけている最初の訪客に、いきなりよくとおる元気な声で呼びかけた。「こんにちは、コッホさん!」《声から判断すると、ひどく若い男らしい》とラスコーリニコフは考えた。」外界との対話、立体的情景法。
1.7.42-52
客同士の会話。まずコッホと呼ばれた男、危なく鍵をこわしてしまうところさ。ところでどうしてわたしの名前を? どうしてって! 一昨日居酒屋でビリヤードをやったと。コッホ、思い出す。相手(若い男)、で留守ですか? おかしいな、ぼくと約束があるのに。わしもだよ! 若い男はやけくそのように、しかたない、引き返すか、チエッ!と叫ぶ。コッホ、まあ引き返さざるを得ないな、それにしても、おかしな、あの鬼婆ぁ、自分で時間を指定したのに(ラスコーリニコフの計画の杜撰さを強調する皮肉な細部)。でわざわざ来たのに。いったいどこへ? 年中こもりきりで、足が痛いなんてぬかしてるのに突然散歩かよ? 若い男、庭番に聞いてみたら? コッホ、何を? 若い男、どこへ行ったのか、そしていつ帰るか……。コッホ、聞いてみるか……しかしどこへも行くはずがないがな……「そう言って彼はもう一度ドアの取手をひっぱった。「くそ、しかたがない、行こう!」」
1.7.53-59
しかしコッホが取手をひっぱったことが契機になって、とんでもない方向へ。会話、「「待ってください!」と不意に若い男が叫んだ。「ごらんなさい、わかりませんか、ひっぱるとドアがうごきますよ?」」だから何? つまり、ドアは鍵がかかってるんじゃなくて、内側から掛け金がさしこんであるということ。掛け金がガチャガチャ鳴っている。で何? つまり二人のうちどっちかが部屋の中にいるということ。内から掛け金をかけるには、誰かが部屋の中にいなければならない。中にいるくせに、開けようとしないということ。コッホ、なるほど、たしかにそのとおりだ! 「そう言うと、彼はいきりたってドアをひっぱりはじめた。」
1.7.60-64
会話。待ちなさい!と若い男が叫ぶ。何か変わったことが起きたのだと。何度も呼鈴を鳴らしたのにあけないということは……。とにかく庭番を呼びに行こう。コッホも同調。そうしよう! 「二人は階段をおりかけた。」
1.7.65-69
会話。「待てよ! あなたはここにいてください、ぼくがひとっ走り庭番を呼んで来ますから」 どうして? 何が起るかわからないから。「「ぼくはね、予審判事になろうと思って勉強中なんですよ! これはきっと、きっと何かありますよ!」若い男は熱をこめて言いすてると、階段をかけおりて行った。」予審判事になろうと思っているような男が来てしまったことは、ラスコーリニコフにとって不運、しかしコッホの方が残されたのは、彼にとって不幸中の幸いか。
1.7.70
この段落は不思議なことに、ラスコーリニコフには見えない一人残されたコッホの描写。「コッホはあとにのこると、……」呼鈴を押す。小首をかしげる。ドアの取手をうごかし、掛け金しか掛かっていないことを確認する。鍵穴から内部をのぞく(が、内側から鍵がさしこんであるので、何も見えない)。
1.7.71-72
今度はラスコーリニコフ側。「ラスコーリニコフは立ったまま、斧をにぎりしめていた。……」(少し時間を巻き戻して)あの二人がドアをたたいたり、話し合ったりしている間、ドアの影から叫んで、ひと思いに決めてしまおうという考えが彼をおそった。二人をからかってやりたくなりさえした(特徴的心理)。「《早くなんとかしなければ!》──という考えが彼の頭にちらとうかんだ。/「だが、あいつがいやがる、畜生……」」
1.7.73
時間がすぎる。誰の足音も聞えない。コッホはごそごそしだす。
1.7.74-75
「くそ、いまいましい!……」と不意に叫んで、コッホは見張りをやめて、おりて行く。足音消える。
1.7.76
ラスコーリニコフ科白。助かった、さてどうしよう?
1.7.77
ドアを開ける。何も聞えない。「すると不意に、もうぜんぜん何も考えずに、彼は廊下へ出た」。階段をおりる。
1.7.78
飛躍。階段を三つおりたとき、下のほうではげしい物音が。(それが何かを言うまえに──実際にはペンキ屋の立てた音──)地の文がラスコーリニコフの思考をトレース「どこへかくれよう!」。隠れるところはない。戻ろうか?
1.7.79
突然の科白。「おい、こら、畜生! 待たんか!」
1.7.80
「こう叫びながら、……」誰かがどの部屋からかはわからないが、とびだして、階段を下りていった(超-伏線)。精一杯わめきながら。(これらは偶然だが、ペンキ屋については十分伏線を張っていたので、納得可能。)
1.7.81
科白。「ミチカ! ミチカ! ミチカ! ふざけるな、待たんか!」
1.7.82
段落冒頭「叫びは金切り声でおわった。」声は庭の方へ(伏線)。また静かに。「と、今度は数人の声が、声高にせわしく話しあいながら、騒々しく階段をのぼりはじめた。」若い男の声を聞き分ける。
1.7.83
内語。《あいつらだ!》
1.7.84
段落冒頭「彼はやぶれかぶれになって彼らのほうへ向って歩きだした。」地の文がラスコーリニコフの思考をトレース「なるようになれ! 呼びとめられたら、おわりだ、無事にすれちがったとしても、やはりおわりだ。顔をおぼえられる。」もうあと一つ階段を残すだけ……。「──そのとき、不意に救いが現れた!」先の右手の方にドア開け放しの空室が。ペンキ屋が仕事をしていたが、さっきとびだしていったやつだ。「いましがた、あんなに叫びながらかけおりて行ったのは、きっと彼らだ。」部屋内を素早く描写。とっさに彼は戸口へ飛び込み、壁のかげに身をひそめる。間にあった。奴らはもう踊り場まで着ていた。そして空室の前を通り、四階のほうへ。「彼はちょっと待って、爪先立ちで部屋を出ると、走るようにして階段をおりた。」
1.7.85
段落冒頭「階段には誰もいなかった!」また地の文がラスコーリニコフの心情とシンクロ。門をくぐりぬけ、急いで通りへ出て左へおりた。
1.7.86
段落冒頭「彼は知りすぎるほど知っていた。いまごろはもう部屋の中にいる彼らの様子が、目に見えるようだった。」部屋の中の死体を発見して奴らがどんな推理を組み立てるか。空室に隠れて彼らをやり過ごしたことさえ気づくだろう。(ここまで地の文によるラスコーリニコフの思考のトレース、そして1.7.85に繋がる情景法)「しかし彼は、最初の曲り角までまだ百歩ほどもあるのに、どうしても目立つほど歩を早める勇気がなかった。」
1.7.87
内語。どうやって巻くか。知らない建物に入って時間をつぶす? さっさと斧を捨てる? 馬車にでも乗る? 駄目だ!
1.7.88
「とうとう横町まで来た。」横町へ折れると、これでもう安心と感じる。ひどい人ごみで、自分は砂粒のようにまぎれた。嫌疑ももうそれほどかけられない。「しかしこれまでの苦しみにすっかり力をうばわれてしまって、彼は歩くのがやっとだった。」(特徴的状況)誰かから酩酊してんのか?と声を掛けられたりも。
1.7.89
もう自分が何をやっているのかほとんど意識不能。「それでも、運河のほとりへ出たとき、ふと、人通りが少ないので目につきやすいと気がつき、ぎくっとして、横町へもどりかけたことを、彼はポツンと記憶していた。」特徴的心理。なんとか家へ戻る。
1.7.90
段落冒頭「彼はどうして家の門を通ったか、うつろにしかおぼえていなかった。」現前的な出来事を覚えているかいないかで記述するのは、やはり先説法的回想の文体。階段のところへ来てから、斧に気づく。斧を人目につかないように戻すという仕事が残っている。「もちろん彼には、いま斧を元の場所へもどそうとしないで、あとででも、どこか他の家の庭へ捨てたほうが、ずっと安全かもしれない、と判断する力はなかった。」語り手の注釈?
1.7.91
段落冒頭でまず結果から。「ところが、万事都合よくいった。」庭番小舎の戸はしまっていたが鍵がかかっていない、つまり、庭番が小舎の中にいる可能性が高い。しかし「彼はもうものを考える力をすっかり失っていたので」(特徴的状況、語り手による注釈)、いきなり庭番小舎の戸を開ける。「もしも《何用かね?》と庭番に聞かれたら、彼はものも言わずに斧をさし出したかもしれない。」(想像的仮定)だが庭番はいなかった。簡単に斧を元の場所に戻せた。それから自分の部屋に帰るまでも、誰にも会わなかった。自分の部屋に戻り、ソファに身を投げる。想念は朦朧として、どんな考えも一貫させることができなかった……
※現前的な心理描写(ないしは状況注釈)で、語り手が想像的仮定をやってのけるとは! やはり「作家の日記」の文体特徴は小説の現前的場面でどんどん応用していいんだ。
※ところで、どのタイミングで老婆の部屋に行き、どのタイミングで部屋を出るかによって、ラスコーリニコフの運命は全然変わったはず。特に、逃げるタイミングは早過ぎたらペンキ屋に見つかる可能性あり、遅すぎたら奴らとすれ違う。ここは偶然の手助けを作者が按配してやらなきゃならないわけだ。