:基本情報・関連リンク
- "Traktat o manekinach", re. Piotr Tomaszuk, Teatr Wierszalin
http://www.youtube.com/watch?v=T-Vzjqn-ISU
- 主催:シアターχ+ポーランド広報文化センター
原作:ブルーノ・シュルツ
脚色・演出:ピョトル・トマシュク
舞台美術:ユリア・スクラトヴァ(ヴィリニュス美術大学講師)
音楽:アコーディオン・トライブ
父ヤクブ:ラファウ・ゴンソフスキ
女中アデラ:ダリシュ・マティス(兼技術監督)
演出家の代理/息子ユゼフ/お針子他:ミウォシュ・ピェトルスキ
- Teatr Wierszalin
http://www.wierszalin.pl/
シアターχ
http://www.theaterx.jp/13/130425-130428p.php
ポーランド広報文化センター
http://instytut-polski.org/event-archives/archives-drama-dance/2945/
- ブルーノ・シュルツ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/ブルーノ・シュルツ
ポーランド第二共和国 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/ポーランド第二共和国
:感想メモ
- 奥と手前の空間の使い方。アトラクションのような舞台装置を(科白ごとに)出たり入ったり回り込んだりする凄まじい動きのダイナミズム。創意があふれている。俺が想像していた「演劇」と違う。
たとえば、わざと動きを抑制して科白のやりとりや身振りや仕草の繊細さだけで密度を高めていく演出の流儀があるが……それって所詮舞台上の空間を如何に利用するかということに関する霊感がまったくひらめかないから、そうせざるを得なかっただけではないのか。ミニマリズムとか、濫費できるほどの才能ない奴の言い訳ではないのか?と『マネキン人形論』を観てしまった後では感じてしまう。
舞台装置についてはさらに言及が必要だろう。脚本の運び、対話に伴う俳優の身体の躍動、そして舞台装置の形状が、すべて一体となって相互に好影響を与え合っているような舞台だった。これほどに独創的でありながら完成度が高いとは!!!!!
(アフターミーティングでロシア・アヴァンギャルドへの言及が演出のトマシュク氏からあったが、たとえば「大道芸人万歳!」と唱えたメイエルホリドなどが、もしかすると氏の演出技法のルーツになっているのだろうか。)
- 舞台装置について。舞台の大部分を占める木製の芸術的なオブジェで、形状としては木製の檻のようなもの。前面中央が取り外しできるようになっていて、内部空間を室内と見立てた場合にそこから俳優の演技が見えるようになっている。その他にも前面に内部へ出入りできる入口があったようだ。また、客席からは見えない側面にも出入口があったろう。この木製の檻が場面によって色々なものへと変化し、最奥の幕に映画が投影されているときには映画館、前面部分に照明があたっているときは単なる路上の背景の建物、そして照明が人物にのみ当たる時には、この木製の檻は闇に紛れて存在していないものと見なされることもある。
舞台装置の形状もそうだが、照明の演出が決定的に重要だったろう。どうも、地明かりをまともに用いていた記憶がない。劇全体が設定として「人間が演じる人形劇」だったこともあって、場転が実質的に存在せず、その場面が夜である、昼であるということを示すような照明の演出はなかった。全体的に暗い中で、舞台装置の部分部分に当てる照明をさまざまに変えることでそのつど舞台空間を何かの情景に見立てつつ、シームレスに話が進んでいくという趣き。これは役の一人が「(人形劇の)演出家の代理」であるということと、マネキン役の俳優たちのテンションの維持によって可能になっていたと思われる。一回あったのは、完全に明かりを落として人物だけにスポットライトを当て、マネキン役の俳優はピタリと動きを止め、演出家役の俳優だけが動くというシーン。これが普通の演劇における場転の代替であったろう。
また、舞台装置に明かりが広く当たる場合でも、舞台装置の端と端は暗いままだった。だから袖幕で隠すのとは別に、その端の暗い部分へ演出家役の俳優が回り込みいろいろと次の場面の準備をしたり、別の役に成り代わったり(息子ユゼフ→映画館の切符売り)、あるいはマネキン役の俳優も場面に応じて意外な方向から登場したり、ということが可能になっていた。言わば演劇の舞台裏まで舞台上に虚構してみせていたかのような趣き。メタフィクションというより、そのようにたった一つの(でかい)舞台装置を照明の工夫でさまざまに利用することによって、場転を行わずにシームレスに話を展開させるということを実現したというわけだろう。そのために『マネキン人形論』を原作として持ってきつつの「人間が演じる人形劇」という着想だったのだろう。おそろしく独創的!
- 演出家の代理=息子ユゼフ役(およびお針子、兵士、映画館の切符売り)、という設定の狂言回し役が仮面で複数の役をあらかさまに演じるというギミック。残りの二人の登場人物がマネキンという設定なので、一人だけ前面に出てくることが出来たり、他二人のマネキン役の俳優の動きがクライマックスの最中に止まっても、一人だけ動くことができたり、舞台上から消えたり、不意に手前右から現われたりしても、不思議でない。場合によっては、役を演じて、舞台上がしっちゃかめっちゃかになっている状態でも、何かの感情を演じながら「こうして父はこんなふうになってしまったー」と前面に出てきてナレーションをしたりする。その同時的複雑性。そして一見滅茶苦茶なシーンをシームレスにつないでいく!
(この同時的複雑性は、観客が超視野的に舞台を観るというよりも、語り手役で神出鬼没の演出家代理=息子ユゼフ(原作はこの息子の一人称小説なので、たしかにこの息子を語り手に位置づけるのは正しい)の視野に注意を惹かれ同調しつつ──注意を惹くためのギミック・身振り・音響・照明・空間利用・舞台装置利用の工夫は枚挙にいとまがない──場面場面では父ヤクブや女中アデラの視野へと焦点化して、つまりあたかも三人称多元の小説を読んでいるかのように劇の中に入り込むことを可能にしている!? そしてこれはドストエフスキーの小説(の舞台化不可能性)についてバフチンが述べた課題を解決しようとした野心的な試みと見なせるのではないか? 「……ドストエフスキーの作中人物が舞台で演じられると、本で読んでいるときとは全く違った印象をもたらすことになる。ドストエフスキーの世界の特殊性を舞台で表現することは原理的に不可能なのである。我々はいたるところで作中人物とともにあるのであって、ただ彼らが見るようにそのようにしか見ることができないからである。ドストエフスキーは或る作中人物に肩入れしているかと思うと、やがて見放して別の作中人物に肩入れする。我々は或る登場人物にぴったりと張りついていたかと思うと、別の登場人物の跡を追うのであり、或る登場人物につきまとったかと思うと、後には別の人物につきまとうことになるのである。独立したニュートラルな場所は我々には存在しない。主人公を客観的に見ることなど不可能なのである。」(ミハイル・バフチン)──ここで言う独立したニュートラルな場所を破砕して、観客を「客観的」な視点から解放させるために、トマシュク氏は「人間を演じる人形の劇をさらに人間の俳優が演じる」「さらにその人形劇の演出家の代理の役(および原作では一人称の語り手の息子ユゼフ役、およびモブ役、および舞台監督訳)も他のマネキン役と同じレベルで併存させ、舞台上の奥と手前の空間を最大限利用しつつ、全員をところせましと動かす」という捻った構成を必要としたのではないか? バフチンが演劇の上で原理的に不可能といったことを解決するヒントがここにあるのではないか?)
(ただしこれは形式においてそうだというだけであって、登場人物の造型などにおいては、『マネキン人形論』とドストエフスキーとは全然関係がない。原作が違うのだからあたりまえだが……)
- 役者の姿勢のギミック、オブジェ、照明、音響、小道具(ナチズム兵士を表わすあの髑髏と車輪のついた杖!……なぜかそれを取り付ける場所が舞台装置にあるんだよな)、空間の左右・奥行きを最大限活用した動きと動きの組み合わせ、あらゆる要素をつかった観客の注意の惹き方。独創的なアイディアの濫費。観衆の感受性が覚醒していく!!!! 夢中になって見ざるを得ない。しかもそれが、全体が一つの音楽のように、一見不連続なシーンをシームレスにつなぐことを可能にしている。
そう、演出家は観衆の感受性を覚醒させることを目指すべきなのだ。「私は常に自分に課題を課すようにしている。同じように俳優にも課題を課す。常々言っているのは、『われわれがやっているのは俳優の間でのゲームであると同時に、観客との間でのゲームだ。忘れられないものを作るためのゲームだ。観客が私たちを忘れることが絶対にないように!』その場合、観客にもゲームに参加するという気持を持ってもらう必要がある。だから、観客の興味を惹かないテーマを提示するということはできない。しかし、観客の期待はむしろ裏切っていい。」
- 「私は記号的に脚本を構成していくが、それは非-現実的なものによって現実以上に現実なものをつくろうとするからだ」とトマシュク氏。たしかに、父ヤクブ(という役のマネキン)はユダヤ神秘主義と集団マネキン化に憑かれたドン・キホーテ的パラノイアで、女中アデラ(という役のマネキン)はサンチョ・パンサ的に間の抜けた父の従者、というキャラクターづけは漫画的に際立ったもので、さらに狂言回しで複数の役をとっかえひっかえあからさまに──楽屋裏を見せているかのように──演じる、演出家の代理という設定の役の存在も、素朴なリアリズムから演劇を逸脱させる。だが、その方が明らかに面白い! とくに原作とは違って『マネキン人形論』という作品そのものを人形劇に見立てて、その演出家の代理を一つの役柄として他の役(父ヤクブ、女中アデラ)と併置して舞台に登場させるという構成の着想……一つの舞台の上で、人形劇の中の語りと、語り手の立場からの語りが同時的に併存する……それを不自然にしないための空間の奥行きと舞台装置の巧みな利用……これはドストエフスキーが小説の語り手の技法にこめた革新に匹敵する独創性では?
この作品を見た後では、何かの小説を原作として、「語り」の複層性を排除した一次元的な舞台を創られても、もはやおいそれとは納得できない。
- 思うに、語り手=演出家の代理=息子ユゼフ(お針子・兵士・映画館の切符売り)という役が存在することによって、場面構成、情景展開をシームレスなままかなりダイナミックに自由にできる(しかもその大胆さが凝った舞台装置および舞台空間の最大限の活用と完全に合致している)という点に、『マネキン人形論』の最大の独創性があると思う。どんなに斬新とか若々しいとか言われている演劇でも、情景展開自体は平面的・単線的だからね。だから、もしドストエフスキー小説の「ポリフォニー」感覚を演劇化するなら、そういう工夫が本来は必要だと思う。(来月の東京ノーヴイ・レパートリー・シアターの「スタニスラフスキー・システム」を成熟させ昇華させた上での『白痴』はどうだろうか?)
- シームレスな情景展開……それってつまり、複数の時系列を圧縮した完全な一場ものってことでしょ!? そんなことをやろうとするモチベーションが凄いわ。
- リング状の仮面を用いてあたかも楽屋裏を見せるかのような語り手の演出家、この存在がいるから、突然の父ヤクブの講釈といった場面転換が可能になっている。……俳優がところせましと暴れまわり、演出家自身(つまり舞台上でちゃんと役を演じている俳優自身!)によって、舞台セットも変化させられる。自宅(仕立屋)→映画館。これも重要! まるで演出家役=舞台上の俳優の手によって舞台装置が生き生きと操られているかのよう!……所詮舞台上の空間は、限定された空間であり、虚構だ。だがその空間の限定を逆に芸術的に効果的に利用できるということを証明している!
で、この点についてはやはりナボコフがドストエフスキーの小説について言ったことを思い出すべき。「この作家の作品のどれでもよい、例えば『カラマーゾフの兄弟』をでも少し詳しく調べてみればすぐ分ることだが、背景の自然や、感覚器官の知覚の対象となるような事物は、ほとんど存在しない。……小説『カラマーゾフの兄弟』は私には昔から茫漠と拡がった芝居のように見える。その舞台にはさまざまな俳優に必要なだけの小道具が置いてある。コップの跡が丸く濡れている丸テーブルとか、日が射していると見せるために黄色く塗られた窓とか、裏方の手であわただしく運びこまれ固定された灌木とか。」(『ロシア文学講義』)つまり『マネキン人形論』における、登場人物=マネキン、狂言回し=演出家代理およびモブ役および舞台美術監督、という設定は、語り手のトーンが強くてあたかも楽屋裏の「小道具」「黄色く塗られた窓」「裏方の手」が見えてしまっているかのようなドストエフスキーの小説の語りの構造と、かなり類比的に捉えられる。というかそういう風に把握すべき。
- たしかに二度観ないとこまかいところに演出家が込めた作為は分からないのだが(エイゼンシュタインやアインシュタインへの言及がユダヤ人の両義性を示すだとか、なぜ登場人物二人をマネキン人形にしなければならなかったのかとか)、初見でもちゃんと最後まで集中して興味を惹き付けられるほどに素晴らしい出来だ。それだけじゃない、この演劇の視覚的な楽しさは子供(という他者)の注意すら最後まで完全に惹き付け得るものだろう……むちゃくちゃレベルの高い絵本のようなところがある、それでいて高度に政治的なのだ! 「子供という他者に対して見世物として魅力あるものになり得るかどうか?」──これを、政治性を込めた演劇の着想の正しさを測る規準の問いとしてもよい。
- 自分が舞台俳優に何を求めているかというと、別に架空の状況をできるだけ現実に近い形で舞台で演じるということではなくて……プロとしての身体的な存在感。その点ではヴィエルシャリン劇団の俳優たちは申し分ない。驚くべきことに彼らはほとんどつねに移動しながら喋っていた。「現代の俳優にあっては、役者はたんなる〈教養ある朗読者〉になりさがった。「衣裳をつけ、メーキャップをほどこして戯曲を朗読します」──今日のポスターは、実は、そう謳うべきではないのか。現代の役者には仮面や軽業はいらない。メーキャップが仮面の代わりを務め、それが実生活でお目にかかるありとあらゆる顔の表情を、寸分たがわず再現してくれるのだ。現代の役者は舞台の上で〈演技する〉のではなく、ただ〈生きている〉だけだから、軽業も必要ない。〈演技〉という魔術的な演劇のことばは、もはや現代の役者には通じない。単なる模倣者にすぎない彼らには、俳優が自家薬籠中の手法を無限に組み合わせ変化させる即興の能力はないのである。」(メイエルホリド)──つまり、ヴィエルシャリン劇団の俳優たちは「単なる模倣者」ではなかったということ。
- ライティングの演出について。動画(http://www.youtube.com/watch?v=T-Vzjqn-ISU)ないしは画像集(http://www.wierszalin.pl/index.php?SpektaklPhoto=335)を見れば分かるが、『マネキン人形論』において舞台上が全体的に明るくなるということはほとんどない。暗闇の中から対象を面で浮びあがらせるような、立体性に特化したライティング。人物のみならず様々な小道具やオブジェにおいてすらそうなのだ。おそらく地明かり以上にサイドスポットライトをメインで多用しているのではないか。動きのダイナミズムや語りの構造の複雑さとともに、このライティングにおける独創性がなければ『マネキン人形論』は成立しない。これは同劇団の別作品“Anatomia psa”ではさらに顕著で(http://www.wierszalin.pl/index.php?SpektaklPhoto=345)(http://www.wierszalin.pl/index.php?SpektaklPhoto=344)(http://www.wierszalin.pl/index.php?SpektaklPhoto=349)(http://www.wierszalin.pl/index.php?SpektaklPhoto=355)(http://www.wierszalin.pl/index.php?SpektaklPhoto=363)、暗闇を基本とした空間に色のついた光を重ねてどう対象を見せていくかに、信じられないような作為を働かせている。ここでも照明はシンプルであればあるほどよいとするミニマムな演出作法の真逆を行っているというわけだ!
:上演中メモ
- ・舞台、奥行き15m、幅20mほど。客席との距離2mほど。椅子は低く、客の目線は低い。天井までの高さは相当ある。
・真っ暗になってナレーション。「舞台は現代はウクライナに属する小都市ドロホビチ。人形を人間が演じる。息子のユゼフは演出家。だから仮面(=鼻)をつけてお針子にもなり、衣装をつけてロシア・ポーランド兵になったり、映画館の切符売りになったり。息子になるときは腰をかがめて眼鏡を着ける。」
・上演スタート。木製の舞台装置の向こうで誰かがライトを灯し、それが柵越しにちらちらゆっくりと動いていく。注目せざるを得ない。
・それから、俳優が舞台装置に巻かれたサランラップを切って、舞台装置の中から出て来る。これが演出家役なのだが、すでにこの時点で、このじゃきじゃきじゃきという耳障りな音によって観客の注意を惹き付け、知覚を研ぎ澄まさせる工夫がなされている!
・「私は演出家の代理」
・息子を演じる。息子はもう居ないから。息子は死んだ。ゲシュタポに殺された。演出家の代理≒息子の代理。
・劇伴はアコーディオンを使った、スラヴ風の音楽。早速、音楽に合わせてアデラが歌っている!
・演出家役の俳優がマネキンを止めたり、女中アデラ役の男性の禿頭にお下げのカツラを乗せてやったり、といった演技を見せる。奥行きと舞台装置を利用した動きの躍動感が凄い。テンションやべえ。面白れえ。ポーランド語の科白の響きも面白い。ドストエフスキーの小説中の人物が喋ったらこんな感じか?(実際、ポーランド語とロシア語は西スラヴ語群か東スラヴ語群かっていう違いだけで、似ているらしい。ただし表記にキリル文字は使わない。)
・「自分のなかに過剰がある」「過剰すなわちアインシュタイン」
・マネキンの骨組みが取り出される。アデラがミシンで縫っているのがマネキンの服。ここから脚本としてマネキンに焦点が当たっていく。
・「マネキンの成長、それがゴーレムだ」「アデラの似姿としてマネキン=ゴーレムを造るのだ」「造物主よ、アデラのなかに目覚めよ!」
・マネキン役の俳優が「マネキン人形論」を講釈するという複雑なユーモア。
・ちゃんと俳優の動きに、マネキン的なギミックが多い。そもそも女マネキン役が男優だし!
・劇伴が面白い。場面によっては、ものすごい怪しいBGMに。
・「造物主よ! 内容は控え目に!」原作の科白のサンプリングが詩的効果として巧み。
・「ゴーレムを退治するには? EMET(真実)から一文字切り離すと MET(死)になる」(これが参照してるのはポーランドのユダヤ神秘主義のゴーレム伝承だな。額に書かれた文字を一文字消すとゴーレムは土に還る、ってやつ)
・「身体の格下げ! 人体は日常性に格下げされた。人間は血・肉・臓物を詰め込む革袋になってしまった」
・演出家がときおり前面に出て来て講談的な注釈を入れるんで、シーンの流れの一貫性が持続する。上手い「語り手」の設定。
・リング状の仮面をつかってあからさまに一人三役の役の切換えを見せる。リアリズムではない。
・マネキン役という設定だからこそ、単なるリアリズムではなくて誇張がリアルになるという劇中の文脈が出来上がる(この文脈がないと、単にオーバーなアクションっていうだけ)。
・リング状の仮面を用いてあたかも楽屋裏を見せるかのような語り手の演出家、この存在がいるから、突然の父ヤクブの講釈といった場面転換が可能になっている。
・俳優がところせましと暴れまわり、演出家自身(つまり舞台上でちゃんと役を演じている俳優自身!)によって、舞台セットも変化させられる。自宅→映画館。これも重要! まるで演出家役=舞台上の俳優の手によって舞台装置が生き生きと操られているかのよう!
・所詮舞台上の空間は、限定された空間であり、虚構だ。だがその空間の限定を逆に芸術的に効果的に利用できるということを証明している!
・映画館の場面ではまず、ブニュエルの『アンダルシアの犬』が上映。
・ライティングの利用もすげえ。
・マネキン役の俳優の、くねくねした身ぶり。身体障害者みたいな身ぶり。この動きの多彩さ・ダイナミズムで観客を惹き付ける!
・「肉を切り刻まれるマネキンではすまない!」
・「きわどく両義的で異端」
・「父親は異教の始祖となり、催眠術師となった」
・「カバラの教えどおり造物主は……」「物質には無限の多産さが……」
・「物質は生きているか? 映画を見よ! チャップリンを例に取ろう。生命のない物質にも、未知の力が隠されている……」「肝心なのは処方箋だ。異教的な方法ではあるが」
・急に静かにになり、照明暗くなる。動静の使い分け見事。
・マネキン役の俳優の、ヒトラーみたいな身ぶり。「革命を!」「革命的状況だ! 造物には労働を!」
・「造物の完璧さというテロよ去れ! 物質革命だ!」
・BGMが切り替わるタイミング、完璧。
・父ヤクブにも仮面をつけさせて歴史的な人物を導入。レーニン。
・「裏は布張りでも構わない」「マネキンがヒーローだ! 武器は映画だ!」
・「ただ創りたい! 低次のものでいいから創りたい! 第二世代よる創造だ!」
・「ぼくたちは言葉と映像の興奮に身を任せた……」オデッサの革命。エイゼンシュタインの嘘。(オデッサの階段のシーン、史実として虐殺があったかどうかにかかわりなく、スリリングな映像として撮影されたもの。そのモンタージュの虚構性は共産主義のプロパガンダとしても機能したっていう。)
・「われわれは永続するものではなく、つかの間のものを愛する」
・「映画のイメージ=つかの間の生!」
・「集団マネキン化」の流れで、演出家役がなぜか作中マネキン役の父ヤクブにまるでマネキンのように操られるというギミック。面白い! 演出家はむしろマネキンを調整する役だったのに……。
・「みぞうの実験、集団マネキン化!」
・「父は次々と独裁者の仮面をつけていった、ムッソリーニ、スターリン、ヒットラー……」
・「人間からマネキンをつくることは容易ではなかった。人間はただ生きているだけで繁殖力を消費してしまう」
・「最初の人間が重要だ」
・「集団マネキン化実験は注目に値する」→後ろに投影された映画に合わせて踊る。その映画というのはフリッツ・ラング監督1927年公開のモノクロサイレント映画、『メトロポリス』。ディストピア未来都市を描いた映画。
・父ヤクブは白衣を着てくるくる回る。おそらく自動人形化ということを示唆している。
・「グルジエフは正しかった」〔ゲオルギイ・イヴァノヴィチ・グルジエフ。1866〜1949年。アルメニア生まれ。神秘思想家・著述家・舞踏作家・作曲家として知られる。人間の調和的発展のための肉体労働・舞踏・音楽、という考え。「グルジエフが各地に伝わる様々な神聖舞踏を組み合わせて独特なものにまとめあげた「ムーヴメンツ」……その演舞は、身体の複数の部分の独立した動きの統合や頭の働きと体の働きの協和を要し、特殊な芸術であるとともに、心身の調和的発展に向けての挑戦となる……」自伝『注目すべき人々との出会い』の人です。〕
・「それを行うのだ、マネキンのように」「マネキンの二次繁殖を試みる!」
・音楽は停止。それから全停止。いや、演出家役だけが動いてナレーションを入れる。
・マネキン役の俳優の、ちゃんとマネキンらしい身振り。止まる時はがっくりと全身の力を抜いて。ぜんまい切れみたいな動き。ないしはぜんまいを巻き過ぎたかのような忙しい動き。
・息子ユゼフが居なくなる。ということは、演出家代理も居なくなる。ここから普通の演劇っぽくなるね。
・「嘘をついていた、私はマネキン人形だが女で、男ではない」「アデラの母はトランクに入るくらいの背丈だった」「アデラの母はアロイズという芸人に恋をした」
・「あの人形の目が怖い」「あれは無政府主義者ルッケーニ、あれはドラガ(セルビアの王妃)、あれはオナニーで身を滅ぼした天才青年」
・「笑えばいい? 考えればいい?」「考えてほしいのではない、引っ張ってほしい、アデラなら引っ張れる」
・「この工房ではじめる、マネキンの二次繁殖の実験を!」→飛行の夢。鳥人間コンテストみたいな手製の羽根を付けて、アデラに肩車されてはばたこうとする
・「引っ張れる、引っ張りあげられる!」
・奥行きを利用。奥に光が当たって手前が暗い。その暗い前の右手からロシア兵士役(演出家代理の別役)が登場。奥と手前で別の動きが同時進行。キリル文字が書かれた板切れ、という小道具。
・このロシア兵の動き、酔っ払った新体操の選手みたいで凄い身体能力。
・BGMはほとんど始終鳴っていたが、止まるときは止まる。その沈黙が効果的。
・(ナチズム役の兵士の)丈夫に髑髏、下部に車輪のついた杖というまがまがしい小道具。それを使った奇妙な歩行の動き。観客はこの異様さに注目せざるを得ない。これも斬新だな。
・マネキン役の俳優がマネキンの振りをしてやりすごす、という滑稽さ。
・「物質中の陰画は有益だ、複製づくりに有益だ」「マネキンの軍隊が出来上がった、これは実験の失敗ではない、実験はこれこそを目的にしていたのだ」
・ナチスドイツの手下となったポーランド人=「これは失敗したマネキンだな」
・ポーランド人、「ここにユダヤ人がいる!」と書く→父ヤクブに羽交い締めにされる→「ユダヤ人だーーーーー!!」とポーランド人叫ぶ→父ヤクブうなだれる
・「われわれは光速がどれほどなのかも知らない、速度を超えて飛んで行こう!」→また飛行の夢。マネキンの骨組みに紐をつけてまたはばたこうとする
・燃えているマネキンの臭い?(ホロコーストを示唆)
・「マネキンに理想は存在しない。マネキンが理想なのだ。」
・最後に、演出家の代理役(?)の人が火を吹き消して、舞台奥へと回り込んで消える。
:アフターミーティングメモ
- (※記憶と殴り書きのメモを元に構成しているので、トマシュク氏・質問者の発言の本意とは懸け離れている可能性があります。何卒悪しからず)
・トマシュク氏「シュルツを解釈した舞台。いくつかのモティーフを拡大した。基本の問いは、オブジェであるマネキンが人間の代わりをなぜできるのか、できるとしたら人類に何が起こるのか。その問いを(大国に侵略されてきた)ポーランドの歴史に交差させてみた。虐殺されて自分たちの声を出せなくなった人々の声をよみがえらせようと思った。その一人がシュルツ。」
・質問者「『ストリート・オブ・クロコダイル』からシュルツを知った。あの人形アニメもそうなのだが、原作からは離れる。シュルツの原作とどういう関係性を持とうとしたのか?」/トマシュク氏「大学では演劇学をやった。文化という背景を重視しなければならないということを学んだ。われわれは過去を背負って生きている。文学の歴史は昨日生まれたわけではない。だが、今流行しているのはすべてをゼロから創ると称する試みか、あるいは過去を振り返るとしても五年、十年程度しか視野に入っていない試みだ。それに反して、私の姿勢は現代人でありながら過去を度々思い返すというものだ。すべての美は限定された時代に成立するのだから。そんな私の姿勢は時代遅れかもしれないけれど……。今回の作品について言えば、まずシュルツの散文からは離れようとした。そもそも忠実にあの短編を舞台化することはできないが、シュルツ自身に忠実であればよいのだと私は考えた。原文から離れることでよりシュルツに忠実になれるというところもある。」
・質問者「この芝居の需要はどうだったのか。」/トマシュク氏「美しい、怜悧だ、という評価は得たが、私がこの作品で伝えようとしたこと、すなわちシュルツの再解釈の真の意義は、たった一人の劇作家にしか伝わらなかったようだ。」
・質問者「シュルツの再解釈としてなぜ全体主義のパロディということが盛り込まれることになったのか。それが、同化ユダヤ人、文化的にはポーランド人だったシュルツの生まれと何か関係があるのか?」/トマシュク氏「俳優が最初に言ったことを思い出して欲しい。第二次世界大戦は特定の民族の虐殺が大義とされた戦争だった。それが第一次世界大戦とは異なる点だ。ロシア民族がポーランド民族を虐殺しようとしたことは思い返されていいことだ。ところで父ヤクブを私はユダヤ神秘主義の研究をやっていた人物として造型した。これはシュルツの小説の中には出てこないが、ポーランドにおけるユダヤ主義のルーツの一つであると私は思っている。創世記の「命あれ!」と同じように、物質に生命を与えようとする儀式。原作にはないが、そうしたユダヤ神秘主義がユダヤ系ポーランド人であるシュルツのルーツの一つだと思っていたので虚構として導入しました。父ヤクブを単なるユダヤ人、単なる正統的なユダヤ教徒という型に収めるつもりはなかった。シュルツはアインシュタインやエイゼンシュタインを知っていただろうか(どちらもユダヤ人)、知っていたらどのように感じただろうか。父ヤクブは相対性理論にも『戦艦ポチョムキン』にも言及する。というのは、父ヤクブをユダヤ人が人類に行った貢献と人類にもたらした災厄とを象徴する両義的な存在として示そうとしたからだ。全体主義を生んだのも、いくらかはユダヤ的知性によるものだと言えるからだ。」
・質問者「最後のシーンは、ポーランドの反ユダヤ主義を示唆するものとして、観客には反発されたのでは?」/トマシュク氏「ポーランドの原罪としての反ユダヤ主義というものは否定し得ないものとしてある。だが、この件に関してはドイツやフランスの方が罪が重いはずだ。十八世紀末に至るまで、ポーランド人とユダヤ人は600年近く共存しつづけていたのであり、ポーランドはヨーロッパ内でユダヤ人がもっとも多かった地域なのだ。なぜか? ポーランド人がユダヤ人に対してもっとも友好的だったからではないか! 「ポーランド人は反ユダヤ主義的だ」こんなステレオタイプが何故生まれたのか。ホロコーストでは600万人が殺されたと言われているが、思うに、ドイツ人が「ドイツ人がそこまで残虐なことをするはずがない。ポーランド人も虐殺に加担して多くを殺したのだ」と卑怯にも責任転嫁しようとしたからではないか。そんな言説が、現在のドイツの経済的繁栄と政治的力量を背景に、まかりとおっている。ロシアについても同じだ。私の作品は、ロシア人が大量虐殺を行ったという歴史的事実をふたたび喚起しようとした(核心をついた評価がなされなかったのはそのためかもしれない)。私はユダヤ人虐殺と、ロシアによるポーランド人の虐殺に差はないと思っているが、やはりこれも現在のロシヤの政治的力量のせいであまり世間では歓迎されない考えということになってしまうのだろう。だが、みなさんもありありと想像して感じてほしい。あの時代にシュルツが置かれていた状況を。ユダヤ系ポーランド人として、「ユダヤ人なら殺す」と言っていたドイツ人、そして「ポーランド人なら殺す」と言っていたロシア人、その二重の危機にさらされて生き残れない可能性100%でしかあり得なかった、まったく現実と距離を取ることのできない切羽詰まった状況を。それがシュルツの運命だったのだ。」
・質問者「トマシュク氏は1961年生まれで、シュルツの死んだ50歳という年齢を超えてしまっているのだが、それをどう感じるか」/トマシュク氏「経験には、自分自身で体験して経験になったものと、間接的に知っているだけの歴史の経験というものがあるのだが、私は、年齢を重ねて、父親の世代の経験というものを実感して追体験できるようになったようだ。作品内で過去の映画を引用しているのだが、そしてそれは原作にはまったくないものだが、この引用は私は正しいものだと思っている。脚本を書く前に、当時のドロホビチに映画館があったかどうか、そこでどんな映画が上映されていたかは調べた。シュルツは、チャップリンは確実に観ていたはずだ。『メトロポリス』についても、そういう映画があったということは知っていた可能性がある。ところで、シュルツは同時代の独裁者たちをどう観察していただろうか? シュルツが死んだ頃には、レーニンの神話化というのが前々から進んでいたので、シュルツはレーニンは単純に偉大な人物として尊敬していたかもしれない。だが、その他の新しい独裁者たち、スターリンやヒットラーについては、それを滑稽なものとして見ていたと思う。独裁者のパラドックスというものがあるのだ。思い出して欲しいのだが、実はムッソリーニやヒットラーという独裁者は、登場したはじめから権威主義的な恐怖を帯びた存在ではなかった。最初はむしろ滑稽な存在だったのだ。ヒットラーはとくに最初期の頃は教養のない男として見下されていたのだ(今では忘れられてしまったことだが……)。言葉づかいが変だったり、知っておくべきことを知らなかったり、そういう点がメディアによって盛んに批判されていた。軽蔑的な態度で扱われていたのだ。ところが、ヒットラーが政権を取ったとたんに、あたかも彼が無傷であるかのような神話化がはじまる。ヒットラーもその神話を壊さないように、つねに厳めしい軍服を着るようになった。こうした神話化はロシアでも起こった。私の意見では、第一次世界大戦後の1917年から1927年頃までのソ連というのは、思想的に一番自由な国だったと思う。議論が活溌に行われ、人類の未知のイメージづくりが試みられ、美学的な面でも最先端の前衛的な潮流が生まれ、世界でもっとも興味深い国であった。ポーランドもその影響を受けて、当時のポーランドでは「共産主義を信奉していないのは豚だけだ」などと言われたりもしたほどだ。スターリンが独裁政権をつくってから、ソ連=閉鎖的なラーゲリ国家というイメージが生まれたが、それ以前には美学のるつぼである国だったのだ。こうしたステレオタイプ化してしまったイメージを再検討するというのが、私の抵抗である。イメージの再検討を行わないと、誰かが過去につくりあげたイメージを鵜呑みにすることになってしまう。方法論として必要なのは歴史への眼差しだ。最終的には仕事は歴史家にゆだねられていると言えるが、歴史家が省略し単純化してしまうところで、芸術家の仕事の余地がある。たとえば、「フランス革命は四年間で達成された」──これをどう考えるか? みなさんも四年前の自分と今の自分とでどの程度感じていることの違いがあるか考えてほしい。大して変らない! 当時の人々は、ロベス・ピエールが処刑された時、たった二年前に同じように王の首が落ちたのを見た記憶を重ね合わせてそれを見ただろう。そういうことは、紙の上の単なる年号を観ていただけでは分からない。そうやって時代のさまざまな要素が並行的に生起しているものとして見て行く。それが私の創作法だ。」
・トマシュク氏「もう少し話させてほしい。演劇は、現代的意義を持ち、アクチュアルでなければならない。過去のファシズムについて考えてみよう。驚くべきことは、彼らファシストがあくまで民主的な手続きを経て政権を獲ったことだ。デモクラシーによってなぜ全体主義が生じてしまうのか? ファシストたちは、旧来のエリートたちを軽蔑せよと言って、大衆の嫉妬につけこもうとした。それに対して知識人たちは沈黙していた。新しく生まれてきた支配層に警戒を怠ったのかもしれないが、やはりその時声を上げなかった責任は問われる。また、同様に大衆にも責任があるのだ、顔のない、無責任な、感受性の鈍化した、人間の知的思考が欠如している集団的な大衆の問題。彼らはヒットラーに一票を投じて、それで何の責任も感じていない。それが問題なのだ。」
・質問者「ゴンブローヴィッチについてどう思うか? 今回の公演は、シュルツの作品をゴンブローヴィッチが演出したらこんなふうになるんじゃないか、と感じたのですが」/トマシュク氏「私は修論でゴンブローヴィッチについて書いたほど彼に私淑している。ゴンブローヴィッチの作中の言葉、『ぼくはきみにむかって話している、だがそれは誰のためなのだろう』というコミュニケーションの方向性について暗示した言葉は、とりわけ私にとって非常に重要なものだ。だが、私の演出法というのは、ポーランド演劇の特有のものでもあるが、生きた俳優と仮面とを使って作劇するというものだ。このやり方でゴンブローヴィッチの作品を演出すると、もともとのゴンブローヴィッチの作風にあまりに合致しすぎて、舞台が一義的なものになり、むしろゴンブローヴィッチを傷つけてしまうかもしれない、だから私は彼の作品の上演を手掛けるつもりはまだないのだ。」
・質問者「今日本には2000から3000もの劇団があるのだが、劇団ヴィエルシャリンの俳優たちに匹敵するような高い身体能力を持った俳優なんてほとんどいない。演出家たちも、海外のやっていることの真似事ばかりだ」/トマシュク氏「私は日本の演劇の状況について語るつもりはない。でも私の演劇は記号によって、つまり非現実的なものによって現実以上に現実的なものをつくるという方法論だ。これは日本の演劇から学んだものなのだ。」
・質問者「演劇では、ジャンルによって型にはまってしまうものだが、あなたが演出する上で重要だと考えていることは何か?」/トマシュク氏「私は常に自分に課題を課すようにしている。同じように俳優にも課題を課す。常々言っているのは、『われわれがやっているのは俳優の間でのゲームであると同時に、観客との間でのゲームだ。忘れられないものを作るためのゲームだ。観客が私たちを忘れることが絶対にないように!』その場合、観客にもゲームに参加するという気持を持ってもらう必要がある。だから、観客の興味を惹かないテーマを提示するということはできない。しかし、観客の期待はむしろ裏切っていい。観客は(批評家も!)あらかじめステレオタイプなイメージを持っているものだ。シュルツの小説ならこう演出すべきだ、というような。あるいは定番となっているような演出法を期待したり。それに対して、私は、つねに非常に新しいオリジナルなものを提供したいと思っている。パターン化されタイプ化されたものが現われた時に、それを確認するような作り方をしては駄目だと思っている。言わば、純粋さを目指していると言ってもいい。意図が純粋であるということ、そして表現においては丁寧であること。もちろんそうやって失敗することはある。ステレオタイプな演出よりも悪いものを作ってしまうことはある。それはリスクだが、しかし犯さなければならないリスクだ。」