:基本情報
- 企画・製作:梅田芸術劇場
主催:梅田芸術劇場/ぴあ
作:ハロルド・ピンター
演出:デヴィッド・ルヴォー
翻訳:谷賢一
美術:伊藤雅子
衣装:前田文子
照明:笠原俊幸
音響:高橋巌
ヘアメイク:鎌田直樹
出演:堀部圭亮/ディーリィ
若村麻由美/ケイト
麻実レイ/アンナ
- 東京公演:2014年6月6日(金)〜6月15日(日)_日生劇場
大阪公演:2014年6月19日(木)〜6月22日(日)_梅田芸術劇場・ドラマシティ
:上演中メモ(主に翻訳について)
- (※※※殴り書きのメモを元にしているので、実際の上演とは大幅に異なっている可能性が大です。)
▼第一幕
・セットは舞台全部を使わずに前に迫り出した正方形の赤い床(15m×15mぐらい)を中央に置いて、演技空間はそこに限定される。第一幕の装置は上手下手前に寝椅子と小テーブル(コーヒー、煙草)。舞台奥センターに肘掛け椅子、サイドテーブル(ブランデー)、電気スタンド。すべて美しい赤で統一。赤い床の枠の部分は白いが、ここには蛍光塗料が塗ってあるらしく暗転時に白く光る。
・開演と共に音楽が流れ、舞台奥の上と左右から白い枠が迫って来て半分カーテンが引かれた大きな窓になる。
・新潮社版全集の喜志哲雄訳では最初の第一声「Dark.」が「〔アンナの〕色が黒いわ」だが、谷訳では単に「暗い」。なんで喜志訳はわざわざ捻っているのだろう。
・ディーリィの「She was incomparable.」に対するケイトの応えが、喜志役では「あら、そんなことなかったわ、あの人」だが谷訳では「それだけはちがう」。原文は「Oh, I'm sure she was'nt.」。谷訳の方がディーリィに対して直に反撥するようなニュアンス。その後の「I don't know.(知らない!)」も舞台上では攻撃的な演技で。
・喜志訳「その人、泥棒でね。よく、ものを盗んだわ。」/谷訳「泥棒だったのよあの人。盗むの。」/She was a thief. She used to steal things.
・喜志訳「君が。君を観察することにしよう。」/谷訳「君の反応が。目が離せない。」/(I shall be very interested)In you. I'll be waching you.
・原文では「To see if she's the same person.」で、谷訳は「本当に同一人物かどうか」という素直な訳だが、喜志訳は何故か捻って「その人が昔の通りかどうか知るために」。わざわざ解釈を付け加えて本義から外れているというパターン。ここはこの作品のモティーフからしても「the same person=同一人物」と訳さないと意味がブレるのではないか。
・逆に、ディーリィ「She may be a vegetarian.」/ケイト「Ask her.」のやり取りの後のディーリィの科白「It's too late.」は、喜志訳は直訳の「手遅れだ」だが、これだと日本語的にちょっと会話になっていない。谷訳は意訳して「訊いても仕方ないか(≒もう手遅れ)」。
・喜志訳「あなたが知りたいことを、私に聞けって言うの?」「違うよ。とんでもない。」でとなっている箇所は谷訳では「あなたの代わりに私が訊くの?」「そうじゃなくて。」原文は「Do you want me to ask your questions for you? | No. Not at all.」で、喜志訳の方は原文の語順をそのまま守っているのに対し、谷訳は日本語の会話として通りが良い方を選び原文の語順に忠実であろうとなどはしていない。
・原文「You said she was a vegetarian.」を、喜志訳は「あの人は菜食主義者じゃなかったの?」なのに対して谷訳「ベジタリアンがどうのって言っていたのはあなたよ!」。戯曲の科白としてなめらかな意訳。
・アンナの最初の長科白、抑揚大きい。情感を思いっきり込めて、時々笑いを挟んで。ただし最後の「あの店、本当にあったのかしらね」でトーンダウン。
・喜志訳「あの人たち、確かに才能があったわ。」/谷訳「あのカフェの人たち最高にアーティスティックだった!」/and all those people, creative undoubtedly.
・原文「I would be afraid of going far, lest when I returned the house would be gone.」の箇所は面倒くさい。「lest」は「〜するといけないから」の意味の接続詞で、現在はほとんど使われていない模様。その古めかしさも翻訳で出さなければならないのだが、喜志訳は「憂慮されますもの、帰って来たら家がなくなってるんじゃないかなんて」。谷訳「畢竟、恐ろしくなるに違いありません」。「帰って来たら家がなくなってるんじゃないかって“剣呑”に想うでしょうから」みたいな訳でも良いかも。
・谷訳のアンナの科白「青春のロンドン!」、対応する原文は何かと思ったら、「But of course I was a girl in London.」か。逆接の意味を省く。喜志訳は「もっとも、娘時代にロンドンにいたんですから」。
・原文「substantial food, to keep you going」の箇所、喜志訳は「腹の足しになるもの」、谷訳は「精のつく食事」。「substantial」には「栄養がある」の意味があるが、続く「keep~going」の「頑張らせる」という意味からしても、性的なニュアンスを含ませた谷訳の方が良い。というか後続のやり取り(ケイト「Yes, I quite like those kind of things, doing it.」)の意味が喜志訳だとまったく浮び上がらない。
・妻の頭は宙を漂う、あたしの頭はちゃんと付いてる──あたりのやり取りで、ケイトはかなり必死で訴え掛けるようなニュアンス。これはテキストからは単純には読み取れない。そして次の長い科白を言う間、アンナは寝椅子に坐っているケイトの後ろから抱きつく。
・アンナとディーリィが歌うシーンでは、ケイトも少し踊る。だが最終的にアンナとディーリィは歌い合うことによって距離が接近し、ケイトをハブにするような感じになる。
・ディーリィの長科白。原文「dirty bitch」、喜志訳「あばずれ」、谷訳「いやらしい子ねー」。谷訳じゃないと実質意味が分からないのでは? 原文「AndIleft when the film was over, noticing, ...that the first usherette appeared to be utterly exhausted, ...」、喜志訳「第一の案内係がすっかり疲れた様子をしてるのにはちゃんと気づきながら」、谷訳「見逃しませんでしたよ。……ぐったりしてやがる」。原文「I thought Jesus this is it, I've made a catch, this is a trueblue pickup, ...」、喜志訳「やったぜ、これだ、ついに女をひっかけた、大当たりとはこのことだ」、谷訳「ざまみろ、落ちたぜこの女、もう俺のもんだ」。
・喜志訳「私は横を歩いている娘の冷たい手を握って……」に対して谷訳「ひんやりした手でした。二人で歩いていて……」の箇所の原文は「I held her cool hand, as she walked by me, ...」で、原文に忠実なのは喜志訳の方だが、戯曲の科白として考えた場合むしろ何も考えないで原文の文章の区切りの通りに日本語に変換しているという印象。谷訳の方が濃やか。
・ディーリィの長科白の間、ケイトがアンナにブランデーを注いでやる。
・最重要科白の一つ。原文「There are some things one remembers even though they may never have happend. There are things I remember which may never have happend but as I recall them so they take place.」。喜志訳は「起こらなかったかもしれないけれど覚えてるってことってありますものね。起こらなかったかもしれないけど私が覚えてることがあって、それを思い出せばその通り起こったことになるんです」。谷訳「現実になかったはずなのに覚えることってありますしね。……でもそれも思い出してみれば現実になる」。
・アンナが記憶を語る科白、喜志訳は原文直訳で「This man=この男(≒ディーリィ)」にしているが、谷訳は「男が一人……」。後でディーリィが「どんな男でした?」と訊くのだから、「この男」は不味いだろう。
・ディーリィの「what an exciting story that was.」は喜志訳が「まったく面白い話」、谷訳が「胸の熱くなる話」。この時のディーリィのやや興奮したような口調を考えると喜志訳じゃ間が抜けている。
・アンナとディーリィが話している間ケイトは完全に無視されているので、「あたしが死んでいるみたいに話すのね」の科白の強い語調が自然に聞こえる。テキスト上だけでは実感できない要素。
・ケイト煙草を点ける。
・ディーリィの「もうやめろ!」はかなり苛烈なトーンで。そしてここから何故か妻に対する態度が辛辣に、憎々しげになっていく。「ふわふわと浮ついた女」「古臭い女」「いずれにせよ期限切れ」。
・それに対してアンナの「この人は向こう見ずなことをする人じゃない……」の科白はディーリィに反論するようなトーンで。これもテキストからだけだと伝わらない、ここでディーリィとアンナが対決的に対峙しているということは。ディーリィの「誰が何をするって?(Some people do what?)」も攻撃的なトーン。
・喜志訳「人間もさざ波を立てるんですか」に対して谷訳「男もさざ波を立てるんですか」、原文は「Do men ripple too?」。喜志訳は文脈を考えずに直訳しているという印象だが……。
・谷訳「どんな分野に興味があったかさえ思い出せない」、原文は「 I can't remember now which ones they were.」で原文にない副詞evenを足して意訳している。
・アンナ「忘れたなんで言わせないわよ!」、喜志訳では「まさか……忘れてはいないでしょう?」。原文は「Don't tell me you've forgotten ...」だから谷訳のアグレッシヴなニュアンスの方が正しいと思われる。ここからのアンナの科白(の言い方)は記憶を探りながら道案内をするようなイメージ豊かな演技。
・アンナの『邪魔者は殺せ』をケイトと一緒に観たという致命的に意味深な科白に対して、ディーリィはやはり反発するような攻撃的なニュアンスで仕事の話を始める。これもテキストからだけでは分からないニュアンス。この後のディーリィもどこか挑発的な意地の悪いような感じ。「世界」と「地球」の言葉の違いがどうのというところとか。また、谷訳によってさらにそういうニュアンスが加わっている模様。原文「What the hell dose she mean by that?」は、喜志訳では「いったいどういう意味なんだよそれは?」だが谷訳では「このご婦人は何をぬかしてんだか。」と嘲るような科白になっている。「what the hell」は口語で使うと結構下品な意味になるらしいので、谷訳の方がより正確だろう。喜志訳では無駄にディーリィが困惑しているように受け取れてしまう。
・喜志訳では「なんとかお口に合う〔luscious〕ものを、官能をくすぐる〔voluptuous〕とまでは行かずとも」となっている箇所、谷訳では「官能的とまでは行かずとも甘美な……」だが、「官能」と「甘美」というふうに頭韻を活用するのは戯曲だからこそ非常に重要だろう。喜志訳にはあまりそういう音楽的な配慮がない。
・ケイトが「自宅の床は大理石なの?」と言い出すあたりから、意地悪いディーリィをハブにしてアンナとケイトだけで会話が盛り上がるという流れになっていく。ハブにされたディーリィはそうした状況にますますいきり立ち、アンナとケイトの会話にさらに強烈に意地悪く介入しようとする。「シチリアに探求すべきものはない!」。対してさらにケイトはディーリィを依怙地に無視するニュアンスを科白に含ませる。「シチリアの人は好き!?」。
・夜の公園に関するアンナの長科白の間、ケイトは舞台の縁を綱渡りするように歩く。
・アンナ「家にいるの!」の科白の後、次の科白の「本を読んであげようか?」までの間に台本にはない間が入る。それによって、それまでのケイトとのやり取りを一旦クールダウン。ところでこのアンナの本を読んであげようか、に対するケイトの返答は喜志訳が「分からないわ」で谷訳が「どうだろ」。原文は「I don't know.」だが、あまり直訳すべき科白ではないように思えるが……。
・第一幕の最後、去って行くケイトを追い掛けようとするディーリィ、立ち止まってアンナと目が合う。
▼第二幕
・幕間、曲が鳴っている間に黒子が配置替え。寝椅子をベッドにして「ハ」の字型に配置、肘掛け椅子はそのまま。また、この時演出としてケイトがバスタオルを持って舞台の縁を歩く。
・ディーリィ「もちろん逢ってますとも」の後の間は結構長く、ディーリィは立ってコーヒーを小テーブルに置く。
・アンナ「あなたの注視に気付いていた、あたしが?(I was aware of your gaze, was I?)」は呆れたような、そんな訳ないだろというようなトーンで。わりと露骨に。
・原文「I'm terribly sorry.」の箇所、喜志訳は「どうもすみませんでした」だが谷訳は「お可哀想に」。正確には喜志訳の方が正しいのだが、その前のアンナの科白「こんな悲しい話伺うの初めて」との関連で考えると、さらにはここで必ずしもアンナがディーリィの話を事実として認めていないことを考えると、谷訳の意訳の方が相応しい。「すみません」と謝ってしまうと、あたかもアンナがディーリィの話を事実として認めてしまっているかのようだが、それでは不味いのではないか。
・風呂上がりのケイトをどうしてやるか、という話で、なぜかアンナとディーリィは口論のようなトーンになる。内容的にはそういうトーンになりそうな気配はないのだが。アンナがアンナの「拭いて差し上げてバスタオルで」「女の身体は一人一人違うのよ」「いい考え?」も怒ったような語調。アンナはベッドに坐っていて、ディーリィが歩き回るというミザンスだが、「夫は僕ですからね……」の科白の途中でディーリィはアンナに近付いて彼女の頬に触れる。そこから「あなたはもう四十だ」の科白を引き出す。台本には書かれていない流れ。
・風呂から出てきたケイトの長科白、やたら思い入れたっぷりに。「海が近いのもいいわー」。アンナはケイトのトーンに同調するように「みんな待ってる!」。ここでまたディーリィが除け者にされているような感じになるのだが、「一人で上手に拭けたかい?」の科白で急に介入してくる。それに対してアンナは一瞬呆れたように笑う。
・ここら辺でアンナとケイトと対立しているディーリィ、という構図が出来るので、ディーリィが殊更にケイトの笑顔について言及するとケイトが表情を曇らせて、その後のディーリイ「もう一度やってみろ(Do it again.)」/ケイト「やってる(I'm still smiling.)」のやり取りの中でケイトが形ばかりの笑い顔を作るという流れが自然に出来る。これもテキストからだけでは読み取れないニュアンス。そしてケイトの笑顔は次にダンカンやクリスティのことを話題にしてアンナとクッションを投げ合いながら話す時に、また生まれる。それが気に食わないディーリィの「〔クリスティを家に呼ぶのは〕それは駄目なんだ。街にいない」のトーンは厳しく断定的。それを受けてのケイトは「残念」と言った後に仏頂面に。
・原文で「I had been punished for my sin, ...」となっている箇所、喜志訳では「悪いことはできないもんで実はちゃんと報いがあった」と回りくどい訳になっているが、谷訳ではシンプルに「罪の罰はもう受けたわ」。
・というか下着の話になってから何故かアンナとディーリィの間で話が盛り上がって、今度はケイトが除け者になったかのような情勢。ケイトはベッドでふて寝してしまう。
・原文で「I'm glad someone's showing a bit of taste at last.」となっている科白だが、喜志訳の「嬉しいね、僅かなりともたしなみを見せてくれる人がやっと現れたとは」だと、ちょっと工夫がないのではないか。「I'm glad(嬉しいね)」「at last(やっと)」の語順まで原文に合わせているのだが、いわゆる横文字を縦にしただけという印象を禁じ得ない。「show」をそのまま「見せて」と訳しているのも……。アンナが何かたしなみのある振舞いを見せたとでもいうのではないし。これは、アンナの科白「それはあなたの領分でしょう」に対する反応なのだから、谷訳のように訳すのがより一層正しい。谷訳「ようやくたしなみ深い言葉が聞けて嬉しいかぎりだ」。
・ここら辺、アンナもディーリィもどんどんヒートアップしていく。激しい感情のぶつかり合い。ケイトの「いやなら出て行ってよ!」も。
・ディーリィの科白で原文「What worries me is the thought of your husband rumbling about alone in his enormous villa living hand to mouth on a few hardboiled eggs and unable to speak a damn wored of English.」となっているピリオドの入らないやたら長い文章があるが、谷訳は「あなたのご亭主のことだ。」で一度区切っている。
・アンナの「カフェにも連れていってあげた……」の科白、第一幕最初の方のの反復だな。「わたし、あの娘の幸せだけを願っていた。今もそう!」はかなり悲劇的なトーンで。
・続いて、ディーリィのアンナと会ったことがあるという話が続くが、これは気弱なトーンで。「彼女、自分のこときみだと思い込んでた。もしかしたら彼女、本当に君だったのかもしれない。一緒にコーヒーを飲んで、静かで、一言も喋らなかったのは」──弱々しく、感慨深げに。
・つづいて、これはもうどう考えても谷訳が絶対に正しいという箇所がある。アンナがディーリィに惹かれた理由をケイトが推測していき、それにディーリィが相槌を打つというくだりで、原文はディーリィの相槌は「Did she?」、谷訳はシンプルに訳して「彼女が?」、喜志訳は何故か意訳して「そうかね?」。ここは話の流れからしても、ケイトとアンナのアイデンティティが重なり合って、ケイトがアンナとディーリィの関係について語っているのか、それとも自分とディーリィの関係について語っているのか、境界が不分明になっていくというくだりなのだから、ディーリィの「Did she?」には「(君ではなくて?)彼女が?」という含意があると考えなければならない、必然的に。それが喜志訳の「そうかね?」ではまったく伝わらない。あり得ない。何を思ってこんな意訳をしたのか、理解に苦しむ。当然同じ箇所の「She wanted to comfort my face, in the way only a woman can?」のディーリィの科白も「彼女が(アンナ/ケイトが)」という意味を含ませて主語をちゃんと訳さなければならないが、何を思ってか喜志訳では主語を省略している! 別のところでは原文の語順通りという直訳をしておきながら、なぜこういうところでは直訳を避けるのか。疑義を禁じ得ない。さらに、次のケイトの科白においては逆に「She」を「この人」として訳出しているが、ここでの「She(彼女)」は自分のこととアンナのことと二重の意味になっているはずだから、「この人」というふうに完全に自分のは別の人の指示詞として訳してしまっては、絶対にいけない!!!!!! アンナとケイトの自己同一性が溶解していく肝心の対話の訳が、なぜこんなに緩慢なのか? このパートの比較においては、喜志訳よりも谷訳の方が優れていると断言していい。
・ここで対話はディーリィとケイトの睦言っぽくなっていくのだが、そこへアンナが「あれは私のスカートだった」と介入して水を差す。原文にも丁寧に「(Coldly.)」の指示。それへのカウンターとして、ケイトが死んだアンナの話をし始めるという流れ。
・ケイトの最後の長科白で「微笑み」の話が出るのは、以前のディーリイ「もう一度やってみろ(Do it again.)」/ケイト「やってる(I'm still smiling.)」のライトモティーフの反復なのか。
・ケイトの最後の言葉、原文では「I told him no one. No one at all.」。喜志訳は「私言ったわ、誰も寝ていないって。誰も、一人も」。谷訳は「誰も。誰も、いない」。谷訳の方が直訳なのだが、ここではアンナの存在自体を否定するようなニュアンスがあってしかるべきだから、日本語としても谷訳の方が相応しいように思う。
・ケイトの科白が終わってからの流れは、夫がすすり泣く、アンナが電気スタンドを消す、アンナがベッドに寝る、夫はアンナを見下ろす、ケイトが寝椅子に坐る。夫はその横に坐ってケイトの腿に頭を乗せる。ケイトは無反応。夫は肘掛け椅子へ。そして枠が上と左右に広がって、舞台最奥にあった風景が見える。終幕。