タイプ【0-1】(スタンダール:イメージ-感情の相互リアクション)
タイプ【0-2】(スタンダール:リアクションと肖像(感情準備))
タイプ【0-3】(スタンダール:シンプルなディエゲーシス(イメージの凝縮))
タイプ【0-4】(スタンダール:その他(執筆の自由))
タイプ【0-5】(スタンダール:内的対話のための段落展開)
タイプ【1-1】(チェーホフ:冒頭、段落モンタージュ)
タイプ【1-2】(チェーホフ:記述的-情景法)
タイプ【1-3】(チェーホフ:緊迫した対話・情景法)
タイプ【2-1】(ルバテ:段落モンタージュ)
タイプ【2-2】(ルバテ:現前的-要約法)
タイプ【2-3】(ルバテ:記述的-情景法)
タイプ【2-4】(ルバテ:肖像)
タイプ【2-5】(ルバテ:批評的/情動的ディエゲーシス)
タイプ【2-6】(ルバテ:緊迫した対話・情景法)
タイプ【2-7】(ルバテ:内的対話ストリーム)
------------------------------------- タイプ【0-1】スタンダール:イメージ-感情の相互リアクション ▲
●『赤と黒』上巻39-48頁
第一部第五章〜第六章
-
教会を出ようとしたとき、聖水盤のそばを見て、血ではないかと思った。ふりまかれた聖水だった。窓にかかっている赤いカーテンが映って、血のように見えたのだ。
とにかく、ジュリヤンは内心びくっとしたのがはずかしく、心で叫んだ。
《おれは臆病者なのか? 武器をとれ》
この言葉は老軍医正が戦争の話のときにしじゅう口にしていたので、ジュリヤンは勇ましく感じていた。立ち上がると、レーナル氏の家のほうへ、すたすたと歩き出した。
決心はりっぱだったが、その家が間近に見え出すと、たちまちおじけづいてしまい、どうにもならなかった。鉄門は開いていた。いかめしい感じだが、はいっていかざるをえない。
ジュリヤンがこの家に来ることになって、心を悩ましたのは、当人だけではなかった。レーナル夫人は人一倍内気だったので、これからは見も知らぬ男が、役目とはいいながら、たえず自分と子供たちのあいだにはいることになると思うと、気が気でなかった。今までは自分の部屋に子供たちを寝かせていた。その日の朝、子供たちの小さなベッドが家庭教師にあてがわれる部屋に運ばれるのを見て、とめどもなく涙が出た。末っ子のスタニスラス=グザヴィエのベッドだけでも自分の部屋に戻してくれるようにと、夫に頼んではみたが、聞きいれられなかった。
レーナル夫人の場合は、女らしいデリケートな感情が極端にまで達している。下品で櫛もろくろく使わぬ男が、単にラテン語という野蛮な言葉を知っているだけで、自分の子供たちを叱ったり、鞭でひっぱたいたりするのだろうと思って、およそ不愉快な男の姿を想像しいていた。
男の見ていないところではいつもそうなのだが、レーナル夫人はしとやかながらも、元気よく、庭に面したサロンのガラス戸を開けて出たとき、ふと玄関の戸口のそばに若い百姓が立っているのに気づいた。まだ子供っぽいうえに、ひどく青白く、泣きやんだばかりといった顔である。まっ白なワイシャツを着て、粗い紫のラシャの、小ざっぱりした上着をかかえている。
この百姓の子供があまり色白で、かわいい目をしているので、多少ロマネスクなレーナル夫人は、はじめ、若い娘が男のなりをして、町長さんになにかお願いに来たのかもしれないと思った。玄関のところで立ちどまったまま、思いきって呼び鈴に手を伸ばすこともできないでいるらしい。いかにもあわれな姿でいじらしくなった。レーナル夫人は、家庭教師が来るというので気がめいっていたこともちょっと忘れて、近寄っていった。ジュリヤンは玄関のほうを向いていたから、夫人の近づく姿には気がつかなかった。すぐ耳もとでやさしい声がしたので、びくっとした。
「なにかご用、坊ちゃん?」
ジュリヤンは、さっと振り返ったが、レーナル夫人のいかにもあでやかなまなざしに打たれて、おじけづいた気持もいくらか忘れてしまった。やがて、相手の美しさに見とれて、なにもかも、なにをしに来たのかということさえ忘れてしまった。レーナル夫人はまた同じことをきいた。
「家庭教師として参りました、奥さま」
ジュリヤンはやっとそう答えたが、涙を流したのが照れくさくて、しきりに目をこすっていた。
レーナル夫人はびっくりしてしまった。くっつきすぎるほどの距離だったので、二人はお互いに見つめ合うことになった。ジュリヤンはこんなりっぱななりをしたひとを、ついぞ見たことはなく、とりわけ、こんな輝くばかりの肌色をした女性からやさしく話しかけられたことはなかった。レーナル夫人はこの若い百姓の頬に残っている大粒の涙を見つめていた。その頬もはじめはひどく蒼白だったのが、今度はすっかり赤くなっている。やがて夫人は、まるで娘のようにはしゃいで笑い出した。夫人はさきほどの自分自身がおかしくなったし、また自分がどんなに幸福だか計りしれないという気持だった。まあ、この子が家庭教師なの? ろくななりもしてない、薄汚い坊さんがやってきて、子供たちを叱ったり、鞭でぶったりするものと思っていたのに!
やがて夫人がきいた。
「ほんとですの、あなた、ラテン語をご存じですの?」
この「あなた」という言葉はジュリヤンには、はなはだ意外だったので、ちょっと考えこんでから、おずおずと答えた。
「はい、奥さま」
レーナル夫人はすっかりうれしくなって、ついジュリヤンにいってしまった。
「あんまり子供たちを叱らないでしょうね? かわいそうですもの」
「わたくしが、叱るんですって? どうしてです?」と、ジュリヤンは驚いてきいた。
レーナル夫人はしばらく黙っていたが、感情の高まっていく口調で、またつけ加えてきいた。
「あの、あなた、子供たちにやさしくしてくださるでしょう? お約束してくださいますわね?」
二度まで本気で、こんなりっぱな身なりの婦人が、自分を「あなた」と呼んでくれたのだ。これはジュリヤンのまったく予期しないことだった。若者らしい空想はいろいろのことを思い描いてきたものの、自分がりっぱな軍服を着るようになるまでは、だれひとりとして身分の高い婦人が自分に口をきいてくれることはあるまいと思っていた。レーナル夫人のほうは、ジュリヤンの美しい色艶や、黒い大きい目や、かわいらしい髪にすっかりだまされてしまっていた。その髪は、頭を冷やそうと思って、さきほど広場の噴水の水盤につけたので、ふだんより縮れていた。レーナル夫人としては、このにくらしい家庭教師が、こわい顔して、子供たちに当りちらすのではないかとひどく心配していたのに、小娘のようにおずおずしているので、うれしくて仕方がなかった。レーナル夫人のようなおとなしい心の持主にとっては、これまでの自分の不安と、今目にしているものとが相反しているだけで、これは大事件だった。やっと驚きから立ち直り、こうして、玄関口で、ほとんどワイシャツ姿の青年に、こんな間近で応対しているのに、ふと気がついた。
「はいりましょう」と、夫人はきわり悪そうにいった。
レーナル夫人はまじりけのない楽しさを、これほど深く味わったことが一度もなかった。やりきれないくらい心配したあげくに、これほど快いものを目にしたことはなかった。大事に育ててきた、かわいい子供たちも、これで、薄汚ない膨れ面の司祭さんの手にかかることはあるまい。玄関にはいると、夫人はうしろからおずおずついてきたジュリヤンのほうを振り返った。このりっぱな家の様子にびっくりしているジュリヤンの姿は、レーナル夫人には、なおさらかわいらしく見えた。自分の目が信じられなかった。ことに、家庭教師は黒い服を着ているはずなのにという気がした。
「あの、ほんとですの、あなた、ラテン語がおできになるの?」と、夫人はまた立ちどまってきいた。そうに違いないと思うと、うれしくて仕方がないだけに、もし間違っていたらという心配も大きかったのだ。
夫人の言葉はジュリヤンの自尊心を傷つけた。さきほどからひたっていた楽しい気分は消えてしまった。
「はい、奥さま」と、ジュリヤンはことさら冷たい態度に出ようとしながらいった。「司祭さんと同じくらいラテン語ができます。ぼくのほうがよくできると、おっしゃることさえあるのです」
レーナル夫人はジュリヤンのひどく意地悪そうな顔つきに気がついた。ジュリヤンは二歩ばかり手前のところで、立ちどまっている。そこで、そばへ寄って、小声できいた。
「あの、はじめのうちは、子供たちを鞭でぶったりなさらないでしょうね? 勉強ができなくても」
こんな美しい婦人が、こんなにやさしく、ほとんど哀願するような口調でいうのだ。ジュリヤンはラテン語学者という体面など、たちまち忘れてしまった。レーナル夫人が間近に顔を寄せていたので、女の夏着の香りが鼻をついた。卑しい百姓にしてみれば、考えられないことだった。ジュリヤンは顔を真っ赤にして、溜息をつきながら、消えいりそうな声でいった。
「ご心配には及びません、奥さま、なにもかもおっしゃるとおりにいたしますから」
子供に関する不安がすっかり消え去って、はじめて、レーナル夫人はジュリヤンの顔がきわだって美しいのに打たれた。女にしたいような顔だちも、もじもじしている様子も、自分自身がひどく内気な女なので、すこしもおかしくはなかった。一般に美男といわれるには、男らしさが必要なのだが、そんな様子をしていたら、かえって夫人をこわがらせたにちがいない。
「おいくつですの? あなた」
「もうじき十九です」
それをきくと、レーナル夫人は安心しきって、
「うちの長男は十一ですの。お友達といってもいいくらいですわ。よくいいきかせてやってくださいね。一度主人があの子をぶとうとしたことがありますの。そしたら、一週間も病気をしましたわ、ほんのちょっとぶたれただけですのに」
ジュリヤンは考えた。《おれとはてんで違う。つい昨日も、おれは親爺にぶたれた。こういう金持連中はしあわせだなあ!》
レーナル夫人は早くも、この家庭教師の気持の、どんなわずかな反応も見のがざないほどになっていた。この浮かぬ顔つきを気おくれと勘違いして、はげますように、
「お名前はなんとおっしゃるの? あなた」と、いかにもやさしい調子できいた。ジュリヤンはその声の魅力に惹かれはしたものの、そうされるわけがわからなかった。
「ジュリヤン・ソレルと申します。生れてはじめて、よそのお宅へ伺ったものですから、こわいのです。かばっていただきたいし、はじめのうちには、いろいろの点で、大目に見ていただきたいのです。ぼくは学校に行ったことがありません。ひどく貧乏でしたから。話し相手といえば、レジヨン・ドヌールをおっていた身寄りの軍医正と、司祭のシェランさんだけでした。司祭さんはぼくのことをほめてくださるはずです。兄たちからいつもぶたれてきました。兄たちがぼくの悪口をいっても、ほんとになさらないでください。なにか落度があっても、大目に見てください。悪意があってのことではないのですから」
ジュリヤンはしゃべりまくっているうちに、落着きを取り戻して、レーナル夫人をつくづくと眺めた。完全な美しさというものは、生れつきそなわっていて、とりわけ当人がそれを意識しない場合には、こういう効果を生むものなのだ。ジュリヤンは女の美しさについてはなかなかの目んききなのだが、このときなら、夫人がせいぜい二十だと断言したにちがいない。ふと、夫人の手にキスしようという不敵な考えを起した。やがて自分の考えが空おそろしくなった。かと思うと、今度はこう思った。《おれは製材小屋からむりやりに連れてこられたばかりの卑しい職人だもの、この別嬪め、おそらくおれを軽蔑しているだろう。とすれば、その軽蔑の念をへらしてやる行為あないか。自分の役にたつ行為が実行できないようじゃ、おれは卑怯者になる》ここ半年以来、日曜ごとに娘たちから美少年だといわれてきたので、多少その言葉に勇気を得たのかもしれない。ジュリヤンがこうして心で理屈をこねている一方、レーナル夫人のほうは、はじめ子供たちにどういうふうな態度で臨んだらよいかなどと、二言三言注意した。ジュリヤンはむりに自分の気持を抑えようとして、また真っ青になった。そこでこわばった調子で、
「奥さま、けっしてお子さまがたをぶったりいたしません。神にかけてお誓いします」
そういいながら、思いきってレーナル夫人の手を取り、唇に近づけた。夫人はこのしぐさに驚いた。考えてみると、けしからぬ話だ。ひどく暑かったので、夫人はあらわな腕にショールをひっかけているだけだった。ジュリヤンがその手を唇に近づけたので、腕は丸出しになってしまった。しばらくして、夫人は自分自身を叱った。もっと早く腹をたてるべきだったと思ったのだ。
意外だが、この主人公とヒロインの初めての出会いを描いたこのシークエンスが、『赤と黒』の中でもっとも登場人物間の相互リアクションを丁寧に描いた箇所となっている。これ以降はどんどん文体の完成度が低くなっていく。
一行空き前のパートでは、二人が出会うときどのようなやり取りをするかを準備する、感情準備が入念に行われている。ジュリヤンの方は初めて立ち入る貴族の家庭のことを想っておじけづいている。レーナル夫人の方は野蛮で粗野な家庭教師がずうずうしく自分の家に踏み込んで来ると想って心を悩ましている。そういう状況があっての、一行空き以降の二人の出会いと相互のリアクションの生成となる。
レーナル夫人のリアクションは、まずジュリヤンに対して「子供っぽい」「かわいい目」「百姓の子供」というイメージを抱くところから始まっている。これはジュリヤンが自分のイメージとして抱かせたがっている、勇敢で誇り高く貴族にも決して物怖じしない男らしい男、というイメージからはかけ離れていることに注意しよう。そもそものイメージにおいて相互にズレがあるから、リアクションにおいてもすれ違いが生じるという丁寧な設計になっている。その後、ジュリヤンが家庭教師だと知って以後のレーナル夫人の驚きや、幸福感や、「まるで娘のようにはしゃいで笑い出した」という感情的リアクションも、相手を子供っぽい寄る辺なげな若い百姓としてイメージしているからこそ生まれて来るものだ。「レーナル夫人のほうは、ジュリヤンの美しい色艶や、黒い大きな目や、かわいらしい髪にすっかりだまされてしまっていた。その髪は、頭を冷やそうと思って、さきほど広場の噴水の水盤につけたので、ふだんより縮れていた。レーナル夫人としては、このにくらしい家庭教師が、こわい顔をして、子供に当たりちらすのではないかとひどく心配していたのに、小娘のようにおずおずしているので、うれしくて仕方がなかった。」
対してジュリヤンはレーナル夫人を、いかにもあでやかで美しい、しかも自分とは桁違いに身分の違う高貴な女性としてイメージする。これは自分の美しさにも身分にも無頓着なレーナル夫人の本性からしたらまったく的外れなイメージだが、ジュリヤンの驚きや、恐縮や、自尊心の噴出はすべてそうしたレーナル夫人のイメージに対するリアクションとして出て来る。
そして二人の間でこうしたイメージレベルでのすれ違いがあるからこそ、ジュリヤンが金持ち連中と自分の身分の違いを想って浮かない顔をしているのを、レーナル夫人は世慣れない若者の気おくれと受け取ってやさしい調子で話し掛けるのだし、ジュリヤンからしてみればなんでそんな身分の高い婦人が自分に親切に口をきいてくれるのかまったく分からない、という仕儀になるのだ。
以上は全般的な分析だが、このようにお互いが相手にどのようなイメージを抱いているかをしっかり具体化した上で、会話の中で少しずつ相互リアクションを出していって展開に変化をつけていっている、というのがこの息の長いシークエンスでアクチュアルに起こっていることである。最初は自分の杞憂が晴れて楽しくなり、自分の言葉に対してびっくりしたり、おずおずしたりするジュリヤンを見てさらに嬉しさ楽しさが高まっていくというレーナル夫人の感情の流れがあり、ジュリヤンはそれに対して驚くばかりという流れがある。それがふと、自分の幸福感が少し信じられなくなって、念を押すように「あなた、ラテン語がおできになるの?」と訊ねたところで風向きが変わって、ジュリヤンは自尊心を傷つけられて意地悪い態度になる。だが、それに対するリアクションでレーナル夫人がさらに哀願するようなやさしい口調で話し掛けると、たちまち(それへのリアクションとして)ジュリヤンの高慢さも氷解してしまい、彼は顔を真っ赤にして消え入りそうな声で答える。本当に細密に、感情の相互リアクションが構築されている。基本的に科白もリアクションの結果として出て来ているし、場面構築の鍵となっているのはやはり二人の感情の態勢がそのつどどうなっているのかということだ。最初の科白「なにかご用、坊ちゃん?」だってイメージに対するリアクションとして言われるのだし、それに対する「家庭教師として参りました、奥さま」という弱々しい返答も、レーナル夫人について抱いたイメージからニュアンスが生まれて来ているのだ。
(余談だが、細かい技術として、「レーナル夫人はまた同じことをきいた。」といった記述によって部分的に会話が省略されていることにも注意しよう。スタンダールはドストエフスキーみたいにすべての会話を書出したりはしない。さらには「ジュリヤンはしゃべりまくっているうちに、落着きを取り戻して、レーナル夫人をつくづく眺めた。……(ジュリヤンがこうしてこころで理屈をけんている一方、レーナル夫人のほうは、はじめ子供たちにどういうふうな態度で臨んだらよいかなどと、二言三言注意した。)」から始まる段落では、表面上進んでいくジュリヤンのお喋りを書かずに、そのときジュリアンが感じ考えたことを「図」として前景化して描いている。やはり言葉のやりとりを第一のものと考えるというスタイルでは、スタンダールはない。)
しかももっとも驚くべきことは、スタンダールは一つの段落の中で二人の登場人物の相互リアクションを一気に描き切るような文体を駆使しているということだろうか。例えば「レーナル夫人はびっくりしてしまった。くっつきすぎるほどの距離だったので、二人はお互いに見つめ合うことになった。ジュリヤンはこんなりっぱななりをしたひとを、ついぞ見たことはなく、とりわけ、こんな輝くばかりの肌色をした女性からやさしく話しかけられたことはなかった。レーナル夫人はこの若い百姓の頬に残っている大粒の涙を見つめていた。その頬もはじめはひどく蒼白だったのが、今度はすっかり赤くなっている。やがて夫人は、まるで娘のようにはしゃいで笑い出した。夫人はさきほどの自分自身がおかしくなったし、また自分がどんなに幸福だか計りしれないという気持だった。……」──の段落では、レーナル夫人→ジュリヤン→レーナル夫人、と焦点化がめまぐるしく移っている。
唯一の問題点。あまりにも感情の相互リアクションを具体的に描き込んでいるがゆえに、登場人物の行動にほとんど謎がなくなって、ジュリヤンにせよレーナル夫人にせよどこかしら突き抜けたところを感じさせない穏当な人物に収まってしまっている。なんというか、感情の神秘を感じさせるところがない。そこが多分スタンダールの物足りなさということになるだろう。別にエキセントリックな登場人物を設定すりゃいいってことじゃなくて(相互リアクションを無視してそんなことをやってもデリカシーを欠くだけ)、スタンダールは感情の相互リアクションの可能性をまだまだ極限まで追求し切っていなかったと考える。
●『赤と黒』上巻105-108頁
第一部第十二章
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あくる朝の五時、レーナル夫人がまだ顔を出さないうちに、早くもジュリヤンはその夫から三日の暇をもらっていたが、意外にももう一度夫人に会いたくなった。あの美しい手を思いだしたのだ。庭に出たが、なかなかレーナル夫人は姿をあらわさなかった。だが、ジュリヤンが恋をしていたのなら、二階のかすかに開かれた鎧戸の陰の、ガラス窓に顔をあてている夫人に気がついたはずである。彼女はじっと見ていた。あれほど決心していたのに、とうとう、庭へ出ることにした。ふだんの蒼白い顔にひどく赤味がさしている。ほんとうにうぶなこの女性が、のぼぜているのは明らかだ。いつもなら明朗そのもので、世の俗事を超越しているかに見える表情が、この天女のような顔に、限りない魅力をそえているのだが、自制と怒りの気持のために、それがすっかり変っていた。
ジュリヤンはうれしそうに迎えた。急いでひっかけてきたショールの下から、あの美しい腕がすけて見える。ジュリヤンは見とれた。その色つやは昨夜の懊悩でどんな刺激にも感じやすくなっている際なので、朝のすがすがしい空気が、ますますこれに輝きをそえているかのようだった。この地味で人の心をうつ美しさは、下層階級には見受けられない、深い思いをたたえている。ジュリヤンはこれまでついぞ感じたことのなかった自分の魂の一面を知る思いがした。むさぼるようなまなざしをこの美しさに注ぎながら、我を忘れて見とれているうちに、ジュリヤンは愛想よく迎えてくれるだろうと期待したことなど、まったく念頭になくなってしまった。だが、それだけに、相手がつとめて氷のような冷たさを示そうとしているのを知って驚いた。その冷たさのうちには、あまりつけあがるなという態度さえ、うかがえるような気がした。
喜びの微笑は口もとから消えた。自分が社会においてどんな地位を占めているか、とくに貴族でしかも巨万の富を相続した女の目にどう映っているかを思い出した。たちまち、彼の顔には傲慢と、自分に対する怒りしか見られなくなった。わざわざ一時間以上も出発を遅らしたのに、こんな屈辱的な目にあわされるのかと思うと、口惜しくてならなかった。
《他人に腹をたてるなんて、ばかにきまってる。石が落ちるのは重いからだ。おれはいつまでたっても子供なのか? いったい、金をもらうからこそ、やつらに魂を売り渡すなんて、とんでもない習慣を、おれはいつから身につけたんだ? やつらからも、おれ自身からも、尊敬されたいと思うなら、貧乏だからこそ、やつらの金ともつきあうが、おれの心はやつらの傲慢なんざ寄せつけもしないんだ、住んでる世界がまるっきり違う、やつらのくだらぬ軽蔑や好意などで左右されやしないんだ、というところを見せてやらなければいかん》
こうした気持が若い家庭教師の心に次から次へとわき起ってくるうちに、変りやすいその表情が、自尊心を傷つけられていきりたつ様子をおびてきた。レーナル夫人はそれを見て、すっかりあわてた。操の固い冷たさで接するつもりだったのに、相手を気にする顔つきになり、しかも相手の急な変化にすっかり驚かされて、おろおろするところを見せてしまった。身体の調子とか、天気について、毎朝取りかわす空々しい挨拶は、お互いに種が切れてしまった。ジュリヤンは、恋心ですこしも判断力を乱されているわけではないので、彼女との仲など問題にしていないということを、レーナル夫人に思いしらせる手段を、たちまち思いついた。これから出かけようとする小旅行のことなど一言も口に出さず、挨拶をすると出ていった。
レーナル夫人が、その前の夜はあれほどやさしみのこもっていたまなざしに、気味悪いほどの傲慢さを読みとって、打ちのめされた思いで、彼が立ち去る姿を見送っていると、長男が庭の奥から走り寄り、キスしながらいった。
「今日はぼくたち、お休みだよ。ジュリヤン先生は旅行にいらっしゃるんだって」
これを聞くと、レーナル夫人は身の凍る思いがした。操を立てたから、こんなみじめなことになったのだが、気がくいけただけに、なおさらみじめだった。
この新しい事件が彼女の頭をすっかりとりこにした。おそろしい一夜を過したために、賢明な決心をしておきながら、今はそんなことどころではなかった。問題はもはやあの慕わしい恋人に抵抗することなどではなく、これを永遠に失うかもしれないということなのだ。
引用部で科白のやりとりは描写されない。一切が相互のリアクション、相手を見て、相手に自分がどう見られているかをレセプションして、それに対するリアクションで態度が変化して、それを相手が見てまた相手の態度が変わって……ということの応酬だけで場面が展開していく。
文体は複層的になっていて、「ふだんの蒼白い顔にひどく赤味がさしている」「ジュリヤンはうれしそうに迎えた」「つとめて氷のような冷たさを示そうとしている」「喜びの微笑は口もとから消えた」「変りやすいその表情が、自尊心を傷つけられていきりたつ様子をおびてきた」「相手を気にする顔つきになり、しかも相手の急な変化にすっかり驚かされて、おろおろするところを見せてしまった」「その前の夜はあれほどやさしみのこもっていたまなざしに、気味悪いほどの傲慢さ」──というふうに、相互リアクションを誘発する外的な兆候を描写するレイヤーと、「だが、それだけに相手が……を示そうとしているのを知って驚いた」「こんな屈辱的な目にあわされるのかと思うと、口惜しくてならなかった」「レーナル夫人はそれを見て、すっかりあわてた」「これを聞くと、レーナル夫人は身の凍る思いがした」──という内的なリアクションを描写するレイヤーとが組み合わさって、一つの文体をなしている。これだと、どの人物に焦点化しているかと問うのも、外的焦点化か内的焦点化を問うのもあまり意味がない。
●『赤と黒』上巻116-117頁
第一部第十三章
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あまり身のまわりをかまわなすぎると、いつもレーナル氏から叱られている親友が、網目の靴下に、パリから届いた小粋な小さい靴をはいたのを見て、デルヴィル夫人は驚いた。三日このかた、レーナル夫人の気晴らしといえば、いま流行の服地で夏服を裁って、大急ぎでエリザに仕立てさせることだった。ジュリヤンが帰ってからしばらくして、やっと仕上がると、レーナル夫人はさっそくこれを身につけた。デルヴィル夫人はもう疑う余地がないと思った。《このひと、恋をしてるのだわ、かわいそうに!》親友の病気のおかしな模様がいちいち思いあたるのだった。
レーナル夫人がジュリヤンに話しかけるのを見ていると、真っ赤な顔が蒼ざめていく。若い家庭教師の目をじっと見つめる夫人の目には、不安の色がはっきり浮んでいる。ジュリヤンが遺文の考えを打ち明け、出ていくのか、このまま残るのか、はっきりさせるだろうと思って、レーナル夫人はそれを今か今かと待ちかねている。ジュリヤンはそのことについて全然ふれようともしない。そんなことは考えてもいないのだ。悩みぬいたすえに、レーナル夫人は、とうとう、思いきって、声をふるわせながらきいた。その声音には、胸のうちがありありとうかがわれた。
「あなたは生徒たちをすてて、ほかへいらっしゃいますの?」
ジュリヤンはレーナル夫人のおずおずした声とまなざしに驚いた。《この女はおれに恋してるな。だが、どうせ一時の弱気なんだ、自尊心が許すはずはない。おれが出ていく心配がなくなりゃ、たちまちまた増長するにきまってる》相手と自分では立場が違うという考えが、ジュリヤンの頭を、稲妻のようにかすめた。彼はためらいがちに答えた。
「坊ちゃんがたはほんとにかわいらしいし、育ちもいいのに、お別れするのは、たいへんつらいのですが、おそらくやむをえないことと思います。だれでも自分に対する義務がありますから」
育ちのいいという言葉(これはジュリヤンがつい近ごろ覚えた貴族階級の用語のひとつなのだ)を口にしながら、彼は深い反感にかられた。
《この女から見れば、おれなどは育ちがよくないわけなんだ》
レーナル夫人はジュリヤンの言葉に耳を傾けながら、その才知の美貌に感心し、出ていくかもしれないと暗にほのめかされて、胸をえぐられる思いがした。ジュリヤンの留守に、ヴェリエールからヴェルジーへ晩餐に招かれてやってきた連中も、夫が運よく堀り出したこの神童のことを、われさきにとほめそやしたのだった。子供たちの勉強の進み具合が多少でもわかったからではない。聖書をほかならぬラテン語で暗誦できるということが、ヴェリエールの連中を、おそらく百年後の語り草になるかもしれないほど、感心させたのだ。
相互リアクションを丁寧に描いたシークエンス。互いにある感情の態勢、しかも相手に向かってゆく(「……して欲しい」)感情の態勢があって、それが外に表われる(「若い家庭教師の目をじっと見つめる夫人の目には、不安の色がはっきり浮んでいる」「その声音には、胸のうちがありありとうかがわれた」)と、相手にリアクションを引き起こす(「ジュリヤンはレーナル夫人のおずおずした声とまなざしに驚いた」「レーナル夫人は……出ていくかもしれないと暗にほのめかされて、胸をえぐられる思いがした」)。あるいは、リアクションを引き起こすものは自分自身に湧き上がってきた想いの場合もある(「相手と自分では立場が違うという考えが、ジュリヤンの頭を、稲妻のようにかすめた」)。
こういうのは互いに過敏なほどに繊細な人間同士でないと成り立たない。レーナル氏とレーナル夫人との間でこんな相互リアクションを描けるはずもない。《俺は恋愛のうちにほんとうの意味の愛があるかどうかというようなことは知らない、だが少なくともほんとうの意味の人と人との間の交渉はある。惚れた同士の認識が、傍人の窺い知れない様々な可能性をもっているということは、彼らが夢みている証拠とはならない。世間との交通を遮断したこの極めて複雑な国で、俺達はむしろ覚めきっている、傍人には酔っていると見えるほど覚めきっているものだ。この時くらい人は他人を間近かで仔細に眺める時はない。あらゆる秩序は消える、従って無用な思案は消える、現実的な歓びや苦痛や退屈がこれに取って代る。一切の抽象は許されない、従って明瞭な言葉なぞの棲息する余地はない、この時くらい人間の言葉がいよいよ曖昧になっていよいよ生き生きとして来る時はない、心から心に直ちに通じて道草を食わない時はない。惟うに人が成熟する唯一の場所なのだ。》(小林秀雄)
ただ、ここで生じている心理の推移自体は凡庸。ジュリヤンのなかで自尊心が争っているだけだから。
●『赤と黒』上巻122-124頁
第一部第十四章
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ジュリヤンにとっては幸いなことだが、こんなつまらぬ二次的な事件のことでも、その本心は威勢のいい言葉とはつりあっていなかった。レーナル夫人があんまりきれいな服を着ているので、こわかった。この服はパリの前衛のように思えた。自尊心の手前、なにごとでもなりゆきにまかせることができず、その時の気分でことを運ぶことができなかった。フーケの打明け話と、ごくわずかながら聖書で得た恋愛に関する知識をもとにして、彼は、詳細きわまる作戦を立てた。遺文ではそうではないと思いながらも、ひどく不安なので、その計画を書きとめた。
あくる朝、客間で、ほんのちょっとふたりきりになったとき、レーナル夫人がきいた。
「ジュリヤンのほかに別のお名前はありませんの?」
はなはだくすぐったい質問だが、ジュリヤンはどう答えていいかわからない。こういう場面は計画に予定されてなかった。作戦を立てるなどというばかなことをしなければ、ジュリヤンの鋭い才知は大いに役だったところなのだし、奇襲を受ければ、かえって、ますます機敏の才を発揮したはずなのである。
彼は不粋だった。しかも、みずからその不粋を大げさに考えた。レーナル夫人はそんなことにこだわらなかった。愛すべき純真さのせいだと思った。それに、あれほど才能がありながら、この青年になにが欠けているかといえば、まさに純真な態度だと、夫人は思っていた。
デルヴィル夫人はときどきいうのだった。
「あなたの若先生にはとても気が許せませんわ。いつもなにか考えていて、計算したうえでことをするような気がするわ。腹黒い人よ」
ジュリヤンはレーナル夫人に答えられなかったのがいまいましくて、ひどく屈辱感を覚えた。《おれともあろうものが、こんな失敗をして、その償いをしないですませるか!》みんなが別の部屋に移るときを狙って、レーナル夫人にキスするのが自分の義務だと思った。
ジュリヤンにとっても相手にとっても、これほど唐突な、これほど不愉快な、またこれほど不用意なことはない。ふたりはあやうく見つかるところだった。レーナル夫人は気でも違ったのかと思った。おびえたにはちいがいないが、むしろ腹がたった。このばかなふるまいはヴァルノ氏を思い出させた。
《ふたりきりでいたら、どうなることだろう?》貞操感がまた頭をもちあげた。恋心が薄らいだからである。
ここで重要なのは、「レーナル夫人があんまりきれいな服を着ているので、こわかった。」という感情の態勢が、その後のジュリヤンの無様なリアクションのすべてを説明しているということ。これは、われわれが客観的な対象によってではなく、相手に対して抱いているイメージ(きれいすぎてこわい)によってリアクションを左右されるということを示している。しかもそのイメージは、相手が自分をどう見ているかという不安の要素も含んで、よりいっそうリアクションを過敏なものとする。「彼は不粋だった。しかも、みずからその不粋を大げさに考えた。」
●『赤と黒』上巻133-134頁
第一部第十六章
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ジュリヤンは、わざと明るくなってから危険を犯して引き上げるのが、威厳のあるやりかただと思った。
経験を積んだ男に思われたいという愚かな考えから、自分のごく些細なふるまいにも注意を怠らなかったが、それが一度だけうまく役にたった。昼食でレーナル夫人とまた顔を合わせたときの、ジュリヤンのふるまいは慎重そのものだった。
夫人のほうは、耳のつけねまで赤くしないではジュリヤンに目を向けることができなかったが、また一方、ちょっとでも目をそらすと、生きた心地がしなかった。取り乱しているとは、自分でも気がつきながら、それを隠そうと思って、かえってますます取り乱してしまう。ジュリヤンは、たった一度、目を上げて夫人を見たきりだった。はじめは、レーナル夫人も相手の慎重さに感心した。やがて、一度視線を投げてくれたきりで、見返してくれないのを知って、ふと心配になった。《もう愛してはくれないのだろうか? あのひとに比べてあたしは年をとりすぎている。十も年上なんだもの》
食堂から庭に出るとき、彼女はジュリヤンの手を握った。この突拍子もない愛情のしるしに驚きながらも、相手を眺めるジュリヤンの目は愛欲で輝いていた。昼食のとき、ほんとうに美しいなと思いながら、目は伏せても、相手の魅力をひとつひとつ思い出していたからである。そのまなざしに、レーナル夫人はほっとした。不安がすっかり取り除かれたわけではないが、その不安が夫に対する自責の念をほとんど取り除いてくれた。
昼食のとき、当の主人はなにも気がつかなかったが、デルヴィル夫人のほうはそうでなかった。レーナル夫人が誘惑に負けそうだと思った。親友のこととなれば、思いきって積極的に出ざるをえない。そこで、レーナル夫人に向って、その日一日、その身に迫る危険をそれとなく、醜悪な姿で描いてみせた。
レーナル夫人は、ジュリヤンとふたりきりになるのが、待ち遠しくてならなかった。まだ自分を愛していてくれるのかどうか、きいてみたいのだ。いつもは気立てがやさしいのに、いくたびか親友に向って、つい、ああ、うるさいというそぶりをしかけた。
その夜、庭に出ると、デルヴィル夫人はうまく立ちまわって、レーナル夫人とジュリヤンのあいだに割りこんでしまった。せっかく、ジュリヤンの手を握り、それを唇にあてるうれしさを心楽しく思い描いていたのに、レーナル夫人は言葉ひとつかけられない。
ここでレーナル夫人はジュリヤンの一挙手一投足を徹底的に見澄まして、それに一喜一憂の細かなリアクションをしている。ここまで自分の感情のリアクションを相手に依存させるような関係性というは、普通はあまり生じない。生じてしかるべきなのかもしれないが。ただ、小説としてはこのように相手に過度に期待し依存する感情の態勢にある人物を出さないと、場面として興味深いものにならないということはある。「私のことなんか気にしてませんよね。私もあなたを放っておくのであなたも私を放っておいてください」みたいな態度の人物ばかり出してもしょうがないというところはある。濃やかなディティールだって生まれてこない。
というかこのような関係性を育むことに人間が人間として生きる意義もあるわけなので……たとえ一方向的ではあっても、このようなレーナル夫人を描こうとしたスタンダールのモティーフは、もっと広い普遍的な意味を持っている。
●『赤と黒』上巻139-142頁
第一部第十七章
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ある夕方、日の沈むころ、果樹園の奥に、人目を避けて、恋人のそばに腰をおろし、ジュリヤンは深いもの思いに耽っていた。《こんな甘いときがいつまでも続くだろうか?》なんらかの地位を得ることのむずかしさばかりが思いやられ、貧乏なために、少年の終りから青年時代のはじめまでを台なしにしてしまう、あの大きな不幸がやりきれなかった。
「実際、ナポレオンという男は、若いフランス人のために、神さまからつかわされた人間だったのです。だれがこの男のかわりになれましょう? わたしより金持ではあっても、またまともな教育を受けるくらいの金はなんとかなるとしても、二十歳になってだれかを買収して出世をするほどには金をもたない不幸な連中は、ナポレオンがいなければ、どうにも仕方がないのです。なんとしたところで」といって、深い溜息をつき、「この思い出はどうにもなりません、そのために、わたしたちは永遠に幸福にはなれないでしょう!」
彼はふと、レーナル夫人が眉をひそめるのに気がついた。冷たい軽蔑的な態度だった。そういう考えかたは召使にふさわしいと、彼女には思われた。自分は大金持だという気持で育っただけに、当然ジュリヤンもやはり金持だという気がした。ジュリヤンを愛する気持からいえば、自分の生命など問題ではないし、金のことなどは考えるまでもないことだった。
ジュリヤンにそうした気持がわかろうはずはない。相手が眉をひそめたので、わが身に立ちかえった。なんとか言葉を濁すくらいの頭は働くので、自分のそばの青草の上に腰をおろしている貴婦人には、これは親友の薪商人のところへ行ったとき耳にしたことで、自分はその受売りをしたまでのこと、不信心な連中の考えそうなことです、と言いわけした。
「じゃ、そんな人たちとつきあわないでね」と、レーナル夫人はいったものの、今まで愛情にあふれた表情だったのが、急に氷のような冷たい態度になっただけに、その冷たさがぬぐいきれなかった。
眉をひそめられて、というより、自分の迂闊さがいまいましくて、いい気になっていたジュリヤンは、まず夢を破られた。《この女は親切だし、気もやさしいし、おれにはぞっこん惚れているが、敵側の陣営で育った女だ。りっぱな教育は受けたが、いい地位につくだけの金をもたない、しっかりした連中の階級、敵のやつらはこれがとりわけこわいにちがいない。対等の武器をもって戦える機会がおれたちに与えられたら、やつら貴族どもはどうなることだろう! たとえば、このおれがヴェリエールの町長になったらどうだ。むろん考えはりっぱだし、誠意のある町長になるさ。もっとも、レーナルさんだって、考えてみればそうだな。おれなら助任司祭のやつや、ヴァルノ氏を容赦するものか。やつらの悪事を徹底的に弾劾してやるぞ! そうなりゃ、ヴェリエールじゅうに正義が行きわたるさ! 邪魔なのはやつらの才能じゃない。やつらのやり口など、いつでも確信はありゃしないんだ》
ジュリヤンの幸福は、この日、もうすこしのところで永続きするものになりえたのだが、彼には思いきってぶちまける勇気がなかった。戦闘を開始すること、それも即座に開始する勇気をもつべきだった。レーナル夫人はジュリヤンの言葉に驚いたのだった。というのも、こういう下層階級の青年はあまりにも教育がありすぎるので、またロベスピエールのような人間があらわれるかもしれないと、社交界の連中に聞かされていたからである。レーナル夫人の冷たい態度はかなり続いたし、ジュリヤンにはそれが意識的なものに思われた。だが、実際は、いやな話で気を悪くしたあとから、間接的に不愉快なことを相手にいったのではないかという不安におそわれたためなのだ。うるさい連中がいなくて気楽なときは、あれほど澄んだ純真な顔をしているのに、今はその顔もこうしたみじめな気持を反映していた。
ジュリヤンは気ままに夢想などしていられなくなった。冷静になると、恋心も薄れ、レーナル夫人と会うのに、その部屋まで出かけていくのは、迂闊なふるまいだと思った。彼女に来てもらったほうがいい。家のなかをうろうろするところを、召使に見つけられても、彼女ならどんなことをしようと、いくらでも言いわけがたつはずである。
極めて稀有なシークエンス。これは二人の人間がお互いをよく見て過敏にリアクションするのでないかぎり、絶対に成り立ち得ないやりとりだ。レーナル夫人がちょっと眉をひそめただけのことが、これほどに豊富な感情のリアクションをジュリヤンの側にもたらす。しかもジュリヤンはレーナル夫人が何故眉をひそめたのか、正確に理解したわけではないのだ。しかし彼女が眉をひそめたことに多大な意味を見出して、そこにリアクションせざるを得ない。そしてここでメインになっているのは科白のやりとりではなくて、あくまで感情の相互リアクションである。だからこそ「じゃ、そんな人たちとつきあわないでね」という科白の内容よりも、それを言うレーナル夫人の態度──「冷たさがぬぐいきれない」──の方がレーナル夫人自身にとってもジュリヤンにとっても重要な意味を持ってしまうのである。
やっぱり面白いのは、感情の相互リアクションは誤解に基づいても全然誘発されるということだろう。たとえばレーナル夫人の冷たい態度は、途中から「間接的に不愉快なことを相手にいったのではないかという不安」に変わっているのだが、ジュリヤンはそのことに気づかずに(一応彼女の「みじめな気持を反映」している表情が何かを物語っているはずなのだが)、恋心を薄れさせてしまう。相手を注視しすぎていると却ってこんなことも起ってしまうということだろうか。
《「相手の見ているものを見ろ」というダメ出しを自分でしてみて、いや、結構これは多くのことが詰まっているぞ、と。そうそう、芝居をしている時に「相手を見なさい」なんてダメ出しをこれまで沢山してきたけど、今ひとつ言葉が足りてなかったんだ。/相手の姿を、その映像を、光線として目に入れてみても、演技をする時の「相手を見て」ということにはまだ足りない。自分の顔、セリフ、声、そんなものばかりを気にしながら形ばかり「相手を見ている」という状態じゃ足りないんだ。/「相手が何を見ているのか?」「自分を見ているとしたら、どのように見ているのか?」「相手は今、何を感じているのか?」……ということを、見て欲しい。それが僕が俳優に対して「相手を見ろ」と指示する時に意味していることだ。/「相手の見ているものを見る」という態度は、演技にちょっとした情報量の増加をもたらすのではなくて、決定的な質の変化をもたらす。要するに、無限の循環が生み出されるんじゃないか、と思う。私を見ているあなた、を見ている私、を見ているあなた、を見ている私、を……という具合に。/そういう相互作用が無ければいわゆる「噛み合っている」関係なんて生じないし、逆にまた、「食い違っている」関係も生まれないだろう。相互作用がもたらす無限の掛け違いが、人を決定的にすれ違わせていくのだろうから。》(広田淳一)
●『赤と黒』上巻91-93頁
第九章
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ジュリヤンは首をふりながらつぶやいた。
《王位簒奪者をあれほど目の敵にしていると公言しておきながら、その男のところに、ナポレオンの肖像が隠してあることがわかってみろ! レーナル氏にでも見つけられようものなら! なにしろこちこちの急進王党派で、おまけに今日はひどく機嫌が悪いときてるんだからな! それに不用意きわまる話だが、肖像画の裏の白いボール紙には、おれの手で二、三行書きこんであるんだ! それに、その文句といえば、その度はずれな崇拝熱をまぎれもなくあらわしてるんだ。そればかりか、讃美の言葉にゃ、いちいち日付がつけてある! 一昨日のもあるじゃないか》
《おれの評判もなにもがたおちだ、一瞬にしてあとかたもなくなってしまうんだ!》ジュリヤン箱が燃えるのを眺めながらつぶやいた。《ところが、その評判はおれの全財産だし、それだけで暮しているんだ。……しかも、それがなんという情けない暮しだ!》
それから一時間たつと、疲労と自分自身を憐む気持から、感傷的になっていた。レーナル夫人に出会うと、その手を取ってキスした。こんなに真心をこめてキスしたことは一度もなかった。彼女はうれしさに顔を赤らめたが、ほとんど同時に、嫉妬の怒りを覚えて、ジュリヤンをつきのけた。ジュリヤンはさきほど自尊心を傷つけられたところなので、この瞬間、愚かにもそれが見ぬけなかった。レーナル夫人をやっぱり金持の女だなと思っただけで、さげすむようにその手をはなして、立ち去った。庭に出て、もの思いに沈みながら散歩していたが、やがて苦い薄笑いが唇に浮んだ。
《おれはこうして、まるで自分の時間が勝手に使える人間みたいに、悠々と散歩している! 子供たちの面倒もみないで! これじゃ、レーナルさんにどなられるのを待っているようなもんだし、どなられるのがあたりまえだ》彼は子供部屋に急いで行った。
とくに、かわいがっている末っ子が人なつっこく寄ってきた。それが胸をえぐるような苦悩をいくらか鎮めてくれた。
《この子はまだおれを軽蔑していない》と、ジュリヤンは考えた。だが、やがてこうして苦悩が鎮まるのは、またしても弱気を起したせいだとみずから苦々しく思った。《この子供たちがおれをかわいがるのは、昨日買ったばかりの猟犬をかわいがるのと同じなんだ》
感情のリアクションというのではないが、ジュリヤンの感情のアップダウンを綺麗なラインで発展させている。
●『赤と黒』上巻262-265頁
第二十五章
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ジュリヤンはやっとの思いで目を上げ、胸をどきどきさせながらふるえ声で、神学校長のピラール神父にお会いしたいといった。黒服の男は一言も口をきかないで、ついてこいという合図をした。ふたりは、木の手すりのついた広い階段を、三階まで上っていった。階段はそり返っていて、壁と反対側のほうへすっかりかしいでいるし、いまにもこわれそうだった。小さな扉の上に、墓標の大きな白木の十字架を黒く塗ったのが、はりつけてある。扉は開けにくかったが、それを開けると、門番は、天井の低い、薄暗い部屋に案内した。漆喰を塗った壁には、時代を経て黒ずんだ、大きな絵が二つ飾ってある。ジュリヤンはそこにひとり取り残された。めいるような気持で、心臓ばかりがはげしく鼓動した。思いきって泣けたら、せいせいしたにちがいない。死のような沈黙が、この家全体を支配していた。
十五分ばかり待たされ、それがまるで一日のように思われたが、やがて例の陰気な顔をした門番が、部屋の向う側の入口の閾のところにまた姿を見せ、口をきこうともしないで、こっちへ来いという合図をした。前の部屋よりもっと大きな部屋に通された。ろくろく光のはいらない部屋だった。壁はやはり白く塗ってあるが、家具はなかった。ただ入口近くの片隅に、白木の寝台と、二脚の藁椅子と、クッションのないもみ板づくりの小さな肘掛椅子が一脚置いてあるのが、通るときに見られた。部屋の向う側の隅には、黄色くなった小さなガラス窓があり、汚れたままの花瓶が二つ三つ置いてある。そのそばの机の前に、くたびれた法衣を着た男のすわっているのが目にはいった。腹をたてているような顔つきをして、四角な紙片の山を一枚ずつ手に取って、二、三なにか書きこんでは、机の上に並べている。ジュリヤンがはいってきたのに、気がつかなかったのだ。ジュリヤンを部屋のまんなかに残して、門番は戸を閉めて出ていった。ジュリヤンはそこにつったったままでいた。
こうして十分間が過ぎた。ぼろ服の男は相変らず書き続けている。感動と恐怖のあまり、ジュリヤンはいまにも倒れそうな気がした。哲学者なら、おそらく勘違いをして、これは、美しいものを愛するようにつくられた心に、醜いものが与える強烈な印象のせいである、といったにちがいない。
書き続けていた男が顔を上げた。ジュリヤンは、すこしたって、はじめてそれに気がついた。しかも、相手の顔を見てからも、まるでそのおそろしい視線に射すくめられてしまったかのように、やっぱり立ちつくしていた。目はくらんだが、相手の長い顔だけは、やっと見分けられた。死人のような青白い額を除くと、顔じゅうが赤いしみだらけだった。その赤い◯と白い額のあいだに、小さな黒い両眼が光っている。どんな勇敢な人間でもふるえ上がらずにはいられないような目だ。広い額は撫でつけたような、まっ黒な濃い髪で隈取られている。
「こっちへ来たらどうだ?」と、その男がしまいに、いらいらしていった。
ジュリヤンはよろよろして進み出たが、とうとう、これまでにないほど真っ青な顔をして、いまにも倒れそうになり、四角な紙片がいっぱいのっている、白木の小卓の三歩ほど手前で立ちどまった。
「もっとそばに寄らないか」と、その男がいった。
ジュリヤンは、なにかものにつかまろうとするかのように、手を伸ばしてさらに進み出た。
「名前は?」
「ジュリヤン・ソレルです」
「ずいぶん遅かったな」相手はまたもおそろしい目をして、ジュリヤンを見すえながらいった。
ジュリヤンはこのまなざしにたえられなかった。ものにつかまろうとするかのように、手を伸ばしたが、床の上にばったり倒れてしまった。
男が呼鈴を鳴らした。ジュリヤンは視力と身体を動かす力を失っただけで、近づいて来る足音は聞きとることができた。
助け起されて、白木の小さな肘掛椅子にすわらせられた。おそろしい男が、門番に向っていっているのが聞えた。
「癲癇の発作で倒れたのにちがいない。こんなことになるだろうと思っていた」
ジュリヤンが目を開けられるようになったとき、赤ら顔の男は相変らず書き続けていた。門番は姿を消していた。《勇気を出さなくてはいかん。とりわけ、おれの感じていることを隠しておかなければいけない》はげしい吐き気を覚えた。《おれの身になにか事でも起ろうものなら、どう思われるかわかったものでない》やっと、男は書く手を休めて、ジュリヤンを横目で見ながら、
「わたしに答えられるかね?」
「はい」と、ジュリヤンは消えいりそうな声で答えた。
「そうか、それはよかった」
これはジュリヤンが相手に恐ろしいイメージを投影してそれに対して過剰にリアクションしているかのように読めるが……もっと言えば、ここでジュリヤンは相手が自分をどう見るか(「相手の顔を見てからも、まるでそのおそろしい視線に射すくめられてしまったかのように、やっぱり立ちつくしていた」「相手はまたもおそろしい目をして、ジュリヤンを見すえながらいった。/ジュリヤンはこのまなざしにたえられなかった」)をレセプションしているがゆえにこうした震え上がるようなリアクションが出て来ていると見做せる。相手が自分をどう見ているかという意識がジュリヤンの感情を動かす。そういうレセプション-リアクションの動態の中で神父の容貌が描写されていることにも注目しよう。つまりレセプション-リアクションの動態を構想することの方が主だということ。
●
------------------------------------- タイプ【0-2】スタンダール:リアクションと肖像(感情準備) ▲
●『赤と黒』上巻21-24頁
第一部第三章
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「横取りしないともかぎりませんわ」
「じゃ、わたしの考えに賛成なんだね」と、レーナル氏は、いいところに気がついてくれたと思って、感謝の微笑を浮べながらいった。「さて、これで話はきまった」
「まあ! あなた、もうおきめになりましたの!」
「わたしはてきぱきやる性分だよ。司祭にも思いしらせてやったところだが。はっきりいうと、わたしたちのまわりは自由主義者どもばかりだよ。例の更紗商人どもがわたしをねたんでいることは確かだ。中には成金になったものも二、三いる。そこで、レーナルさまのお子さまが、おかかえの家庭教師に連れられて、散歩にお出かけになる姿を、見せつけてやりたいんだ。そうすりゃ、みんなが一目おくよ。お祖父さんからよく聞かされたもんだが、お祖父さんには、若いころ、家庭教師がついていたそうだ。百エキュはかかろうが、体面を保つためには、これもやむをえぬ出費だと思わねばなるまい」
こう急に話がきまると、レーナル夫人は考えこんでしまった。夫人は背が高く、すらりとしていて、この山間でいわれているように、この地方きっての美人だった。飾りけがなく、身ごなしが若々しかった。パリ人から見れば、汚れをしらない、溌溂とした、この素朴な美しさは、甘い肉感をそそるところがあるとさえいえたかもしれない。そんな点で男心を惹きつけるのだと知ったら、レーナル夫人はさぞはずかしく思ったろう。おしゃれをするとか、気取るとかいったことは、一度も考えたことがない。金持の貧民収容所長ヴァルノ氏は、夫人にいい寄ってはねつけられたという噂で、それから夫人はとりわけ貞淑だと取沙汰されるようになった。それというのも、このヴァルノ氏が背の高い、体格のがっちりした、黒くて太い頬髭をはやした青年で、ずうずうしくてそうぞうしい男で、田舎では美男子とよばれる下劣な男だったからなのだ。
レーナル夫人は見かけはむら気の多い性格なのだが、ひどく内気なので、いつもせかせかしていて大声をたてるヴァルノ氏をとりわけ不愉快に思っていた。ヴェリエールで楽しみといわれていることがきらいなので、あの女は家柄を鼻にかけているのだという評判をたてられた。彼女にしてみれば、そんな気はないのだが、町の連中がだんだん寄りつかなくなるのを、ありがたいことだと思っていた。正直なところ、彼女は町のご婦人連中からはばかな女だと思われている。夫に対して全然かけひきをしない女で、パリやブザンソン製の美しい帽子を買ってもらう、またとない機会を、みすみすとり逃がしているからなのだ。自分の家の見事な庭をひとりで散歩させてもらえさえすれば、夫人としてはなんの不服もなかった。
素朴な心の持主で、夫を批判したり、やりきれないと思ったりするほどの気持になったことは一度もない。自分で意識したことはないが、夫婦の間柄で自分たちほど円満な夫婦はあるまいと思っていた。とりわけ、子供たちの将来について話してくれるときのレーナル氏が好きだった。長男は軍人に、次男は裁判官に、三男は聖職者にするというのだ。要するに、夫人はレーナル氏を、自分の知っているどの男よりも、はるかにいいひとだと思っていた。
主婦の立場から見たこの判断はもっともだった。ヴェリエール町長は、伯父からうけついだ六つばかりの洒落を口にするので、才人だといわれ、とくに紳士だという評判だった。伯父のレーナル大尉というのは、大革命の前には、オルレアン公の歩兵連隊に勤務して、パリに出るたびに、公のサロンに出入りを許されていた。そこで、モンテッソン夫人や、有名なジャンリス夫人や、パレ=ロワイヤルの改築者デュクレ氏に出会った。レーナル氏が逸話を話すと、ふた言目にはこういう人物が出てくるのだった。しかし、こういう思い出話は骨がおれるので、だんだん面倒くさくなってきた。そこで、近ごろでは、よほどの場合でないと、オルレアン家に関する逸話は口にしない。それに、金の話のとき以外は、たいへん愛想がいいので、ヴェリエールでいちばん貴族的な人物だと目されていたのもむりはない。
感情の相互リアクションを主としたシークエンスでは、言葉のやりとりはそれほど重視されないから、設定にまつわる情報を読者に提供する機会はほとんどない。そのために事前にディエゲーシスで工夫することが必要だが、その工夫の仕方もスタンダールにおいては独特だ。あくまで感情の相互リアクションを主としたシークエンスに寄与することを目的として、登場人物の内面的なイメージや感情の態勢を準備するために記述が費やされている。そしてその記述は、その人物が周囲に対してこれまでどのようなリアクションをとってきたかという事実の積み重ねによっている。たとえばレーナル夫人の性格は、それそのものとして存在しているというよりは、「いつもせかせかしていて大声をたてるヴァルノ氏をとりわけ不愉快に思って」いたり、「町の連中がだんだん寄りつかなくなるのを、ありがたいことだと思って」いたりする、そういう周囲への反応として描かれている。こうした反応の積み重ねとして彼女の中で一つの内的なイメージ、感情の態勢が結晶化していき、つづく現前的なシークエンスでの過敏な反応を可能とするのである。
●『赤と黒』上巻27-28頁
第一部第四章
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ジュリヤンはひどく殴られて気が遠くなり、血だらけにはなったが、鋸のそばの、いつもの場所へ行った。目に涙を浮べている。身体の痛みというよりも、自分の大切な本を失くしたためだった。
「おりてこい、畜生、話があるんだ」
相変らず機械の音がやかましくて、ジュリヤンにはこの命令が聞えなかった。父親は先におりていたので、機械の上に上り直すのを億劫がって、くるみを叩き落す長い竿を取りにいき、それでジュリヤンの肩をひっぱたいた。ジュリヤンがおりてくるが早いか、ソレル親爺はいきなりこづいて、家のほうへ追いたてた。《おれをどうしようっていうんだろう》とジュリヤンは思った。行きながら、自分の本が落ちた川をうらめしそうに見やった。それは本のなかでもいちばん大切にしていた『セント=ヘレナ日記』だった。
ジュリヤンは頬を赤くし、目を伏せていた。一見、弱々しい、十八、九の、小柄の青年。整ってはいないが、品のある顔だちで、鷲鼻。大きな黒い目は、平静なときは思慮と情熱を示すが、今ははげしい憎悪の色に燃えている。生えぎわのひどく低い、濃い栗色の髪が、額を狭く見せ、怒ったときは顔を意地悪く見せる。顔だちは各人各様だとはいえ、これほどきわだった特徴のある顔はまたとあるまい。すらりとした格好のよい身体は、力というより身軽さを示すものだ。ごく小さいときから、ひどく沈んだ様子をし、人一倍色白なのを見て、父親は、育つまい、かりに育ったとしても家に厄介をかけるだろうと思っていた。ジュリヤンは家じゅうのものからばかにされていたので、兄たちや父親を憎んでいた。日曜に広場で遊ぶときは、殴られどおしだった。
その美しい顔に好意を寄せる娘たちが、いくらか出てきたとはいえ、それからまだ一年もたっていない。だれからも弱虫といってばかにされていたジュリヤンの大好きなのは、いつだったかプラタナスのことで町長に文句をいった例の老軍医正だった。
この軍医正は、ときどきソレル親爺に息子の日当を払ったうえで、ジュリヤンにラテン語と歴史を教えてやった。歴史といっても、自分の知っている程度のこと、つまり一七九六年のイタリア遠征の話だった。死ぬときには、レジヨン・ドヌール勲章と恩給の未払いの分と三、四十冊の本をジュリヤンに残していった。その本のなかで、いちばん貴重なものが、町長さんの顔で流れを曲げられた例の公共用水のなかにふっとばされたのだ。
スタンダールがどのようにディエゲーシスで人物像を立てていくかというと、当人がどのように周囲にリアクションしていったかということの記述の積み重ねによっている。外貌を描く場合も、「今ははげしい憎悪の色に燃えている」と書かれてあるとおり、周囲に対し烈しいリアクションを示している一瞬をつかまえて描写されるのだ。それがまだどのように周囲の反応を引き起こし(「だれからも弱虫といってばかにされていた……」)、それがまたどのように当人にフィードバックされるかも含めて、ジュリヤンの人物描写のディエゲーシスとなっている。
人物像は、周囲から孤立してたった一人でいる状態では十全には把握できないということだろう。周囲とかかわるつもりのない人間には人格もない。
●『赤と黒』上巻56-59頁
第一部第七章
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「とんでもない考え違いだよ! 冗談じゃない! こっちとしてはあれにはなに一つ不満はなし、あれもよくやってくれるじゃないか、なんで贈り物をしようというんだ? そりゃ、怠けでもしたときには、鼻薬をかがせる必要もあろうが」
レーナル夫人はこういう考え方をはずかしいと思った。ジュリヤンが来る前だったら、そんなことは気にもとめなかったろう。この若い神父さんが、ごく質素ではあるが、ひどく身ぎれいにしているのを見るたびに、《かわいそうに、この子はどうしてやっていけるのかしら》と思わないではいられなかった。
ジュリヤンがおよそものをもっていないのに気を悪くするどころか、夫人は次第にこれに同情するようになった。
レーナル夫人は、会いたてのころ二週間ぐらいはばかではないかと思われるような田舎女のひとりなのだ。人生の経験は全然ないし、ひとと口をきく気などない。生れつきデリケートで、気位が高く、だれもがもっている幸福を求める本能から、たまたま下品な連中どもとつきあわなければならない環境におかれてはいるものの、多くの場合、そういう連中には目もくれもしない。
多少とも教育があったら、その飾りけのなさと頭の働きのよさが、人目についたかもしれない。だが、跡取り娘だというので、聖心会の熱心な信奉者で、反イエズス会派のフランス人を憎んでいる修道女の手で育てられた。レーナル夫人はなかなか利口だったから、修道院でならったことなど、どれもこれも不合理だと思って、すぐに忘れてしまった。だが、そのかわりのものをつめこまなかったので、結局なにも覚えないでしまった。巨万の富の跡取り娘だというので、早くからちやほやされ、また生れつき信仰心が篤かったから、まったく内面的な暮しかたをするようになってしまった。外面はこの上もなく謙譲で、自己を殺している。ヴェリエールの亭主どもが女房連によく引合いに出すし、それがレーナル氏の自慢でもあったが、ほんとをいえば、夫人の気持は平生およそ高慢きわまる気質にもとづいているのだ。気位の点でよく引かれる王女でさえ、いかにもやさしそうで控え目に見えるこの女性よりは、まわりの貴族たちのふるまいに注意をはらっているといえよう。ところが、この女性は夫がなにをいおうとなにをしようと、まるで関心がなかった。ジュリヤンが来るまでは、ほんとうに気を使ったことといえば、子供のことだけなのだ。ブザンソンの聖心修道院にいたころ、神を崇めた以外にけっしてものを愛したことがないだけに、感情のすべてを、子供のちょっとした病気とか苦しみとか、その子供らしい喜びとかに打ちこんできた。
だれにも口外したことはないが、子供のひとりが急に熱を出すと、まるでその子が死にでもしたかのような気持になる。結婚したてのころは、胸にしまっておけなくて、こうした種類の悩みを夫に打ち明けたりしたが、夫はこれに対していつもげびた高笑いをするか、肩をすぼめるかして、そのあとでは女のあさはかさについて、くだらない格言めいたことをいうのだった。こういう種類の冗談を、とりわけ子供の病気のことで聞かされると、レーナル夫人は胸をえぐられる思いがした。少女時代を送ったイエズス会派の修道院では、ちやほやされ、甘ったるいお世辞に慣らされてきた。ところが、今度はこんな目にあわされたのだ。痛手が彼女を作りあげた。気位が高いだけに、こうした種類の悩みは、親友のデルヴィル夫人にさえ、打ち明けなかった。男というものはどれもこれも、自分の夫や、ヴァルノさんや、郡長のシャルコ・ド・モージロンさんみたいなものだと思いこんだ。下品なこと、金銭や位階や勲章と関係のないことがらに対しては徹底的に無感覚なこと、自分に都合の悪い理屈を盲目的に憎むこと、こうしたことが、長靴をはいたり帽子をかぶったりするのと同様、男性にはあたりまえのことのように思えた。
レーナル夫人は長年、こうした金銭ずくの人間のあいだで暮してきたが、相変らずなじめなかった。
百姓の少年ジュリヤンが成功したのはこのためなのだ。レーナル夫人はこの高潔で気位の高い心に共鳴し、もの珍しさに惹きいれられて、甘美な喜びを覚えた。まもなく、ジュリヤンが人一倍もの知らずなのも、もの知らずなだけにかわいいと思って、大目に見るようになり、粗野な態度も気にさわらなくなったし、その点は直させることもできた。ジュリヤンがごくありふれた話をしても、たとえば、犬が往来を横切ろうとして、走ってくる百姓の荷馬車にひかれたといった話のときでも、傾聴に値すると思った。このいたましい光景の話を聞くと、レーナル氏は例の調子でからからと笑い出したが、夫人はそのときジュリヤンが黒い三日月型の美しい眉をひそめるのを見てとった。心の寛さ、気高さ、思いやりは、この若い神父のうちにしか存在しないと、だんだん思うようになった。彼女はジュリヤンに対してはじめて限りない共感を覚えたばかりか、こういう美徳がりっぱな人間の心に呼び起す讃美の気持さえいだいた。
レーナル夫人の肖像を、周囲の出来事を彼女がどうレセプションしたかを具体的に記述していくことで示す。こうしたレセプションの具体的なディティールなしに、「デリケート」「気位が高い」という属性を記しても無意味だということ。とりわけ夫のレーナル氏に男の厚顔さを見せつけられて「レーナル夫人は胸をえぐられる思いがした」というレセプションが生じたという記述に、レーナル夫人の感じやすさの表現は極まっている。
●『赤と黒』上巻224-225頁
第一部第二十二章
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ヴァルノ氏は、パリから百里も離れたこの地方では、いわゆる洒落者だった。ずうずうしくて無作法な人間のたぐいなのである。一八一五年以来、景気のよい暮しぶりで、この長所がますます強調された。彼はレーナル氏の指揮のもとに、いわばヴェリエールを支配していた。レーナル氏よりはるかに活動家で、なに事にも赤面しないし、なに事にも首をつっこむ。始終飛びまわっているか、手紙を書いているか、しゃべっている。恥をかいても忘れてしまうし、自分の意見などまるでない。こういった調子で、教会側の勢力家から見れば、町長に匹敵する信望をかちえてしまった。ヴァルノ氏は、土地の乾物屋に向っては「きみたちのうちでいちばんばかなやつをふたりよこせ」といい、法律家仲間に向っては「いちばん無学なやつをふたり教えてくれ」といい、開業医仲間に対しては「いちばん無能な藪医者をふたり指名してくれ」という。こうして、それぞれの職業からいちばんずうずうしいのをかり集めたところで、「さあ、一緒に町を治めようじゃないか」という。ざっとこんな調子なのである。
こういう連中のやり口を、レーナル氏は苦々しく思っている。だが、無作法なヴァルノ氏はどんなことをされても平気なのだ。青二才のマスロン神父に公衆の面前でやっつけられたときでさえ、それを気にもかけなかった。
しかし、こうして羽振りのよい暮しはしているが、ヴァルノ氏は、みんなから痛いところをつかれるのも、やむをえないと思っているので、ときどき小出しに無礼な態度を見せて、自己の信用を確かめる必要があった。アベール氏の来訪で不安の種を植えつけられて以来、彼はますます活躍しはじめ、ブザンソンには三度も出かけた。便のあるたびごとに、いくつも手紙を書いた。そればかりか、日暮れに訊ねてくる得体の知れない男に、手紙を託すこともあった。老司祭のシェランを免職にしたのは、まずかったかもしれない。なにしろ、こんな復讐的なふるまいをしたために、多くの信心深い貴婦人たちから、とんでもない悪党だと思われてしまったのだ。もっとも、このつとめぶりが買われて、フリレール副司教からひどく見こまれ、いろいろ奇妙なことを頼まれるようになった。彼の政略がこの段階まできていたとき、つい匿名の手紙を書く気になってしまったのである。そのうえ、細君がどうしてもジュリヤンを雇いたいといい出し、対抗意識から、どうしてもジュリヤンでなければ困るという始末、ヴァルノ氏は弱りきってしまった。
ヴァルノ氏の人物像をスタンダールがどのように描いているか? 彼の行動が周囲に引き起こすリアクションと、それに対して彼がまたどのようにリアクションしたかという、社会的な相互リアクションの模様を生き生きと描いてヴァルノ氏のキャラクターを立たせている。きわめて動的、相互的であって、たった一人だけの肖像画のように単独的な人物としては描いていない。スタンダールの世界観としてはその方が正統的なのだろう。
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------------------------------------- タイプ【0-3】スタンダール:シンプルなディエゲーシス(イメージの凝縮) ▲
●『赤と黒』上巻16-20頁
第一部第三章
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ヴェリエールの司祭は八十歳の高齢だが、山の爽やかな空気のおかげで、いたって健康、気力もしっかりしている。ご承知おき願いたいが、この司祭は、牢獄でも施療病院でも、場合によっては貧民収容所でも、好きなときにこれらを見舞う権利をもっていた。アペール氏はパリからこの司祭あてに紹介状をもらってきたのだが、周到にも、朝の正六時に、この風変りな小都会にやってくるなり、さっそく司祭の門を叩いた。
貴族院議員で、この地方随一の大地主ラ・モール侯爵の紹介状を読んで、シェラン司祭は考えこんでしまった。
《わしは年寄りだし、この土地では好かれてもいる。このわしに向って、まさかたてもつくまい》と、司祭はやがて小声でつぶやいた。急にパリから来た紳士のほうへ向き直って、年に似合わず、目を輝かせ、多少の危険を冒しても、りっぱな行いなら喜んでやってのけようという、けなげな決意をほの見せながら、
「一緒にまいりましょう。だが、牢番の前や、とくに貧民収容所の監督者の前では、ごらんになることについて、いっさい批評はなさらないように」アペール氏は相手が正義の士だと見ぬいた。このりっぱな司祭のあとについて、監獄や病院や収容所を見まわり、しきりに質問を試みたが、どんなに不可解な返答を聞かされても、非難めいた言葉はすこしも口に出さなかった。
この視察は数時間続いた。司祭はアペール氏を昼食に誘ったが、アペール氏は手紙を書かなければなりませんからといって辞退した。じつはこれ以上このけなげな相棒に迷惑をかけたくなかったのだ。三時ごろ、二人は貧民収容所の視察を終えて、牢獄へ引き返した。見ると、入口のところに牢番がつっ立っている。背が六尺もある、がにまたの大男で、その下品な顔つきが恐れのためにふた目と見られぬほど醜くなっている。司祭の姿を目にすると、いきなりいった。
「もしもし、司祭さま、お連れのおかたはアペールさまではございませんか」
「それがどうした」
「それがその、昨日からきついご命令をいただいておりますもので。知事殿からのお使いで警官がまいりまして、どうやら夜通し馬を飛ばしてまいったものと思われますが、アペールさまを監獄にお通ししてはならぬとのことで……」
「ノワルー君、わたしのお連れした旅のおかたはたしかにアペールさんだ。だが、ご存じと思うが、このわたしは昼でも夜でも好きなときに、わたしの連れてきたいと思う人を連れてきて、監獄にはいってもよいのだ」
「そのとおりで、司祭さま」棒がこわさに、いやいやながらいうことをきくブルドッグのように、うなだれて、牢番は力のない声でいった。「でも、司祭さま、わたくしには妻子がございます。このことがおかみに知れたら、やめさせられてしまいます。このお役目だけが生命の糧なのでございます」
「わたしにしても、お役目を離れるのはありがたくはないのだ」と、人のいい司祭は、どうやら情にほだされながら答えた。
「どういたしまして、司祭さまとわたくしでは、まるっきり違います!」と、牢番ははげしくいい返した。「だれもが存じておりますが、司祭さまは年収八百フランの、ごりっぱな土地をおもちではございませんか……」
ざっと、こういったことが、いろいろの形で歪められ、誇張されて伝えられ、二日このかた、田舎町ヴェリエールの住民の、憎悪をかきたてていたのだ。現に、レーナル氏とその妻のあいだに起ったつまらぬいさかいも、これが原因なのだ。その朝、レーナル氏は貧民収容所長ヴァルノ氏を連れて、司祭の家を訪れ、はげしく不満の意を表明したのだ。シェラン司祭には後楯がない。二人の言葉がどういう結果になるかはわかりすぎるほどわかっている。
「それでは、なんですな、八十歳のわたしは、この土地で免職になる司祭の三番目というわけですな。わたしはここに来て五十六年になる。町のものはほとんど、わたしの手で洗礼してあげたのだ。この町もわたしの来たときは、ほんの村にすぎなかった。毎日のように若い連中の結婚をとりもっているが、その祖父さんたちもわたしの手で結婚している。ヴェリエールはわたしの家庭みたいなものだが、あの旅のおかたを見たとき、考えたのだ。《パリから来たこの人はなるほど自由主義者かもしれぬし、自由主義者は多すぎるにはちがいないが、この町の貧乏人や囚人になにも悪いことをするわけでもあるまい》」
レーナル氏の非難、とりわけ貧民収容所長ヴァルノ氏の非難はいよいよつのるばかりなので、老司祭は、声をふるわせて、叫んだ。
「よろしい、やめさせてもらいましょう。だが、わたしはこの土地を離れませんぞ。ご承知のように、わたしは四十八年前に、年収八百フランの畑を相続している。わたしはこの収入で暮していきます。わたしは自分の職を利用して金をためるようなことはしなかった、いいかな、このわたしは。おそらく、それだからこそ、職を取り上げられても、それほどあわてはしないのだ」
スタンダールの文体というのは稀有なほどに軽快で、ほとんど模倣不可能なレベルにあるが、引用部はその最良の部分の一つ。これと同じ内容をドストエフスキーが書いたらどれほど頁数が必要になるか想ってみるがいい。
●『赤と黒』下巻275-279頁
第二部第二十四章
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ジュリヤンはやむなくストラスブールで、一週間を過さなければならないことになると、輝かしい武勲や、祖国に尽すことなどを考えて、気をまぎらわせようとした。そもそも彼は恋しているのだろうか? 自分でもまったくわからない。だが、やるせない胸のうちには、彼の幸福をも、想像力をも絶対的に支配するマチルドの姿があった。絶望におちいるまいとして、ひたすら気力をふるいたたせる以外に道がなかった。ラ・モール嬢になんらかの関係をもたないようなことを考えるなどというまねは、とうていできなかった。かつて、レーナル夫人に恋心をそそられたときは、野心なり、たわいもない虚栄心の満足で、気がまぎれた。ところが、マチルドにはすべてを吸いとられてしまった。未来を思うと、ことごとにマチルドの姿があらわれた。
その未来を、どんな角度から眺めようと、成功は望めなかった。ヴェリエールでは、あれほど思い上がった、高慢そのものの男だったのに、今はまた滑稽なほど卑下しきった気持なのである。
三日前なら、喜んでカスタネード神父を殺しもしたろう。だが、ストラスブールに来てからは、子供に喧嘩を吹っかけられても、相手のほうがもっともだと思ったにちがいない。これまでに出会った相手や、敵のことを思い返していると、いつも自分のほうが悪かったと思うようになっていた。
かつては、例の豊かな想像力を働かせて、未来に輝かしい成功の夢を描いたものだが、いまではその想像力がおそるべき敵となっていたからである。
旅先のまったく孤独な生活が、このやりきれぬ想像力のいきおいをいやがうえにもかきたてた。《友達があったら、どんなにありがたく思ったことだろう! だが、そもそもおれのために心を痛めてくれるものがいるだろうか? かりに、友達があったとしても、おれは名誉にかけて、あくまで沈黙を守るべきではなかろうか?》
彼はケールの郊外を、馬でひとり寂しく散歩した。それはライン河畔の小さな町で、ドゼーとグーヴィヨン・サン=シールによって、不朽の名を残している。ドイツの百姓が、これら名将軍の武勇で有名になった小川や、街道や、ライン河中の小島などを教えてくれた。ジュリヤンは左手で馬の手綱をとり、サン=シール元帥の『回想録』を飾るりっぱな地図を、右手で拡げてもっていた。陽気な叫び声がしたので、顔を上げた。
コラゾフ公爵だった。数ヵ月前、上流社会のばかげた作法について手ほどきしてくれた、あのロンドンで知り合った男である。コラゾフ公爵は、その前日ストラスブールに着き、ケールへは一時間前に来たばかりなのだし、一七九六年のケール包囲戦のことなどこれまでに一行も呼んだことがないくせに、相変らずの例の秘術ぶりを発揮して、なんでもかんでもジュリヤンに説明してかかった。さきほどのドイツの百姓は、あっけにとられて、公爵を見つめていた。なにしろ、フランス語がかなりわかるので、公爵がいかに途方もない、でたらめをいっているかくらいは、わかったのだ。ジュリヤンは、この百姓とはまったく違ったことを考えていた。目を見張ってこの美青年を眺めていたが、それはいきな乗馬姿に感心したからだった。
《しあわせな男だな! ズボンがじつによく似合っている! 髪の刈りかたの垢ぬけしていることといったら! ほんとに、おれもこんなだったら、おそらく、あの女もおれを三日ばかりかわいがっておきながら、そのあとでああまで憎みはしなかったろう》
公爵はケール包囲戦と称する話をし終ると「トラピストの修道士みたいな顔をしてますね」と、ジュリヤンにいった。「ロンドンでは重々しくするのが肝心だとはいいましたがね、あなたのは行き過ぎですよ。ふさぎこんだ顔をするのが上品だとはいえません。つまらなそうな顔をするんですよ。ふさぎこんでいれば、なにか不満がある、なにかうまくいかなかったということになる。
それでは自分が負けだということを見せるようなものです。その反対に、つまらなそうな顔をしてごらんなさい。そうすれば、あなたの気にいろうとして、うまくいかなかったもののほうが、負けだということになります。わかるでしょう、きみ、思い違いをすると、とんでもないことになるってことが」
ジュリヤンは、ぽかんと口を開いてふたりの話を聞いている百姓に、一エキュを投げてやった。
「それでいい、鮮やかなものだ、品のいい軽蔑ぶりですな!」といって、公爵は馬をいきなり走らせた。ジュリヤンはいよいよあっけにとられて感心しながら、そのあとを追った。
《まったくおれがこんなふうだったら、あの女もおれを見限って、クロワズノワごときに鞍替えしなかったのに!》理屈からいえば、公爵のばかばかしいやり口は気にさわるのだが、気にさわればさわるほど、そのやり口に感心できない自分が自嘲したくなり、そういうやり口のできない自分が、ますます情けなく思えた。これ以上の自己嫌悪はありえない。
公爵はジュリヤンがひどくのふさぎこんでいるのを見て、ストラスブールへ帰る途中で、「おやおや、きみ、有り金でもすってしまったんですか? それともかわいい女優かなんかに惚れたんですか?」
ロシア人はフランス人の風俗をまねするが、いつでも五十年のひらきがある。彼らはいまルイ十五世の時代にいるのだ。
恋愛問題をこんなふうに茶化されると、ジュリヤンの目には涙が浮んだ。《こんな親切な男に、どうして相談しないのだ?》と、ジュリヤンはふと思った。
「そうなんです。ストラスブールでひどく好きな女ができたのはいいんですが、ふられてしまったのです。かわいい女で、隣の町に住んでいます。三日間は向うもかわいがってくれたのですが。それっきりで、お払い箱なのです。この心変りがどうにもやりきれないのです」
ジュリヤンは公爵に、仮名を使って、マチルドのふるまいや性格の話をした。
「そこまでで結構です」とコラゾフがいった。「あなたの医者を信頼していただくために、わたしがその打明け話のさきを続けてみましょう。この若い夫人の夫は、莫大な財産をもっている。というよりも、むしろ、その夫人自身がこの土地きっての身分の高い貴族の出なんですな。当然なにかを鼻にかけているわけでしょう」
ジュリヤンはうなずいた。もはや口をきく元気もなかった。
「そうですか、それなら、ここに三種類の薬があります。かなり苦いが、さっそく服用してください。
第一に、毎日その夫人に会うこと。……なんという名前ですか?」
「デュポワ夫人です」
シンプルさと的確さとを兼ね備えた文体。「彼はケールの郊外を、馬でひとり寂しく散歩した。……」までのジュリヤンの真理を説明するディエゲーシスのテンポも凄いし、「ライン河畔の小さな町」についてドイツの百姓を介して一瞬で説明した後にコラゾフ公爵を登場させる切れ味も凄い。しかもコラゾフ公爵についてほんの数行で説明し、彼の外貌描写はまったくせずに「相変らずの例の秘術ぶり」という面白いキャラクター性のみを取り上げる。これは意識的な選択だ。スタンダール自身の言葉を引くと──《ウォルター・スコットの天才的技倆は中世を流行らせました。主人公のいる部屋の窓から見渡す景色の描写に二ページをさいたら、成功疑いなしというわけでした。さらにもう二ページ主人公の服装を描き、そのうえ二ページにわたって彼がすわっている肘掛椅子の形を述べる。スタンダール氏は、この中世趣味、十五世紀のゴチック趣味と服装にうんざりしたわけです。そこで、あえて一八三〇年に起った事件を物語り、ふたりの女主人公レーナル夫人とラ・モール嬢がどんな形の衣裳をつけていたかについては、読者に一言も語らなかったのです。》──コラゾフ公爵に関してはジュリヤンの目を通して「美声年」「乗馬姿」と描写されるだけだ。「ズボンがじつによく似合っている! 髪の刈りかたの垢ぬけしていることといったら!」
文体のシンプルさにさらに拍車を掛けているのが、現前的会話の省略だ。コラゾフ公爵のケール包囲戦についてのでたらめな説明はジュリヤンがそれを聞きながら考えることの叙述で相殺される。マチルドについてのジュリヤンの説明は「ジュリヤンは公爵に、仮名を使って、マチルドのふるまいや性格の話をした」の一行で済まされる。こうやって現前的会話については重要部分だけを地の上の図として浮び上がらせているという趣き。ようは膨大な情報を圧縮して記述しているわけで、会話による水増しの印象などまったくない。
また、ここでは語り手の視点が三人称多元になっていることも注目せよ。叙述のパースペクティフはジュリヤンからのものだけでなく、コラゾフ公爵視点、ドイツの百姓視点のものさえ存在している。ジュリヤンの内語が引用されながら、一人称的閉じることはない。たとえば「公爵はジュリヤンがひどくふさぎこんでいるのを見て、ストラスブールへ帰る途中で……」というのは一人称的な語り手の位置づけからは絶対に出てこない。さらに言えば、引用部から先に行った282頁には、「ジュリヤンは心から公爵に感心してしまった。公爵のようなおどけたまねができるなら、なにをすてても惜しくないという気持だった。ふたりのあいだの話はつきなかった。コラゾフはうれしくて仕方がなかった。フランス人で、こんなに長いあいだ、自分の話を聞いてくれたことはなかったからである。《これで、やっとおれも、先生格のフランス人にものを教えて、聞いてもらえるまでになった!》公爵は大いに気をよくして、そう思った。」──というふうにコラゾフの内語まで語り手が踏み込む箇所がある(しかもそれによってジュリヤンとコラゾフの意識がかなりすれ違っていることが分かる)。このように語り手がどの登場人物も公平に目配りしているという感覚は、むしろ「演劇」に近いのかもしれない。その瞬間喋っている人間が焦点化されるとはいえ、演劇の観客の立場からは舞台上のどの登場人物(の内面)も平等に重要だからだ。「演劇」との近似からスタンダールの小説における「語り手」を分析してみても面白い。
●『赤と黒』下巻374-376頁
第二部第三十六章
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ジュリヤンはそのまま動かなかった。もうなにも見えなかった。いくらか我にかえってみると、信者たちが教会から逃げだしていくところだった。司祭も祭壇から消えてしまっている。声をあげて逃げる数人の女のあとから、ジュリヤンはゆっくりと歩きだした。ひとりの女が、ひとより早く逃げようとして、ジュリヤンを乱暴に突きとばした。ジュリヤンは倒れた。群集がひっくり返していった椅子に足をとられたのである。起き上がろうとすると、頸筋をつかまれるのを感じた。制服を着たひとりの憲兵が逮捕しに来たのだった。反射的に、ジュリヤンは小形のピストルに手をやろうとした。その腕をふたり目の憲兵がつかんだ。
ジュリヤンは牢獄へ連れていかれた。一室にはいると、手錠をかけられて、たったひとり取り残された。扉は二重に鍵をかけられた。万事が非常に手早く行われたし、ジュリヤンはまるで覚えがなかった。
《さあ、これでなにもかも終りだ》我にかえると、声に出していった。《二週間たつと断頭台か。……それともそれまでに自殺するか……》
それ以上は考えられなかった。頭がひどくしめつけられているような感じだった。だれかにつかまれているのかと思って、見まわしてみたが、しばらくすると、深い眠りにおちこんでしまった。
レーナル夫人の傷は致命傷ではなかった。第一弾は帽子に穴をあけ、夫人が振り向いたとき、第二弾が発射されたのである。弾は肩に命中したが、ふしぎにも肩の骨をくだいただけで、はねかえって、ゴチック式の柱にあたり、大きな石のかけらをそぎとった。
長い時間をかけて、痛む傷の手当をすますと、きまじめな外科医は、レーナル夫人にいった。「奥さんの生命は、わたくしの生命と同様に、お受け合いいたします」それをきいて、夫人はひどく落胆してしまった。
ずっと前から、夫人はひたすら死を願っていたのである。現在の告解師に強制されて、ラ・モール氏に手紙を書いたために、たえまない不幸にさいなまれ続けてきたこの女性は、最後の力もなくしてしまっていた。不幸というのは、ジュリヤンがそばにいないことだった。夫人はそれを良心の呵責と呼んでいた。夫人の選んだ告解師は、ディジョンから来たばかりで、徳の高い、熱心な若い神父だったが、そのことをはっきり見ぬいていた。
《このまま死ねたら、自殺したわけではないから、すこしも罪にならない。喜んで死ぬとはいっても、神さまは許してくださるだろう》だが、こうつけ加える勇気はなかった。《ジュリヤンの手にかかって死ねたら、こんなしあわせなことはない》
外科医や、おしよせた大勢の見舞客が行ってしまうと、夫人はすぐ小間使のエリザを呼び、顔を真っ赤にしながら、いった。
「牢番は思いやりのない男なの。あたしのご機嫌をとるつもりで、あのひとにつらくあたるかもしれない。……そう思うと、とてもたまらないのよ。この小さな包みに何ルイかはいっているから、おまえが自分で来たというような顔をして、牢番に渡してくれない? ひどいことをしてはいけない、ご宗旨に背くからといってね。……それから、このお金をもらったことは、だれにも話さないようにってね……」
ジュリヤンが、ヴェリエールの牢番から人間味のあるあつかいを受けることができたのは、いま話したような事情によるのである。牢番は相変らずノワルー氏だった。アペール氏が来たとき、すっかりちぢみ上がったあの典型的な小役人である。
スタンダールの軽快なディエゲーシス。普通これだけシンプルだとスカスカな印象を与えるはずだが、そうはなっていない。イメージが凝縮されているからか。あふれるほどのイメージに裏打ちされていればこそのこのシンプルかつ読み応えのあるディエゲーシスか?
●『赤と黒』下巻304-305頁
第二部第二十七章
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このときになってやっと、ジュリヤンはフェルヴァック夫人の手紙のことを思い出した。本物の手紙は、例の神妙な顔をしたドン・ディエゴ・ブストスに返すはずだったが、すっかり忘れていたのである。その手紙を捜し出してみたが、それはまさに、例のロシアの青年貴族の手紙と同様で、意のわからぬものだった。あいまいさは徹底していた。なにもかもいいつくしているようでもあり、なにもいっていないようでもあった。ジュリヤンは考えた。《風琴みたいな文章だ。虚無だとか、死だとか、無限だとかいったことについて、およそ高遠な思想を述べていながら、ほんとのところは、もの笑いになることばかりを無性におそれている気持が出ているだけじゃないか》
ここに要約してかかげたようなひとりごとは、二週間も続けてくり返された。黙示録の注釈みたいなものを引き写しながら、眠りこんでしまう。あくる日、憂いに沈んだ顔をして、手紙を届ける。マチルドの姿が見られるかもしれないと思いながら、馬小屋へ馬を返しに行く。仕事をする。夜、フェルヴァック夫人がラ・モール邸へ来ないときは、オペラへ出かける。これがジュリヤンの生活の単調な事件だった。フェルヴァック夫人が侯爵夫人のところへ来るときは、まだしも興味があった。そのときは、元帥夫人の帽子のふちに隠れて、マチルドの目をかいま見ることができた。すると、彼の言葉がはずむ。鮮やかで感傷的な文句が、ますます派手な、ますます優美な色合いをおびてくるのだった。
自分のいっていることが、マチルドにはばかばかしく映るだろうということはわかっていたが、優美な言いまわしをして、マチルドの気をひこうと思ったのである。《おれが心にもないことをいえばいうほど、この女の気にいるにちがいない》そう思うと、あきれかえるほどずうずうしく出て、ときにはものごとのありのままの姿を誇張して話した。元帥夫人に低俗だと思われないようにするには、単純で筋道の通った考えなど、口に出さないことがとりわけ肝心だと、ジュリヤンはすぐさま気がついたのだ。こうして、彼は取りいる必要のあるふたりの貴婦人の目を見て、うまくいったか、つまらなそうにしているかを読み取り、それによって、大げさな話をそのまま続けてみたり、はしょったりした。
要するに、ジュリヤンの生活は、毎日なにもしないで過していたころほど、みじめではなかった。
ほとんど口述筆記的な軽快さがあるディエゲーシス。背後にたっぷりとイメージがあるからこそのスカスカにならずに済んでいるこの密度だろう。粘着質でないこのソリッドな文体はほとんどポップネスさえ感じさせる。
●『赤と黒』下巻446-449頁
第二部第四十四章
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そのうえ、次の日は、さらに不愉快な出来事にぶつからなければならなかった。だいぶ前から、ジュリヤンの父親が訪ねてくるといっていた。その日、ジュリヤンが目を覚ますより早く、この白髪の老材木商は地下牢にあらわれた。
ジュリヤンは力が抜けるような気がした。不愉快きわまる小言は覚悟していた。おまけに、そのつらい気持をいっそうやりきれなくさせたことがある。その朝、ジュリヤンは、父を愛していないことに、良心の痛みをはげしく感じたのである。
《もののはずみで、おれたちふたりは、この地上でお互いに顔をつき合わすはじめになったのだ》と、牢番の男が地下牢の中をすこし片づけているあいだに、ジュリヤンは考えた。《そして、お互いに、ありとあらゆる形で苦しめ合ってきた。おれたまさに死のうというときに、親父は最後のとどめをさしにやってきたのだ》
ふたりきりになるやいなや、老人は手きびしい小言をいいはじめた。
ジュリヤンは、涙をこらえることができなかった。《なんという情けない、弱虫なんだ!》と無性に腹をたててつぶやいた。《いたるところで、おれの勇気のないことを吹聴して歩くにちがいない。ヴァルノや、ヴェリエールでいばりくさっている愚劣な偽善者どもが、どんなに得意がることか! まったく、フランスでは、あいつらはたいしたもんだ。社会的な利益を遺文たちでひとりじめにしているのだからな。今までは、おれはすくなくともこういうことができた。──なるほど、やつらは金を稼ぐし、あらゆる名誉を一身に集めているにはちがいない。だが、おれは気高い心をもっているのだ、と。
だが、ここに、だれもが信用する証人がいるのだ。そして、おれが死ぬまぎわになって気がくいけたなどと、ヴェリエールじゅうに、大げさにふれまわるにちがいない! だれにでもわかりきったこの試煉にあって、おれは意気地がなかったということになるのだ》
ジュリヤンは今にもまいりかけた。どうやって父親を追い払ったらいいか、わからなかった。自分の気持を偽って、目先のよくきくこの老人をうまくまるめこむなどということは、このときのジュリヤンの力ではとうていできなかった。
頭の中で、ジュリヤンはあらゆる手だてを一わたり考えてみた。
「小金をためたんですがね!」ずばりといった。
この天才的な文句が、老人の相好を変え、ジュリヤンの立場を逆転させた。
「どう始末したもんでしょうか?」と、ジュリヤンはますます落ち着きはらって続けた。効果てきめんと見てとると、ジュリヤンはすっかりひけ目を忘れた。
老材木商は、この金を取り逃がすまいとして、必死の気持になっていた。どうやらジュリヤンがその一部を兄弟にやるつもりらしいと見た。老人は、長いあいだ、いきおいこんで、しゃべりまくった。ジュリヤンの気持に、からかおうという余裕が出た。
「よござんす! 遺言については神さまのお告げがあったんです。兄さんたちに千フランずつ、残りはお父さんにあげます」
「それは大いに結構だ、残りをもらうのはあたりまえだが、神さまが、おそれ多くも、おまえの心を動かしてくださった以上、おまえもりっぱなキリスト教徒として死にたいなら、負債は払わなければならんよ。おれがたてかえておいた、おまえの養育費や教育費のことがあるからな。忘れているらしいからいっておくが……」
《これが父親の愛情だというんだからな!》やっとひとりになったとき、ジュリヤンはやりきれない気持でくり返した。やがて牢番が来た。
「旦那、身寄りのお年寄りが見えたあとでは、いつもここのお客さんがたに上等のシャンパン酒をひとびんもって来てあげるんですが。少々お高いのですが、一本六フランなんで。気分がさばさばしますぜ」
「コップを三つとってきてくれ」とジュリヤンは子供のようにはしゃいでいった。「廊下をぶらついている囚人をふたり、ここへ呼んでくれ」
仲違いしている父親との面会という面倒くさい場面を、あっさりと数頁で描き切っている。とくに前半は全然言葉のやりとりを書かないで、ジュリヤン側の反応だけを書いて機敏に何が起ったかを伝えるというアクロバットな文体。描写もほとんどない。「牢番の男が地下牢の中をすこし片づけている……」という程度。この凝縮度は凄いな。
●『赤と黒』下巻12-13頁
第二部第一章
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こういう暗い政治の話はジュリヤンを驚かせ、官能的な思い出から立ち返らせた。
ジュリヤンは、はじめてパリを遠くから眺めても、ほとんど感動しなかった。自分の将来について、楽しい計画を立てようとしても、今の今までヴェリエールで過してきた二十四時間の思い出が、まざまざとよみがえってきて、それをかき乱した。愛するレーナル夫人の子供たちをけっして見すてまい、坊主どもがのさばりかえって、共和制をしいたり、貴族に迫害を加えるようなことになったら、万事を投げうってあの子供たちを守ろうと、ジュリヤンは心に誓うのだった。
ヴェリエールに着いた夜、レーナル夫人の寝室の窓に梯子を立てかけたとき、あの部屋に、ほかの男か、レーナル氏がいたとしたら、どういうことになったろう?
だが、一方、愛する女は本気になって自分を追いだそうとしたし、自分は暗闇で女のそばにすわって、つもる思いを打ち明けたのだ。あの最初の二時間はどんなにうれしかったかしれない! ジュリヤンのような心の持主は、こうした思い出で一生つきまとわれるのだ。密会のあとのほうのことは、早くも、十四ヵ月前の、なれそめのころのことと、区別がつかなくなりはじめていた。
ジュリヤンは深い夢想から我にかえった。馬車が止ったのだ。ジャン=ジャック・ルソー街の、宿場の中庭にはいったところだった。
「マルメゾンに行きたいんだ」と、ジュリヤンは寄ってきた辻馬車の男に向っていった。
「こんな時刻にですか、旦那、どうなさるおつもりで?」
パリに近付く馬車のなかでの主人公の想念を描いたディエゲーシスだが、不思議な感触がある。自由間接話法的な生き生きとしたジュリヤンの内語が地の文に流し込まれているかと思えば、「ジュリヤンのような心の持主は、こうした思い出で一生つきまとわれるのだ。」とサクッとジュリヤンを客観視するような記述も出てくる。必要なことだけを書き、それ以外を削ぎ落とそうとしたからこそのこのスタイルだろうか?
●『赤と黒』上巻81-83頁
第九章
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その翌日、レーナル夫人と顔を合わせたとき、ジュリヤンは異様な目つきをしていた。これから戦わなければならない敵を前にでもしたかのように、彼女をにらみつけた。前夜とはうって変ったこのまなざしは、レーナル夫人を狼狽させた。やさしくしたはずなのに、腹をたてている様子なのだ。彼女はジュリヤンから目をそらすことができなかった。
デルヴィル夫人がいるおかげで、ジュリヤンはあまりしゃべらないですみ、頭にあることを、それだけ深く考えてみることができた。その日一日、精神をきたえてくれる例の感銘深い本を読むことだけが彼の仕事だった。
子供たちの勉強をひどく早目に切り上げた。やがて、レーナル夫人の姿を目にして、名誉を守るべき立場にあることをはっきり自覚すると、今夜はどうあっても、握った手をひっこめさせないようにしなければならないと決心した。
陽が沈んでいき、問題の時刻が迫ってきた。ジュリヤンの心臓は異様に高鳴った。夜になった。今夜はまっくらになりそうだと知って、胸の重荷を取りのぞかれたように、ほっとした。大きな雲がむし暑い風を受けて乱れ飛び、嵐を呼ぶ空模様。ふたりの女は遅くまで散歩を続けた。その夜はふたりのふるまいが、ことごとにジュリヤンには妙な気がした。ふたりはこの天候を楽しんでいるのだ。デリケートな心をもつもののなかには、こういう天候になると、愛する喜びがますように思うものがいる。
やっと腰をおろした。レーナル夫人はジュリヤンの横に、デルヴィル夫人は親友のそばに。ジュリヤンはこれから決行しようとすることが気になって、なに一ついい出せなかった。会話ははずまない。
《決闘することにでもなったら、はじめはやっぱりこんなにふるえたり、情けない気持になるのだろうか?》と、ジュリヤンは考えた。なにしろ、自分のことでも他人のことでも、ひどく疑い深いので、自分の心境がわからないはずはない。
あまりの苦しさに、どんな危険でもこれよりはましだと思われた。なにか急に用事ができて、レーナル夫人がやむをえず庭を離れて、家に戻るような事態になってくれればいいと、いくたび思ったかしれない。自分の気持を抑えようとやきもきしているうちに、声音がふだんとはひどく変ってきた。まもなく、レーナル夫人の声音もふるえをおびてきたが、ジュリヤンはそれに気がつかなかった。義務が気をくれと交える必死の果合いはあまりにも苦しかったので、自分以外のものに目をくれる余裕がなかった。九時四十五分が屋敷の大時計で鳴りおえたが、まだなんらの行動にも出ていなかった。ジュリヤンは意気地なしの自分に愛想をつかしてつぶやいた。《十時が鳴りだすと同時に、やってのけよう。一日じゅう、今夜やろうときめていたじゃないか。でなけりゃ、部屋にひき返して、ピストルで頭をぶち抜くんだ》
ぎりぎりの期待と不安のひとときが過ぎる。その間、ジュリヤンは興奮のあまり我を忘れてしまった。いよいよ真上の大時計が十時を打ちはじめた。運命を決する鐘の音が、鳴るたびに、彼の胸に響きわたり、いわばつきさすような衝動を起した。
ついに、最後の鐘が十時を打ち終わろうとする前に、ジュリヤンはつと手を伸ばして、レーナル夫人の手を握った。夫人はすぐに手をひっこめた。彼は自分がなにをしているのかわからなくなって、またその手をとらえた。自分自身ひどく興奮してながら、彼は握った手が氷のように冷たいのに驚いた。ふるえる手に力をこめて、その手を握りしめた。相手はもう一度ふりほどこうとする気配を見せたが、とうとうその手は委ねられたままになった。
なんだこれは。情景法とも要約法ともつかないスピードで、綺麗なラインに沿って一連の出来事が描写されていく。シンプルはシンプルだが、ディエゲーシスとも現前的描写ともつかない。それでいて妙にディティールは豊富だ(「ふたりはこの天候を楽しんでいるのだ。デリケートな心をもつもののなかには、こういう天候になると、愛する喜びがますように思うものがいる」)。基本的に、色々な要素を省いている。しかしそれでいて、主軸は外さない。主軸というのは、登場人物の感情のリアクションだ。それを辿って行くことに一貫性があれば、あとは段落展開はどんなに速くてもいいということか。
●『赤と黒』上巻146-148頁
第十八章
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九月三日、夜の十時に、ひとりの警官が大通りを馬で駆け上ってきて、ヴェリエールの町じゅうの眠りを覚ました。***国王陛下が次の日曜においでになるという知らせをもたらしたのである。火曜日だった。県知事は警護隊の編成を許可した。つまり要求したのである。できるかぎり、はなやかにしなければならない。急使がヴェルジーに送られた。レーナル氏はその夜のうちに帰ってきた。町じゅうが騒いでいる。それぞれ抱負があった。ごくひまな連中は、国王がお着きになるところを見ようというので、バルコニーを借りたりしている。
だれが警護隊の指揮をとるか? レーナル氏は、ひっこめる家の問題をうまく処理できるかどうかは、モワロ氏が指揮をとるか否かにかかっていると、すぐさま見てとった。それで首席助役の椅子につく資格ができるかもしれない。モワロ氏の信心ぶりに文句のあろうはずはない。ほかのものとは比較にならないくらいだ。だが、これまで一度も馬に乗ったことがない。年は三十六だが、徹底した臆病者で、馬から落ちることも、もの笑いになるのもこわかったのである。
町長は、朝の五時というのに、モワロ氏を呼びつけた。
「いいかな、まともな連中は、こぞって、あなたを例の地位の候補者にしているのですから、もうあなたがなったものとみなして、ご意見をおききしたいのです。始末の悪いことに、この町は工業が盛んで、自由主義の党派が百万長者になり、権力を握ろうとしているから、どんなことでも政争の具にしかねない。国王のため、王政制度のため、いやなによりもまずわが神聖な宗教のためを考えてみるべきです。そこで、どうです、警護隊の指揮をまかせうるのはだれでしょうな?」
馬に乗るのは考えてもぞっとするが、モワロ氏は殉教者になる思いで、結局この名誉ある役目を承知した。「なんとか大過なくやってみましょう」と彼は町長にいった。七年前、さる親王のご通過のおりに着た制服の、手入れをさせる時間が、やっとあるかないかといったところだった。
七時に、レーナル夫人はジュリヤンと子供たちを連れて、ヴェルジーから帰ってきた。客間は自由主義者仲間の婦人たちでいっぱいだった。党派の合同を説き、自分らの夫の警護隊の一員に加えてくれるよう、町長に取り計らってくれと、夫人に頼みに来たのだ。なかには、自分の夫が選にもれたら、悲嘆のあまり破産してしまうだろうなどというのもいた。レーナル夫人は、すぐさまこの連中を追い返した。ひどく忙しそうだった。
文体の簡素さが内容の薄さを意味しないという、好例。凝縮しすぎだろ。
●『赤と黒』上巻220-222頁
第二十二章
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無数の新たな知合いのなかで、ジュリヤンはひとりだけ誠実な男を捜しあてたように思った。グロという幾何学者で、過激革命派と考えられていた。ジュリヤンは、自分自身にも嘘と思われることしか口にしないと、みずからに誓っているから、このグロ氏に対してもやはり警戒心をすてることができなかった。ヴェルジーからは、かさばった作文の小包がいくつも届いた。しばしば父親に会いに行くようにといってきたので、いやいやながらその義務を果した。要するに、かなり評判を回復しかけていたが、ある朝、両手で目をふさがれて、びっくりして目をさました。
レーナル夫人だった。町まで出かけてきたのだが、子供たちが、連れてきたお気にいりの兎にかまっているのを、そのまま残し、階段を駆け上がるようにして、子供たちより先に、ジュリヤンの部屋に上がってきたのだ。甘美な一瞬だったが、ごく短かった。子供たちが先生に見せようとして、兎を抱いてはいってきたときは、レーナル夫人は姿を消していた。ジュリヤンはみんなを愛想よく迎えた、兎さえも。家族に再会する思いだった。自分はこの子供たちを愛している。そう思うと、子供たちを相手にして、おしゃべりをするのが楽しかった。子供たちの声のやさしさにも、なんでもない動作が純真で上品なのにも驚いた。ヴェリエールの連中の、あらゆる卑しいふるまいや、不愉快な考えかたのまっただなかで、呼吸してきたジュリヤンは、そういうものから頭を洗い清めたいと思っていた。いつも失敗しはしまいかとおびえている。いつも贅沢と貧乏がとっくみあいをしている。午餐に呼ばれていけば、焼肉の話が、話し手の人柄を疑いたくなるような、きき手にしてみればむしずの走るような内輪話に落ちていくのだった。
「あなたがた貴族のひとたちが気位の高いのもむりはありません」と、ジュリヤンはレーナル夫人にいい、我慢して出かけていった宴会のことを、こと細かに話してきかせた。
「じゃ、あなたは人気者なのね!」そういって、ヴァルノ夫人がジュリヤンを迎えるたびに紅をつけなければいけないと思っているのを考えると、レーナル夫人は声をたてて笑った。「あのかた、きっとあなたの気をひこうという下心があるのよ」
朝食は楽しかった。子供たちが一緒にいるのは、一見邪魔に思えたが、事実はふたりの幸福をますものだった。子供たちのほうは、いじらしくも、ジュリヤンに会えた喜びをどうあらわしたらよいか、わからないといった様子だった。召使たちは、ヴァルノ家の子供たちを教育してくれるなら、二百フラン増額しようと申し込んだものがあったということを、早くも子供たちに話してしまっていたのだ。
朝食の最中に、大病をしたためにまだ血色のよくないスタニスラス=グザヴィエが、ふいに、自分の使っているナイフとフォークや、湯呑みにしているコップは、いくらするのかと、母親にきいた。
「どうしてそんなことをきくの?」
「これを売って、そのお金をジュリヤン先生にあげるの。先生がぼくたちの家にいつまでもいてくださるようにしたいの。そうすればばかをみることなんかないでしょう?」
ジュリヤンは涙を浮べて、子供を抱きしめた。母親もほんとうに泣き出していた。そのあいだに、ジュリヤンはスタニスラスを膝に抱きあげて、ばかをみるなんて言葉を使ってはいけませんと、いいきかせ、そういう意味で使うと下男たちの言葉づかいになるからといった。レーナル夫人が喜んでいる姿を見て、ジュリヤンは具体的な例をあげて、ばかをみるというのはどういうことかを説明した。それが子供たちをおもしろがらせた。
「わかった。チーズを落っことして、おべっかものの狐にとられた、間抜けな烏のことでしょう?」と、スタニスラスがいった。
レーナル夫人はうれしくてたまらず、子供たちにむやみとキスした。そのためにはどうしても、多少ジュリヤンにもたれかからなければならなかった。
シンプルなディエゲーシスからシンプルな現前的場面へとつながっていくパターン。二段落目の叙述のあえて重くしない感じがいい。「甘美な一瞬だったが、ごく短かった。」「ジュリヤンはみんなを愛想よく迎えた、兎さえも。」とかまったくもったいぶらずに短文で済ましていく。
●
------------------------------------- タイプ【0-4】その他(執筆の自由) ▲
●『赤と黒』上巻15-16頁
第二章
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ある秋の晴れた日に、レーナル氏は妻と腕を組んで、「忠誠散歩道」を散歩していた。もったいぶった夫の話しぶりに耳を傾けながらも、レーナル夫人の目は、三人の男の子の動作を、不安そうに追っている。上の子は十一ぐらいだろうか、しきりに胸壁のそばに寄っては、登りそうな様子をする。と、やさしい声がアドルフと呼ぶ。子供は冒険をあきらめる。レーナル夫人は三十ぐらいに見えるが、まだなかなか美しい。
「きっと後悔するにきまっているさ、あのパリから来たやさ男めは」と、レーナル氏は不機嫌そうに、ふだんよりいっそう青ざめた頬の色をして、いった。「わたしだって宮中に知合いがいないわけじゃあるまいし……」
ところで、わたくしはこれから二百ページにわたって、田舎の話をしようと思ってはいるが、田舎者の会話というやつの、冗漫な、こすいかけひきぶりで読者諸君を悩ますような、むちゃなまねはしないつもりだ。
ヴェリエールの町長から毛ぎらいされた、このパリのやさ男というのは、ほかならぬアペール氏で、二日前にやってきて、ヴェリエールの監獄ならびに貧民収容所の中ばかりか、町長ほか土地の大地主たちが無報酬で管理している施療病院の中までも、まんまと見てしまったのである。
レーナル夫人はおどおどしながらいった。
「なにも、そのパリのおかたがあなたに迷惑をかけるわけではございませんのでしょう? あなたは誠心誠意、貧しい人たちのためを思って、働いていらっしゃるのですもの」
「どうせ、あらぬ噂をばらまきたいんで、やってきたにきまってる。いずれ、記事にして自由主義新聞にのせるわけさ」
「あなたはそんな新聞をついぞお読みになったことはございませんわ」
「だが、そういう過激革命派の奇異は噂になるもんだ。こっちだって、それは気になるからな、せっかく善いことをするつもりでもできなくなる。わたしはあの司祭のやつを絶対大目には見ないぞ」
これがこの小説初めての現前的場面の導入。シンプルすぎるほどシンプルだが、描き取るものはきっちり取捨選択して描いているのでスカスカだという印象はない。描線が綺麗なラインを描く。この水準を維持できるか。
●『赤と黒』上巻20-21頁
第三章
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レーナル氏は妻と仲むつまじく暮していたが、妻がおどおどしながら「そのパリのおかたが囚人たちに迷惑をかけるわけではございませんのでしょ?」とくり返していったときは、レーナル氏も返答に困って、向っ腹をたてかけた。そのとき、妻があっと叫んだ。二番目の息子が、この高台の石垣の胸壁によじ登ったところだった。この石垣は向う側の葡萄畑から二十尺以上の高さがあるのに、その上を走りだしているではないか。息子をびっくりさせたら、落ちるかもしれないと思うと、レーナル夫人はこわくて、声もかけられなかった。子供は大手柄のつもりではしゃいでいたが、やがて母親の顔を見ると、真っ青なので、散歩道に飛びおりて、母親のもとへ駆け寄った。子供はひどく叱られた。
この小さな出来事で、話向きが変った。
レーナル氏がいった。
「わたしはぜひともソレルに来てもらいたいんだ、例の製材小屋のせがれさ。子供もわたしらの手に負えなくなってきたら、あれに世話してもらおう。あれはもう若い司祭といってもいいくらいだし、ラテン語がよくできる。子供たちもできるようになるだろう。司祭の話じゃ、しっかりしとるということだからな。三百フランで食事つきとしよう。かねがね、あれの考え方の点では多少信用しかねていたがね。なにしろ、例の老軍医正の秘蔵っ子ときてるからな。あのレジヨン・ドヌールの奴さんさ、身寄りだとかいって、ソレルの家の居候に居すわったやつさ。あいつは要するに実際は自由主義者仲間のスパイだったかもしれない。山の空気が持病の喘息に効くなどといっていたが、わかるものか。ブオナパルテのイタリア遠征には幾度も従軍した男だし、そのうえかつては帝政問題のおりに反対の署名をしたという話だ。この自由主義者が息子のソレルにラテン語を教えたんだし、自分の持ってきた本を、どっさり残していったんだ。だからこそ、あの製材所のせがれを、うちの子供につけようなんて、考えてもみなかったのだが、司祭がいうのに──そうそう、あれと口論をして、一生仲たがいになってしまった前の日のことだ──ソレルは三年前から神学を勉強しているし、ゆくゆくは神学校にはいるつもりでいるんだそうだ。とすれば、あれは自由主義者じゃない、ラテン語学者さ」
レーナル氏は顔色をうかがうようにして、妻を見ながら、言葉を続けた。
スタンダールにおける執筆の自由。レーナル夫妻が散歩道を散歩している間に息子が高台の石垣をよじ登るということに、何の意味があるのか。意味はほとんどない。作者が思いついたから書いたまでのことだ。スタンダールの筆致にはそういう自由な着想をそのまま流し込めるような段落展開の余裕というものがある。
●『赤と黒』上巻54-55頁
第七章
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このサン=ルイの祭日の二、三日前、ジュリヤンは、日祷書を暗誦しながら、小さな森をひとりで散歩していた。「見晴らし台」と呼ばれるところで、例の「忠誠散歩道」が見おろせるのだ。ふと見ると、遠くから人気のない小道を通って、ふたりの兄がやってくる。ジュリヤンは避けようとしたが、そうはいかなかった。この無作法ものの職人どもは、弟のりっぱな黒服や、ひどく身ぎれいな様子や、自分らを軽蔑しきっている顔つきを見ると、むらむらと嫉妬にかられて、ジュリヤンを血だらけになるまで殴りつけ、気絶させたままにして立ち去った。レーナル夫人がヴァルノ氏や郡長と一緒に散歩していて、たまたまこの小さな森に来合せた。ジュリヤンが地べたに倒れているのを見て、死んでいるものと思った。夫人があまりに驚いたので、ヴァルノ氏は嫉妬を感じた。
それはヴァルノ氏のとりこし苦労だった。ジュリヤンはレーナル夫人を美しいとは思っていたが、美しいだけに憎んでいた。もうすこしのところで、自分の境遇をあやまらせかけた第一の暗礁だったからである。最初の日に、ついのぼせて、手にキスしてしまったことを忘れてもらおうと思い、できるだけ夫人と口をきかないようにしていた。
一段落で一瞬で描き切られる現前的出来事。この素早さがあるからこそ、「執筆の自由」におけるあらゆる着想を呑み込みうる文体が可能になっているということ。現前的出来事を書いてこれほど重くなくできるなら、簡単に脇道に逸れて戻ってくることが可能だろう。
●『赤と黒』上巻151-152頁
第十八章
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日曜の朝になると、早くも近くの山々から数千の百姓たちが、ヴェリエールの通りへどっと押し寄せた。上天気だった。やっと、三時ごろになって、この群集がざわめきだした。ヴェリエールから二里離れた岩山で、大きな狼火が上がるのが見えたからである。これは、国王が当県に今はいられたことを知らせる合図だった。たちまちこの大事件の喜びを告げるかのように、方々の鐘が鳴り出し、町の所有する古いスペインの大砲がつづいて発射された。住民の半ばは屋根に上った。女はいずれもバルコニーに出ていた。警護隊が行進を起した。はなやかな制服に人々は感嘆の声をはなった。だれもがそれぞれ、自分の身寄りなり、友達なりを、そのなかに認めた。人々は、たえずびくびくして鞍の前輪をつかもうとする臆病なモワロ氏の姿を冷やかした。だが、あることに気がつくと、ほかのことはすっかり忘れてしまった。第九列の先頭の乗手は、すらりとした、すごい美少年だったが、それがだれだかはじめはわからなかった。まもなく、怒鳴るものがあるかと思えば、あっけにとられて固唾をのむものもあり、あきらかにだれもが衝撃を受けたらしい。ヴァルノ氏のノルマンディー産の馬にまたがったこの若者が、ソレルのせがれ、材木屋の息子だとわかったからである。町長を非難する声ばかりだった。とりわけ、自由主義者がそうだった。なんたることか! 坊主に化けたこの職人の小せがれめが、自分の子供の家庭教師だからというので、金持の工場主のだれそれさんをさしおいて、よくもあんな男を警護隊に加えることができたものだ! 「どこの馬の骨だかわかったものではありません。こんな生意気な小僧っ子には、みなさんがたんと赤恥をかかせてやるのがいいのです」という銀行家の夫人もいた。「あいつは陰険なやつですし、サーベルをぶらさげてますぜ。油断はなりませんぞ、相手の顔に切りつけるぐらいのことはしかねませんからな」
貴族仲間はさらにはげしい言葉を用いた。貴婦人たちは、こんな無礼きわまるふるまいが、町長の一存でおこなわれるだろうかといい合った。町長が素姓の卑しさを軽蔑している点は、一般に評判がよかったのである。
こうして、いろいろ話題になっているのに、ジュリヤンのほうは、このとき、世にも幸福な人間だった。生来大胆なだけに、この山間の町の大部分の青年たちよりも上手に、馬を乗りこなしていた。女たちの目つきから、自分が噂の種になっているのを見てとった。
肩章は新調しただけに、ほかのものとは光が違う。馬がたえず後脚で立ち上がる。彼は得意の絶頂だった。
彼は限りなく幸福だった。そのとき、ちょうど、古い城壁のそばを通りがかると、小さな大砲の音がして、馬が列外に飛び出した。さいわい落馬は免れた。その瞬間から彼は自分が英雄になった気がした。ナポレオンの伝令将校で、砲兵中隊に装填を命じているところだと想像してみた。
凄いな。群集のなかで色々なことが起こっている現前性を、焦点を外さずに分かりやすく綺麗なラインで描き切っている。
●『赤と黒』上巻77-78頁
第八章
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彼女は子供たちと一緒になって、果樹園を駆けまわり、蝶を追いかけたりして、暮していた。目の粗い紗の大きな袋をこしらえて、それで鱗翅類を捕えるのだが、鱗翅類こそいいつらの皮だ。こんな野蛮な呼び方をレーナル夫人に教えたのは、ジュリヤンなのだった。それというのも、レーナル夫人がブザンソンからゴダール氏の名著を取り寄せてくれたのがもとで、ジュリヤンはこの昆虫の奇妙な習性を彼女に教えたのだった。
蝶は、これもジュリヤンのこしらえた大きなボール紙の箱に、情け容赦もなく、ピンでとめられた。
やっと、レーナル夫人とジュリヤンのあいだに、話題ができたわけで、彼はもう沈黙の時間におちいる、あのたえられない苦痛をなめないですむようになった。
ふたりはたえずしゃべりつづけた。ごくたわいない話ばかりなのだが、それでいて、無性に楽しかった。この活気のある、いそがしい、賑やかな生活はみんなを喜ばしたが、仕事に追われどおしのエリザ嬢だけは別だった。「謝肉祭のとき、ヴェリエールで舞踏会が開かれたって、置くさまがこんなに念入りなお化粧をなさったことはついぞなかった、このごろは日に二度も三度もお召しかえになるわ」というのだった。
わたくしとしてはだれをえこひいきしようとも思わないので、はっきりいうが、たしかにレーナル夫人はすばらしい肌をしているところから、腕や胸が人一倍むき出しになるような衣裳を作らせたのだ。姿もすらりとしているから、こういう服を着ると、ほれぼれするほど似合う。
そこで、ヴェリエールから晩餐に招かれて、ヴェルジーにやってくる連中はよくいうのだった。
「奥さまはじつにお若くていらっしゃる、こんなことはついぞありませんな」(これはこの土地特有のいいかたである)
諸君のうちには、ほんとにしないかたが多いだろうが、奇妙なことに、レーナル夫人がこんなにお洒落をするのも、べつにはっきりした目的があったからではない。それが楽しかっただけのことで、ただなんということもなく、子供やジュリヤンと蝶を追いまわすとき以外は、エリザを相手に服の着付に精を出すのだった。一度だけヴェリエールに出かけたのも、ミュルーズから届いたばかりの新型の夏服が買いたかったからなのだ。
彼女は親戚の若い女性を連れて、ヴェルジーへ帰ってきた。結婚以来、レーナル夫人は昔聖心修道院で同窓だったデルヴィル夫人と、いつの間にか親しくしていた。
デルヴィル夫人は親友の考えることが突拍子もないといってはよく笑い出し、「あたしひとりだったら、とてもそんなこと考えられませんわ」というのだった。こういう意表外の思いつきもパリでなら頓知と呼ばれたかもしれないが、レーナル夫人は夫を相手にしていると、まるでばかげた考えのような気がして、はずかしくなる。だが、デルヴィル夫人が来たので、勇気が出た。彼女もはじめは、おずおずしながら、自分の考えを口にするが、長いあいだふたりきりでいると、考えかたも調子づいてきて、長い朝のひとときがまたたく間に過ぎ、仲よし同士のこととて、はしゃぎきってしまう。ヴェルジーに滞在しているうちに、思慮のあるデルヴィル夫人は、従妹が前ほど明朗でなくなったが、ずっと幸福そうになったことに気がついた。
ジュリヤンのほうは、田舎で暮すようになってから、まるで子供のような生活にかえり、教え子たちと一緒になって、蝶を追いまわして、結構楽しんでいた。束縛とかけひきばかりの生活から、やっとひとりになれ、他人の目の届かないところで、そのうえ、本能的に、レーナル夫人をおそれることもなく、この上もなく美しい山々の懐ろで、この年ごろ特有の、強烈な、生きる喜びにひたっていた。
デルヴィル夫人が来ると、ジュリヤンはすぐさま、これは自分の味方だと思った。さっそく、大きなくるみの木のもとに最近造った散歩道のはずれにある、景色のよい場所に連れていった。事実、その眺めはスイスやイタリアの湖畔に見られる、最もすばらしい景色にまさるとも劣らないものなのだ。そこから数歩行くと、急坂になり、これを登ると、まもなく大きな崖に出る。川の上にのり出したような格好で、縁にはかしの木立がある。ジュリヤンは、幸福で自由な、そればかりでなく、この家の王者のような気持で、この切りたった岩壁の頂上に、ふたりの夫人を案内し、この壮観に眺めいるさまを見て楽しんだ。
スタンダールの「執筆の自由」が最大限発揮された箇所。果樹園で遊んでいるレーナル夫人とジュリヤンの様子の描写から、なぜかレーナル夫人のお洒落の話に叙述がスライドし、いつの間にかデルヴィル夫人がレーナル夫人とジュリヤン一行に加わっている。この展開の気侭さ。
こういう執筆の自由によって、事前のプランを越えたスタンダール作品の奥行きと発展が生成していることを忘れてはならない。
●『赤と黒』上巻228-229頁
第二十三章
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しかし、このくだらない男には、勝手にくだらない心配をさせておこう。下男根性の男を求めるべきだったのに、なぜ勇気のある男を家に雇いいれたのか? どうして奉公人の選びかたがわからないのか? 十九世紀においては、勢力のある貴族が勇気のある人間に出会えば、これを殺すか、追放するか、投獄するか、あるいは徹底的に侮辱を加えて、相手が愚かにもそれを苦にして死んでしまうようにしむけるのが定石だ。たまたま、この場合は、苦しんでいるのが、勇気のある人間のほうではないからいい。フランスの小都会でも、ニューヨークのような選挙制の政体の国でも、大きな不幸は、レーナル氏のような人間がこの世に存在するということを忘れてしまえない点である。人口二万の都会では、こういう連中が世論を作る。しかも、世論は立憲政体の国では手がつけられない。高潔で寛大な心をもつ男で、諸君の友人にもなれるような人間がいるとしよう。だが、この男が百里も離れたところに住んでいれば、諸君の住んでいる町の世論で諸君を判断するわけである。ところが、その世論というのは、たまたま貴族で金持で穏健派に生れついたばかものによって作られている。有能な人間こそ災難である!
昼飯がすむと、一同はヴェルジーに帰っていった。だが、その翌々日には、一家そろってヴェリエールに戻ってきた。
一時間とたたないうちに、ジュリヤンはレーナル夫人がなにか隠しているのに気がついて、びっくりしてしまった。夫と話しているとき、ジュリヤンが姿を見せると、急に話をやめて、まるでそばに来ないでくれといわんばかりのそぶりをした。ジュリヤンとしては、二度までそんなそぶりを見せてもらう必要はなかった。彼は冷淡で控え目な態度に出た。レーナル夫人はそれに気づいたが、理由をいおうとはしなかった。《おれの後釜を考えているのかな? つい一昨日は、あれほど打ちとけていたのに! だが、上流婦人はこんなふうな態度をとるものだそうだ。まるで王さまそっくりじゃないか。気にいられるといっても、大臣と同じことで、家に帰ってみると解任の手紙が来ている、といったところなのだ》
第二十三章冒頭。ストーリー展開とまったく関係のない記述から始まっている。こういう記述を即興で入れてしまえるのがスタンダールの文体の柔軟性だ。つまり余裕があること。余裕のない文体や段落展開を維持していてはこのような即興はできない。
●『赤と黒』上巻24-27頁
第四章
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《まったく、家内のやつ、なかなか頭がいいぞ!》と、ヴェリエール町長は、翌朝六時に、ソレル親爺の製材小屋へおりていきながら、つぶやいた。《夫の体面もあるから、ああはいったものの、気がつかなかったわい。なるほど、ラテン語を天使のように知っているという、あの小坊主のソレルをこっちのものにしないと、貧民収容所長のやつ、なにしろすばしこい男だから、おれと同じ気を起して、横取りしないともかぎらない。そんなことになったら、さぞ得意になって、子供の家庭教師のことを吹聴することだろう!……だが、あの家庭教師はおれの家に来ても、坊主になるつもりかな?》
そんな疑問で気をとられていたとき、レーナル氏は遠くに、六尺近くもある百姓の姿を目にした。朝も暗いうちから精を出して、ドゥー川沿いの、曳き舟道に置いてある材木の寸法を取っているらしい。その百姓は町長さんが自分のほうへやってくるのを見て、あまりいい顔は見せなかった。材木が道をふさいでいるし、またそんなとこに置くのが規則違反だったからである。
ほかならぬソレル親爺だった。息子のジュリヤンのことで、レーナル氏からとてつもないことを申し込まれて、ひどくびっくりしたが、それ以上に喜びもした。だが、相手の言葉を聞きながら、やはり、例の不満そうな、気がなさそうな浮かぬ顔をしていた。この山間の住民は、こうした表情でずるい考えをうまく隠すことを心得ている。スペインの統治下では奴隷だったから、いまだにエジプトの農奴のような顔つきが残っている。
はじめは、ソレルの返事も、そらで覚えているかぎりの、通りいっぺんの挨拶を、ながながと暗誦するだけだった。こうした無意味な言葉をくり返しながら、とってつけたような微笑を浮べているが、そのために、生来の腹黒い、いやむしろ悪賢い顔つきが、いっそう目だっている。一方、そのひまにも、この年老いた百姓は抜け目なく頭を働かせ、どうしてこんなりっぱな旦那が、ろくでなしのせがれなどを引き取る気になったのか、その腹を見ぬこうとした。ソレル親爺はジュリヤンを目の敵にしていた。そのジュリヤンに、レーナルさんは年に三百フランという、思いもよらぬお給金を出してくださるし、食事ばかりか着物までも向うもちだとおっしゃる。この着物という条件は、ソレル親爺がとっさに思いついてもちだしたのだが、この点もまたレーナル氏の承諾を得たのだった。
町長はこの要求に驚いた。《こんな申し出を聞いたら、飛び上がって喜ぶはずなのに、ソレルのやつめ、いっこううれしそうな顔をせん。ほかからも申し込んだやつがいるにちがいない。それに、ヴァルノのやつでなくて、だれがそんなまねをするものか》と、町長は思った。レーナル氏はソレルをせきたてて、その場できめてしまおうとしたが、そうはいかない。相手は狡猾な年老いた百姓のことだから、頑としてこれに応じなかった。せがれに相談してみるというのだ。形式上ならともかく、まるで、田舎では、金持の父親が一文なしの息子に、それ以外にも相談ごとがあるといった調子なのである。
水力製材所とは小川のほとりの納屋なのだ。屋根は太い木の四本柱の上に乗せた木組で支えられている。納屋の中央の、高さ八、九尺あたりのところで、鋸が上がったり下がったりしている。そのひまに、ごく簡単な装置で、材木がこの鋸のほうへ押し出されるようになっている。水流で回転する水車が、この二重の装置を動かすのだ。つまり、一方の装置は鋸を上下させ、もう一方は静かに材木を鋸のほうへ押し出し、鋸がこれをひき割って板にする。
製材小屋の手前で、ソレル親爺はもちまえの大声でジュリヤンを呼んだ。返事がない。見ると、大男の兄二人が、重い斧をふりあげて、鋸にかけるもみの丸太を割っているばかり。一生懸命材木の上に引いた黒いすじどおりにたち割ろうとしている。斧をふりおろすごとに、大きな木片が飛び散る。二人には父親の声が聞えなかった。父親は納屋のほうへ行き、なかにはいって捜したが、いつも鋸のそばにすわっているはずのジュリヤンがいない。五。六尺上を見上げると、天井の梁に馬乗りになっている。よく注意して仕掛の動きを見張っているどころか、本を読んでいるのだ。ソレル親爺にとって、これくらい癪にさわることはない。兄たちとはうって変って、力仕事には向かない、ジュリヤンのひ弱な身体つきは大目にみるとしても、この読書癖というやつには我慢がならなかった。自分自身字が読めなかったのだ。
二、三度ジュリヤンと呼んでみたが、気がつかない。鋸の音のせいというよりは、夢中になって本を読んでいるので、父親の怖ろしい声も耳にはいらないのだ。とうとう父親は年に似合わぬ身軽さで、鋸にかかっている材木の上に飛び乗り、その足で屋根を支えている横木の上に飛び上がった。いきなりひっぱたかれて、ジュリヤンの手にしていた本が、川のなかにふっ飛んだ。もう一つ、またしたたか頭にびんたをくらって、ジュリヤンはよろめいた。あやうく十四、五尺下の、動いている機械の梃子のあいだに転げ落ちて、おしつぶされようとしたのだが、父親の左手が、落ちかけたジュリヤンをひっつかんだ。
「怠けものめ! 鋸の番をしてると思ってりゃ、相変らずくだらぬ本などを読んでやがって! 晩に司祭さんの家へひまつぶしにいったときにでも読め! そいつは、お前の勝手だ」
ジュリヤンはひどく殴られて気が遠くなり、血だらけになったが、鋸のそばの、いつもの場所へ行った。目に涙を浮べている。身体の痛みというよりも、自分の大切な本を失くしたためだった。
これがはじめて主人公のジュリヤンが登場するシーンだ。レーナル氏とソレル親爺の感情的なリアクションを要約法的に書いたディエゲーシスの仲で「息子ジュリヤンのことで……」と自然に名指され、そこから彼の登場する現前的場面へとつなげていく。相互リアクションを前提とした自然な流れで新しい、かつ重要な登場人物を導入するという丁寧さ。
●『赤と黒』上巻250-252頁
第二十四章
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やっと、遠くの山の上に、黒い城壁を認めた。それがブザンソンの城砦だった。ジュリヤンは溜息をつきながらいった。《このりっぱな軍都にやってきて、この町の防衛にあたる連隊にでも、少尉として入隊するのだったら、話はすっかり違ってきているところなのだ!》
ブザンソンは単にフランスでもいちばん美しい都会の一つであるばかりでなく、勇気のある人間や、才知のある人間がたくさんいる。だが、ジュリヤンは一介の田舎者にすぎず、りっぱな連中に近づくなんらの手だてももっていない。
フーケのもとで背広を借りてきたので、その背広姿で城砦の跳ね橋を渡った。一六七四年の包囲線の歴史で頭がいっぱいだったので、神学校に閉じこもる前に、城壁や城砦を見ておこうと思った。二、三度、歩哨につかまりかけた。彼がはいりこんだ地帯は、毎年、十二フランから十五フランぐらいで乾草を売るために、工兵隊が一般民衆の立入りを禁じているところだったのだ。
高い城壁や深い堀やおそろしい格好の大砲などに、何時間か心を奪われているうちに、ふと、大通りの大きなカフェの前を通りがかった。感心して、立ちどまってしまった。途方もなく大きな、二つの扉の上ん、大きな字で書かれた、カフェという文字を、いくら読んでみても、自分の目が信じられなかった。気おくれするのをおさえて、思いきってはいっていった。見ると、奥行が十五間ないし二十間もある広間で、天井の高さはすくなくとも二十尺はある。その日は、すべてに心を奪われた。
二組の玉突きが行われていた。ボーイたちが大声でゲームをとっている。突き手は、黒山のような見物人に囲まれて、台のまわりを、行ったり来たりしている。みんなの口から立ち上る煙草の煙が、まるで青い雲のように、あたりを包んでいる。その連中の背の高さ、円い肩、重々しいしぐさ、途方もなく大きな頬髯、着ている長いフロックコート、すべてがジュリヤンの注意をひいた。これら昔のビゾンティウムの毛なみのいい子孫たちは、どならなければ話ができないらしく、おそろしい戦士のような態度を見せている。ジュリヤンは立ちつくしたまま、見とれていた。ブザンソンのような大都会の、広さと華麗さを、つくづくと思ってみた。高慢な目つきをした、紳士のようなボーイのひとりに、思いきってコーヒーを一杯注文する気には、とうていなれなかった。なにしろ、どなるようにしてゲームを取っているのだ。
だが、カウンターにいる娘が、この田舎町の若者のかわいい顔だちに目をつけたのだった。若者はストーヴのそばで立ちどまって、小さな包みをかかえたまま、白いりっぱな石膏の国王の胸像を眺めている。娘は背が高く、フランシュ=コンテ生れで、カフェを流行らせるにはうってつけの、格好のいい、身体つきをしていた。さっきから、二度も、ジュリヤンにだけしか聞えないような声で、そっと、あなた! あなた! と呼んでいたのだ。ジュリヤンは、ひどくやさしそうな大きな青い目にぶつかると、自分に話しかけているのに気がついた。
つかつかと、まるで敵に向って突進するかのように、美しい娘のいるカウンターに近づいた。あまりいきおいがよすぎて、包みを取り落した。
第二十四章冒頭から。主人公が移動しながら場面展開していくという箇所だが、スタンダールはいちいち場所の説明なんてするつもりはない。ディティールしかない。ほとんど即興的に生まれたかのようなディティール(「一六七四年の包囲線の歴史で頭がいっぱいだったので……」)を繋ぎ合わせてラインを作っていく。
●『赤と黒』上巻310-312頁
第二十九章
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試験の時期になった。ジュリヤンはりっぱに答えた。シャゼルでさえ、その全知識を示そうとしているのがわかった。
第一日に、名うてのフリレール副司教から任命された試験官たちは、ピラール神父の秘蔵弟子だと聞かされているジュリヤン・ソレルの名を、いつも首席か、せいぜい二番として成績表に書きこまざるをえないのを見て、ひどく当惑した。神学校では賭けがおこなわれていた。総合試験成績表でジュリヤンが首席になるだろうというのだ。首席になれば司教猊下の食事に招かれるという光栄に浴せる。だが、初期ローマ教会の神父に関する試問が終りに近くなると、一人の狡猾な試験官が、聖ヒエロニムスについて、また彼のキケロ礼賛について、ジュリヤンに質問をしたあとで、ホラティウスや、ウェルギリウスなど、宗門外の詩人の話をもち出した。同輩の知らないうちに、ジュリヤンはこうした作家の文章を、だいぶ暗記してしまっていた。得意になって答えるうち、つい調子に乗って場所柄を忘れ、試験官がしきりに求めるので、ホラティウスの短詩を暗誦し、それを一生懸命注釈してみせた。こうして、二十分ほどジュリヤンが自分から罠にひっかかるままにさせておいたあげく、急に試験官は顔色を変えて、こういう宗門外の勉強に時間を浪費したばかりでなく、無益というより罪深い考えを覚えたことを、苦々しげに叱責した。
「わたくしは愚か者です、先生。おっしゃるとおりです」ジュリヤンは巧妙な策略にひっかかったことに気がつくと、謙虚にそう答えた。
試験官のこの計略は、神学校においてさえ卑劣だと思われた。だが、フリレール神父は、ブザンソンの修道会の網をきわめて巧妙にはりめぐらした抜け目のない人物だし、パリに報告書を送っては、裁判官や知事をはじめ、駐屯地の将官連までもふるえ上がらせている。そこで、神学校側の思惑などにおかまいなく、権勢をかさにきて、ジュリヤンの名前の横に一九八番と書きこんだ。こうして目の敵にしてるジャンセニストのピラール神父に恥をかかせてやるのが痛快だったのだ。
十年このかた、彼の一大関心事は、ピラール神父から神学校長の職を奪うことにあった。ピラール神父は、ジュリヤンに対して示したと同じ行動方針を自分にも課し、誠実で、信心深く、策を弄さず、義務に忠実だった。だが、神の虫のいどころが悪かったのか、怒りっぽい性分を授けられ、悪口や憎悪には、ことのほか敏感だった。このはげしい気性の持主にとっては、受けた侮辱はいつまでも忘れられなかった。いくたび辞職しようと思ったかしれないのだが、神のご意志で与えられた地位である以上、そのままでいるほうがお役にたつわけだと思い、《わたしはイエズス会の教義や偶像崇拝がはびこるのをくいとめるのだ》と、考えていた。
試験期には、ふた月ばかり、ジュリヤンに話しかけたことがなかったが、試験成績を知らせる公式の手紙を受け取って、神学校の名誉と考えている生徒の名前の横に一九八番という番号を見たときは、校長も一週間病気になってしまった。この厳格な気性の校長にとって唯一の慰めは、できるかぎりジュリヤンを監督しようということだった。ジュリヤンが怒りもせず、復讐の計画もいだかず、落胆してもいないのを見て、校長はひそかに喜んだ。
試験の時期の出来事についてディエゲーシスをつづけているあいだに、いつの間にか記述がフリレール神父の話に移っていき、つぎつぎと過去の事情についての説明をさかのぼって引き出していくという流れになっている。ほとんど即興的な段落展開。これもまたよほど執筆の自由を広げるだけ広げて、瞬間瞬間ごとにいくらでもある書くべきもの、書くべきことを大胆に取捨選択しているからこそ可能になった文章。
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------------------------------------- タイプ【0-5】タイプ【0-5】スタンダール:内的対話のための段落展開 ▲
●『赤と黒』下378-380頁
第二部第三十六章
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この手紙を出してしまうと、ジュリヤンはやや落着きを取り戻し、はじめてひどくみじめな気持になった。野心から出たいろいろな希望が、《おれは死ぬんだ》という、重大な言葉によって、いやでも、ひとつびとつ、心からむしりとられざるをえなかったからである。死にそれ自体は、べつにおそろしいとは思わなかった。これまでの一生は、要するに不幸に至る長い準備期間にすぎなかった。だが、この不幸は、あらゆる不幸のうちでも、最大といわれているものである。したがって、これが忘れられるはずはなかった。
《なんということだ! もしふた月先に剣術のひどく強い男と決闘することになっているとしたら、おれは、たえずくよくよ思いわずらったり、おそろしがったりするだろうか?》
ジュリヤンは、一時間以上もかかって、この点について自分の気持を見きわめようとした。
心の中が明らかになり、真相が牢獄の柱と同じように、はっきり目に見えてくると、今度は後悔について考えた!
《なぜ後悔することがあろう? おれはずいぶんひどい侮辱のされかたをした。そこで殺した。死に値するが、それだけだ。おれは人類に対して勘定のしめっくくりをしたあとで、死んでいくのだ。やり残した義務もなければ、だれにも借りはない。おれの死に、なにかはずかしいところがあるとすれば、死ぬときの道具だけだ。ヴェリエールの町民どもの目には、それだけでも、いかにもおれが辱しめを受けたように見えるだろうが、理性的に考えれば、これほどとるにたらないものはない! やつらからえらそうに思われる方法だってまだある。刑場へ行く途中で、見物人どもに金貨をばらまけばいい。黄金の思い出と一緒になって、おれのことがいつまでも消えずに、やつらの頭に残るだろう》
ものの一分もすると、この考えは、議論の余地がないほど明白なものに思われてきた。《おれはもう、この世でなにもすることはない》ジュリヤンはそうつぶやくと、深い眠りにおちた。
夜の九時ごろ、牢番が晩食を運んできて、ジュリヤンを起した。
「ヴェリエールじゃ、どんな噂をしているかね?」
「ジュリヤンさん、わたしはこの職に任命されるとき、裁判所の十字架の前で誓いを立てましたから、その手前、なにもご返事できません」
主人公の内語を追う、スタンダール独特の段落展開。かなり生き生きとしていて唯一無二のスタイル。
改行の多いスタイルで、地の文で「今度は……について考えた」「ものの一分もすると、この考えは、議論の余地がないほど明白なものに思われてきた」というふうにフォローしつつ、「《 》」でくくった主人公の思考を自己対話的につないでいく。しょっちゅう「おれ」という一人称が出てくるのは、自己対話的に思考がすすんでいるという表徴。
●『赤と黒』下383-385頁
第二部第三十六章
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この男は、さもしい点でも、腹黒い点でも、徹底していた。ジュリヤンの頭を一つの考えがよぎった。《このかたわみたいな大男の稼ぎは、この牢獄にあまり囚人がいないところからみれば、三、四百フランだろうな。おれを救い出してスイスへ連れていってくれれば、一万フランやってもいいが。……おれが本気でいっているのだとのみこませるのが骨だ》こんなげびた男と長いあいだ話合いをしなければならないのかと思うと、ジュリヤンはいやけがさした。ほかのことを考えることにした。
夜になると、もう手遅れだった。一台の郵便馬車が夜中にジュリヤンを連れ去った。道連れとなった憲兵たちは、大いにジュリヤンの気にいった。朝、ブザンソンの牢獄に着くと、先方の親切な計らいで、ゴチック式の天守閣のてっぺんにいれられた。ジュリヤンは十四世紀はじめの建築だと見てとり、優雅で、軽快なところに感心した。奥深い庭のはずれの、壁と壁のあいだの、狭いすきまからは、すばらしい景色をのぞくことができた。
あくる日、訊問が行われたが、その後幾日ものあいだ、そっとしておかれた。気持は平静だった。この事件くらい簡単なものはないとしか思っていなかった。《おれは殺そうとした。だから殺されるべきだ》
ジュリヤンは、この理屈を、それ以上考えみようともしなかった。裁判、ひとびとの前へ出る面倒、弁護、こうしたことは、ジュリヤンからみれば、みんなたいした厄介ごとではないし、その場になってから考えればすむ退屈な儀式としか思えなかった。死ぬときのことでさえも、たいして気にはならなかった。《まあ判決がすんでから考えればいいさ》生活はすこしも退屈ではなかった。あらゆることが、新しいかたちで眺められた。今は野心もない。ラ・モール嬢のことも、ごくたまにしか考えなかった。悔恨の気持が強く、レーナル夫人の面影がちょいちょいまぶたに浮ぶ。とりわけ、静まりかえった夜間がそうだった。この高い天守閣にいると、みさごの鳴き声のほかには、この静寂をやぶるものはなかった!
ジュリヤンは、夫人に致命傷を与えなかったことを神に感謝した。《ふしぎなことだ! おれは、あのひとがラ・モール氏に手紙を書いたとき、将来の幸福を永久に破壊したと思っていた。ところが、手紙を出して二週間もたたないうちに、もうおれは、あのとき考えていたことなど、すっかり忘れてしまっている。……二、三千フランの年金があって、ヴェルジーのような山国でひっそりと暮せたらなあ。……あの時分、おれは幸福だった。……それなのに、その幸福がわかっていなかったとは!》
思わず椅子から飛び上がることもある。《もしレーナル夫人に致命傷をおわせていたら、おれは自殺してしまったろう……。この点は、はっきりさせる必要がある。さもないと自分がいやになってしまうぞ》
《自殺する! そいつは大問題だな。かわいそうな被告をこづきまわす、あの四角ばった判事連中、あいつらときたら、勲章をぶらさげるためなら、どんなりっぱな市民でもしばり首にしかねないのだ。……そういうやつらの魔手から逃れることができるし、地方新聞では雄弁だなどといわれているが、あいつらの下手くそなフランス語の悪口雑言も聞かずにすむというものだ……》
数日たつと、ジュリヤンは考えなおした。《どっちみち、あと五、六週間は生きていられるのだ。自殺! いかん、ナポレオンも生きぬいたではないか……》
《それに、生きているのは楽しい。ここは静かだし、いやな人間もいない》と、ジュリヤンは笑いながら、つけ加えた。そして、パリから取り寄せる本のリストを作りはじめた。
スタンダールにおける内的対話の段落展開。
「この事件くらい簡単なものはないとしか思っていなかった」「ジュリヤンは、この理屈を、それ以上考えてみようともしなかった」「ジュリヤンは、夫人に致命傷を与えなかったことを神に感謝した」といった地の文で補助して、内的対話ながら改行の多い段落展開を可能にしている。思考の方向転換があっても、スムーズに読みすすめられる。
スタンダールは段落はじめで時間を圧縮して飛躍させるのが上手い。「夜になると、もう手遅れだった」「あくる日、訊問が行われたが、その後幾日ものあいだ、そっとしておかれた」といった段落第一文の運動神経が唯一無二。この上手さは「数日たつと、ジュリヤンは考えなおした」という内的対話の段落展開中の段落第一文でも発揮されている。クロノス時間の進捗ではなくて、段落展開の組み合わせによって叙述の牽引力を生んでいる。
当然ながら地の文における内的対話のフォローで「思わず椅子から飛び上がることもある」と括復法が使われているのは、超絶技巧と言っていい。
●『赤と黒』下388-390頁
第二部第三十七章
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次の日、目を覚ますと、きのう一日の自分がはずかしくなった。《おれの幸福、おれの気持の平静さが、あぶなくなってきたぞ》検事総長に手紙を書き、いっさい面会謝絶にしてもらおうかと思った。《だが、フーケがいたっけ。もしフーケがブザンソンへわざわざやってきたりしたら、どんなにがっかりするだろう》
およそこのふた月というもの、フーケのことは忘れてしまっていた。《ストラスブールでは、おれはなんてばかだったんだろう! おれの考えは、せいぜい軍服のえり〔社会的地位〕のことしか考えていなかったのだからな》フーケの思い出がしきりと浮んで、ますます感傷的な気持になっった。そわそわと歩きまわった。《今のおれは、たしかに死の水準から、二十度も下まわっているぞ。……この弱気がこれ以上つのるくらいなら、自殺したほうがましだ。いやいや、おれがへぼ学者みたいな死にかたをしたら、マスロン神父やヴァルノなんぞが喜ぶことだろう!》
フーケが来た。この単純で善良な人物は、悲しみのあまり、おろおろしていた。彼のたったひとつの才覚、もしそんなものがあるとすれば、それは持ちものをすっかり売りはらって、牢番を買収し、ジュリヤンを救い出そうということだった。ジュリヤンに向って、ラヴァレット氏の脱獄の模様をながながと話した。
「そういわれるとつらいな。ラヴァレット氏は無実の罪だったが、ぼくは有罪なんだ。きみにはそういう気はないだろうが、ぼくはそんな話を聞くと、そこの違いを考えさせられるよ。……
だが、ほんとうかい? え? きみは、持ちものをすっかり売るつもりなのかい?」と、急にジュリヤンは、相手の真意をさぐるような、疑り深い態度に返ってきいた。
フーケは、親友が自分のひたすら考えている案にようやく答えてくれたのを見て、大いに喜び、百フランぐらいの違いはともかくとして、自分の地所の一つ一つがどのくらいの金になるかを、こと細かに説明した。
《田舎の地主としては、なんという崇高な思いきったことだろう! 見るたびにこちらの顔が赤くなるような、あの倹約ぶり、しみったれともいいたいくらい、けちけちしてためたものを、おれのために犠牲にしようというのだ! おれがラ・モール邸で会った、『ルネ』を読んでいるりっぱな青年たちなら、だれもこんなばかげたまねはしないだろう。だが、ごく若いうちから遺産を相続して金持になり、金の値打のわからない連中なら別だが、ああしたパリっ子どものうちに、こんな犠牲のはらえるやつがいるか!》
フーケのしゃべるフランス語の間違いも、やぼな身ごなしも、もう眼中になかった。ジュリヤンは親友の腕の中へ飛びこんだ。田舎とパリを比べて、田舎がこのときほど尊敬のしるしを受けたことはない。フーケは、親友の目の中に感激の色を見て、すっかり喜び、ジュリヤンが脱獄を承知してくれたのだと思った。
この崇高なものに触れたおかげで、ジュリヤンは、シェラン神父の出現このかた失してしまっていた元気を取り戻した。ジュリヤンはまだごく若かったが、思うに、これはよい苗木だった。年をとるにつれて、大部分の人間のように、情に厚い性質から悪賢い性質へと進むかわりに、ジュリヤンは、ますます情にほだされやすい善良な心の持主になったにちがいない。並はずれた疑い深さも、きっとそのうちにはなおったことだろう。……だが、こんなふうに、むなしい予言をしたところでなんになろう?
スタンダールの場合、主人公の内的対話が前面に出る箇所でも、地の文のよる主人公の内的状態の記述が並行して進むという特徴があるようだ。「検事総長に手紙を書き、いっさい面会謝絶にしてもらおうかと思った」「およそこのふた月というもの、フーケのことは忘れてしまっていた」「フーケの思い出がしきりと浮んで、ますます感傷的な気持になった」。こういうふうに内語だけでクロノス的に・連続的に進んでいかないので、改行も多くでき、段落冒頭第一文による目覚ましい飛躍も可能となっている。「フーケが来た」の簡潔で効果的なアクセントが素晴らしい。
●『赤と黒』下427-430頁
第二部第四十二章
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牢獄へ戻ると、ジュリヤンは、死刑囚の監房にいれられた。いつもはごく細かなことにまで気のつくジュリヤンが、天守閣へ連れていかれなかったことに、全然気がつかなかった。死ぬ前に、もし運よくレーナル夫人に会うことができたら、なんといおうかと、そればかり考えていた。夫人は、自分にみなまでいわせないだろう、だから、なんとかして最初の一言で、後悔の気持を十分伝えるようにしたいと思った。《あんなことをしたあとだからな、どうしたら、おれがあのひとだけを愛しているってことを、わかってもらえるか? なにしろおれの野心のためというか、マチルドを愛するためというか、それがもとであのひとを殺そうとしたのだから》
ベッドにはいると、敷布はあらい布地だった。ジュリヤンは気がついた。《なるほど、おれは死刑囚として、地下牢にいれられたんだな。あたりまえだ……》と思った。
《アルタミラ伯爵がおれに話したっけ。死刑の前の日に、ダントンは例のどら声でいったそうだ。「妙だな。首を斬るという動詞の変化は、どの時称についてもいえるってわけのものでないぞ。おれは首を斬られるだろう、おまえは首を斬られるだろう、とはいえても、おれは首を斬られた、とはいえないのだから」
そんなことはないさ、あの世があるとしたら。……いやいや、もしキリスト教徒の神さまに出会ったら、おれはおしまいだ。あの神さまは暴君だし、いかにも暴君らしく、復讐のことしか考えていないのだから。聖書には残酷な刑罰の話ばかりが書いてある。それはあんな神さまを愛したことは一度もない。またひとが心から神を愛しているなんてことを、一度だって本気にしたことさえないんだ。まったく無慈悲な神さまだ(ジュリヤンは聖書のいろいろな個所を思い出した)。きっとおれはひどい罰をこううるだろう。……
だが、もしおれがフェヌロンの神さまに出会ったら! あの神さまはおれにいうかもしれない。「おまえは大いに愛したから、大いに許されるだろう」と。
おれは大いに愛したかな? そりゃ、むろん、レーナル夫人を愛したにはちがいないが、おれのしたことはひどかった。あの場合でも、ほかの場合でも、素朴なつつましい値打のものを、はなやかなもののためにすててしまった。
だが、なんてすばらしい出世の道がひらけていたことだろう! 戦争でもあれば軽騎兵大佐だ。平和のときは公使館付き書記官。それから大使。……事務などはじきに覚えたろうから。……万一無能だったところで、ラ・モール侯爵の婿殿とあれば、どんな競争相手でもこわくはない。いくらばかなことをしても、見のがしてくれるだろうし、かえって美点と思ってくれるだろう。敏腕家として、ウィーンとロンドンで豪奢きわまる生活をして……》
《そうは問屋がおろしません、三日たてばギロチン台》
ジュリヤンは、こんな警句を考え出して、からからとうち笑った。《まったく、ひとの心にはふたりの人間が住んでいるものだな。どこのどいつに、こんな意地の悪い文句が考え出せたろう?》
《なるほど! 仰せのとおり、三日たてばギロチン台ですな》と、憎まれ口をきいた心の中の相手に答えた。《ショラン氏がマスロン神父と割勘で処刑見物に窓を借りるとする。ところで、その窓の借り賃のことですが、このごりっぱなおふたりのうち、どちらが相手をごまかすでしょうな?》
ロトルーの『ヴァンセスラス』の一節がふとジュリヤンの頭に浮んだ。
ラディスラス ……心の用意はできております。
王(ラディラスの父) 断頭台の用意もできている。行って首を差し出すがよい。
《見事な返事だ!》と思って、ジュリヤンは眠りにおちた。朝、だれかに、ぎゅっと抱きしめられたので、目を覚ました。
「なんだ、もうやるのか!」とつぶやきながら、ジュリヤンはこわい目をして相手を見た。首斬り役につかまれたと思ったのだ。
マチルドだった。《さいわい、おれのいったことはわからなかったらしい》そう思うと、すっかり落着きを取り戻した。見ると、マチルドは、半年も病みついていたかのように、やつれはてている。実際、これがマチルドとは思えないくらいだった。
「あのフリレールが卑怯にも、裏切ったのよ」と手をわなわなとふるわせながらいった。あまりの怒りに涙も出なかった。
スタンダールにおける内的対話の段落展開。こういうときスタンダールは内的対話と地の文での状態記述を並行してすすめるのが常だが、それを可能にする話者と主人公の距離感みたいなものが、引用部の最初の方で示唆されている。「いつもはごく細かなことにまで気のつくジュリヤンが、天守閣へ連れていかれなかったことに、全然気がつかなかった。死ぬ前に、もし運よくレーナル夫人に会うことができたら、なんといおうかと、そればかり考えていた」──この距離感によって、話者が主人公と一緒になって内的対話に没入しないことが告げられているわけだ。だからこそ内的対話であっても細かな改行やクロノス時間に沿わない飛躍が可能になっている。
さらにこの、主人公の内的対話に没入しない位相を残しておくことが、後半「《そうは問屋がおろしません、三日たてばギロチン台》」「《なるほど! 仰せのとおり、三日たてばギロチン台ですな》」──という、自分のなかに二人の人格がいるようなおどけた自己対話も無造作に可能にしている。単一の内的対話に没入しすぎると、このように内なる別人格による不意打ちといった事態を上手く描けない。これは、『罪と罰』第一部第四章における「《……おれはおまえの犠牲なんかいらないよ、ドゥーネチカ、いやですよ、母さん! おれが生きている間は、そんなことはさせぬ、させないよ、させるものか! ことわる!》/彼は不意にはっとして、足をとめた。/《させるものか? じゃ、それをさせないために、おまえはいったい何をしようというのだ? ことわる? どんな権利があって? そういう権利をもつために、おまえのほうから母さんと妹に何を約束してやれるのだ?……》」──という内的対話中の不意打ちの技法を先取りしているとさえ言えよう。
●『パルムの僧院』228-230頁
第十六章
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公爵夫人はツルラ伯爵邸の夜会から家に帰ると身振りで侍女たちを下がらせた。それから、服を着たままベッドに倒れると大声で叫んだ。「ファブリスは敵の手の中にいる。そしてたぶんわたしのせいで毒を盛られるだろう!」これほど理性的でなく、現在の感情の奴隷となり、しかも自分ではそう認めていないものの若い囚人に夢中になって恋している女性が、こうした状況判断のあとで陥った絶望の瞬間は、とうていここに描き表わせない。はっきり言葉にならない叫び、怒りの爆発、痙攣的動作。だが涙は一滴もこぼさなかった。侍女たちを下がらせたのは、こうしたところを見られないためであり、夫人は一人になったらわっと泣き出すだろうと思っていた。だが、なによりもまず大きな苦しみの慰めになる涙はまったく出てこなかった。怒り、憤慨、大公にたいする劣等感でもって、この誇り高い魂はいっぱいだった。
『すっかり恥をかかされた!』と、夫人はひっきりなしに叫んだ。『侮辱され、しかもファブリスの命が危ないときている! だのに、わたしは復讐もできない! お待ち、大公! わたしを殺すのは結構、あなたにはその力があるのだから。でもそのあとで、あなたの命をもらいます。ああ! かわいそうなファブリス、そんなことをしたってあなたのためになんの役に立つ? わたしがパルムを発とうとしていた日とはなんというちがいだろう! だのにあのときは、わたしは自分が不幸だと思っていた……なんと愚かだったのだろう! わたしは快適な生活の習慣をみんな断ち切るつもりだった。ところがどうだろう! 自分ではそうとしらずに、自分の運命を永久に決定する出来事に立ち会っていたのだ。もし伯爵が卑屈な廷臣根性による卑しい習慣から、大公が虚栄心からあたえたあの運命の書状の不正な訴訟という言葉を消さなかったら、わたしたちは救われていた。たしかに大公の大切な町パルムのことで大公の自尊心を動かしたのは、巧みというより運がよかったことは認めなくちゃならない。あのときは自由だったから出発すると言って脅かすことができた! ああ! ところが今は奴隷だ! 今わたしは不潔な掃き溜めのような場所に釘づけにされていて、そしてファブリスは、大勢の立派な人の死の控え室だったあの城塞に鎖で繋がれている! だのに、わたしはもうあの虎を巣窟から出て行くからと脅かして、押えつけもできない!
『大公は頭がいいから、わたしの心が鎖で縛りつけられているあの忌わしい塔から、わたしがもうけっして離れないのを感じているにちがいない。今となっては、あの男の傷つけられた虚栄心は、どんな奇怪なことを思いつかせるかわからない。その思いつきが奇妙で残酷であればあるほど、あの男の途方もない虚栄心をますます刺激するだけだろう。もしあの男がまた以前のように味けない口説き文句を述べ立てて、「あなたの奴隷の敬意をお受けください。さもないとファブリスは死にますよ」と言ったら。そしたら、古いユディットの物語だ……そう、でもそうなればわたしは自殺すればすむが、ファブリスは殺される。あの間抜けな世継ぎの太子と汚らわしい首斬り役人のラッシが、ファブリスをわたしの共犯として縛り首にするだろう』
公爵夫人は叫び声を上げた。この出口の見つからぬ二者択一がこの不幸な心を責め苛んだ。混乱した頭でいくら考えても、他のどんな未来の可能性も見出せなかった。十分間、夫人は気が狂ったようにもがいた。ついに疲労困憊して、わずかのあいだ眠りがこの恐ろしい状態に取って代った。精根つきはてた。数分後、夫人ははっと眼を覚まし、ベッドの上に坐っていた。眼の前で、大公がファブリスの首を斬らせようとしているような気がしたからである。公爵夫人は恐ろしく錯乱した眼つきで周りを見回した! やっと眼の前に大公もファブリスもいないのを納得すると、ふたたびベッドに倒れて、危うく失神しそうになった。体が弱りきって、姿勢を変える力もなかった。『ああ! このまま死ねたら!』と、夫人は思った……『だが、それじゃああんまり卑怯だ! ファブリスを不幸のうちに見捨てるなんて! 頭がどうかしている……さあ、現実にもどろう。自分から好きこのんで陥ったかのような、この最悪の立場を冷静に考えてみよう。なんという忌わしい軽率さだったのか! 絶対君主の宮廷に住みにやってくるなんて! 犠牲者全員を知っている暴君の許へだ! 犠牲者の眼つきの一つ一つが、あの男には自分の権力にたいする挑戦のように見える。ああ! 伯爵もわたしもミラノを離れるときにはそのことに気づかなかった。気持のいい宮廷の魅力のことを考えていた。たしかにいくぶん劣るが、ウージェーヌ公の華やかなりしころのようなものだと思っていた!
『臣下全員の顔を知っている専制君主の権威がどんなものか、遠くからではわたしたちにはわからなかった。専制政治も外見からは他の政体と変らない。たとえば、裁判官もいる。だがそれがラッシのような連中なのだ。人非人のラッシは大公の命令とあれば、自分の父を絞首刑にすることだって当り前だと思っている……それを義務と呼ぶだろう……ラッシを誘惑したら! とてもだめだ! わたしにはなんの力もない。あの男になにをやったらいいだろう? 十万フラン、たぶん! この前短刀で暗殺されかかったときにも、大公は神のこの不幸な国にたいする怒りのために危うく助かったのだが、あの男に一万ゼッキーノの金貨がはいった箱を贈ったそうだ! だいたいいくら金をやったところであの男を買収できないかもしれない。あの卑しい魂の男は、これまで人々の眼のなかに軽蔑しか見たことがなかったのに、ここでは恐怖と尊敬さえもが見られることに満足している。彼は警察大臣になるかもしれない。どうしてそうならないと言えるだろう? そうすればこの国の住民の四分の三は卑しくおもねって、あの男が君主の前で卑屈に震えるように、あの男の前で震えるだろう。
『どうせこのいやらしい土地を逃れられないのなら、ここでファブリスの役に立つようにしなければならない。一人で孤独に絶望して暮していては、ファブリスのためになにができるというのか! さあ、進め、不幸な女よ。おまえの義務を果せ。社交界に出て、ファブリスのことなどもう考えていないふりをしろ……かわいいあなたのことを忘れてしまったふりをするんだ!』
これはオーソドックスな内的対話ストリーム。
自分の陥った状況を(残酷な推測を交えつつ)客観視すればするほど絶望感にいきりたつ、という悪循環を言語化しトレースしている。後半になると絶望的に可能性を模索しつつ自己批評性が増してきて、自分に或る情動を押しつけるような、自分に必死で言い聞かせるようなトーンになるのも生彩があっていい。
●
------------------------------------- タイプ【1-1】チェーホフ:冒頭、段落モンタージュ ▲
●「犬を連れた奥さん」130-133頁
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海岸通りに新顔が現われたという噂が立った。犬を連れた奥さんだという。ドミートリー・ドミートリチ・グーロフは、ヤルタに来てもう二週間になり、この土地の生活にも慣れたので、やはり新顔に興味を持ち始めた矢先であった。喫茶店ヴェルネに坐っていると、ベレー帽をかぶった小柄なブロンドの若い婦人が海岸通りを歩いて行くのが見えた。そのあとから白いスピッツが駆けて行った。
その後も、公園や四辻の広場で、日に幾度となくその婦人に出会った。彼女はいつも同じベレーをかぶり白いスピッツを連れて、一人で散歩していた。だれひとりこの婦人の素姓を知っている者はなく、みんなはただ「犬を連れた奥さん」と呼んでいた。
『亭主や知合いが一緒に来ていないのなら』と、グーロフは想像を逞しゅうした。『付き合ってみるのも悪くないな』
グーロフはまだ四十前だったが、もう十二歳になる娘が一人と、中学生の娘が二人いた。まだ大学の二年生だったとき早くも結婚させられたので、今では細君のほうが一倍半は老けて見えた。細君は背の高い、眉の濃い、一本気な、勿体ぶった、しっかり者の女で、自らインテリと称していた。そしてたくさん本を読み、手紙には改良仮名づかいを用い、夫のことをドミートリーではなくディミトリ〔西欧風〕と呼んでいたが、グーロフのほうは内心この妻をあさはかで視野の狭い野暮な女だと思い、敬遠して家に居つかなかった。浮気をするようになったのはすでにだいぶ以前からのことで、それも相当たび重なり、たぶんそのためなのだろうが、女のことは殆どいつも悪く言い、自分のいる席で女の話が出ると、きまってこんなふうにけなすのだった。「低級な人種さ!」
女たちのことをどう呼ぼうと、自分は苦い経験をなめたのだから充分にその資格があるとグーロフは思っていたが、その実この「低級な人種」なしでは二日と生きていけないのだった。男同士でいるときは退屈で、落着かず、無口で冷淡になるのだが、女たちの中にいるときは自由な気分になり、話題といい立居振舞いといい、心得たものであった。女たちとならば黙っていてさえ気が楽だった。グーロフの容貌や性格には、つまりこの男の天性には捉えがたい一種の魅力があって、それが女たちの心を惹き、女たちを招き寄せたのだろう。グーロフはそのことを意識していたが、彼自身もまた何かの力によって女たちの方へ引寄せられるのだった。
度重なる経験、それも現実には苦い経験によってグーロフがとうの昔に学んだことだったが、一般に女との付合いというものは初めのうちこそ人生を楽しく豊かなものにする甘い軽やかな事件のように見えるけれども、まともな人間、殊に尻が重くて優柔不断なモスクワっ子の場合、それは必然的に複雑きわまる大問題へと発展し、とどのつまりは抜き差しならぬ事態に陥ってしまうのである。だが新たに興味を惹くような女と出会うと、その経験はいつのまにか記憶からずり落ちて、なんとなく人生を楽しみたくなり、何もかもが単純に面白おかしく見えてくるのだった。
さて、ある日の夕方、グーロフが公園で食事をしていると、例のベレー帽をかぶった婦人がゆっくり近寄って来て、隣のテーブルに着いた。その表情や歩きぶりや服や髪かたちからグーロフが感じとったのは、この女が良家の出であり、人妻であり、ヤルタへ来たのは初めてで、しかも一人ぼっちで退屈しているということだった……この土地の風紀が悪いという話には嘘が多く、グーロフはそんな話を軽蔑していたし、そういう話をでっちあげるのは腕さえあれば悪事を働きたくてうずうずしている連中が大部分であることも承知していた。だが今、三歩と離れていない隣のテーブルにその婦人が坐った途端、グーロフの心に浮んだのは、女をやすやすとものにしたとか、山奥へドライブに行ったとかいうたぐいの話ばかりで、行きずりの慌しい情事だとか、名前も苗字も知らない謎の女とのロマンスだとか、そういった誘惑的な想いが突然グーロフを捉えてしまったのである。
グーロフはやさしくスピッツにおいでおいでをして、犬が寄ってくると指を立てて嚇かした。スピッツは唸り出した。グーロフはまた嚇かした。
婦人はグーロフをちらと見て、すぐに目を伏せた。
「その犬、咬みませんわ」と婦人は言い、顔を赤らめた。
「骨をやって構いませんか」相手がうなずいたので、グーロフは愛想よく尋ねた。「ヤルタへはもうだいぶ以前からですか」
「五日ほどになります」
「私はもうじき二週間になるんです」
暫く沈黙が流れた。
「時の経つのは早いものですけれど、でもここはとても退屈で!」と、グーロフを見ずに婦人が言った。
「ここが退屈だというのは、まあ決まり文句のようなものですね。ベリョフやジズドラみたいな田舎町に住んでいて結構退屈しない連中が、ここへ来るや否や、『ああ退屈だ! ああ、埃がひどい!』まるでグラナダからでも来たようにね」
婦人は笑い出した。それから二人は見知らぬ人同士のように黙って食べつづけた。だが食事がすんで一緒に歩き出すと、行先や話題にこだわらぬ何不足ない自由な人たちに特優の、冗談まじりの気軽な会話が始まった。二人は散歩しながら、海が奇妙な光り方をしていると話し合った。水は非常に柔らかく温かそうな藤色で、その上に月が一筋の金色の帯を流していた。昼間が暑かったからまだ蒸し蒸しするという話も出た。グーロフは自分がモスクワっ子で、大学は文科を出たけれども今は銀行に勤めていると語った。かつて市立の歌劇団の歌手になろうとしたが結局やめたことや、現在モスクワに家を二軒ほど持っていることも……一方、相手の話からは、この女性がペテルブルグ育ちで、S市へ嫁に行き、そこでもう二年暮していること、ヤルタにはあと一ヵ月ほど滞在の予定であること、夫も休養したがっているからいずれ現われるだろうことなどが分った。夫の勤め先が県庁なのか県の自治会なのか、女にはどうしても説明できず、それを女は自分でもおかしがった。そして女の名前がアンナ・セルゲーエヴナであることも、グーロフは知った。
《チェーホフはノック抜きで、いきなり短篇「犬を連れた奥さん」の世界に入る。ここにはいささかの優柔不断もない。劈頭の文章から女主人公の姿が──黒海沿岸クリミヤ地方の保養地ヤルタの海岸通りを、白いスピッツを連れて散歩するブロンドの若い婦人の姿が現れる。つづいて直ちに、男の主人公、グーロフが現れる。グーロフが子供たちと一緒にモスクワに残して来た細君の姿が、鮮明に描き出される。背が高く、眉が濃く、自ら「インテリ」と称していること。ここで作者が集めた瑣末事の織りなす魔術に注目せよ。古い正字法では発音しない文字が使われるが、グーロフの細君はその文字をわざと使わない。そして夫を呼ぶときには、わざわざ長たらしい改まった呼び名を用いる。この二つの特徴は、彼女のしかめっ面や、勿体ぶった身のこなしと相俟って、必要以上でも以下でもない、ぴったりの印象をかたちづくる。つまり、当時の女性解放思想や社会思想に目ざめたしっかり者の女性ということだが、夫はそんな細君を心の底ではあさはかで、視野の狭い、野暮な女だと思っている。自然ななりゆきとして、話は、グーロフの度重なる浮気へ、女性一般にたいする彼の態度へと移る──「低級な人種」と彼は女たちのことを呼ぶのだが、その低級な人種なしでは生きてゆけないのだ。次にこのようなロシア人の浮気沙汰は、モーパッサンのパリにおけるごとき軽薄なものとは全く違うことが、それとなく語られる。品のよい、ためらいがちなモスクワ人の場合には紛糾や難問がついてまわる。彼らは初めのうちこそ尻が重いが、ひとたび事が始まると、たちまち抜き差しならぬ事態に陥ってしまうのだという。》──ナボコフより。
いや、実際チェーホフがこの短篇冒頭で駆使する、ディエゲーシス、括復的記述、ディエゲーシス、情景法……のなめらかな往復は素晴らしいとしか言いようがない。しかもナボコフの言うとおりその中で必要十分な登場人物たちについての輪郭を刻み込む。たった三ページだぜ! 記述の引き締まり具合が比類ない。これは大いに学ぶべきだわ。
●「決闘」118-119頁
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朝の八時だった。蒸し暑かった夜が明けて、士官や役人や観光客たちが海で一泳ぎし、それからコーヒーや紅茶を飲みに茶亭へ立ち寄る時刻である。イワン・アンドレーイチ・ラエーフスキーという、年は二十七、八、痩せぎすで、髪はブロンド、大蔵省の制帽をかぶり上履をはいた青年は、水浴びに来て浜で大勢の知合いと出逢ったが、そのなかには友人の軍医サモイレンコもいた。
刈り上げた大きな頭、短い頸、赤ら顔、大きな鼻、もじゃもじゃの黒い眉、灰色の頬ひげ、肥えた体、たるんだ皮膚、おまけに声は軍隊風の嗄れた低音というわけで、このサモイレンコは、ここへ来たばかりの人には嗄れ声の成上がり者という不愉快な印象を与えたが、初対面の日から二、三日も経てば、この顔は妙に善良な、やさしい顔に見え、更には美しくさえ見え始めるのだった。不細工な外見や、いくらか粗暴な物腰とは裏腹に、この男は静かで、限りなく善良で、温和で、親切な人間なのである。町中の人と君僕の間柄だったこの男は、だれにでも金を貸し、だれでも診療してやり、縁談を取持ち、喧嘩の仲裁をし、ピクニックのお膳立てをし、そのピクニックでは羊肉を串焼きにしたり、非常に味のいいボラのスープをこしらえたりした。要するに年中だれかのために走りまわり、だれかの世話を焼き、いつも何かしら嬉しがっていた。衆目の一致するところ、きわめて罪のない男で、欠点といえば二つしかなかった。その一つは、自分の善良さを恥じて、故意に厳しい目つきや見せかけの粗暴な物腰で本心を隠そうとすることであり、もう一つは、まだ五等官なのに衛生兵や一般の兵士から閣下と呼ばれるのを好むことだった。
「ねえ、アレクサンドル・ダヴィーディチ、一つ質問に答えてくれないか」と、サモイレンコと二人で肩の深さまで水に入ったとき、ラエーフスキーが言い出した。「これは仮定の話だけれども、きみが一人の女を愛して、その女と一緒になったとする。そして二年あまり同棲したあげく、よくあることだけれども、愛情がさめて、まるで見も知らぬ女と一緒にいるような気持になったとする。そういう場合、きみならどうする」
「簡単さ。おい、どこへでも勝手に出て行け──それだけ言やあいいじゃないか」
「言うは易しだ! その女に行きどころがなかったら? 身寄りのない孤独な女で、金もなく、働く能力もないとしたら……」
「なあに、それなら一ぺんに五百ルーブリも叩きつけてやるか、でなきゃ月に二十五ルーブリずつ払うか、それで文句はないだろう。簡単なもんだ」
「じゃ、きみにその五百ルーブリ乃至は月に二十五ルーブリが払えると仮定しよう。ところが、今話しているこの女はインテリで、気位が高いんだ。まさか金を突きつけるわけにはいかないだろう。払うにしても、どういうかたちで払ったらいい?」
サモイレンコは何か答えようとしたが、そのとき大きな波が二人に襲いかかり、それから岸に砕けて、ざわめきながら小石の間を引いて行った。二人は岸へ上がって、服を着始めた。
「そりゃあ、愛していない女と一緒に暮すのはいやなものだ」と、サモイレンコが長靴の砂をふるい出しながら言った。「でもね、ワーニャ、人情ということも考えなくちゃいけない。もしもぼくがそんな立場に立ったとしたら、愛情がさめた素振りも見せずに死ぬまで添いとげるだろうな」
はっきりいって、これだけ適確に物語の本流である会話に繋げることができないならば、もう小説の才能はないと諦めた方がよいだろう。やたらと言葉を費やす必要なんかないんだよ。たった二段落だけだ。それだけで、情景を立ち上げ、人物の実在感を励起し、物語冒頭に必須の文脈を凝縮して提示することができる。それも読みやすい叙述の流れによってだ。これだよ。これができるか否かなんだよ。
余談。サモイレンコの人物描写が主に習慣的記述から成り立っていることに注目せよ。「町中の人と君僕の間柄だったこの男は、だれにでも金を貸し、だれでも診療してやり、縁談を取持ち、喧嘩の仲裁をし、ピクニックのお膳立てをし、そのピクニックでは羊肉を串焼きにしたり、非常に味のいいボラのスープをこしらえたりした。要するに年中だれかのために走りまわり、だれかの世話を焼き、いつも何かしら嬉しがっていた……」。
●「わが人生」310-313頁
第一章
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所長がわたしに言った。『君をここにおいといてあげるのは、お父上に対する尊敬の気持からにすぎないんだよ。でなけりゃ、君なんか、とうの昔にとんじまってたろうさ。』わたしは答えた。『あまり喜ばせないでくださいよ、所長さん、僕が空をとべると、考えてくださるなんて。』やがて、彼がこう言っているのがきこえた。『あの先生をどこかへやってくれ、実に神経にさわる男だ。』
二日ほどたって、わたしはクビになった。市の建築家である父にしてみれば大いに嘆かわしい話だろうが、わたしは、成人とみなされるようになってからこのかた、この調子で九つも勤めを変えてきた。
いろいろな役所に勤めてはみたが、九つの職務はどれもこれも、水滴のように似たり寄ったりのものだった。坐って、書いて、愚にもつかぬ、でなければ乱暴な小言を拝聴し、クビにされる日を待っていなければならぬ始末だった。
父の部屋に行くと、父は眼を閉じたまま、肘掛椅子に深々と腰をおろしていた。ひげ剃り痕の青々としている、痩せしなびた父の顔は(カトリック教会のオルガンひきの老人に似た顔だった)、おだやかな忍従の色をあらわしていた。わたしのあいさつには答えず、眼をとじたまま、父は言った。
「もし家内が、お前の母さんが生きていたら、お前の生活はあれにとっちゃ、たえまない悲しみのタネだったろうよ。俺は、あれが早死にしたことを、神さまの思いやりだとさえ思ってるんだぞ。お前も不幸な性分だな。」眼を開きながら、父はつづけた。「ひとつ教えてくれんか。いったいどうすりゃいいんだ、お前のことを?」
以前、わたしがもう少し若かった頃には、親戚や知人たちも、わたしの扱いを知っていたものだ。志願兵になれとすすめてくれる人もあったし、薬局や電信局につとめろと言ってくれる者もいた。しかし、わたしももう二十五になり、小鬢に白いものさえ見えはじめ、その上すでに志願兵になったこともあれば、薬剤師にもなり、電信局にもつとめたあげくの今となっては、もはや、附けよう薬がないと思うらしく、だれ一人忠告してくれる者もなくなり、ただ溜息をつくか、首をふっているだけだった。
「お前は自分自身をどう思っとるんだ?」父はなおも言った。「お前くらいの年になれば、若い連中だって、安定した社会的地位にちゃんとついとるよ、自分をふりかえってみるといい。プロレタリヤで、文なしで、いまだに親のすねかじりじゃないか!」
そして父は、例によって、今どきの若い者は救いようがないという話をしはじめた。若い連中は無信仰と、唯物論と、度をすぎた自惚れとで、わるくなる一方であり、アマチュア演劇などは、青年を宗教や義務から引き離すばかりだから、禁止せねばならぬ、というのが父の言い分だった。
「明日いっしょに行ってやるから、所長さんによくお詫びするんだぞ、今後まじめに勤めますと約束してくるんだ。」父は結論を言った。「一日たりとも、社会的地位なしにいるような真似は、すべきじゃないからな。」
「僕の言うことも一応きいてくれませんか。」こんな話し合いをしたところで何一つロクなことは期待できぬと思いながら、わたしは不機嫌に言った。「お父さんのいわゆる、社会的地位なるものは、資本と教育の特権にほかならないんですよ。金や教育のない人間は肉体労働で自分のパンをかせいでいるんですからね。僕には、どうして自分だけ例外でなけりゃいけないのか、その理由がわからないんですよ。」
「お前の口から肉体労働なんてことをきかされると、ばかばかしくて、陳腐にきこえるよ!」父はじりじりした口調で言った。「お前もよくよくのバカだな、いいか、まぬけ、よく考えてみろ。お前は、体力なんていう野蛮なもののほかに、さらに神の精神をさずかっているんだぞ。お前をロバや蛇からトコトンまで区別して、神に近づけてくれる聖なる灯をさずかっているんだ! この灯は、選りぬきの人々が、何千年もかかってかち得たものなんだ。お前の曾祖父さんは将軍で、ボロジノで勇敢にたたかったものだし、お祖父さんにしても詩人で、雄弁家で、貴族会長までつとめた人だし、伯父さんは教育家だ。それに、お前の父親であるこの俺だって、建築家なんだぞ! ポロズニェフ家の人間が聖なる灯をこれまでみんなで大事に守ってきたのも、お前に消してもらうためだったというのか!」
「公平でなけりゃいけませんからね。」わたしは言った。「肉体労働をしている人間は、何百万といるんですよ。」
「させておきゃいいじゃないか! そんな奴らは、どうせほかのことは何一つできやしないんだ! 肉体労働なんてものは、だれでもできるんだ、底ぬけのバカでも、犯罪者でもな。肉体労働なんて奴隷や野蛮人の特性にほかならんよ、それにひきかえ、聖なる灯を与えられているのは、ごく少数の人間だけなんだぞ!」
こんな会話をつづけてもムダだった。父はうぬぼれが強く、自分の言ったことしか納得できぬタチだった。その上、父が筋肉労働をケナしつけた時のあの傲慢さにしても、根底にあるのは、聖なる灯とやらに関する憂慮よりもむしろ、わたしが労働者なぞになったら町中の噂を買ってしまうという、ひそかな危惧だったのだ。わたしにはそれがよくわかっていた。何より重大なのは、同年輩の連中がとうの昔に大学を終えて、それぞれ順調なコースを歩んでおり、国立銀行支店長の息子などはもう八等官にまでなっているのに、一人息子のわたしだけが、いまだにペイペイであるという点だった! 会話をつづけてもムダだったし、不愉快でもあったが、それでもわたしは腰をすえ、そのうちには理解してもらえるだろうと期待しながら、弱々しく反駁していた。とにかく問題は単純明快であり、いかにしてわたしがパンを得るかという方法に関係しているだけなのに、その単純さをわかってくれず、ボロジノだの、聖なる灯だの、あるいはまた、伯父とかいう、かつて下手くそなエセ詩を書いていた、忘れられた詩人のことだのを、歯の浮くような言葉で話したり、僕のことをまぬけだの、よくよくのバカだのと、クソミソにやっつけたりするのだ。どれほどわたしが、自分の気持を理解してもらいたいと思っていたことだろうか! 何はともあれ、わたしは父や姉を愛しているのだし、それに、ごく幼い頃からこの二人に助言を求める習慣が、しっかりとわたしの内に根をおろしてしまったので、やがてそのうちにこの習慣からぬけだせるかどうかも怪しいものだった。わたしが正しい時もあれば、わるい時もあるのだが、常にわたしは二人を嘆かせることをおそれ、父の痩せこけた頸が興奮で赤くなったりすると、脳溢血で倒れはせぬかと案ずるのだ。
「息ぐるしい部屋に坐って、さ。」わたしはつぶやいた。「筆写をしたり、タイプライターと腕を競い合ったりするなんて、僕くらいの年齢の人間にとっては、恥ずかしいことだし、屈辱的ですよ。この場合、聖なる灯のことなんか言ってられやしませんよ!」
「そうは言っても、やっぱり知的労働だからな。」父は言った。「が、もういい、こんな話はよそうじゃないか、とにかく今からはっきり念を押しとくがな、もしもお前がまたぞろ勤めに出ないで、どこまでもそういう卑しい傾向に従うというんだったら、俺も娘も今後お前には愛情を示さんからね。遺産もやらんよ、本当だぞ!」
小説冒頭からの、すさまじい段落モンタージュ。要約法、時間の飛躍、習慣的ディエゲーシス、第一声から文脈を強烈に込めた科白、科白と科白の間に説明的ディエゲーシスのモンタージュ……。上手過ぎるだろ……。これはそのまま朗読したっていい。
●「わが人生」320-322頁
第二章
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慈善のためのアマチュア演劇や、コンサート、活人画などの愛好者たちの中で、この市いちばんの地位を占めているのは、バリシャーヤ・ドヴォリャンスカヤ通りに一戸をかまえているアジョーギン家だった。この家はいつでも場所を提供してくれたし、煩雑な仕事や経費も全部引き受けてくれた。この裕福な地主の家族は、豪壮な屋敷のついた約三千ヘクタールの地所を都内に持っているのだが、田舎をきらい、夏も冬も町で暮らしていた。家族といっても母親と、三人の娘だけだった。母親というのは、背の高い、細作りの、なよなよとした婦人で、ショート・ヘアに、短い上衣、イギリス・スタイルのタイト・スカートという服装をしていた。娘たちのことを話す時には、だれもが名前をよばず、ただ上、中、下で片づけていた。三人が三人とも、猫背で、近眼で、顎は尖って美しくなく、服装こそ母親と同じようにしているものの、舌たらずな話し方はむしろ不快だった。が、それにもかかわらず、彼女たちはどの公演にも必ず一役買い、慈善のためにたえず何かしらやっていた。芝居もすれば、朗読もやり、歌もうたうのだった。三人ともひどくまじめで、笑顔など一度も見せたためしがなく、滑稽なミュージカルに出る時でさえ、これっぱかりも陽気なところは見せず、まるで簿記でもやっているように、事務的な顔つきをしていた。
わたしは、われわれのこの芝居、それも特に稽古が好きだった。いささかバカげた、たびかさなる騒々しい稽古のあとでは、いつも夜食がでた。脚本の選択や、役の割りふりには、わたしは全然タッチしなかった。わたしの役目は、裏方だった。セットも描けば、配役一覧表も作りし、プロンプターもやれば、メーキャップもしてやるという工合で、その上、雷鳴とかウグイスの鳴声などのような効果の設定も、わたしに任されていた。わたしには社会的地位もないし、人並みの服装もなかったので、稽古の時には舞台袖のセットの物かげに一人離れて、内気に黙りこんでいた。
セットを描くのは、アジョーギン家の物置か中庭でだった。ペンキ屋、いや、当人は塗装業請負人とみずから称しているのだが、とにかくそのアンドレイ・イワノフが、わたしの手助けをしてくれた。五十がらみの、背の高い、ひどく痩せて顔色のわるい男で、胸はおちくぼみ、まぶたはへこんで、眼の下に青いくまができており、見た眼には不気味なほどだった。何やら消耗のはげしい病いにかかっているとかで、毎年春と秋に、いよいよ終りらしいと噂されるのだが、しばらく寝ていると、また起きだしてきて、自分でもふしぎそうにこう言うのだった。『また死ななかったよ!』
町では彼をレージカとよび、これが本名なのだと言っていた。わたしに劣らぬくらいの芝居好きで、新しい演しものが計画されているという噂を耳にはさむや、仕事も何もそっちのけで、セットを描きにアジョーギン家にやってくるのだった。
姉としんみり話し合った翌日、わたしは朝から晩まで、アジョーギン家で働いていた。稽古は晩の七時と定められていたが、定刻一時間前には、もう愛好者たちが全員ホールに顔をそろえ、上と中と下の娘たちが舞台を歩きながら、台本を読んでいた。赤茶けた色の外套を着て、頸にマフラーをまきつけたレージカも、壁にこめかみを押しつけるようにしてそこに立ち、おごそかな顔つきで舞台をみつめていた。母親のアジョーギン夫人は、客のだれかれに歩みよっては、ひとりひとりに何かしら嬉しがらせを言っていた。彼女には相手の顔をじっとみつめて、秘密めかしく小さな声で話すくせがあった。
「セットを描くのは、さぞ難しいでしょうね。」彼女はわたしのそばへ来て、低い声で言った。「あたくし、今しがたマダム・ムフケと迷信について論じ合っていたんですけど、あなたのいらしたのはわかりましたわ。ほんとに、あたくし、これまでの一生を迷信とたたかってきたんですのよ! そういうものの恐怖がどれほどバカげているかを、召使たちにも呑みこませるために、うちではいつもロウソクを三本ともしていますし、大事なことはみんな十三日にはじめることにしていますのよ。」
章冒頭からの引用。ちゃんと小説世界の情景が広がっていくように説明的ディエゲーシスの段落をモンタージュしていく。この市の習慣、アジョーギン家の習慣、私の習慣、レージカの習慣、というふうに習慣的ディエゲーシスを組み合わせて十分文脈を厚くしてから、満を持して「姉としんみり話し合った翌日、……」と単起的な情景を開始する。とはいえ、ここでもまだ母親のアジョーギン夫人に関する習慣的記述がまぎれこみ、その習慣がふたたび現実化したという形で、彼女がわたしに話し掛けるという流れになっているのは見事。しかもそのときの科白が、単なる会話ではなくて、やはりアギョージン夫人の習慣の間接開示となっている(「うちではいつもロウソクを三本ともしていますし、大事なことはみんな十三日にはじめることにしていますのよ」)。習慣的記述によって文脈を厚くしていく、ということを現前的会話も含めた段落モンタージュでやるというのは、技法的に非常に高度!
●「往診中の出来事」82-84頁
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リャリコフ工場から教授に電報が来た。なるべく早く往診を頼むという。リャリコワ夫人というのは工場の経営者らしかったが、その娘の具合が悪くなったといい、それ以上のことは支離滅裂に綴り合わされた長文のその電報からは何一つ分らなかった。そこで教授は自分では行かず、代りに主任医師のコロリョフを往診に出した。
モスクワから二つ目の駅で下り、それから馬車で約四里という道のりだった。駅には三頭立ての馬車がコロリョフを迎えに来ていた。孔雀の羽根を帽子に飾った馭者は、何を訊かれても大声で、軍隊風に「違うであります!」とか「そうであります!」とか答えた。土曜日の夕方で、陽は沈みかけていた。工場から駅にむかって歩く労働者たちの群れは、コロリョフの馬車にお辞儀をした。両側に点在する地主の屋敷や別荘や白樺など、この物静かな夕べの風景にコロリョフは魅了された。休日の前夜、労働者たちと一緒に、野原も森も太陽も休息の支度をしているように見えた。休息して、たぶん祈りを捧げるのだろう……
モスクワ生れでモスクワ育ちのコロリョフは田舎を知らなかったし、工場というものには興味もなければ、足を踏み入れたこともなかった。だが工場について書いたものを読んだことや、工場経営者の家に招待されて経営者と言葉を交わしたことはあった。そこで何かの工場を遠くあるいは近くで見るたびに、見かけはあんなふうに静かで平穏だが、一歩中へ入れば手のつけられぬ無知蒙昧と、始末に負えぬ経営者のエゴイズムと、労働者の健康をむしばむ労働と、喧騒、ウォツカ、油虫、といった状態に違いないと思うのだった。そして今も恐ろしそうに馬車を避けてお辞儀する労働者たちの顔や鳥打帽や歩きぶりに、体の不潔さや、深酒や、神経の異常や、無気力を読もうとするのだった。
馬車は工場の門を入った。両側に労働者の住居が見え、女たちの顔や、入口に干してある下着や毛布がちらりと見えた。「どいた、どいた!」と、馬の速度をゆるめずに馭者がどなった。まもなく草の生えていない広い敷地に入り、そこには煙突のある五棟の巨大な工場が互いに適当な距離をおいて並び、ほかに倉庫やバラックがあったが、どの建物もちょうど埃をかぶったように何やら灰色の膜に覆われていた。ところどころに、砂漠のオアシスのように小さな貧弱な庭があり、管理者たちの住む家々の緑や赤の屋根があった。馭者がふいに馬を制止し、馬車は灰色に塗りかえたばかりの一軒の家の前でとまった。小さな庭には埃をかぶったリラの花があり、黄色い入口の段々はひどくペンキ臭かった。
「どうぞ、先生、お入り下さいませ」と、玄関から女たちの声が聞え、同時に溜息と囁きが聞えた。「お待ちしておりました……ほんとにもう困ってしまって……どうぞ、こちらへ」
リャリコワ夫人は年配の肥った婦人で、流行の袖をつけた黒い絹の服を着ていたが、顔つきから判断すればあまり教養のない素朴な女で、心配そうにコロリョフを見つめ、自分から手を差出して握手する勇気もないのだった。夫人と並んで立っていたのは、髪を短く切り、鼻眼鏡をかけ、色模様のブラウスを着た、もう若くはない痩せた女だった。この女性はフリスチーナ・ドミートリエヴナといい、きっと家庭教師だろうとコロリョフは推察した。家中で一番教養のある人間として、この女性は医者の相手をするよう言いつかっていたらしく、すぐに病気の原因を事細かに押しつけがましく述べ始めたのはいいが、肝心の患者がどこのだれで、一体どういうことがあったのかは、なかなか言わないのだった。
医者と家庭教師は椅子に坐って話し、その間、この家の女主人は身じろぎもせずにドアのそばに立って待っていた。まもなく相手の話からコロリョフは知ったのだが、患者はリーザという二十歳の娘で、これはリリャコワ夫人の一人娘であり遺産の相続人だった。病気はもうだいぶ前からで、いろんな医者に診てもらったのだが、ゆうべは夕方から明け方まで心臓の動悸が早くなり、家中の者が眠れなかった。もう死ぬのではないかと思ったほどだという。
「小さい頃から病気がちの子でした」と、フリスチーナ・ドミートリエヴナは絶えず片手で唇を拭いながら歌うような口調で言った。「先生方はただの神経だとおっしゃいますけど、子供の頃、瘰癧をむりに散らしたことがあって、私はそのせいじゃないかとも思いますけれど」
情景法のスピードをコントロールするチェーホフの腕前はほぼ完璧と言ってよいのではないか。改行した後の段落冒頭ではディエゲーシスを挿入することができるという技法を最大限活かして、要約法でのスピードアップや、とくに「モスクワ生れでモスクワ育ちのコロリョフは田舎を知らなかったし、……」「リャリコワ夫人は年配の肥った婦人で、……」といった説明的ディエゲーシスを情景法の中に見事に混入させている。さらに注目すべきは、説明的ディエゲーシスの中でも、例えば「この女性はフリスチーナ・ドミートリエヴナといい、きっと家庭教師だろうとコロリョフは推察した。」の文章のように、語り手が登場人物の名前を「説明」しているかと思えば、主人公が「観察」もしているという、説明とも情景法ともつかない二重の文体でしなやかに描かれている点だろう。つまり、このように情景法のスピードをテクニカルにコントロールしながらも、チェーホフの短篇がナボコフのそれのようにエッセーじみた馴れ馴れしさに堕してしまわず、客観的な構築性を保っている所以がここにあるように思われる!
余談だが、必要最小限の細部(だいたい、段落の最後に補足的にくっついてくる)の鮮やかさも素晴らしい。「小さな庭には埃をかぶったリラの花があり、黄色い入口の段々はひどくペンキ臭かった。」
●「往診中の出来事」85-88頁
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三人は患者の部屋へ行った。すでに大人になりきっている背の高いその娘は、しかし不器量で、母親に似て目が細く、顔の下半分が不釣合いに発達していて、乱れた髪のまま顎まで毛布をかけているその姿は、初めのうち、お情けでここに匿われ保護されている不幸な貧しい娘といった印象をコロリョフに与え、これが五棟の巨大な工場の相続人だとはとても信じられなかった。
「さあ」とコロリョフは言った。「あなたを直しに来ましたよ。こんにちは」
コロリョフは名を名乗り、娘の手を──大きな、冷たい、醜い手を握った。娘は上半身を起し、もう医者には馴れている様子で、むきだしになった肩や胸を少しも気にせず聴診を受けた。
「動悸がするんです」と、娘は言った。「一晩中とても恐ろしくて……こわくて死にそうでした! 何かお薬を下さい」
「あげます、あげます! まあ落着いて」
コロリョフは診察を終え、肩をすくめた。
「心臓はなんともありません」と、コロリョフは言った。「どこにも特に異常は認められませんね。たぶん神経が少し参っていたんでしょうが、それもよくあることです。とにかく発作はもう終ったのですから、あとはよく眠ることですね」
そのとき寝室にランプが運びこまれた。患者は明るい光に目を細めたが、とつぜん両手で頭をかかえて激しく泣き出した。すると不幸な醜い娘という印象が俄かに消え、細い小さな目も、粗野に発達した顔の下半分も、もはや気にならなかった。コロリョフが見たのはたいそう知的で感動的な苦悶の表情であり、娘の姿全体も均整のとれた、女らしい、素朴なものに見え、もはや薬や医者としての指図によってではなく普通のやさしい言葉でこの娘をなだめたいという気持が涌き起った。母親が娘の頭を抱きかかえるように引寄せた。年老いた女の顔にはどれほどの絶望が、どれほどの悲しみが現われていたことだろう! この女は母親として娘に乳を与え、何一つ惜しまずに育て上げ、自分の生活を犠牲にしてまでフランス語やダンスや音楽を習わせ、何十人もの先生につかせ、何人もの有名な医者に診察させ、その間ずっと家庭教師を雇っていたというのに、今なぜこんなに娘が泣くのか、なぜこんなに苦しむのか理解できず、理解できずに途方に暮れ、うしろめたそうな、不安そうな、絶望的な表情をしているのだ。ちょうど、まだ非常に重要な何かを失くしたときのように、あるいは何かを仕残したときのように、さもなければ、だれかを招待するのを忘れたが、それがだれだったか分らなくなったときのように。
「リーザンカ、お前また……お前また……」と、母親は娘を抱きしめて言った。「ねえ、いい子だから、頼むから言ってちょうだい、どうしたの。私を可哀想だと思って言ってちょうだい」
二人の女はさめざめと泣いた。コロリョフはベッドの端に腰を下ろし、リーザの手を取った。
「もうおやめなさい、泣く必要がありますか」と、コロリョフはやさしく言った。「そんなに泣かなければならないことは、この世には一つもありません。さあ、もう泣かないで、泣く必要はありません……」
だが心の中では思った。
『この娘もそろそろ嫁に行かなければ駄目だな……』
「ここの工場の医者はカリブロマティを処方して下さいましたけど」と、家庭教師が言った。「私が見ていますと、なんだかいっそう悪くなったようです。私の考えでは、心臓の薬でしたらやはりあの……なんて言いましたかしら……葉蘭の煎じ薬でも……」
そして又もや面倒な細かい話が始まった。この女はしばしば医者の話の腰を折り、家中で一番教養がある人間としてはのべつ幕なしに医者と話を、それも医学の専門的な話をしなければいけないと思い定めてでもいるように、その顔には努力の色が現われているのだった。
コロリョフは退屈になった。
「特に悪い所は見当りません」と、寝室から出ると、母親にむかってコロリョフは言った。「もし工場の医者が娘さんを診ているのでしたら、その治療をお続けになって下さい。今のところ正しい治療のようですから、特に医者を替える必要はないと思います。替えても何にもなりませんよ。よくある病気で、危険なところは少しもないのですから……」
手袋をはめながらコロリョフはゆっくりとそう言い、リャリコワ夫人は固くなって突っ立ったまま、泣きはらした目で医者を見つめた。
見事すぎる。リーダブルな改行の流れの中で、かなり描くのが難しいと思われるコロリョフの感情を変化をきっちり描き切って伝達している(「もはや薬や医者としての指図によってではなく普通のやさしい言葉でこの娘をなだめたいという気持が涌き起った」)。しかもそのあとにちょっと目先を変えるかのように母親の動作描写がつづくのだ(「母親が娘の頭を抱きかかえるように引寄せた」)。いや、さらにその後には語り手の慨嘆のディエゲーシスがつづくのだ(「年老いた女の顔にはどれほどの絶望が、どれほどの悲しみが現われていたことだろう!」)。なんという文体の多彩さだ!
●「いいなずけ」242-244頁
一
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もう夜の十時頃で、庭の上には満月が輝いていた。シューミュン家では祖母のマルファ・ミハイロヴナの希望で行われた晩祷式が今しがた終り、一息つきに庭へ出て来たナージャには、広間で夜食のテーブルが用意される様子や、派手な絹の服を着た祖母が忙しげに立ち働いている有様がよく見えた。本山の司祭長であるアンドレイ神父はナージャの母親のニーナ・イワーノヴナと何か話していたが、こうして窓ごしに夜のあかりの下で見る母親はなぜかたいそう若々しく見えた。二人のそばにはアンドレイの神父の息子のアンドレイ・アンドレーイチが立ち、注意深く耳を傾けていた。
庭は静かで涼しく、ひっそりとした黒い影が地面に落ちていた。どこか遠くで、たぶん町はずれだろう、非常に遠い所で蛙の啼きかわす声が聞えた。まさしく五月、いとしい五月! 深々と息を吸いこめば、ここではなくどこかの空の下、木立ちの上、遠い郊外の野原や森に、罪深く弱い人間には思いも及ばぬ春の生活が、神秘的で美しく、豊かで清らかな生活が今や繰りひろげられているのだと思いたくなる。そしてなぜか泣きたくなるのだった。
ナージャはもう二十三歳だった。十六の年から結婚のことを熱烈に空想してきたが、今とうとう窓のむこうにいるあのアンドレイ・アンドレーイチのいいなずけになった。ナージャはアンドレイが好きで、結婚式の日取りは七月七日とすでに決められていたけれども、実をいえばちっとも嬉しくなく、夜もよく眠れず、楽しい気分はどこかへ消えてしまった……台所のある地下室の開け放した窓からは、せわしげな庖丁の音や、滑車付きのドアをあけたてする音が聞え、七面鳥を焼く匂いや酢漬けの桜桃の匂いが漂ってきた。すると、どういうわけか、こんなことが一生涯続くような気がするのだった。なんの変化もなく、果てしもなく!
だれかが家の中から出てきて、入口の石段の上で立ちどまった。それは十日ばかり前にモスクワからやって来たアレクサンドル・チモフェーイチ、通称サーシャという客だった。ずっと昔のこと、祖母の遠戚にあたる没落貴族の未亡人で、マリヤ・ペトローヴナという小柄で痩せた病身の婦人が施し物を貰いによく来ていたが、この婦人にサーシャという息子がいた。なぜかこの息子はすばらしい絵描きだという評判がもっぱらであり、母親の未亡人が死ぬと、その冥福を祈る意味合いから、ナージャの祖母はサーシャをモスクワのコミサーロフ学校に入れた。二年ほど経つと、サーシャは美術学校へ移り、そこに十五年近くもいてから、やっとのことで建築科を卒業したが、建築家にはならずに、モスクワの或る石版印刷所に勤めた。そして殆ど毎夏のようにこの家に現われたが、たいていはひどく体をこわしていて休息と療養をかねて遊びに来るのだった。
今、サーシャはきちんとフロックのボタンをかけていたが、はいているズックのズボンは宗乙くたびれて、裾の方はすっかり踏みつぶされていた。シャツにもアイロンがかかっていなくて、全体的になんとなく生気がなかった。ひどく痩せていて、目ばかり大きく、指は細長く、髭もじゃで、色は浅黒かったが、それでもサーシャは美男子の部類に入るだろう。シューミン家の人たちとは肉親同様に親しくしていて、この家に来るとサーシャはわが家に帰ったようにくつろぐのだった。ここへ来るたびに寝起きする部屋は、もうだいぶ前からサーシャの部屋と呼ばれていた。
石段の上に立っていたサーシャは、ナージャの姿を見つけて近寄って来た。
「ここはいい家だなあ」と、サーシャは言った。
「もちろんいい家よ。秋までおいでになればいいのに」
「きっとそうなるでしょう。九月までお邪魔することになると思います」
サーシャは理由もなく笑い出し、ナージャのそばに腰を下ろした。
「もう夜の十時頃で、庭の上には満月が輝いていた。……」「庭は静かで涼しく、ひっそりとした黒い影が地面に落ちていた。……」「ナージャはもう二十三歳だった。……」「だれかが家の中から出てきて、入口の石段の上で立ちどまった。……」「今、サーシャはきちんとフロックのボタンをかけていたが、……」のそれぞれの段落第一文がすばらしい。というかこれらを連絡させる段落展開がすばらしい。
段落内部でも、情景法からはじめて説明的ディエゲーシスで終るような文章の組み合わせ方がすばらしい。説明が説明でないように感じさせ、しかもきびきびとした文章のつなげ方。すばらしい。
●「ふさぎの虫」4巻419頁
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たそがれ時。ぼた雪が、たった今ともったばかりの街灯の火影のなかを物うげに舞っては、家々の屋根や、馬の背や、肩や、帽子のうえへ薄い柔らかい層をなして降りかかる。辻橇屋のイオーナ・ポターポフは、幽霊のように全身まっ白になっている。彼は、生命の通った肉体が曲げられるだけまんまるく身を曲げて御者台に坐ったまま、ぴくりとも動かない。よし彼のうえへ大きな雪の塊がどさりと落ちかかろうとも、彼は雪をはらい落とす必要を感じなかったであろう。……彼の馬も同じように真白になりながら、身動き一つしない。そのじっと動かぬ様子といい、その角ばった体つきや、棒のように真直ぐな脚といい、それはむしろ一コペイカの糖蜜菓子の馬を思わせる。馬はどうやら物思いに耽っているらしい。すきからはなされ、なじみ深い灰色の景色からもぎはなされて、魔物のような火や、小やみない騒音や、走り廻る人びとなどで一杯のこの淵へ投げ込まれたら、どうして物思いに沈まないでいられよう。……
イオーナと彼の馬は、もうずいぶん前からその場所を動かない。彼らはまだ昼食まえに宿を出て来たが、今だにひとりも客が取れない。それなのにもう町のうえへは夕闇が下りて来た。青白い街灯の火がしだいに活気をあらわし、往来の混雑がだんだんと騒がしくなって来た。
「辻橇屋!、ヴィボルグスカヤ通りへ!」という声をイオーナは聞く。「辻橇屋!」
イオーナは身ぶるいして、雪のへばりついたまつ毛ごしに、頭布のついたマントを着た軍人を見る。
「ヴィボルグスカヤ通りへ!」と軍人は繰り返す。「おい、寝てるのか? ヴィボルグスカヤ通りだ!」
承知したしるしに、イオーナはぐいと手綱を引張る。その拍子に、馬の背と彼の肩から雪の層が飛び散る。……軍人は橇に乗り込む。御者は唇をちゅっと鳴らし白鳥のように首を伸ばして体を起すと、必要というよりはむしろ習慣からさっと鞭をふる。馬も同じように首を伸ばすと、杖のような足を曲げて、ためらいがちに動き出す。……
「どこを走るんだ、魔物め!」はじめのうちイオーナは、前後に動いている暗い群衆のなかから、こんなわめき声を聞く。「どこへ行くんだ? 右へ寄りやがれ!」
「きさま、馬を扱えんのか! 右へやれ!」と軍人が怒鳴る。
箱馬車の御者がののしる。道を走って横ぎる拍子に肩を馬の鼻面へぶつけられた通行人が、憎々しげに睨みつけて、袖の雪をはらい落とす。イオーナは、針のむしろに坐っているように御者台のうえでもじもじしながら、肘を両側へ突き出して、狂人のように眼をきょろきょろさせている。まるで自分がどこにいるのか、なぜここにいるのか、わからないような様子である。
「いやな連中ばっかりだな!」と軍人が洒落を言う。「わざわざきさまにぶつかろう、馬の下敷になろうとしているじゃないか。あの連中は、ぐるになってるんだな。」
イオーナは客を振りかえって、唇を動かす。……明らかに何か言いたいのだが、喉からはシュウという音いがい何も出ない。
「何だって?」と軍人がきき返す。
イオーナは口をひん曲げて微笑を浮かべ、喉を引きつらせて嗄れ声で言う。──
「あっしの、旦那、……せがれが、この週に死んじまったんで。」
「ふーむ!……どうして死んだんだ?」
イオーナは上体をそっくり客のほうへ向けて言う。──
「誰にそんなことがわかりましょう! きっと熱病に違えねえ。……三日病院にいて、死んじまった。……神様の御心で。」
「どっちかへ曲りやがれ、悪魔め!」と闇のなかで罵声がひびく。「何をうろうろしてるんだ、この老いぼれ犬め? 眼がねえのか!」
「さあ、やった、やった、……」と客が言う。「これじゃ明日までかかるぞ。もっとしっかり追え!」
御者はふたたび首を伸ばし、腰をあげて、勿体ぶった様子で鞭を振る。それから彼は、何度か客のほうを振り向くが、あいては眼を閉じて聞きたくもないようす。ヴィボルグスカヤで客を下ろすと、彼は居酒屋のそばに橇を止め、御者台に丸まってふたたび身動き一つしなくなる。……水気の多い雪がまたもや彼と馬とを真白に染める。一時間たち、二時間たつ。……
きびきびと映像的事実を積み重ねるだけで、主観的モノローグなどよりもよほど鮮明な憂鬱の感覚を喚起する。まさに「人物や事件について語るのではなく、人物や事件で語る」。「『辻橇屋!、ヴィボルグスカヤ通りへ!』という声をイオーナは聞く。」のように内的感覚を記述する文章ですら外部から外部へと抜けていくかのようだ。単に平易なだけの文体なのではない。冒頭から完全に背景を立体化させる思いきりの良さ、切れ味の鋭さこそが身上だ。
●「郊外の一日」5巻233頁
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朝の八時すぎだ。
鉛色をした暗い巨大な雨雲が太陽に向って這うように進んで行く。雲のそこかしこに赤いジグザクを描いて稲妻がきらめく。遠い雷鳴がきこえる。生あたたかい風が草の上を渡り、木々をたわませ、土埃りを舞いあげる。今にも五月の雨がざっときて、本格的な雷雨がはじまりそうだ。
今年六つの乞食娘フョークラが村中走りまわって、靴屋のテレンチイをさがしている。髪の白い、素足の少女は、まるで顔の色がない。眼は大きく見開かれ、唇がふるえている。
「ねえ、おじちゃん、テレンチイおじちゃんはどこ?」少女はすれ違う一人一人にたずねる。だれも答えてくれない。みなが迫り来る雷雨に気をとられ、そそくさと家の中に姿をかくす。やっと少女は、テレンチイの無二の親友である寺男のシランチイ・シールイチに出会う。彼は歩きながら、風によろけている。
「おじちゃん、テレンチイどこ?」
「野菜畑だよ。」シランチイが答える。
乞食娘は家並みの裏手にある野菜畑に走って行き、そこでテレンチイの姿を見いだす。靴屋のテレンチイは、あばただらけの痩せぎすの顔をした、足のひどく長い、長身の老人だ。ぼろぼろになった女房の上衣を着た彼は、跣足のまま、畔のわきに立ち、どろんと濁った酔眼で、真暗な雨雲を眺めている。鶴のように足が長いので、風を受けると、ムクドリの巣箱さながらに、ふらついている。
「テレンチイおじちゃん!」髪の白い乞食娘は声をかける。「おじちゃん、ねえ!」
テレンチイはフョークラの方に身をかがめる。酔いをたたえた、きびしい顔が、微笑におおわれる。ちょうど、眼の前に何か小っぽけな、愚かしい、滑稽な、しかし大好きなものを見いだした時に、人々の顔にうかぶ、あの微笑だ。
「おや……神の僕フョークラかい!」彼はあやすような口調でやさしく言う。「どっから来たね?」
「テレンチイおじちゃん、」フョークラは靴屋の裾をひっぱりながら、しゃくりあげる。「ダニールカ兄ちゃんが大変なの! いっしょに来てよ!」
「大変て何だい? ひょ、何てひでえ雷だ! 桑原桑原……大変て、どうしたんだい?」
「伯爵さまの森で、ダニールカが木の洞に手をつっこんだら、ぬけなくなっちゃったのよ。おじちゃん、行って、手をぬきだしてやって、ねえ!」
「どうしてまた、手なんぞつっこんだんだろう? どうしてだい?」
「あたいに洞の中の、カッコウの卵をとってくれようとしたの。」
「まだ一日がはじまるか、はじまらねえうちに、もう災難に会ったかい……」テレンチイはゆっくりと唾を吐きすてながら、首をふる。「さて、どうしたもんかな? とにかく行かなきゃなるまい……行かなけりゃね。やれ、世話のやける、いたずらっ子どもだ! さ、行こうよ、チビさん!」
テレンチイは菜園を出ると、長い足を高々とあげながら、通りを歩きはじめる。まるで背後からおされるか、追っ手におびえるとでもいうように、わき目もふらず、立ちどまりもせずに、さっさと歩いて行く。乞食娘のフョークラは、あとについて行くのがやっとだ。
二人は村を出はずれ、はるか遠く緑に望まれる伯爵家の森をさして、埃りっぽい街道を歩いて行く。森までは二キロほどある。一方、雨雲はもはや太陽を包みかくし、間もなく空には青い部分が一ヵ所もなくなる。暗くなってくる。
「神さま、神さま……」フョークラは、テレンチイのあとについて急ぎながら、つぶやく。
重い、大粒な最初の雨滴が、埃っぽい街道に、ぽつぽつと黒い点をつけて行く。大きな雨滴がフョークラの頬に落ち、涙のように下顎に這って行く。
「雨がはじまったな!」骨ばった素足で砂埃りをかき立てながら、靴屋がつぶやく。「ありがたいことだよ、フョークラ。草や木は、人間がパンを食べるように、雨で養分をとってるんだからね。それから、雷のことなら、別にこわがらなくてもいいんだよ、チビさん。これ、何のためにそんな小っぽけなものを殺すんだよ?」
雨がはじまると、風は静まる。豆を煎るように、若いライ麦や乾いた街道を叩く雨の騒めきがきこえるだけだ。
「こりゃ、二人ともずぶ濡れになるぞ、フョークルシカ!」テレンチイがつぶやく。「濡れネズミって奴だ……ひょ、おい! 襟の中に入ってきやがった! でも、心配ないんだよ、チビさん……草だっていずれ乾くし、地面も乾くんだもの、おじさんたちだって乾くさ。みんなにとって太陽は一つだからな。」
二人の頭上に、四メートルほどの長さの稲妻がきらめく。すさまじい雷鳴がとどろく。フョークラは、何か大きな重い、丸いようなものが空をころがって行き、頭の真上で空が張りさけるような気がする!
「桑原、桑原……」テレンチイが十字を切る。「こわくないんだよ、チビさん! 別に怒って鳴ってるわけじゃないんだからね。」
靴屋とフョークラの足に、濡れた重い赤土の塊がはりつく。ぬるぬると滑って歩きにくい、がテレンチイがますます足を早めて行く……かよわい小さな乞食娘は息を喘がせ、もう倒れる隣りだ。
が、遂に伯爵家の森に入る。雨に洗われ、どっと吹き寄せる風に騒がされた木々が、二人の上に、それこそ滝のように雨しずくをふりまく。テレンチイは木株につまずき、静かに歩くようになる。
「どこなんだい、ダニールカは?」彼はたずねる。「案内してくれよ!」
冒頭一文の真直さは言うまでもない。とにかくチェーホフは、フォークナーと違って的確に描写すべき対象を選んでいるので、場面がリアルな速度で進んで行く手応えがある。ドキュメンタリー映画的に現実をあまさず捉え切っているのではない──散文なのだから当然だが。しかしチェーホフは、走る少女と雷雨を重ねることで、決定的な場面(人々が少女の質問に答えず家の中へ逃げていく/降り始めの雨粒が街路につけていく黒い点々/雷鳴を恐がる少女と十字を切る老人)を幾つも引出して、散文の一元性を越える躍動する立体性を小説空間に与えているのだ! 見よ、走る少女! 落着きなく飛び廻って朴訥とした老人のまわりの震え跳ねまわる少女! ランボーの詩のように目立っては見えないが、この簡潔な散文の密度と速度こそが、余人では得難いチェーホフの独創性だ。
そしてナボコフの言うとおり、文体的には凝ったところ(モダンなところ)は一つもない。にもかかわらず芸術的に高雅だ。「フョークラは、何か大きな重い、丸いようなものが空をころがって行き、頭の真上で空が張りさけるような気がする!」の一文を見よ。こういう点もペドロ・コスタを思わせる。
フョークラとテレンチイの人物像もいい。古風な落着きがあってしっかりと実在性がある。しかも「がテレンチイがますます足を早めて行く……」の一節で二人のあいだの差異をも示しているのだ。これもまたあまりにペドロ・コスタ的ではないか? 「その隙間のおかげで、違う人間が共に生きていける」。
●「変り者」6巻18頁
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夜中の十二時過ぎだ。シルクハットに、頭巾つきの外套を着こんだ、背の高い一人の紳士が、オールドミスの助産婦マリヤ・ペトローヴナの戸口に立ちどまる。秋の夜の暗さで顔も手も見分けられないが、咳払いをして呼鈴の紐を引く態度には、重々しい、毅然としたものが感じられ、多少の威厳さえある。三度目のベルでやっと扉があき、当のマリヤ・ペトローヴナが顔をだす。白いスカートの上に男物の外套を羽織っている。手に持っている緑色のホヤをかけた小さなランプが、そばかすの多い彼女の眠たげな顔や、静脈の透けて見える頸や、ナイトキャップの下からこぼれている赤茶けた、薄い髪などを、緑色に染めなしている。
「助産婦さんにお目にかかれますでしょうか?」紳士がたずねる。
「助産婦はわたくしですが、どんなご用でしょうか?」
紳士は玄関に入りこむ。マリヤ・ペトローヴナは、背の高いすらりとした男を、眼の前に見いだす。もう若くこそないが、苦味走った美しい顔立ちで、房々した頬ひげをたくわえている。
「わたしは八等官のキリヤコフですが、」彼が言う。「妻のところに来て頂ければと、お願いにあがったんです。ただ、大至急にお願いしたいので。」
「よろしゅうございますとも……」助産婦は承知する。「今すぐ支度をいたしますから、おそれ入りますが、広間の方で少々お待ち下さいませ。」
キリヤコフは外套をぬいで、広間に入る。ランプの緑色の光が、つぎだらけの白いカヴァをかけた安物の応接セットや、貧弱な花、キヅタの絡んでいる柱などの上に、ほそぼそと落ちている……ゼラニウムや石炭酸の匂いがする。柱時計が、まるでよその男を前にして照れてでもいるかのように、おどおどと時を刻んでいる。
「お待たせいたしました!」五分ほどすると、顔を洗って◯剌としたマリヤ・ペトローヴナが、すっかり身支度をととのえて広間に入りながら、言う。「お伴いたしましょう!」
「ええ、急がなけりゃ……」キリヤコフが言う。「ところで、つかぬことを伺いますが、往診料はいかほどでしょうか?」
「わたくし、とんとわかりませんの……」マリヤ・ペトローヴナははにかんで微笑する。「お気持で結構ですわ……」
「いや、わたしはそういうのが苦手でしてね。」まじまじと冷やかに助産婦を見つめながら、キリヤコフが言う。「契約は金よりも尊し、ですからな。あなたにサービスして頂く必要はありませんが、わたしの方からサービスする必要もありませんのでね。誤解を避けるためにも、あらかじめちゃんと取り決めておく方が賢明でしょうな。」
「でも、ほんとにわたくし存じませんのよ……別に公定というものはないんでございますから。」
「わたし自身、勤労をしておりますのでね、他人の労働を尊重することには慣れているんですよ。不正は好かないんです。かりにわたしが払い足りないようなことがあったり、あるいはあなたが必要以上の額を要求なさるようなことがあったりすれば、わたしにとってはどちらも同じように不愉快ですからね、だからこそ、金額をはっきり言って下さるように、何度も申しあげているんです。」
「だって、額はまちまちなんでございますもの!」
「ふむ!……なぜかわからないけど、ためらっていらっしゃるようですから、わたしの方で金額を定めるほかありませんな。じゃ、二ルーブル差しあげましょう!」
「まあ、とんでもない!」マリヤ・ペトローヴナは顔を赤らめて、あとずさりながら言う。「むしろ恥しいくらいですわ……二ルーブリぼっち頂くくらいなら、タダの方がよっぽどましですもの。よろしゅうございます、五ルーブリで伺いま……」
「二ルーブルです。それ以上は一カペイカも出せませんよ。別にサービスして頂く必要はありませんが、そうかと言って必要以上にお払いする気はないんでしてね。」
「それはご随意ですけど、二ルーブルではわたくし伺えませんから……」
「しかし、法律的に言っても、あなたには拒否する権利はない筈ですよ。」
「よろしゅうございます、タダで参りますわ。」
「タダは厭ですね。どんな労働でも報酬は受けなければならんものです。わたし自身、勤労しているので、よくわかるんですが……」
「二ルーブルでは、わたくし伺えませんの。」マリヤ・ペトローヴナはもの柔かに言い渡す。「失礼ですけど、タダということに……」
「それでしたら、無用の心配をおかけしたことを、心からお詫びしなけりゃなりませんな……ほんとに申しわけありません。」
「まあ、あなたって方は、ほんとに……」キリヤコフを玄関へ送りだしながら、助産婦は言う。「もし、よろしければ、わたくし三ルーブルでお伺いしますけど。」
キリヤコフは眉をひそめ、じっと床の一点を見つめながら、まる二分ほども考えこんでいるが、やがてきっぱりした口調で、『いいえ!』と言うなり、外に出て行く。呆気にとられ、鼻白んだ助産婦は、彼の出て行ったあとの扉を閉め、寝室に引きあげる。
『ハンサムだし、押しだしも立派なんだけど、いったい何て変り者なのかしら。いい気なもんだわ。』横になりながら、彼女はこう思う。
この自動エスカレーターのように澱みなく場面展開させていくチェーホフの筆致を見よ。実はこれ、単純のように見えてほとんど模倣不可能だ。通俗小説のリーダビリティとは全く異なる。現前的場面で描写対象を取捨選択していくチェーホフの勘の良さは、端的に言って、超人レベル。日本人作家でこの密度と澱みなさの両立に成功した者は一人もいない(大抵どちらかを犠牲にしているか、単に下手か)。「描写の際には微細なディティールに注意することです。そしてそれを集約し、読んだ後でも目を閉じると、そこに一枚の絵が浮かんでくるようにするのです……心理面も、いわずもがな、細部描写です。主人公の心理描写は、できれば避けることです。その分、彼の行動の説明で、差し引けばいいのです」「自分が氷のように冷え切っていると感じた時、初めて筆を執るんです」という教示を有言実行している。第四人称的。
ではこの堅調な自動性を可能にする秘訣は何なのだろうか。一つ指摘できるのは、ディティールが大事だといっても、たった一つの細部を強調するようなことをチェーホフはしていない点だ。すべてのディティールを或る濃淡の中に溶け込ませて、総体として一つの色調を醸し出すようにチェーホフは巧んでいる。助産婦と八等官の対話も、たった一つの台詞が突出して展開を産むのではなく、或るぼんやりした一貫性でもって組み合わされていく彼らの台詞の総体がそのまま、二人の性格(の差異)の表現となっているかのようである。チェーホフにおいては、細部は原子ではなく、波動である! 「マリヤ・ペトローヴナはもの柔かに言い渡す。」という一文の全体に広がり行き渡る効果を見よ。
以上の洞察は多分フローベールを読解する際にも有用であろう。
●「料理女の結婚」4巻178頁
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七つになる、まるまる太った少年のグリーシャが、料理場のドアのそばに立って聞き耳を立てながら、鍵穴をのぞき込んでいた。料理場では、彼の考えによると何か異常な、それまで見たこともないようなことが起っていた。日ごろ肉を切ったり玉ねぎをきざんだりしている料理台の前に、辻馬車屋のカフタンを着た、赤毛でひげだらけの、大柄でがっしりした百姓が、鼻の頭に大きな汗の玉を浮かべて坐っていた。彼は右手の五本の指で受け皿を支えてお茶を飲みながら、グリーシャの背すじをぞっと悪寒が走るほど大きな音を立てて砂糖の塊をぼりぼりかじっていた。彼の真向いの汚れた床几には、年寄りの乳母のアクシーニヤ・ステパーノヴナが腰をおろして、これもお茶を飲んでいた。乳母の顔は真面目くさって、と同時に一種得意気な輝きを放っていた。料理女のペラゲーヤは、ペチカのまわりを動き廻りながら、明らかに自分の顔をどこかできるだけ遠くへ隠そうと努めていた。彼女の顔にグリーシャは、文字通り一種のイリュミネーションを見た。その顔はかっと燃えあがっては、赤紫色に始まって死のごとき青白さに及ぶありとあらゆる色に、次つぎと変るのである。彼女はひっきりなしにナイフやフォークや、薪やボロ切れを震える手で取りあげたり、せかせかと動き廻ったり、ぶつぶつつぶやいたりこつこつ音を立てたりしていたが、その実、何ひとつしてはいなかった。ふたりの人がお茶を飲んでいるテーブルのほうを、彼女は一度も見なかったし、乳母の問いかける質問には、いつも顔をふり向けずに、荒あらしく切れ切れに受け答えしていた。
「さ、おあがんなさいよ、ダニーロ・セミョーヌィチ!」と乳母が辻馬車屋にすすめた。「何だってあんたはのべつお茶ばっかり飲んでいなさるのさ? ウォッカをやりゃいいのに!」
こう言って乳母は、ウォッカの壜と杯を客のほうへ押しやったが、その時の彼女の顔にはひどく毒のある表情が浮かんだ。
「わしはやれねえんで……駄目なんで……」と辻馬車屋は断わった。「勘弁しておくんなさい、アクシーニヤ・ステパーノヴナ。」
「おやまあ、なんてお人だろうね。……御者のくせに飲まないだなんて。……ひとり者の男が飲まないですみますかい。さあ、おやんなさいよ!」
辻馬車屋は横眼でちらっとウォッカを眺め、それから乳母の毒々しい顔を眺めた。すると彼じしんの顔にも、負けず劣らず毒々しい表情が浮かんだ。いや、その手にゃ乗らないぞ、老いぼれの妖婆め! と言わんばかりだった。
「わしはやりません、勘弁しておくんなさい。……わしらの商売じゃそうした気の弱さは禁物なんだ。職人衆は酒を飲むが、それは一つ所にじっと坐っているからなんで、わしらはいつも人なかで人の眼にさらされている。そうじゃありませんか? 酒場なんぞに行ってりゃ、そのあいだに馬に逃げられちまうし、へべれけに酔っぱらったりすりゃ、なお悪い。うっかりすりゃ居眠りをしたり御者台からころげ落ちたりしまさあ。そういう仕事なんで。」
「時にお前さんは日にどれぐらい稼ぎがあるの、ダニーロ・セミョーヌィチ?」
「日によりますんで。日によっちゃ青札一枚になるかと思やあ、一コペイカにもならねえですごすご帰ることもある。いろんな日がありますんで。近頃じゃわしらの商売は骨折り損のくたびれもうけ。辻馬車屋は、ご存知のように掃いて捨てるほどいるし、乾草は高い、それにお客さんは何かというと鉄道馬車に乗っちまう。それでもありがてえことにゃ、何の不服を言うこたあねえ。腹いっぱい食らって、ちゃんと着るものを着て、……他の者を仕合わせにすることもできる(辻馬車屋は横眼でペラゲーヤを眺めた。)、……その人たちの気に入りゃね。」
その先どんな話があったか、グリーシャは聞かなかった。ママが戸口に近づいて来て、彼を子供部屋へ勉強に行かせたからである。
「さあ勉強にいらっしゃい。こんなところで立ち聞きするのはお前のすることじゃありません!」
第一段落からして凄い。直線的に描写を並べていく「現前性」とは全く異なる構成力がこの場面には貫かれている(とはいえ、散文のゆっくりとした直線的推進力が失われているわけではないが)。グリーシャ、辻馬車屋、乳母のアクシーニヤ、料理女のペラゲーヤ、四人の間で着実に細部が伝播していて一つの綜合された情動の濃淡を作り上げる。その波動エネルギーの源は料理女と辻馬車屋が結婚するという可能性だが、そのことは引用箇所では明かされない。当たり前だがこれらの細部の配分すべてがチェーホフの繊細な作為であり、単なる「写生」によって組み込まれた細部描写は一つもない。小説として、圧倒的。
●「泥沼」6巻27頁
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《M・E・ロトシテイン相続人》のウォトカ工場の広い庭に、純白の将校用軍服を着た一人の青年が、優美なこなしで鞍上に身をゆられながら、馬を乗り入れた。中尉の肩章や、シラカバの真白な幹や、庭のそこかしこにちらかっている割れたガラスの堆積などの上に、太陽が屈託なげに微笑んでいた。あらゆるものの上に、夏の日の健康な明るい美が宿り、みずみずしい若い緑が楽しげに打ちふるえたり、すみきった青空と眼まぜを交わしたりするのを妨げるものは、何一つとしてなかった。レンガ造りの物置の、薄汚ない、すすけた姿や、息づまるようなフーゼル油の匂いも、全体のすばらしい気分をそこねてはいなかった。中尉は浮々と鞍からおり、走り寄った召使に馬をあずけると、細い黒い口ひげを指で撫でつけながら、正面の戸口に入った。古びてはいるが、明るく柔らかい階段の最上段で、どことなく高慢そうな、若いとは言えぬ顔立ちの小間使いが彼を出迎えた。中尉は黙って名刺をさしだした。
名刺を手にして奥へひきさがりながら、小間使いは《アレクサンドル・グリゴーリエウィチ・ソコーリスキイ》という文字を、読みとった。一分ほどすると彼女は戻ってきて、お嬢さまはご気分があまりすぐれないので、お目にかかれない、と伝えた。ソコーリスキイは天井を眺めて、下唇をとがらせた。
「弱ったな!」彼は言った。「あのね、君、」彼は気負いこんで言いだした。「もう一度行って、スサンナ・モイセーエヴナに伝えてくれませんか。どうしてもお話しなけりゃいけないことがあるからって。大事な用なんだ! せいぜい一、に分お邪魔するだけなんですよ。失礼の段は許して頂くとしてね。」
小間使いは片方の肩をすくめ、ものうげに令嬢のところに行った。
「結構ですわ!」ややしばらくたってから戻ってくると、彼女は溜息をついて言った。「どうぞ!」
中尉は彼女のあとについて、贅沢な調度を飾った大きな部屋を五つ六つ通りぬけ、廊下をぬけて、最後に真四角なだだ広い部屋に入った。この部屋に一歩足をふみ入れるなり、爛漫と咲き乱れるおびただしい数の植物や、胸のわるくなるほど甘たるい、どぎついジャスミンの匂いなどが、彼をおどろかせた。さまざまな花が、窓を覆いかくしながら、壁沿いに並木のように立ちならび、天井からさがり、隅々に絡んでいるので、この部屋は人の住居というより、むしろ温室を思わせるほどだった。ヤマガラや、カナリヤ、カワラヒラのひななどが、にぎやかに囀りながら緑葉の間をとび交い、窓ガラスにぶつかっていた。
「ご免なさいませね、こんなところにお通しいたしまして!」中尉は艶っぽい女性の声を耳にした。巻舌のエルを舌足らずに発音するのが、まんざらわるくもなかった。「昨日あたくし、偏頭痛がしたものですから、今日もぶり返したりしないように、なるべく動かないようにしておりますの。どんなご用件でしょうかしら?」
入口のちょうど真向いにある、古めかしい大きな肘掛け椅子に、中国風の高価な部屋着をまとって、頭をプラトークで包んだ女性が、クッションに頭をもたせるようにして坐っていた。毛編みのプラトークの下からのぞいているのは、心もち段のついている、先の尖った長い蒼白い鼻と、大きな黒い片方の眼だけだった。ゆったりとした部屋着が彼女の背丈や姿態を包みかくしてはいたが、白い美しい腕や、声や、鼻や、眼などから判断すると、せいぜい二十六から八くらいまでと思われた。
「むりに押しかけたりして、申しわけありませんでした……」中尉は拍車を鳴らして、こう切りだした。「はじめてお目にかかります。ソコーリスキイです! 実は、こちらの隣人にあたる、いとこの頼みで参ったのですが。わたしのいとこはアレクセイ・イワーノウィチ・クリュコフと申しまして……」
「あら、存じておりますわ!」スサンナ・モイセーエヴナはその言葉をさえぎった。「クリュコフさんでしたら、存じあげていますわ。どうぞお掛けになって。あたくし、何かしら大きなものが眼の前にたちはだかっているのは、好きじゃございませんの。」
「実はあなたに曲げてお願いするよう、いとこから言いつかって参りましたので。」中尉はもう一度拍車を鳴らして、腰をおろしながら、話をつづけた。「用事というのは、ほかでもありませんが、亡くなられたあなたのお父上が、この冬にいとこから燕麦をお買い上げになって、その代金が少しばかりまだ残っているのです。手形の期日は一週間ほどあとなのですが、いとこがたってお願いしてみるように申すものですから。いかがでしょう、その残金を今日お払い頂くわけには参らないでしょうか?」
中尉はこう話しながらも、横目で周囲を見まわした。『どうやら俺は、寝室に通されたらしいな?』彼は思った。
部屋の一隅、植木の緑がひときわ濃く、ひときわこんもりと高まっている辺りに、まるで葬式の時に使うような、大きなバラ色の天蓋をめぐらしたベッドがあり、夜具が皺になったまま敷きっぱなしになっていた。そのわきにある二脚の肘掛椅子の上には、女性の衣服が丸めて積みあげられていた。皺くちゃのレースや縁飾りのついた裾や袖口が、絨毯の上にひきずっており、絨毯のそこかしこには、モールだの、タバコの吸殻が二つ三つだの、キャラメルの包み紙だのが、白く点々とちらばっていた……ベッドの下からは、ずらりと並んだありとあらゆる婦人靴が、尖った爪先や丸い鼻先をのぞかせていた。中尉は、ジャスミンの甘たるい匂いが花から漂ってくるのではなく、このベッドや婦人靴の列から発散しているのだ、という思いを味わった。
「で、手形の額面はいかほどなんですの?」スサンナ・モイセーエヴナがたずねた。
「二千三百ルーブルです。」
「まあ!」ユダヤ娘は、もう一方の大きな黒い眼もこちらに見せて、言った。「少しばかりだなんて、おっしゃったりして! もっとも、今日お払いするのも、一週間後にお払いするのも、同じことには違いありませんけど、父の死後この二た月ばかりというもの、いろいろと支払いがございましてね……愚にもつかない気苦労が多過ぎて、めまいがするほどですわ! あたくし外国へ行かなければなりませんので、と頭をさげてお願いしても、否応なしに下らぬ用事にかかずらわされますのよ。やれウォトカだとか、燕麦だとか……」彼女は半ば眼を閉じてつぶやいた。「燕麦だとか、手形だとか、利息だとかって……うちの一番番頭に言わせると、《利得》だそうですけど……まったくやりきれませんわ。昨日なんぞ、あたくし税務署のお役人をあっさり追っ払ってしまいましたの。部下のトラレース〔酒精計を発明した物理学者〕を連れてきて、しつこく附きまとうもんだから、あたくしこう言ってやりましたのよ。あなたなんぞトラレースもろとも、とっとと消え失せて下さい、あたくし誰にもお目にかかりませんから!って。そのお役人たち、手に接吻して、かえって行きましたわ。それはそうと、あなたのお兄さまは二、三ヵ月待って下さいませんかしら?」
これがチェーホフだ。彼は対象について語るのではなく、必ずその細部によって語る(長台詞の中においてさえ無駄な要素は一つもない。長広舌のための長広舌ではない!)。だからこそただ情報が与えられるのではなくて、光と匂いに満ちた空間が現出するのだ。引用の冒頭部分だけでもスサンナがどんな女であるかはっきり実在感が出るのだ。注意すべきは、原子的細部は情報を開示する説明の区切りとして差し込まれるが、波動的細部はそうではないということ。一度開示したからもう後は触れなくていいということはないし、そもそもどのタイミングでどの情報を開示するかに、チェーホフは神経を遣ってなどいない。例えばいつの間にか開示されている「ユダヤ娘」という情報に着目せよ。これは何時開示してもいいという何気なさでテクストに放射状に散りばめられている波動的細部の代表例だ。そして、中尉の本名やユダヤ娘のフルネームは、「それについて」語られるのではなく、登場人物たちの身振り「によって」読者に伝播されていく。上手過ぎる。
当然ながらこの作品の白眉、夏の光に満ちた戸外の場面から、一挙にジャスミンや鳥の鳴き声の籠る寝室へと空間が変貌する(簡単にやっているように見えるが、こんな空間の鮮やかな接続はチェーホフにしかできない)小説的効果は、幾多の細部の緻密な配置によっている、と言える。特に二つの空間を繋ぐ「片方の肩を竦める小間使い」に着目せよ。これもまた複数の波の干渉において繊細に立ち現われる波動的細部の一つにほかならない。
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------------------------------------- タイプ【1-2】チェーホフ:記述的-情景法 ▲
●「退屈な話」52-54頁
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「病気は関係ないわ」と、カーチャが私の話をさえぎる。「あなたの目から鱗が落ちただけのことよ。前はなぜか認めようとなさらなかったことが見えたのよ。私に言わせれば、何よりもあなたに必要なことは、家族と縁を切って出て行くことね」
「馬鹿なことを言うもんじゃない」
「もうあの人たちを愛していらっしゃらないのに、どうしてそんなに心にもないことをおっしゃるの。だいたい、あの人たちが家族といえるかしら。下らない人たちよ! 今日死んだとしても、あすになったら、あの人たちがいなくなったことなんか、だれも恐らく気がつかないわ」
カーチャは私の妻と娘を、彼女たちがカーチャを憎んでいるのと同じ程度に、ひどく軽蔑している。現代では人間が軽蔑し合う権利などということは、まず問題にもならない。しかしカーチャの立場に立って、そのような権利があることを認めるならば、妻や娘にカーチャを憎む権利があるように、カーチャにも私の妻やリーザを軽蔑する権利があることは当然であろう。
「下らない人たちよ!」と彼女は繰返す。「夕食はもうおすみになった? よく忘れずにあの人たちがあなたを食堂に呼んだものね! よく今まであなたの存在を覚えていたものね!」
「カーチャ」と私は厳しく言う。「お願いだから、もう何も言わないでくれ」
「あの人たちの話をして、私が楽しいとお思いになる? あの人たちなんか初めから知らなければよかったわ。ほんとに私の言う通りになさったら? 何もかも捨てて出て行くのよ。外国へいらっしゃい。早ければ早いほどいいわ」
「馬鹿なことを! じゃ大学は?」
「大学もよ。あなたにとって大学が何なの。どのみち何の意味もないじゃありませんか。もう三十年も講義を続けてらっしゃるけど、教え子たちはどうなりました? 有名な学者は大勢出たかしら? 数えてごらんなさい! みんなの無知につけこんで大儲けするような医者どもをふやすためには、才能のある立派な先生なんか不必要なのよ。あなたは余計者よ」
「きみはまた、なんて辛辣なんだ!」私はぞっとする。「なんて辛辣なんだ! 黙らないと私は帰るよ! そんな毒舌にはとても太刀打ちできない!」
女中が入って来て、お茶の用意ができたことを知らせる。サモワールの前に坐ると、ありがたいことに私たちの話題は変る。私は愚痴をこぼしたあとでは、老人のもう一つの弱点──思い出話にのめりこみたくなるのである。そこでカーチャに自分の過去を語り始めるが、大いに驚いたことに、まだ記憶に残っているとは思ってもいなかった細かな点まで私は彼女に喋っているのである。カーチャは感動し、誇らしげに、息をひそめて話に耳を傾ける。私がとりわけ好きなのは、かつて神学校に学んでいながら、大学へ入ることを夢みていた頃の話である。
「よく神学校の校庭を散歩したものだった……」と私は語る。「風がどこか遠くの酒場からアコーデオンの調べや歌声を運んでくる。でなければ神学校の塀のすぐ前をトロイカが鈴を鳴らしながら走って行く。と、それだけでもう、幸福感が胸だけじゃない、腹や手足にまで突然あふれてくるんだなあ……アコーデオンの調べや、遠ざかって行く鈴の音を聞きながら、医者になった自分を想像し、いろんな情景を──だんだんすばらしくなっていく情景を思い描いた。そして今や、ごらんの通り、私の夢は実現した。夢見た以上のものを私は手に入れた。思い通り教授になってからもう三十年、優秀な同僚にも恵まれ、名声も得た。恋をし、熱烈な恋愛結婚をして、子供もできた。一言にして言うならば、今振返ってみた場合、私の全生涯は天才的に作られた美しい名曲のように見える。今はただフィナーレを損わぬようにすることだけが残されている。そのためには人間らしく死ななければならない。死が不可避であるならば、教師らしく、学者らしく、キリスト教国家の市民らしく、勇敢に、心静かに、それを迎えなければならない。ところが私はフィナーレを台なしにしている。溺れかけて、きみの所へ走って来て、助けを求めている。それなのにきみときたら、溺れなさい、それが一番いいと言うんだ」
だが、ここで玄関にベルの音が聞える。私とカーチャはすぐ気づいて言う。
「きっと、ミハイル・フョードロヴィチだ」
地の文と科白の組み合わせ方がわりと珍しい形。
「カーチャは私の妻と娘を、彼女たちがカーチャを憎んでいるのと同じ程度に、ひどく軽蔑している。……」の段落は、カーチャの科白を受けていきなり俯瞰的にカーチャについて記述するという形になっている。ディエゲーシスだが、それほど長くない。
「女中が入って来て、お茶の用意ができたことを知らせる。……」この段落は、会話の流れとまったく関係のない現前的時間の流れによって生起する出来事を、科白の後にぶつけている格好。しかしこれをきっかけにして「話題」は変わったらしい。その経緯は科白のやりとりとしては描かれず、つまり要約法でさくっとまとめている。
「だが、ここで玄関にベルの音が聞える。私とカーチャはすぐ気づいて言う。」この段落も会話の流れをぶつぎるように、生起した出来事を要約法で伝える。一種の省略なのかもしれない。
●「退屈な話」56-59頁
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「ニコライ・ステパーノヴィチを覚えておられるでしょうが、三年ほど前、ぼくがその祝辞を読む羽目になった。蒸し暑くて、制服の腋の下あたりが窮屈で──まさに殺人的! ぼくは読みつづけます、三十分、一時間、一時間半、二時間……『ああ、ありがたや、あと十ページで終りだ』最後の四ページは全く読む必要のない部分だったから、そこは省略するつもりでした。とすると、あとわずか六ページ。ところが、そのとき何の気なしに前を見ると、最前列に大綬をかけたどこかの将軍と大主教とが並んで坐っているのが目に入った。二人とも、かわいそうに、退屈のあまり体がこわばっちまって、眠るまいと懸命に大きな目をあけ、そのくせ顔にはいかにも注意を集中しているような表情を浮べ、ぼくの祝辞を理解し気に入っているようなふりをしている。よし、そんなにお気に召したのなら、聞かせてやるぞ! ざまあ見やがれ! というわけで、ぼくはわざと最後の四ページを全部読んでやりました」
一般に皮肉な人はみんなそうだが、彼も話をするとき目と眉だけで笑う。そんなとき彼の目には憎しみも悪意もないが、その代り溢れるばかりの機知と、観察力の豊かな人にのみ見られるあの狐のような独特の狡猾さがある。彼の目について更に言うならば、私はもう一つ奇妙なことに気づいた。カーチャからコップを受取るときや、彼女の意見に耳を傾けるときや、あるいは彼女が何かの用で少しの間中座をするのを見送るときなど、彼の目に何かしらやさしい、祈るような、清らかなものを、私は確かに認めたのである……
女中がサモワールを片付け、大きく切ったチーズと、果物と、クリミヤ・シャンパンの壜をテーブルの上に置く。これはかなり粗悪な葡萄酒だが、クリミヤで暮して以来、カーチャはこれが好きなのである。ミハイル・フョードロヴィチは本棚から二組のトランプを取って、一人占いを始める。彼が断言するところによれば、ある種の一人占いはたいへんな判断力と注意力が必要なのだそうだが、にもかかわらず彼はトランプを並べながら依然として話に熱中している。カーチャは注意深くとランプを目で追いながら、言葉よりも身振りで彼を手伝う。酒を彼女は一晩にグラス二杯以上は飲まないし、私はコップに四分の一ほど飲むだけだから、一壜の酒の残りはすべてミハイル・フョードロヴィチの飲み分である。彼は酒に強く、決して酔っぱらわない。
一人占いの間に、私たちはさまざまな問題に、それも主として高尚な問題に断を下す。一番ひどい目にあうのは、私たちが何よりも愛しているもの、即ち科学である。
「ありがたいことに科学の寿命はすでに尽きました」と、ミハイル・フョードロヴィチはゆっくりと言う。「栄光は過ぎ去りぬ、です。全くね。人類はすでに科学に取って代わるべきものの必要を感じ始めています。そもそも科学は偏見という土壌に生れ、偏見を養分として育ち、錬金術、形而上学、哲学といった時代遅れの祖母たちと同じく、今やその精髄は偏見そのものなんだ。事実、科学は人々に何をもたらしたか。学のあるヨーロッパ人と、いかなる科学も持たぬシナ人との差異といっても、きわめて僅かな、純粋に外面的な差異にすぎないじゃありませんか。シナ人は科学を知らなかったが、そのために何を失いましたか」
「蠅も科学を知らないが」と私が言う。「だからどうだというんだね」
「立腹なさることはありませんよ、ニコライ・ステパーヌイチ。これはあくまでもここだけの話ですから……ぼくはあなたが思ってらっしゃるよりも用心深い人間だから、公の席ではこんな話は絶対にしません! 大衆の中には、科学や芸術が農業や商業や手工業よりも高尚であるという偏見が生きています。ぼくらのような輩はその偏見を飯のたねにしているんだから、何もぼくやあなたがそれを打破ることはない。ありがたや、ありがたや!」
一人占いの間に、若者たちのことも槍玉にあがる。
「最近は人間がちっぽけになってしまった」と、ミハイル・フョードロヴィチは溜息をつく。「理想とか何とかはさて措いて、せめて働くことと考えることぐらい満足にやってくれてもいいのに! これぞ正に『悲しく眺めやるわが世代』だ」
「そうね、ほんとに人間がちっぽけになったわ」とカーチャが同意する。「ここ五年か十年の間に、目を見張らせるような学生さんが一人でもいました?」
「ほかの教室のことは知らないが、ぼくのところじゃ記憶にありませんね」
「私も今までに学生さんや若い学者の方を大勢見てきましたし、俳優も大勢見ましたけど……なぜかしら。英雄や天才はおろか、ただ魅力的というだけの人にさえ、一度もお目にかかったことがないわ。何もかも灰色で、才能に乏しくて、妙にいばりくさっていて……」
人間がちっぽけになったという話のやりとりを聞くたびに、私は自分の娘についての蔭口を偶然立ち聞きしたような印象を受ける。そのような非難が根拠薄弱であり、「ちっぽけになった」とか、「理想がない」とか、「昔はよかった」とかいう擦り切れた決り文句や、こけおどかしの言葉の上に成立していることを、私は腹立たしく思う。およそ非難というものは、それが女同士の間で述べられる場合ですら、できるだけ明確に表明されるべきであって、さもなければそれは非難ではなく、まともな人間にはふさわしくない単なる悪口になってしまう。
私はもう三十年も働いた老人だが、人間がちっぽけになったとか、理想がなくなったとかは決して思わないし、今が昔より悪くなったとも思わない。この場合、守衛のニコライの経験はそれなりに貴重であるが、彼も、最近の学生は昔の学生と比べて良くも悪くもないと言っている。
シンプルなんだけれども上手く省略・要約をはさんでテンポをよくした会話場面。形だけを見ると省略・要約は全然目立っていないけれど、だからこその高度な技巧。
とまれ、地の文と科白の組み合わせ方に注目。
「一般に皮肉な人はみんなそうだが、彼も話をするとき目と眉だけで笑う。」この段落は「彼」の科白のあとにいきなり俯瞰的な視点に舞い上がって「彼」について習慣的に記述するという形。チェーホフの十八番か。その次の段落の「女中がサモワールを片付け、大きく切ったチーズと、果物と、クリミヤ・シャンパンの壜をテーブルの上に置く。これはかなり粗悪な葡萄酒だが、クリミヤで暮して以来、カーチャはこれが好きなのである。……」この始まり方の大胆な省略すばらしい。
「一人占いの間に、私たちはさまざまな問題に、それも主として高尚な問題に断を下す。……」この段落が面白いのは、次につづく会話のテーマを事前に予告してしまっているところだ。
「一人占いの間に、若者たちのことも槍玉にあがる。」この段落こそ超絶的技巧。この一文だけで前後の二つの何の脈絡のない会話をつなげてしまっているわけだから(この文自体は後に来る会話の予告)。つまりここで二つの会話の流れのそれぞれの見所と見所を編集=カッティングして繋げているような操作が入っているわけで、現前的な会話の流れそのままを写し取っているのではないことが、如実にわかる。
「人間がちっぽけになったという話のやりとりを聞くたびに、私は自分の娘についての蔭口を偶然立ち聞きしたような印象を受ける。……」この段落も直前の会話の流れから一歩退いたようなディエゲーシスだね。
●「退屈な話」61-62頁
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ミハイル・フョードロヴィチは毒舌をふるい、カーチャは耳を傾け、身近の人々を非難するという一見無邪気な気晴らしがどんな深淵に自分たちを少しずつ引きずりこんでいるか、二人とも気づいていない。ただの世間話が次第に愚弄や嘲笑に移って行くこと、自分たちが中傷に近いことさえ口にし始めていることを、二人とも感じていない。
「実に滑稽な連中がときどきいるものですね」と、ミハイル・フョードロヴィチが言う。「きのう、エゴール・ペトローヴィチの所へ行くと、あなたの教え子の医学生が来ていました。たぶん三年生だったと思いますが。その顔つきが、なんというか……ドブロリューボフ風で、額には深遠な思想の刻印がある。ぼくらは話し合いました。ぼくが言います。『こんなことを知っている? 何かで読んだんだが、なんとかというドイツ人が──名前は忘れたけれども、人間の脳から新しいアルコロイド・イジオチンを抽出したんだそうだ』すると、どうです。その学生は本気にしたばかりか、それは凄い! と言わんばかりに、顔に尊敬の色を浮べたもんです。それから、先日、劇場へ行きました。座席に坐ると、前列のすぐ前の席に二人坐っている。一人はうちの学部の人間で、どうやら法科の学生らしく、もう一人は髪をぼうぼうに伸ばした医学生です。医学生はへべれけに酔っぱらっていて、舞台なんかそっちのけ、悠々と眠りこんで、こっくりこっくりやっている。そして俳優が大声で独白を始めたり、普通の科白でも声が高くなったりすると、医学生は身震いをして目を醒まし、連れの横っ腹を突っついて尋ねます。『何て言ってる? 深刻なことか』──『深刻なことだ』と、うちの学生が答えます。『ブラボー!』と医学生がわめく。『深刻だ。ブラボー!』つまり、この酔漢は芸術のためじゃなくて、深刻さのために劇場へ来たんですね。こいつに必要なのは深刻なんだ」
カーチャは話を聞きながら笑う。彼女の笑い声はどことなく奇妙である。吸う息と吐く息がすばやくリズミカルに入れかわって、なんだかハーモニカを吹いているようであり、しかもそのとき顔の中で笑っているのは鼻の穴だけなのだ。私はげんなりして、何と言っていいやら見当もつかぬ。我に返ると、私は俄かに興奮して立ちあがり、叫ぶ。
「いい加減にしなさい! なぜ二匹のガマガエルみたいにここに坐って、自分たちの息で空気をよごしているんだ。もうたくさんだよ!」
そして二人の毒舌がやむのを待たずに、帰り支度を始める。それにもう時間だ。十一時をまわっている。
「ぼくはもう少しお邪魔しよう」と、ミハイル・フョードロヴィチが言う。「構いませんか、エカテリーナ・ヴラジミーロヴナ」
「構いませんわ」と、カーチャは答える。
地の文に注目。
「ミハイル・フョードロヴィチは毒舌をふるい、カーチャは耳を傾け、……」の段落はつづく会話の予告になっている。こういう符牒があるので、科白を文脈から離れた引用みたいにあつかってもうまく繋がるというわけだ。
「カーチャは話を聞きながら笑う。彼女の笑い声はどことなく奇妙である。……」この段落の挿入は見事。印象的な描写をきっちりと織りこんでいく。
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------------------------------------- タイプ【1-3】チェーホフ:緊迫した対話・情景法 ▲
●「退屈な話」74-77頁
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初め私たちは野原を行き、次に、私の部屋から見える針葉樹林を行く。自然は私には相変らず美しく見えるが、これらの松や樅の木も、小鳥たちも、空に浮ぶ白い雲も、三、四ヵ月後に私が死んだとして、私の不在など問題にもしないだろう、と悪魔が私の耳に囁く。カーチャは馬の手綱をとるのが好きで、天気がいいことも、そばに私がいることも、嬉しくてたまらないらしい。上機嫌で毒舌もふるわない。
「あなたはとてもいい方ね、ニコライ・ステパーヌイチ」と彼女は言う。「めったにない方よ。あなたの役を演じられる役者はいないわ。私とか、ミハイル・フョードルイチとかの役なら、下手くそな役者でも演じられるけど、あなたは駄目。あなたがうらやましいわ、ものすごくうらやましい! 私って一体自分が何のつもりでいるのかしら。何かしら」
少し考えてから、彼女は尋ねる。
「ニコライ・ステパーヌイチ、私って否定的現象ね。そうでしょ?」
「そう」と私は答える。
「そうね……じゃ、どうしたらいいの」
どう答えればいいのだろう。《働きなさい》とか《自分の財産を貧乏人に分けなさい》とか《汝自身を知れ》とか言うのはたやすく、それがたやすいからこそ、私はどう答えたらいいのか分らない。
同僚の内科医たちは治療について教えるとき、《一つ一つの症例を個別的に扱う》ことを勧める。この勧めに従うならば、ある型の病気に最良の、最も適切なものとして教科書に出ている薬剤が、個々の症例においては全く不適当な場合があるということも納得されるであろう。精神的な疾患においても同じことである。
しかし何か答えなければならないので、私は言う。
「きみにはね、暇が多すぎるんだ。何かに打ちこまなくちゃいけない。まじめな話、どうしてもう一度芝居をやらないのかね、もしそれが天職なら」
「だめよ」
「きみの口調といい、態度といい、まるで犠牲者きどりだ。私はそれが気に入らないんだよ。悪いのはきみ自身だ。思い出してごらん、きみは初め人間や制度に腹を立てることから始めたが、その両方をもっと良くするための努力を少しもしなかった。悪と戦わずに疲れてしまったのだから、きみは戦いの犠牲者ではなくて、自分の無力さの犠牲者だ。そりゃもちろん、あの頃のきみは若くて未経験だったが、今なら全く別の行き方もできる筈だろう。そう、やってみなさい! 額に汗して聖なる芸術に仕え……」
「そんなおっしゃり方はずるいわ、ニコライ・ステパーヌイチ」と、カーチャは私の言葉をさえぎる。「この際きっぱり約束して下さらない、役者や作家のことは話しても芸術のことには触れない、って。あなたは滅多にないすばらしい方ですけど、聖なる芸術なんて本気で言えるほど芸術を理解していらっしゃらないわ。芸術を嗅ぎわける力、聴きわける力は、あなたにはないと思う。今までずっとお忙しかったから、そういう感覚を養う暇がおありにならなかったのよ。とにかく……私そういう芸術談義が嫌いなの!」苛立たしそうに彼女は続ける。「嫌いなの! それに、芸術もすっかり俗悪にされてしまったわ、ありがたいことにね!」
「だれが俗悪にしたんだ」
「あの連中はお酒に酔うことによって、新聞は馴れ馴れしい態度によって、悧巧な人たちは哲学によって」
「哲学は関係ないだろう」
「あるわ。哲学を始めたら、それは何も分っちゃいない証拠よ」
毒舌が始まらぬうちに私はあわてて話題を変え、それから永いこと沈黙する。馬車が林の外へ出て、カーチャの別荘に向ったとき初めて、私はさっきの話題に戻って尋ねる。
「まだ答えを聞いていないよ、なぜもう芝居をしたくないんだろう」
「ニコライ・ステパーヌイチ、それはあんまり残酷よ!」と彼女は叫び、急に真っ赤になる。「どうしても本当のことを口に出して言えとおっしゃるの。いいわ、そんなに……そんなに聞きたいなら! 私には才能がないのよ! 才能がないくせに……自尊心が強すぎるのよ! そうなの!」
こんな告白をすると彼女は顔をそむけ、手の震えを隠すために手綱を強く引く。
カーチャの別荘のそばまで来ると、かなり遠くから既にミハイル・フョードロヴィチの姿が見える。彼は門の前を行ったり来たりして、じりじりした様子で私たちを待っている。
「またあのミハイル・フョードロヴィチ!」と、カーチャは腹立たしげに言う。「あの人をどこかへ連れ出して下さらない。無気力になったあの人なんて、うんざりよ……わずらわしくって!」
一番注目すべきは、「「そんなおっしゃり方はずるいわ、ニコライ・ステパーヌイチ」……」の科白から始まる。これは長科白を二ヵ所で切っていて、それぞれ(と、カーチャは私の言葉をさえぎる。)(苛立たしそうに彼女は続ける。)という表現を挿入している。細かい技術だが、応用は無限に可能。
「少し考えてから、彼女は尋ねる。」の一文段落でカーチャの二つの科白をつないでしまっているのも、面白い工夫。要約法的。
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------------------------------------- タイプ【2-1】ルバテ:段落モンタージュ ▲
●『ふたつの旗』下740-742頁
第三十七章
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翌日、いつ終わるともしれない葬儀のあいだ、レジスは彼のそばを離れようとしなかった。服装は去年の冬の背広のコートにかえていた。およそ屈託がなく、儀式の非情さを感じている様子もほとんどなかった。教会では長い両脚で突っ立ったまま、まわりの人々をものめずらしそうに眺め、ミサの真っ最中に顔を真横に向けてガレ一族やコルコンベ家の人々をじろじろみつめ、オルガン奏者の冴えない演奏を、ほとんど声高にけなさんばかりだった。結婚式か葬式のときしか教会には姿をみせず、しかも自分が顔を出したことはみんなに知っていてほしいと願う社交界の連中の優雅な高慢さを彼がまねているといっても決してまちがいではなかった。彼にいわせれば、こんな人ごみのなかにはおそらく神があまりにも不在なのにちがいない。元日か祭日に代表団を引見する大臣のようによそよそしく無表情だった。そんな日には、こういう儀式に顔を出していながら気もそぞろだったり屈託がなかったりすれば、身内の人間とわかるものだ。もっとも、レジスがわざとミシェルのまえではさほど信仰深くないようなふりをしようとしているのであれば、話は別だった。というのも、まもなく異教徒ミシェルを相手に引き出せるはずの精神的優位を思ってわざとよそおっているこの不作法を、自分では心のなかで矯正しているのかもしれなかったから。死によって生み出される思考についていえば、キリスト教徒レジスの思考は、周囲の下司な肉体のすすり泣きとはなんのかかわりもなかった。
墓地では埋葬の儀式が午後二時までつづいた。そのあともまだ、喪に服したアパルトマンでの軽い食事にのこらなければならなかった。レジスはあいかわらずミシェルからはなれようとしなかった。しかし撤退のイニシアティヴをとったのはレジスのほうだった。昔とかわらずこの種の作戦でみせる彼の動きは、しなやかでてきぱきしていた。
異教徒とその敵はまたしても一度、暗くなりかけた歩道を肩をならべて歩いていた。歩兵のように大股に歩き、二人の歩調を決めているのは異教徒のほうだった。朝からまつわりついてはなれないまなざし、友情にみち、こまかく気を配るまなざしが、彼にはなにかねばつくもののように感じられた。
「あのエミールもかわいそうに!」レジスが晴々した口調でいった。「とにかく気のいいまぬけだった! 彼についていえるのは、せいぜいそんなところだね」
ほとんどすぐに彼はざっくばらんな口調で、曹長やらラッパ手伍長やらのとほうもない話に話題を移した。ラ・クルティーヌの兵営で聞いた話だった。ミシェルは歩兵隊が好きだった。この動詞とこの部隊がとなりあって出てくるのはめったにないことだ。しかし実際のところ、この六か月来ミシェルの感じる楽しみは、もっぱら歩兵という職務に負うものにかぎられていた。思いきり吹き鳴らされるラッパの音で、田舎のどまんなかで目をさますのも、行軍も歌も、干し草小屋での小休止も、むしろまれだったとはいえ機関銃射撃を許されたときに手に伝わる震動も、みな楽しかった。レジスの素描には実感がこもっていた。機関銃手も典型的な陽気な猥談を聞かされてはひきつったような微笑を浮かべずにいられなかった。彼のほうでもタッデイ大尉の話をせずにはいられなかった。かつて下士官時代にマルヌ川畔で戦った男なのだが、朝、馬に乗って炊事係のところへやってきてジュースを飲むのだった。どうということもない二十語ほどの挿話で、ミシェルは平静に話半分でやめたのだが、レジスはそんな話にも大笑いした。
二人はラ・ファイエット橋のあたりまできていた。
「あのかわいそうなエミールのやつの葬式には十分時間をさいたと思うよ」とレジスがいった。「ル・サントラでなつかしいカクテルでも一杯どう?」
うんざりしたようなふくれ面ではあったが、それでもミシェルはうなずいた。レジスは陽気な気楽さをよそおっていた。いや、よそおう必要さえあっただろうか? やっと二十四歳になったかならぬかの若者が二人、久しぶりに顔をあわせる。二人のうち一方は一週間後宗門に入ることになっている。だからといってもったいぶるとか、ごく最近まで二人とも兵士だったことを忘れる理由にはならない。やがて坊さんになろうとしているからといって、愛想のいいバーで最後の一杯を傾けるとか、人生の楽しみに率直に別れを告げるよろこびを自分に禁じる理由にはならない。無信仰な男がピューリタンの役を演じるというのか?
どのように情景法のスピードをコントロールするかということ。一度会話のスピードに入ったらずっとそのままではなくて、改行の段落はじめをディエゲーシスにすることで要約法や説明をはさんでスピードをブレさせる。というか章始めや章終わりはディエゲーシスの挟みどころというのは有名だが、段落冒頭でも可能なのだね。逆に、情景法的な段落第一文でありながら、その後が要約法や説明のディエゲーシスとなるような混合パターンもある。自由自在だな。
また、要約法からの情景法の再開に「……ている」形アスペクトが用いられていることに注目せよ。「異教徒とその敵はまたしても一度、暗くなりかけた歩道を肩をならべて歩いていた。歩兵のように大股に歩き、二人の歩調を決めているのは異教徒のほうだった。……」の段落のことである。
●『ふたつの旗』下742-744頁
第三十七章
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バーはベッドのように温くふっくらしており、生気にみち、皿や食器のぶつかりあう陽気な音や無数にならんだ瓶をきらめかせる光にあふれていた。若者たちはいずれもきちんとした身なりをしており、かなり魅力的な女たちも多かった。カクテルもごまかしひとつなく完璧な出来で、リヨンは町の伝統をそういう新しい飲み物にまでひろげつつあるのだった。
「パリには足をとめた? なにも聞かなかった?」
「なんにも。そんな気になれないんだ。広告塔をみようともしなかったよ」
「おとといも君にもらった『春の祭典』の楽譜を見なおしたんだ。君がパリに行った最初の年だから、もうずいぶんまえのことだね… あれは不朽の作品だ」
ミシェルも今では自作の曲を直接書きとめることができるようになっていた。和声にかんしてこまかいことをたくさん習いおぼえていた。十五か月まえから彼が学んだのはそれだけだった。というのも彼はなにも読まず、ほとんどなにも書かなかったから。この新しい知識を駆使してレジスと技術論を戦わせ、『トリスタン』だろうとストラヴィンスキーだろうと、拍子をまちがえるようなことはもうないのを証拠だてられればきっと楽しかったにちがいない。しかし、なんということだ! 彼の右側に坐っているこの若者、あけっぴろげで陽気で、娘たちに目を走らせながら二杯目のリキュールを味わっているこの若者が、来週にはイエズス会の施設に自分をとじこめようとしているのだった。〈サルウェ・レギーナ〉を歌い、マリアの月の儀式に連なるはずだった。次のように信じるのが彼の責任なのだった──われわれは死んだときに決定的な審判を受ける、永遠の存在たる神にそむいたがゆえに、まさに永遠の劫罰を受けるかもしれない、秘蹟はそれ自体の霊験によって作用する、他の宗教の奇蹟は贋物であるのにたいして、カトリック教だけが正真正銘の奇蹟を生じさせる、カトリック教だけが超自然的な宗教である、と。彼はそう信じている。しかもこれから十年間、人々はそう信じるための、また、そう信じさせるためのもっともたくみな方法を彼に教えこむはずだった。そのためには心理学が応用され、狡智にみちた神学や専門用語が駆使されるはずだった。彼はそういうとほうもない信心に凝り固まるだろう。彼がそう望んでいるのであり、それこそが彼の天職なのだ。すでに彼はそういう状態になっている。しかし彼を相手にそんな話をはじめて、最後の七面倒くさい論争の泥にはまりこむなんて! そんなのはごめんだ! それくらいなら、ほかのなんだっていい!
レジスは晴れやかな落ちついた表情で、ちょっとしたひとり言を次々にくり出していた。もっとも、バーのざわめきやきらめく光、たえまない人々の往来が、十分に会話のかわりになっていた。しかしプロローグとしての軍隊生活の話も種がつきはじめていた。三杯目を飲んでいた。それもやはり最初の二杯とおなじく、レジスが注文したのだった。彼がたずねた。
「ぼくの手紙は受けとった? 返事はくれなかったね。だからといってそれほどおどろきもしないけれど。しかし、まさかこんなふうに、一言もなしにぼくを発たせるつもりじゃないだろうね? もうすぐ君が賜暇で帰ってくることはわかっていた。あのかわいそうなエミールの不幸がなかったら、この四日間のうち、ある朝レパルヴィエールへでかけて、君の不意をおそうつもりだったといっていい! まさかぼくに門前払いを食わせるようなことはないだろうと思って!」
ミシェルはこのうえなく冷たい表情をよそおった。
「それはなんともいえないな。君だって、もうひとつの可能性のことを考えてみるべきだった、つまり、君を目のまえにしたぼくは敵意にみちた意図しかもっていないかもしれないことを」
「ある意味でそれはかなり理解できる… だからといって、ぼくたちはそんなふうに別れなければならないんだろうか? だって男同士なんだから!」
「いったい、どういうこと? ぼくが君のせいで… それに彼女のせいで…」
「だって! そんなにおどろくこともないだろ。人間的な観点からみて。断言してもいいが、ぼくだってそういう観点をなおざりにしているわけじゃないんだ。しかしまさに今夜、ぼくが期待しているように、なにもかも話しあうことができれば…」
情景法のスピードをいかにコントロールするか。しかし、要約法をたくみに混合させているとはいえ、さすがに重要で長くつづく会話に入る前には、情景への焦点合わせが必要なようだ。「しかしプロローグとしての軍隊生活の話も種がつきはじめていた。三杯目を飲んでいた。それもやはり最初の二杯とおなじく、レジスが注文したのだった。彼がたずねた。」の流れを参照。
●『ふたつの旗』上666-667頁
第十八章
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レジスがテラスでミシェルの母と祖母を相手に、リヨンで展開されている活動について論じ立てていた。青年労働者層という広大な対象をもつ伝道活動、その活動のもたらす感動的な成功、田舎ではしばしば聖職者が不足するので、それをおぎなうために田舎での伝道活動をふやすのが決してむだではないこと、などなど。ミシェルはいたたまれなくなり、石を敷きつめた玄関ホールに降りて行ったり来たりした。彼としてはレジスの口からそんな話を聞かされるのは避けたい気持だった。あまりにもつらすぎるのだ。おまけに彼の身内は、そんな話を聞かされるととんでもない結論を引き出しかねなかったので、その場に居合わせるのはなおのことがまんができなかった。
部屋にもどると、レジスはまたしても聖イグナチオの『霊操』をとりあげた。謙遜の三段階を論じた章だった。
〈謙遜の第一段階は、永遠の救いのために必要である。肝心なのは、自分にとって可能なかぎり、そしてすべてにおいて神の掟にしたがうのに必要なかぎり、へりくだり、謙虚になることである…〉
レジスは一種の陶酔にひたりながら、観想の方法をのべたてた。
「わかってほしい。絶対に必要なのは、こういう精神生活のあらゆる局面で君のなかに真の協力者を見出すことなんだ」
しかし彼の目のまえにいるのは、陰気な顔で受動的に聞いている男にすぎず、しかも聞き手というその役割を務めおおせるのにひどく苦労しており、身動きひとつしないのに、突然奇妙に心ここにない感じになったり、〈精神的利益〉とか〈準備の祈祷〉とか、神の愛を獲得するための〈観想〉などといった言葉を聞くたびに顎のあたりがひきつるのをかくすために、一見したところこれという目的もなしに、しかしいかにも忙しいげに本や家具の位置を移したりするのだった。小さな独楽のように行ったり来たりするのを、レジスはおどろいてみつめていた。
「サヴォワをひとまわりしてきて、君は調子をとりもどしたものと思っていたんだが(〈ぼくだってそう思っていたさ〉とミシェルは内心歯ぎしりする思いだった)。しかしどうやらいっそういらだって帰ってきたみたいだね。不満そうだし、ちっとも落ち着きがないじゃないか。まるでなにか秘密を抱えて悩んでいるみたいだ」
ミシェルはかすかに笑みを浮かべながら静かに首を振った。レジスは炯眼だったとしても、それでは計算ちがいというものだった。ミシェルが抱えこんでいる秘密はひとつどころではなく十もあるのだった。というよりすべてが秘密だった。誠実にふるまおうとすれば、たったひとつ、レジスのほうへ身をかがめてこういうしかなかった。
「ぼくだって完全なばかじゃない。ここ十日間のぼくに、君はひどく失望したにちがいない。君がやってきてからのぼくの生き方は全然なっていなかった。モーターの回転数が下がっていた。ボイラーへの監視がたりなかった。全体にたるんでしまったし、率直さに欠けるところもあった。ひどく苦労しながらやっとのことで自分に孤独を説き聞かせたところだった。君といっしょの生活にうまく適応できなかったのはそのせいなんだ」
現前的会話を展開させるという引用部なのだが、あくまでも叙述の主導権は現前的時間ではなくて語り手のテンポが握っているという印象。改行の連絡のさせ方が対話的(「しかし彼の目のまえにいるのは、陰気な顔で受動的に聞いている男にすぎず、……」「レジスは炯眼だったとしても、それでは計算ちがいというものだった。」)だからそう感じるのだろうか。いずれにせよ、センス良い。
●『ふたつの旗』上688-689頁
第十九章
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「よろしい。文章に組み立ててみなさい」
「Infandum… ええと、Infandum… Infandum…」
ミシェルは若いアルベール・ネーラチエへの授業を『アエネーイス』の第二歌からはじめた。シャレーサン神父がその住所を教えてくれたのだった。アルベールは十七歳の陰気な高校生で、劣等生のなかでももっとも手の焼ける口だった。黒い背広姿、鉄縁の眼鏡のかげで、とろんと死んだような目をしており、顔はニキビだらけ。第二学年で、彼だけが落第しそうだった。ラテン語を習いはじめて七年になるというのに、〈jubes〉を名詞の複数形と思いこおんでおり、しかも意味を知らず、〈dolor〉が男性名詞であることも知らなかった。最近妻をなくしたというのに柩の飾りのように陽気なネーラチエ氏は、どうやら古典の勉強をあまり重視していないらしかった。もうけにつながるかどうか、およそ怪しいというわけだった。それでも彼は毎日一時間一回十フランという報酬でミシェルをやとうことにした。レッスンは彼が所長をしている絹織物工場で行われることになったが、クロワ・ルース〔リヨン市街北部〕のふもとにあるそのあばら屋はところどころいたんでおり、煤でまっ黒だった。英語のためにもう一時間あてたいという話があった。観光バスの挿話を思い出し、〈thank you〉の発音さえできなかったミシェルは、英語はからっきしだめですと白状せざるをえなかった。そういうわけで教職だけで暮らしをたてるわけにはいかなかった。
ミシェルは小部屋に荷物を運びあげた。ロレ神父がレジスにその住所を教えてくれたのだった。ラ・ギヨチエール地区のどまんなか、「古代広場」から二百歩ほどのジャン=ジョレス大通りだった。家主は印刷所の操作係で、急進社会党派の〈プログレ・ド・リヨン〉紙のために働いていた。妻と長女は(一家には子供が四人いた)教区の慈善事業に加わる一方、〈ル・ペルラン〉紙の読者だった。部屋代をはらってしまうと、手元には二百二十五フランしかのこらなかった。というのも百フランは次のブルーイ行きの費用の一部としてレジスに貸すことになっていたから。
ふむ。きびきびした説明的ディエゲーシス。文末辞の繰り出し方(ルバテお得意の「……というわけだった」の文末辞に注目)とか、このリズムが基本だな。
●『ふたつの旗』下745-747頁
第三十七章
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「機関銃手君、赤ワイン一、二杯にハムとソーセージの盛りあわせを一皿というのはどうだい? リヨンではいっしょに〈一杯やった〉ことが一度もないと思うと残念なんだ。飲むというのは、なにを飲むか考えながらのことなんだが。未来の歴史家たちは、そんなこと絶対にみとめようとしないだろうね!」
〈彼はどうやら信じているらしいな、「父なる神と私はひとつだ」ということが三つの位格の同一実体性を議論の余地なく証拠だてている、と。あれほど多くのばか者どもの腹に巣くっている必要、不愉快でばかげた彼岸への欲求に彼はつけこもうとしている。彼はミサをあげるだろう! まぬけよりもっと悪い。あれは怪物だ。プロの嘘つき、自分が嘘をついていることをもはや知らずにすませるすべを身につけようとした嘘つきだ。そんな人物が自分の右隣りにるのをお前はまだがまんできるのか?〉
しかし、その怪物がアンヌ=マリーに会い、彼女の声を聞いたのだった。ミシェルはそんな彼に質問するほどだらけているのだろうか? いずれにせよ、ここではだめだ、こんな腹の突き出た連中、こんな食い物の匂いのこもったなかでは。
「ボージョレをもう一本あけるくらいの隙間はまだあるだろ? サン=マルセランにしよう…」
レジスは弁じたてる。またしても一度、もっともこれが最後になるはずだが、〈普遍的価値〉の一大ソナタだ。やつがこれほどうまく演じたことはこれまでなかった。この冬ミシェルのあとにくっついて訊ねたルーヴルの話。
「ロザンベールの店でヴァン・ゴッホ展があったんだ。有名な「カロリーヌの薔薇」、「郵便配達夫」、「ガシェ博士」なんかがあったよ… どんなに君のことを考えたろう!」
彼は自分の効果に忠実だ。彼は正しい。それがもっとも確実な効果なのだから。しかもすごこく磨きをかけた。それはたんなる効果にとどまらない。大画家たち相手の最後の対話、別れの対話は本心からのものだった。ミシェルは一年まえから絵画を論じていなかった。彼は舌先にその味を感じ、指先ではヴォリュームを感じている。一年もののこのおいしいボージョレは、まだ若いのにこれほど強い酔いに誘う。絵画論を戦わせるにはもってこいの飲み物だ! ワインと女のように欲望をかきたてる絵画、陽気で快適なカフェ・レストランで、二人の仲間がそれを楽しんでいる。こういう店を下品だといってけなすのは子供じみたロマン主義というものであり、これもまた人生なのではないだろうか? しかも、良き人生と呼んでいけない理由があるだろうか? いまマチスについて相手が言っているのは、いくらなんでも極端すぎる。ちがう、こういうリズムを作り出したのはマチスではない。坊さんも自由になったものだ。彼は美術雑誌に氾濫しているわけのわからぬ言葉をむさぼり食ったのだ… しかし実際のところミシェルは自信をもってそう断言できるだろうか? なにしろ彼はこの十五か月間、無学なジゴロというか、神経症患者あるいはげっぷばかりしている太っちょの兵隊みたいな暮らしをつづけてきたんだから… 坊さんのほうはくたばっていなかった。彼はなにをいってるんだろう? 彼はそれをあとの楽しみにとっておいた。彼はサン=メクサンである若者と知りあったのだが、そのおかげでモンテルランに会うことができたのだった。〈あれこそほんものの作家だ〉 ぼくもそう思う。とくに彼が自分の考えていたバレスを否認してからは。坊さんはバレスについても話す。彼は自分の非をみとめてあやまる。ロレーヌのあの贋の郷士のなかに、かなりいかがわしいものがまじりこんでいる。モンテルランの最近の書物には、自在さというか、まさに王者の口調が感じられる… フランス文学の唯一の貴族だ。司祭はそのことを実にたくみに述べた。いまや彼は文学の名において自由に自分の信者たち、つまりペギーやクローデルを弁護し、ミシェルが彼らをしりぞけたのはセクト主義だということを、いっさいとげとげしさなしに主張することができる。〈このワインはなんてよく効くんだ! なんと! 白を一瓶、赤を二瓶、そのまえにル・サントラで何杯もあけている。今夜は徹底的なガブ飲みだ。もしかするとこれは計画かもしれないぞ、気をつけよう〉
「ル・ロワイヤルでコーヒーということにしよう。キイチゴのリキュールも大グラスでやりながらね。それもストレートで」
会話の現前的場面でありながら、段落のモンタージュが凄まじく多彩。内語あり、対話的ディエゲーシスあり、体験話法あり、要約法あり。シンプルではないが、会話場面はここまで複雑にできるということ。
ピンポイントで注目すべきはレジスの会話を地の文でスピーディに要約している箇所。だらだら科白をつづけたくなかったらまさにここから学ぶべし。
●『ふたつの旗』上447-449頁
第十四章
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どうということはないにせよ、避けるわけにはいかない仕事がブウールにまだのこっているのを、たまたま彼は思い出した。守衛所にシャスタニャックの伝言がのこされていた。是が非でも「部屋」で待っていてほしいというのだった。
彼は部屋にかけつけた。仲間はまだ来ていなかった。待つあいだを利用して、ミシェルはもっとも私的な書類をかきあつめた。ほかのものはシャスタニャックが荷造りを引き受けてくれたので、二度と部屋にもどらずにすむはずだった。入口のそばにつっ立って、ミシェルはもうみることがないかもしれないこの場所をしっかりと自分の目におさめた。その部屋の乱雑ぶりは、ことこまかにたっぷり描写するのに値しただろう。二人の友人の書棚は最初はとるにたらぬ棚板二段におさまっていたが、やがていたるところにはみだし、食卓兼用の机の上、壁際の床、窓の縁、寝台の下、洗面用の水桶の横などに配置されていた。なにをどこにおくかは文学的価値の微妙な多寡によってきめられていた。椅子やストーヴは積み上げられたぼろに埋まっており、埃やしみで、色はおろか生地までみわけられなくなっていた。布製のデッキチェアの凹みには、くず屋が荷車で運ぶほどがらくたがたまっていた。なにがあってもおどろかないつもりのミシェルも、帽子が十一個出てきたのには呆れてしまった。どれもこれもおなじくらい皺くちゃだった。古いパン屑だの、錆びたブリキ缶だの、使い古した剃刀の刃だの、ぼろきれだの、汚れた壜だのを、手押し車で運んできて部屋のいたるところにぶちまけたみたいだった。床からみえるものはいかにも分厚い腐葉土に覆われていたので、シャスタニャックは近いうちにさまざまな野菜の栽培でもはじめようかと思っていると自慢するほどだった。乱れたままのベッドのシーツの上には、聖なる禁欲生活の結果が地図のようにのこされており、仲間はその輪郭をわざわざ青鉛筆でなぞっていた。この群島のなかでもとりわけ大きな陸地には、こんな言葉さえ書きこまれていた──「いやはや、これは君へのプレゼント」。新聞だのパンフレットだの、黄ばんだ、黒ずんだ、かびの生えかかった紙などがちらばり、ところどころ山と積まれていて、この風景の背景をなしていた。それでも、みにくい整理箪笥の二つの引出しのなかでは、ミシェルの衣類が三重に重ねたタオルや白い紙で守られて眠っていた。そして原稿を入れた紙ばさみや日記のノートなどは、きれいに埃をはらったので、鮮やかな、多彩な彩りをみせていた。
〈さらば、帰還と出発の部屋、徹夜と期待と錯乱の部屋、おぞましく、しかもすばらしい巣窟よ。さらば、冬も春もかわらないあばら屋、愛と書物と神のあばら屋。お前が聞いたものすべて、芽生え、花開き、あるいは解体するのをみたものすべて、さらにはいかがわしいお前の窓、壁の上の汚れやインクの目でお前が聞いたものすべて、芽生え、花開き、あるいは解体するのをみたものすべて、さらにはいかがわしいお前の窓、壁の上の汚れやインクの目でお前が推しはかったものすべてへの抒情歌や頌歌を、今日のぼくに期待してはいけない。しかし、脚のふぞろいながたつくテーブルの溝につっこまれた古いペン先にいたるまで、お前は永遠にぼくの心のカメラに収められている〉
シャスタニャックはなかなかあらわれなかった。ミシェルはロップ印の赤ブライアの太いパイプ、お気に入りのパイプをしっかり口にくわえて、最後にもう一度机に坐ってみた。
〈アンヌ=マリーの心のなかになにほどかの場所を占めたいなどと、なんという哀れな、子供じみた期待を抱いたものだろう! ぼくを愛している人がいるという。それが彼女ではないからといっておどろかなくてはならないのか? イヴォンヌという名の娘にたいして、ぼくは原子一個分の感情も抱いていない。この話にふくまれる原則は、こっけいきわまりなく、グロテスクなほどだ… それとも悲劇のきわみなのだろうか? なにがどうなっているのか、ぼくんはもうわからない。すべてが地面に倒れてしまった。ぼくのアヴァンチュールは解体されてしまったのだ。それはぼくたちのトリオと、その比類ない親密さにたいする非難ではないだろうか? ああ! ぼくは自分を励まさずにはいられない! アンヌ=マリー、ぼくは君を愛している。ぼくが愛せるのは君だけだ!〉
シャスタニャックが入ってきたところだった。一週間まえから彼はミシェルの苦悩に立ち会っており、とかくつっけんどんな扱いを受けていたにもかかわらず、黙っていろいろと友愛にみちた気づかいをみせていた。突然、友情と感謝に夢をゆり動かされたミシェルは、彼に礼をのべた。生気にみちた南仏の男の顔は、好奇心にあふれんばかりだった。
「じゃ、彼は一人で来たの?」と彼がいった。
「そうなんだ」とミシェルがいった。「しかし問題はもうそれだけじゃない。なんにも聞かないでくれ。君にくわしく話せるような気分じゃないんだ。ただ君に知っておいてほしいのほあ、思いがけない話がもちあがっているということ、それにくらべれば他のことはなんでも気軽に思えるということだ。もうひとり別の娘が登場したというわけ」
シャスタニャックの金色の目が、かすかなアイロニーをおびて光った。
「なにがどうなろうと、知性のある側が勝つんだ!」ミシェルは叫んだ。
この最後の言葉が彼の口からほとばしったのは、ほとんど意に反してのことだった。
作家は自分の状況を知ろうとし、そこでの実際的な行動を思う。「状況は描写できるものではなく、客観的にとらえられるものでもない。リアリティは主体的な行為によってかたちづくられるものであり、状況を対象化することは、それにはたらきかけることによってしか達成できない」──すなわち自分はいまこういう所にいるんだということを知ること──その主体的な意志と行動が周囲の現実と激突してひきおこす火花の軌跡こそが、文体である。ルバテの運動神経のすばらしさを見よ。
引用部は段落展開的にも参考になる。「その部屋の乱雑ぶりは、ことこまかにたっぷり描写するのに値しただろう。」という一文をポンと入れて長い描写へ移行するのも上手いし、「シャスタニャックはなかなかあらわれなかった。……」で始まる段落と「シャスタニャックが入ってきたところだった。……」で始まる段落との間に主人公の内語だけで構成された段落をモンタージュして、主人公の内語の裏で時間を進展させるという段落モンタージュ・トリック。そう、見事な段落展開というのには、段落モンタージュの巧みさも寄与するものだ。
●『ふたつの旗』下452-455頁
第二十八章
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アンヌ=マリーはついに全訳版で『カラマーゾフの兄弟』を読んだほか、ヴォルテールの不揃いな何冊かをよろこんで拾い読みしたのだった。ペンション・フィッシャーにあるフランス語の書物といえばそれだけだった。彼女が読んだのは、パスカルの『パンセ』にかんする考察をふくむ『哲学書簡』だった。ミシェルは眉をひそめた──そう、レジスもしかめたにちがいないように! アンヌ=マリーがこれほどうぶな無信仰者の著作を愛読するのはミシェルの気に入らなかった。ヴォルテールとドストエフスキー──天才はどうみても無信仰者ではなくキリスト者のほうにあった。それは信仰なきキリスト者ではあったかもしれないが、どれほど深いキリスト者だったことだろう。それに『パンセ』を論じるヴォルテールなんて…
「白状するけれども、ぼくにはちょっと気づまりな著作なんだ。ヴォルテールってほんとに天井がぬけすぎているからね。彼を読んでいるとパスカルの視野のほうがはるかに豊かだったことをみとめざるをえなくなる。それがどうにもいまいましいんだ。ああいう論駁を読んでいると、パスカルが措定したような形でわれわれの四終の問題は、それ自体下劣なものと思わずにいられなくなる。とどのつまりこの主題はヴォルテールにもパスカルにもふさわしくないのだ」
アンヌ=マリーは反論した、ヴォルテールはいろいろのことをかなり楽しい形で教えてくれる、と。
「あのころのイエズス会のお歴々や神学者たちって、ほんとうに度はずれに理不尽だったのよ。ヴォルテールはそういうお歴々をきつく叱りつけたんだわ。あなたは何度もくり返しいったわね、十八世紀だったら私は成功しただろうって。あなたのいうことにもすこしは道理があるのにちがいないわ。もしあの時代を生きていたら、私は今よりはるかにおだやかな心でいられただろうと思うの。私自身多かれ少なかれ哲学者になって、百科全書派の物理実験室を訪ねたにちがいないと思う。あのころの物理学っていじらしいんですもの。パリジアンたちにいわせれば、地球はメロンのような形をしていたし、ロンドンの人たちにいわせれば両端が平らだった。天文学者たちは七千個の星をかぞえあえて鼻高々だった。でもそれはイエズス会士たちを笑いものにする物理学だった。それに、ヴォルテールの立論はあなたの主張とそれほどかけはなれていないのよ」
とどのつまり彼女のいうことはほんとうだった。マルクス=アウレリウス時代のキリスト教徒にたいするケルススの嘲りは、すでにヴォルテールのそれとおなじものだった。しかし教会が尊大かつ断固たる勝利を収め、牢獄をみたし、不敬虔な書物を焼き捨て、俗人には教会の書物をかくし、教義にしたがって世界を創りかえるのに、いくばくの時も必要としなかった。ふたたび常識の声が高まるまで千六百年ものあいだ待たなければならなかったし、その声をあまりにも軽薄かつ散文的なものと判断するのは、おそらく司祭たちによって積み上げられてきた構築物を重視しすぎることなのにちがいなかった。アンヌ=マリー自身、無信仰の道に足を踏み入れたのがごく最近のことである以上、彼女がそのような第一歩を歩みなおし、これらの起源の味わいを評価するのは、ある意味で自然なことだった。それに、ヴォルテールがミシェルの目からみてもふたたび大いに評価を高めるためには、彼がアンヌ=マリーを楽しませるということだけで十分だった。ヴォルテールには勇気があったし有益な人間だった。無信仰者たちが彼の擁護をしくじったのであり、〈黒服の教会人〉たちの嘲弄や、ロマン派の詩人たちの荒々しい言葉にたじろいだのだった。カトリック信者たちが『信仰生活への手引き』や、壮麗な、しかし内容空虚な説教家ボシュエをわがものとして主張するのとおなじく、彼らはヴォルテールを自分たちの陣営の人間として求める権利があるのはたしかだった。ヴォルテールが自由思想を信奉する獣医たちの哲学者だったとすれば、ボシュエは神学校教師たちのそれなのだった…
「それで、ニーチェは? アンヌ=マリー…」
「すこし読んでるわ。でもいちどきにたくさんは読めないの。だって私はあんな大龜には慣れていないんですもの。そんなふうにしかいえないのは恥ずかしいと思う。感動にふるえることもないわけじゃないの、それどころか逆よ。なにか巨大な建物が崩れ落ちるときのような音が聞こえる。たいていそれは壮麗でおそろしい。ふつう私は自分の読んでいるものを信じるのに、とても苦労するの。それは一陣の風が吹けば完全にかわってしまう雲の形のようなの。幻灯を映していて、ふとシーツに気づくみたいに。私がいってるのは、ふつう人々がまじめなものと判断している書物のことなのだけれど… でもニーチェは全然ちがう! 彼が書いていることは、全部自分で生きたことなんでしょ? それなのにレジスは、彼は思想家じゃないといいはっていたなんて!」
「レジスみたいな連中は、ニーチェが高い能力の持主であることを否認し、彼を不具者とみなさざるをえないんだ。なぜから彼は預言者であり、彼らにとって唯一の競争相手なのだから。彼のような頭脳をもっていながら、君の哲学入門書にびっしり書きこまれているような体系を二十くらい組み立てる力がなかったなんて、そんなことが信じられる? ニーチェはそういう仕事をだれよりもよく知っていた。しかし彼はそんなものを軽蔑していたんだ。なぜなら彼がやりたかったのは、哲学的な加工とはなんの関係もない生そのものを語ることであり、彼自身がものすごく豊かな人間だったからだ。彼は思想の百万長者だった。彼に嫉妬するのは貧しい連中なんだ。自分のもっている唯一の思想の細いピンの頭の上に、弁証法のピラミッドを築こうとする連中なんだ。なんという人間だろう! なんという詩人だろう! 彼のいうことはすべて、ぼくには赤く暗い空を背景に書かれているような気がする。それは普遍的悲劇の空であり、勝利の空だ。ああ! ぼくがもうすこしよくドイツ語を知っていたら!」
「彼の伝記を読んだわ。神々のあの手ごわい敵は神秘家だったのね」
「フム、ねえ君、君の優雅さには彼は心から感動したにちがいないけれども、そんな言葉を口にするのを聞いただけで、君の首を絞めあげたかもしれないよ!」
「それじゃ彼は、パスカルの有名な言葉とおなじ意味で殉教者だったのね。ニーチェは首を絞められるよりずっと激しく苦しんだわ。彼は聖人だったのよ」
「ああ、いとしいアンヌ=マリー、そんなことをいう君は、いとも甘やかな冒涜を犯すことになるよ! 聖性の定義がどういうものだったか、はやくもそんなに完全に忘れたとすれば、すべてはルシファーにとってこのうえなく都合よく事が運ばれていることになる」
二人は声を立てて笑った。その笑いにも魅力的な弟子の熱心さにもミシェルは有頂天だった。しかし彼は盗みを犯し、やくざなチンピラのわずかな寄附金を受け入れ、国境をこえ、物狂しいほどの狂信の証拠をアンヌ=マリーの足元に捧げたのだった。そして二人は、叙情的な風景のなかの理想的な孤独と自由のなかにいながら、まるでアーケードのカフェか子犬のカフェから出てきたばかりであるかのように、ヴォルテールを語りニーチェを語っているのだった。アンヌ=マリーが待っていたのはミシェルの告白でもなければ接吻でもなく、彼の思想なのだった。まるでそれがリューマチで手のねじれた、博識な、尊敬すべき、いささか頭のおかしい老教師の思想ででもあるかのように。ああ! 呪わしい思想! そんなものがなかったら、もしかしたらアンヌ=マリーも、目を見開き、理解しようと努めてくれたかもしれなかった… アンヌ=マリーが、恋する女のやさしい目で彼をみつめながら、〈あなたのニーチェにはうんざりよ、あれは騒々しく大袈裟な言葉をはきちらす狂人よ。あなたがわざわざきてくれたのは、そんな話をするためじゃないんでしょ…〉といってくれるかもしれなかった。そんなよろこびはあるはずがなかった… しかしアンヌ=マリーは、夢にみるのとほとんどおなじくらいやさしいまなざしを彼のほうへ向けていた。不可能なものはなにひとつなかった。
もちろん、アンヌ=マリーの科白の女性としての素晴らしさに注目すべきところだが、会話が終ったあとのディエゲーシスの書き方の参考にもなるだろう。「そして二人は、叙情的な風景のなかの理想的な孤独と自由のなかにいながら、まるでアーケードのカフェか子犬のカフェから出てきたばかりであるかのように、ヴォルテールを語りニーチェを語っているのだった。」というふうにそれまでの会話の俯瞰してまとめる叙述は全体の流れをひきしめる。
●『ふたつの旗』上90-91頁
第三章
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レジスがやっと返事をよこしたのは三週間もたってからだった。しかもその短い返事ではレパルヴィエール訪問には一言もふれておらず、詫びの言葉もいっさいなかった。ギヨームのことにも全然ふれていなかった。レジスは逆に、それができるようになり次第、ミシェルのほうからリヨンにきて自分に会ってほしいといってきたのだった。彼がときおりみせるいくぶんもったいぶった言い方で、その会見のあいだかなり大事な話をするかもしれないとほのめかしていた。彼らの共通の従兄弟が、ソーヌ河のほとり、サン=ジェルマン=オー=モン=ドールの別荘の部屋を三日か四日貸してくれることになっているというのであった。
この提案はあまりミシェルの気を引かなかった。絹織物製造業者の一家がそろっているところで音楽の話ばかりするのは礼儀上むずかしかったし、ピアノぬきのレジスなんてほんとうのレジスではなかった。二人の友人の出会いをとりはかろうと決心していらいその機会が待ちきれない気持だったので、むしろ失望が彼をいらだたせていた。リヨンの男のやり方も、あまりといえばあまりに気楽だった。しかしミシェルはいつまでも気を悪くしているような男ではなかった。十か月近くもレジスに会っていなかった。彼はかなりほがらかな気分でスーツケースの蓋を閉めた。
客車の座席ですでに彼は、最近パリで発見したことでレジスをおどろかせ、いささかくやしがらせ、彼の気をそそる楽しみをあらかじめ味わっていた。よく似合う夏服も彼にこころよい魅力をおびさせていた。レジスはペラーシュ駅のホームで待っていた。近づくまえ、ミシェルはレジスのほうもさっぱりした身なりをしているのに気がついた。前の年別れたときの彼は、背の伸びるのがあまりにも速すぎた少年であり、バカロレア受験者の古ぼけた服を窮屈そうに着ていたのだった。再会した彼は背広姿で、カットこそすこし不格好で、茶色い服の色もいまひとつくすんだ感じだったが、エレガントな身なりに気を配っていることは一目でみてとれた。かなり趣味のいいステッキを手に握っていたし、これまたはじめてのことだが帽子をコケットにあみだにかぶっていた。二人が最初にかわした言葉は、いままでみたこともないこのシックな身なりについてだった。レジスはちょっと自慢しすぎるのをやめなかった。ひとたび話題がもうすこしまじめな問題に移ると、弟子の役を演じる気配はもはやこれっぽちもみせなかった。どんなにあざやかなパリの啓示にもたじろがないほどの色合いを自分はそなえていると自信たっぷりだったし、そのほかのことについては、いずれはかなく消えるはずの気まぐれを無造作にしりぞけた。
ソルボンヌその他の哲学者たちの話をしながらローヌ河沿いの道を歩き、しばらく話題が形而上学のことになった。レジスのカトリック信仰はこれまでになく基盤を固め、確固たるものになっているようだった。
《へんだな》とミシェルは思った。《宗教的使命感をおぼえはじめて、わざわざぼくをこさせたのは、そのことでぼくに相談するためだとばかり思っていたのに。ところが昔にくらべると、はるかに〈神学校生徒〉らしくない。あのステッキだの帽子だのはむしろ、意識の危機の前兆とも思われかねない。それでもやつは聖トマス・アクイナスにもまけないほどしっかりしている。しかしかまうものか、またしてもだれかにのぼせて、もう以前ほどは考えなくなっているんだろう》
レジスは『ゴールドベルク変奏曲』を弾いたワンダ・ランドウスカの技量への正直な賛辞を突然やめて、心配そうな顔をしていった。
「君に手紙を書いたのは非常に大事なことを伝えたかったからなんだ。ぼくの現在と未来にとってこのうえなく重要な秘密だから、君の友達のギヨームのようにぼくの知らない人がいたんじゃ、とてもいえないようなことなんだ。その秘密を知っているものはだれもいない。ぼくたちの友情にかけても、君には打ち明けるべきだと思ったんだ。……
情景法と要約法(ないし括復法)の中間のスピードの叙述が、長篇小説には決定的に重要。たとえば、日本の私小説作家はこのスピードをまったく獲得していないと思う。引用部では「客車の座席ですでに彼は、客車の座席ですでに彼は、最近パリで発見したことでレジスをおどろかせ、いささかくやしがらせ、彼の気をそそる楽しみをあらかじめ味わっていた。……」の段落に注目すべきなのだが、単線的に出来事を羅列していくのではなく、どこで注目すべきものに注目し、どこで描写の言葉と認識の言葉をしっかり費やし、どこで時間を飛躍させ、どこで状態を持続させるかについての配慮がきめ細かでなければ、これほどリーダブルにはならないと思う。通常の情景法と比べて焦り過ぎという印象を与えてしまったら駄目なのだ。
中間スピードの叙述から主人公の内語に繋げていく段落展開も素晴らしい。
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------------------------------------- タイプ【2-2】ルバテ:現前的-要約法 ▲
●『ふたつの旗』上363-364頁
第十一章
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ジャラント街十三番地で、二人の若者は五十がらみの小人に招じ入れられた。黒いファスチアン〔綾織りの布〕の僧衣を着、縁なしの小帽子をかぶり、赤毛の顎髭を生やしていたが、その髭は色が薄れはじめていた。玄関も面会室も貧弱で暗かった。修道会はたしかに室内装飾で権勢を誇示するようなことは考えておらず、黒い木の縁取りのあいだで黄ばんでいる悪趣味な祭具、毛ばだった緑色のフラシ天を張った貧弱な椅子、色あせた紙を貼りつめた壁、むきだしの床板など、いわば古典的なよせ集めで田舎の司祭館そっくりだった。ミシェルはその場にただよう聖職者の匂いをかいで不安にかられた。額の高さに開けられた、地下室の明かり取りのように海緑色の窓から目やにようにさしこむ光のなかでは、彼の着ているこぎれない夏服はとっぴな色のしみを作っていた。自分が不満だった。セシルを売り渡すような気がしたのだ。かつてコレージュで、黒服の教師たちのために、しばしばミシェル自身もふくめて〈ひねくれ者〉をスパイしていた信心会の密告者たちのように。漠然とではあるが、自分の種族を裏切るような気持だった。レジスが彼のそういう気持をみぬいてすこし助け船を出してくれたらいいんだがと思った。
「君にわかってもらえるかどうか知らないが」と彼は小声でいった。「自分から進んで司祭のところへ行くのは生まれてはじめてなんだ」
「そうだろうね」レジスが答えた。「しかしそんなことより、ジュードのまえでいうことを考えておくほうがいいよ。口ごもったりせずに、君の思う通りに説明するんだ」
黒い三角帽子をかぶったジュード神父がドアを開け、若者たちを手狭な執務室に招じ入れた。面会室ほど暗くはなかったが、くるみ染料を塗った樅の木の家具類はごく粗末なもので、籐張りの貧弱な椅子がいくつか置いてあるだけだった。一晩十フランの安宿のテーブルより大きいとはいえない司祭の事務机のうえには、ひどくすりきれた黒布装丁の書物が十冊ほど乗っていた。いっさい儀式めいたところのない、木と青銅の十字架像がなかったら、郊外に住む警察署長の飼犬の部屋と思ったかもしれない。背丈は中くらいだががっしりした身体つきのジュード神父は、五十五歳ぐらいにみえた。かなり濃い肌色の、でっぷりした顔で、なにもかも見通すような非常に冷たい目が、一種傲慢な感じで訪問者に据えつけられた。ミシェルの名刺を指でつまんでいた。彼はレジスのほうを向いて
「ミシェル・クローズ君だね?」
空間をどのように描き出すかの情景法のサンプル。そこはかとない嫌悪感が描写の構成原理になっているようだ。描写を生み出す視線は辛辣かつ機知に富んでいる。「修道会はたしかに室内装飾で権勢を誇示するようなことは考えておらず、黒い木の縁取りのあいだで黄ばんでいる悪趣味な祭具、毛ばだった緑色のフラシ天を張った貧弱な椅子、色あせた紙を貼りつめた壁、むきだしの床板など、いわば古典的なよせ集めで田舎の司祭館そっくりだった。」「いっさい儀式めいたところのない、木と青銅の十字架像がなかったら、郊外に住む警察署長の飼犬の部屋と思ったかもしれない。」
●『ふたつの旗』上655-656頁
第十八章
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教会はほんとに小さくて、いじらしかった。イタリア風の木の聖壇があり、金や赤で塗った彫像がたくさんのっていた。純真な山人芸術のちょっとした傑作といってよかった。彫刻家たちの息子や孫にあたる連中が、丸い帽子を手に、いかにも正直そうな顔で小さな身廊〔教会堂の入口から祭壇にかけての中央部分〕をみたしていた。ミシェルは、これほどたくさんの男が参列する田舎のミサをみるのははじめてだった。ドーフィネ地方では、葬式のときでさえ、男たちは良心の自由とやらを誇示する感じで、せいぜい教会の入口で故人に別れを告げるだけというのがふつうだった。司祭が聖体拝受のワインを一息に飲みほすあいだ、彼らは白ワインを飲みに行く。女たちはみな艶のある飾り紐のついた髪飾りをつけ、黒スカートに色とりどりのショールというみなりだった。何人か若い女もいた。いかにも堂々としており、とても純粋な横顔をみせていた。まもなくみんなのまえに出ていくはずのアンヌ=マリーが、不安げな目を母親のほうへ向けた。ヴィラール夫人は励ますようにちょっと腕をさすり、出番がきたことを彼女に知らせた。目は聖壇のほうを向いたままだった。それはまるで子供を身内だけの初聖体に送り出し、神さまがやさしくしてくださるように聖母にお願いするときのようだった。アンヌ=マリーはいまや、リードオルガンを弾く、髪をたばねてシニョンにした老婦人のうしろに立っていた。子供っぽい、きんきんしすぎる声で彼女は歌った。
いかにもルバテはときに「嘲弄」を情景法の描写の構成原理に据えるが、文体レベルでの個性である細かい形容の選択に、すでにその方向性は表現されている。例えば「純真な山人芸術のちょっとした傑作といってよかった」における「ちょっとした」、「いかにも正直そうな顔」における「いかにも」、といった修飾句がもたらす文体のテクスチャーの印象から、ルバテらしさがすでに表われているということ。
「いかにも堂々としており、とても純粋な横顔をみせていた」──(ここでも「いかにも」が使われているが、それは措いておいて)における「とても」「純粋な」の形容の使いどころもルバテ的だな。
●『ふたつの旗』上124-125頁
第四章
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予想に反してリレットの家の昼食はけっこう楽しかった。夫の肥ったポールはデザートになると姿を消し、まもなく入れかわりに三十五歳ほどの離婚した男が顔を出した。すこしは文学をかじったこともあるわびしそうな男だった。飾り紐製造業の景気の話なんか大よろこびで放り出し、話題は書物のこと、愛のことに移った。美しい従姉は愛についてこのうえなく均衡のとれた考えの持主であり、九月の宵のことはまったくおぼえていないようなふりをしてくれた。とどのつまりそれがもっとも気のきいた解決だった。レジスはといえば、人間の官能の秘密や罠について、こまごました話に耳を傾ける気はないようだった。この分野についてなら、ミシェルのほうはいくらでも話すことがあったし、事実遠慮などしなかった。彼はまたしてもいい気になって、あれやこれや自分を種にしゃべりまくった。彼の描く肖像は小サロンに居合わせた人々を大いに沸かせた。ボヘミアンであると同時に女性にたいしていんぎんな若者であり、若い女性たち、ベッドで失望している人妻たちの気持をもののみごとにみぬき、家族のなかではあくびをしながら、優雅な獰猛さでそれをいい、およそぱっとしない仕事で日々のパンと自由を確保しながら、これほどみごとなカットの背広を着こなし、知識が豊富で、しかもいとも軽やかにそれを周囲に披露する、そんなミシェルは、人々の賛嘆の的となった。彼には才能がある、魅力的な乳房の持主に大いに溜息をつかせるだろうというのであった。美しい従姉も、プルーストやアンドレ・ジードやクローデルを読んでみようかしらといい、みんなが大声でブルジョワを罵倒した。
レジスとミシェルはふたたびローヌ河沿いの道を歩いた。永遠の圏界をめざして数段高く登り、あらゆる点で自分たちにふさわしい一日を生きたという確信があった。ワインのあと、緑色のシャルトルーズを三杯も飲んだせいで、そうとうに気がたかぶったのだといっても、率直にみとめようとはしなかったにちがいない。
二人は長い間歩き、多くの歩道を踏みしめ、多くの理論を打ちのめした。夕闇が迫っていた。ミシェルには、未知の娘に会うのにあたりが暗いほうが落ち着けるように思われた。いまや約束の場所に向かっているという考えが二人のあいだに生まれ、心を占めつくした。
情景法と要約法(括復法)の中間スピードを習得せよ。引用部では第一段落に注目。中間スピードの叙述では、動作よりも「結果」に重点を置いて書いていくべきだろうか。「予想に反してリレットの家の昼食はけっこう楽しかった。」「夫の肥ったポールはデザートになると姿を消し、まもなく入れかわりに三十五歳ほどの離婚した男が顔を出した。」「彼の描く肖像は小サロンに居合わせた人々を大いに沸かせた。」「……そんなミシェルは、人々の賛嘆の的となった。」「美しい従姉も、プルーストやアンドレ・ジードやクローデルを読んでみようかしらといい、みんなが大声でブルジョワを罵倒した。」──こうした要点要点での「結果報告」に挟まって状態の記述や説明、動作、描写が入るという感じだ。それに加えて何をどのような順序で語っていくかについての繊細な配慮があり、やはり感覚した順番(=現前的順序)というより思い出した順番に事実を語るといった趣きだ。
●『ふたつの旗』上93-94頁
第三章
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太っちょのポールは大急ぎでリヨンにもどらなければならなかった。翌日明け方にリヨンをはなれるというアメリカ人の客に会うためだった。リレットのブラウスの下では、このうえなく感動的な胸が甘美な肉づきをみせていた。隣人のブルジョワが子供を三人連れてやってきて、広間で人形劇をやり、家族を撮った映画を映した。明かりが消された。レジスが姿を消し、ミシェルとリレットはみんなから遠くはなれて低い椅子にならんで坐った。リレットはいまいましい夫婦生活の話を小声ながら能弁に彼にささやいた。ミシェルにとってと同様、彼女自身にとってもそれは新しい経験だった。なにしろ二人の年齢をあわせても四十二にならなかった。ミシェルがどんなにやさしく熱心に理解を示そうとしたか容易に想像できるだろう。二人の膝が、軽く、しかし陽気にふれあっていた。ほのかな女の香りが彼を包んだ。彼は魅力的な胸の輪郭をそっとなぞり、すこしずつ愛撫を強めた。欲望の手綱なこれほど強烈に胸をしめつけるなんて、いったいいつからなかったことだろう? マリー=ルイーズはなんて若々しくさわやかなんだ、ほんとうの若い娘だ。それにしても、さわやかで純粋なこの柔らかさの下で、たくみに迎え入れるこの熟れきった身体! この美女の開かれた脚のあいだで、十六歳ごろの生々しい夢が快楽の体験のなかで成就されそうだ… 三十分もしないうちに、二人はどんな状態になることだろう? そういうことにならないことが、ありえなくなっていた。マリー=ルイーズのまるい膝の上のスカート、そのスカートの熱い凹み… あと数分もすれば、その下のむっちりした膝に手をはわせることも許されるはずだった。心をうばうこころよいアヴァンチュール、なんという理想的な充足だろう! このゆたかな豪邸で、温かい夜のさなか、ぽってりしたこの美女の香りに包まれ、すべやかな肌に身をよせてまるくなる… 一人で大股に歩きまわるレジスの足音がテラスでにぶくひびいていた。……
エロティックな感覚を上品に言語化するルバテの趣味の良さはすばらしいな。「リレットのブラウスの下では、このうえなく感動的な胸が甘美な肉づきをみせていた。」
また、この段落自体は要約法的情景法のリズムですすみ、そのため語り手の語調が強くなっていることにも注目しよう。主人公を三人称で書いているだけに、よけい目立つね。「なにしろ二人の年齢をあわせても四十二にならなかった。」「ミシェルがどんなにやさしく熱心に理解を示そうとしたか容易に想像できるだろう。」「欲望の手綱なこれほど強烈に胸をしめつけるなんて、いったいいつからなかったことだろう?」「三十分もしないうちに、二人はどんな状態になることだろう? そういうことにならないことが、ありえなくなっていた。」
やはりドストエフスキーとともにルバテ、チェーホフあたりが、要約法的情景法の使い手としてはトップクラスか。
●『ふたつの旗』上229頁
第八章
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私たちの音楽好きな若者二人は、ラシーヌ街の安飯屋シャルティエで、鉄砲用のグリースで揚げたかれい、皿洗いの水で練ったピュレ、クレオソートみたいな味のするエスカロップ〔バタ焼用の薄切り肉〕、ピクリン酸をまぜたようなシャーベットをつめこんだ。それで三フラン七十五だった。ワーグナーを聞きに行く日の夕食はサンドイッチ、夜食はゆで卵だった。
ルバテの十八番、辛辣な比喩。
●『ふたつの旗』上387頁
第十二章
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レジスが急に立ち上がり、いとまを告げた。恋人の腕から若い労働者たちへの伝道に、アポリネールの詩から教会の神父たちへ、突然思いがけぬ方向転換をみせるのが彼の一風かわった特技のひとつだった。まるで腰のひふりで均衡をとりもどせるかのようだった。イヴォンヌは客たちをひきとめようとして、イギリス風に紅茶とケーキはどうかしらといった。みんなはいかにもブルジョワ的な習慣に抗議した。アンヌ=マリーが言いはなった──「紅茶なんてごめんよ! この人たちと歩きまわるようになってから、あたしのおやつは赤ワインにロックフォール〔青黴入りの強いチーズ〕と決めているのよ」
ルバテの十八番、皮肉のきいた比喩。
●『ふたつの旗』上494頁
第十五章
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まず最初にミサに出なければならなかった。首座司教座聖堂はボーイスカウトやガールスカウトでいっぱいだった。身体もよく洗っていない若者たち、しかもほとんど一様にひ弱そうなうえに癇にさわる傲慢さだった。樽に膝丈の祭服を着せたような司祭が、六重にもなった顎をもぐもぐさせながら、そういう若者たちに説教を垂れていた。まるでパロディーとしかいいようのない説教だった。四人組のうちカトリック信者の三人は聖体を拝領しにいった。ミシェルは本能的に顔をそむけた。アンヌ=マリーの耐えがたい顔をみるのをあまりにもおそれていたのだ。
いや、ルバテは何を描写させても皮肉がきいていて笑えるな。「樽に膝丈の祭服を着せたような司祭」「まるでパロディーとしかいいようのない説教」──常に対象をコケにするつもりで比喩を探しているかのようだ。
●『ふたつの旗』下739頁
第三十七章
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二週間の賜暇のうち、まるまる四日間ミシェルはモンパルナス界隈で飲みつづけた。ディジョンをすぎたあたりから彼は、ビンゲンのアルプス猟歩兵三人を相手に、元気づけに安ワインをあおりはじめていた。一九二七年、賜暇をえてラインラントから帰ってきた兵隊たちは、まだ巨大な背嚢やら、剣帯に下げた鉄兜やら、特別攻撃隊の飾り紐やら記章やら、ヴェルダンやソム川で戦った兵隊たちにそっくりだった。略帽をかぶって、古い生家のドアのまえに立ったミシェルは、珍妙な新しい飾り紐をつけた、大袈裟な異様な自分の身なりを楽しんでいた。まもなくそんな自分を身内のものや近所の娘たちにみせるはずだった。彼がこの家の壁をあとにしたのは二月のある日のことだったが、その日いらい彼がこんなにくつろいだ気分で、陽気な自分を感じたことは一度もなかった。彼のベッドには一人の死者が横たわっていた。切手を蒐集して楽しんでいた従兄のエミールだった。かわいそうなエミールは、その日の朝、兵隊さんに会いにきて、村から一キロ半のところで、車の事故で死んだのだった。背骨が折れ、即死だった。二十五歳だった。
ディエゲーシスを質的に高める「飾り」について。以前言及した「マッターホルンの初登攀を試みて生命を落としたサヴォワ地方の山岳ガイド」もそうだが、ルバテの説明的ディエゲーシスではなぜか無意味に単独的で細かい「飾り」のような叙述が紛れ込んでくる。ここでは「ビンゲンのアルプス猟歩兵三人」「一九二七年、賜暇をえてラインラントから帰ってきた兵隊たち」「巨大な背嚢やら、剣帯に下げた鉄兜やら、特別攻撃隊の飾り紐やら記章やら」といった細部がそれ。どうもルバテは自ら楽しんでこういう「飾り」を叙述に紛れ込ませているようにさえ思える。バルザック的なユーモア。
水増し的な比喩よりはこういう「飾り」の方が望ましいのは言うまでもない。
●『ふたつの旗』下707
第三十六章
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プラスコヴィア・ヴァシリエヴナの夜会は、スタイルからいえば墓石の上の幻想的な酒盛りといったところだが、とにかく大成功だった。どこかアジア系の民族の血がまじっているのにちがいない黒褐色の肌の若者をパートナーに、オルガ・パルフィエノヴナがチャイコフスキーの曲にあわせて踊る。二人ともたいへんな才能の持主だ。金髪の大公妃はムソルグスキーとシューマンの曲を歌う。ちょっと弱々しい声だが、その声の使い方は驚嘆に値する。彼女は第七天の処女であると同時に、欲望に掘り返された愛人でもある。飲み物もたっぷりした夜食のあと、ヴァシリ・ヴァシリエヴィッチが何人かかたらってコーカサス・ダンスを踊りだし、次にコーラスで軍歌を歌う。それらの歌は彼らの「かわいい鼓手」や「フランドルの擲弾兵」にあたるのにちがいないが、全員が三部合唱で歌いはじめ、浮かれだし、ぶちこわし、豪快きわまりない兵隊あがりたちといっしょになってお祭り騒ぎに打ち興じ、民衆とともに限りない苦悩を唱えるように歌う。聞いていても泣きたくなるほどだ。こういうロシア人たちはみんな詩人だ。みんな才能に恵まれている。そういう彼らがミシェルをむかつかせる。こういう浪費、アルコールに溺れてぼろぼろになった、こういうすばらしい才能、さんたんたる敗北と羽目をはずしたどんちゃん騒ぎのあいだの大きな縦揺れにはうんざりする。こういう一団のロシア人たちは、ホメロスいらい全人類の文学全体にふくまれるよりもっと多くの叙事詩、愛の悲劇、家族、血、思想を自分たちの荷物として引きずっている。しかしこういう悲劇、牧歌、道化芝居はもはや読むに耐えるような連載小説のネタさえ提供してはくれない。文明化されるまえに退廃したロシア人たちは、すべてを凡作にかえてしまう。アンヌ=マリーはまるでコサックの少女のように、彼らの歌とワインとウォツカと踊りのなかに飛びこむ。こういうあやまった趣味にはおどろかずにはいられない。こういうロシア人たちがどれほど陳腐な連中か、彼女だって感じとってしかるべきなのに。
戯画的なディエゲーシスというルバテの十八番。単なる一連の事実に比喩をほどこして戯画化して華やかにし、それらを予言的ないし黙示録的情景として流れのなかで繋ぎ合わせていく。加えてここでは単なる戯画化だけでなく「皮肉」の切っ先も含まれている。「スタイルからいえば墓石の上の幻想的な酒盛り(冒頭からすでに皮肉!)」「第七天の処女であると同時に欲望に掘り返された愛人」「ホメロスいらい全人類の文学全体にふくまれるよりもっと多くの叙事詩」。事実の記述にこうした屈曲(誇張?)を持たせることによって語り手は真理性の伝達という責任から或る程度解放されるし、ディエゲーシスがときに落ち込む知識の羅列の息苦しさを解きほぐすこともできる。こうしたディエゲーシスを書くために、語り手は意識的に少しタカをくくった目線で物事を見ているようだ。例えば「どこかアジア系の民族の血がまじっているのにちがいない」という一方的臆測や、「ロシア人たちはみんな詩人だ」といった短絡的な一般化、「こういう悲劇、牧歌、道化芝居はもはや読むに耐えるような連載小説のネタさえ提供してはくれない」といった誇張された価値判断、「文明化されるまえに退廃したロシア人たちは、すべてを凡作にかえてしまう」という客観を装った主観的予言。
もう一つルバテの特徴であるディエゲーシス内の「飾り」もここではふんだんに見られる。「どこかアジア系の民族の血がまじっているのにちがいない黒褐色の肌の若者をパートナーに、オルガ・パルフィエノヴナがチャイコフスキーの曲にあわせて踊る」──まったくどうでもいい細部なんだけれど面白い。
●『ふたつの旗』下615-616頁
第三十三章
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前夜ミシェルは、本能をむりやりおさえこんで、傑作をめざすよう自分に強いたのだった。こんなみにくい小路のポーチの影にアンヌ=マリーを押しこむようなことはしたくなかった。自分の部屋に連れていくつもりだった。しかしそのまえに、彼女にそう告げるのにふさわしい背景をみつけなければならなかった。アヴァンチュールが美しいものになるかどうかは彼の手にゆだねられていた。さしあたっては、二人の会った時刻が早すぎたために、二人ともかなりおろかしくいらだっていた。
アンヌ=マリーは、ミシェルの不安も待ちきれぬ気持もわかちあっているにちがいなかったが、それゆえにこそふたたび感動が生まれてくるのだった。娼婦たちがうようよしている街を、あてもなく歩きまわった。彼女はそわそわしたり笑ったりするのをやめていた。彼は主人顔で話すことができた。ふるえている小さな手を握った。その小さな手のふるえが感じとれたために、彼の喉がきつくしめつけられた。そしてそれはすばらしかった。
「アンヌ=マリー、いとしいアンヌ=マリー、どこかへ行こう」彼はつぶやいた。
男女間での心理的なとまどいの実在感ある描写。「彼の喉がきつくしめつけられた」などは上手い表現。
●『ふたつの旗』上497-498頁
第十五章
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……女性を相手に戦わせるこの種の議論の大部分がそうであるように、つまりはこの議論も、論拠はかなりずる賢いものだった。しかしすくなくともミシェルは愛する娘といっしょに自分の話ができるのだった。心理的真理をほんのちょっとねじ曲げるだけでその幸福を手に入れることができるのだった。彼らが宿屋のまえに着いたとき二人の意見の不一致はひどいものになっており、ミシェルは歓喜の絶頂にいた。彼がアンヌ=マリーを子供っぽい頑固娘だとほんのすこし思いすぎていたのはたしかだし、彼女のほうでも前日来これほどやさしい目で彼をみたことはなかった。二人は腕を組んで入って行った。
彼らの食卓はテラスに用意されていた。ペタンク場〔ゲーム場〕で道からへだてられていた。パテ、ハーブ入りオムレツ、若鶏のソテーというのが女将の提案だった。皆はそのメニューに拍手した。
「それにまもなく婚礼のお祝いがあるんだけど、そんために作った苺パイもつけますよ。若い人たちはすこし大事にしなくちゃね」
してみれば婚礼の祝宴もあるのだった。どうしてこれ以上のものを夢みることができよう? なかなかいけるロゼの地酒の最初の一杯から、アンヌ=マリーは乾杯したがった。二組のカップルのピクニックでこれほど楽しんだことはないとレジスはいい、アンヌ=マリーがその宿に泊まっていた気のよさそうな四、五人のプチ・ブルを憤慨させ金切り声をあげさせるのをみても、涙が出そうなほど笑うだけで、そんなふるまいをやめさせようとはしなかった。
「あのすてきなご婦人をみてよ」と彼女は犠牲者を指さしながら叫んだ。その不作法ぶりがすばらしいとミシェルは思った。「あの人が私をみながら今どう思っているか知ってる? 〈さいわいうちの娘は、あのお転婆には似ていない〉と思っているんだわ! でもお嬢さんにお目にかかったらあたしはなんていうかしら?」
話がもりあがると(〈つまり彼女が彼女自身になると、ということだ〉とミシェルは考えた)、アンヌ=マリーにとってブルジョワはボーリングのピンのようなものになってしまうのだった。彼らだって人間にちがいないことを完全に無視するのだ。そういう人形倒しの練習は、作法とか礼儀とか、およそ色あせて融通のきかない概念とはまったく無縁なものだった。レジスは笑いころげてばかりいた。それでも最後にはこうつぶやかずにはいられなかった──「ねえ君、すこしは思いやりの気持ももたないといけないよ」
戸外から室内への移行を情景法の中で実現した個所。
とはいえ移行そのものに特徴はない。第一文で「……ている」形アスペクトを用いている点(「彼らの食卓はテラスに用意されていた」)、料理に描写の記述を割くことで細部を華麗にしていることがまず目につくぐらいか。あと、「してみれば……」「どうして……することができよう?」と地の文がやたら饒舌なのも特徴的と言えば言える。
注目すべきは後半だろう。ここではアンヌ=マリーの「あのすてきなご婦人をみてよ」といった指差しを伴う発言によって、地の文の描写以上に店内の状況を喚起させる──と同時にこれがアンヌ=マリーの大胆な性格の発揮の描写にもなっている──という技巧が使われている。現前的科白の前に「アンヌ=マリーがその宿に泊まっていた気のよさそうな四、五人のプチ・ブルを憤慨させ金切り声をあげさせるのをみても……」と先行要約が入って、単線的に瞬間瞬間をつないでいくのとは異なる、時間軸がうまく制御された段落展開になっていることも見逃せない。
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------------------------------------- タイプ【2-3】ルバテ:記述的-情景法 ▲
●『ふたつの旗』上685-687頁
第十九章
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シャレーサン神父はパスカルの賭にかんする論考の筆者だった。しばらくまえ二人の神学者がこの問題をふたたびとりあげて、省察のあらたなはずみにしようとしたのだったが、さほど成果があがったとはいえなかった。彼はまたリヨン・カトリック神学部のもっとも著名な哲学教授であり、ベルクソン哲学とカトリック公認教義に合致した形而上学とを結びあわせた著書も何冊か書いていた。それらの表題はミシェルも知っていたし、彼が大学人のあいだですぐれた思索家という評判をえていることもよくしっていた。自分の魂の救済のためにこれほどの格の人物が動員されたということは、ミシェルの虚栄心にとって不快なことではなかった。彼との約束はかなり容易にとりつけることができた。決められた場所はジャラント街のあの暗い家、つまりジュード神父が若いセシルの恋の運命をきっぱりとたちきった家だった。シャレーサン神父は四十五歳の大柄な司祭で、大きな顔には聖職者というよりむしろ文学者のような品位がただよっており、金縁の眼鏡をかけ、禿げあがった額はあくまでも広く、芸術家風の冠状の髪がそれをとりまいていた。ただ、蝋のような顔色をみると健康状態はあまりよくないらしかった。彼がミシェルを迎え入れた部屋は広々としていて、ワックスをかけてよく磨かれ、きちんと整頓されており、ゆったりした家具がおかれ、壁面はほとんど全部書棚でおおわれていた。仕事机のうえの壁には、パスカルのデスマスクがかけられていた。
〈すごいな〉とミシェルは思った。〈理想的な象牙の塔だ。肉体的にも精神的にも必要かつ魅力的なものがそろっているこの部屋をただで利用できるのであれば、清貧の誓願もかなり容易に立てられるだろう〉
神父はじつにきちんとした身なりで、ひげもきれに剃りあげており、爪をきちんとアーモンド型に切りそろえた優雅な手が清潔な袖口からのぞいていた。独身生活を送る聖職者たちはいやな体臭があり、肌色も肌着もくすんでいるのがふつうだが、みかけたところこの神父にはそんな感じがまったくなかった。ミシェルはすでにブウールで、朝の身づくろいに規定の二十分を大幅に越える時間をかける神父たちを、二、三人知っていた。しかし彼らは社交界でご婦人がたの居間に出入りする神父たちだった。シャレーサン神父の外観には、社交的なところも官能的なところもまったくなかった。ミシェルは、どこかしら不安をかきたてるあいまいな感覚をおぼえたが、それはふだんの彼の皮相な反教権主義に由来するものではなかった。この新しいイエズス会士を、彼はむしろプロテスタントの哲学者のタイプだと思った。そういうタイプも想像したものにすぎなかったが。ようするにミシェルは、彼の知らない性向の人種の代表をまえにしてけげんに思い、一種の警戒心にかられて立ちすくんだのだった。
イエズス会士の応対は、冷たいなかにもニュアンスが感じられた。みごとに礼儀正しく、青白い長い顔は、たったいま思索の世界から引きはなされたとはいえ、人間にかかわることならなにひとつ自分と無縁であってほしくないと願う寛容な精神の忍耐強さをあらわしていた。ミシェルに向けられた彼の注意は、いささか熱心すぎるようにも思えたが、これほどとるにたらぬ訪問者にしてみれば、自尊心をくすぐられずにはいられなかった。
ミシェルは、自分が赤貧状態にあり、どうしても何人か生徒をみつけなければならないことを手短にのべた。神父は微笑を浮かべていた。効果を考えつくしたやさしい声で話した。どうやらそれがひそかな楽しみらしかった。
「しかし、それほど劇的にさしせまった状態にあるとは全然みえませんね。入ってくる君をみて、流行に敏感で懐具合も悪くない学生だろうと思ったほどですよ。私の目に狂いがなければ、君の着ている服の生地もなかなかものじゃありませんか」
「ダンディのモラルといえるようなものを実行に移そうと努めているんです。もしかしたらちょっと子供っぽすぎるロマン主義なのかもしれませんが…」
「スープ抜きでも手袋は欠かさぬ、というわけだね! いや、たいへんけっこう。近ごろの若い人たちのあいだではそういうのが珍しくなっていますからね!」
見事! ルバテの文体の強度は、登場人物たちの積極的な行動にちゃんと結びついていると同時に、小説の叙述の組み立てとしてのセンスもあるので素晴らしい。ここでも「……た。……た。」と過去形に終始しながらもさまざまな角度からシャレーサン神父の人物像を浮彫りにし、かつ物語展開に必要な現前的会話の場面まで改行をタイミングを調整しつつ巧く導いていく。「神父はじつにきちんとした身なりで、……」「イエズス会士の応対は、冷たいなかにもニュアンスが感じられた。……」といった段落冒頭の切り出し方が素晴らしい。
●『ふたつの旗』下690頁
第三十五章
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システィナ礼拝堂のルカ・シニョレッリやボッティチェリは、美しいという点でも感動的だという点でもミケランジェロに引けをとらなかった。これらの壁のまえに呼び集められた芸術家たちは、知識と技量と心情のすべてを、厳粛にわが手のうちに凝集させたのだった。傑作というものがどういうものか人々にはわかっていた。ラファエロにとっては、ここがまさに自分の家だった。四百年にわたる剽窃、模写、卑俗な着色版画、アカデミー、凡作、くすくす笑い、自明の理などがすべて霧消する。ようするに人は世界最大の画家のひとりをまえにしている。そして彼はローマとおなじく生気にみち、大昔からの存在であり、若く澄みきっており、なにものによっても破壊されない。ここに『パルナソス山』があり、『アテネの学園』がある。最初の一日から明るく完璧だったウンブリアの朝の光のなかで、西欧の古典主義が誕生したところだ。『ボルセーナのミサ』がここにある。そしてすでにマネは凌駕されている。アンヌ=マリーもこれらのよろこびをたっぷりとわかちあっていた。なにも感じないかぎり、彼女はただ表面をとりつくろうためにお義理になにか言うことを考え出すような娘ではなかった。クワトロチェントの聖母たちは、多くの愛らしいお嬢さんがたに語りかけるのかもしれなかった。すぐれた詩人たちを読んでいるとしても、彼女たちはラファエロをまえにしながら冷淡そのものであることも大いにありえた。というのも感嘆に値するラファエロは、彼を称揚する教師たちによって、逆にわれわれに隠蔽されているのだが、他の教師たちがさんざん悪くいうことでいわば返してくれたのであり、とどのつまり彼は趣味の試金石になっているのだったから。アンヌ=マリーのなかを流れるラテン民族の血とギリシアへの愛が、彼女をラファエロのもとへ導いていた。古代ローマはミシェルに負けないくらい彼女にとっても生きた町であり、古い建物にかんしては彼よりはるかによく知っているといってもいいほどで、彼女のほうが連れに歴史を話してきかせたのだった。
予言的かつ戯画的なディエゲーシスというルバテの文体がよく現れた引用部。
冒頭から「これらの壁のまえに呼び集められた芸術家たち」「ラファエロにとってはここがまさに自分の家」と固有名を勝手に人化して生動させているところでルバテのセンスが躍如。その後につづく「……などがすべて霧消する」「……なにものによっても破壊されない」という予言的な言い切りは、しかし押し付けがましくなく様々な要素をなめらかにまとめながら文章を繋いでいく。
次の文にも注目。「最初の一日から明るく完璧だったウンブリアの朝の光のなかで、西欧の古典主義が誕生したところだ」──この一節のちょっとした事実の歪曲(誇張)によって語り手は真理性の伝達という責任から或る程度解放され、ディエゲーシスに文体的な工夫を凝らす充分な柔軟性が与えられる。「ようするに人は世界最大の画家のひとりをまえにしている」「そしてすでにマネは凌駕されている」といった言い切りにもこの解放感がある。
文法的には「というのも……とどのつまり彼は趣味の試金石になっているのだったから。」──この一文は前文とセットになって或る派生的な事実とそれを生じさせる理由とを語るちょっとした逸脱を構成しているが、その逸脱、ディエゲーシスの中のアクセントは、「というのも……しているのだったから」という形の文法的な軽妙さによってそもそも可能になっていると見なせる。
●『ふたつの旗』下414-415頁
第二十七章
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雨が降っている。雪になった。風も吹き荒れている。ミシェルの最後の靴底も凍てついた泥に溶けてしまう。あいかわらず咳がつづき、喉が痛い。鼻が赤く頬は緑色、背中をまるめた彼はみるもあわれというしかない。氷雨で肩に貼りついた上着の襟を立ててガタガタふるえ、足は濡れ、雨のしみこんだ帽子からは雫が垂れ、とるにたらぬステッキの握りはズボンのポケットにつっこまれている。彼は安食堂から出てくる。出された食物は流しのにおいがしたし、際限もなく噛んだあげくにやっとの思いで飲みこんだものの、およそ腹の足しにはならなかった。ろくに拭かれてもいない大理石のテーブルについたときよりもっと腹が空いた感じで、夜まではたばこがいっそう口を苦くするだけだ。清潔な白いテーブルクロスの上で十五フランのちゃんとした食事をとったら身も心も温まり、力も沸いてきたはずなのに、彼はそんなことを考えもしない。そういう対策がありうることさえ忘れてしまったのだ。一連の仕種、あらゆる仕種のなかでもっとも機械的な、もっとも安上がりな仕種に彼は縛りつけられている。自分のそばにアンヌ=マリーがおらず、無限につづくように思える時間、ほんのわずか生命をたもつために不可欠な最小限の仕種だ。手もとの七十フラン──いや、夕食分を払ったから六十五フラン──で、この人生の六日はまだ生きられる。彼の頭はその先まではまわらない。あと六日あれば、アンヌ=マリーが彼に愛をあたえてくれるかもしれない。そうすればあらゆる奇蹟をなしとげることができるだろう。しかし今日は鎖が断ち切られている。アンヌ=マリーに会えないのだから。
彼は自室にこもっている。ミュレ小母さんとは顔をあわせないようにした。一か月まえからたまっている部屋代を今日払うと約束していたのだ。しかも三回目の約束だった。煖炉がとざされてまもなく四か月になろうとしていた。しかしこの冬中、今日ほど寒さを感じたことはなかった。それほど読む気もないのに、詩人の書物を何冊か開いてみた。言葉の下になんのふるえも感じられなかった。
新しい本が二、三冊ある。人が貸してくれたものだ──流謫の身になっていらい、自分のためには一冊も買っていなかった──かなり気をそそる、とっつきやすいモダニズムの書物。幾組ものカップルが登場し、まるで曾祖母たちのクリノリン〔旧式のスカート〕の話でもするかのように愛について語る。こういう手軽な小説は、まるで婦人帽子屋の仕事のようだ。しかしミシェルは、こんなものさえまだ書けるのだろうか?
うーむ。密度の高い情景法の導入としてはこれがベストなのかもしれない。ルバテから学ぶ比重をもっと増やすべき?
●『ふたつの旗』下505-506頁
第二十九章
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……そういうご立派な日を待ちながら、ぼくは断言する──いまもって宗教的価値の残屑のうえに打ち立てられる不滅よりは、むしろ無に帰るほうがいいと。ニーチェのそれのような衰退とか、彼のいう永劫回帰のような言葉遊びよりは、体系的な否定のほうがましだ。なぜならニーチェ自身不平を鳴らしていて、彼には彼の信仰が必要だったのだから。しかし永劫回帰なんてありはしないのだ… ぼくは虚無に賭ける!」
とはいえその三時間後、傲慢な否定者も当惑せずにはいられなかった。アンヌ=マリーにくっついて行きつけの靴屋へ行き、彼女の腿を垣間見たのだった。ストッキングの上、濃い色のスカートの熱い奥のずっとうえのほう、明るくまろやかな肉肌がちらりとみえた。その肉肌は、行きずりにぶしつけなまなざしを向け、欲望をそそられた、街を行く女たちのなかでももっとも近づきがたい女のそれとおなじくらい彼から遠く、禁じられていたのではないだろうか? 希望がついにひとつの形をとり、ひとつの名前をもつようになったあの十二月のドラマチックな信心狂いから、五ヵ月以上たっていた。ある日の午前中ずっと二人は古い偶像を激しく攻撃したのだったが、秘密のランデヴーをはじめたころ、つまり娼家の明かりをふるわせていた冬のこぬか雨の下で、心の悩みに小さな顔も青ざめたアンヌ=マリーが、キリスト教という牢獄の鉄格子をやすりで挽きはじめたときとおなじく、愛とは無縁だった。あのころ希望はあらゆる権利をもっていた。それから五か月… なにごとも起こらないのは、はっきりみとめられた敗北とおなじくらい雄弁であり絶望的ではなかったろうか? 突然ミシェルは、レジスに投げつけられた言葉、そしてひどい不幸に突き落とされた言葉の餌食になっていた──〈彼女はきみをみただけで、どうしたらいいのかわかるんだ〉 もしそれがほんとうなら、彼の目のまえにあれほどの証しが積みあげられ、打ちふるえていたあの愛を、彼女はほとんど気にとめていなかったことになる。だから、レジスにいわせれば、それでもミシェルが彼女をわがものにすることがあるとすれば、彼女が気まぐれに、あるいは投げやりな気持から譲歩しただけなのだった。〈もし君が辛抱強ければ…〉 人が上の空で投げあたえる餌を、たえまなくねだりつづける家畜のうら悲しい美徳なのだった。〈長続きしないだろう〉 事実、これほどにもあわれな物語の当然の道筋はそういうものだった。しかしアンヌ=マリーの繊細さは、レジスのこんな荒っぽい結論を否定するものではなかったろうか? ああいう連中が心理に心を開くことがあるとすれば、それはいつでも自分たちの恩寵だの善だのを粉飾するためなのだ。彼らにかかると、感覚にかかわることはすべて恥知らずな卑しいことになってしまう。アンヌ=マリーのような存在は、伝道者の太い指ではつかまえられなかった。
相変わらずエロティシズムにかんする言葉づかいが洗練されている。「ストッキングの上、濃い色のスカートの熱い奥のずっとうえのほう、明るくまろやかな肉肌がちらりとみえた。」
それはともかく、やはりディエゲーシスになると要約法のスピード感を得て語り手の語調が増してくる。ルバテの場合、登場人物の自問とも語り手の問い掛けともつかない奇妙なかたちの疑問文が挿入されるのが特徴だ。「その肉肌は、行きずりにぶしつけなまなざしを向け、欲望をそそられた、街を行く女たちのなかでももっとも近づきがたい女のそれとおなじくらい彼から遠く、禁じられていたのではないだろうか?」「それから五か月… なにごとも起こらないのは、はっきりみとめられた敗北とおなじくらい雄弁であり絶望的ではなかったろうか?」
●『ふたつの旗』下537-538頁
第三十章
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怒りのあまり、すっかり動転していた。自分にも彼女にも腹を立てていた。〈ヴォーニュレーだって? 「ああ、いいとも!」といってやりさえすればよかったんだ。シャンパンでも飲ませてその気にさせ、彼女をものにできるところだった。そういう状態の娘相手に、ほかになにをしたらいい? レズの相手への欲望なんか吹き飛ばしてやったはずだ。彼女だって、それ以外のなにを求めていただろう?〉 彼の欲望がこれほど生々しくむき出しだったことはなかった。欲望も嫉妬も、冒涜的な後悔に長いあいだすりむかれる思いだった。エピソードのひとつひとつが耐えがたい思いちがいにつながる、さまにならないこの物語が彼には恥ずかしかった。その話を種に作家として大作に仕立てあげたいと思った時期、どうしてもそれができなくて絶望した時期もあった。おかしくさえなく、彼自身が音に乗って手足を動かす繰り人形のようだったこのヴォードヴィルは、題材として悪くなかった。
ヴォードヴィル。しかし彼はアンヌ=マリーとはじめて口論したのだった。だれか見知らぬ人のために、今度いつ会うかさえ告げずに彼女が立ち去る──そんなことになったのは彼のせいなのだった。悪臭にみちた井戸のような中庭に面して細目に開かれた窓からは、年老いた大女の、あいかわらず怒りっぽい金切り声が聞こえた。もうすぐ南京虫のうごめく時刻になろうとしていた。一方では、カールトンの部屋、浴槽があり鏡がありモケットを敷きつめた豪勢な部屋が彼を待っていた… あの部屋の準備の思い出が彼の鼻孔をピクピクさせ、手のひらに爪を食い入らせた。富も役には立たなかった。彼は虫のたかったこのベッドから動こうとしなかった。ポケットにこれほどポンドがつめこまれている以上、今夜にもイタリアへ向けて発とうという考えに、しばらく身をゆだねた。ヴェネツィア、マントヴァ、フェラーラ、フィレンツェ、フレスコ画、数々の絵画、別の自然、別の言語、それだけがこんな暮らしからぬけだす唯一の手段に思えた。しかし彼はそのさきまで考えを推し進めようとしなかった。そういう移動の空しさはわかりすぎるほどわかっていた。
ようするに、要約法的情景法のスピード感のなかでの真に迫る心理描写。断言に断言を重ねる語り手のつよい語調が心地良い。「彼の欲望がこれほど生々しくむき出しだったことはなかった。」「しかし彼はアンヌ=マリーとはじめて口論したのだった。」「そういう移動の空しさはわかりすぎるほどわかっていた。」
そして心理描写断言の合間合間に、文単位で情景描写が入って来るのがテクニカル。というより、これがルバテのスタイルだな。「悪臭にみちた井戸のような中庭に面して細目に開かれた窓からは、年老いた大女の、あいかわらず怒りっぽい金切り声が聞こえた。もうすぐ南京虫のうごめく時刻になろうとしていた。」
●『ふたつの旗』上71-72頁
第二章
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…一年以上たってもまだ二人の若者には、四百万のパリ市民がきびしい暮らしをつづけていることがわかっていなかった。気候もまたあまりにもしばしば陰鬱で、うら淋しい甜菜畑に接する淋しい空だったり、北フランスの灰色の海の空だったりした。彼らはたえまなくつづくお伽話のなかで生きており、そういう彼らにとっては、むっつり不機嫌な朝の群衆も春の街の泥も、音楽会の夕べの華やかさや、晴れた日のポン・ヌフ近くのセーヌをいろどる緑やさわやかな紺青とおなじく、ようするに舞台装置でありその他大勢の端役にすぎなかった。やつれ顔の役人たちが、ぎゅうづめの朝の八時の地下鉄に乗りこむのは、大首都の詩情に不可欠な雑踏の景観を彼らに提供するためでしかないのだった。蒼ざめた、あるいは煤だらけのたそがれも、彼らの胸に重くのしかかることはなかった。というのもそれはもうひとつの夜明け、このうえなく薔薇色の、電光に輝く夜のそれを予告していたからだ。霧雨が降り雨がやまないとすれば、十万もの提灯のうちふるえるエメラルド、ルビー、トパーズを、路面の黒い鏡に映すためだった。
論理的・無時間的かつ感覚的な空間描写。語義矛盾のようだが、ルバテの文体の力がそれを可能にしている。
●『ふたつの旗』上695-696頁
第十九章
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空模様が急に怪しくなった。きびしい北西の風が夏でひからびた葉をひきちぎり、歩道にまきちらしていた。ミシェルの小部屋は、小さな花模様をあしらった綿布のカーテンがあって、とてもきれいに片づいていた。彼がレッスンに出かけているあいだ、家主のミュレ夫人が一日に一時間忙しく立ち働き、ベッドをととのえ、クリーム色のエナメル塗料をぬった木のテーブルをきれいにしてくれるのだった。この部屋に住みつき、やがて結婚するはずの、髪をぴったり撫でつけた郵便局員を夢みる十九歳の娘のように、この部屋が明るくてちょっとお人好しなやさしさをただよわせ、魅力的な部屋になることも十分にありうるはずだった。いかにもお針子向きのこの部屋に、ロートレアモンやニーチェやラフカディオやブルトンをならべ、マントルピースのうえの、銅にみせかけた装飾鉢のそばに、狂ったゴッホやモディリアーニの娼婦を見張りに立たせたらさぞおもしろかろう。荷車のように暗く汚れ、農家の食糧貯蔵室のように雑然としていたブウールのあの荒れはてた部屋にくらべれば、いかにも明るく住み心地がよかった。しかしその住いには、匂いも息吹も名前もなかった。ミシェルにとってその部屋の肘掛け椅子は、鉄道の分岐点の人里はなれた駅で、いつ終わるともない空っぽの長い時間をすごす見知らぬ木のベンチとおなじようなものだった。身体を丸くしてその椅子にへたりこんだミシェルは、巣穴を恋う猪の仔のように無愛想でとほうに暮れていた。すでに陰気でじめじめしたリヨンの秋がしのびよっていた。まもなく夜になろうとしていた。かつてはあんなにもいとおしく、浄化と生気をもたらしてくれた夜が、いまでは子供のころのように恐れられており、もはや逃げだすことができず、もう聞きたくもない心臓の音だけがひびく墓穴のようだった。
空間の感覚的描写なのだが、段落第一文からすでに工夫があるし、練り上げられた比喩が素晴らしい。「やがて結婚するはずの、髪をぴったり撫でつけた郵便局員を夢みる十九歳の娘のように」「荷車のように暗く汚れ、農家の食糧貯蔵室のように雑然としていたブウールのあの荒れはてた部屋」「ミシェルにとってその部屋の肘掛け椅子は、鉄道の分岐点の人里はなれた駅で、いつ終わるともない空っぽの長い時間をすごす見知らぬ木のベンチとおなじようなものだった」「もはや逃げだすことができず、もう聞きたくもない心臓の音だけがひびく墓穴のようだった」。
また、感覚的描写に批評性が混じるというセンスも自意識がすみずみまで行届いているようで素晴らしい。「しかしその住いには、匂いも息吹も名前もなかった。」つまり細部の羅列にはなっていない。
●『ふたつの旗』上403-405頁
第十二章
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「明日は日曜日だ。君はどのミサに行く?」とミシェルがたずねた。
「サン=ジャン教会の、九時のミサだ」
「サン=ジャン教会? じゃ、もしかしたらぼくもいっしょに行くかもしれないよ」
「そうしたいと思うならね… でもいいかい、ぼくはそんなことが重要だとは全然思っていない」
ポーチの下で、およそ考えられないようなカトリック学生が、およそ耳にできるなかでもっとも強烈なニャフロン訛りで、いかにも誇らしげに、大まじめで「《社会生活》はいかが!」と声を張り上げていた。濃い口髭をはやし、眼鏡のかげの目はやぶにらみ、まるでストーヴの煙突みたいな寸づまりのズボンをはき、汚れきったベージュ色の、あきれるしかないような仰々しいゲートルを巻き、型の崩れたどた靴といういでたちだった。美しい朝の青空の下、古い大聖堂はかつてなかったほど黒く、まるで焼け跡の廃墟のように欠落し破損していて、高揚感や優雅さはいっさいなく、まるでフランスでもっとも神秘的なこの町にはどんなに熱烈な感情をもってしても芸術作品の創造は永遠に禁じられているかのようだった。すくなくともサン=ジャン教会の外観は、荒涼として悲劇的なものとみられてもしかたがなかった。しかしその内部は、信心と信者たちによってはっきりとそこなわれており、柱から穹窿の要石まで、どぎついほど白く生石灰が塗りたくられていた。おろかしいほどの光にさらされて、石膏製の聖像や羊のような顔のキリストを描いたおよそへぼな絵の数々までまるみえだった。献金箱やら盆やらプラカードやら、物乞い道具が恥ずかしげもなくこれ見よがしにならべられていた。内陣には、あきれるしかないこけおどしのボール紙細工が立てられていた。高さが十メートルもあり、目が痛くなるほどどぎつい赤や青で塗られ、おまけに金色の紙の花綱に飾られていた。レジスは鼻にしわをよせて、このうえなく雄弁に嫌悪感をあらわした。彼は瞑想にふける様子もなく、しばしばかなり声高にミシェルに話しかけた。
太鼓腹の司祭が説教壇にあがり、その日の福音書の朗読箇所を読みあげていた。
「…私があなたがたにこれらのことを話したために、悲しみがあなたがたの心をみたした。とはいえ、私があなたがたに告げるのは真実なのだ。あなたがたにとって私が去ることが大事なのだ。なぜなら、もし私が去らなかったら、あなたがたのところに〈慰める人〉が来ることがないからだ。しかし、もし私が去れば、私はその人をあなたがたのところへ送るであろう」
「この言葉を聞くたびにぼくは感動せずにはいられない」レジスが耳もとでささやいた。
しかし司祭は、この聖なるテキストについて、このうえなく紋切型の、独創性のかけらもない冗漫な注釈を加えていた。ミシェルはひどい退屈をおぼえはじめた。聖体拝受の鐘が鳴った。聖壇からもどってくる信者たちの、信心に凝り固まった、あるいはみるもあわれな顔は、ミシェルの喉を嫌悪感でしめつけた。煤色や泥色のドレスを着た女たちが、膝をつきだしてもどってきた──外では燦々と日が照っているというのに、こんな服を着てくるとは! 〈しかもみんなのまえで、これ見よがしに! なんという露出症だろう! これにくらべればベルクール広場のまんなかで婦人科の診察をするほうが恥知らずじゃない〉 卑しげでそこなわれていて、とるにたりないどころかおぞましいとさえいいたいような身体や顔ばかりだった。ミシェルは突然、レジスがこの光景をあの偉大なエルドラドの対話に結びつけるのではないかとおそれた。しかし友人は彼のほうにかがみこんでいった。
「もう出よう。君の拷問をこれ以上ひきのばしたくない」
空間を導入する情景法なのだが、描写の一つ一つがあまりにも嘲弄的なのに驚く。そこにはユーモアのセンスもふんだんに盛り込まれているが、すべてが対象をコケにするために用いられているのだ。「まるでストーヴの煙突みたいな寸づまりのズボン」「美しい朝の青空の下、古い大聖堂はかつてなかったほど黒く、まるで焼け跡の廃墟のように欠落し破損していて、……」「まるでフランスでもっとも神秘的なこの町にはどんなに熱烈な感情をもってしても芸術作品の創造は永遠に禁じられているかのようだった」「サン=ジャン教会の外観は、荒涼として悲劇的なものとみられてもしかたがなかった」「おろかしいほどの光にさらされて、石膏製の聖像や羊のような顔のキリストを描いたおよそへぼな絵の数々までまるみえ」「あきれるしかないこけおどしのボール紙細工」「目が痛くなるほどどぎつい赤や青」「これにくらべればベルクール広場のまんなかで婦人科の診察をするほうが恥知らずじゃない」──ここまで嘲弄づくしだと逆に徹底振りに強い一貫した意志を見出したくなる。意志的な情景法?
そもそも、「あきれるしかないような仰々しい」とか、「恥ずかしげもなくこれ見よがしに」とか、「とるにたりないどころかおぞましいとさえいいたいような」とか、形容がすでに嘲弄的になっている。そういう文体なのだ。
●『ふたつの旗』上646頁
第十八章
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食堂ではみんなが、あわれなガルダに集中砲火を浴びせていた。緑色の耳飾りをつけた褐色の髪のご婦人が『風のなかの羽根のように』を歌っていた。雨あられと降りそそぐ気のぬけた地口や金切り声や、いかにも作ったような高笑いのなかでは、このリフレインが群をぬいて気のきいた皮肉だった。それは学校の食堂の騒ぎとおなじくらいおろかしかったが、ただその食堂では生徒たちが、教師みたいな顎髭を生やしていたり中年女の赤ら顔をしており、干からびた老嬢のとがった鼻で、けばけばしい色の毛糸で編んだものを着こんでいるのだった。まるでオウムの鳥小屋のようなこの食堂で小声で話しているのは、彼ら二人だけだった。彼らは超然とした顔でただ微笑することにきめたのだった。薄切りパンにバターと蜂蜜を塗ってかぶりつきながら、ミシェルは怒り狂っていた。退屈きわまりない話をおろかしく長々とつづけるのを、彼は狂わんばかりに憎んでいた。それにあと二週間もすればおたがいに忘れてしまい、一生思い出しもしないにちがいない連中が、仲間意識をいっそうはっきりみせつけるために、これみよがしに使う呼び名や愛称、〈シュジー、マド、キキ、私のキャベツちゃん…〉なども彼は大きらいだった。アンヌ=マリーが入ってきた。こんな裏庭の家畜みたいな連中とすっかり親しくなったらしく、テーブルからテーブルへと愛想をふりまいていた。
批判精神を描写原理とした「場所」の描写。現前的というよりも要約法的になっている。
●『ふたつの旗』上278-279頁
第九章
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足の向くままに歩きまわったあげく、彼はふたたびベルクール広場に舞いもどっていた。グロテスクな宿にいまから帰る気にはどうしてもなれなかった。まだあかあかと明かりのついているカフェがあったので入った。その明かりの下の人生は、ひどくおしこめられた灰色の人生だったが、それでも心は安らいだ。模造革の長椅子のうえで長々と重い想念をひっくり返したあと、ミシェルはレジスのくれたアンヌ=マリーの封筒をとりだした。その裏には鉛筆で短い祈りの言葉を書きつけた。すこしずつ彼は泥まみれの絶望からぬけだした。
つぎ足しを重ねて一向にまとまりのないこのホテルの、いまは物置になっているだだっ広く埃だらけのサロンで、俗悪な絵の描かれたオイルクロスのまえ、ひびの入った黒いピアノと、おぞましい怪物をかたどった脚の円テーブルと、使いものにならなくなった大きなバロックなソファのあいだに、従業員用の小さなベッドが彼のためにおしこまれていた。そこでやっとミシェルは目をとじようとしている。きちんと閉まらない奥のガラス戸ごしに、瓶とグラスをさかんに打ちつけながら食事を楽しんでいる連中の騒々しさ。みにくい吊りランプの下に、でっぷりして頬の垂れた金髪染めの女が三人、ボージョレをなみなみと注いだグラスを重々しく揺らせている口髭をたくわえた五十がらみの男が三人。しかしミシェルは、どんなにおぞましい場所でも、ぴったりとざされたテントを張るすべを知っている。俗物どもの酒宴にも、暗闇のなかでもともと奇妙な形をいっそうひねりあげている家具の悪夢にも、いっさい関心を払わず、彼は自分の魂を両の手でとらえなおした。ついさきほどの自分の弱さを憎み、軽蔑する。いま彼の抱いている愛は配当を受け取ったりはしない。その愛を彼は、うわべだけはもっともらしい道に導いたのだった。そして今夜その罰を受けたのだ。彼をこの町につれもどしたのは、愛よりもまえに神だったのではないだろうか? レジスこそがその保証であり、彼の祈りはもしかしたらまさにこの瞬間にも、友人のために彼方の恩寵を願っているのではなかろうか? もしそうでなかったらミシェルは、いったいどれほど不公平なたわむれに身をゆだねることになるのだろう? 神にたいして策略を弄してはいけない。いっさいの曖昧さを洗い落とされて、愛がふたたびいっさいの接近をこばむ彼の胸の奥に降りてくる。しかし神の権利が白日のもとに鳴りひびくかもしれない。ミシェルは自信をとりもどし、剣のように純粋に忠実な心で眠りにつこうとしている。彼はもはや自分の心のどこか未知の片隅で、愛がなおもこのうえなく微妙な扮装をしにくるのではないかと自問することさえない。
或る場面を立ち上げる場合のルバテの文体の力を見よ。情景にある細部の羅列→「そこでやっとミシェルは目をとじようとしている」。体言止めの周囲の描写→「しかしミシェルは、どんなにおぞましい場所でも、ぴったりととざされたテントを張るすべを知っている。」段落展開がきちんと論理的になっていることに注目。「彼をこの町につれもどしたのは、愛よりもまえに神だったのではないだろうか?」みたいな反問さえ出てくる。語り手の色が強いね。
●
------------------------------------- タイプ【2-4】ルバテ:肖像 ▲
●『ふたつの旗』下672頁
第十九章
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レジスはこのサークルをしばしば〈ほんとうの自分の家〉と呼び、精神的家庭の生気をあたえる匂いを味わっていたので、ミシェルがそういう場所への説明不可能な嫌悪を示すのをみて、いっそうおどろいたのにちがいなかった。とはいえその一日の幸先はよさそうだった。若者たちはルーブル神父の不意を襲ったのだった。神父は三十三歳のイエズス会士で、褐色の髪とがっしりした体格をしており、明るいグレーの生き生きした目と大胆そうな大きな鼻の持主だった。いまにもぼろぼろに引きちぎれそうなスータン〔神父の通常着〕の袖を肘までまくり上げて、本を詰めた木箱に釘を打っているところだった。彼の周囲には、NRF社の白い表紙の本やメルキュール・ド・フランス社の黄色い書物が山積みされており、宗教とは無縁な雑誌の山、カード類、印刷所から送られてきた校正刷、新聞の切抜きなどがちらばって埃をかぶっていた。おまけにパイプやらたばこ壷やらが放り出されていて、いつ火事になってもおかしくないようなあばら家だった。こういう文学的ボヘミアンの雰囲気をみてとって、ミシェルはたちまち上機嫌になったらしかった。あらかじめ決めてあったように、友達がより自由に話せるよう、レジスはまもなく座をはずして、二人をさしむかいにした。一方ミシェルは第六年級の教師としてラザリストの会の学校に雇われることになっていた。聖職者たちは彼を信用していない、しめしあわせて彼をくたばらせようとしているのではないか──彼がそんなふうにうめくことはもうないはずだった。
ビリヤード室のとなりの人気のない広い部屋にひとりのこったレジスは、ついさきほどロレ神父から手渡されたつぎの加盟者リストに目を通していた。前年にくらべて、数の上でも質からみても上向きであることがはっきりみてとれる、きわめて励ましになるリストだった。そこへミシェルが唇に微笑を浮かべてあらわれた。
「とてもいいね、君の坊さんは! ほんとにいい人だ。あの人はなにもかも読んでいる」
「じゃ、話はうまくいったのかい?」
「このうえなく」
「きっとうまが合うだろうと思ってたんだ。ほとんど一時間半も彼といっしょだったね。どんな話をしたんだい?」
「文学の話」
「でも、ほかには?』
ルーブル神父の肖像、見事な一筆書き。
●『ふたつの旗』下556-557頁
第三十一章
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翌日、ガンベッタ大通りでデザートが出された頃あいにデュフォール夫人が食堂にあらわれて、前日建物の入口で妹をあれほどやさしく抱きよせていた若者、最新流行のチャールストン・スタイルでめかしこんだきざな若者が、家族の食卓についているのを一目で見わけた。今度こそミシェルは、共犯者たちの笑いに陽気に加わることができたし、事実、自分をおさえようとはしなかった。アンヌ=マリーはみごとに姉を描写していたのだった。歯の白さ、明るい目、ヴェネツィア風の髪、薔薇色の胸の肌はまぶしかった。人々にうっとうしいと思われるようになるまで、彼女が華やかな存在としてすごせる年月はまだ何年もあるはずだった。ミシェルは、これほど輝かんばかりの女性のそばで、これほど自尊心をくすぐられる状況に身をおいたことはなかった。きわだって陽気なこの女性は、財産のなかでももっとも卑俗なものを復権させ、みごとな自在さでそれを担っていた。無強要でおっちょこちょいだったが、立派な血筋の獣という生まれつきの貴族階級、贅沢が当然のこととして身についている女性の権化だった。新しい領主の妻か豪勢な高級娼婦か、どちらかでしかありえなかった。実はその両方だったともいえる。ミシェルは輝くばかりの女資本家とマリヴォー流のやりとりをするのに、なんの苦労もなかった。彼女はあまり才気はなかったが、いかがわしいほのめかしにかんしてはおどろくべきセンスの持主だった。それで彼らはとほうもなく楽しんだが、その一方で人のよいヴィラール夫人は、このやりとりにいささか呆然として、みんなに魅力的な微笑をふりまきながら、あっけにとられた目で座をみまわしていた。デュフォール夫人は〈ブルース〉を口ずさんでいた。レジスが乱痴気騒ぎをみたがった夜、モンマルトルで黒人のジャズバンドが演奏していたもので、何週間ものあいだミシェルのライトモチーフになっていた曲だった。〈この曲を聞くと、ひどく奇妙だった夜を思い出すんですよ。すくなくともソーヌの岸辺ですごした幾晩かに負けないくらい…〉 デュフォール夫人のほうは、アメリカを旅したときハーレムのナイトクラブでその曲を聞いたのだった。みんながピアノであれこれジャズ曲を弾いた。外見はまったく似ていない姉妹だったが、二人ともたしかにおなじような活力の持主なのだった。しかしルーベンス風のヴィーナスにあってはそれがすっかり表面にあらわれており、誇り高く繊細な、愛らしいイタリア風の娘にあっては、内面の火となって燃えていた。二人はおたがいに相手をみごとに引き立てあっていた。褐色の髪の女のほうの肌色では、薔薇色の筋目のあるティー・ローズの美しいピンクがかった下地の色が、美しいブロンドの肌を反映して、華やかなメロディーの音調の反復というか、洗練された転調の魅力をただよわせていた。
うーん、しっかりと筋のとおったディエゲーシス。これくらいの文章は素で書けるようになりたいものだ、小説家として。
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------------------------------------- タイプ【2-5】ルバテ:批評的/情動的ディエゲーシス ▲
●『ふたつの旗』上83-84頁
第二章
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まるまる三か月たってギヨームとミシェルは、プラトン、エピクロス、アリストテレス、プロティノス、ベーコン、スピノザ、デカルト、ショーペンハウアーなどの名前を実際上ただの一度も耳にしなかった。これにたいしてマルクスとなると、一回の講義ですくなくとも三十回は論拠としてもちだされたし、ごくまれに、この太陽のとばっちりがヘーゲルに降りかかった。事実ヘーゲルはあらゆる大哲学者のなかでも、めちゃくちゃなめった打ちを食らっているように思われた。
人間精神の科学は今後、まさにその精神自体の陰険な、辛辣な、あるいは皮肉な否定によって開かれているのであり、その最良の表現手段は、鼠や蛙の反射反応と人間精神を同一視することなのであった。ベルクソンをもつフランスは、この時代にあってもっとも聡明な哲学者をもつ国であった。大学は憎悪をこめて彼を無視するだけでは満足しなかった。ベルクソン哲学にたいして大学は実験心理学をもって対抗すると主張していたが、ようするにそれは蚤の飼育のようなものだった。哲学は、もっとも鼻もちならず狭量なソルボンヌのくだらない教授たちのとじこもる洞穴になっていた。民主主義はソルボンヌを、こっけいきわまりない党派心に凝り固まったオメーたちの支配下におき、その大規模な神学校にしてしまっていた。個人にたいする憎悪と恐怖のあまり、公的に知られているのはもはや多かれ少なかれ人類全体に共通する、いや、動物全体に共通する胚胎期のメカニズムだけだというような状態だった。兎からアンドレ・ジードにいたるまで、すくなくともカナカ族からヴァレリーにいたるまでというわけだった。最高の地位を占めているのが、墨縄や下げ振りをしっかと握った育ちの悪い老いぼれ庭師のような連中であり、彼らは知性を小さな正方形に分割し、まるで子供のようにマニアックにそのシンメトリーに気を配っているのだった。その結果は郊外の野菜畑を連想させることもあれば、役所の書類分類箱を思わせることもあった。現代のあらゆる思想や発見に逆行して、公認の思想だけがまるで腐ってかびのはえた切り株にしがみつくように、あいもかわらず合理主義と唯物論的科学主義にへばりついていた。両方とも化石のようなものだったが、執念深いことにかわりはなく、鉤のような爪をのばし、からからにひからび、くどくどとおなじことをくりかえし、しかも意地の悪さときたら底なしの二人の老人のようにおたがい支えあっていた。大説教師がおり、押し殺した声で話す告解師がおり、狂信者にも、ピューリタンにもタルチュフにも事欠かないことを考えれば、その全体がまさしくひとつの宗教になっているといってもよかった。史的唯物論の偉大さをたたえる会合に出てみると、まるで信仰の大波がうちよせる感じだった。トーテムやタブーや二十日鼠の運動選手のテストをめぐって、ぶつぶつ祈りを捧げる声が聞こえ、聖具室の匂いが鼻をつき、眼鏡をかけ油じみた髪をまんなかで二つに分けた扁平足の女教師たちが、そこでははじめてのミサにつらなるこちこちの信心家のかわりとしてこのうえないものに思われた。
非常にルバテ的な個性あるディエゲーシス。「ベルクソン哲学にたいして大学は実験心理学をもって対抗すると主張していたが、ようするにそれは蚤の飼育のようなものだった。」──この文章のひねりカッコイイ。
●『ふたつの旗』下692頁
第三十五章
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九月二十二日。若者の空っぽな頭のなかで、日付がふたたびにぶいひびきをたてていた。もう五日しかなかった。しかし、ついに救われるためには、その五日を生きぬかなければならなかった。昨夜のベッドのなかのアンヌ=マリーをふたたび思い浮かべた。執拗なまでの淫乱に彼女の顔は仮面をかぶったようであり、カールした髪が乱れて頬にかかり、そっけなく濁った目の前に垂れていた。しまりなく細めに開いた口が、一息入れる暇もない愛人を、はやくも引きよせようとしていた。そのおなじ娘が、一年まえにはローヌ河の河岸で、たずねるような目で雨模様の空を見あげながら、せわしなく夜の冒険の準備を進めており、一時間に三十回もブルーイの名前を口にしていたのだった。その娘がもうなにもおぼえていないなどということはおよそ考えられなかった。彼女の思い出は、いったいどんなものだったろう? ミシェルは告白できない陰険さというおぞましい義務に彼を連れもどしかねない行動にげんなりしていた。それでも行ったり来たりするアンヌ=マリーの動向をうかがわずにはいられなかった。郵便物をもってきてくれる〈マンマ〉(小母さん)相手に、勝手にでっちあげたイタリア語で話していた。ミシェルはまさに郵便配達夫がきたことに気づいたのだった。自分の強迫観念が伝染性をおびるのではないかとおそれることで、いっそうそれを深刻にしてしまう一方、自分が疑っていること、見張っていることを見破られるような手がかりをみせてしまうのをおそれていた。やることなすことすべてがバラバラで、いかにもつくりものの多弁から──ひたすらしゃべりまくり、口から出まかせの言葉の波で自分をかくす──荒れ模様の沈黙に引き移るのだった。それでもアンヌ=マリーは、能弁な劇作家、優雅な〈人生の芸術家〉が、そんなふうに急にかわってしまったことを、全然気にかけているようにはみえなかった。彼女自身、いったいどこへ行ってしまったのだろう? 三日まえから自分が完全に孤独であることにミシェルは気づいていた。
三人称の文体で登場人物たちの張りつめた感情を文章にのせること(しかも要約法的なテンポで!)は相当難しいと思われるのだが、ルバテはなんなく実現している。つまり登場人物たちの感情に焦点を合わせるならこの程度のことは書けなきゃだめだということだ。そうでなければ小説家の責任など果しようがない。
●『ふたつの旗』下489-490頁
第二十九章
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橋詰広場に面した二階、西南地方民衆保険会社は、毎晩六時半に外交員志願者の面接をする。狭く長い、汚らしい玄関ホールのようなところに五十人ほどおしかけており、粗末な椅子の列に腰かけている。大部分は事務室の奴隷のような連中で、目当てといえば百五十フランの月給。世界の算術ではじき出した額がそれで、五年、十年あるいはそれ以上もまえから渇望してやまないものだった。それだけあれば三人目のがきのシロップをもうすこし気楽に買えるし、その子のために半ズボンを買ってやることも、日に二本余計にたばこを吸うこともできるし、もしかしたら週に二度肉も食えるかもしれなかった。彼らはおとなしく無口で、とても注意深く、一人のこらず着古した服を一着におよび、垢だらけのねずみ色にせよ、彼らの埋葬に使う霊柩車のような冴えない黒にせよ、おなじ箇所がしわくちゃになっていた。四十歳をこえたものも多く、なかには六十あるいはそれ以上の老人も何人かいた。くる日もくる日も三十五スーというおなじ問題に悩まされつづけるとは、なんという人生だろう! しかし彼らが奴隷根性の持主であることの印はあまりにも明らかなので、親愛感などはとうてい抱けない。司祭も経営者も経済学者も政治家も、慈善家も、こんな運命のまえでは口をとざすがいい! とにかく陰惨なほど論理的なこの悲惨に同情することなんかできやしない。これらの男たちに運命以上の価値があるのだったら、彼らはその運命を手なづけていたはずなのだ。
五十歳ぐらいの男、腹がつき出ていて、眼鏡も禿げ頭も堂々としてはいるが、下着が清潔かどうか疑わしい男──公金をちょろまかして淫売宿に通っている、みた目はちゃんとした軽罪裁判所の会計係によく似た感じ──そういう男が、もったいぶった態度をおさえながら、気楽そうな顔で、やせ細った連中の握手をしている。民衆保険は社会的使命をおびた事業を遂行しているのであり、その目的は、情報不足のせいで警戒心を解こうとしない労働者階級にも保険の恩恵をひろめることにある。それゆえ、広汎な協力者網の助けを借りなくてはならない。協力者たちは教育者という卓越した任務もおびる。また彼らにとって民衆保険は相当な利益の源でもある。敬すべき会計係はさまざまな例をあげ、気をそそる統計をもちだす。定職以外の時間しか働かない補助外交員の場合──ここに集まっている人々はそういう形を望んでいるわけだが、歩合収入の月額平均は約二千フランにのぼる。月に三千あるいはそれ以上の収入をあげる人もまれではない。すっかり心をうばわれた人々の群れに静かなざわめきがひろがる。民衆保険会社は協力者たちにいかなる保証金を求めない。ただ、彼らが獲得する最初の十件の契約については、手数料なしということにしてもらうだけである。ミシェルは、とりつけカラーの文なし相手にこういうごまかしが語られるのを聞いた。あわれな男が貧しい区域で五百軒ものベルを鳴らし、何度となく尻に足蹴をくらったあげく、やっと十一件目の契約をとりつけると、民衆保険会社は、まことに残念ながらなどといいながら、定員がいっぱりで試験採用期間はこれで終わりと通告する。そういうケースを数かぎりなくふやせば、腹ぺこの連中の底ぬけのばか正直のおかげで、会社は自分の懐を痛めずに、とうてい近よれないという評判の顧客を食いものにできる。被保険者とご立派な保険会社の関係については、この話はなにも語っていない。
希望に胸にふくらませた志願者の群れが殺到する一方、ミシェルは逃げ出す。この無臭の下水道にくらべれば、北アフリカの連中といっしょに車を洗っているほうがまだましだった。彼はまるで、黄色い人類の住まいのもっとも陰惨な片隅で、雌どもに育てられた無数の〈羊たち〉を、シャベルにたっぷりすくいあげてつめこむ作業を強いられたような気がした。
おや、ルバテも結構文末辞を散らしてズイズイ文章をすすめている。文章のつなぎ方も、文末辞の散らしに貢献するように考えられているのではないか。「大部分は事務室の奴隷のような連中で、目当てといえば百五十フランの月給。世界の算術ではじき出した額がそれで、五年、十年あるいはそれ以上もまえから渇望してやまないものだった。それだけあれば三人目のがきのシロップをもうすこし気楽に買えるし、……」の箇所や、「四十歳をこえたものも多く、なかには六十あるいはそれ以上の老人も何人かいた。くる日もくる日も三十五スーというおなじ問題に悩まされつづけるとは、なんという人生だろう! しかし彼らが奴隷根性の持主であることの印はあまりにも明らかなので、親愛感などはとうてい抱けない。」の箇所は、文章のつながり方に明らかに一捻りある。単なる描写や説明ではもちろんない。そう、そもそもルバテは凝ったディエゲーシス文体を駆使する作家だったな。
内容としては、他者の人生に対する侮蔑の、具体化。ここではディティールの詳しさが他者=羊たちの人生を徹底的に見下す最良の手段となっている。「くる日もくる日も三十五スーというおなじ問題に悩まされつづけるとは、なんという人生だろう!」
●『ふたつの旗』上10-11
第一章
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昔の作家たちは、悠々と主人公の誕生から話をはじめた。今日大いに用いられる手法はほかにも数多くあるけれども、昔のやり方が価値を失ったわけではない。幼いミシェル・クローズ[* マッターホルンの初登攀を試みて生命を落としたサヴォワ地方の山岳ガイド、クローズは、この一家の遠い親戚にあたっていた。一方ひたすら部屋にとじこもっていたとはいえ、この登山家の壮挙に感嘆しきっていた公証人クローズは、自分の息子に、勇敢な従兄弟の名前をつけたのだった]は、今世紀のはじめごろ、ローヌ河から数キロはなれたドーフィネ地方の小さな町に生まれた。父親がその町の公証人の職を買いとったばかりだった。母、祖母、女中たち、二人の妹、それにラテン語の教師でもある風変わりで陽気な大柄な司祭にとりまかれて、幼いころの彼はごく普通の坊やだった。おそらく他の多くの子供たちにくらべてとりたててかわっているわけでもなければ、より平凡なわけでもなかった。いずれにせよ、そういうとるにたらぬ問題をここで詮索するのはおよそむだなことだ。中央山岳地帯の大きなミッション・スクール、サン=ジェリー高等中学校に入ったのは十三歳のときだった。ミシェル・クローズは入学するとすぐ、田舎ですごした自分の幼年時代を否認した。といって、より興味深い少年になったわけでもなかった。しかし、くりかえしになるけれども、われわれにとって重要なのはそんなことではない。
どこか見所のある人間は、ふつう第二の誕生を経験するものだ。ときにはそれが最初の誕生と正確におなじ日付をもつこともある。若いミシェル・クローズの場合、第二の誕生はかなり長い時間をかけた難産だった。サン=シェリー高等中学校が、急激な成熟や晴天の霹靂にも似た精神的啓示をあたえるような学校ではなかったことは、あらかじめことわっておいてもいい。この学校での生活は完全にバルザック風のままであり、『ルイ・ランベール』に描かれたのとまったくおなじだった。五時起床のあとにミサ、勉強は日に十時間、休み時間には竹馬に乗ってボール蹴りをするのが義務であり、一年のうち六か月は木靴をはき、霜焼けになやまされ、木曜日の午後はきまって二十キロ歩かされた。学生主任や生徒監による身体検査や査問はのべつまくなしだった。ミシェル・クローズの変貌がはじまったのはおそらく第二年級のときである。優秀な寄稿者をそろえて、風刺に富む週刊誌「僧院の微笑」を創刊したのがきっかけだった。しかしそれも、第五号を出して飛躍的発展をとげつつあったとき、修道会の横槍で廃刊に追いこまれた。おなじころミシェル・クローズは、中世風のドラマや十六世紀イタリア風の小説を書くのに熱中した。ごてごてした挿話からなるそれらの作品を、彼は聴衆のまえで朗読した。聴衆の生き生きした反応は自尊心をくすぐり、いっそう彼を大胆にした。われわれの宣伝家は、もっとも高く評価している仲間たちをこれらの朗読会から入念に排除した。そのため、逆説的に彼らの嫉妬を買う羽目になった。それでも全然へこたれなかった。
密度とスピード感のあるディエゲーシス。まずは引用部中における(とくに過去形の)否定辞の役割に注目したい。「……価値を失ったわけではない」「……より平凡なわけでもなかった」「……になったわけでもなかった」「……重要なのはそんなことではない」──ディエゲーシスの中で文章の文末に否定辞が来る断言の短文が挟まることで文体的に引き締まる。敷衍していても説明の羅列のような印象にならない。
段落冒頭が純粋に一般的な断言から始まっているのも面白い。「昔の作家たちは、悠々と主人公の誕生から話をはじめた」「どこか見所のある人間は、ふつう第二の誕生を経験するものだ」──引用部ではミシェル・クローズの生い立ちを語って行くという方針ゆえに時間順に出来事を伝える文章が並んで行くのは避けられないが、こうした無時間的な一般的断言が挟まることによって、改行も相俟ってきれいな起伏が生れる。付け加えていえば、この引用部は小説全体のはじまりであるのだが、それが「昔の作家たちは、悠々と主人公の誕生から話をはじめた。今日大いに用いられる手法はほかにも数多くあるけれども、昔のやり方が価値を失ったわけではない。」──と単刀直入ではなく迂言的にワンクッション置いているのは心憎い。これで小説世界に入り易くなっている。
第二段落目も基本的に年表的な時間順に沿っているのだが、ミシェル・クローズの第二の誕生というレトリックを持って来ることで段落の構造に一捻りいれて、「サン=シェリー高等中学校が、急激な成熟や晴天の霹靂にも似た精神的啓示をあたえるような学校ではなかったことは、あらかじめことわっておいてもいい」という文言を入れることで、まずは括復法的に中学校における生活を記述している。いわば単に単線的に敷衍するのではなくて時間幅に水平方向のふくらみを持たせて敷衍している。それから「ミシェル・クローズの変貌がはじまったのはおそらく第二年級のときである」からは時間順にミシェル・クローズの上に起こったできごとを記述していく、すなわち垂直的かつ単線的な敷衍へと切り替わる。ディエゲーシスの中で時間をどう扱うかにかんする様々な工夫がこの引用部には見られる。
余談。ここでは主に語り手の声が主になっているのだが、用いられている主語が「われわれ」。「くりかえしになるけれども、われわれにとって重要なのはそんなことではない」。論文みたいだ。
もう一つ余談。主人公の名前の由来について変な注釈がついている。ほとんどどうでもいい無意味なお喋りにすぎないが、こういうくだらない駄弁が奇妙なリアリティを醸し出す効果は否定できない。
●『ふたつの旗』上11-12頁
第一章
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この脱皮と生まれかわりの細部は、われわれにとってさほど重要ではない。一九二〇年の復活祭の休暇も終わり、十七歳になったばかりのミシェル・クローズが修辞学級の生徒として学校にもどったとき、彼は自分の手で自分の臍の緒を断ち切りつつあったと考えてもさほど見当ちがいではあるまい。上級学年ではこれまでになく指導がきびしくなったが、バカロレアが近いせいもあって、学則のなかのさほど重要でもない条項への違反はいくぶん大目にみられた。たとえば休み時間のボール蹴りと竹馬は強制されなくなったし、ひとりで、あるいは何人か集まって猛勉強してもよかった。ほどなく、物理のノートや歴史の要約から食事中も目をはなさず、それらに目を通しながら眠りこむようなことになるはずだった。実をいえばそれも、そのころはまだほんの口実にすぎなかった。髪はブロンド、肌は桜色、そしてグレーのノーフォークジャケットに身を包んだ愛想のいい「第二年級」の生徒が、褐色の口髭、広い胸、自動車運転手の手袋にもかかわらずヴィオラのように哀愁にみちた上級生のだれかといっしょに、菜園の生け垣沿いに決然として中庭の奥のほうへ遠ざかるとすれば、それが三角法を猛勉するためでないことを知らぬものはなかった。エーテルのように澄みきっているにせよ、あいまいであるにせよ、あるいははっきりと不純であるにせよ、特殊な友情は──この地方では「紐を作る」という言い方をしていたが──寄宿生活のつづく九か月半のあいだ、はじめから終わりまで、サン=シェリーの大問題のひとつだった。たえず動員され、おそろしいほどいたるところに張りめぐらされた監視網をかいくぐって、上級と中級のあいだでいつでも恋文や告白の手紙がとりかわされ、誘惑者と胸をときめかせている犠牲者はながながと視線の対話をかわした。牧歌的なランデヴーもあれば暗鬱な裏切りもあった。もっとも、監視機構は脅威にみちていたが、奇妙なことに厳格さは時によってまちまちだった。
まこと、愛は遍在すると信じなければならない。重労働ときびしい時間割にもかかわらず、壁のなかにとじこめられた二百人の思春期の少年たちの稚い精気がたぎっているこの僧院さえ愛にみちていたからだ。「クロクロ」と呼ばれる若い娘──人の噂では、許婚が一九一八年十一月十日に亡くなったということで、いつも喪服姿だったが、その若い娘が毎朝礼拝堂の側廊から忍びこむようにそっと入り、聖体拝受のテーブルに歩みよるのだった。しかしどんなに叙情的に孤独な姿が語られても、その謎めいた近づきがたい訪問者のシルエットだけでは、これだけ多くの生徒の心をみたすにはたりなかった。黒ずんだ岩山とけわしい丘に周囲をかこまれたこの敬虔な兵営の小世界では、愛が芽吹いていた。奇抜だったり、突飛だったり、あいまいだったりしても、とにかく愛であることにちがいはなく、その香りも、偶然の巡りあわせも、ロマンスも、地下の、あるいは天上の欲望も、鞘あても、秘密も、運命によって定められた愛のいろどりはすべてそろっていた。
ディエゲーシスが平板な事実の羅列に終わらないためには段落内で幾らかの構造化が必要だが、おそらく接続詞「しかし」による構造化はなるべく避けた方がいいように思われる。引用部でも「しかし」が使われているのは一ヵ所しかない。最初の段落は前半では上級学年の生活について、後半で「紐」という同性愛関係について記述しているが、この大胆な切換えを可能にしているのは「しかし」の逆接ではなく、「実をいえばそれも……にすぎなかった」という文修飾副詞「実をいえば」と否定辞の文末「なかった」によってである。どうも、接続詞「しかし」に拠らなくても否定辞が文末に来る文章を用いることでいくらか逆接の効果とそれによる構造化の印象が得られるらしい? ほかにも「……さほど重要ではない」「……と考えてもさほど見当ちがいではあるまい」「……ことを知らぬものはなかった」と否定辞を用いた文は多用されている。これによって段落に軽い構造化がほどこされ、文体も論理的に引き締まる。「たとえば」「ほどなく」「もっとも」といった接続詞による文体の引き締めにも注目しよう。
また、同じようにディエゲーシスを論理的に引き締める効果を持つものとして、「……だからだ。」で終わる文章にも注目(「重労働ときびしい時間割にもかかわらず、壁のなかにとじこめられた二百人の思春期の少年たちの稚い精気がたぎっているこの僧院さえ愛にみちていたからだ」)。そうした文章は端的に前文(ないしは従属節)の真理性を理由を挙げることによって補強する。前文が疑問文でないからこそ、この「補強」の効果はより強い。つまり「何故……なのか? ……だからだ。」と応答の屈曲を文章のつながりに入れるのではなくて、「彼は……をする。……だからだ。」と二つの断言を順接するタイプのディエゲーシスに注目せよってこと。ちなみにここで補強されている前文「まこと、愛は遍在すると信じなければならない」は、段落冒頭で唐突に切り口を提示する無時間的・一般的な断言となっていることにも注目。
余談。「ほどなく、……眠りこむようなことになるはずだった」──この「はずだった」はルバテが良く用いる文末辞だが、平叙文に時たま付加することができる程度のことで、そんなに段落の構造化には寄与してないっぽい。意味的には当然そのようになるはずの帰結を前文までの流れから導くというところ。
●『ふたつの旗』下700頁
第三十六章
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今はもう、この若者と娘から発言権をとりあげなくてはならない。二人の独白や対話にわれわれはこれほど長いあいだ耳を傾けてきたわけだが、これ以上つづけたところで、もうなにもわからないし、あまりにも多くの嘘を聞かされるだけなのだ。あれほど熱烈な内省の愛好者だったミシェルも、もう自分の心のなかを読みとりたいとは思っていない。彼は娘に心のなかを読みとる方法を教えこんだが、娘のほうは、そのおそるべき贈り物をどう利用したか、われわれに話してくれるだろうか?
章冒頭のディエゲーシス。完全に語り手が前景化して語っているのだが、「今はもう」と小説内の記述のなかでの「今」という時点を指示していることに注目。語り手が「小説の叙述が今この段階に到った以上は……」と自己言及しているわけ。論文なんかでは良くあることだが、小説においては珍しい。また「われわれはこれほど長いあいだ耳を傾けてきた」の文では、語り手+読者をひっくるめて「われわれ」と称しているが、これもやはり論文などではよくあるが小説では珍しい。
●『ふたつの旗』上12-13頁
第一章
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他のすべての年とおなじくその年も、最後の学期に入って温かい風が吹きはじめると、さんざしの茂みに劣らず激しい勢いで「友情」が花開いた。復活祭の休暇からもどってきた生徒たちの見出だす空は、きれいに吹き払われていた。丘のふもと、駅の向こうのサン=シェリーの町は炭鉱と製鉄の町であり、煙霧にとざされ、騒音にみたされていた。その町が、アルジェリアからやってきた労働者、ボタ山、あえぎながら走る機関車、黒い泥と汚れた煉瓦のいつはてるともなくつづく町外れの家並みもろとも、まるで奇蹟のように、僧院からそっくり遠ざかったように思われた。四か月間氷にとじこめられていた泉から、ふたたび陽気な水が流れはじめていた。大きなマントも毛織りの脚絆も衣料品置場に片づけられた。廊下の影のなかでも、むきだしのうなじやふくらはぎがまぶしかった。冬の夜の共謀のなかでやっとの思いで結ばれた数十組の仲良しが、いつのまにか吹きはじめた南風にはぐくまれて花と開いた。プラタナスに縁どられた中庭の低い小道は、ちょっとした大通りの観を呈し、夜の出会いが企まれ、新調した明るい色の背広、形だけのネクタイ、ダントン風のシャツ、バカロレアの日に履くようなきれいな黄色の靴、これまでにない贅沢というべきだが、いまや三日に一度は替えるようになっていた白いカラーなど、おしゃれの競いあいがみられた。「優」をもらうことは保証つき、この地方のどんなコンクールに出てもかならず入賞するという哲学級の最優等生が、まだ小さな「第三年級」のなかでもっとも気をそそる、魅力的でいたずら好きな十三歳の少年への愛を打ち明け、彼から一歩もはなれようとしなかった。うわべは心理学の講義録に鼻をつっこんでいるようなふりをしていた。しかし実は、数々の栄誉に包まれていながら、悪魔の仕業で高等中学の女子生徒の群れに投げこまれた六十歳アカデミー会員のように、恥ずかしさにさいなまれる一方、陶酔におそわれているのだった。
他方、「紐」は春の伊達男たちの専有物と思う素人がいるとすれば、とんでもない思いちがいというしかない。この学校にはオート・ロワール県やロゼール県からやってきた田舎者も多かったが、コール天の服を着こんだ彼らも溜息に胸ふくれる思いをしていたし、周囲をとりまく艶っぽい雰囲気にふれて、村の悪徳に染まった未熟な身体に磨きをかけていた。その他にも一連の不運な連中がいた。恋い焦がれているのに臆病すぎて打ち明けられずにいるものたちである。彼らは贋の恋文遊びや、からかい半分の言いよりのまたとない標的だった。というのも「紐」にはありとあらゆる種類があり、軽喜劇も蔑まれていなかったからだ。
長いディエゲーシスを引用したが注目に値するのは第二段落の第一文だけ。「「紐」は春の伊達男たちの専有物と思う素人がいるとすれば、とんでもない思いちがいというしかない。」──これは第三十五章の「コンスタンチノープルの気候について、人々はまちがった考えを抱いている。」に匹敵する、特徴的で切れ味のある段落第一文だ。否定辞の現在形。しかも読者の誤読を予め咎めているかのようなアクセント。対話的ディエゲーシス(呼び掛け)というよりもはや挑発的ディエゲーシス。そういう改行後の第一文もありなのか。
●『ふたつの旗』上21-22頁
第一章
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こんな調子ではじめられた打ち明け話の細部をこれ以上追いかけるのは、おそらく余計なのにちがいない。ギヨームが半ズボンと腹のあいだにランボーとボードレールの栄えある残骸をかくしもっていたのをみぬくのも、そんなにむずかしくはないはずだ。それはここ三か月間に三回目のおそろしい警報が出されたさい、かろうじて救い出せたものだった。というのも、最初の二回で、二人の大詩人の作品の存在そのものが犠牲になったからだ。つまり「ピス」──というのは規律係の生徒監のことだが──の捜査のさい、みつからないように大急ぎでひっぱりだし、なにもかも打ち明けていえば、『悪の華』全巻を、自習室の隣の便所という汚辱にみちた奥津城に投げこまざるをえなかったのだ。まだ第三年級のころ、二人の少年はそれぞれに、シャルル=マリー・デグランジュ氏の編集によるいかめしい緑の表紙の初級向け詞華集で、ロンサールやデュ・ベレーやベローの歌を読みかえし、暗唱したいというおさえがたい欲求を感じていた。彼ら自身それにはおどろき、当然のことながら厳密に自分だけのものと思われたこの衝動は、虚栄心よりむしろ不安をあたえるものであった。そういう「児戯」は、すでに遠いものとなった年代の素朴な怪物性の一部をなしており、いま思い出すとユーモアたっぷりの寛容さをおぼえるのだった。彼らは自分たちの性向について徐々により大胆な意識をもつようになり、しかもその意識はますます強まる一方だったが、公のカリキュラムと奇妙にずれていることにかわりはなかった。第二年級のあいだにロマン主義の光輝にみちた武器庫と肌白のヒロインたちを発見して熱狂にかられる一方、ル・ロック神父に提出するための『シンナ』や『アタリー』の分析などには嫌気がさして、さっさと片づけるのがつねだった。第一年級でロマン主義の花形が正規の授業の対象になると、今度はボードレール主義や象徴主義に耽溺するのだった。彼らはこうして、もろもろの革命や流派の論争もふくめて、文学史を完全にわがものとして生きたのだった。ただ一学期が半世紀にもあたっていた。二人の経験は本質的に詩にかかわっていた。神父たちの検閲は、フランスの散文のどんな偉大な作品も容赦しなかった。いうまでもなく二人の冒険家の無邪気さには、パリのリセなら第四年級の生徒たちさえ微笑を浮かべたにちがいなかった。しかしながら、格子縞のノートにひそかに書き写して作った詞華集によって、あるいは傑作のなかでも気に入ったページを引きちぎり、独裁政治時代の誹謗文書のようにマントの下にかくしてもち歩き、いわば大詩人を生み出したときの誇りを、パリの生徒が知ることは決してないはずだった。
評伝的に主人公の青春期を語るディエゲーシス。かなり語り手が前景化している。
冒頭から「こんな調子ではじめられた打ち明け話の細部をこれ以上追いかけるのは、おそらく余計なのにちがいない。」という根拠不明の語り手の一人合点でいきなり現前的場面(会話場面)をぶったぎってディエゲーシスに移行している。まあ文体的に、否定辞で終わる文をディエゲーシス段落の頭に持って来るのはリズムとしては良い。
第二文もやはり語り手が自分の判断を語ってしまっている。しかも読者の能力を勝手に見積もって。「ギヨームが半ズボンと腹のあいだにランボーとボードレールの栄えある残骸をかくしもっていたのをみぬくのも、そんなにむずかしくはないはずだ。」ドストエフスキーの『作家の日記』のように読者に「諸君」とか言って語りかけるほど露骨な文体ではないが、そこはかとなく読者と共犯関係を結ぼうとしている。文末辞の「……むずかしくはないはずだ」は「……むずかしくないだろう」や「……むずかしくないにちがいない」であっても効果は同じ。
注意しなければならないが、「いうまでもなく二人の冒険家の無邪気さには、パリのリセなら第四年級の生徒たちさえ微笑を浮かべたにちがいなかった。」という最後の方の分に出てくる「……にちがいなかった。」は語り手が読者と共犯関係を結ぼうとしているのではなくて、単に想像的仮定(「パリのリセなら……」)による記述の真理性の補強である。ちなみに『赤と黒』のディエゲーシスでも似たような想像的仮定を見出せる。「このヴェリエールの大通りはドゥー川に沿い、その先は丘の頂上まで上り坂になっているが、旅行者がほんのしばらくでもこの大通りで足を休めるなら、必ず、せわしげな、いかにもえらそうな様子をした、背の高い男の姿を見かけるにちがいない。」
「……いわば大詩人を生み出したときの誇りを、パリの生徒が知ることは決してないはずだった。」──この最後の文における「……はずだった」の文末辞はどう分類されるか。やはり語り手が根拠不明に自分の判断を語っているような印象だ。
その他、内容的な展開についてコメントすると、「まだ第三年級のころ……」「第二年級のあいだに……」「第一年級で……」と段階的に時間を追っていくオーソドックスな構成の中で、生き生きと彼らの衝動や趣味判断や熱狂や誇りを描いているという趣き。文体技巧の多彩さは注目に値する。「彼らはこうして、もろもろの革命や流派の論争もふくめて、文学史を完全にわがものとして生きたのだった。ただ一学期が半世紀にもあたっていた。」
●『ふたつの旗』上55頁
第二章
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なんという冒険だろう! このまえの冬は世紀末的なワーグナー主義の気まぐれと陶酔にひたってすごしたというのに、いまはストラヴィンスキーと鼻をつきあわせるとは! つい十八か月まえまで寄宿学校のろくでなしにすぎず、彼らがもっていたお荷物は多少のちがいはあるとしても、イエズス会の学校を出たばかりのヴォルテールと似たようなものだったのに、今日の前衛はアルチュール・ランボーの価値にさえ疑問を呈しているのだった。そして第七区の閑静な小さな通りでは、なかば盲目のアイルランド人〔ジョイス〕が、それにくらべれば『地獄の季節』さえいまは亡きトゥーリエの短篇とおなじくらい単純素朴に思われかねない叙事詩〔『ユリシーズ』〕を書きあげたところだった。
なんという手ほどきだろう! いっしょくたに、おなじ新しさをもって、天才の堆積ともいうべきルーヴルがあり、パブロ・ピカソやユダヤの表現主義者たちが目のまえにいるのだった。リュシアン・ルーヴェンとラフカディオ、プロティヌスとフロイト、カラマーゾフの兄弟とド・シャルリュス氏、モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』と黒人霊歌、「あぐらをかいた書記」、野獣派、『危険な関係』、バッハ、サティ、トマス・アクイナス、セザンヌ、『マイスター・ジンガー』、『マルドロール』、フェルメール、『権力への意志』、シェーンベルク、税関吏ルソー… よろしい。昨日のキュビスト・ピカソは、輪郭も明らかになり、正当化され、仔細に検討されている。しかし今朝のピカソはアングルへの回帰を宣言し、本物の拡大写真のようなどんな細部もゆるがせにしない肖像画を描くことによって、その宣言を実行に移す。そして明日の晩の彼は、灰色に灰色を重ねる手法で、それとなく性器を暗示する大きな顎のようなものを描くだろう。『春の祭典』は、最後の芸術的大戦闘だった。それは忘れがたい思い出であり強烈な刺激だった。これをはじめて聞いて攻撃的な熱狂にかられたものは狂信的な音楽好きになり、反論する者がいれば八つ裂きにしかねない勢いだ。たしかに『祭典』はそれほどの崇拝に十分値する。その拳固は強力なマッサージのようであり、聞き終えて出てくるときには、自分の時代を誇りに思う。この音楽は未来の人間たちのために、はげしくも光輝にみちた集大成を謳いあげているのだ。すなわち機械、戦争、速い脈動、葛藤、血まみれの創造、極度に洗練されたフルートとエキゾチックな夢、原始的興奮への回帰、大地に根ざす官能性、ものいわぬ神々にとってかわる激越な宗教。しかしその出口ですでに、もっとも最近の革新者たちが『祭典』のなかに、古ぼけたオルガンのこもった匂いをかぎつけていることを知らされる。彼らは彼への友情を証しながらも、あれやこれやを対立させるのだ。人々は、ものみなを粉々にうち砕く爆発を覚悟しながらかけつける。しかし聞かされるのは、かぼそく短い昆虫のそれを思わせる小音楽か、ヴァイオリンの弦をキリギリスがひっかくような音にすぎない。
ルバテのディエゲーシスによく見られる戯画的な特徴がよく現れている。単に客観的な事実を提示していくのではなくて、それを巧みな比喩によって戯画化して連繋していく。ルーヴル美術館は「天才の堆積」。ピカソは「昨日」「今朝」「明日」で信条をくるくる変える。『春の祭典』は「芸術的大戦闘」であり「機械、戦争、速い脈動」。こうした流れるような戯画化によって多様な内容を凝縮することが可能になり、また、断定口調のルポルタージュの文体とは違ってそれを押し付けがましくなく読ませることもできる(ただし無内容なお喋りにならないために一つ一つの比喩には批評性を込める必要がある)。
「たしかに『祭典』はそれほどの崇拝に十分値する。」と第三者の意見を語り手が代弁しているようなコミカルさも面白い。「よろしい。昨日のキュビスト・ピカソは、……」と独り合点しているかのような文体もコミカル。「明日の晩の彼は、……を描くだろう。」「しかしその出口ですでに、もっとも最近の革新者たちが……。」と歴史の先まで見通すような意識で予言的な口調になっているのも面白い(ちなみにルバテの文体によく見られる「……したはずだった」もまた予言的な口調の一だろう)。「それは忘れがたい思い出であり強烈な刺激だった。」という叙事詩的な歴史記述のパロディじみた文体も面白い。というかそもそも段落冒頭からして、エクスクラメーション付きの「なんという手ほどきだろう!」と大袈裟な驚きの声で読み手を惹き付けている。
全体を通したこうしたレトリックが、この作品に固有の小説空間を生み出している。小説のディエゲーシスはこうあるべきという一つの実例。
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------------------------------------- タイプ【2-6】ルバテ:緊迫した対話・情景法 ▲
●『ふたつの旗』下434-435頁
第二十八章
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ヴィクトル・ユゴー通りの、かなりちゃんとした構えの店に入った。切手を封筒に入れてきたのだった。医者か法律家といってもおかしくないような顔をした商人が、さっと目を通していった。
「五十フランですね。それでいいですか?」
「なんだって! よくみたの? だって、ぼくは…」
「顔が逆向きの青切手だったら」と疑問を見ぬいて、それに答えるように商人がいった。「それなら一枚に千六百フラン出すんですがね。千七百でもいい、そういうものを欲しがっているコレクターがいますからね… この三枚で三十フランです。他のは… 切手収集はまえからやってるんですか?」
なにがなんでもミシェルは落胆をかくさなければならなかった。それは盗みを白状するようなものだと思えたから。
「ぼくが切手収集家? いや、全然。友人の具合がわるくなって、彼のためにこの切手を売ってほしいとたのまれたんですよ。もっと高く売れると思っていたようだったけれど」
「ほかの同業者にあたってごらんなさい。私はカタログ通りの値段を申し上げているんですよ」
ミシェルはみじめな気持で店を出た。自分の不運はもはや疑いようがなかった。ポケットをひっくり返した。呪わしい安物ひとつ入っていなかった。正確な勘定は封筒のなかだった。市役所通りの意地悪ばあさんが四十五フランくれた。彼は一言もいわずに受けとった。
彼の苦境は、これまでに知ったどんな暗い日々よりもっと悪いと判断したいほどだった。彼は燃えるような思いで、自分のスイス到着の情景を生きたのだった。かくれ家を作りあげ、アンヌ=マリーのおどろく顔をみてはじけるように笑い、偶然に強いられた場合、ヴィラール夫人とかわすはずの議論の余地なくデリケートな対話を即興に考えはじめてさえいた。彼はその幸福の断片の上にへたりこんでしまった。いたるところから血が吹き出ていた。
「まったく装飾的なアウトローだ! 娘たちの心も陥落するだろう。四十五フランで!… 本物の青切手二枚、今はそれがどこにあるかはっきりみえる。次のページの上のほう、とっつきのところだ。おお! 今になってそれがわかるとは! 目が利くといえば、これだけはっきりみえているというのに!」
自分の盗品がとるにたらぬものとわかっていらい、彼は体面を汚したと考えた。〈たった四十五フランで泥棒になりさがるとは!〉 彼はグロテスクな不幸な男以外のなにものでもなかった。ある行為にまで自分を高めようと試みるたびに、こっけいにも転げ落ちてしまうのだった。そんなまぬけが、いったいなにに愛を望めるというのだろう?
それでも彼はガレージにでかけた。先のことを心配したからではなかった。これから三日間食べるはずのパンのことなど、いっさい心配していなかった。すくなくとも一晩ぐらい、このおぞましい仕事までしくじる屈辱はさけようと思ったのだ。彼は八台の車の泥を落とし、ピカピカに磨きあげた。その日は屋根裏部屋で、さすがに昼まで目がさめなかった。
主人公のおちいった状況を敷衍していく情景法だが、「なにがなんでもミシェルは落胆をかくさなければならなかった。それは盗みを白状するようなものだと思えたから。」「自分の不運はもはや疑いようがなかった。」「彼の苦境は、これまでに知ったどんな暗い日々よりもっと悪いと判断したいほどだった。」「それでも彼はガレージにでかけた。先のことを心配したからではなかった。」など文体的にいかにもルバテ的な特徴がふんだんに盛りこまれている。
●『ふたつの旗』下235-236頁
第二十三章
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疲れはてた彼女の顔が、若者のみているまえでくしゃくしゃになった。先月の、もっとも悲観的だったときでさえ、これほどいまにも泣きだしそうな彼女をみたことはなかった。彼女は急にひきつったように泣きだしたが、すぐにハンカチをおしあてて泣き顔をかくした。悲しみに襲われ動転したミシェルは、彼女のそばでおろおろするばかり、「かわいそうに! かわいそうに!」といいながら両手をさしのべはしたものの、黒いマントにかすかにふれるばかりだった。
彼女はみじめに洟をかんだ。彼は絶望のあまり帽子を地面に投げつけ、自分の髪を両手いっぱいにつかみ、身もだえするしかない瞬間が近づいているのを感じた。「ごめんなさい、ミシェル、私は不幸せなの」
彼女はハンカチでぬぐった目をあげた。ほとんど乾いていた。ミシェルは、ひとつ質問してもいいような気持になった。
「それにしても今朝なにが起こったの?」
「〈サンクトゥス〉のとき、彼がまたしても私に命令したの、椅子から動いちゃいけないって。さもなければひとりで教会から出て行くっていうの。恐怖で凍りつきそうだったわ」
「でも、そのまえにどんなことがあったの?」
「ミシェル、今度の静修生活って、ロレにそそのかされて、彼が打ったお芝居だったのよ。むりやり私の同意をとりつけるために打った芝居だった。すべてが今日きめられるはずだった。そして彼らは私の約束を待っていた。私にはできない。こんなふうに彼と別れるなんて、それは私たちがのぞんだことすべての終わりなんだということが、私にはわかっている。ロレは私を遠ざけたあと、今度はレジスからその思い出まであっというまにとりあげてしまうでしょうよ。でも、私の拒否もやはり終わりなんだわ。なぜ自分がまだ戦っているのか、浮浪者かなにかのように警官が私をどこかへ連れていくまでなぜこの歩道に坐っていないのか、私にはもうわからない。おお! 昨日というあの一日! なんというおそろしい戦いだったか! 今朝レジスは私を家まで送ってくれたけれども、一言も口をきかなかった。ひたすら私のために祈っていたといったことをのぞけば」
聖体を目にしただけで軽蔑に胸がむかつきそうになるほど無信仰なミシェルは、フランチェスコ時代の敬虔な、しかし軽率な修道僧が専制的な教皇から突然破門された場合とおなじくらい愕然としていた。彼としては、アンヌ=マリーがこういう嘆きの涙にかき暮れるかわりに、もっとも清く澄みわたっていた日々の微笑をたたえながら、「今夜レジスと私はブルーイに登るの。でも降りるときは別々のはず」といいにきたのであればよかったのにと心から思った。
いわずもがなの言葉を口にしながら、二人はなおも長いあいだ話しあった。アンヌ=マリーは突然、レジスがすでにリヨンを去ったのではないか、あるいはもう彼女には会わない決心を固めたのではないかというおそれから、パニック状態におちいった。窮地に追いこまれた気分のミシェルは、彼女を安心させようと努めながらへまを重ねるだけだった。
登場人物の情念をきちんと模倣できなければ、自分が作家として普通の人より人間の心理につうじているなどと言うことはできはしない。そして極端な情念を模倣して自然さをしっかり出すことのほうが、微妙なニュアンスなどを演出するよりもはるかに難しい。
引用部でのルバテはさすが。アンヌ=マリーの悲嘆を地の文で正確に描き出している。それを目の前にしてパニックにおちいるミシェルの描写(内面も外面も)も的確ですばらしい。
●『ふたつの旗』上528-529頁
第十五章
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ミシェルは心をこめて話した。イヴォンヌもついに顔をあげて彼をみつめた。かすかに唇を開いたままあえいでいた。パニックにおそわれたような、恐怖と情熱にわれを忘れたような目でミシェルをじっとみつめていた。ミシェルも自分が動転しているのを感じながら、その見知らぬ瞳に見入った。揺れに揺れるそのまなざしは臓腑にまで突き通るような気がした。〈ああ、なんだかけっこうなことになってきたぞ! こんなときにあそこが固くなるなんて…〉
彼は身体を固くし、意志の手綱を引いた。
〈これは反射反応だ… しかしそれだって意志の力でおさえられるはずだ〉
ソルボンヌで聞いた生理学の講義を漠然と思い出しながら、この現象の純粋に機械的な側面に思考を集中しようと努めた。
〈座骨海綿状および延髄海綿状筋肉の腺維が勃起組織の血管を収縮させる… 海綿体とスポンジ状組織… 大脳皮質あるいは頸部靭帯への刺激… その結果として起こる血管拡張…〉
しかしイヴォンヌの新しいまなざしが、なげかわしい〈プロセス〉の力強さをはやくも倍加していた。ミシェルはこの娘に欲望を感じてはいなかった。彼のセックスがおろかにも彼女のほうへそそり立つ瞬間にも、なんの幻想も抱かずに彼女を仔細にみつめていた。彼にとって彼女が光輝をおび、魅力をただよわせることは決してなさそうだった。しかしとりみだしたあの目が、電気制御装置のように情容赦なく彼の肉体に電流を流したのだった。
彼は二言三言、励ましの言葉をつぶやいた。しかし彼自身の言葉が、そこにこめようとしたやさしい抑揚のせいもあって、いっそう血管を膨張させた…
〈なんてこった! ぼくのペニスはカプチン会修道士のそれみたいだ。この娘も気づくだろう。身のおきどころがない〉
どうにもそのおそれがおさえられなくなっていた。そのために舌がこわばり身動きさえできなかった。なんとかしてイヴォンヌをおびえきったような沈黙から引き出そうと試み、執拗に話しかけた。きっとやり方がまずかったのにちがいない、彼女の口からどうにか引き出せたのは、ほとんど聞きとれないような愚痴だった。
「ああ! あなたはまるで二歳の子供を相手にしてるみたいなのね」
自己抑制も優雅さもあったものではなかった。彼はうろたえてしまった。
〈道を歩きながらずっとつづいていたアプローチというか、一種の精神的愛撫がぼくを興奮させたのだ〉と彼は思った。
ほんのすこし自分をコントロールする力をとりもどして、彼はイヴォンヌにいった。
「ぼくは君をしりぞけはしないし、君のことを笑ったりもしない。しかしぼくがそれだけの名誉をあたえる女の子はたくさんいるわけじゃない。ごめん、こんな言い方をして。三人組の調子なんだ…」
当たり前だが、小説の登場人物だって緊張からくる生理的反応を自在におさえられるわけではない。たいていの小説の人物はまるで生理的組織などまるでないみたいに自意識的で無反応だが、ルバテはそうした意識と肉体の背反をちゃんとリアルに描く意志を持っている。地の文での描写が的確である。
●『ふたつの旗』下566頁
第三十一章
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夕暮れになっていた。彼は朝早くから勃起していた。鼠蹊部が突き刺されるように痛み、睾丸がねじりしぼられるような感じだった。明日もおなじ時刻に、その拷問がくりかえされるはずだった。
彼はこのかぐわしい娘にかがみこみ、自分自身の熱に包まれながら、顎を彼女の肩にほとんどのせるような姿勢で何時間もすごしたのだった。彼女が脚を組みかえたとき、その下の腿の奥の二重のふくらみと、さらに奥の、明るい絹の小さな肉の盛りあがりを一瞬彼は垣間見た。彼は喉の奥で一滴の唾液を求めていた。〈こうもり〉のことをふたたび話題にしていらい沈黙の黙約は破られていた。二人のおしゃべりは屈託なく自由なものにもどっていた。アンヌ=マリーはそれが気に入っていたし、彼のほうはなおのことだった!
相変わらずルバテは、エロティシズムを語るときの色気のある言葉づかいがすばらしい。「彼は喉の奥で一滴の唾液を求めていた。」
●『ふたつの旗』下694-695頁
第三十五章
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彼は彼女の口にかがみこみ、乳房を探した。彼女は顔をそむけた。
「いや、ミシェル、今夜はいやよ」
してみれば彼の思いちがいではなかった。それはまさに彼が待ち受けながらおそれてもいた庖丁の一突きだった。九月二十八日は今なお消え失せていないのだった。彼の顔はみるみるうちに炎のように赤く染まった。それでも、愛撫の手をさしのべながら、彼はどうにか自分をおさえることができた。
「ねえ、ぼくたちがこんなに長く節度を守ったことは一度もないんだよ」
ネグリジェの隙間から彼の手が滑りこんだ。アンヌ=マリーは彼の手からすっかり身をふりほどき、きっぱりとした声でいった。
「いや、今夜はいやなの」
「そんな! いったいなぜ?」
一週間まえから彼の胸をつまらせていた恥ずかしさ、自分のおろかしさと卑劣さを恥じる気持が、突然彼女にたいする怒りにかわって噴き出した。ああいうやり口は、いったいなんだったんだろう? ある晩は尻軽女、別の夜は聖女というわけ?
「なぜだ! いうんだ、なぜなのか、今すぐいうんだ!」
「今夜はあなたと寝るわけにはいかないの」
「ねえ、君、いったいどういうわけ? そんな気まぐれなこといって!」
「気まぐれじゃないことは、あなただってよくわかっているはずよ。今日が何日だか知らないとでもいうの?」
知らないふりもおどろいたふりもしなかった。そんな芝居はまったく余計だし、やったところで彼をまぬけなおろかものにするだけだった。自尊心の最後の本能が、せめてそういう恥の上塗りだけは避けるよう彼に命じていた。十分にはっきりいった以上、ミシェルも完全に理解していることはアンヌ=マリーにもわかっていた。彼は息づかいも荒く、歯をくいしばりながら、かみつくような目で一分以上も彼女を見据えていた。怒りのあまり汗びっしょりになり、激昂と嘲弄の爆発すれすれの状態だった。
「君はまたあそこへ行ったんだな」やっとの思いで声の高ぶりをおさえながら彼はいった。「その後起こったことすべてにもかかわらず…」
「ミシェル、あなたは私をよく知っているのだから、なにもおどろくことないでしょう」
「まさに、だから… ああ! なんということだ…」
「じゃ、私がまちがっていたのね。あなたは私のことをもっとよくわかってくれていると思っていたわ」
おそろしいほど自然な口調で、彼女は静かに、気負いなくいった。してみれば彼女にとってはすべてが自明のことなのだった。彼女はあのイエズス会の坊主といっしょなのだった! あの下司野郎! おぞましいくそったらしめが!
「イエズス会の坊主! もちろんそうだよね、この話の裏にはあの坊主がいるわけだ!」
彼は片方の膝を長椅子にのせていた。わずかに開いたネグリジェからたちのぼる熱、アンヌ=マリーの下腹部とセックスの熱が脚に感じられた。彼は彼女の脇腹をつかんだ。彼女に噛みつき、彼女をひきさき、貫いて釘づけにしたかった。のどをつかみ、乳房をねじりあげ、彼女の血をみながら登りつめたかった。
「イエズス会の坊主が、なにをしたんだ?」彼は怒鳴った。「なにもかもいうんだ」
彼女は悲しげに、かすかに肩をすぼめた。彼はその肩をつかみ、乱暴に揺さぶった。
「ぼくになにもかもいうんだ、いいね、わかっているね?」
彼女の目に一種の軽蔑が読みとれたように思い、手をふりあげた。彼女は眉ひとつ動かさなかった。
「もうそんなことするの?」彼女がつぶやいた。
ミシェルの腕は力なくおろされた。
「彼は君の居場所を知っている、そうなんだろ? 君に手紙を書いた。すぐ答えるんだ、ぼくはこれ以上がまんできない。君がひとりでこんな茶番をでっちあげたんじゃないだろ? 君は彼からの手紙をもっている。きっとぼくにはその手紙を読む資格なんかないんだろ? 冒涜だというんだろ? どうなんだ!」
彼はふたたび拳をにぎりしめた。しかし疲れたような、とはいえいっこうにひるむ様子のないまなざしにふたたび出会った。
「かわいそうなミシェル……」
彼は長椅子から腰をおろし、すぐ横に自分の足で立っていた。突然自分の乱暴さに胸がむかつき、とほうに暮れ絶望し、なにをどうしたらいいのか教えてほしいと彼女に懇願しようとした。
『白痴』のアグラーヤVSナスターシャ・フィリポヴナに匹敵する、『ふたつの旗』におけるクライマックス。科白と科白をつなぐ地の文の身振りの記述のヴァリエーションに注目せよ。
●『ふたつの旗』上509頁
第十五章
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彼らはかなり元気な冗談をとばしながら、朝のそれよりは速い列車にとび乗った。イヴォンヌはアンヌ=マリーのそばに腰かけていた。彼女はアンヌ=マリーに英語で二言三言話しかけ(ミシェルが残念に思うことのひとつは、書物は苦労しながらでもなんとか読めるものの、この言葉で話されると全然理解できないことだった)、そしてほとんど聞こえないような小声でたいへんな秘密を打ち明けた。
「イヴォンヌ、これはすぐにもレジスに伝えなきゃ」アンヌ=マリーが叫んだ。
彼女は彼の耳もとにかがみこんだ。レジスはたちまち顔をくもらせ、突然きびしくなった目でイヴォンヌをみつめた。
「こんな話は二度と聞きたくない、絶対に」
ミシェルの目は二人の友人をすばやく見くらべた。彼は不安だった。〈あの女は、今度はなにをいいいだしたんだろう? どうやらただごとではなく、ひどく不愉快なことらしい。ぼくとアンヌ=マリーのことなんだろうか?〉
イヴォンヌは自分の打ち明け話がどんなふうに迎えられたかをみて、早くも前言をとりけそうとした。
「そんなまじめにとらないで。頭の調子がおかしくて自分でもなにがなんだかよくわからないのよ」
しかしレジスは依然としてとりつくしまもない感じだった。
「あなたのいったことがほんとうなら」とアンヌ=マリーはいった。「あたしたちはもう首を吊るしかないわけね」
事の重大さを探ろうとしてミシェルはかなり荒っぽい冗談をとばそうとした。アンヌ=マリーが笑いながら答えた。車室のなかの雰囲気が重苦しくなったのはたしかだったが、二人とも自由でおたがいにやさしいことにかわりはなかった。とはいえ彼をみつめるアンヌ=マリーの表情にはなにかしら新しいものがあり、問いかけるような感じ、いつもより執拗な感じがあったのではなかろうか?
帰り着いたとき死にそうなほど喉が渇いていた。駅前の小さなカフェの親爺が、助平な目くばせをしながら彼らを迎えた。
「お若い人たち、楽しかったかね? 今日は日曜日は…」
ルバテにしては珍しく或る重大なことが一旦伏せられて=抑圧されて、それが底の方から現前的場面を二重化させ屈折させるということが起きている。いや、そもそもミシェルはアンヌ=マリーへの恋心を否認しているので彼の言動にはつねに仄めかしは屈折が含まれるが、それがここではアンヌ=マリーやレジスとも共有されてしまったということ(しかもそれはまだ黙説にとどまっている)。だからミシェルが「荒っぽい冗談をとばそうとし」たり、「車室のなかの雰囲気が重苦しくなっ」たりと抑圧の否認に基づいた無意識の剣呑な衝動が情景法を支配しはじめ、ついには地の文がミシェルの思考を擬態するように体験話法的に「彼をみつめるアンヌ=マリーの表情にはなにかしら新しいものがあり、問いかけるような感じ、いつもより執拗な感じがあったのではなかろうか?」と問いを発することにもなるわけだ……。
ところでこの「彼をみつめるアンヌ=マリーの表情にはなにかしら新しいものがあり、問いかけるような感じ、いつもより執拗な感じがあった」という描写の暗示の豊かさはすばらしい。無意識の抑圧の兆候としてこれほど適確な描写はない。
●『ふたつの旗』下395-396頁
第二十六章
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そんなことはないとレジスは激しく自己を弁護したが、やがて自分の最終的な決意に話をもどした。
「ぼくにはわかっている」と彼は言葉をついだ。「ぼくの苦しみはこれで終わったわけじゃないし、この先最悪の事態さえ覚悟しなければならないことはわかっている。アンヌ=マリーは夢中だし、依怙地になっている。彼女を復讐をくわだて、スキャンダルを引き起こそうとするのはわかっている、きっとぼくの手紙を両親のまえにならべてみせるだろう!」
繊細で誇り高いアンヌ=マリーの性格に感じ入ったばかりだったミシェルは、怒りを爆発させた。
「なんということを! ぼくの前でそんな汚らわしい言葉をはくなんて、もう二度としてくれるな! それでもまだ彼女を愛しているなどといい張るつもりなのか? 情けないやつだ! 彼女がどんな人か、ただの一度でも、ほんのちょっとでもわかった試しがあるのか? 三年近く彼女とつきあってきたというのに! 君がそういう幸福に値したことなんか、一度でもあるんだろうか? ああ! まったくなんてことだ! もし彼女が君に捧げた愛情の百分の一でもぼくに向けてくれさえしたら、彼女のためにぼくは、世界全体を吹き飛ばすことさえできるのに」
二人はなおも長いあいだ、混乱した激しい言葉を投げつけあい、ゆがめられた議論の切れ端を投げあって対決した。
「キリストの名において!」とレジスが叫んだ。「主なる神の名において!」
「ああ! バスタ!〔たくさんだ!〕」ミシェルは鋭い声でいった。「いいか、やめるんだ、キリストだの主だの、そいつらの身内の話なんかたくさんだ。とうの昔にわかったんでなければ… iの上には全部どうしても点が要るのか? そうなのか? じゃいってやるが、不安だの形而上学だの、護教論だの善悪だの教義だの永遠の生だの救いだの劫罰だの、そんなものはいっさいぼくにはどうでもいい、どっちだっていいんだ、ヤジロベエだ、どっちがどうだろうと、ぼくにはおんなじことなんだ。二つの旗だなんて、なんという茶番なんだ! 神もなければ悪魔もいない、それがぼくの信仰だ!」
怒りにかられた激しい発話の一例。
「ぼくの前でそんな汚らわしい言葉をはくなんて、もう二度としてくれるな!」「いいか、やめるんだ、……」といった命令口調が出てくるのは当然として、疑問の形で相手を非難するスタイルもあり得るということは抑えておこう。「彼女がどんな人か、ただの一度でも、ほんのちょっとでもわかった試しがあるのか?」「君がそういう幸福に値したことなんか、一度でもあるんだろうか?」「iの上には全部どうしても点が要るのか? そうなのか?」
さらに言えば、エクスクラメーションマークは、「まったくなんてことだ!」「二つの旗だなんて、なんという茶番なんだ!」というように、大袈裟に驚き呆れることの強調として用いられることが多いようだ。「こんなことって!」みたいな感じ。
●『ふたつの旗』下760-761頁
第三十七章
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「下品な話ばかりだな!」レジスがつぶやいた。
「ああ、その通りだ。なにしろぼくの恨みがいわせる毒舌だからね! せめて君が彼女の愛人になれていたら、ぼくも君を評価できたかもしれない。君にはそんなことさえ感じとれないんだね。それに彼女の救いだなんて、でっちあげの作り話だ。もちろんそいつもおもしろい。おもしろいなんていったら、やはり下品な中傷だということになるのかな? もし君に、まだのこっている誠実さをかき集めて君自身のなかをのぞいてみる勇気があるのなら、あえて主張しつづけるがいい。しかしいかい、アンヌ=マリーは救いようもなく堕落した、それが真実なんだ。ぼくとおなじくらい君にもそれはよくわかっているはずだ」 「ミシェル、それはひどい! 君にとって彼女が失われたからといって、君はいいはるのかい、彼女が…」
「恨みや悔しさからこんなことをいうんじゃない。はっきりいっておくけれども、彼女がいまの状態をぬけだして立ちなおる可能性なんか百にひとつもないんだ。しかも彼女を破滅させるのに君以上に力をつくしたものはいない。しかしぼくはまだきっと荒っぽすぎるんだろうね。それならもうちょっと細く尖った切っ先で突いてやろうか? あばら骨のあいだを手さぐりしてみるがいい。君はアンヌ=マリーのそばをはなれる勇気さえもてなかった。彼女との別れを避けて、こそこそ逃げだしたんだ。君がいたわったのは君自身であって彼女じゃない。何度となく彼女を踏みつけにしておきながら、そのたびに、彼女がどう感じているかなんて君にはどうでもよかった、全然気にもかけていなかったんだ。君は最後にもう一度彼女を裏切った。自分の気持を楽にするために。自分に好都合な、気楽な出発を君は自分のために用意したんだ。ちょっとした一種の登極をね。それを身勝手な口実で偽装しながら、自分の楽しみをちびちび味わうだけでは足りなかった。ぼくたちがひざまずいて君を祝福することまで君は望んだのだ。ぼくたちの和解の接吻までほしがったのだ。たしかにそれは美しい情景だ。みごとに飾りたてられた神の示現だ。ふんわりして居心地のよい君のエゴイズムの開花のなかに、ぼくたち、泥まみれの人間であるぼくたちが、神に選ばれた人々の至福を読みとらなければならないんだ。ああ! やっと! 今度こそ不満らしいね、図星なんだろ、不安でたまらないんだ、真っ青じゃないか。痛いところを突かれたんだ。ぼくのいうことなんか嘘っぱちだといったらどうなんだ!」
事実レジスはひどく青ざめて、わずか数分で背中が曲がってしまっていた。
「こんなことがあっていいんだろうか」彼がつぶやいた。「君のせいでぼくがどれほどつらい気持でいるか、君にはわからないんだ。わかるはずがない」
ミシェルは彼をじっとみつめた。その目がほんのすこしやわらいだ。しかしすぐに自分をとりもどした。
「それはよかった。当然の報いなんだから」
他者を致命的に「決め付ける」最強の毒舌。ここでミシェルが行っているのは、要するに、レジス=「君」が如何に愚劣な人間であるかということを底の底まで抉ることにほかならない。「君はアンヌ=マリーのそばをはなれる勇気さえもてなかった」「君がいたわったのは君自身であって彼女じゃない」「君は最後にもう一度彼女を裏切った」「自分に好都合な、気楽な出発を君は自分のために用意したんだ」「ぼくたちがひざまずいて君を祝福することまで君は望んだのだ」──適確かつ豊かな表現力で次々に相手の痛いところを打っていく饒舌。
●『ふたつの旗』下267-268頁
第二十四章
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「ロレさんもジュードさんも職責を忠実にはたしているというわけだ」(ミシェルはこのうえなく満足だった)。
「そうなの。でも、人間とも思えないあのレジスのことをあなたはどう思う? 彼はそういう規制された清算に同意するばかりか、それに訴えてさえいるのよ。私のおばかさんのパフニュス〔聖人〕が、この私はか弱い軽薄な女にすぎないとうめくようにいいながら、それでもほんのちょっとのあいだ、そう、ほんの二週間か三週間、ぼくをいたわってほしいなどという、そんな取引みたいなことが、あなたには想像できる? なぜって、もし彼が自分の思い通りに行動できるのだったら、もうとっくに遠くへ行ってるはずですものね。社交的な愛情の果実は彼が全部さらっていたわ。そしてあのぶかっこうな大男のロレは、今度こそ自分の弟子はまちがいなく自分の手中にある、もうなんの危険もないと計算して、私をあきらめに導くプログラムを立てて彼に指示したというわけ… そしてもし明日、ロレさんのお腹具合がわるくて苦行者の食事が消化できないとか、改悛者が罪ある愛情の最後の立ち返りを告白するとかしようものなら、ブルーイのちっちゃなお嬢さんは、低級娼婦よろしく、鶴みたいに一本脚で歩道の片隅に突立っていればいいというわけ」
彼女の手はまだ怒りにひきつっていた。
「十一時に会ったの、あのロレさんの弟子の改悛者に。あなたに断言してもいいけれど、思いきりいいたいことをいってやったわ! 腐った魚みたいに扱ってやった! 当然よ。ところが彼ったら、なんとこの私に大仰な説教を垂れようとして声を荒らげたりしたわ。それにいまの彼のあの態度! まるで自分の身体が栄光に包まれているとでも思っているみたい! あなたには信じてほしいんだけれど、彼もぴったりの相手をみつけたものよ! はっきり大きな声でいってやったわ、彼のお祈りなんか願い下げだし、おぞましいイエズス会士との策謀は不信仰の念を十分すぎるほど私に吹きこんだから、恩寵なんてすっかり消え失せてしまったわって。断言してもいいけれど、あの人のおろかしさと卑屈さをみて、私のなかにのこっていた愛情もすっかり打ち壊されてしまったわ。いまの私は彼にたいして軽蔑しか感じない」
アルテミスの毒舌! これは単なる憤怒の発露ではないだろう。それだけではこれほどの毒舌を尽くすことはできない。何かしらこのアンヌ=マリーには素朴ではない意地の悪さのようなものが胸裡に燃えているかのようだ。「ブルーイのちっちゃなお嬢さんは、低級娼婦よろしく、鶴みたいに一本脚で歩道の片隅に突立っていればいいというわけ」──この科白を言うとき、彼女の唇は醜くひんまがっていたと言われても驚くまい。こういった毒々しい攻撃的で鋭角な言葉を矢継ぎ早に繰り出すには、優れた言語能力だけでなく、相手に致命的なダメージを与えてやろうと知恵を凝らす底意地の悪さのようなものが不可欠だ。
●『ふたつの旗』下288-291頁
第二十四章
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「そう、そう、彼のほうでもそれを考えていた──教会の再興…」
「私はその事業のことを大いに夢みていたし、すこしはそのために動きさえしたのよ… その考えが、去年のはじめごろまで私の生きる支えになっていた… でもレジスは、そんなのは文字通り夢のような考えだときめつけた。私だってそうじゃないかと思っていたわ。彼がそこで見ぬいたのは傲慢であり危険な独立欲だった。それにこんな務めをやりぬくのに十分に強靭な教義の概念も私にはなかったし、あやうくもっとも断罪に値する過ちを犯すところだった。私は信頼できるたしかな規則を守ってこそはじめて救われるはずだった。だから私はありとあらゆる宗派の修道院を訪ねてみた。実際にみてみると、私が夢みていたのよりはるかにつまらなかった。でもレジスは、そういう家だってやはり聖女を産みだすのだといって、私の感想を手ひどくはねつけた。さかんに〈セナークルの婦人たち〉の話をしたわ。それはイエズス会系列の修道院なの。でも私にはイエズス会系の修道女になる気なんか全然なかった。そもそもレジスについても、イエズス会士になるかわりにトラピストとかシャルトル会修道士とか、エスキモーの土地で布教にあたる外国宣教会士になってくれれば、そのほうがずっといいのにと思っていたわ。でもどうやら私の願いほどばかげたものはないらしかった。私がそういいかけるとすぐ、レジスは帽子より高く肩をすぼめたわ。だから私にのこされた選択の余地といえば、裕福な家のお嬢さんがたの受ける教育に甘んじるか、老嬢たちや、鯨ひげ入りの襟をつけた老婦人たちのための老人ホームを作るか、刺繍つきの上祭服でも作るか、あるいは聖クララ会のひばり色の制服を着て聖堂内の参事会聖務を唱えるしかなかった。紙の上でみるぶんには、ひばり色の制服もきれいなものだわ。フランシスコ会のそれにとっても似ていて。私が修道会を新しく創設するときには、自分の会の制服の色をあらわすのに、負けずにきれいな言葉をみつけられたらと思っていたわ。でも一生おなじ服を着つづけて、際限もなく繕わなければならないとなると… それでも私の気持をいちばん強く引きつけたのは、というよりいちばん不愉快でなかったのは──日によって気持はかわったけれど──聖クララ会修道会だった。というのもそれはもっとも戒律のきびしい修道会だったから。これもやはりヒロイズムの誘惑だった。私は姉の暮らしを思い浮かべた。召使が七人、車が三台、毛皮十着、晴れ着が六十五着。それにぬくぬくと暮らしている女友達のことも。朝はココアにトースト、午後四時にお茶とケーキ。舞踏会へのエスコート役の男の子たち、伯父たち、伯母たち、従兄弟たち、みんな太ったお金持で、足は毛足の長い絨毯に埋まりそう、お尻はリムジンの座席の上で、でっぷりしたお腹のまえには、フォワグラやら猟の獲物の料理やら、そういった人たちがこういうはずだった──〈アンヌ=マリーが聖クララ会修道会に入った… あのヴィラール家の娘が聖クララ会の修道女になった。あんなに感じやすくて、おいしいものが好きで、いつも男の子たちといっしょに歩きまわっていた彼女が… ヴィラール家の娘が、たった一着しかない服を着たまま、床板の上で眠る。埋葬されるときにもきっとその服を着たままだろう。凍てつくような個室で朝の二時に起きて、夜明けまで、いやそのあとまでもひざまずいて歌いに行く。毎日何時間も何時間も膝をついた姿勢ですごす。靴のかわりに、素足の下に皮の切れ端があるだけ。今後口にするものといえば蕪とレンズ豆だけ。あんなにおしゃべりだったのに、これからは口を開くのも一日にほんのわずかな時間だけ〉希望の瞬間があり、ほとんど熱狂にかられる瞬間があった。そんなとき私はこう考えた──沈黙と自省、祈りと苦行のこの生活は観照の境地に導いてくれるはずだ、それは肉体からとりあげたものを魂に返してくれるはずだ、私にとって不可解ないし不条理に思えたものが、天啓によってはっきりと照らし出されるだろう、そして神さまは、レジスも私に断言したように、多かれ少なかれ新しいいくつかの分析方法を、その恩寵によっておきかえるのにさほどの苦労はなさらないだろう、と。私はまたこうも考えていたわ──愛にあってもっとも美しくもっとも甘やかなものを、自分の心のなかでつねに新鮮にたもつのに、たしかにこれ以上によい方法はない、そしてとどのつまり、私がこれまでにみたかぎりでは、ふくれ上がったブルジョワども、垢だらけのプロレタリア、ばかばかしい職業、むだに使われる時間、退屈な結婚、それよりもっと退屈な寝取られ話、そういったものからなる社会は、きっとそんなに惜しんだりなつかしんだりする値打ちはないのにちがいない、と… あなたには私がきっとばかに見えるでしょうね。ほんとに小娘の考えそうなことですものね」
「とんでもない、全然そんなことはない、断言してもいい。人間の社会はごみ溜めのようなものだから、なんらかの資質をそなえた人間なら、そこに足を踏み入れる瞬間に、むしろ修道院に入りたいという気持になったことがきっとあるはずだ──ぼくはいつもそういってきた。しかし、修道院というものがどういうものかわかりはじめると! 知ってる? ぼくは去年あなたのおかげで、修道女の伝記を集めたんだ。それ自体とても雄弁な文学なんだが、あなたの召使のように四年間もそこにとじこめられたことがあるものにとってはなおのこと雄弁だ。とざされた環境ではどこでも、最後にはかならずしみ出てくる憎悪、おそらくそれこそがもっとも本物の分泌物なのだが、家族や事務所のなかの憎悪、一生涯あなたがはなれるわけにいかない人々の足音、声、顔… 社会から逃げだすのはけっこう! ブラヴォー! といいたい。しかしそれがある共同体の囚人になるためだとなると… 共同体は、もっとも恐ろしい形の社会、凝縮した社会なのだから… おお! ぼくは共同体なるものをどんなに評価しないことか! ましてや女だけの共同体は! それにいつ終わるともなくつづくロザリオの祈りや詩篇の朗誦… 新入りの修練女たちの若さと熱心さに嫉妬する老女たち、食物でのいやがらせ、教会参事会への任命を狙ってめぐらされるこのうえなく苦々しい陰謀!」
きれいな顔に悲しみを浮かべながら、アンヌ=マリーは注意深く聞き入っていたが、かすかにほほえんでもいた。
「残念ながら、あなたの文献調査はずいぶんくわしくなされているようね」と彼女はいった。
「ぼくが目を通したのは、あなたとおなじ書物だと思う。つまりこのうえなく敬虔でこのうえなく教訓的な材源だ。ああ! 教訓的といえば、あんなに教訓的なものはなかった! コンブ神父のプロパガンダも、あれ以上のものを夢みることは決してできなかったろう! 個室にそなえつけてある水差しの縁が欠けたので新しいのと取り替えたとか、失くしてもいないのに鍵を失くしたでしょうといって責めたてられる話とかのせいで、新入りの修練女を、まだ順番でもないのに洗濯係を命じるときに、指導にあたる修道女が口にする言葉──試練とか犠牲とか神のご意志とかいう言葉は、精神生活のなんというグロテスクな矮小化だろう!」
「そうなの、それで天職の遂行が容易になるとはいえないわ… それに、ミシェル、あなたは面会室がどんなものか知らないでしょう。あのにおい、あの衣ずれの音、あのいかにもつくりものの声、尼僧院長たちの顔! いまならあなたに白状できるわ、私は一度ならず失望と嫌悪にとらわれたものだった。機械的な祈りや家事労働のあの連続や永遠につづく単調さは、なによりもまず人を愚鈍にする方法としてすぐれたものでありうる。そう、まさにそうなのよ、善き神のために、よろこんで喉をごろごろ鳴らしているだけの、ほんとにばかな小っちゃな脳髄と、信心に凝り固まって完全にひからびた小さな心を造るための、何度となく試された確実な方法なんだわ。レジスが私といっしょについてきたときには、満足しきってよろこびにあふれんばかり、祈りのすばらしい束とか、魂の偉大な導き手とか、至高の晴朗さとかいった話をたえずしていたわ。でも私がみてとったのは、しなびきったもの、月並みなもの、猫かぶりなどばかりだった。そしてほんとうに他のものがあるのかしらと自問していたわ。規則では院長の許可があれば信心書はもってきていいことになっている。私はそういう類の本の散文のことを考えた。それはいつでも、十行ほど読むと本が手から落ちてしまうような文章だった。そして私はひとりごちた、一生涯それ以外にはもうなにも読めないのだ、そして私のまわりでも、他のものはもうだれもなにも読まないのだ、と。そういう条件では、いったんそのなかに取りこまれたら、もはや無原罪の御宿りについて破壊思想をもつ危険などありえないのはたしかよ。大きな精神的苦悩、それは、院長のマザー・コンスタンス・ド・ラ・トリニテが、食堂でパンクラス〔殉教者〕の奇蹟と殉教を朗読しているあいだ、デザートにシロップをかけた梨が出るかどうかを自問したことであり、さもなければ聖壇を花束で飾ったシスター・ゼノビーがほめられたのにやきもちを焼くことなの。夜の夜中に、しばしばそういうイメージやそういう考えが目のまえに浮かんできて、私はベッドに起き上がったものだった」
そうだ、ここにアンヌ=マリーの毒舌の本質があったわけだ。すなわち、彼女の「凡人」「生物」的であって「高貴」的でないものに対する嫌悪。残虐と言ってもいいほどの。もっと言えば、アンヌ=マリーは「自己欺瞞=猫かぶり」的なものを(知的に分析解剖しつつも)ほとんど肉体的に怖気を感じるほどに嫌悪することができる女性だということだ。「試練とか犠牲とか神のご意志とかいう言葉は、精神生活のなんというグロテスクな矮小化だろう!」欺瞞を肉体的に嫌悪する? それが矛盾に聞えるとしたら、あなたが凡庸な感受性の持主だからだ。
それにしても彼女における言語能力と行動力の合致を見よ! 人間(凡人)嫌いでありながら、これほど「引っ込み思案」から懸け離れた人物もいない。彼女は後ろ向きに愚痴をこぼしているのではなのだ。つまり、観念的(自己欺瞞的!)な嫌悪感を抱いている者とは違って、肉体的かつ純粋な嫌悪感を抱いている者は、決して引っ込み思案たり得ないというわけか。
●『ふたつの旗』下387-388頁
第二十六章
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いまでは到着する電車も一時間に一本になっていた。橋詰広場を見張っているポリ公は、自分と向き合っていっしょに見張る助手、思いがけずあらわれていっかな立ち去りそうにない助手に、職業的な不信の目を向けていた。
界隈から人気がなくなり、カフェも明かりを消しはじめていた。この辺でうろつくのはアルジェリアの連中ときまっていたが、彼らもモンセー通りの影のなかに姿を消そうとしていた。大通りの一番遠いあたりから、市街電車の大きなライトがポツンとあらわれるのがみえた。ひとつ手前の停留所で降りるまれな乗客のシルエットもみえた。それだけはなれていても、夜の見張りにこれだけ慣れている彼の鋭い目はブルーイの昔の恋人たちを見分けたはずだった。また二人が帰ってくる道はそこしかなかった。ミシェルが二人をおいてきた物淋しい一隅まで迷いこむタクシーなど、あるはずもなかった。
〈それにしても彼らはいったいなにをしてるんだろう? あいつは彼女になにをしたというんだろう?〉
答えはあまりにも容易であり、ひどく猥褻なものでしかありえなかった。
最終の前の電車が通り、やがて最終電車も通った。乗っていたのは眠りこんだ車掌と、包みをたくさん抱えこんだ老夫婦だけ。ミシェルは、ながながと待ちながらなんの役にも立たなかったあげくに、こういう泥だらけの空白に落ちこんだのだった。機械のような足取りで、アンヌ=マリーの窓の下まで行ってみた。窓はまっくらだった。
〈神さまなんていやしない! 彼らは外泊している〉
残念ながらその出来事の説明はあまりにも容易すぎた。十二時半の鐘が鳴っていた。ミシェルは朝から十分も腰をおろしておらず、プチ・パンを三つ食べただけだった。ふらつく足で自分の部屋にもどった。道をまちがえた迷い犬のような気持で、いいようもない悲しみのなかに、肉体的な疲労困憊と屈辱感、このうえなく空しい自己嫌悪がまじりこんでいた。それに、こんなエピローグにたいする陰鬱な嫌悪感も。それは、あれほどの夢、誓い、洗練、拒否のあとにやってきたものであるだけに、いっそう卑俗であり、さまざまなイメージが踊り狂い抑えようもなかった。
服を脱いだとき、絶食と長時間の熱でやせ衰えた身体がみえ、彼の悲嘆をいっそうあおりたてた。そのご立派な身体を彼は愛にもたらすつもりでいたのだった。もう一方の木の椅子の男は活力にみち、大事にされ、栄養もたっぷりとっていた。禁欲と純潔、一言でいえばカトリック信仰が痕跡をのこしていたのは、彼、キリストの敵のほうなのだった。
さいわい、彼を憐れむかのように、死のように深い眠りがすぐさま彼をおそった。
プロット上は絶対必要だが難しいシーン。レジスとアンヌ=マリーの逢引きがどうなるか、その結果を、狂おしいほど想像力を働かせながら絶望的に手をこまねいて待たなければならない、というのがミシェルの状況だが、それを適確な情景の配置で印象的な悲嘆と自己嫌悪のシーンに仕立てている。
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------------------------------------- タイプ【2-7】ルバテ:内的対話ストリーム ▲
●『ふたつの旗』下696-697頁
第三十五章
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「ほっといてよ、もう」ふたたび彼女がいった。
彼は隣室のドアまで四歩歩き、音もなく後ろ手に扉を閉めた。すぐ手紙にとびつく気にはなれなかった。二枚の便箋になにが書かれているのか、もうしばらく知らずにいたい気持だった。手紙を広げるのに努力しなければならなかった。リヨンの男は書いていた──〈ぼくは確信していた、ぼくたちの過去への呼びかけが決して空しくはないはずだと〉
つまり彼のほうが呼びかけたのだった。みじめな男、みるに耐えないやきもち焼き、卑劣きわまりないチンポコ野郎は、彼女を静かに放っておけなかったのだ。その男はどうしてももどってきて、異教の楽園の空気に毒をささずにはいられなかった。マリー=ジョゼフがそれに気づき、あるいはみぬいたのだった。誘惑と戦ったあげくではあったが、イタリアにもかかわらず、二人の愛にもかかわらず、アンヌ=マリーは〈呼びかけ〉に答えたのだった。しかもミシェルは、おぞましい坊さんの言葉を通して、苦もなくその返事を復元できるのだった。ようするにアンヌ=マリーが返事のなかでいったのは、例の日付を忘れていなかったこと、もしかしたら忘れようと努めたのかもしれないが、決して忘れられないだろうこと、あの思い出の一夜がけがされることはなく、そもそもけがれは…というようなことだった。〈けがれ〉について、彼女はいったいなにをいっていたのだろう? ああ! まちがいなくあれらの快楽も彼女を打ち負かしはしなかったこと、彼女の心となんのかかわりもなかったことだったのにちがいない。レジスは今なお、彼女の心の純潔さを信じきっており、神さまもそれを断罪なさるようなことはないというのだった。おお! 司祭の務め、知識、保証! 心さえつかんでいれば、他のことは目に入らず、なにがどうだろうとかまわないのだった。心? 心って、いったいなんなんだろう? 猫かぶり、長ったらしい駄弁、倒錯、いかがわしい取引… いや、そうじゃない、残念ながら心こそがすべてなのだった。〈ぼくがもはや期待していなかったそのブルーイ〉とイエズス会士はつづけていた。〈暈もなく幻影もなく、かき消えてしまった幻のブルーイ、ブルーイからこんなにも遠いそのブルーイこそが、もしかしたらすべてのなかでもっとも感動的な、主の目にはもっともこころよく映るブルーイなのかもしれない〉 それに、温かくおし包むような、心地よくあいまいな、フランチェスコ風の立派な文言も書かれており、それが〈天使たちの週間〉を語ったアンヌ=マリーの文章に呼応しているのはいうまでもなかった。ミシェルはその手紙を破り捨てようとして指をかけた。しかし、そんなことをしてなにになるというのか? こまかく引きちぎろうが、焼こうが、風に飛ばそうが、もはやその手紙を消滅させることはできないのだった。突然彼は崩れるように倒れた。靭帯も関節も全部バラバラになってしまったようだった。あらゆる人間のなかでもっとも貧しい、もっとも見捨てられ、愚弄された人間だった。それからふたたび激しい怒りがこみあげてきた。アンヌ=マリーは、なんておろかな小娘なんだ! ああ! こんな非常識な感傷のために、もっとも自由で誇り高い冒険を台なしにしてしまうとは、なんというばかげたおろかしさなんだろう! 記念日だの心の巡礼だの魂の出会いだのといった、ねばつくような愚行のために、こういう恋人を苦しめ、押しもどすなんて、もともと彼女にはこんな恋人をもつ資格なんかなかったんだ。二十か月ものだいだ、彼はなにを考えていたんだろう? どんな錯乱におちいっていたんだろう? 詩人肌で、衝動的で、無邪気な、あわれなおめでたい若者が、不実で気まぐれなはすっぱ娘を賛美し、冠で飾りたてていたのだった。女たちはみんなそうなんだ。みんな子宮を二つもっているんだ。ひとつは精液を吸い取る子宮、もうひとつは彼女たちが心と呼んでいる、近づきようのない不可解な子宮。
しかしアンヌ=マリーがそういう女なのだったら、この地上にいったいなにがのこるのだろう?
彼はあらためて手紙を手にとった。彼についてはただの一言もなかった。祈願の言葉もなければ不信感をあらわす言葉もなかった。彼のほうは、これまでブルーイには一度も行ったことがなかった。彼は大ざっぱな、とるにたらぬ罪の道具なのだった。彼女は彼を、使い終わって邪魔になった道具のように押しのけたのだった。彼女がこんなに大切な手紙をすぐさま彼に引き渡したのは、そしてそれが彼をどれほど傷つけることになるか、いっさい考えようとしなかったのは、一刻もはやくやっかい払いして、もう一人の男と二人だけになりたいからなのだった。おお! ブルーイの娘でありつづけることを望んだばか娘! しかし、もしブルーイの娘でなかったら、ミシェルは彼女を愛しただろうか?
三人称でありながら登場人物の内側を抉っていくディエゲーシス。「つまり彼のほうが呼びかけたのだった。」「ようするにアンヌ=マリーが返事のなかでいったのは、……というようなことだった。」「〈けがれ〉について、彼女はいったいなにをいっていたのだろう? ああ! まちがいなくあれらの快楽も彼女を打ち負かしはしなかったこと、彼女の心となんのかかわりもなかったことだったのにちがいない。」「それが〈天使たちの週間〉を語ったアンヌ=マリーの文章に呼応しているのはいうまでもなかった。」──このように「つまり」「ようするに」「……にちがいない」「……のはいうまでもなかった」という投げやりに決め付けるような言い回しが、語り手のアクセントを強めて、むしろ心理の記述を立体的にしますね。
●『ふたつの旗』下16-17頁
第二十章
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〈悔悛だって! 「悔い改めなさい」だと! しかもこのぼくがそんなことをいわれっ放しだったとは! 卑怯者! 弱腰! まぬけ! ぼくは立ち上がるべきだった。そしてこう言ってやるべきだった──「悔悛せよとおっしゃるんですか? 腹のふくらんだ娘のぐちみたいな、そんなものがなんだというんですか? 悔悛? そんなものは知りませんね。これまで一度も知らなかったし、知りたいとも思わない。矯正したり塗りなおしたりすることはある。しかし、かつてあったものを涙で拭い消そうとするとは! バタみたいにやわらかい、ちっちゃな心臓の持主たちには、それも成功するかもしれない。しかしぼくには通じませんよ、先生! 悔悛なんて、まぬけども、去勢馬みたいな連中、負け犬ども、病人どもの分泌物だ。一徹で真正直なぼくたちの静脈に、あなたがたはこういう猥褻さを注入したがっている。ぼくたちを圧倒し、ばらばらにして取りこむために! 卑怯なやつらめ! お座り、坊主ども。あんたがたの薬箱はぼくら向きじゃない!」 ああ! ちくしょう! なんてこった! 最後の瞬間ににべもなく肘鉄を食らわしてやった。許しの印に切られた十字の下で、〈ノン!〉といってやった。町長と結婚式の参列者みんなのまえで〈ノン!〉といってやったようなものだ。ああ! 三重のまぬけ! 階段まで来てやっとしゃべりだすやつ!… それにしても、ノンだ。絶対にノンだ。その点でも、悔いたりなんかするもんか!〉
〈それにあのキリストの苦しみの話! 福音のグラン・ギニョル! およそ考えられない! あの思想家! あの大御所ぶり! あのいかにももったいぶった顔! すべてを見、すべてを読んだ男の仕種! このぼくに二時間もしゃべるなんて! 分析、哲学、文学! ぼくの匂いをくんくん嗅いで、四方八方からためつすがめつして! あげくにあのメロドラマ! うさんくさいふるえ声! 十字架のたくらみ! 神秘的なネールの塔! 気取り屋! 悪臭ぷんぷんの伊達男! 奉献のさいの私をみたかね? 聖体の秘蹟の道化者! 引っ込め! 引っ込むんだ!〉
からからに乾いた唇で、彼は機械的にたばこをくわえた。そしてそれを奪いとり、怒り狂って踏みつぶした。
〈くそ! あの下司野郎が、ぼくに一か月の苦行を課した! 「君はたばこも吸うんですね! じゃ、一か月たばこ断ち!」 ぼくは、はいといった。いった以上、守ることにしよう! ぼくがくじけるのをみる満足なんか、あたえてやるものか! そんなことしたら、ぼくを攻める武器を渡してやるようなものだ。なにも! やつらはぼくを攻めたてる手がかりをなにひとつもてないだろう。たばこがどうのこうのとさえいわせない!… あの坊主が、さっきぼくのポケットになにかつっこんだけれども、いったいなんだろう? どうせいやらしいものにきまっているが… 「キリストの友へ」。はっは! どうせ哲学者のひそかな感動の吐露にちがいない。えりすぐりの弟子たちにとっておいたもの? 笑わせるんじゃない!… 失礼ながら、分配先をちょっとおまちがえになったんじゃありませんか? 〈おお! イエスによる友情の奇蹟!… 私たちは愛の使命を十全にはたしたろうか? 心のなかの大きな沈黙〉なんていやらしいんだ! 吐き気がする! 〈世俗にまみれた魂の持主たちが、愛すべきイエスの御手と御足を傷つけた…〉〈おお、イエスよ、私はあらためて誓います、この私は御身の奴隷です、と〉くそ! しかもカッコつきだ。侍者の猿! ひきがえる! おかま! まぬけ! 反吐が出る!〉
ルバテが内語をいかに用いるかの実例。内容はキリスト教の僧侶に対する徹底的な「否定・非難」となっている。まずはその否定のレトリックの豊富さが目を惹く。あらゆる冒涜的比喩(「福音のグラン・ギニョル」「去勢馬みたいな連中」「侍者の猿」「ひきがえる」)、慇懃無礼な嫌味(「失礼ながら、分配先をちょっとおまちがえになったんじゃありませんか?」)、批判対象の表情や振舞いや言葉の戯画的=歪曲的かつ妄想的再現(「〈おお! イエスによる友情の奇蹟!〉」)。ほんと技巧的。
しかもここでミシェルは僧侶に対してだけなく、自分自身についても否定の鉾先を向けていることに注目しよう。つまり僧侶に対して最後まで弱腰だった自分の臆病さも罵倒しまくっている。その程度にはルバテの文体においても否定・非難の対象は多彩ではある。
ただしここでドストエフスキー的な無意識の作用や言葉のニュアンスの二重化はまったくないと考えていい。ドストエフスキーにおいて登場人物が内語で何かをやっきになって否定・非難・抑圧しているとしたら、それ(無意識≒現実≒当人が逢着したくない何ものか≒他者)と比べては自意識の能動性の方が二次的でしかあり得ないような心理的死角の存在を恐れてのことなのだが、ルバテの登場人物には、そのような恐れはない。彼らの科白や内語にあらわれる否定や攻撃はあくまで無矛盾的・ポジティヴなものであり、自意識を揺るがす無意識に憑かれているというよりはむしろ、自意識の能動性を自乗するために否定が用いられているという趣だ。ミシェル・クローズの攻撃的内語は自分自身にこそ正しさがあるという確信に閉じてしまっている。それゆえにどこか一本調子にさえ響く。こういう側面は学ばなくていい。他石の山とせよ。
●『ふたつの旗』上548頁
第十五章
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しかし彼はなおも身体をこわばらせ長椅子にしがみついた。とてつもない努力のあげく、彼は、すっかり投げ出されまちがいなく大きく開かれているこの肉体から顔をそらすことができた…〈だめだ! だめだ!〉しかしなぜだめなのか? もう一時間以上もまえから彼の頭にとりついてはなれない宿命的な仕種、つまりスカートの裾のあたりで腿の素肌にふれ、燃えるように熱い指を上まではいあがらせる仕種を彼に禁じているのはいったいなになのか、はっきり言えといわれたらミシェルはひどく苦労したにちがいなかった。頭のなかをさまざまなイメージがかけめぐった。突然ついにあるひとつの考えが浮かんだ──〈レジス、アンヌ=マリー!〉彼らは許さなかった。〈そうなんだ、イヴォンヌをやっちゃったんだ〉 いや、そんなことはありえなかった。もしそんなことをしたらすべてが打ちこわされ、すべてがおしまいになるはずだった。
地の文と主人公の内語と対話させることで緊迫感を演出。「……燃えるように熱い指を上まではいあがらせる仕種を彼に禁じているのはいったいなになのか、はっきり言えといわれたらミシェルはひどく苦労したにちがいなかった」の個所における「直感的確信」のムードも地の文(の語り手)の能動性を感じさせる。
●『ふたつの旗』下51-52頁
第二十章
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ワインに鞭打たれて、さまざまなイメージが並外れた速さでつぎからつぎと通りすぎた。月四千フラン! そんな話を聞いたら親爺がふくれるにちがいなかった。移り気な息子が自分とほとんどおなじくらい稼ぐというんだから! 彼はゲー=リュサック通りの腕のいい仕立屋の店に行き、このへんの職人のやっつけ仕事では絶対に裁てないような新しい外套をすぐに作らせるだろう。ジードが『カトリーヌ・パテルソン』を読んでくれていた。だとすれば、ジードのところへも顔を出せるかもしれない。絵画についてものを書き、真夜中の〈ドーム〉や〈ロトンド〉で、三十人もの人々と握手するだろう。あちこちのアトリエを訪ね、画家たち、モデルたちに会うだろう。素裸の娘たち! もはや実体だのなんだのという話じゃない、ほんものの女、オマンコも腿もお尻もちゃんとある女たち! 月に四千! 今度のヴァカンスにはちょっとした車だって買える。なにしろ年に五万、あるいはもっとになるんだから! 女に不自由することはないだろう。選択の余地はたっぷりある。真の快楽、果実の摘みとり、新しい女にパンティをぬがせるたびにおぼえるかぎりない感動、この世に実在する唯一の完全な歓喜、唯一の完璧な詩情。どこに住もう? ル・リュッコのマロニエが影を落とすメディシス街? あるいはむしろ八区か十六区のどこか? つまり、時流に乗っている連中の住む界隈に、ピアノや千巻の書や、女と寝るためのスペースをそなえたワンルーム? この心と頭が、いつも自分たちの権利を要求するだろうが、そういう心と頭を満足させるために、娘たち、女たち、あるいはもっといいのは、ひとりの女、音楽をやっている、自由で一風かわっていて、官能的で知性的な女。あるいはまた、正真正銘のパリ娘、身体の線も身につけているものの優雅さも完璧な娘、もうひとりの娘を愛したように彼が愛するだろう娘、しかし今度は彼が愛とはなにかを教えるだろう娘。二十二歳の若者が、パリで名をあげる! すべてが可能になるのではないだろうか? ジャーナリスト、作家。才能。甘美な世界、自分の世界を自由に動きまわる。おなじ部屋の空気を、ただのひとりでも赤ら顔のブルジョワが自分といっしょに呼吸することなどは、もはや容認しない。旅行する──アムステルダム、ミュンヘン、マドリッド、ウィーン、ローマ。ルーベンスの「アマゾンたち」、チェルニン宮殿のフェルメール、ヴェネツィアのカルパッチョ、ブリューゲルの全作品、ベラスケスの全作品を見る。手袋をまるで聖遺物のように折りたたんでもち歩き、鼻をくんくんさせながら、一発十フランの娼婦のあとを追いかける、ふとっているくせにきざなリヨンの若者がいつも四ダースほどいるあの街路、いつ行ってもおなじで、出口のないレピュブリック通りはもうおしまいだ。すべての未知の顔、すべての未知の風景。人生、唯一の人生。他のことはすべて言葉で描かれた幻想にすぎない以上、なんのために、だれのために人生をこばむというのか?
引用部の前後の文脈を言っておくと、これは現前的な会話場面に挿入された地の文である。ある人物との出会いによって一瞬で「ふと・自然に」開けた将来の幸福な展望のイメージを、(登場人物の内面まで見通すことのできる外部の視点に立つ)語り手が踏み込んで逐一言語化して体験話法のように長々と語っている箇所だ。「!」「?」を多用しつつ。こうやって地の文が主人公の能動的な自意識ではなくて無意志的に駆動する無意識の動きによって全面的に支配されることは、ドストエフスキーにおいては珍しくないが、ルバテ作品のこの引用部では、形式は同じながら言語化に伴う文体的な多彩さでドストエフスキーよりは一歩先んじていると言えようか。最初の方で「さまざまなイメージが並外れた速さでつぎからつぎと通りすぎた」と構成を一旦要約しておいた直後に「月四千フラン!」と感嘆符で一挙に文体のテンションを上げていく、この機敏さがいい。
●『ふたつの旗』上168-169頁
第五章
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三十分後ミシェルは自分の部屋に帰っていた。まだ唇がふるえ、拳をきつく握りしめたままだった。夕食を告げる鐘が鳴ったのかもしれないが、彼には聞こえなかった。
〈落ち着いた! ぼくが落ち着いたなんて! しかも、まだ落ち着いていなければ、絶対に落ち着かなければならんというわけだ。昔からなにもかも打ち明けられる相手がそんなことをいうんだからな! ぼくは煮えたぎり、生皮を剥ぎとり、渦巻く火と雲に頭をつっこんでわけがわからなくなり、一生のうちでもっともおそろしい戦いを挑んでいる。だというのに、ついぞはなれたことのない友達が、ぼくは「ゆったりとやさしい落ち着き」をとりもどしたと思っている… ごりっぱなことだ、言葉半分でわかりあえるとか、兄弟のような精神的親愛感とか… もちろんわかっている、彼にはどうしようもないんだ! リラで小娘を愛撫することのほうが、ぼくの冒険というか、アンリ=マリーと他のだれかといっしょにすごした三時間、そのせいで生じたこの沸きたつような気持よりずっと感動的に思えるんだ。彼は小娘を抱きしめている。食べごろの、鳩みたいにくーくー鳴いて、学生をひっかけてぼうっとなっている小娘を。そして彼は、これこそが愛だと考えずにいられないし、心の自慰行為にふけっているぼくを憐れまずにはいられない。しかも、いずれそれでぼくがいい気持になると信じこんでいる。しかし、もし彼の立場だったらぼくもおなじように考えたんじゃなかろうか? 彼はかわいそうな小娘の、出口のない、とりみだしたような感情の高ぶり、日々の感動、小さな楽しみをまえにしておぼえる憂鬱な気持を語った(しかも、「君にはわかりっこないが」などとほのめかしながら)。「告白するのも気がひけるような、とるにたらぬ話なんだが、しかしほんとうなんだ…」それにしても彼のいう通りだったら? すべてが、ほんとうにぼくの頭がでっちあげたことにすぎなかったら? 誠実な良識の持主なら、ぼくをそんなふうに判断する権利があるのではないだろうか? 彼は生傷に指をつっこんだということではないのか? 三週間前からぼくが戦っている相手は、まさにその落ち着きではないのか? そしてぼくは、宿命的な、避けようのない敗北まで戦いつづけるのではないだろうか?〉
机のうえに開かれているノートは一冊もなかった。問題はもはや、恋に苦しむ男と、これほどゆたかな素材をつかみそこねないよう注意を払う情容赦ない文学者に、自分を分裂させることなどではなかった。ミシェルは今度こそもっとも容赦なく単純な形で、心の苦悩を感じていたと思われなければならない。やっとそれがわかったとき、彼はまさにその苦悩を鞍に乗せたのだった。
ルバテが小説内で内語(しかも状況依存的な)を用いる場合の一例。
ルバテの主人公の内語の強度は何かに対する明確な攻撃性・否定意志を帯びる時に最大となる。しかもミシェルはラスコーリニコフと比べても知性が高い人物に設定されているので、その言語的暴力の苛烈さは比類ないものとなる。ここで批判の対象となっているのは友人ギヨームの無理解な態度だが、その細部を逐一想像のなかで再現しながら罵倒しつづける! 文体的にも華麗。論理的にも誠実。特に後半部、言語的暴力を自分自身にも向け変える個所など。「〈それにしても彼のいう通りだったら? すべてが、ほんとうにぼくの頭がでっちあげたことにすぎなかったら? 誠実な良識の持主なら、ぼくをそんなふうに判断する権利があるのではないだろうか?〉」
ところで引用部最後の地の文にはやや特徴的な言い回しが出ている。「ミシェルは今度こそもっとも容赦なく単純な形で、心の苦悩を感じていたと思われなければならない。」──この「思わなければならない」と命令されているのは誰だろうか? むろん、語り手と、読者だ。「今度こそ小説内の或る登場人物が……と感じていると思わなければならない」と語り手が外部から判断を下していると同時に、それを読者にも共有させようとしているわけ。つまりここでは突然語り手が命令的な語調で顔を出している。以前ルバテの駆使する叙述パターンの中で──「他方、「紐」は春の伊達男たちの専有物と思う素人がいるとすれば、とんでもない思いちがいというしかない。」──という対話的(呼び掛け)ならぬ挑発的(咎め立て)ディエゲーシスのスタイルを指摘したことがあったが、これもそれに近い。
●『ふたつの旗』上678-679頁
第十九章
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翌朝、憲兵隊のようにばかげているブロンの教会では、とても詩情が勝ち誇っているとはいえなかった。レジスはほとんどミシェルへの友情の義務として最初のミサにいっしょにあずかった。
「君も祭式になれないといけない。典礼についてすこし省察をめぐらすことができたら…」
司祭がぶつぶつ文句でもいうみたいに手早くお勤めをすませようとしているあいだ、ミシェルはずっと、みるからにおぞましい女に気をとられていた。なにをするにも、なんのためでも、神への奉仕によって結びつけられた五人の信者のひとり。髪をシニョンにまとめ、ボタン留めの長靴をはいたふくらはぎの四分の三ぐらいまで垂れ下がる長いスカートといういでたちの三十五歳の老嬢だった。鼻眼鏡のかげで、目も逃げるようにそらされるのだったが、そういう身体のなかで、女のはらわたがまだ醗酵をやめていないだけにいっそう嫌悪がつのった。
〈もしかしたら彼女は今朝おケケをナデナデしたのかもしれない。ああ! むかむかする!〉
教会の入口でレジスは、この漫画みたいな女にひどくうやうやしく挨拶した。白日のもとでみる彼女の表情は、ねばっこい陰険さをおびていて、いっそうおぞましかった。
「ド・バラル嬢だ。聖女だよ。そういってもいいすぎじゃないことは、君にもみてとれただろう。桁はずれな金持でね。学校を創設して一年中彼女自身がその運営にあたっているんだが、あの献身ぶりは感嘆に値する。美人じゃない。しかしこの村の教会はもしかしたらいつか彼女の名前で呼ばれるようになるかもしれないよ」
〈だとすればこの女が〉とミシェルは、ひそめた眉をゆるめようともせずに考えた。〈ワーグナーの魂、いっこうに悔い改めようとしなかった姦淫者レンブラントの魂、ナポレオンの魂、ランボーの魂にとってかわる魂のひとつなわけだ。それにニーチェの魂も! どうしてそんなことができるんだ! ニーチェの悪魔的な脳髄がベルゼブルのフライパンで永遠にローストされたのはたしかだ!… しかし、少々たずねたいんだが、あんなぶざまな女、容貌なんていうものじゃなくて砂糖大根にしかみえないあんな女が、いったいなにを犠牲にしているというんだろう?〉
嫌悪と軽蔑をやわらげるものはなにひとつなく、身体を斜めにして壁をこすらんばかりにして帰っていく聖女の背中に、彼は思いきりそれを浴びせかけた。そんな彼女にレジスが陰気くさいお人好しな賛辞を呈しているだけに、いっそう彼は彼女を憎んだ。〈しかもあれが学校を開いているとは! ああ! あの醜女に庇護されている連中は、さぞかし人生への趣味をもちあわせているだろうよ。あんな毒なめくじと接触することを子供たちに禁じる法律があってしかるべきじゃなかろうか? あの女が信心狂いでなかったとしたら、信心はいったいどの辺からはじまるというんだ! 冗談じゃない!〉 しかし彼は突然われにかえった。〈あの女を裁く権利がぼくにあるだろうか? とどのつまり彼女についてぼくはなにを知っているだろう? こんなふうに不機嫌をぶちまけるのは自分に禁じなければならない。それこそが慈悲というものだ〉
必ずしも純粋なものではない(やや観念的である)とはいえ、ここまで人間嫌悪が強烈に文学表現として結晶した例があるだろうか? 「あんなぶざまな女、容貌なんていうものじゃなくて砂糖大根にしかみえないあんな女」──すげえな。
●『ふたつの旗』下536-538頁
第三十章
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「でも、アンヌ=マリー、もし明日…」
彼はまたしてもみじめにへりくだって、彼女が口にしたヴォーニュレーという言葉、とにもかくにもその言葉が彼に割り当てている役目にしがみついたのだった。しかし、ヴォーニュレーかシャルポニエールまで〈こうもり〉から逃げだそうという固い決意が、ほんの一瞬でもアンヌ=マリーにあったのだろうか?
「ああ! 明日! 明日なにをするかなんて私にもわからない。彼女はどんなふうになったかしら? 四年もたっているのよ… 手紙はほんとにどうということもなかった! あの何行かをみても、彼女の顔や手を思い浮かべることができないの。もし見わけられなかったら! 〈こんな人だったの?〉と思ったりしたら! あるいは失望なんかしなかったら?」
ミシェルの胸の火傷は怒りにかわった。一瞬のうちに彼の口は、猥褻すれすれの無礼なののしりでみたされた──〈それが好きな以上、気取ってみたところでしょうがないじゃないか。とどのつまり女同士の遊びでしかないんだ。なんの危険がある? 彼女の舌で君に子供ができるわけでもないんだから〉彼はやっとのことで、そういうご立派な真実を呑みこむのに成功し、激しい口調でこういいうだけで満足した。
「アンヌ=マリー、そのせいで君の心が愛と縁を切ったわけじゃないことがわかってうれしいよ。やもめ暮らしも終わりに近づいたと考える理由があるわけだ。しかしそれをよろこぶ求婚者たちがいるとすれば、ひどい思いちがいをしているわけだ」
アンヌ=マリーの興奮した小さな顔がこわばっていた。まなざしが急に冷たく乾いた感じになった。
「どうやら今日のあなたには」と彼女は静かな声でいった。「たいしたことは期待できそうもないわね」
「しかしね、君、まさに今日の君のためにどんな役に立てるか、ぼく自身全然わからないんだ!」
アンヌ=マリーのまなざしはすこし和らいだように思えたが、彼に重くのしかかっていることにかわりはなかった。
「自分がこんなに孤独だとは思ってもいなかったわ」彼女はそういっただけだった… 「これ以上話をつづけても、なにもいいことはなさそうね」
数多くの日の習慣に引きずられて、彼は彼女のすぐあとを追って歩いた。
「これからどうするの?」なおも彼はいった。
彼女はほんの小さな、あいまいな仕種をしただけだった。どうとでも解釈できる仕種だった。二人はそれ以上一言も口をきかずに大通りの角まで行った。ミシェルは自分の最後の質問のばかさ加減に、口を封じられたように感じた。彼女はすぐにタクシーを呼びとめた。
「じゃ、さよなら、ミシェル」
うわのそらでさしだされた彼女の手は、彼の手からすぐに逃れた。〈今度はいつ会えるの?〉──そうたずねる勇気さえ彼にはなかった。
怒りのあまり、すっかり動転していた。自分にも彼女にも腹を立てていた。〈ヴォーニュレーだって? 「ああ、いいとも!」といってやりさえすればよかったんだ。シャンパンでも飲ませてその気にさせ、彼女をものにできるところだった。そういう状態の娘相手に、ほかになにをしたらいい? レズの相手への欲望なんか吹き飛ばしてやったはずだ。彼女だって、それ以外のなにを求めていただろう?〉彼の欲望がこれほど生々しくむき出しだったことはなかった。欲望も嫉妬も、冒涜的な悔恨に長いあいだすりむかれる思いだった。エピソードのひとつひとつが耐えがたい思いちがいにつながる、さまにならないこの物語が彼には恥ずかしかった。その話を種に作家として大作に仕立てあげたいと思った時期、どうしてもそれができなくて絶望した時期もあった。おかしくさえなく、彼自身が音に乗って手足を動かす繰り人形のようだったこのヴォードヴィルは、題材として悪くなかった。
ヴォードヴィル。しかし彼はアンヌ=マリーとはじめて口論したのだった。だれか見知らぬ人のために、今度いつ会うかさえ告げずに彼女が立ち去る──そんなことになったのは彼のせいなのだった。悪臭にみちた井戸のような中庭に面して細目に開かれた窓からは、年老いた大女の、あいかわらず怒りっぽい金切り声が聞こえた。もうすぐ南京虫のうごめく時刻になろうとしていた。一方では、カールトンの部屋、浴槽があり鏡がありモケットを敷きつめた豪勢な部屋が彼を待っていた… あの部屋の準備の思い出が彼の鼻孔をピクピクさせ、手のひらに爪を食い入らせた。富も役には立たなかった。彼は虫のたかったこのベッドから動こうとしなかった。ポケットにこれほどポンドがつめこまれている以上、今夜にもイタリアへ向けて発とうという考えに、しばらく身をゆだねた。ヴェネツィア、マントヴァ、フェラーラ、フィレンツェ、フレスコ画、数々の絵画、別の自然、別の言語、それだけがこんな暮らしからぬけだす唯一の手段に思えた。しかし彼はそのさきまで考えを推し進めようとしなかった。そういう移動の空しさはわかりすぎるほどわかっていた。
いかにもルバテ的な感情の描きぶり。場面で必要とされる自己と他者への複雑な怒りを内的対話の文体で野卑にぶちまけつつ、それを皮膚感覚(すりむかれる思い・爪が食い入る)として地の文でも敷衍する。表現として見事。
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